この<Color>の展示は、何かとって付けたような感じは否めません。
会場で真っ先に目に入った作品群です。予備知識も何もなく見たので、大きい、汚いというのが、第一印象です。小文字のfかSのような形と花のようなのがゴチャゴチャ五月蠅いほどに書かれていて、下に塗られている色が汚いとしてか感じられず、塗り方が乱雑に感じられて、尚更投げやりなる。こう書いていくと、作品を罵倒しているとか思えませんね。正直、この先どうなるのかと、多少うんざりしたのも事実です。
多分、辰野の作品もジャンル分けをすると、そこに入るのでしょうし、パンフレットにも現代日本を代表する抽象画家と紹介されているので、抽象画ということになるのでしょう。私は学者や評論家ではないので難しい理論的なことは分かりませんが、抽象画と一括されますが、様々な潮流があり、あまり単純化した議論は誤解を招くことになるかもしれませんが、独断と偏見で語らせてもらうと、カンディンスキーにしろモンドリアンにしろ、丁度同時代に、文学でいうとマラルメたちの言葉だけの閉じた世界で詩を組み立てる試みや小説からストーリーを削除してしまうようなジッドの純粋小説とか、音楽の世界でも絶対音楽というように、本質的なものを残して余計なものを削ぎ落とした純粋芸術とでいうような風潮があって、絵画でも長い歴史の中で伝統に縛られ、作家たちが縛られて動きをとれないなかで、本質的と思われるものを残して、それ以外の要素を次々と捨て去って残ったものが、彼らの抽象的な作品だったというような捉えかたをしています。丁度、近代的な思想の開始を告げるデカルトが方法的懐疑という手法で、疑わしいことを全て否定して、最後に、こう考えている自分の存在だけは否定できないという究極に辿り着いたように。それだけに、彼らの作品に共通しているのはシンプルで、その残された要素に着目すると、これこそが絵画だということが実感させられる、というものだったと思います。言葉の意味で抽象化という作業は、個々の事象から本質的なところを取り出して、普遍的に通用する概念を作り出すことです。そこに共通しているのは、余計なものを削ぎ落として本質的なところだけを残すということです。そこで残された作品は本質の塊というもので、概念を抽象化した数式のようなもので、意味とか感情とかそういう付随的なものは削ぎ落として、真とか美としか言いようのないものです。
そういう見方で、辰野の抽象をみると余計なものを削ぎ落として、本質だけが残されているという感じはしません。むしろ、最初にいったように、ゴチャゴチャして五月蠅い。方向性としては、削ってきたというのは逆に、追加追加で画面を作ってきた、そう見えました。見方を変えれば、それまでにはなかった遊びの要素が加わったとも言えるかもしれません。しかし、私には、それ以前に残すべき本質というものがないではないか。だから、モンドリアンたちのような作家の画面作りは、言うならば引き算で余計な要素を取り除いていくものであったのに対して、辰野の場合は、足し算で、何もないところに要素を加えていくというもののように見えます。例えば、WORK84-P-1(左図)という作品では、花模様のような形象とSの字のような形象が、画面上に何か所も配置されていますが、これがなくてはならないという感じはしません。仮にこれらの形象が無くなっても画面はそれなりに、なれなりのようにも見えるし、別の形象に代わってもそうですか、という感じです。こうでなくてはならない必然性のようなものは、画面を見る限りは感じられません。そうではなくて、たまたま、こうなったというような即興的な結果として提示されているような感じです。色々な可能性が考えられる中で、たまたま、こうしてみましたという感じです。となると、即興的にできるだけ早く画面を作ってしまおうということで、まるで殴り書きのように形象が急いで書かれているように見えるのも納得できます。辰野は、画面を完結したものと見ずに、仮初の一時的な状態とみれば、仕上げるのは、その先になります。
画家自身は花模様のモチーフと言っていますが、これは鋳鉄製の階段の羽目板のくりぬき模様から来ているとのことで、このころの画家の関心は連続性、その連続性の遮断や断絶だったそうです。このころの画家は、抽象表現主義を継承する新たな絵画を描きたいと考え、その後の展開、その後の絵画空間を模索していたそうです。絵画空間を仕切ることで、内側と外側の関係性が生まれ、差異が生じる。境界線ばかりでなく、色、マ、ティエール、何によっても、そこにはイリュージョンが生まれる。内側と外側の空間の温度差、密度の違い、(具体的には暖色と寒色といった色使いや濃淡か)のようなものは画家にとって重要な課題だったといいます。パターンを取り入れることでこのような空間の変質を願っていたともいう。つまり、画家にとってのパターンは、複雑な絵画空間やイリュージョンを生み出し、操作するためのきっかけのようなものだったそうです。
そのように作者が言っている割には、ここで描かれている形象に魅力がないのはどうしてでしょう。例えば、音楽ではあるフレーズ反復されて曲が構成されていますが、いい曲というのは、反復されるフレーズが再現されるたびにわくわくするものです。そして、反復の仕方も手慣れた音楽家はそこに様々な仕掛けをしていて聴き手を飽きさせないものです。しかし、この画面を見ていると、作者が言っているほど工夫も見えない。せめて反復するほどその形象に愛着があるようならば、もう少し丁寧に描いてもよさそうなものなのに、と素人は思ってしまうのです。反復を画面の中心として位置付けるならば、反復する形象を、これを反復すると強調してもいいのではと思います。