夏休みが終わって、会社で仕事をするようになると、冷房の効いた室内に長時間いる生活に戻り、休み中快適だった体の調子が再び変調の兆しを見せ始めたとき。外出の用事ができたの機に、早めに会社を出た。幸い用事は順調に終わり、都心に出たついでに、と国立新美術館に寄ることにした。教科書に載っているような作品が展示される名画展とか、著名な芸術家の回顧展といった展覧会は、沢山の人出があるが、こういう、現役の、しかも、現代芸術とかいわれるものは、閑散とている。平日の5時過ぎという時刻ゆえかもしれないが、天井の高い、倉庫みたいな展示室で展示室内に1人とか2人というような贅沢な空間にいることができた。
この二人の作家については、私はほとんど知らないので、いつのようにパンフレットから引用します。「情感に満ちた色彩豊かな画面により、現代日本を代表する抽象画家として、30年以上にわたり第一線で活躍してきた、辰野登恵子(1950年生)。山野に見出される土木事業を重厚なモノクローム写真に定着した「日本典型」連作などにより、国際的な高い評価を受けている写真家、柴田敏雄(1949年生)。一見すると、表現メディアも作風も異なっている二人ですが、東京藝術大学油画科の同級生として、在学中はグループ展などの活動をともにしていたという、意外な接点を持っています。─(中略)─二人の芸術には見過ごしにすることのできない共通点があるように思われます。それは、外部世界の中に見出された偶然的な形象から出発しながら、高度な抽象性をもった、造形的に自立した作品を生み出していることです。展覧会では、1970年代の学生時代から現在に至る、二人の作品の中から作品やシリーズを精選し、基本的にはそれぞれの作家の特質を明らかにしながら、時折は両者の作品を併置し、ポップ・アートとミニマル・アートの影響を受けて自己を形成した最初の世代が、質の高い独自の芸術を作り上げていった様を紹介いたします」辰野が第一線で活躍しているとか、柴田が国際的な高い評価を受けているとか、そう言うことは全く知らず、たまたま、この日、この時間で仕事の場所から、比較的行きやすいところという検索で引っ掛かったというのが、この展覧会にきた理由です。
二人展ですが、柴田敏雄の写真については、あまり興味が湧かず素通りに近い、眺めて終わってしまったので、感想はありません。ネットで、この展覧会を検索してみると、柴田の写真作品に対する好意的な感想が多いようで、私の行った日も展示を見る人は柴田の作品の方が何となく多かったような気がしますが。私の個人的印象ですが、柴田は絵画の感覚で写真を撮っているのではないか、本質的に写真して見るべきものではない、と思えたのです。絵画ですべきことを写真で行うだけなら単に奇を衒っているだけで、数点観て、その時だけ驚けば、それでいいだけで、そういうものとしてみました。ちなみに、本質的に写真として撮っていないというのは、光と影で時間を感じることができなかったからです。つまり、同じ対象を見るといっても、写真の場合は一瞬をカメラで写し取るので、とくに屋外の風景を取るときは外光の対象に当たる角度や方向、光の強さ、どの部分に光がよくあるかは時々刻々変化するので、シャッターを押した時刻によって、全く違う写真になる可能性があります。風景写真を生業とするプロの写真家は、画家と違って写した写真に自分で手を加えることができないので、その瞬間を辛抱強く待ち、それを捉える最適の絞りや焦点に集中する、そこにその写真家でないと撮れない作品が生まれてくると私は思っています。柴田の作品の趣旨からすると、風景にある形象を浮かび上がらせたいということなら、これに最適な光やその影の最適の瞬間を写し取ったかというと、何時撮ったか分らないような写真ばかりでした。画家は、自分で描くので風景のような対象を見る時に、瞬間に固執する必要はありません。むしろ、個別的な要素に捉われることなく、抽象化してその風景のそうならしめている本質のようなものを剔抉しようとするのではないか、と思います。柴田は、その本質を形象によって見極めようとして、個別の写真的な瞬間を切り捨てたように思えました。ただし、後で触れることになると思いますが、この展覧会で二人の作家を並べて展示することで、もう一人の辰野との共通性というのが、展覧会パンフレットにある形象ということではなくて、作品とか制作の反復ということが、互いに写真として、あるいは絵画として中途半端さに共通点を見出す契機にはなったと思いました。
パンフレットに写った辰野の作品は、その文言にあるように「情感に満ちた色彩豊かな画面」に見えました。しかし、実際に見た作品の第一印象は、汚いというものでした。汚いと感じたのは色彩です。また、仕上げが粗雑ということも思いました。私は玄人ではないので、現代アートとかいうものの理論とか方法論は知らないので、技法とか、そういう画家なりの基準があって、それをクリアしているものでしょう。パンフレットにあった「情感に満ちた色彩豊かな画面」という文言には、どこが?という反語的な疑問符を感じました。実際に見る画面上に塗られた絵の具の色は重く、鈍く、塗り残しが各処にみられ、それが問う効果を生み出しているのか、その価値が全く分かりませんでした。しかし、同じ作品を、例えば、パンフレットに印刷されたコピーで見ると、たしかに「色彩豊かな画面」に写っているのです。印刷で誤魔化しているのか、と少し疑いましたが、少しでも印刷に近い見方ができるようにと、会場で可能な限り作品から離れて、眼鏡を外して眺めてみると、印刷されたものと近い印象になりました。これは、ほとんどの辰野の作品に当てはまりました。しかも、同じ展示室で眺めるよりも隣の展示室でその部屋で展示されている作品を見ながら、横目で遠く斜めに眺めるとさらにいいのです。それで、辰野の作品のサイズが大きい理由が分かった気がします。つまりは近くで見ると全体が見渡せなくなるから、自然と距離を置いて作品を見ることになる。そして、作品は離れれば離れるほどよくなる。つまり、観る者に作品から離れさせるために大きな作品にした。大きなサイズで遠くから眺めると細かな写生のような作品は何が書かれているか見る者は分らない。それならば、大雑把な形象を象徴的な大きく、画面の中心にデンと置いてやれば、遠くからもそれと分かる。そういう構成になっている。私のかなり偏った、主観的な解釈です。しかし、コピーした方がよく見えるというのは、かつて芸術様品のオーラといった、現物にその場で対峙することを主張した思想家もいましたが、コピーの方がいいということは、そこで言われていたオーラというものがどこへ行ってしまったのか、ということになります。そういう、芸術作品の一回性ということは辰野の作品からは感じられませんでした。いままで、名画と言われる作品では、画集等で見るよりは現物の方が良いというのが、辰野の作品では逆なので、そういう有名作品とは、違う。同じような外形をしているが、本質的な所で絵画というものとはズレているのではないか。と思いました。そに印象を補完したのが同時に展示されていた柴田の写真です。
展示は会場レイアウトの都合か、それに意味があるのかは分かりませんが、年代順に並べてありませんでした。カタログもそうなっているので、何かの意図があるのでしょう。ちなみに、順番はつぎのようでした。
Ⅰ.辰野/1980年代
一.柴田/日本典型
Ⅱ.辰野/円と丸から
二.柴田/シカゴ現代美術館の25店
三.柴田/堰堤
四.柴田/アーカイブス
両者の初期作品
Ⅲ.辰野/1970年代
五.柴田/ナイト・フォト
六、柴田/三角形
Ⅵ.辰野/版画
Ⅳ.辰野/1990年代
Ⅴ.辰野/2000年代
七.柴田/カラー
両者の新作
こんな、順番です。できれば、展示の順番に従って観て行きたいと思います。ただし、先に書いた通り、柴田の作品は除外し、辰野の作品を見ていくようにします。