ジョルジュ・ド・ラ・トゥール─光と闇の世界展
 

 

2005年5月3日国立西洋美術館

ゴールデンウィークの暇つぶしにと、あるいは連休中はレジャーで都心はがら空きと思ったのが、そもそもの間違いでした。ラトゥールの再発見のストーリーが新聞やテレビで喧伝されていたので、混雑が予想され躊躇っていたのでしたが、丁度良い機会とおもって、午前中なら空いているだろうと早起きして出かけたというわけです。しかし、上野駅に着いて、それが思い違いだったことに気が付かされました。混雑のため公園口で降りることができない。何と、反対の広小路口からぐるっと迂回して上野公園に入ることができました。その間1時間弱、うんざりしました。折角来たのだからと、何か後に引けない感じで、美術館に並びました。展示室はそれぞれの作品の前には人だかりで、じっくり作品を見るという余裕がなくて、おそらくこの画家の作品を観るには、あまり相応しくない状態になっていました。しかも、それぞれの作品の状態が絵の具がひび割れていたり、色が褪せているような印象で芳しいものではありませんでした。単純化された画面についても、下手に見えたりして(基本的には、巧みな画家ではないと思います)。むしろ、感想は最悪、というよりも感想も出てこようもない展覧会でした。しかし、なんでそんな感想を書いているのかといえば、会場で購入したカタログをじっくり見て、良かったからです。

ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(15931652)は17世紀フランスの画家は長い間忘れ去られ、歴史の闇に沈んでいたものが、20世紀初頭になって劇的な形で再発見されたといいます。その経緯は劇的なストーリーとして出版もされています。ラ・トゥールは、フランス・ロレーヌ地方で、当時のロレーヌは代々公爵家が統治する政治的にも経済的にもフランスから独立した一つの国家のようで、彼が制作を続けたのはこのロレーヌ公国で、その後の宗教戦争やフランス国内の動乱で公国は消失し、彼の作品も散失してしまいました。今日に伝わるのは40点余り過ぎないと言います。「光と闇の対比の中に的確な色彩で描き出されたラ・トゥールの作品は、静けさと深い精神性に満ち、きわめて近代的な造形性を見せています。抽象的とも言われるほどに単純化された画面は、時に苛烈なまでのリアリズムと相まって、見る者に忘れがたい印象を与えます」とカタログで主催者が説明しています。

「ラ・トゥールの作品は見る者を眩惑ようとはしない。通常彼の絵は小ぶりで、変化に富んではいない。しばしばそれらにはひとり、時には二人または三人、の人物しか描かれていない。風景はなく、空や海も全く示されることがなく、自然も何も存在しない。また、同時代のルーベンスやレンブラントの好敵手ではなかった。彼らはさまざまな役柄の人物たちや、動物、品物、地平線、雲、そして天使さえ持ち出して画面を満たした。ラ・トゥールと言えば、昼の光生き生きと彩色された、またはその反対に、蝋燭の光によって照らし出された暗闇の中に半ば溶け込んだ人物を描くことに終始しているのである。画家というものが、これほど節制することがあるだろうか。あるいはむしろ世界を人間の上に再び閉じ込め、登場人物たちをそれぞれの孤独と個人的なドラマに引き渡しているのだろうか。だがしかし、内容のないラ・トゥールの絵はひとつとしてない。この同じ17世紀に、フェルメールは、人物たちをそれぞれ単独で描くことを好んだ。しかし、そこには日常のありふれた活動やたわいのない着想か見出すことはできない。フェルメールの作品は、何よりもまず比類なき光の画家なのである。だが、ラ・トゥールにおいては、ひとりの老人の質素な肖像に人生のすべてが含まれ得るのだ。」とカタログで別の人が書いています。

今回は、引用が多くなっています。私自身の感想をただ書けばいいのですが、そこで少しばかり考えてほしいことがあります。それは、多くの人は絵画を観る時に、その作品の画面を観ていないということです。私も、そこに含まれるでしょう。例えば、この展覧会の展示、もっとも多くの人が足を止め熱心に見ていたのは、ラ・トゥールの作品ではなくて説明のパネルでした。断定的な言い方を許してもらえば、展示されている作品をひとつの独立した絵画という価値あるものとして見ているというよりも、解説にあるようなストーリーを消費してそのために、それを彩るふるいは裏付けるものとしてストーリーの消費を補完するものとして眺めているのではないか。だから、作品そのものを取り出して、そこに何がどのように描かれているかということには、あまり重点を置かない。極端な場合には、そこに何がどのように描かれているかを観ない。では何を観るのかというとそこに描かれていないものです。たとえば精神性だったり。だから、具体的に、その精神とやらは実際に画面のどこにあるのか説明できないのです。それは、極端な話かもしれませんが、そういうことを文章にしている高名な評論家の先生がたは、作品を虚心に鑑賞することが大事で、そこに自ずと作品の価値が分ってくるという様なことを、絵画鑑賞の姿勢として指導したりということがあります。しかし、そういう虚心は虚心でないことは明らかで、良くも悪くも、絵画を観るということは、そのまえに何らかの物差しとか、言い方によっては価値基準とでもいうものが明に暗にあるはずであると考えます。その点で、近年再発見された、この画家の作品の場合は、新たに価値があるという価値観の変化があったためにこうして展覧会が開かれたりするわけです。当然、その展覧会に来て、作品を観るひとには、その価値観を前提にしていると思います。それが通俗化されたのが再発見の劇的なストーリーであり、もう少し芸術寄りに高尚に響くようにしたのが、上の引用でしょう。いずれにせよ、私の場合もそれをもとに自分なりのラ・トゥールをイメージしていった結果が、ここでの感想ということになると思います。無から生まれるというのではなくて、すでにある物に対する批判のようなものです。そう言うことがあると思うので、今回は敢えて、長々と引用したわけです。爾後の文章では、これらに対する批判的なことを出発点に個々の作品を通じて感想を綴っていきたいと思います。
 

『聖トマス    

聖トマスはキリストの12使徒のひとりで、復活したイエスの姿を自身の眼で見るまで信じないし主の復活に懐疑心を抱いたという逸話「不信のトマス」でも知られる人で、イエスの死後は、インドへ伝道に赴き、異教の人々に槍で突かれて殉教したと伝えられます。カタログでは「ラ・トゥールに特徴的にみられる、幾何学的とも言える形態の単純化や簡潔な色彩、皮膚の皺一本一本まで苛烈に描写する「ヴェリスム(真実主義)」、カラヴァッジョの影響から発してラ・トゥール独自の感受性を示すに至った光の取り扱いなどが顕著にみられる」と解説されています。しかし、これだけでは、ではなぜこの作品なのかということが分からないので、カタログの他のところで、別の人が次のように書いています。

「ラ・トゥールが描き出した奇妙な使徒の像は、歳をとってやつれ、頭髪は禿げ、顔には皺が走り、唇を結び、不安に満ちた鋭い小さな眼をもっている。まさしくこの眼は、かつてキリストの復活を疑い、聖母の昇天を信じなかった眼なのだが、主人に身を捧げて伝道のために世界を股に掛けた忠犬のそれでもあった。固く握り締められた槍はたんなる飾りではない。これは人を殺せる本当の槍で、この聖人が不信心者と戦う姿とともに、インドの奥地ケララ地方で殉教したことを思い起こさせる。ここには優しく内気というよりは、ひとりのまことに頑固な使徒の人生を読み取るべきなのだ。真実の前を二度も通り過ぎてしまった男の人生、その疑い深い男はその後、自分の信仰を示し続けたのである。ラ・トゥールの作品では、ひとりの老人の質素な肖像に人生のすべてが含まれ得るのだ。」

またまた引用が長くなってしまいましたが、そう、多分20世紀になり、ラトゥールが再評価され、高い人気を得るようになったのは、ここで引用されたようなストーリーをつくり、それを人々が作品をみることにより納得できたという点にあるのではないでしょうか。そして、ヨーロッパの地政学的に微妙な位置の小公告で新旧の宗教対立の渦中で過酷な人間の真実を見つめ続けた画家が、その晩年から死後、動乱により国が亡び作品は散失していくというような歴史ドラマのようなストーリーがサブストーリーとなって、上の引用のように画家が一枚の絵に人生の真実を表現し続けたというものを、どうしても想像してしまうものとなっているようなのです。

しかし、もともとそういう画家であったのかは、はなはだ疑問があると思います。私は美術史家のような専門家ではないので、素人の戯言と話半分で聞いていただきたいのですが、ラ・トゥールの生きた17世紀は、思想哲学で言えばデカルトが出てきて近代的な個人の主観をベースにした哲学の萌芽をさせたとされています。そのほかの文学作品等をみても個人の人生というようなことは題材として取り上げられていたのかどうか、という時に、現代の視点で画家個人の主観性を基にした作家性をそこで問えるのかというのは微妙な所ではないかと思います。ただし、そういうことが全くなかったとはいいきれず、哲学とか文学というのは時代風潮の上澄みのようなところがあるため、そういうことが実際にあっても、それが直ぐに反映するとは限らないし、あるいは逆に時代に先駆けることもある。ここで言えることは、ラ・トゥール自身がどういうつもりで作品を制作したか、ということとは無関係に後世の現代で、そういう想像に駆り立てさせるようなものが作品の中に散見される、ということなのでしょう。そして、それが、おそらくラ・トゥールの作品の大いなる魅力の一つとなっているので゛はないかと思います。

では、ラ・トゥールの作品のどのようなところが、そういう想像を掻き立てるのか。比較のために 同じ題材をヴェラスケスが扱った作品(右図)があります。ヴェラスケスもバロック期の画家であるので光と影を上手く使って劇的な効果を出していたり、余計な背景は影の闇の中に消失させてしまって人物に焦点を当てるところなどに共通するところはあります。多分、画家の上手さという点では、ヴェラスケスの方が優っているのでしょう。全体像としてのバランスや全身に漲る覇気のようなものが分かるし、聖トマスのアトリビュートがきちんと描かれているので、教会に飾られれば聖トマスが描かれていることが一目瞭然なのでしょう。教会としても飾り易いのではないかと思います。立派な作品だと思います。これと比べて、ラ・トゥールの作品の作品が大きく違うのは構図の取り方で、顔に焦点が当てられていることと、老人として描かれているためもあるせいか、槍を持つ手が薄汚れていたりと、きれいに描かれていない点です。ラ・トゥールの作品の聖トマスは全身が描かれておらず、どんな格好でいるのか判然としません。全身を描くことは必要ないと断じたのでしょう。それは、顔の表情に焦点をあてるために全身像としてしまうと、注意が顔に集まらない。しかし、それなら顔だけをクローズアップすればいいのに、それをしていません。それは槍を画面に入れるためではないかと思います。ヴェラスケスとラ・トゥールの作品のもう一つの大きな違いは、二人とも聖トマスのアトリビュートとして槍を描いていますが、ヴェラスケスは槍の穂先を描いていないで、槍の長い竿の部分を持たすことにより槍であるとみせていますが、ラ・トゥールは、むしろ竿の部分は画面に入らず、穂先の部分を大きく描き込み、しかも聖トマスの顔の正面に持ってきて、トマスが見つめるように描いています。これでは、観るものが、聖トマスと槍とを同じ比重で見るように仕向けているようです。そこで、例えば上で引用したように、聖トマスは槍に突かれて殉教してしまうということと、さらに加えて主イエスが磔にされて槍で突かれた後復活したのを信じなかったことが、そこから想起するように仕向けられた要素と見ることもできるわけです。

そして、カタログの解説ではヴェリスムといわれるような作風が、老人の額に刻まれた皺を強調してあったり、槍を握る手の爪が汚れ土色になっていたりするのが、老人であることや、異郷での伝道の困難さや一時的にせよイエスを信じなかったことへの後悔を想像させると、敢えて光を禿頭にあてて顔の部分には影にして、表情をくっきりと描きながら陰影がさらに強調されることで、そのような複雑な内面を、心理主義的な詮索が好きな現代の観客はそこで複雑な個人の内面というバックストーリーを妄想してしまうのではないでしょうか。そして、聖トマスの顔が、いかにも聖人というような理想化した顔ではなく、どちらかというその辺にいる頑固な猟師のような描かれ方をしている、画家の力量から理想化できなかったのかもしませんが、それが具体的な生きた個人として主観的な内面の想像をしやすく、つまりは感情移入しやすい結果を齎しているのではないかと思います。身も蓋もない言い方を許してもらえれば、ヴェラスケスのように完璧に描けていない、不完全なところが却って具体的な個人を想像させて現代の視点からは感情移入が結果的に可能となった。それが、ストーリーを想像させ、ラ・トゥールの作品の魅力として再発見されたのではないか、と思うのです。 


『犬を連れたヴィエル弾き』 

ハーディガーディという楽器の一種でヴィエル・ア・ルという楽器は、17世紀の当時は最下層の楽器として農民や貧民たちによって使用された。この時代、辻音楽師が町や村をめぐり、漂泊の旅を続けながら生活の糧を得つつ、人々を楽しませていた。 ラ・トゥールの住むロレーヌ公国は交通の要衝であり、繁栄していたから、よく見かけたのかもしれない。彼らを工房に呼びモデルとして描いたのかもしれません。

ラ・トゥールは、彼らを題材として好んで取り上げたのか、この展覧会でも3点が展示されています。その3点ともが独りの老人の音楽師の肖像です。(これ以外『辻音楽師の喧嘩』という複数の人物の描かれた作品が展示されていましたが、これは違う系列に属すると見ていいのでは)前に見た『聖トマス』は聖人画ですが、それと並べてもあまり違和感を感じさせないように思います。もっとも、『聖トマス』が聖人画としての装飾が一切省かれているので聖人画の派手さがないのも原因しているのでしょうが。音楽を奏でる楽しさとか、音楽で歌い騒ぐ様子といったものではなく、盲目の年老いたヴィエル弾きが、地面を探るかのように覚束ない足取りで、こちらに一歩踏み出し、楽器を奏でながら歌っている。彼を導くであろう犬は地面にうずくまっている。ここで感じられるのは、放浪して音楽を奏でる脳天気な楽しさとか軽佻浮薄さというようものではなくて、不安定な生活や年齢による疲れや不自由な身体による不安、盲目という世界を閉ざされている中で犬しかいないという孤独感のようなものです。そのような悲惨ともいえる境遇にいる老人ですが、背筋をのばし一心に歌う姿には悲愴感があり、そこから品格すら漂わせているように見えます。この作品は、当初ラ・トゥールの真作ではなくてスルバラン(右図は彼の作品)等の画家のものではないかと見られた時期もあったといいます。「無原罪の祈り」や「神の子羊」のような崇高な画家に帰せられたのも分かるような気がします。

それはカタログでも解説されていますが、画面左から劇場の照明を思わせる冷たい剥き出しの光が差し込み、ヴィエル弾きの顔と衣服を暗い影から浮かび上がらせ、その影を地面と壁にくっきりと映し出している。壁は左側が暗く右側が明るく照らし照らし出されているのに対し、人物の形態は逆に左側が明るく浮かび上がっている。画面の奥行は独特な方法で表現されていて、画面下部では高い位置から見下したように地面が斜めに奥に向かってせり上がっている。つまり、鑑賞者の視線がヴィエル弾きの足元、小さな犬、地面に転がった石を見下すように描かれている。この作品を観るものは、ここに解説されているように、まず画面に下部に視線を誘導されます、そして顔に視線を移すと見上げるような視線でみることになる。そこで描かれている顔は、独特の光の当て方により、ある面が際立たせられたもので、そこに畏敬を覚えるような効果をあげているのではないでしょうか。

また、ここで描かれている老音楽師の顔は、後年のようなデフォルメされた様式化が為されておらず、後代のリアリズムっぽい描き方がされているのですが、それとても個人が特定されるような描き方ではなく、前に見た『聖トマス』をふくむ12使徒の連作描かれている老いた使徒たちの顔と共通する要素が多く感じられます。だから、リアリズムというよりも、この時期のラ・トゥールの書法とそのパターンで描かれた顔なのでしょう。それだけに聖人と共通するパーツが流用されていることもあって、そこに、何か崇高さを漂わせているように見えてしまいます。とくに、現代の近代以降の個人主義というのか、心理的な視点などで、この老人の辿ってきた人生とか、その内面といったことを想像したくなってしまうのです。上で書いた、この作品の描かれ方は、そういう想像したい欲求を掻き立て煽るのです。

しかし、ここで大きな疑問として残るのは、このような即品を何故制作したのか、もしくは、誰が描かせたのかということです。この時代の画家は近代以降の画家と違って、画家個人の芸術的欲求とか興味で描いたのを消費者が選択して購入するというシステムではなくて、注文があってそれに応じて制作されたということです。だからこういう作品に対するニーズがあったわけです。そのニーズはどういうところから来ていたのか。放浪の辻音楽師と言えば、当時は最下層で、しかも不可触民のような扱いを受けていたはずです。それを聖人と同じ様な描き方で描くということは、冒涜的な行為ではなかったかと思います。それを描く画家も画家ですが、その背後には、それを許した人がいなければなりません。ラ・トゥールは宮廷画家であったわけですから、ロレーヌ公が命じて描かせたのでしょうか。
 参考として、同時に展示されていたヴィエル弾きの作品が下のものです。られません。 


『蚤をとる女』 

この展覧会のポスターやパンフでも取り上げられている作品です。題名の女性が蚤を取るということ以外の要素がほとんど示されない簡素というのか、それを通り越しているような気もしますが、そのシンプルな構成ながら、そこからくる静謐さや蝋燭の光と深い陰影などから独自な圧倒的とも言える世界を創り出しています。カタログの解説では、「本作品は単なる日常生活の一部分を極めて大胆に描いたものだ。この作品の魅力は、その簡素さ、光と闇の効果によって単純化された幾何学的形態、鈍重さと不格好さを強調した女性の体や無頓着で不機嫌そうな表情の描写に見られる冷酷とも言えるほど一徹な自然主義なのである。また、観者の視線が最も集中する蝋燭がまさに画面の中心に位置し、赤みを帯びた光を惜しみなく画布全体に行き渡らせ、驚くほど印象的に色調を調和させている点で、この作品はラ・トゥールの夜の情景の中でも特筆すべき秀作なのである。」と述べています。

私は、ラ・トゥールという画家は画面の演出に長けた画家で、この作品には、そういう特徴がよく出ていると思います。そうやって感じられた結果が、引用した解説で巧みに述べられているようにことになるのではないかと思います。その特徴を幾つかあげていきますが、まず第一に、必要最小限の要素だけを残し、それ以外の要素を画面から排除してしまっていることです。それは、まるで初期の抽象画が形作られるプロセスを見ているようです。例えば、これは庶民の日常生活の一場面を描いているにしては、室内の様子が全く描かれていません。普通なら室内にあるはずの家具調度類が全く描かれていません。あるのは、女性が腰かけている椅子と蝋燭とそれが置かれた椅子だけです。後は壁と床らしきバックがあるだけです。だから、一見、日常生活にみえますが現実にはありえない抽象的な風景なのです。このことにより、この絵を観る者は余計なものに注意を逸らされることがなくなります。

第二に、第一の特徴により画面に残された要素も抽象化、あるいはデフォルメともいえる単純化がなされているということです。例えば、二つ描かれている椅子は、まるでシルエットのようです。立体感というのか奥行をきちんと描き込まれていないので、蝋燭を乗せている椅子などは、蝋燭が乗せられているようには見えません。見方によっては、椅子を壁に画いて蝋燭はその手前でちょうどいい高さに浮いているようにも見えます。また、その椅子の背もたれと背後の壁が同じような色で同じように描かれているのも、その感を強くさせます。また、唯一の人物である女性にしても、全体としての構図が歪んでバランスを欠いているようにも見えます。例えば乳房の描き方など不自然で人体の構造上、こんな見え方はしないのではないかと思われます。(ただ、私は専門家ではないので、確たるものではく、そんな風に見えるのです)また、顔についても、前に見た聖トマスやヴィエル弾きに比べてそれほど描き込まれていません。多分、ここではそういう要素か必要なく、むしろ無表情に近いものを求めたので大胆に省略してしまったのでしょう。

第三には、大胆なデフォルメです。第二のところでも少し書きましたが、蚤を取る女性のポーズですが、状態を伸ばして首を横向きにして下にかしげていますが、蚤をとるには不自然ではないでしょうか。実際に、自分でこういうポーズをして蚤を取るような細かな作業を、しかも蝋燭の不安定で淡い光のもとで試してみてください。わたしなら、蚤のような小さなものをみるには、状態を折るようにして目を近づけて、よく見えるようにするでしょう。しかし、そういう格好では身体に蝋燭のひかりの当たる陰影が印象的に描きにくいし、顔が隠れてしまう可能性が高い。また、カタログでは女性の身体を鈍重と説明していますが、画面全体のバランスを考えると背景に調度品のようなものがないので、彼女の身体の広い横幅が画面の左半分を塞ぐことによって、椅子のように背景から浮いてしまうことを防ぎ、安定感を与えている。しかも、身体の右半分を大きく影とできることにより、身体に陰影と奥行を描く余裕を与えている。

以上三点、これらの特徴は他の作品にも見られることで、ラ・トゥールの個性と言えるかもしれません。そのため、ややもするとあまり上手ではない画家、イタリアやスペインのバロックの華麗で壮麗な画家たちに比べると、描かれている者が少ないし、デッサンなども下手そうに見えてしまうのです。しかし、これらは、この画面の中心である蝋燭とその光の描写に観る者の視線を集め、その表現効果を最大限に生かし印象深いものにするために細心の注意を払って緻密に計算されて、画面が構成され描かれていることが分かります。画家自身にとっても、こういう夜の闇の中で蝋燭を置いて、その印象的な光とその効果である陰影の醸し出す画面というのを発見し、試行錯誤しながら描いて行ったのではないかと思います。それは、後の作品にあるような光の効果が先行してしまって、画面のバランスを欠くほど過剰になってしまったような一種の手法の退廃はここでは見られません。 


『書物のあるマグダラのマリア』 

マグダラのマリアは、イエスの死と復活を見届ける証人であったとともに、ローマ・カトリック教会では「悔悛した罪の女」として位置付けられました。福音書の記述では、七つの悪霊をイエスに追い出していただき、磔にされたイエスを遠くから見守り、その埋葬を見届けたこと、復活したイエスに最初に立ち会い、復活の訪れを使徒たちに告げ知らされるために遣わされた。そのため、イエスの受難や復活を扱った絵画ではイエスのもとに描かれている。

また、ローマ・カトリック教会では、彼女は金持ちの出身で、その美貌と富ゆえに快楽に溺れ、後にイエスに会い、悔悛したという。「悔悛した罪の女」ということから娼婦であったと解釈されているケースもあるという。そういう題材としてルネサンス以降の絵画で好んで取り上げられたといいます。聖女を描いたものとしては例外的に肌を露出し、時には全裸で描かれ、それが取り上げられた大きな原因でしょうか。晩年の隠遁生活の中でしばしば天国に昇り、天使の歌声を聴いたということからその昇天が画題として取り上げられたそうです。それは、一種の口実として裸体とか、法悦つまりエクスタシーの姿態を描く機会を画家たちに提供するもでもあったと思います。例えば、カラヴァッジョは彼女の法悦の表情を宗教的法悦とも官能ともとれるような作品を残しています(右図)。

これに対して、ラ・トゥールの作品はマグダラのマリアの裸体を描いているにもかかわらず、そういう邪な妄想(?)を掻き立てる要素は見られません。ラ・トゥールはマグダラのマリアを題材として多く取り上げて、同じような主題の作品が比較的多く残されています。カタログでは次のように解説しています。「本作品はラ・トゥールの「マグダラのマリア」の主題の中でもっとも単純化された形態をもち、ヴォリュームのある頭髪が聖女の顔の下半分は見せながらその目は覆い隠すさま、テーブルに腕を置き愛情を込めるように両手で包み込んだ頭蓋骨と無言の対話をするさまが、神秘的な雰囲気を演出している。蝋燭の炎に透かされた大きな本の一頁が、その炎に熱せられた空気によって立ち上げられた様子を描いた部分は、本作品に比類なき独創性を与えている。」いつもながら、上手い説明だと思います。

先ほど、カラヴァッジョについて少し触れましたが、光を強調してスポットライトのように扱い、そこで画面に劇的に効果を与えるというか、光と影を対比的に画面に用いるというやり方において、ラ・トゥールにはカラヴァッジョの影響が見られる。こんなことは美術史では常識でしょうけれど、カラヴァッジョについて感じた外面的という感じは同じようにラ・トゥールにも感じられます。それが、この作品では分かり易いのではないかと思います。その大きな要因は、マグダラのマリアという独りの人間、個人を信仰という点で主題として扱っていて、近代以降の我々ならば、そこで個人の内面とか精神とか言ったことが当然問題となってくるはずなのですが、この作品では、近代以降からすれば肝心な点が素通りにされていると言えるからです。その象徴的な表現は、個人の内面を一番表わしていると言える顔をほとんど隠してしまっているからです。とくに、もっとも個人の心の動きを表わすのに適している眼が全く見えていない。

話は変わりますが、近代的な個人の内面を表現する近代演劇の演技を理論化したスタニスラフスキーという演出家がいますが、日本のいわゆる新劇といわれる演劇ジャンルはその強い影響下にあると言えますが、その核心は顔の表情、特に目です。これを例えば近世演劇の歌舞伎と比べてみてください。歌舞伎は隈取りという象徴的な濃い化粧をしてしまうので細かな表情は見えません。そこで、型という身体表現を用います。中世演劇である能では能面という仮面を被ります。そこでは表情の演技は不可能です。

そこで、ラ・トゥールの作品に戻りますが、顔の表情というのは、だから必要不可欠ではないのです。しかし、そこでは当然、近代に限定されるような内面というものには及ばない、身体全体の動きや形、あるいは全体の空間構成から効果として宗教的な雰囲気が醸し出されればいいのです。それが、マグダラのマリアのポージングであり、蝋燭による光とその陰影による表現ではないかと思います。

とくに、この作品では、蝋燭の光は直接描かれることなく、蝋燭の熱で起きる上昇気流で捲り上がった書物のページに隠された間接照明のような効果を出しています。そのためか、強烈な炎と直接光は描かれず、書物のページ越しに透けて光る柔らかな光になって、しかも光量は弱くなるため、画面全体の闇の部分が大きくなり、真摯にマグダラのマリアが光に向き合う姿だけが、より浮かび上がってきます。しかし、全体的な暗さと、光の柔らかさから強烈な対比ではなく、暗闇の仄かな光というような瞑想性とか神秘性のようなものを強く感じさせるものになっていると思います。我々の生活の中でも間接光の照明では何か落ち着くような感じになりますが、この作品では、それをうまく生かしているように思います。

参考として、ラ・トゥールのマグダラのマリアを題材とした他の作品から代表的なものとして下のものです。 


『聖ヨセフの夢』 

この作品も展覧会ポスターやパンフで使用された、この展覧会の目玉といえる作品です。カタログの解説でも、「本作はラ・トゥールの全作品中完成度が高く、感動的な作品である。また、ラ・トゥール芸術のすべてがここに集約され、また謎を秘めた作品と言える」と言い切っています。しかし、個人的な印象ですが、最初に観た『聖トマス』にあったようなひたむきさというのか、画面からはち切れんばかりの迫力のようなものは、むしろこの作品では減退してしまっているように見えます。劇的な構成で効果的に描いていて、この作品は分かり易いところがあるかもしれませんが、個人に信仰に向き合わせるようなものはここにはありません。この作品では、ぎりぎりのバランスで辛うじて均衡を保っていますが、多分、すべての作品でバランスを取るのは難しく、テクニックに走ったと見える作品も散見されます。幸いに、残されて作品にはその手のものは少ないでしょうが、存命中は売れっ子だったといいますから、そういう作品も出回っていたのではないかと思います。層いうものの萌芽をこの作品で感じてしまうことがあるのは確かです。

この作品は、色々な異論もありますが、現在では、聖母マリアの夫で、イエス・キリストの養父である聖ヨセフが、夢の中で天使からお告げを受ける「ヨセフの夢」の主題を描いたものとされているそうです。歴史的に、この時期はルターらの宗教改革に対抗し、カトリック側からの巻き返しが始まった時期にあたり、自己改革を進める修道会を中心に新たな信仰のよりどころとして聖ヨセフを崇敬する潮流が生まれ、ヨセフ図像が盛んに描かれたといいます。ラ・トゥールのいたロレーヌ公国はカトリック信仰に篤く、ローマとも関係が深かったことから、この図像に対するニーズは高かったと思います。だから、ラ・トゥールがこの主題で多くの作品を残してもおかしくはなかったでしょう。しかし、同時代に多く描かれたヨセフ図像と、この作品とはかなり違っています。それが、この作品の主題について議論が巻き起こった理由ですし、当時としては大胆な図像にラ・トゥールという画家の個性が表れているとみるか、でこの作品の解釈が変わるのでしょう。

で、見た感じ、これは聖ヨセフの夢なのか、現実なのかがはっきりしない。聖書の話では天使は聖ヨセフの夢の中に現われるのだから、この場面は夢の中なのか、それにしては、老人は寝ているのか、目覚めようとしているのか、という状態。また、聖ヨセフが眠っているところに天使が夢の中に入り込もうとしているようにも見えない。他の画家の同じ主題の作品では、羽根の生えた天使が、空中から聖ヨセフの頭の中に入り込もうとしている図像が描かれているのです。そう、ラ・トゥールの作品では、羽根が生えていないので子供が立っているだけにも見えます。論者によっては、夢という想像上の世界に降り立った天使が、鑑賞者のいる現実の可視空間にも姿を現しているとして、可視できるような超常の表象、つまり翼がない姿になった。そして、その中で、唯一、聖ヨセフだけが天使の存在を認識できることも表現されている、という人もいます。ちょっと持ち上げすぎかもしれませんが。

この、現実とも夢とも区別のつかない世界は、蝋燭の淡い、しかも間接照明のような反射光によって照らし出された、薄暗さが演出しているといえます。間接照明のような反射光というのは、寝ている聖ヨセフの右手に添えられる天使の腕の奥で灯された、蝋燭の光です。炎自体は天使の腕に遮られて逆光のような効果をあげています。神秘性を強く観る者に感じさせ、通常ならば観る者に抱かせる現実感を緩和させます。そして、全体的な薄暗さは、夜の場面に相応しい静謐さ、宗教的主題の深い精神性を高めさせます。蝋燭の炎に照らされ薄暗い闇の中で、天使の身体がシルエット的に浮かび上がることによって、画面に描かれる身体のほぼ全面が深い影に支配されながらも、より存在感を増している。それだけでなく、対峙するように天使と聖ヨセフが描かれているのは、希望に満ちた子供と運命を享受する老人の対比と解釈することもできます。

 
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