プラド美術館展─スペイン宮廷 美への情熱
 

2018年の国立西洋美術館におけるプラド美術館展ベラスケス絵画の栄光の感想はこちら

2015年10月22日(木)三菱一号館美術館

都心の大手町周辺に終日用事があって、うろうろ歩き回った。そのやりくりのなかで、ポッカリとまとまった時間が空いてしまったが、会社に戻って出直すには中途半端な時間で、近くにあったので、時間潰しも兼ねて寄って見ることにした。平日の昼間で、しかも展覧会の会期としては始まったばかりであるのに、かなり拝観者が多かった。上野の美術館で印象派やルネサンスの名画を展示する展覧会のような雰囲気といえばよいだろうか。拝観者の年齢層は高めなので、うるさいというのではなかったが、落ち着いてゆっくりと鑑賞できる環境ではなかった。今後は、もっと混雑するかもしれない。

この展覧会は、スペインのプラド美術館の膨大なコレクションの一部をピックアップして持ってきたものなので、全体としてどうなのか、というよりも、展示された中で気になる作品を取り上げて、個々に感想を述べるのが適当と思います。ただし、作品の一部をどのようにしてピックアップしてきたのかは、何となく気になるので、長くはなりますが主催者の一方である、プラド美術館の関係者の挨拶を引用してみます。

“プラド美術館は間違いなく、ヨーロッパ美術史における大河のひとつです。このたび私どもは、広い河床を流れるあふれんばかりの所蔵品群から最も小さな作品に着目し、ゴールドハンターのごとくその偉大さ、独自性をすくい取りました。そうして集められたのは、岸辺に控えめな姿を見せる作品ばかりですから、私たちはじっくりと、注意深く鑑賞する必要があります。「プラド美術館展─スペイン宮廷 美への情熱」はプラド美術館の収蔵品の高い質と歴史的アイデンティティの要約といえます。小さなサイズという共通項を持った100点以上の絵画を集めた本展覧会は、15世紀から19世紀の終わりまでの西洋美術に向け、比類ないツアーを提案いたします。

本展覧会で私たちは、実際にプラド美術館に行ったかのように、ルネサンス期の芸術家によってよみがえった古代の古典様式と出会い、またバロックにおける自然と超自然的なものを、恍惚に我を忘れるほど大胆に解釈する傾向を見ることができます。近代芸術のあらゆる様式は、芸術家の主観と内面性が手を取り合う途中でついに混ざり合い、やがて現代の入り口に到達して、我々の時代の断片的なものの捉え方のなかに溶けていくのです。これはまた、ボス、ティツィアーノ、エル・グレコ、ルーベンス、ベラスケス、ゴヤ、フォルトゥーニといったプラド美術館の偉大なる芸術家たちの匠の技に関する物語でもあります。ここでは、手に取って見るために作られたかのような小品ならではの独特の視点から、これら巨匠の技を鑑賞することになります。

このなかに来館者は、作品の依頼者が私的に楽しむため細心の仕上げが施されたものや、大きな作品の縮小版、ラフな下絵スケッチ(ボツェット)や、より綿密に描かれた小型の下絵雛型(モッデリーノ)、自然写生といった、重要な芸術家たちの天分と創作過程を余すことなく表わす作品を見出すことでしょう。多種多様な技術と素材(木板、カンバス、石板、銅板)を用い、あらゆるジャンルの用に供され、美術史上可能な限りのテーマで描かれた作品の数々。まずは宗教的イメージと肖像に始まり、時代が下ると自然と人間が織りなすドラマ、その奇想と創意が表現されています。本展覧会は、プラド美術館で2013年に開催されたものです。その成功によりバルセロナでも展示され、そしてこのたび、東京の三菱一号館美術館で特別バージョンにて紹介する運びとなりました。今回は新しい作品やテーマを加え、特に女性の世界とその固有の美しさの側面を強調し、より豊かな内容となっています。プラド美術館を、最小かつまばゆい小品群で再構成して展示するという本展覧会は、感受性の鋭い日本の観客への挑戦として新たに提起されました。日本人は古来、小さなサイズで細部まで表現に凝った作品のなかに囚われた美を評価し、理解するという習慣を持っているからです。ここに選ばれた作品を鑑賞するということは、自分と作品との関係を明らかにし、また作品を判断する際に行使する自由と自分との関係をも明らかにすることであります。そのようにしてはじめて、非常に複雑な行為の褒美を得ることになります。すなわち、知識と美をわがものとするのです。”

つまり、端的に言えば、サイズの小さい作品を、著名な画家の作品の中から、万遍なく選んだ、というものです。

ということで、たぶん膨大なコレクションなのであろうプラド美術館の所蔵作品の中から、ある種の視点で作品をピックアップしたというのであれば、そこに趣向とか世界観があるはずですが、今回は、そういうのではないらしい単なる見本市のようなものらしいので、私の見た中で、いつくかの作品を取り出して、感想を加えていきたいと思います。たぶん、とりとめのないものになるだろうことを、ご了承願います。展示は年代順だったようなので、その展示順にしたがって見ていきます。

 

T.中世後期と初期ルネサンス

ハンス・メムリンクの「聖母子と二人の天使」(右上図)という作品です。この年代の展示物のメダマは、ヒエロニムス・ボスなのでしょうが、展示されていたのは知られた作品の縮小コピーのようなもので、ボスの迫力のひとつの源泉である大画面で迫ってくることと執拗に細部にこだわるといった一種の病的なところがなくて、拍子抜けしたように感じられて、むしろボスのイメージがダウンしてしまう印象でした。その手前に小さくひっそりとありました。調べてみると、メムリンクという画家は15世紀のフランドルの画家だそうです。ルネサンスというよりは中世の礼拝画のような形式的な型に嵌まった構図ですが、とりあえず中心の聖母子や天使は措いといても、背景の中に描かれている花々や木の茂みの細密さに引き寄せられました。花の場合は画面左の天使が持っている百合のようにアトリビュートとして何らかのシンボルとしての意味合いがあるので、ある程度のスポットライトが当てられるのでしょうが、例えば聖母子の足元の草の葉の一葉の描き込みはどこまでなのでしょうか。また、背景に点在している流木の葉の一葉は奥のほうにいたるまでです。その細かさが、中心の聖母子がサラリとした感じで、決して生気がないとか、明らかに手を抜いているというのではないのでしょうが、静かで濃くない描かれ方に対して、明らかに濃いのです。しかし、不思議なことに、それが画面内の聖母子を蔑ろにして、前面にしゃしゃり出ることにはなっていない。それが収まるところに収まって、聖母子の静けさや穏やかさを巧みに引き立てているのです。そのバランス感覚が絶妙なのです。それは、多分は統一感のある色遣いで花や葉を細かく描きこんでも色調を抑えて目立たせないようにしているのと、背景でも石造の建物は大雑把に、形態もリアルにしていないというような描き込みの濃淡を使い分けていることなどが原因していると思います。それらをうまく構成させているのは、この画家のセンスが卓越しているということでしょう。

ヘラルト・ダーフィットの「聖母子と天使たち」(左図)を見てみましょう。画家のヘラルト・ダーフィットはメムリンクと同じフランドルの画家で、オランダの画家の組合で、そのメムリンクの死後、彼を引き継いだ人だそうです。メムリンクに比べると聖母の顔は、肉付きがよくて顔色などに甘美さがあって、少し肉感的な感じ、あるいは母親としての成熟した感じが強くなっています。それだけ、人物の描き方に写実的な要素が強くなってきています。私の好みからすれば、その写実的なところが、作品や主題とバランスが取れていないように感じられるところがあります。しかし、その一方で、ダーフィットもメムリンクに負けずに細部の描き込みが好きなようです。とくに、聖母に王冠を被せようとしている二人の天使の描き込みが細かい。天使の羽の一枚の描き込みはメムリンクの描く天子の羽と比べて見てください。ダーフィットの天使は羽根の付け根の部分が筋肉が盛り上がって肉厚になっていて、羽根を羽ばたかせて実際に飛べそうな感じがします。そのように、細密さにリアルさが混入してきて、天使や聖母子の表情や雰囲気と少し齟齬感が生まれているように見えます。メムリンクの作品の約30年後に描かれた作品のようですが、メムリンクの作品にあるような絶妙のバランスによる安定した穏やかで静かな雰囲気から、なんとなく裂け目が生じているような、様式的なパターンに収まりきれず、何かがはみ出してきているような感じ、それが微かにではありますが画面全体に生々しさというのか動きを生んでいるように見えます。同じフランドルで、わずかな時間の隔たりが、大きな変化を生んでいたことが、この両作品を見ていると、実感できるような気がします。ダーフィットの作品では、背景が描かれていませんが、ここにリアルに歩み寄ったような背景が描かれたとしたら、バランスを保てなくなってしまうおそれが大きく、画家は描けなかったのかもしれないなどと想像させるところがあります。

 

U.マニエリスムの世紀:イタリアとスペイン

アンドレア・デル・サルトの「洗礼者聖ヨハネと子羊」(右図)という作品です。作者である、アンドレア・デル・サルトは、東京都美術館でのウフィツィ美術館展ではじめて作品を見た人で、メダマのボッティチェリよりもずっと印象に残っています。この作品では、幼子の聖ヨハネの顔の表情がなんとも言えません。解説では“ヘロデ大王の没後、エジプトから戻ったイエスら家族はナザレに住みます。その後の生活はあまり知られていませんが、青年になったイエスは、ヨルダン川で浄めの儀式の洗礼を受けました。洗礼を施したのは、母のいとこのエリザベトと祭司ザカリアの息子ヨハネです。この絵の洗礼者聖ヨハネは幼き姿で、子羊は人類の罪をあがなうために犠牲となるイエスを象徴しています。”と、この絵で取り上げた物語を解説しています。この作品で、聖ヨハネの顔が身体と不釣合いで浮いているように見えますが、多分、その顔の部分をデル・サルト自身が描き、身体は工房のほかの画家に描かせたためでしょう。しかし、その顔が複雑な表情をしているように見えます。細かいところは別にして、洗礼を施すべき子羊に視線を向けずに、眼が真っ直ぐに前を向いていることが強い意志を感じさせ、どこか引き締まった印象を眼の周囲、つまり顔の上半分に認められます。これに対して、顔の下半分は色調もピンク色の強くなり、ふくよかになります。とくに口の表情が眼のキッパリしているのに対して、右端をこころもち吊り上げ、一筋縄でない印象を与えます。そのせいで、この口は微笑みを浮かべている感じはしなくて、何か自嘲的にみえます。それは、物語を深読みすれば、子羊が象徴しているキリストのその後の運命を予兆して、神の子としての運命はあったかもしれないが、単に個人としてみれば苛酷な行く末になるわけで、そのスタートを切らせてしまったことに対して、この幼子は後悔とも、あきらめともとれなくもない表情を口に漂わせている。それが、洗礼という儀式であるにも係わらず、祝祭的な雰囲気はまったくなくて、簡素ではあるものの、厳かさを感じさせるものになっていると思います。

ルイス・デ・モラーレスの「聖母子」 (左図)です。これは、作品の主題がどうこうとかとは別に、画面のスフマートの見事さに眼が行ってしまいます。そのスフマートで鮮やかに浮き上がってくるのは聖母の肌のなめらかさであり、肉体の柔らかな豊かさです。それは、どぎついまでに身体の凹凸で生じる明暗を強調していることや、衣服で覆われているにもかかわらず、聖母の腰と胸が大きく豊かに描かれていることです。それにスフマートをかけることによって、ドギツサを中和するように働かせています。たぶん、この凸凹の強調がマニエリスムということになるのでしょうか。現代の日本で言えば巨乳のグラビアアイドルといったところでしょうか。そのような通俗性をスフマートによる巧みなオブラートをかけることによって、ラファエロのような芸術性があるように見せている。そこには、母性とも官能性ともとることのできる、どっちかというとプリミティブに近いような庶民の“産む”ことへの素直な賛美が表われてきていると思います。

ここで、エル・グレコの作品も数点ありましたが、この人の、とくに宗教画の場合にはスケールで迫ってくる効果を巧みに生かしているところがあり、それが小さなサイズにしてしまうと、奇矯な形態だけが目立ってしまって、大作を想起させるサンプルとしてしか、見られませんでした。

 

V.バロック:初期と最盛期

スペインを中心にバロックの大家たちの作品が並び、私には、この展示のメインでないかと思われます。まずは、ティトレットの「胸をはだける婦人」(右図)という作品。ティントレットはイタリア・バロックの大家でしょうし、この画像で見る限りは、あまり分かりませんが、現物を目の当たりにすると、粗い感じがします。どこか手を抜いているという語弊があるかもしれませんが、丁寧さは微塵も感じられません。たくさんの注文を抱えていて、それに応じるためにサッサと描いてしまったといったノリでしょうか。しかし、大づかみに全体を掴むということと、女性のはだけた胸の肌の白さと乳首のコントラストは、さすがという感じがしました。そこだけでも、この作品は見るべきものがある。

この作品と並べて展示されていたのが、グイド・レーニの「花をもつ若い女」(左図)です。この画家は、先日の西洋美術館でのグエルチーノ展で知りましたが、イタリアのバロックで一世を風靡した人だそうです。ティントレットに比べて丁寧に描かれていて、肌の柔らかさや髪の毛、あるいは衣服の質感の肌触りとか、いかにもバロックという感じの豊穣な女性像なのですが、まとまっていても、突出して見る者に訴えかけてくるものがないのです。ティントレットの女性の横顔は、どこかから取ってきたような、ちょっと類型的な印象をもたれてもおかしくないし、髪の毛などは省略して描かれていますが、その肌と胸の柔らかくみずみずしい感じだけで、二作品が並んでいると、視線はティントレットの方に向いてしまいます。グイド・レーニという画家は、バロックの画家の中では中庸の道をいっていて、表現の突出傾向のバロックの中では、それだけで差別化出来ていたのかもしれません。グイド・レーニの作品は、これ以外にも聖人の殉教図なんかもありましたが、殉教の凄惨に場面をドラマチックに描くという方向ではなく、「花をもつ若い女」のように、人物を丁寧に描くことを主眼に置いているようで、殉教の様はほとんど目立たずに、聖人の姿を描く、人物画のようになっていました。その意味では、殉教の場面とする必然性が、あまり感じられないものでした。それは、コレッジョの作品の縮小レプリカが、殉教の凄惨さを際立たせるものであったのと、対照的でした。

アダム・エルスハイマー工房によるエルスハイマーの作品「ヘカベ家のケレス」(右下図)のレプリカだそうですが、もとの作品を知りません。暗い夜の闇の中に老婆が手に持つ蝋燭の炎が、その周囲を照らし出す。その仄かな光に、蝋燭を囲む人々の姿の一部が映し出されるというのは、後年の=トゥールの作品を思い起こさせるものですが、こちらの方が年代的には古いものです。もっとも、ラ=トゥールの場合には、主に室内の狭い空間で光が反射する複雑さがありますが、こちらは屋外で蝋燭の光が闇に融けていく様と、光に一部が映し出される森の不気味な姿が垣間見えます。バロックには、このほかにもカラバッジォなど光と影をドラマチックに扱った画家がいるので、その一人なのでしょうか。今回、初めて見た画家でした。

ルーベンスの作品が数点あった中で「聖人たちに囲まれた聖家族」(左図)という作品です。もとはアントワープの教会(というとフランダースの犬を思ってしまいますが)の壁面に飾られている大作の縮小レプリカということなのですが、小型の画面に、これほどのたくさんの人物を、それぞれの特徴を表わすように、中央の聖母子を中心に、その周囲の人々は、それぞれ聖人で、誰かを特定できるように聖人の特徴が描き分けられています。凄いのは、そのたくさんの人物が群集という群れではなくて、それぞれが個人として描き分けられて、しかもひとつの画面の中に収まってしまっていることです。聖母子が中心ではありますが、その周囲の人たちは、聖母子の背景に留まってはおらず、それぞれが独自の存在感をもっていることです。かといって、聖母子が画面の中心でいるのです。それは、画面の構成と色遣いが巧みなためであろうと思います。しかしまた、それは計算されて画面が収まっているだけてもなく、画面の人々の生き生きとした躍動感が画面からはみ出すほどに満ち溢れていて、描かれている人物のポーズは一人として静止した状態はなくて、動作の途中の姿になっていて、それだけに、構成が大変であったと思ってしまいます。ルーベンスという人は工房に数多くの画家(職人)を抱え、彼らを指導・監督して多くの注文に応えていたそうです。注文はルーベンスに来るわけですから、その注文に応えるには、工房の画家たちにルーベンスの名で納品できるレベルの仕事をしてもらわなければならない。そこで、ルーベンスが特徴としてつかったのが、画面構成だったのではないか、ということを、このような縮小レプリカを見て想像できました。つまり、設計図がしっかりしていれば、多少雑な技術でも、それなりの完成に至るというわけです。

ファン・デル・アメンの「スモモとサワーチェリーの載った皿」(右図)という作品です。小品の静物画ですが、私にとっては、今回の展覧会での最大の収穫だったと言える作品です。この画家についても、はじめて聞く名前で、その名からネーデルランドの人であろうかというくらいで、年代的にもスペイン・バロックに特有のボデゴン(スルバランの一連の作品は大好きです)のひとつかな、という感じで見ました。スルバランの作品(左下図)は、バロックの光と影のドラマチックな表現で静物画を制作して深い陰影が静謐な祈りを誘う宗教性を帯びるものとなっていますが、この作品でも、スルバランとは違いますが、背景の暗がりから光をあてられて皿に載せられた果物が浮かびあがってくるように描かれています。スルバランの作品では、白い陶器やオレンジなどといった暗闇とは反対の白っぽいものが光を受けて暗闇と対照的に映える、その陰影の対照が強く迫ってくるのですが、この作品では、皿は光に反射することはなく、スモモはグレーの色調で、わずかにサワーチェリーが赤い、とはいっても輝くような明るい赤ではなくて、透明さはあっても深く沈むような赤です。つまり、全体が暗く渋い色調で、たとえ、そこに光が当たってもスルバランのような対照のドラマが生まれるのではなく、グラデーションが浮かび上がるのです。そこには、深く沈みこむような世界が見えてくるようです。なんだか少し不気味さを含んだ、光が射さない深海の世界にライトを当てて覗き込んだような静けさが漂っています。例えば、スルバランのボデゴンの静けさは、黄色系統のレモンやオレンジが白く映ってしまう程の乾燥した強い陽射しの清澄な世界であり、そこでの白い陶器は、混じり気のない純白のように陽射しを反射して凛として、崇高に輝いているようです。ですから、スルバランの作品では、光と影のドラマといっても、影は光を引き立たせるためにあると言えます。これに対して、ファン・デル・アメンの作品は、むしろ影がメインといってもいいのかもしれません。暗い中で、スモモとサワーチェリーが光に怪しく浮かび上がるのです。これは、並べて展示されていた、ヤン・ブリューゲルの「花卉」(右下図)にも通じるように思うのですが、暗闇に美しく花が浮かび上がるのが、逆に背景の暗闇を引き立てているような構成になっているように見えるということなのです。それは、深読みすれば、瑞々しい果物も、美しい花卉も一時的なはかないものにすぎないと、教訓的な受け取り方も可能となるものです。それ以上に、私には、暗闇をメインとして、その暗闇に観る者を惹き込んで行くようなものを感じます。だからこそ、ファン・デル・アメンの作品にあるサワーチェリーの透き通るような深い赤のあやしさが尋常でないものとして、私には見えてくるのです。

ムリーリョの「ロザリオの聖母」(左図)という作品です。スペイン・バロックの人気画家でしょうから、比較的大型の作品が会場のメインの展示スペース正面のドーンと飾られていました。他の作品と比べた大きさもあって、ひときわ目立っていましたし、それなりに作品も親しみ易い。ムリーリョの描く聖母は、普通に美しい女性を描いているように見える写実的な肖像が、聖母の姿となっても違和感を生じさせいないところに、その凄さがあるのではないかと思います。というのも、この展覧会を見ていて、全体としてぼんやりと感じたことなのですが、プラド美術館の一部をピックアップした展示の印象から全体を言うのは不確実かもしれませんが、ひとつの仮説的な視点として述べますが、例えば、この展示でも、中世のおよそリアルとは言えない奔放な展示から、ルネサンスを跳び越えて、マニエリスムからバロックでひとつの頂点に達して、その後の古典主義やロココは実はあまり生気に乏しく、ゴヤの幻想的な作品に流れ込むというように述べると、どうもルネサンスとか古典主義のようなリアリズムに弱い、というのでしょうか、このプラド美術館のコレクションをつくった人々、スペインのハプスブルク家ということになるのでしょうか、というよりもスペイン宮廷の文化嗜好として、現実をリアルに写すというよりは、現実をこえてとか、現実を考えずに、表現を優先するとか、もっというと、現実をポジディブに写そうというのとは逆に、現実をネガティブに現実的でないとか、ひねりを加えて表わすとか、そういう表現への嗜好性が強かったのではないかと思えてきます。そこには、ストレートに現実を肯定できない、社会、経済的な状況とか、安易に、いくらでも想像することはできますが、ここでは、余り妄想を拡大することはとどめておきましょう。そんな中で、ムリーリョの作風はリアルに傾いていると言えるものです。さきほど、分かり易いと評しましたが、それは、基本的にムリーリョの作風がルネサンス以来の写実を目指す方法に根ざしているからだと思います。それはまた、一方で、ベラスケスにしろ、ゴヤにしろ仕上げは荒っぽいというのか、細部までリアルに写し取って描きこむ気がない出来上がりになっているのに対して、ムリーリョは、この作品もそうですが、細かいところまで丁寧に描きこまれているように見えます。例えば、聖母の素肌のみずみずしさや衣装の質感の違いとか、まるでルネサンスのダ=ヴィンチとかラフェエロを見るようです。そのようなムリーリョですが、リアルに人物を描きながらも、ここでは、その背景を描きこむことをせずに、暗い闇のようにして、人物に光があたる、カラバッジョ以来のバロック絵画の光と影の劇的な構成を巧みに織り交ぜて、それによって聖母子の神々しさを象徴的に見せる工夫をしています。ここには、エル・グレコの聖母像のような、これでもかと迫ってくるような圧倒的な迫力はありませんが、感情移入して共感できる親しみやすさがあります。

このあと、後半には、ベラスケスもゴヤも作品がありましたが、正直に言えば、印象に残っていません。残された時間も少なくなって来ていたせいもありましたが、立ち止まる程度の作品はありましたが、前半に比べると落ちるという印象で、取り上げて感想を記すほどのものはないと思います。これは、私の好みもありますが。

 
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