没後10年「坂本善三」展
─沈黙の叙情、この日本的な心のかたち─
 


  

 

1997年11月30日 練馬区立美術館

全般的に絵画の知識がないので、この画家のことも知りませんでした。展覧会のチラシに簡単な紹介があるので引用します。坂本善三(1911〜87年)は、独自の知的な抽象絵画の世界を切り開きました。線と形と色彩の三者が緊密に結合した、律動感に充ちた彼の作品は、明快にして深い叙情をたたえており、わが国の戦後美術の一つの達成として、没後10年を経た今もなお高く評価されています。(中略)坂本善三にとって大きな転機となったのが、1957年からの一年半におよぶヨーロッパ滞在でした。作風は、具象から抽象に展開して、その後の坂本芸術を特徴づける単純で構築的な画面構成に向かったのです。彼は、自然などの素材から発想を得たイメージを変換して、独特の抽象的表現の世界を確立しました。熊本の地で風土と深く関わりながら独立美術協会を中心に発表を続け、代表作となる「形」「連帯」「炎」などの作品群を生み出したのです。1980年代にはバリで発表した作品が“沈黙の錬金術”“グレーの画家”と評され、国際的にも注目を集めました。”

この紹介で代表作として挙げられている『連帯』(上図)という作品を見てみましょう。白っぽい絵の具を厚く塗った凸凹の画面に黒っぽい線でひょうたんのような細長い真ん中が凹んだ楕円が無数にあります。中には赤い線のものあります。それらは、画面のほぼ真ん中で左右に分れるように並べられているようにも見えます。これらの形や線はまちまちで、いかにもフリーハンドで描いたという感じです。ここには、例えば、モンドリアンの『コンポジション』にあるような、緊密で強固な構成のようなものは感じられません。また、カンディンスキーの作品にあるような様々な要素が詰め込まれているような多様性と拡がりもありません。では、そこに何があるのか、と見ていると、この画家は、どんどん様々な要素を切り捨てていって、簡素にシンプルにしていくような作業を突き詰めていったのではないかと想像させるものがあります。もともと、抽象画というものは、それまでの絵画で描いていたものを切り捨てていった結果ともいえます。しかし、先ほど比較の例で挙げた、カンディンスキーやモンドリアンといった人々は、西欧の19世紀表現主義の文化風潮の中で、内面的なものとか精神的なものとか気分とか、そういうものを絵画で表現したいという意欲が根底に流れていて、そのために目に見える即物的な世界に捉われていていはいけない、という方向性があったと思います。そのため、彼らの作品は、ややもすると神秘主義的な風潮に迎合しやすい性質を秘めていたと言えます。カンディンスキーの作品が宗教的な主題を取り上げたり、モンドリアンの構成主義的な作品が占星術やカバラの数に対する神秘主義で解釈されるのは、そういう点がある一つの表れではないかと思います。しかし、ここで見る坂本の作品には、そういう表現主義的な印象はありません。紹介文にあった“沈黙の錬金術”という評言は、そういうあからさまな表現意欲のようなものが直接的には感じられないことから出て来たものではないか、と思いました。それだからといって、何も伝わってこない冷たいイメージはないのです。

1980年代のパリで高い評価を受けたということで、その理由は私には知る由もありませんが、西欧の抽象絵画とは違うものとして捉えられたのではないか、想像を逞しくしてしまう誘惑に駆られます。坂本の作家性とか個性とかそういったギラギラしたものがあまり感じられず沈黙しているように映る作品は、彼が日本人だからという日本というイメージの異国趣味に事寄せて、例えば「禅」とか「わびさび」といか、私には訳のわからないエキゾティスムとともに理解?された。例えば、竜安寺や大徳寺のような禅寺にある枯山水という庭は、日本庭園でも西洋庭園でも、一般的に庭園に必要とされるパーツ、草、花、木、池、その他もろもろを全て取り去って、石と砂だけで構成された抽象的な空間を作り出します。そういう伝統のないところから見れば、エキゾティックでなんとなく高尚に映る、しかも抽象性の極めて高いものです。その日本から来た作品ということで、理解されたのではないか。ちょうどそのころ音楽の世界でイエローマジックオーケストラというシンセサイザーを大胆に使ったポップクループが欧米人の日本に対するエキゾティックなイメージを逆手に取った作品やコンセプトで人気を博していたころです。こんなことは書いている私自身があまりにもステレオタイプにすぎて、書いていて恥ずかしくなってくる体のものです。

しかし、坂本善三の抽象画は、カンディンスキー等の場合より、具体物を想起させる、というより具体物の形態を残した形態が残っていて、内面の表現というよりは、形態を突き詰めていった結果、形態のイデアのような抽象が結果として残ったという印象が強いです。

そんな、私の個人的印象をもとに作品を見ていきたいと思います。  


■抽象以前『外輪山』 

抽象という行為は、普通の生活の中で日常的に為されることではないと思います。例えば、哲学とか学問のような抽象的な議論というのは、そういうものの専門家や、生活に十分な余裕がある人が日常の生活空間から離れて、言葉を弄ぶときに為されることが大半ではないかと思います。学生とか若い年代の、いわゆる青春期といわれる人たちが、親の脛をかじって、未だ自らの手で生活できていない時期に、そういう議論を相対的に多くする(した)のも、そういうものではないかと思います。絵画の場合でも、偏見と言われればそれまでですが、美術館で展覧会があっても、人手が多いのは、印象派とかルネサンスとかいった抽象ではなく具象の、見たまま(という言い方には、そのままそうだとは言えないものがありますが)の絵画が好まれるようです。また、子どもがお絵かきしているのを見た大人は、大抵の場合「何を描いているの?」という質問をします。これは、絵画は具体的な何かを写しているという一種のイデオロギーのようなものではないか、と思います。おそらく、たいていは、そういうイデオロギーにどっぷりと浸かっている。そこで、あえて抽象画を描くということは、そういうイデオロギーから離れることになるわけで、それなりの理由があったと思います。そして、その理由が抽象画の画家が何人もいますが、その人たちの作品の個性と密接に関係しているのではないかと思っています。

それは、たいていの抽象画家は、最初から目指すべき目標としてこういう抽象画を描きたいということがあって、その目標に向かって突き進んだということは考えられないからです。これに対して、例えば、ルネサンスの画家たちは、親方の工房に徒弟として入り、そこで親方のような絵を描く修行を重ねて行って、一人前の画家になっていく、そこに、最初は目標としての具体的な絵画が提示されていることになります。これに対して、抽象画を描いた画家たちは、ルネサンスとは時代が違うと言われればそれまでですが、どんな絵を描くか、どのように描くかと試行錯誤を繰り返し、目指すべき目標を探すというのが、彼らの画家としての修業の大半を占めていたところが、大きく違うのではないかともいます。そして、試行錯誤の結果として、たまたま抽象画を描くことになってしまった、というのが私にとって、一番納得できるストーリーです。つまり、彼らは、抽象画を描いたというのではなくて、彼らが試行錯誤の末に描くようになった絵画を、たまたま、見た人が抽象画と呼んだということではないかと思います。だからこと、美術館が企画する画家の回顧展で修業時代の習作から一気通貫に画家の作品を見ていくというのは、そういう見方を補強するする機能を果たしていると思います。

というわけで、坂本善三は、どういうわけで、抽象画を描くようになってしまったのか、という本題に入りましょう。画家の修行時代の作品とも言える『青の阿蘇』(右上図)という作品と、その15年後くらいに描かれた『外輪山』(右下図)という作品です。『青の阿蘇』は青を基調として、おそらく阿蘇の草千里ではないかと思いますが、緑などの原色に近い色をカラフルに塗った作品です。この作品を見ていると、どこか誰々風とか、フォービズムとか、そういう言葉が浮かんできて、それなら別にこの作品でなくても、似たようなものはあるような気になってしまいます。私ならですが。これは、画家本人がどう考えていたかは全く別として、当時もそうだし現代もそうだと思うのですが、画家がとにかく絵を描いて生活をしていくというのは、美術教師や商業的なイラストという副業をするか、そうでなくて作品を描くだけで食べていくというには、マーケットがそれほど大きくはなく、マーケットが成長拡大する可能性も少ないという中で、競争をするということになると思います。そして、マーケットの消費者というのは消費者の中で一部の限定された、いわゆるニッチなマーケットと言えます。そこで、競争に勝ち残って作品を買ってもらうためには、そのニッチなマーケットのニーズを把握して、自分の立ち位置を決めそこで競争を巧みに避けるか、競争に打ち勝つかという戦略が必要になって来ると思います。そのためには、売るべき作品の競争力とかマーケットの中で、どれだけ差別化できるか、ということが大きく作用してくるかと思います。そういう目で、『青い阿蘇』を見ると、独自性があるというよりは何々風と言えてしまうことから、競争を巧みに避けるような差別化は出来ていない。とすると、あとは競争をしなければならないその他大勢にはいるとすると、鍵となるのは一般的にはコストパフォーマンスでしょうか。つまり、この作品をもつことで、どのようなメリットがあるのか、という点で見て、明らかに、私にはそれは感じられない。けっこう原色を塗りたくっていますが、それが効果的とは見えない。見栄えがしないのです。むしろ、地味なのです。この作品を中産階級の居間や玄関などに飾って引き立つでしょうか。何か地味です。つまりは、マーケットでは通用しないということではなかったかと思います。あとは、画壇とか政治力という要素もあるのでしょうが、どうやら、坂本善三の伝記的事実をみてみると、そういうことは得意ではなかったように見えます。

この展覧会で通して坂本善三の作品を見ましたが、総じて地味な印象でした。そうしたら、端的にはスノッブなミドルクラスといった現代芸術のマーケットの消費者となりそうな人に受けそうかという難しいのではないか。むしろ地味を逆手にとって、落ち着いたとか、そんな印象で差別化した方が、マーケット戦略上生き残れるのではないか、そういう視点で『外輪山』という作品を見てみると。阿蘇山の外輪山の壁のような稜線でしょうか、それを横一本の線として山稜と空を二分し、同系統の色を使って、山稜の地形の陰影とか岩石の石の種類による色分けなどが、色彩のグラデーションの違いによって分けられているように見えます。そこにあるのは、実際にある風景や事物の中に抽象的な形が隠れていて、それを取り出すと抽象画になるという方法論でしょうか。具体的な事物の本質的な形象を抽出して理想的な姿を追求するのではなくて、身近なところに抽象的な形が隠れていて、それを探し出して、見の前に「ほら!」とでもいうように見せられると、なんとなく抽象画という生活からかけ離れたものではなくて、何となく親近感を感じることができる。そこで、地味だけど原色をどぎつく突きつけられるよりも穏やかなグラデーションで見せてくれると落ち着く。仮に、そういう絵画なら、家の中で洋間だけでなく和間に飾ることもできるかもしれない。そういうように感じられます。後に、坂本善三が“グレーの画家”と言われるようにグレーを生かしたのは、そういう日本家屋で飾るということ、落ち着くということを考えてできたのではないか、思えるところがあります。 


■渡欧『構築』(1961年) 

坂本善三が、そのスタイルを獲得する契機となったのが1957年からの渡欧がと解説されて、その時期の作品が展示されています。展示されている作品は建物やその壁を描いたものが多いように見えました。

日本で言う建築は寺社仏閣や家屋、あるいは城など木造で職人仕事によってしっかり製作されたというものというイメージで、しっかりとした堅固で具体的な実在物です。これに対して、ヨーロッパ中世の大聖堂は大規模な石組みで、一見、重厚で堅牢で、木造の日本建築に比べて実在感が桁違いのようです。しかし、その石造りの大聖堂、よく見ると石を積み上げて造られているというのが基本的な構造なのです。積み木のようなものです。大聖堂正面のシンボルとも言える石組みのアーチも、実は石を積み上げて重力の巧みなバランスで成り立っているものなのです。例えばバリの有名なノートルダム寺院はゴシック建築の代表的なものですが、あのような天に突き刺すような高さとか装飾とかアーチとかいったものは、ひとつには重い石を積み上げて、石自体の重みで潰れないように、重力を外に逃がしながらバランスをとって建物の形を安定的に保つための工夫の結果ああなったともいえるのです。ですから、ああいう大建築は微妙な力学的なバランスの上に微妙に成り立っているものと言えます。そのようなバランス、つまり調和を作り出すために、あらかじめ細かな計算と設計が必要で、実は建築と数学は近いところにあったと言えます。そのような数学的な計算に近いところで調和を志向していたものとして、建築以外に考えられるは音楽です。実際、中世の学問の中で音楽というのは数学に最も近いものという扱いでした。そう考えると建築と音楽とは数学を介して、実は隣同士のような近い関係にあるということなのです。芸術というジャンルの中でもっとも抽象性の高い音楽と近い所に建築があるとも考えられるのです。

このことは、坂本善三が好んで建築を対象として描いたことと関係があるように私には思えます。坂本善三の『外輪山』についてお話ししたところで、坂本の抽象のやり方というのは、神秘主義的な内面探究によるとか、形態の本質的な姿を抽出するとかいった作業ではなくて、もっと身近な私たちの身の回りに抽象的なものとか形態が存在していて、普段は私たちがそれが抽象的であると意識しないで見たり使ったりしている、それに気が付いて、それを私たちの目の前に露わにして見せるというのが、坂本善三の抽象のやり方ではないか、と私の個人的な感じ方ですが、そういう感じを強く抱いています。これは、坂本善三がそういう描き方を実際にしたということではなくて、あくまで、坂本善三の意志とか方法論とは無関係に、私が様品を見て抱いたイメージです。

そういう坂本善三の抽象のやり方と本質に音楽に近いというヨーロッパ中世の建築との間に親近性を感じるのは、私のこじつけでしょうか。パリのノートルダム寺院は坂本善三の眼には数学的なバランスと映った。つまりは抽象がそのまま目の前に存在したということだった、と私は妄想してしまうのです。あとは、目の前にある抽象をキャンバスに写し取ればいいわけです。右上の『構築』(1961年)という作品には、そういう物語を、私は想像してしまいました。正面下のアーチは大聖堂正面のアーチでしょうか。そして全面は大聖堂の正面のバランスを写し取ろうとした結果できた作品として見ました。坂本自身の言葉で、渡欧体験を後年「建て物ばかりかいた。私の絵はパリに行ってから、建築物の構造をかくことで、具象からだんだん離れて行った。パリの建て物は白と灰色を基調にしている。坂本調といわれる白と灰色の世界は、こうして私の内部で固まりつつあった」と語っています。これは、後で語ったことなので、当人の中で物語化されていて、語っている時の自分から語っているので、坂本の作品に対する考え方が反映されていると思います。あながち、私の感じていることは的外れてもないのかもしれません。

そして、坂本自身の言葉から色についても、実際の石造りの建築物を描いていて、グレーに行き着いた、ということになっています。実際に水彩でも油彩でも絵の具を使って絵を描いたことのある人なら分かると思いますが、絵の具を混ぜていくと、だんだんと鈍い色になっていく、つまりはグレーに近づいて行きます。最後には黒になってしまうのですが。グレーというのは、赤とか青とか緑とか様々な色を混ぜていくうちにそうなってしまう色なのです。見方によれば、様々な色の赤とか青とかいう特徴を打ち消し合って最後に残る色、そういう見方でいえば、すべての色に共通する色というものの構造上本質的なものと言えるかもしれません。と考えれば、坂本善三のグレーというのは、色の抽象化とも言えるかもしれません。

このような抽象化を進めて行くにも、坂本善三の作品を見ていると、イメージするとか、瞑想するとか、思考する、とかいった過程ではなく、眼前に在る建物を地道に写しているうちに、結果としてそういうものが出来上がってしまった、とでもいうようなイメージを抱いてしまうようです。

坂本善三の作品を見ていて、難解だとか、突き放されるような緊張感とか、そういうものを感じることが少ないのは、そういう点からなのかもしれません。


■日本的な心のかたち『織』『城』 

坂本善三の抽象のやり方から、その性格を考えてきました。そのために、彼が抽象画に至るプロセスを物語りとして捏造してみました。今度は、その成果を用いて作品を見て行こうと思います。

坂本善三の抽象というのは、私たちの日常生活の身の回りにあって、普段は気づかない抽象的な形態やものを探し出して、それを取り上げてみせるという私のイメージをお話ししました。例えば『織』(右図)という1963年の作品を見ていただきたいと思います。画像で見ると分かりにくいと思いますが、黒に近いグリーンで縦の細いラインが塗られています。その色の微妙なグラデーションと、塗りの筆の幅や筆触に様々な変化をつけて、そのニュアンスの微妙な変化がつけられています。それらを見ていると大島紬のような深みのある渋い反物を見ているようです。作品タイトルの『織』は、そういうものを連想させる意図があるのか、そういうものをモチーフに坂本が描いたのか分かりません。織物の織り目というのは規則的なパターンの繰り返しです。この部分を顕微鏡写真か何かで拡大してピックアップしたら、こういう抽象的な画像ができそうです。そして、その織り目は規則正しいのですが、決して図式的にはなっていない。それは実在物であるという以上、しかたのないことです。そして、熟練した職人とはいえ人間の手で織られているということで、どうしても機械的に行かない。しかも繊維は生き物のように微妙に伸び縮みするので、その時々の変化によって織り目が微妙に変化する。そのように捉えた形態は、理想化されたイデアのような形態とは違うけれど、そこにあるような冷たさはなく、どこかしら親しみ易く、生き物の息吹というのか温かみのようなものを感じ取ることができる。そういうものが『織』という作品にあると思います。小さな作品ですが、その微妙さと不規則さが、見る者に見るたびに細部が違ったように見えて、飽きさせない、しかも何となく温か味を感じることが感じ取る作品になっていると思います。

また、『城』(左図)という1971年の作品を見てみると、グレーの地に白く太い線で富士山の輪郭のような台形のような形が引かれています。これは日本の城という建築物にヨーロッパの石造りの建築と共通した抽象性を見出したものを写したと考えては可笑しいでしょうか。現代の建築には構造設計といって建物が力学上無理なく安定していて災害等に耐えられるようになるようにする、いうなれば調和させる、バランスを均衡させるものがあります。それは、日本の城にだってあるはずで、坂本はそういうところを取り出したのかもしれません。抽象的な形態ではあるですが、タイトルの『城』というのを聞いて、城に見えてくるのです。これは、記号化、例えば象形文字のような形を字として記号にして流通させることに近いのかもしれません。考えてみれば、浮世絵とか狩野派などもそうですが、現代のまんがも当てはまるかもしれませんが、こういう日本の絵の対象をパターン化して記号として扱い、その組み合わせや記号の使い方などで新機軸をだして差別化をするということがよく行われてきました。まんがが描かれる美少女は実際の美少女を写生的に描いたものではなくて、まんがの世界で美少女とはこういうものというパターンを使いまわしているものです。ということは、記号化されているということは、抽象化までは紙一重ということです。同じようなプロセスを踏んで、もう一歩先に踏み出したということは、日本画とか文字とかいったものと途中まで一緒の行程を踏んでいるわけで、それを見た人が、日本人であってその文化を共有しているひとであれば、同じ匂いを嗅ぎ取っても不思議はないでしょう。理屈ではありますが。私には、この展覧会のサブタイトルである“日本的な心のかたち”というのが、そういう坂本善三の抽象のやり方というものに起因しているように思えます。日本的情緒とか、そういう雰囲気的なものではなく。

西洋の絵画というのは、記号性とは逆の方向というのか、イコノロジーでいうアトリビュートのような約束事はありますが、記号のようにみんな同じ形を描いてそれを約束事として共有するということはしていないと思います。むしろ、他の作品とは違うことを意識して描くという方向性だと思います。だから、坂本善三の抽象画というのは西洋画の抽象画に比べて見た場合に、記号のようにみんなが使っている共通性の要素から親しみ易さと、個別的な違いを重んずる西洋画のないものが日本的と見なされるのかもしれません。


 

 
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