プラド美術館展─ベラスケスと絵画の栄光
 

 

2018年3月2日(金)国立西洋美術館

いつものように仕事の用事で都心に出たときに、テキパキと片付けて終わった後で、そのついでに立ち寄った。ちょうどこの展覧会が1週間前に始まったばかりで、おそらく混雑するだろう思っていたので、会期初め金曜の5時過ぎであれば、それほど混雑していないところで落ち着いて見ることができるだろう、と言ってみることにしました。実際、行ってみると思った通りでした。全体として、こういう美術館のコレクションの展覧会の場合には、目玉の作品はたしかに凄いのですが、その数点以外は数合わせのような作品がけっこうあって、そこで興ざめしてしまうのが常なんですが、今回の展示作品は平均的にレベルが高くて、目玉以外の作品も、それなりに面白く見ることができました。展示は、テーマ分けされていて、それなりに整理されていたようですが、そのテーマに分けられた展示コーナーの最初には必ずベラスケスの作品が展示されていて、何のかんの言っても、この展覧会はベラスケスを何点かスペインから持ち出すことがメインでそれを見せるというものであることが、この展示姿勢からもよく分かります。ベラスケスをメインとして、彼が活躍した17世紀ころのハプスブルク王家の宮廷とその周辺で栄えた、いわゆるスペイン・バロックの絵画の展示ということでしょうか。私は、どちらかというと、一人の画家の回顧展のような集中的に見ていく方が好きで、ここに感想を書きこんでいる大半はそうで、その画家の作品とは何かみたいなことを自分の視点で好き勝手に解釈するように見ているのですが、ここではベラスケスがメインとはいえ、回顧展のようにたくさんの作品を集めることはできないし、他の画家の作品も少なくないので、そういう方向ではなくて、個々の作品を個々に楽しむようにしました。したがって、ここでは個々の作品についてアトランダムな感想をメモ程度に記していこうと思います。

まずは、例によって、主催者のあいさつを引用しておきます。“世界屈指の美の殿堂として知られるプラド美術館は、スペイン王室によって収集されたスペイン、イタリア、フランドル絵画を中心に、18919年に王立の美術館として開設されました。本展は、(中略)西洋美術史最大の画家の一人であるディエゴ・ベラスケス(1599〜1660年)の作品7点を軸に、17世紀絵画の名品など61点を含む約70点を紹介するものです。プラド美術館は現存する約120点のベラスケス作品のうち約4割を所蔵していますが、その重要性ゆえに館外への貸し出しを厳しく制限しています。そうしたなかで日本において7点もの傑作が一堂に展示されるのは、特筆すべきことといえましょう。17世紀のスペインは、ベラスケスをはじめ。リベーラ。スルバランやムリーリョなどの大画家を輩出しました。彼らの芸術を育んだ重要な一因に、歴代スペイン王家がみな絵画を愛好し収集したことが挙げられます。国王フェリペ4世の庇護を受け、王室コレクションのティツィアーノやルーベンスの傑作群から触発を受けて大成した宮廷画家ベラスケスは、スペインにおいて絵画芸術が到達し得た究極の栄光を具現化した存在でした。本展は、フェリペ4世の宮廷を中心に17世紀スペインの国際的なアートシーンを再現し、幅広いプラド美術館のコレクションの魅力をご堪能いただく貴重な機会となるに違いありません。”

それでは、展示順にしたがって見ていきたいと思います。

T.芸術

ディエゴ・ベラスケスの「ファン・マルティネス・モンタニェースの肖像」(左図)という作品です。展示室に入って正面にイダルゴの「無原罪の聖母を描く父なる神」の迫力ある大画面が目に入ってきます。実際、この作品は派手なので作品の前には絶えず人が集まっていたようです。その向かい側に、(相対的に)ひっそりと展示されていたのがこの作品です。注意していないと見過ごしてしまうように、さりげなくそこに在りました。それほど目立たない、一見凡庸に感じられて通り過ぎてしまいそうな作品でした。私が立ち止まったのは、作品の力とか迫力ではなくて、展示ラベルにベラスケスの作品であることが明記されていたからに他なりません。向かい側の「無原罪の聖母を描く父なる神」に比べて素っ気ないほどシンプルで、色調は地味です。しかし、それでは隣に展示してあるジュゼペ・デ・リベーラの「触覚」(右下図)も同じようです。しかし、「触覚」は作品としての個性が分かる。例えばカラヴァッジォばりの光と影の激しいコントラストであるとか、厚塗りの絵の具であざといほど手の皺や顔の皺を克明に描いて、人物の老齢と人生の苦労を際立たせるように描いている。(私には、この作品は少しやりすぎでクサイ印象を受けるのですが、それはベラスケスの隣に展示されていて、比べて見てしまったかもしれません)それに対して、この「ファン・マルティネス・モンタニェースの肖像」の特徴とか個性をパッと見分けるのは難しい。それは、大仰な言い方をすれば絵画そのものとしか言えないからです。言ってみればスタンダードとして、これとの距離で作品の個性が測られる、そういった存在と言えてしまう。おそらく、それは後世になって、例えば21世紀に私が絵画を見る際に、絵画のリアルというのは、まさにこの作品のように描くことなのであるという、そういうものとて見えてしまっている。それゆえに、特徴とか個性といったものを見出すことが、私の側では難しくなって、その一種普遍的に映るのが無個性とか当たり前、つまり凡庸に映ってしまう。そういう作品として、私の目には映りました。

作品としては30代半ばの初期のころで、まさに直球勝負といっていい作品で、人物を丁寧にきっちりと描きこんでいる作品です。もっと後の、細部を敢えて粗くして全体をみるとちゃんと絵になっているという描き方にはなっていません。背景が省略されて茶色の壁のようで、しかも人物は黒い衣装を着ているのにもかかわらず、画面全体は暗くなっていないのは不思議です。しかも、この衣装の黒が柔らかくて、光沢がある独特の色合いで、深みすら感じられます。この黒の色合いの眼の心地よさは、心を落ち着かせるものだと思います。その黒から対比的に浮き上がる白い手がへらをもっていて、その繊細な指先の描写にひきつけらてしまいます。この肖像のモデルは彫刻家だそうで、へらを握った手の先にはフェリペ4世の彫像の粘土像だそうですが、画面を見る限りでは、省略に近い描き方で、私は、それゆえに未完成の作品と思いました。しかし、背景が省略され、彫刻家の仕事をしているには他の道具もない、そして造っている塑像も中途半端にしか描いていないのは、制作している彫刻家の姿だけを取り出した、いわば抽象した作品。後世の解釈になるでしょうが、芸術家の姿だけを純粋に取り出して、肖像画という形に結晶させた作品と言えるかもしれません。ベラスケスの代表作である「ラス・メニーナス」では芸術家の姿を物語の一場面のように描いていますが(さすがに「ラス・メニーナス」は見ることはできませんでした)、それとは違った方向で芸術を描くことになった。そう解釈することが可能かもしれません。少し活躍年代はずれますが、ほぼ同じ時代に生きたフェルメールは芸術をテーマにした作品を残していますので、この時代には、そういうことを画家自身が考えるということがあったとのかもしれません。それが、このコーナーのテーマということになるのかもしれませんが。

フランシスコ・デ・スルバランの「磔刑のキリストと画家」(左図)という作品です。ベラスケスの「ファン・マルティネス・モンタニェースの肖像」と同じように背景はほとんどなくて、画家と磔にされたキリストの姿が向き合うように描かれているだけの抽象化された画面です。ベラスケスの場合にはリアリスティックなのに対して、このスルバランの作品は神秘主義的な雰囲気に包まれているように感じます。それが、スルバランの大きな特徴ではないかと思います。それは、ベラスケスに比べてもそうですし、並んで展示されていたアロンソ・カーノの「聖ベルナルドゥスと聖母」(右下図)が似たような構図であって説明的な描写があって理解し易い画面でありながら、スルバランの作品にあるような超俗的で神秘的な印象は薄いのです。

スルバランの作品に戻りましょう。暗い背景に、光に照らされた磔刑のキリストが浮かび上がっていて、他方で闇に沈んだ背景には微かにゴルゴダの丘らしき稜線の影が見えます。手前には男がいて、胸に手を当てて、恭しくキリストの顔を見上げています。画面左上、つまりキリストの背後の上方から光が注いで、キリストを通して見上げる男性を照らし出していて、神秘的にキリストと男を結びつけている。そういう情景です。このキリストの描写は迫真のリアルさです。土気色の肌は、見上げている男性の血色のいい肌色とは対照的で死体であることを、そして、そこに光が当たって照らし出されたところが、下の男性の生き生きとした人間らしさとは違う照り映えを表わしている。さらに磔という無理な姿勢を強いられているのが筋肉の陰影が光で強調されるように浮き上がって、それが痛々しさとともに、苦痛に耐えるキリストの姿を強調しています。いわば非日常の姿、超俗的ということになるのか。それと対比するように右下の男性は日常的な人の姿です。それぞれの姿がリアルに対比されていて、それを対角線の関係に配置し、光がそれを繋いでいる。その二人以外のものは余計なものとして排除されて、二人の関係だけが純粋に抽出されるようになっている。そのためなのでしょうか、二人の距離と位置関係はリアルとは程遠い、近すぎるし大きさのバランスがおかしい。しかし、そのことが却って現実の場面ではなくて、抽象された現実でない空間として捉えられることになっていると言えると思います。

U.知識

ベラスケスの「メニッポス」(左図)という作品です。この章立ての分類方法は、私にはその意味がわからないのですが、展示されている作品は知者とされている人を題材にした作品や、それらしい題名の作品が並んでいました。メニッポスは古代ギリシャの犬儒学派の哲学者だそうで、深刻なテーマを嘲笑の精神で論じ、とくにエピクロス主義とストア派を攻撃して楽しみ“メニッポス的風刺”と言われる著作で知られたといいます。しかし、この画面を見る限り、古代ギリシャの人という雰囲気はなく、何か哲学者らしい小道具も配されていなくて、外套を着た男性の肖像画、しかも、貴族のような身分の高い人の豪華な感じもなく、庶民の姿、つまり風俗画という風情です。背景は壁のようなのか、壁色を一面に塗っているだけ、右下の壺は、平面的で影のようです。ベラスケスという人は基本的に肖像画家であると展覧会の説明にあったように覚えていますが、この作品を見ていると人物だけを描きたかったということがよく分かります。もちろん、現代とはちがって画家は注文を受けて、その通りに制作しなければならなかったはずなので、どこまでが画家本人の意志なのは分かりませんが、何らかの寓意を込めて哲学者を部屋に飾ることを目的としていたはずです。しかるに、ベラスケスはうだつの上がらない男性の姿を描いているだけです。その姿の外套の黒は、最初に見た「ファン・マルティネス・モンタニェースの肖像」の黒とは明らかに違っていて、「ファン・マルティネス・モンタニェースの肖像」の黒にあった光沢はなくて、すこし煤けたような鈍い色です。鈍い色の背景と黒い外套に対して顔の肌色は対照がきわだって、スポットライトが当たっているように目立つし、視線は、そこに導かれます。つまり、この作品を見る人は、それ以外の背景とか小道具とかに注意を注ぐことなく、視線を顔に集中するように画面が作られている。そこでは、ベラスケスは顔に重心をおいているのが分かります。これは、見方によっては近代的なリアルな人間の描写であるという見方もあるといいます。古代ギリシャの哲学者という舞台装置や小道具を輝かしく画面に入れ込んで、それらによって飾り立てるのではなくて、その人物だけを描写して、その人物の迫真的な描写によって哲学者であることを、近代的な主体の考え方で、表現しようとしている、という見方です。しかし、この作品の人物の顔の描き方については、「ファン・マルティネス・モンタニェースの肖像」のときのように丁寧に細かく描きこんでいるわけではなくて、画面に近寄って観察してみると描き方は粗いです。それが離れてみると生き生きと人物が描かれているように見えてしまう。それが、ベラスケスの大きな特徴といえるでしょう。だから、人物を一個の主体として内面まで表現するというのは違うと思います。この作品は宮殿かどこかの壁に飾られるので、鑑賞されるというのではなくて、部屋のインテリアとして、眺められるという性質のものでしよう。だから、それらしく見えればいいということで、見えるということを考慮して描かれている。それが、さきに述べた、この画家の特徴となっているということなのではないかと思います。それが、実際に、この作品のような哲学者を描いた作品では、どのような効果をあけているのか、それは、展覧会でも解説されていましたが、私にはよく分かりません。正直なところ。ただ言えることは、題名とかあまり考えないで、ひとりの男性を描いた作品として、際立った特徴とか個性とかを感じることはないのですが、絵になっているという作品ではないかと思います。

むしろ、近代主義的な主体的な人物を表現しようとしている意図があるのは、この展覧会でベラスケスに次いで目玉となっているジュゼベ・デ・リベーラの「ヘラクレイトス」(右図)の方ではないかと思います。この作品では、書斎で執筆している哲学者の姿のようで、それらしい雰囲気を作っていますが、その人物の顔が、賢明であるように造っている。しかも、その顔にスポットライトを当てています。バロック絵画の光と影の演出で、その姿を強調していますが、その中心は人物の知者として迫真をもって描こうとしているのは通じます。しかし、私は、あざとさを感じてしまうのですが。おそらく、その前段階としてアントニオ・デ・ペレーダの「聖ヒエロニムス」は、伝統的な構図にアトリビュート満載で、それらが細かく描きこまれて、文字のない言語としての機能を満たしていながら、絵画として自立しようと描き込まれた。そんな作品のように感じられます。このヒエロニムスの描き方もマンガのキャラクターのような定番の形を踏まえて、そこにカラバッジョばりの光と影の演出を施している。この3つの作品を逆に辿っていくと、徐々に人間だけが抽出されて、それにつれて人間の表現が変わっていく様を追いかけることができるように思えます。しかも、細かい描写から、ベラスケスの粗いといえる描き方まで描法も変化していったのが手に取るように分かる。

ヤン・ブリューゲル(父)他の画家による「視覚と嗅覚」(左図)という作品。これまでとは傾向が全く変わった、構成によって意味を表わす作品。いろいろなメタファーがあって、その意味を解読する楽しみがあるのと思います(例えば、このブログなどで)。この会場では、大きな画面でひとつの空間を表現しているというのと、例えば陳列されている絵画が本当に一枚の絵画のように詳細に写実的に描写されている、その描写に圧倒されるように、そのひとつひとつの陳列された絵画を鑑賞するのも面白い。そういう大きな画面の細部を重箱の隅をほじくり返すようにして見つけて楽しむことができます。この画中の絵画に描かれたものと、この絵画の画面が同じような精度と迫真さで描かれているため、陳列されている絵画の世界と、この画面の世界が同じような存在感になっているようで、これだけ明瞭に描かれているのに、現実が曖昧になっていくというのか、陳列されている絵画に描かれている世界と並んでいて、それらのワン・オブ・ゼムになってしまうかのような錯覚にとらわれ。それが見る者にもどって、現実の存在のはかなさをとして帰ってくるようです。その他、とくに、画面左下の花瓶に生けられたり、テーブルの散乱する花の鮮やかで細かい描写は、おそらくブリューゲルの得意中の得意で、それだけを見ていても飽きることがありません。

V.神話

ベラスケスの「マルス」(右図)という作品です。ギリシャ神話の戦いの神を描いたものということですが、いわゆる神話を題材にした歴史画というよりは肖像画のように見えてしまいます。軍神を現実の戦士として描いている。戦場から戻り、武器を置き、鎧を脱いだ姿です。戦いが終わり、弛緩した半裸の肉体を無防備にさらした、うつろな目をした疲れきった一人の兵士の姿です。この作品については、その筆遣いが“マルスの頭の兜の金箔の装飾には筆触の粗さと軽やかさが認められる。近くに寄って見るとかすれたような黄色と白色のざっくりとした線は、やがて立派な金の文様として浮かび上がる。背景の暗闇とマルスの肩の境界もしっかりとした線を失っている。頬を支える指をわけるはっきりとした輪郭線もなく、画家の後期に特徴的な粗い、しかし的確な筆触で描かれている。”という説明は、その通りだと思い、そこにベラスケスの特徴が表われていると思います。このベラスケスの特徴的な粗い描き方は、近くに展示されていたティツィアーノの「音楽にくつろぐヴィーナス」(左図)の画面左のオルガンを弾いている男性の描き方が粗くて、ヴィーナスに比べて薄っぺらく見えてしまいます。この作品について言えば、ヴィーナスの姿も、同じ画家のいわゆるウルビーノのヴィーナスに比べると理想化されていなくて、肉がたるんでいるようなところや、肌の色の艶でもイマイチで、窓の外の背景もとってつけたような感じで、ティツィアーノの代表作らしいのですが、私には印象に残るものではありませんでした。ティツィアーノに比べて見ると、ベラスケスは神話を描いても物語の場面のようにはしないで、人物だけを取り出して描いているのが特徴的で、この人は肖像画家なのではないかとの思いを深めています。

このコーナーでもっとも印象に残ったのはルーベンス他の「アンドロメダを救うペルセウス」(右下図)という作品です。いかにも物語的な作品で、それ以上にアンドロメダを助けようとしているペルセウスの黒い鎧の鈍く輝きと固い感触に対して、アンドロメダの白さと柔らかさを際立たせた構成です。しかも、アンドロメダの裸体はルーベンスの得意の豊饒な女性そのものです。(ただし、いつもよりも細めのようで、それだけ私には却って親しみ易い)この画家の描く女性のみずみずしい肌色と頬の赤らんだ、唇の濡れたような赤、そして輝くような金髪という色遣いの艶っぽさはベラスケスにはなかったものです。それだけに、とくに目立って、以前の展覧会で見た時にはそれほど感じられなかったのが、却って初めて分かかったものでした。それだけに、このルーベンスは新鮮に感じられました。同時に展示されているティツィアーノのヴィーナスに比べて、はるかに官能的で、しかし健康な肉体の躍動を想像させるのです。ちなみに、この展覧会とは無関係ですが、この作品の構図は、ラファエル前派のジョン・エヴァレット・ミレイの「遍歴の騎士」を想い出してしまうものです。それだけに人物のポーズや構図は類型的で、それは物語のパターンで、それが物語的というのでしょうか。さすがにルーベンスは、そのポーズがわざとらしくならないように、そして、自身の画家としてのウリを巧みにアピールするように描いています。しかし、それをベラスケスの作品と比べると、多少の年代のずれがあるとはいえ、同時代に活躍した両者であるのに、ベラスケスがルーベンスの画面にあるようなわざとらしいパターンをとっていないで、画家自身が、そのような伝統にないポーズを創り出したのか、それほどのポーズらしきものをとっていないのか、それが近代以降の意識で見ている私には、自然なポーズに見えてくるという、二人のスタイルの違いが、それぞれに際立つように分かります。

この違いは、文章の語り口に置き換えると分かり易いかもしれません。ルーベンスのように場面を文章で語る場合には、全体を見回す視点が必要で、この場面の中にいると語ることはできなくなります。言うなれば客観的な視点ということで、外部から観察するようにして、小説などの場合には、作者が神さまのように全体を鳥瞰するように見渡して、このような状況で彼はどうしたとか、それに対して彼女はこうしたとかいうように語るわけです。つまり、この場面で、この人は、このように行動したという人物の外面的な振る舞いを明らかにすることになります。そうすると、場面とか物語の筋はよく分かります。これに対してベラスケスの場合には、場面全体ではなくて、ひとりの人物に焦点があてられ、それだけが深く掘り下げられるような感じです。それは、この人物自身が独り言のように語るか、この人物を見ている人がその人物に語りかけるかということになります。いずれにせよ、この場合には私はこうしたいとか、あなたはこうなのか、といった外観もありますが、その内側に入り込むような語り方になっていくと思います。それは、近代の個人主義でいえば個人の内面に踏み込んだものといえるでしょう。つまり、ベラスケスの場合は、そのような個人の内面をリアリズムと結びつけて考える近代の個人主義的な姿勢に親しみ易い面を感じさせるところがあると思います。

W.宮廷

このコーナーも最初に展示されていたのはベラスケスの作品でした。「狩猟服姿のフェリペ4世」(左図)。この作品でも、ベラスケスという画家は基本的に肖像画家であるという印象を強くします。とにかく、人物の顔を描くのに力が入っている。次に、この人物の着ている服で、それ以外はとくにどうということはなく、人物を描くための引き立て手段程度というのが明らかです。それは、全体をきちんと描いているルーベンスとは対照的で、しかし、顔の部分だけはルーベンスが雑に思えてしまうほど、力を込めて描いていることが分かります。“本来、人間は不完全なものであり、肖像画はその不完全さ補って完全なものとすべく制作されていた。しかし、ベラスケスにとって「肖像画を描く」ことはモティーフに直接的に近づくことを意味する。自然主義絵画、「自然の模倣」という画家としての基本姿勢を反映した写実的な相貌に、国王として品格を加えながら、ベラスケスはハプスブルク王家の肖像画に新たな伝統を紡ぎ出していくのである。従来の肖像画は豪華な衣装や様式の肖像画が主流であった。君主の肖像画は鎧や武具を身につけ、またその権力を示す多くの印で飾られた高価な衣装をまとって描かれている。これと比較するとベラスケス作品が、国王自身の似姿で、服飾的な誇示は避けられ、わずかな色階と熟達した微妙な光を駆使して、「豪華さと富」というイメージよりも「統治の職務と責任」を負う国王としてのイメージが強調される。簡素な空間や地味な衣装は、ほとんど表情のない国王の顔と補完関係にあり、人間的な感情を表現することをよしとしないハプスブルク王家の人々の肖像画の長い伝統に則っている。ベラスケスが描いたフェリペ4世の肖像画は、単純な構成、色彩の簡素さが特徴で、国王の責任と義務への倫理観を表現している。”と説明されています。そんなものか、とは思いますが、私の見方が当時とは違うからなのかもしれませんが、この作品を見ていて、どこに人物の国王としての倫理観が見て取れるのか分かりません。私に分かるのは、人並外れた長い顔(馬面)で、そこにとってつけたようなひげを生やしているのが、どこか滑稽にうつる。それを滑稽に見えてしまうように描いている画家が、自然主義と言われれば、そうかもしれないと思ってしまう、そういう程度です。むしろ、この馬面はハプスブルク家の一族の身体的な特徴であったでしょうから、それを糊塗することなく個性として描いているそれにしても、この顎の描き方なんぞ容赦ない感じで、不細工とか、威容ではなくて異様といっていいくらい。ここまでやってしまっていいの?と心配になってしまうほど)。この作品では、その個性を主張していて、それはそれでよいのでしょうが、この人物は虚勢を張るように髭をたくわえ(この髭は、現代人の私から見ると滑稽以外の何ものではありません)て、威厳ありげに胸を張って、ポーズをとっている。それが後世である現代から見ると、このハプスブルク王家が外面的には広大な植民地を征服し、強大な軍隊を持っていたように見えて、その実経済状態は借金まみれの火の車で、国内は疲弊しつつあったという虚飾に満ちた統治であったという薄っぺらさが透けて見えるように思えてしまうのです。それは私が歴史を知っているから、そう見てしまうのかもしれません。もとより、ベラスケスはそのようなことを露ほども知らず、国王を偉いと思って描いているのでしょうから。しかし、後世の私が見て、そのように受け取れる要素が描かれてしまっていると言っても、あながち否定することもできない。そういう作品になっているのではないか、それは深読みしすぎかもしれませんが、そう見える作品であると言えます。

アントニス・モルの「ファナ・デ・アウストリア」(右上図)という作品です。1560年というとベラスケスが生まれる前で、上のフェリペ4世の肖像画の70年前に制作された、上の説明での“豪華な衣装や様式の肖像画”のひとつと言える作品です。ベラスケスの描く肖像画に比べて描写が精緻で隅々まで丁寧に描き込まれています(並んで展示されているアロンソ・サンチェス・コエーリョの「王女イザベル・クララ・エウヘニア・とマ゛タレーナ・ルイス」はもっと装飾的で豪華絢爛)。暗いグレーの背景に立っているモデルには左から差し込む光に当たって映えるように浮き上がる演出がされていて、おそらく絹であろう黒い衣装は、その光に照らし出されるように柔らかな光沢を放っていて、威厳を示すとともに、ひとり暗いところにたって、その黒いに同じないで光沢を放っている姿は孤高で隔絶した印象を与えています。顔のまわりの白いレースの細かな描写や、手にしているハンカチの飾りや衣装の材質の違いといった微細な描写、あるいは左下の椅子のクッションの飾りまで細かく描きこまれていて、目立たないとこめでディテールの豪華さを描きことにも手を抜いていません。彼女のひっつめにした金髪の髪の丁寧な描写といった細密に描き込まれていること自体が、その豪華さをアピールしている。つまり、モデルを引き立てる演出と衣装やアクセサリーの豪華をこれでもかというほど描きこんで、モデルを引き立てています。私のような当時を知ることのない者は、その細部の描写をみているだけでリアルと錯覚してしまいます。この作品と比べるとベラスケスのフェリッペ4世の肖像は演出も細部の描写でもお座なりと言っても差し支えないほどで、ということは、お座なりでないところ、つまり顔だけで勝負していると言えると思います。それだけ、顔の描写に迫真さがあって、見る者を納得させてしまう。場面の演出もない、衣装や装飾といったものは、モデルの人物自体ではないのだから、敢えて余分なものとして、人物自体を、それが露出している顔だけに焦点を当てて描こうとしている。近代の個人の主体を重視する考え方とは違うのかもしれませんが(そのひとつの証拠として、人物の表情を感情の表われのようにベラスケスは描いてはおらず、無表情と言ってもいいと思います)、そのような姿勢に親しみ易い点があると思います。

また、ベラスケスの「バリェーカスの少年」(左上図)とファン・バン・デル・アメンの「矮人の肖像」は同じ矮人をモデルにしながら、ベラスケスは殊更に矮人であることを強調するようなことをしないで、ひとりの人物として描いているということでしょうか。

ジョゼペ・デ・リベーラの「女の戦い」(左図)という作品は大作です。おそらく宮殿の大広間を飾ったようなものではないかと思いますが、荒唐無稽な場面です。美女同士が武器持って戦っている。しかも、格好が甲冑でも戦闘服でもなく、動きにくそうな長いスカートで。しかし、剣と盾を持って、血も少し流している。それをちゃんと闘っているように、しかも、闘っている女性が美女であること、つまり美しさを損わないようにしている。その按配のそつのなさ。この展覧会でベラスケスがメインで、それに次いでスルバランとこのリベーラという人ということが宣伝されていましたが、ベラスケスは人物の迫真的な描写、スルバランは神秘的な画面世界と、何となく見ることができたのですが、リベーラの場合には、上手いのでしょうが二人のような突出したものが見つけられなかったのですが、この作品を見ていると、卒なく作品を作ってしまう職人的な腕利きの画家という物だったかもしれないと思いました。この作品でも、壁画の様式のようなところと、リアルな戦闘の描写のあいだで、広間を飾ることができるようにうまく調整しているのはセンスの良さであると思います。

また、フェリックス・カステーリョの「西ゴート王テオドリック」(右図)という作品は、その派手で細かい装飾もさることながら、画面浸りの背景の戦闘の場面の描写など、豪華な作品であると思います。

X.風景

ベラスケスの「王太子バルタサール・カルロス騎馬像」(左下図)という作品は、肖像画であるとともに、“極めて写実的に描かれた背景のマドリード郊外の山並みが「ヨーロッパの風景画史における名作の一つ」に数えられ、スペインにおける風景表現において例外的な、極めて重要な位置占める”と説明されています。しかしだからといって、ジャンルにこだわるつもりはありませんが、この作品の主役は騎馬の少年であり、馬の躍動する姿であって(その馬の構図によって、画面右奥から左前方に飛び出してくるような動感があります)、背景の風景は、あくまでのその添え物として見てしまいます。この作品を見ていると、背景よりも、王太子の可愛らしい姿や風を切って走っている様子、服が風を受けて、裾やマントがたなびいている。それに対して馬のたてがみが逆方向に流れているのも気になりません(笑)。王太子の顔は、はっきりとは描きこんではいないのに、おそらく当時の本人を知る人は、ちゃんと当人を描いていて、よく似ていると思ったのではないかと思える。そういう雰囲気を生き生きと再現している。そういう作品なので、これで背景にまで注意を払うというのは、よほど余裕がある人でないと、なかなかそこまでいかないのではないかと思います。

クロード・ロランの「聖セラピアの埋葬のある風景」(右下図)という作品です。この風景というコーナーには、もっとも適した作品です。スペイン・バロックやフランドルの絵画をずっと見てきて、予備知識のない私は、クロード・ロランの、それらとは異質な落ち着いた画面に出会って少し驚きました。“アンティオキアの生まれの若い聖女セラピアは、ローマの寡婦聖女サビーナに侍女として仕え、彼女をキリスト教への改宗に導いた人物である。本作はキリスト教徒への迫害の犠牲となった聖女セラピアの埋葬場面を表わしている。彼女の体はローマの高貴な夫人たちにより運ばれ、石棺に安置されようとしている。登場人物の中では赤とオレンジの衣服をまとった聖女サビーナが強調されており、彼女は上方から悲しげに埋葬場面を見守っている。場面は自由に構想された古代ローマの遺跡の中で展開しており、聖女たちが埋葬されたとされるヴェンティーノの丘が見られる。また、後景にはテヴェレ川とコロッセオが描き込まれている。遺構を正確に再現しているにもかかわらず、クロードは地理的再構成を試みていない。というのも、本来、テヴェレ川はより左方に位置するため、水平の構図が必要だったのである。むしろここでは、構図中央の右側に配置された4本の円柱によって、縦長の画面の明確な垂直性が強調されている。”というように解説されています。つまり、ベラスケスの場合とは逆に人物は風景の一部となって、画面を構成するパーツです。解説にあるように画面全体の構成が構想されて、その設計にしたがって、パーツが丁寧に描かれて、全体としてのひとつの世界を構成しています。展示されている他の作品に比べて、異質に感じられるほど落ち着いて静かな感じのする作品でした。それだけに会場の中でも地味で目立たない印象で、会場でも下手をすれば素通りされてしまうという、かわいそうな位置にあったと思います。決してそういう作品ではないのですが。似た構図で並んで展示されていたファン・バウティスタ・マルティネス・デル・マーソの「ローマのティトゥス帝の凱旋門」(左下図)が明らかに、この作品を参考にしているようなのにロマン主義的な廃墟の感じとか、粗い筆致で動きを画面に与えていたりして、見る者に感情的な雰囲気を想像させるようになっているので、比較的目立ってしまっています。

ここでロランを見てから、再びベラスケスに視線を戻してみると、ベラスケスの素早い筆の運びで荒々しく描かれたタッチにしか見えないものが、少し離れたところから眺めると、写実的な衣服のひだに見える、というような印象派以降の近代の画家たちの先駆けと言われるような特徴は、クロード・ロランの静謐で落ち着いた画面に対して、ダイナミックで、「王太子バルタサール・カルロス騎馬像」であれば、馬が躍動していて、今にも画面から飛び出してきそうな表現を可能にしていると思います。そのようにして見ると、このベラスケスの作品では人物や馬だけでなく世界は動いていると感じられるのです。円形の山は動いているかと問われれば、何ともいえませんが、雲は流れているし、草や木々は風に揺れています。風があるということは空気が絶えず動いているということです。さらに、この世界を見ている人というのも、止まっているわけではない。視線も動いている。そういう動きが絶えずあるとすれば、ある一点で静止しているわけではないので、点だって流れてしまう。そういう動きを前提に描こうとすると、点を点としてはっきり描くことはありえないことになります。つまり点だて流れていくのですから、そういうものとして描こうとすれば、と考えるとベラスケスの描き方というのは、何も近代的な描法というのに限定されない。例えば、日本のマンガが動きを見る者に感じさせるために、大胆に省略したり、形を歪めたりするのと同じ発想にも思えます。それはベラスケスにはありますが、クロード・ロランにはないものと言えます。

デニス・ファン・アルスロートの「ブリュッセルのオメガングもしくは鸚鵡の祝祭:職業組合の行列」(右下図)は楽しい作品です。この楽しさは美術館にいって、この現物のスケール感と細部を、描かれたひとりひとりの人物をひとつひとつ見分けるように見てみないと分からないと思います。とにかく、これだけの人物を描いている労力に感嘆させられます。しかも、それぞれの人物がみんな違うのです。ひとりひとりがちゃんと個性を持っていて、それぞれが独立している。それは、この並んで行列している人たちだけでなく、背後の建物の窓から行列を眺めている人々もみな表情が違っています。それをいちいち、あんな人もいると見つけて面白がっているうちに時間を忘れてしまいます。これは、現代絵画のミニマルアートの楽しさにも似ているようなところもあります。しかし、この作品はコピーという要素がありません。

Y.静物

スペイン・バロック美術の静物画は「ボデコン」と呼ばれる独特なもので、私の大好きなジャンルです。解説によればスペインで最初に静物画を残したファン・サンチェス・コターン(1560〜1627年)ということで、“彼は基本的に宗教画家であったが、1600年前後に幾つかの静物画を制作したとされる。これらの作品は、北方ともイタリアとも異なる閑寂な雰囲気を帯び、そこでは重厚な石壁が四角くくり抜かれたかのような窓枠状の縁取りの内部に、野菜、果物、獲物などが一定の距離をとって並べられている。この構図は日常を映し出したものではなく、幾何学的な趣向に基づいたものであり、その中で身の回りの「モノ」たちは、自らの存在を暗闇から救い出すかのような超自然的な光に射られ、私たちの目の前に浮かび上がる。それはいわば現実と非現実の神秘的な邂逅であり、以降、スペイン静物画の大きな特徴とし魅力の一つになっていく。”

フェリペ・ラミーレスの「食用アザミ、シャコ、ブドウ、アヤメのある静物」(左図)という作品は、ファン・サンチェス・コターンの「獲物、野菜、果物のある静物」をモデルに描いた作品とのことです。“重厚な石壁が四角くくり抜かれたかのような窓枠状の縁どりの内部に、野菜、果物、獲物などが一定の距離をとって並べられている。この構図は日常を映し出したものではなく、幾何学的な趣向に基づいたものであり、その中でモティーフは自らの存在を暗闇から救い出すかのような超自然的な光に射られ、神秘的なオーラを放っている。”と解説されているコターンの作品に倣ったようならミーレスの作品です。たしかに、四角い窓枠のようなものは日常生活にはないもので、並べられている個々の物は生活の場面のなかで、このように並べられることはありません。また、背景が真っ黒で四角い枠の中の個々の物だけが照らし出されるというのも非日常的な場面です。そこで、個々の物そのものが日常的な場面から抜き出されて、それ自身の存在が照らし出される。その個々の物をラミーレスは精緻に描写しています。例えば、暗闇から照らし出される、金属の花器の硬く冷たい光沢とブドウや鳥の羽の柔らかい肌触りの違いが、他の要素が切り捨てられているだけに際立たせられていて、物それ自体の存在を見る者に、それぞれに強調しています。まるで、それぞれの物のそれぞれが在るということが輝かしいとでも言われているようなのです。

ファン・バン・デル・アメンの「果物籠と猟鳥のある静物」(右図)という作品です。“石でできた窓枠のような場所に、様々な種類の果物や猟鳥が配されている。メロンやモモ、ブドウを盛った藤籠を中心に、向かって左側には手前に突き出た丸ウリと茶色のテラコッタ製カップが右側には小さな丸ナス、そして白い陶器の皿にのったブドウとプラムが配されている。頭上からは、左側にキジ科の猟鳥アカアシイワシャコが2羽、右側に3つのザクロとサケイ科の猟鳥シロハラサケイが2羽、つり下げられている。全体として緩やかな左右対称をなし、安定感のある堅固な構図が作り出されている。画面左手前から差し込む光は、暗く閉ざされた背景の上にモティーフの輪郭をくっきりと浮かび上がらせ、描かれた事物の迫真性を演出している。”と説明されています。“モティーフを配す「舞台」として、上辺を欠く窓枠のような奥行きの浅い石の台を用いることは、この画家の最大の独創であった。モティーフを台から手前に突き出したて置いたり、また上からつり下げたりして視覚的なイリュージョニズムの効果を高める手法も、彼が得意としたそれである。”とも。たしかに、奥行きがなくて、空間の狭さが感じられます。しかも隙間を埋めるように多様な果物を籠かにこぼれんばかりに盛り合わせて、画面を所狭しと埋め尽くすような「空間恐怖」と解説されていますが、そんな構図になっています。それは、ひとつには、豪勢に盛り付けられた華やかで装飾的な効果を作り出していることが言えます。そこでラミーレス←コターンの作品に比べると、ラミーレスの作品は背景の暗闇が思いのほか大きな面積を占めていることが分かってきます。それゆえにアメンの作品のように空間が閉じて狭苦しくはなっていません。それは、じつは暗闇の深さ、つまり深淵となっていることが、この比較から分かってきます。アミンは、そのような暗闇の深さを嫌ったといえるからです。ラミーレスの作品では暗闇を背景にして静物が在ります。つまり背景の暗闇には何もないのです。何もないということは「無」の世界、つまり虚無です。ラミーレスの作品ではそういう虚無をバックにすることで、静物が在るということが強いコントラストを作り出し、緊張感の高い厳格な世界を作り出しています。しかし、虚無というのは、普通ではありえないことです。というよりは、あってはならないことです。しかし、そういう画面構成であるからこそ、静物画が神秘的になっているわけです。その矛盾を抱えたアメンは、極力、虚無を描かないようにした。そのために虚無の穴を埋めるように静物で画面を埋め尽くすようにした。アメンの作品は、絵画的と言えると思います。

ヤン・ブリューゲル(父)の「花卉」(左図)という作品です。“テーブルに置かれた花模様の縁を持つ陶器が、カーネーション、何種類ものバラ、スイセン、アネモネなど、様々な種類と色彩の花を数多くたたえている。しかし、収まりきらなかった幾つかの草花はテーブルに散らばり落ち、最前景には小さなオレンジの花の枝が美しく横たわっている。さらに、画面中央の白いカーネーション上のテントウムシ、左上の小さな枝に止まるチョウ、反対に右側の花から蜜を吸おうとするトンボなと、花々の間には何匹かの生き物が潜んでおり、作品に真実らしさをもたらしている。ブリューゲルの花卉画においてシンボリックな解読は、命や美のはかなさというヴァニタスの概念に基づけば、常に成り立つ。しかし、彼は、寓意的。理知的な解釈よりも迫真性やそれ自体の造形美を魅力とする光景で我々の心を揺り動かすことに成功している。”と解説されています。この作品も背景は暗闇で、台こそありますが、背後はラミーレスと同じで暗闇の深淵です。そこに映し出されるものが、果物や獲物か花かの違いで、この画面にはそのものが在るということが峻烈に差し出されていると思います。ブリューゲルのすごいのは、果物や獲物とは違う花の柔らかさ、例えば花びらの透き通るような薄さを、その花びらの一枚一枚の個性を精緻に描き出していることです。さらに、この花が生き物であるという生々としさを感じさせていることです。ラミーレスの作品では在るということが抽出されている感じでしたが、ブリューゲルの作品では生きているということ、在ろうとして在ることが抽出されているという感じです。それが作品の美しさとなっている、とても感覚的な言い方になってしまいますが。

この静物画の展示で残念でならないのは、スルバランのボデコンを見ることができなかったことです。この人の作品は、静物画というものを超えて、宗教的な静謐さを湛え、瞑想に誘う雰囲気があるからです。最初のコーナーの「芸術」のところに展示されていたキリストの磔刑図に劣らない宗教画となっているのですが、それがあると、静物画から次のコーナーの宗教画への連続性をもって強く意識できたのに、と残念に思います。

Z.宗教

静物画のコーナーにはベラスケスの作品展示はありませんでしたが、ここでは最初にベラスケスの「東方三博士の礼拝」(右上図)という作品です。キリストが誕生したときに、3人の博士が東方から贈り物を携えて祝福にやってきたという福音書のエピソードの場面です。ベラスケスの未だ若い頃に制作された作品とのことで、独特の粗い筆遣いは未だ現われておらず、隅々まで丁寧に描きこまれています。後年のダイナミックな動きを孕んだ生き生きとした画面に比べると、すこしノペッとした感じではあります。解説によれば、この作品はイエズス会の修道院のために描かれたものということで、“イエズス会の修道院は、初誓願を立てる精神の若い修練士が修道士としての適性を有しているかどうかを究明する施設である。そこでは日々、イエズス会の創始者である聖イグナティウス・ロヨラの提唱する「霊操」が実践されていた。聖なる出来事を、まるで今、眼前で起こっている現実の出来事であるかのように想像し、その現場に身を置いて、五感を用いて実体験することにより、霊益を修めることを目指していたのである。”と説明されています。その説明は、この作品の画面の説明にもなっているようです。つまり、この画面の人物たちは、キリストや聖母マリアをはじめとした聖人ばかりですが、ここで描かれているのは、聖人とて光彩を放つような理想化された姿ではなくて、市井のどこにでもいるような普通の人々の姿です。それだけな実在感があって、現実に当時の人々の目の前で起こっても不思議ではない場面として見ることができると思います。天使も飛んでいないし、輝かしい光輪も、そういう装飾的なものが排除したような画面の中で、その手前側、右上から左下への対角線上に配置された聖母マリアと幼いキリストと、その前で跪く若い男性が中心で、画面左上からの光を受けて、明るく輝く、白い服のキリストは見る者の注目を集めるようになっています。そして、画面左手のキリストに贈り物を捧げる博士たちの顔は影になっていて、作品タイトルが「東方三博士の礼拝」というのだから主役であるはずなのに、それを影にして、対比的にキリストに光がさしているのをコントラストで強調しています。そこに、カラヴァッジオのようなドラマが生まれています。しかし、若描きのゆえでしょうか、キリストの顔が後年の肖像画などに比べると生彩がないというかノッペリとした印象で、他の人々の顔も類型の範囲を出ていない感じがします。

ファン・バウティスタ・マイーノの「聖霊降臨」(左上図)という作品は、ベラスケスに比べると、装飾がたくさんあって、中心の女性の衣服は聖母マリアのシンボリックな姿(鮮やかな青とピンクの衣装など)でいかにも聖人という描き方です。しかも画面上部の中央にハトが飛んでいて、その上から光が降り注いでくるドラマチックな構図は、エル・グレコを想わせます。グレコに比べると人々の姿のデフォルメが少なくて、人間らしく描かれています。

スルバランの「祝福する救世主」(右上図)という作品です。ベラスケスの作品に比べて、さらに余計な装飾を取り払ったような作品です。背景はなにもなくてキリストが一人中央に立って右手を上げて祝福を施す仕草をしていて、左手は世界を表わす球体に乗せて、その球体の上部に立てられた十字架を背負うように脇に抱えている。これは「サルヴァトゥール・ムンディ」という中世のイコンの図像パターンだということです。しかし、スルバランのこの作品では、画面左から斜めに差し込む強烈な光が濃い陰影を生み出して、明暗のコントラストが画面全体に神秘的な雰囲気を生んでいます。ここではキリストの衣服の質感その日にやけて褪せてしまった色の表現、そして何よりもキリストの手のごつごつした手のとくに指先の肉感的な表現、日に焼けたような肌の色。それが、キリストのリアルな人としての実在感。それが、見ている人には、キリストと一対一で向き合っているような神秘的な体験をさせてしまうような作品であると思います。これは、並んで展示されていたグイド・レーニの「使徒大ヤコブ」(左図)とよく似ています。しかし、レーニの作品は迫力がある画面ですが、スルバランの作品に比べるとあざとく映ります。

アロンソ・カーノの「天使に支えられる死せるキリスト」(右図)という作品です。頭を垂れて、血の気をうせて土気色になってしまったキリストの死体の手前側の左手の甲の磔にされて釘を打たれた後からは鮮やかな赤い血が流れています。暗闇の中で、その姿と背後の天使だけが浮かび上がる、このポーズと幻想的な雰囲気が、19世紀末の象徴主義的な幻想絵画を想わせるところがありました。

ルーベンスの「聖アンナのいる聖家族」(右下図)という作品です。これまでのスペインの画家たちの作品とは、明らかに異質の作品で、見るからにルーベンスとしか言いようがない。中央の聖母マリアの成熟した女性の姿、しかし、可愛らしさが感じられる。こういう女性像はルーベンス以外の画家はなかなか描けないものです。そして、マリアに抱かれた裸のキリストの肉体のまるで大人の体を赤ん坊に当てはめたような豊饒に肉々しい様子。当時の豊かな市民のアットホームな家族の姿のように描かれているようですが、この人物たちの豊饒さは神々しいというか、ルーベンス独特の理想化された姿と言えると思います。こうなると、もはや光輪とか天使など描く必要がないと言わんばかりです。

バルトロメ・エステバン・ムリーリョの「小鳥のいる聖家族」(右下図)という作品です。ムリーリョはベラスケスやスルバランに負けないピッグ・ネームで、数年前の三菱一号館美術館の「プラド美術館展」では大作「ロザリオの聖母」が展示されていたのに比べると、今回の展示はムリーリョの作品は、これ一点のみで残念でなりません。今回はベラスケスが中心なので、しかたがないのでしょうか。ムリーリョもベラスケスと同じように、キリストも聖母マリアといった聖人たちを、普通の人々の姿で描いて、現実に当時の人々の目の前で起こっても不思議ではない実在感ある場面にしています。ムリーリョは、そういう点に加えて、この画面では幸福な家族の日常的なスナップショットのように、見る者にとって優しく親しみ易い雰囲気を作り出していました。これがベラスケスにないムリーリョの魅力であると思います。ベラスケスの荒々しくあるタッチが画面全体をダイナミックに躍動するような生き生きとしたところがあるのに対して、ムリーリョは、流麗なタッチと霞のかかったような柔らかい仕上げで、穏やかでくつろいだ印象を見る者に与えてくれます。ベラスケスが聖なる出来事を現実に目の前に起こったように再現しているのに対して、ムリーリョは、さらにそれをより身近なものとして表現しているといえるのではないかと思います。それだけに、ムリーリョの作品をもっと見たかったです。

 

 
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