カンディンスキー展 |
2002年4月28日 東京国立近代美術館
私も、それに引き摺られているところがないとは言えません。というわけで、ここで、ちょっと身構えて、抽象画に関する個人的見解を少しく述べたいと思います。 ひとつは、絵画と意味ということに関わることです。「意味」などというと、深く考えていくときりがかいので、取敢えず具象(この言葉は抽象絵画というものが生まれたことから、抽象絵画への対立概念として創り出されたものです。だから、抽象絵画が生まれる前は、だれもこんな言い方はしなかった。そもそも絵画は全部、具象だったからです)の作品を見る時に、そこに“何が描かれているか”ということを特に意識して考えることもなく、それを前提に見ると思います。そのことと思ってください。テーマとか題材とか、絵画鑑賞を真面目にするときに出てくる大層なタームまで行くものではありません。そんなものではなく、単に、“何の絵だ”というもので、人物が描かれているとか、風景画であるとか、そんなものです。幼稚園で、おえかきの時間に無心にクレヨンをはしらせる園児に話しかける時、「何を描いているの」などと、とくに考えるわけでもなく訊くと思います。だから、自然と絵画を見る時に、“何の絵だ”とか“何が描かれている”とかいうことが意識することもなく前提にしてしまっている、それを意味と、ここではいうことにします。これは、何も絵画を見るということに限ったことではなく、私たちが見るということをする時には、“何を見る”というように対象を特定します。だから、見るということをする時に、必然的についてまわることです。だから、絵画というのは意味ということと切り離すことはできない。というのが、普通の一般的な絵画の見方ではないでしようか。しかし、そうなると私たちが見るのは、全て意味ということになります。私たちは自分の外側を認識するのには主に目で見るということをしますから、そうであれば、私たちの周囲は意味で充満しているということになります。意味ばっかりです。普段は、そんなことは感じないかもしれませんが、いったん気づいてしまうと息がつまるような気がしませんか。そんな時に、目で見るのは別の感覚器官を考えてみて下さい。例えば耳です。耳は何かを聞くというのではなくて、ただ聞こえてくるのです。対象を特定しないしできないのです。ただ、聞こえてくる音を分析して、その中で“これは何の音だ”と認識することはあります。しかし、眼と違って対象を特定することはできないのです。それで耳で聞く芸術である音楽というのは、とくに“何の音”というのは音楽そのものを聴く前提にはならないのです。つまり、見るということについて回る意味というものがないのです。(但し、人によっては意味を求める人もいます。)だから、そこで流れてくる音楽に乗るとか浸るとかしてればいいのです。だから、疲れた人が音楽を聴くことでリラックスして、再生するということがよくあるのです。絵画に同じような効果を求めるということは、あまりしません。そういうことを考えたうえで、抽象絵画というものを見ていくとどうなるか。まず、意味“何の絵”であるかということが見る方は分かりません。多分、そのことが抽象絵画が難解だといわれることになるのでしょう。なぜなら、とこで普通は私たちは“何の絵”として見るのが、その何が分らないからです。しかし、ここで逆の発想として“何の絵”か分らないから、それを前提として見るということを放棄してしまったらどうでしょうか。つまり、さっき触れたような音楽のように接してみることはできないでしょうか。そのとき、私たちは周囲に充満する意味を切り離すことが可能となるかもしれません。かえって“何の絵”と意味づけるという重さから開放されて、気楽に、リラックスして見るという可能性が開けるかもしれません。 二つ目は、子どものお絵かき遊びで、特に“何の絵”というわけではなく、こともがクレヨンをもって白い画用紙の上を好き勝手に(たいていはゴチャゴチャ)に線を引いて、楽しそうにしていることがあります。子どもにどうして楽しいかを訊いても、本人も分らないでしょうが、こちらが考えてみると、そういう身体の動きをする、つまり運動をすること自体が快感であること、また、白い画用紙を汚すことが楽しいのかもしれませんし、線を引くことで白い画用紙が変化していくのが面白いのかもしれません。いずれにしても、“何を描く”ということとは無関係に線を引くとか描くというのは実は楽しいことかもしれないわけです。抽象絵画は、もしかしたら、そういう楽しさ、絵画鑑賞などといって切り捨てられてきた面白さを、取り戻すことができるのではないか。そして、この好き勝手に線を引いた子供が、出来上がったものを“何の絵”とはいえないですが“美しい”ということはできるのです。それは、先に触れた音楽もそうです。そうであれば、“何の絵”でなくても、単に眺めて美しいと思うことはできる。というよりも“何の絵”と意味で特定するというのは理性の働きです。その“何の絵”というのがなくて理性の働きというのが働かないと、あとは純粋に感性が働くだけです。つまり感覚的な世界、感覚的に快かどうかということだけです。そう考えると、抽象絵画は決して難しくはない。むしろ、理性を働かせて意味を特定しなければならない、具象の絵画の方が実は難しいということも可能です。私たちが、それを難しいと思わないのはいつもその作業をやっていた、その作業に習熟しているからです。いわば、みんなエキスパートだからなのです。 そして、三つ目です。これは、今までみたことと矛盾するようなことです。それは、カンディンスキーやその他モンドリアンとかロスコといった抽象的な作品を主として描いた画家たちの作品を見ていて、私が、強く感じたことです。このような画家たちは、普通に見えること以上のことを絵画の画面に入れ込もうとしたのではないかと、作品をみていて感じるのです。私たちの周囲には目で見えること以外にたくさんのことがあります。それは、感覚的なことで言えば、音、臭い、触れて分かること、味等が代表的なことです。それで感覚できる広大な領域があります。そのた感覚できないもの空気とか雰囲気とか。それだけでなく、感覚できないもの、人の感情とか、思いとか、それ以上に人も分らないようなこととか。これらを、従来の絵画では目で見える意味というものに縛られて、そういうものを描くということはできなかった。これまでに、それを試みた画家は数多くいたと思います。例えば比喩的な手法を活用するなどしたとか。しかし、意味というものが足枷となって、どうしても比喩をうまく用いても副次的な効果を生むのがせいぜいのところです。さきにあげた画家たちは、それに飽き足らなかったのではないかと思います。そこで、たどり着いたのが足枷を外すということです。だから、この人達は神秘主義的な傾向が実はあったりします。そういう点では、作品の背後をいろいろ追求していくと、作品の表面に隠されたものがたくさんあって、それは具体的な形を持ったものでないので、こういうものだと明確ではないのですが、感覚で何となくそうかもしれないという何かがあるような雰囲気を感じることができるのです。こんなことをいうと誤解されるかもしれませんが、感性の宝探しのような面白さがあるのです。 以上3点が、私が個人的に抽象絵画を比較的好んでみるポイントです。 れで抽象絵画を好むことは分ったけれど、その中で、カンディンスキーはどうなのか。何も描かないということになるとカンディンスキーとモンドリアンの違いというのは、どのように表われて、でカンディンスキーはどうなのかということも、この後、述べなければならないことです。これについては、この後、追々作品に触れながら、カンディンスキーの特徴に交えて、お話ししていきたいと思います。 それを踏まえて、これから展示されたカンディンスキーの作品について述べていきたいと思います。
ここで見たのは、抽象絵画というものをカンディンスキーが発明し、意識的にそういう作品を描き始める前の作品です。
そうなると、カンディンスキーの軌跡、とくに抽象画の作品群を生産し始める前のカンディンスキーの作品に関しては、抽象画に辿り着く前に、様々な試行錯誤をしていくという位置づけが、この展覧会でもされていたようです。しかし、上のような考え方でいけば、すでにカンディンスキーが抽象画を描くことに辿り着く、というよりもすでに彼は、そういう要素の含み込んだ作品を描いていて、それを自覚して抽象画として意識するまでの軌跡ではないかと考えています。それは、そういう見方でも、ここに展示されている作品を見ることができるからです。というよりも、具象的な風景等を描いていた画家が、徐々に抽象的な作品に変貌して行ったというようなストーリーは、展示作品を見る限りでは、そのプロセスがハッキリしないのです。 最初は画家を志しミュンヘンに留学したときということで、習作に近い風景画と象徴主義的な版画が展示されています。一人の画家が描いたとは考えられないほど、別種の作品のように見えますが、習作期であることや、生活の糧を稼ぐということでしょうか。『グースリ弾き』(左上図)というロシアの民族楽器を弾く人物と、それを聴く女性という二人の人物の登場する版画は、アールヌーボー的な装飾がされていたり、ロシアのイコンのような様式化がされていたり、とくに上部の鳥は様式化されて装飾の中に埋もれてしまうように形象の存在が希薄化されています。また、『月夜』(右図)という作品では、月夜というのに三日月は半分しか描かれておらず、暗い青で突き出た島の断崖と中央の海竜が影のように描かれ、それらが単純なパターンのようで、夜空の群青のなかで輪郭は融け込むように曖昧化され、群青の暗さのグラデーションの中で、星の黄色い点と島にへばりつくような建物の白い壁と竜の白い斑点模様と、月の光を反射して黄色く光る海面の図案化された対立関係ばかりが目立つ作品になっています。これらの作品は、カンディンスキーの習作期の作品だからとして見れば、なるほど後に抽象画を描くことになる萌芽が見られる、とみなすこともできます。しかし、そういう前以て、知識を持たずに見て、そういう画家が描いたものと判別することはできないと思います。そういう視点で探せば、慥かに、後世の萌芽の要素を見出すことは可能でしょう。しかし、とくにカンディンスキーの作品であると、他の画家の作品との際立った違いが果たしてあるのか、と考えると、この時点では、カンディンスキーに限らず、他の画家でも抽象画の元祖になり得る可能性を持っていた、と私には考えられるのではないかと思います。それが、この時期のカンディンスキーの作品を見て感じられたことです。 Ⅱ.ミュンヘン1908~1910年─飛躍
Ⅲ.ミュンヘン1911~1914年─抽象絵画へ
ここから、いよいよ抽象絵画の世界へ足を踏み入れます。この展覧会の目玉である、大作『コンポジション6』と『コンポジション7』は、この後で集中的に展示されているので、ここでは、そこに至る作品を見ていきたいと思います。
前のところで、抽象画は具体的な対象を写生するということを放棄して、何かを描くというWHATの要素を制約と捉え、そこから解放されて、画家は如何に描くというHOWの部分だけを追求できるものとした、という私の捉え方を説明したと思います。ということになれば、私がここでカンディンスキーの作品を見る場合も、WHATを気にすることなく、例えば、ここの作品では『聖ゲオルギウス』といタイトルがありますが、聖人が描かれているとか、その象徴である剣を探すとかいうことは、抽象画にとっては、さほど意味のないことです。それよりも、作品がどのように構成され、色がどのように使われ、というような描かれ方を見ていくということになります。多分、画家の方では、何かを描くということを制約と考えていれば、その制約を取り払い、解放されたところで、思いのままに描くということができたのではないかと思います。だから、それを見る側は、何かが描かれているという、言うなれば意味を考えることなく、直観的に綺麗とか汚いとか、そういうところからみればいいということになる。と理屈では考えますし、そういう見方でしっくりくる画家もあります。しかし、カンディンスキーの作品は、そうではない。それだけでは説明しれない何かがあるような気がします。画面はこうなって、このように描かれている、ということから零れ落ちてしまうような何かが、この『聖ゲオルギウス』という作品も、描き方のきれいさとか、構成の見せ方の上手さとか、そういうHOWだけでは、他の画家に数多のすぐれた作品がありますが、それらに伍して、それらを超えて、見る者に訴えかけるような何か、があります。それが、おそらく、抽象画とか具象とかそんなジャンルのこととは関係なく、実はカンディンスキーの特徴で、私がカンディンスキーの作品を見る時に、一番ひきつけられ、しかも、言葉にできないものであると思います。
などと言葉で説明していますが、カンディンスキーの抽象画というのは、抽象画というのはそういうものなのですが、とくにカンディンスキーのは言葉による説明ができなくて、説明しようとすると言葉が出てこないということに陥ってしまうことが多いです。ここでの説明もそうなってしまっています。このカンディンスキー展について述べてきた最初のところで、抽象画を描いた画家というのはカンディンスキー以外にもいますが、そういう人たちとカンディンスキーとの違い、つまり、カンディンスキーの特徴については後述すると述べました。実は、それを、なかなか言葉に定着できないのです。他の画家ならば、モンドリアンなら構成の画家といえばそれで済みそうです。しかし、カンディンスキーは構成もありますが、それだけではありませんし、カンディンスキーならではの構成とか、そういうものがハッキリしません。カンディンスキーの自身はどうだったのか、多分、画家としての自分を売り込むためにも、他の画家とは違うということをまず、マーケットや消費者に理解してもらわなくては存在を認識してもらえないわけですから、自分の個性とか特徴ということは絶対意識していたはずです。近代以降の芸術は、作家の個性を重視しているはずですから。しかし、抽象画という、当時誰もやらなかったことに手を染め、いわば創始者となってしまったわけですから。他にこんな作品を描く人などいなかったのですから、抽象画をえがくということは大きな特徴だったということでしょうか。他の抽象画家は、カンディンスキーと同年代の人もいますが、そうでない人も多く、そういう人は、カンディンスキーが創始した抽象画というジャンルに後から参入したということになるわけでしょうか。抽象画という土俵、枠組みをカンディンスキーがつくった。後から参入した人は、その土俵に乗って戦うことになるので、カンディンスキーとの違いを、自分はカンディンスキーではないことをアピールしなくてはならず、そこで個々に特徴を出して行かなくてはならなかった、ということでしょうか。コンピュータのソフトの世界で言えば、カンディンスキーはOSの立場、他の画家はそのOSに乗ってさまざまなソフトやアプリをつくる羽目になったということになるでしょうか。自分がスタンダードになってしまったということで、スタンダートとの距離とか、違いを意識する必要に迫られなかったというところでしょうか。 カンディンスキーと違って、他の抽象画を描く画家たちは、好むと好まざるとに関わらず、カンディンスキーの作ってしまった土俵で戦わざるを得なかった。そのため、カンディンスキーの作った土俵の上で、自分の立ち位置を示す必要に迫られた。つまり、カンディンスキーとどこが違うのかとか、カンディンスキーに対してどうなのかといった具合です。そのため、後世から、私のような何も知らない人間が見れば、カンディンスキーの土俵で戦った人達は個性が分かりやすく見えてしまい、逆に土俵をつくったカンディンスキーは捉えどころがないように映ってしまうのではないかと思います。
Ⅳ.ミュンヘン1913年─コンポジション、大いなる総合
今回のカンディンスキー展の目玉の大作です。抽象的な絵画を描いた、彼以外の画家でも、モンドリアンやマレーヴィチなども『コンポジション』というタイトルの作品を遺しています。Compositionということばは“構成する”という意味ですが、音楽の用語で“作曲する”という意味もあります。おそらく、形を持たず、言葉のような明確な意味を持たない、音楽の抽象的なあり方に、一種の憧れがあったのかもしれません。
これに対して、展示されているカンディンスキーの二つの作品は単純化されたとは絶対に言えないものです。ゴチャゴチャするくらいに様々な要素が詰め込まれて、それらが相互に輻輳するかのように様々に絡み合っているようで、一目では何がどうなっているか分らない。それが巨大なサイズの画面に所狭しとある。そのような作品の前に立たされたものは、何がどうなっているのか、見てて把握できないので途方に暮れてしまいます。 同じように巨大なサイズでゴチャゴチャしたような作品を制作する人にジャクソン・ポロックがいますが、ポロックの作品は、一見ゴチャゴチャですが、それを構成する線とか絵の具の滴りが面となって表われたものの個々には存在感が希薄で、全体に対しての部分というものなので、部分に注目することは、あまりなくて、大きな画面全体を細部にこだわることなく見渡すことができるのです。そのため、一見複雑な作品は、全体の印象に重点を置いてシンプルに見ることができるのです。 しかし、カンディンスキーの作品は、細部の自己主張が強い。その結果、この巨大な画面の各処で細部が自己主張を始めて、相互に競うような様相を呈しています。全体を見ようとして、部分の存在感にひきつけられる結果、足元を掬われるように全体をみるパースペクティブを見失ってしまうことになってしまいます。私も、実際に、これらの作品の前で数十分間佇んでいましたが、何がどう描かれているかよく分りませんでした。そういう、量と質の両面で見るものが圧倒されてしまうところがある作品です。 もしかしたら、前回すこし述べましたカンディンスキーの不可視の何かがあるような気がしないでもありません。作品の前で圧倒されて立ちすくむしかない観衆が感じる、圧倒に迫られるということ自体、というのでしょうか。そこで、圧倒される人が感じる圧迫感、そして、一方的に受け身に立たされるような無力感というのか、その不安とまでは行かないまでも、どこか不安定な感じ、これに対して自らの小ささを目の当たりにさせられてしまう感じとか、がこれらの作品が、結果としてそうなっているというのではなく、ある程度、明確な意思をもってというのはないにしても、制作される際に、考えられていたのではないか、そう思わさせられるのです。
画面右手に黒い線で船の輪郭らしきものがあったり、中央上部の赤い線の山形はアララト山でしょうか、向かいに黒い線で鳩の嘴の形らしきものが見られます。描線が何本も並べて引かれているのは雨の形跡なのか。このように、「ノアの大洪水」のパーツらしきものの形跡が残されているとは想像できます。しかし、それも、そういうお勉強をして、そのように見て、こじつけのようにして見えて来るにすぎません。だから、ここから実際の大洪水とか、災害を意味するものと捉えることはないと言えます。このような様々なものらしき形が画面の中で、折り重なったり、ぶつかり合ったり、並んだりして、その有り様が絶妙なバランスのもとに相乗効果をうみだして、最終的に緊張感を保ちながら、ひとつの世界となってまとまっているというのがこの作品だということになるでしょうか。そのために、画面上で意図的に複数の中心的な部分、緊張感が高まる部分が作られています。画面右上の船のフォルム周辺は、黒い線を中心に赤と青とが柔和にバランスしているようであり、画面左下は対照的に鋭く対立しているようなダイナミックな感じです。そして、画面中央下側は、白を基調に様々な色が白に溶解しようとする混沌的な状態に見えます。ひとつひとつのパーツが織り成すこのようないくつかの中心が構成されて、画面全体の最終的な調和に結実しているといえます。しかし、どうでしょう、中央下の白を基調とした部分、一見静かな部分なのですが、左右の中心点と対照的にポッカリと穴の開いたような、その静けさが実は混沌の入り口で現実のフォルムが解けてしまうような様相は、大洪水に呑み込まれてしまうように、現実から非現実に連れ去られてしまうような疎外感を感じさせたりしないでしょうか。そこに底知れる空虚のようなものを感じられないでしょうか。私には、他の部分には様々なパーツがぶち込まれているのに、ここだけがそうでないところに、カンディンスキーの底知れる不安と過緊張をみてしまい、それが、この大作の捉えどころがないながら、緊張感を湛えている原因ではないかと思うのです。
抽象絵画という新たな土俵を作ってしまったカンディンスキーはスタンダードという宿命を負ってしまったが故に、後世からみると、彼の後を追った画家たちが彼を物差しにして自分たちの立ち位置の差別化を図ったために、特徴がハッキリしているのに対して、カンディンスキー自身がカンディンスキーであることを示すようなスタイルが定まっていないので、彼の特徴を一言で表すのは難しいと言いましたが、このような作品にあらわれている、現実からの飛翔という感じ、それは具体性がないので、具体的には「何か」とでも言うしかないものですが、それがカンディンスキーの作品の特徴なのでは、それが最も濃厚に表われているのが、この二つの作品ではないかと思います。
Ⅴ.モスクワ1914~1917年─内なる故郷
カンディンスキーはロシア人であったため、第1次世界大戦の勃発により、ミュンヘンを離れ、故国のモスクワに帰国します。最初はお勉強です。帰国後の10月革命を挟むモスクワでの7年間は、物心両面での困難、革命政権下での公職の多忙等が重なり、油彩作品の数は大幅に減少し、水彩画が増えることになります。カンディンスキー独自のこだわりのないおおらかな画面作りが、この時期は抑制され、緊張しながら様子を窺っているような趣を帯びる。線は震え、色彩は禁欲的となり、ミュンヘン時代の作品にあった開放感は、やや神経質に揺れ動きながら内に籠っていく自閉の感覚に取って代わられる。多数のモチーフが折り重なりながら畳み掛けるという点では以前と同じなのだが、ミュンヘン時代には、無尽蔵なエネルギーのストレートな発露と感じられたこの性格が、モスクワにあってはむしろ内なる衝動ののざわめきの抑えがたく不安な増殖を感じさせる。『コンポジションⅦ』が、崩壊の予感が影を差していたというものの、未だ帝国主義的ヨーロッパの体制がその豊かさを支えていた19世紀以来の精神風土に根差し、その世界の終焉の時に最後の炎の輝きのように生まれたのと対照的に、社会の瓦解を現実に目のあたりにし、行くべき道もいまだに定まらない混沌の中で描かれたロシア時代の作品では、沈潜する内向性とその切迫感に強いリアリティがあり、そこに見られる緊張と不安、そして慎ましげな希望への模索がある。
『暗鬱』(左図)という作品です。この後、カンディンスキーは、よく似た傾向の作品を続けて制作しています。画面のサイズも『コンポジション』ほどの大作でなく、縦横1m前後のサイズになり、大きさで迫ることもなく、何よりも背景のグレーの色調が強く画面を支配して、『コンポジョン』にあったような様々な色彩が画面から跳び出さんばかりの緊張関係を示すということはありません。逆に、そういう活力というのがないまま、グレー 今回最後は『灰色の楕円』(右下図)という作品です。『暗鬱』以上に暗くて閉塞感があるのではないでしょうか。「灰色の縁取り」と作者自身が呼ぶ不定形の枠に閉じ込められているかのようです。しかも、色調はグレーに統一され赤や青も鮮やかさを失いグレーの混ざった鈍い色になってしまっています。鋭角的な形が重なり合い畳み掛けるような構成は、『コンポジション』には見られなかったもので、閉じられた空間で広がることができないと、ひしめき合うように折り重なるしかありません。しかも、重なりが立体的な深みに追求されることはなく、あくまで平面的に描かれているため、なおさら閉塞感が強まります。しかも、線は力強さがなく細身で、どことなく震えているように見えます。
それよりも、WHATということを否定して、HOWに特化したのが抽象画としたら、HOWという如何に描くかということは、実は、それ自体で独立していることではなくて、WHATという何を描くかということと不即不離にあるのではないでしょうか。描く対象があって、それをどのように描くかということがセットであるということです。このうちのWHATを取り払ってしまったことで、HOWの可能性もじつは閉ざされてしまったとも言えなくはないのでしょうか。というのも、カンディンスキー以外の抽象画家たち、例えばマレーヴィチはつきつめていって黒一色の作品というような絵画であることを自己否定してしまうようなものに行き着いてしまったし、モンドリアンはコンポジションの手法、つまりHOWをつきつめていきましたが、スタイル化してしまって、そのスタイルの目先を変えるという、悪く言えば手法に淫するようなものに至ってしまうわけです。抽象絵画というのは、始めた時点では画家にとって開放だったのかもしれませんが、伸び代というのか可能性を結果的に閉ざすような側面もあったのではないか。そこでの、WHATを最初に否定してしまったカンディンスキー自身も、画面のアイディアが際限もなく湧いてくるというわけでもないでしょうから、模索が始まるのは避けられないことだった。それがたまたま、モスクワという異なった環境に移った時期と重なったということではないでしょうか。これは、私の個人的な実感です。
Ⅵ.モスクワ1918~1921年─絵画と社会 カンディンスキーは10月革命後のモスクワで、次第に公的な仕事に創作時間は少なくなっていたと。しかも、ミュンヘンのような表現主義というような人間個人の内面性を重視した象徴主義的な文化があまりなかったということで、そういう文化伝統を糧にしていたカンディンスキーの芸術は主観主義、観念論といった批判を受けたらしいです。社会主義リアリズムなどという紋切型を簡単にイメージするつもりはありませんが、前衛芸術でもマレーヴィチのようなパターン化を極限まで突き詰めていったようなものと比べて見ると、カンディンスキーの作品は外形性という方向性はあまりなかったのが、受けなかったのかもしれない、と思います。 そして、今までは触れませんでしたが、カンディンスキーが抽象絵画というのを始めて、それが今日では広く人口に膾炙して、彼が創作を続けることができたというのは、彼の作品を受け入れ援助する多数の人々がいたからです。カンディンスキーも人間ですから、食べて生活していかなければならない。彼は生活の糧を作品を販売することで得ていたわけですから、彼の作品を購入する人々がいた、つまりは彼の作品のマーケットがあった。当然、彼はそのマーケットに受け入れられなければならないわけで、芸術関係の人はこういう言葉は嫌うでしょうが意識的にか無意識のうちにかマーケティングをしていたと思います。そして、そこで彼はどういう人たちをターゲットとしてマーケティングをしていたか、つまりは、どのような層を対象として、作品が受け入れられることを考えていたか、ということです。まず、もう彼の時代には産業革命が進行し大衆というものが形成されつつあった。そこに大衆社会の消費文化が形成されつつあった。では、カンディンスキーは、そこを成長性の高い市場だからと、そこに売り込んでいったかというと、彼の作品はそういうところには受け入れられにくいものだったと思います。高尚とか難解とか言われて、敬遠されたということは想像かつきます。多分、彼の作品はハイカルチャーとして、大衆から差別化された芸術という枠組みの中でも、前衛的とか芸術意識の高いという人々、つまりはスノッブというような人々が主な対象だったのではないかと思います。従来の芸術の主要なパトロンであった王侯貴族や教会は、パトロンとしては突出してものではなくなり、しかも、カンディンスキーの作品のような作品は政治的なアピールに資するところが少ないのは明白です。そうすると、裕福なブルジョワで、芸術文化の最先端にいるというポーズをとりたい人々が、前衛的な彼の作品を所有していることで、エリート意識をくすぐられるというのが、カンディンスキーの作品の売り込まれ方として、商売上は適していたのではないか。富を手にしたプルジョワが文化とか教養とか精神とか、一見高尚っぽいものを手にしたがる、それで更なる箔付けをするときにハイエンドの芸術として前衛絵画はうってつけだった。本人は意識していなかったかどうか、分かりませんが、カンディンスキーの絵画は、それにうまく媚びるところがあったからこそ、されは作品自体もさることながら抽象画という最先端の芸術のコンセプトだったりするわけです。 そういうものを、社会革命で労働者の政権というタテマエとなった革命政府で、評価して受け入れることができるか、ということは火を見るより明らか、というのは単純化した議論ですが。西欧帰りのカンディンスキーは、そういう目でみられていなかったということは、あり得ないと思います。たとえば、音楽の世界で、パリを中心に前衛的な作品を多数作曲したプロコフィエフはソ連に帰国後、自己批判した上で、作風を大きく変えてしまいました。 そういう状況を考えると、カンディンスキー本人は、大きな屈折を抱えることになったのではないか。そのような状況で、ミュンヘン時代の「コンポジション」のような勝手気ままな制作は出来なくなって、作品にも影響が出て来るのではないか、と外部の人間は考えたくなります。どうしても、そういう目で見てしまうのです。たとえば、前回に見た『灰色の楕円』のような作品の暗さをみると、そういうことを考えてしまいます。
それを、上述のものがたりに当て嵌めてみると、観念的な作風から脱皮して、より広く人々に訴える、完成度の高い作品となっていった、とかいえると思います。
というわけで、カンディンスキーの作品を見てきました。最初にも書きましたように、カンディンスキーの作品は、抽象画といわれるジャンルで他の画家と比べてこうだ、という差別化された個性が見分けられない、ということについて、今回の展示を通して見て、そういう個性が見つけられたかというと、見つけられませんでした。何かの枠に当て嵌めようとすると、その枠からすり抜けてしまうというのか。ただ、かりに、私が絵筆かクレパスを持たされて、抽象画にチャレンジしてみようと促されて、とにかく何かキャンバスなり紙の上に描いたものは、結果的にカンディンスキーの作品をなぞったようなものが出来上がる可能性が高いのではないかと思います。絶対にモンドリアンのようなものは描かないと思います。そういうものなのかもしれません。逆に考えると、そういうところにとどまって、ずっと勝負し続けたところにカンディンスキーという画家の凄いところがあるのかもしれない、と思いました。一見した差別化の個性が見分けにくいところで、あえて戦い、スタンダードとしてのスタンスを維持し続けた。多分それがなければ、他の、後進の画家がぞくぞくと続くことができなかったと思います。 カンディンスキーが抽象画に至るプロセスを展示したのが1997年にセゾン美術館であった「カンディンスキー&ミュンター1901-1917」展でした。 |