ジャクスン・ポロック展 |
2012年4月東京近代美術館にて、生誕100年ジャクスン・ポロック展 抽象表現主義というようなモノモノしいのとか、あまり関係ないのか、ジャクスン・ポロックというのはビッグ・ネームの権威になっているのか、老若男女で込み合っていました。 ジャクスン・ポロックの代表的な作品は、抽象表現主義と呼ばれる、いわゆる抽象画です。なにが何だか分らない、難解だと一般的には言われているようです。 まず、このような抽象画(といっても、ポロックの抽象とカンディンスキーの抽象では意味合いが違うのでしょうけれど、ここでは便宜上一括化します)に対して「分らない」という言い方がなされます。このようにことに対して、評論家の先生や手引書などでは、”あまり考えすぎずに、無心に感じてみましょう”というようなご指導が為されることが多いです。これはズルいと思います。 この場合、日本の美術鑑賞というのは明治維新以来、西洋に追いつけ追い越せで西洋文化を積極的に輸入した中のひとつだ。当時の日本人は先進地域の西洋文化として西洋美術を勉強した。それが後世に後をひいて、日本人は美術作品を勉強しようとする。そうではなくて、美は勉強するものではなく感じるものだ。だから、美術作品に対しては単に観て美しさを感じればいいというものです。勉強しようとか、理屈で理解するのではなくて感性で美を感じるとかいうことでしょう。でも、ここには言っている人の優越感が見え隠れしているように思います。つまり、こういうことを言っている自分は、西洋美術を理解してるので、もはや勉強する必要がない、西洋人と同じように美術に対する感性がある、ということを暗に言っているように思えます。そして、一般の人には、エリートである自分のように感性で美術に接することができるように真似しなさい、と言っているように聞こえてなりません。 ここでいう「分らない」というのは、偉い先生方が言うような「美術を頭で理解しようとする」というようなことではなくて、(それが全然ないと言えませんが)、極端にいえば「こんなの絵ではない」という否定の意味があるように思います。だから、さきの言説に対して言えば、もともと感性で接する「美術」であると確信できないものに対して、このような言説は「美術」に対して感性で接しなさいと言っているわけで、ピント外れも甚だしい、ということです。さて、「分らない」に戻りますが、かりに美術の先進国である西洋で抽象画がはじめて出て来たときのことを想像してみて下さい。「こんなの美術じゃない」という否定の声が多かったと思います。西洋人は断定的ない言い方をしますが、私等の場合は、そういう時に決めつけることを避けて、謙遜した言い方で逃げることが多いと思います。そういう時に「私には分らない」という言い方はとても便利です。そういう意味で「分からない」には婉曲な否定が入っていると思います。 だから、「分らない」という人には、別に無理してポロックの作品を見てもらわなくてもいいと思います。もともと、絵を見るというのは好き好きの世界でしょうから、好きになれない人に無理強いして、変な理屈をつける(感じればいいとか)ことは無用と思います。 ただし、一言付け加えさせてもらうと、例えば、今、友人として行き来している人がいる場合、最初に出会ったときは「見知らぬ」人つまりは、「分らない」人であったはずで、おそらく、人は、その「分らない」という壁を突破して、その「分らない」人と「分り」合い、その結果友人となったと思います。だから、「分らない」というのは出会いの始まりなのです。その点で、未知の美術に出会った時に、「こんなの絵じゃない」といって断定的に否定するのではなくて、「分らない」と言ったのは、もしかしたら「分る」ためのスタートラインに立った宣言という意味合いもあるのではないかと思います。そういう意味で、「分からない」という態度を否定的にいうことには、私は与しません。 前振りの脱線が長くなりました。では、ポロックの作品について、簡単に考えを明らかにして、それぞれの作品を見ていきたいと思います。 最初のところで、抽象画と一括りにされてしまうけれど、ポロックとカンディンスキーとは違うということを書きました。その一見して分る違いというのは、両方とも何を描いているか分らないことは共通しています。しかし、カンディンスキーの作品(右図)では何だか分らないけれど、何かが描かれているのです。これに対して、ポロックの作品(左上図)を見る限り何かを描いたものとは見えないのです。何か禅問答みたいです。実際に、カンディンスキーの作品を見てみると、何であると特定することはできないけれど、へんてこりんな形が描かれているのは分かります。これは画家がとにかく描いたものだということは分かります。それを見る人は、何を描いたのか?とかこれは何だ?というように問いかける特定の対象がとにかくあるのです。あるいは見る人が画面の中から特定することができるのです。これに対して、ポロックの作品を見てみると、カンディンスキーの作品にかろうじてあったような地と図の区分すらできそうにありません。画面から一部を特定して切り取るということができない。カンディンスキーで言えば、これは何?と問いかけることのできた部分というものを特定することができないのです。言うならば、カンディンスキーの場合は目的としての抽象であるのに対して、ポロックの場合は結果としての抽象と言ってもいいかもしれません。ですから、ポロックの作品に対し、これは何と、微分的に分析していくことはできないのです。だから、何が、というよりは、どのように、という問いかけの方が容易なように思えるのです。 その辺りについては、これから個々の作品を通じて見ていきたいと思います。下の個々の作品についてのINDEXは展覧会の章立て構成に従ったものです。 ポロックは最初から抽象的な絵画を描いていたわけではなく、そこに至るまで様々な試行錯誤を経ているというので、初期の作品からも展示されていて、どのようにポロックが有名なドリッピングまで辿り着いたかを追えるように展示されていました。実際に展示されている作品を見て、正直に思うものは下手糞で他人に見てもらえるような代物ではないというものでした。あの、ポロックの初期作品だから、とりあえず眺めますが、単独に作品だけを見せられても、見向きもしないと思います。
これらの例は私が恣意的にピックアップしているかもしれません。その点は、注意して読んでいただきたいのですが、ポロックという画家は、展覧会全体について書いたところでも少し触れましたが、何かを描くという“WHAT”の要素がかなり希薄なのではないか、思えるのです。題材に対しての、こだわりのようなものは感じられません。とりあえず、無節操に何でも描いていて、これを描きたいというのはないのではないか。それよりも、構成のような画面をどのように形作ってくかということ、つまりいかに描くかという“HOW”の要素の比重がかなり大きい性格の画家だったように思えます。いわゆる近代絵画では、描くべき何かが、つまり“WHAT”の要素が目的としてあって、それをうまく表現するために方法論、つまり“HOW”の要素が手段として必要になってくる、という作られ方をしていたと思います。こういうパターンとして、典型的にあてはまるのは、ヴァン・ゴッホの作品がそうでしょう。シャガールもセザンヌも、また抽象的な作品を作り出したカンディンスキーやクレーもそうでしょう。しかし、ポロックの作品を見ていると、目的と方法の主従関係が逆転しているように見えます。極端なことをいうと、悲しんでいることを分かってもらうために泣く、というのが近代絵画なら、ポロックの場合は泣くというのがまずあって、だとしたら悲しいのかもしれない、となっているのです。 それが、後年のポロックの抽象的な絵画作品に通じているかも知れない、とこじつけかもしれませんが、思いました。
初期で展示されていた「無題 蛇の仮面のある作品」の翌年、ポロックはポーリングという手法を初めて用います。しかし、後年とは違い、限定的で慎重な姿勢でした。 「ポーリングのある構成U」という作品を見ると、初期の具象の作品から一気に飛躍して抽象的な作品世界に入ったことが分かります。ポロックというのは、こうだという先入観からでしょうか、私には初期の具象的な作品よりも、こっちの方が遥かに親しみ易い。実際に、展示の順路で初期の作品を見てきて、この作品に辿り着いた時、”吹っ切れた”ような爽やかさを感じたものでした。私には、題材という何かを描くという“WHAT”の要素の軛から解放されて、ポロックが伸び伸びと描くという行為を楽しんでいるように見えます。というのも、色彩の使い方が、初期の色を混ぜすぎて鈍く重苦しい色調であったり、原色を無理して使って塗り絵のような画面になっていたのと比べて、この作品では、全体としてはポロックの色調はグレーかに黒にかけての色が基調になるのでしょうけれど、そこに明るい青が上手く入り込むようになって、重苦しさを感じさせないトーンになっているのです。何物と特定できない形状で色分けされたある画面が、それだけである程度のまとまりを見せているところに、試行的なポーリングの手法で、画面上を絵の具が流れて、筆で描くことができない独特な線がアクセントとして画面を引き締めている。黒、赤、白の流れが独立しているように所々で溜めをつくりつつ不規則な屈折を繰り返す。下地に描かれた画面では、筆の塗り後の線が残り、その線との対照を起こしている。展覧会で説明では試行的となっていますが、後年の最盛期の作品に比べて、この作品は一つ一つの画面を流れる線が単純で独立しているので、それぞれの流れを単独のものとして見ることができます。そのせいか、却ってひとつひとつの線が力強く、多彩さが際立って見える結果となっているのです。 これ以外にも「月の器」という作品でも、ポーリングの使用は限られていますが、全体的な黒地に絵の具が流れていくさまは、ポロックという画家の黒色に対するセンスの良さを感じさせます。この後、晩年に向けて、ポロックの作品は余計な要素を削ぎ落としていきますが、色彩の点でも、この時点のセンスのいい色彩もやがて放棄されていきますが、黒だけは残され、最後には黒のグラデーションという水墨画とか前衛書道に近いものになっていきます。 この展覧会ではポロックの作品を年代順に展示してしますが、早計かもしれませんが、それを追いかけていくと、ポロックの作品というのは、徐々に余計な要素を削ぎ落としていったように思えるのです。それは、ポロックの作品の本質が徐々に明らかになってくるように見えるのです。そして、ここで削ぎ落とされたのは何かを描くという“WHAT”の要素です。一般的に絵画というのは、肖像画とか風景画というように何かを描いているというものでしょう。初期の作品では、ポロックも家族や労働、あるいはシャーマニズムのシンボルなどを題材に描いています。その場合というのは、現実の世界だったり、想像の世界にしても、絵画の外側にまずお手本があって、それを写すというのが、絵画というものだということになると思います。だから、お手本があるということがメインで、絵画というのはそれを写す、あるいは伝えるツールということになるわけです。しかし、絵画とはそれだけではないでしょう。たとえばね幼児に絵を描かせると、何かを写すことなど、そっちのけで線を引くこと自体を遊んで楽しんでいる。その結果、絵ができてしまったというのもある。ポロックの作品というのは、それに近いのではないか、というのが、私がポロックの作品を見ていて思うことです。だから、カンディンスキーが具象画から出発して内面を表していくプロセスで徐々にものの外形を放棄していったのは、外形で表せない題材を写そうとしたからと思わせるところがあります。その理由として言えるのは、カンディンスキーは描いているのが明白だからです。ところが、ポロックは絵の具を流して、結果をそれに委ねてしまっている。そういう意味で、描かれた結果よりも、描いているプロセスの方がポロックには大切なのではないか、と思うのです。それは、陳腐な喩えかもしれませんが、音楽の抽象性を思い起こさせます。音楽で悲しさを表すことはできませんが、聞く人を悲しませることはできます。つまり、悲しさという題材をあらわすことはできない。しかし、いかに悲しませるかということはできるのです。音楽には内容というものが、もともとありません。あるのは、それを聞いた人をある状態にさせるような効果なのです。しかし、音楽を聴いている人は、だからといって、内容がないから無意味とは思わないでしょう。音楽から与えられる効果によって、何がしかの気分になって、聞く人なりに意味づけするわけです。そして、音楽において聴く人に効果を与えるのは、音楽の構成している音を対比的に扱ったり、複数の音をひとまとめのユニットにしたりする、いうなれば、音の構成によって担われる部分が大きいと思います。例えば、3つ音によるユニットを反復させることにより、乗り(リズム)を生み出すとか。ポロックの作品をそういう目でみてみると、画面上を流れる絵の具の軌跡を追いかけてみると、似たような感じを得ることができます。その流れは何本も絡み合い、交差し、所々で節目をつくっている。その線を構成要素とした関係の動きというのは、何が描かれているかというようなこととは全く関係がありません。却って、そういうものが画面にあると、お互いに邪魔に感じられるのではないかと思います。想像してみて下さい。家族を描いた上に絵の具を流せば、描かれた家族が見えにくくなってしまいます。 そういう意味で、私には何かを描くことから解放された、このことを以って、ポロックの作品の始まり と思いました。少し離れて、遠くから眺めてみると絵の具を流してできた様々な線が勝かみ合って収拾がつかなくなって、さらにそれが折り重なってというのが遠景で塊のようになって、まるで巨大な繭玉のようです。それは、例えば赤ん坊にクレヨンと画用紙を与えて、クレヨンを画用紙にこすると線を書けることを教えてあげると、よれを喜んで、絵を描くという以前にクレヨンで軌跡を線として残すこと自体を楽しみ、手当たり次第に線を引いているうちに、いつのまにか画用紙が線だらけになって、一面がクレヨンで塗られたようになってしまった、というようなものに似ています。それが、大画面でこちらに迫るようになってくると、異様な感じがしてくる。そういう幼児の遊戯性に通じるようなところと異様なところが混在している、というのがポロックのこの時期の作品の大きな魅力ではないかと思います。実際、抽象絵画としてメジャーな画家たちの作品、例えば、カンディンスキーやモンドリアン、マレーヴィチ、ロスコといった人々の緊張感あふれるような作品には見られないものです。 そこで、私には、この作品がイマイチ残念だったのは、あまりにも絡み重ねすぎて、個々の要素を打ち消し合うようになっている点です。当初、この技法を限定的に用いていた時には、個々の絵の具の軌跡を追いかけることができて、そのユニークな動きと複数の流れの絡まりが一様でなく、そのバリエーションを見ているだけで飽きないものでした。そして、限定的に扱うことで地の部分との関係や画面全体の中で、どこに絵の具を流すかとか、色合いなどでポロックという画家の意外なセンスの良さに驚いたりといった魅力が後退してしまうという結果にもなりました。 それはまた、オールオーバーというポーリングを全面展開したポロック全盛時の作品に内在する共通の課題ではなかったか、と私には思えます。というのも、絵の具を流したり、飛ばしたりする作業を画面に一様に施したという作品について、ポロックがやった場合と、他の人が真似をしてやった場合とで、明確な個性の違いがあるのでしょうか。それ以上に作品それぞれに一見でわかる違いがあるのでしょうか。このような作品が1つか2つくらいならば希少価値ということで個性が際立つかもしれませんが、沢山作成されたら、規格品の大量生産と同じようなものになってしまう可能性が大きいと思います。実際、ここで展示されている作品が、例えば「インディアンレッドの地の壁面」と「ナンバー11」が同じ大きさだったら、私は作品の違いを分別できないかもしれません。これが、当初のような限定的な使用に留まっていれば、個々の作品の違いや、ポロックならではのセンスを個性として、他の作品に対して差別化が容易にできたはずです。私が子供の頃、画用紙に水で溶いた水彩絵の具を垂らして、紙の上の絵の具の滴に対して横から息を吹きつけて絵の具を流す「吹き絵」という遊びをやったことがあります。ポロックのポーリングの技法というのは、それと同じようなものでしょう。「吹き絵」は遊びの世界で、それを作品として残すようなものでは、本来ありません。そのようなものに、従来とは全く違った意味づけをして、新たな価値を見出したのはポロックの凄い点ではあると思います。それは、しかし、その時点で終わってしまって、その後の展開を考えるというのは、大変困難だったのでしょう。 しかし、だからと言って、展開したオールオーバーの技法から、後になって限定的な使用に戻すとなると、ホロックは後退したと噂されるのが落ちでしょう。私には、その辺り事情が、ポロックをして新たな展開に踏み切らせた原因が潜んでいるように思えるのです。実際のところ、「インディアンレッドの地の壁面」の迫力には圧倒されるのですが、飽きやすくなってしまっています。 ポロックは自身の手で、オーバーオールの画面の上に敢えて幅広の帯を描いたり、画面を切り抜いておおきな空白を作ったりと工夫していますが、所詮は小手先だけのもので、根本的な解決には至っていません 。展覧会の、この時期の展示タイトルが「苦悩の中で」だったり、パンフなどでは、彼の死を志半ばでの悲劇的な死というような書き方をしていますが。作品を見ている限りでは、そういったものが反映しているようには思えません。ここで、書いているようにポロックという画家は“何を描く”というよりは“いかに描く”という性格の画家だと思っているので、個人的な事情を描くとか、作品に境遇が反映しているとは感じられないのです。むしろ、技法というような表層のこのように表わされているというレベルで勝負しているという画家ではないかと思っています。 そういう視点で、作品の表層を見ていくと、ポロックの作品というのは年を追うにつれて、要素を削ぎ落としてソリッドになっていったという流れがあると思います。展覧会での説明では、抽象から具象に戻ったということが説明されていました。それよりも、私には、色彩という要素を切り落としていった軌跡して見えるのです。そして、もともと黒の使い方でセンスを感じさせていたポロックが黒と地の白という二色だけを使って、これまで一貫してポロックの作品の中に大きく占めていた構成という要素の集中した作品を産み出して行ったと考えられないでしょうか。その過程で、以前のポロックの作品にはなかった余白という空虚が新たに現われた。それが、私には、ポロックの新たな展開に見えました。そして、表層の見えだけで比べれば、日本の前衛書道のようにも見えてくるのでした。多分、具象に戻ったというコメントが出てくるのは、筆を使って描いているように見えるからではないでしょうか。筆で描いたものが何物かを描いているように見える。それで、具象に戻る、と。しかし、この場合、単に絵の具を画面に乗せるということだけで、ポーリングで流すことと、筆でキャンパスに絵の具を着けるのとの間で、とくに差がないように思います。ポロックにとっては、ポーリングでは出せない線のかすれや筆先の線を出したいから筆を使ったのではないかと思えるのです。それにより、絵の具による線にうねりの様なものが現れ、よりダイナミックな躍動感のようなものが生まれています。そのような線と対比するような余白があるので、画面の各処にアクセントの強弱が生じ、オールオーバーの作品では生かせなかった、ポロックの構成のセンスが再び感じられるものとなっているように思えます。その反面、画面を埋め尽くすような迫力は感じられないため、見る人によっては一種の衰えというのか、後退しているような感想を抱かれる可能性も考えられます。私には、この時期の作品は要素を整理して画面上でメリハリをつけた結果というように見えます。整理するためには、考えなければならず、即興的に(と言っても、考えていないわけにはいかない)一気に仕上げるオールオーバーなポーリングとは違って、作るのに時間がかかれば、自然と作品数も減ってくるものです。 最後に、ポロックの回顧展ということで、この展覧会が一つのストーリーのもとで構成され、展示されたものですが、ポロックに対する見方は、これだけなのか、疑問に思うところがあります。それは、今回、抽象表現主義の他の作家たちとの関係が全く触れられていませんでした。数年前に、近代美術館で抽象表現主義の展覧会があった時に、ロスコやデ・クーニングの作品と並べて展示されていたポロックの作品と、今回の展示とでは印象が大分違っていたので、驚きました。その時のポロックの作品からは静謐さのようなものを感じて、その作品の前で、ぼーっとしていつまでも佇んでいたいと思わせるようなところがありましたが、今回はそういう感じは抱けませんでした。 どちらかというと、表層レベルで楽しむというもので、感情移入とか共感するというような作品ではなくて、画面上の線や形を楽しむという作品として見ていました。だから、もっと画面に即して、画面の黄色い線について具体的に記述するというようなのが、ポロックの作品に対する正しい喋り方であるように思い ます。 |