グエルチーノ展
よみがえるバロックの画家 |
2015年3月18日(水) 国立西洋美術館 昨年の9月以来の通院日、半年振りの検査で経過を見る。大きな変化なしということで、1年後に様子を見ましょうという医師の言葉に、ほっと安心した。予想していたより早く診察が終わったので、空いた時間で少し無理して上野まで足を伸ばした。一足早い春のようなポカポカ陽気で、天気もよかったためか上野の公園口は平日というのにけっこう人が多かった。それも外国人の姿が多かったようだ。花見でもするのだろうか。展覧会自体は、未だ始まって間もなく、平日の昼過ぎということもあって、人影も少なく、静かにじっくりと作品を堪能することができた。作品のサイズが大きく、そのためか展示点数が40数点という少ないこともあって、ゆったりとした雰囲気も、静けさと相俟って、とても落ち着いた印象の展覧会だった。
“グエルチーノ(1591~1666年)はイタリア・バロック美術を代表する画家として知られます。カラヴァッジョやカラッチ一族によって幕を開けられたバロック美術を発展させました。一方、彼はアカデミックな画法の基礎を築いた一人であり、かつてはイタリア美術史における最も有名な画家に数えられました。19世紀半ば、美術が新たな価値観を表現し始めると、否定され忘れられてしまいましたが、20世紀半ば以降、再評価の試みが続けられており、特に近年ではイタリアを中心に、大きな展覧会がいくつも開催されています。” 私も、クエルチーノという名は、はじめて聞いたのでした。展覧会のサブタイトルが“よみがえるバロックの画家”というものだったので、少し興味を持ったのが展覧会に行った動機です。たしかに引用したパンフの説明にあるようにカラヴァッジョの強烈な明暗の対照に比べると、グエルチーノは、よく言えば古典的で安定した感じがする、悪く言えば微温的でもの足りない。カラヴァッジョの比べると酷かもしれませんが、グエルチーノはカラヴァッジョのような才能に振り回されて行き着くところまで逝ってしまった人ではなくて、普通の(とはいえ有能な)人が地道に努力を重ねて、ある程度のレベルの作品を残すことができた、という印象を受けました。私が見た、グエルチーノという人の特徴は一種のバランス感覚のようなものです。全くの畑違いですが、クラシック音楽の世界で20世紀の作曲家にリヒャルト・シュトラウスという作曲家がいます。有名なグスタフ・マーラーの後を受け継ぐように、半音階を多用し、不協和音を大胆に使用した先端的なオペラをつくり、物議をかもしたということですが、その後の一線をついに超えることはなかったという人です。その一線を超えて調性を否定する作品をつくったのはシェーンベルクという作曲家、彼からいわゆる難解なゲンダイオンガクが始まったと言われるのが西洋音楽史となっています。さて、そのリヒャルト・シュトラウスは一線を踏み越える前で留まった後は、戯古典的な作品に変わって人気作曲家となります。いまでも、クラシック音楽の世界では比較的人気のある作曲家ですが、評価としてはドイツ・ローカルなマニア向けで、いわゆる巨匠のような作曲家に比べて数歩劣るという位置づけです。私も、彼の作品を聴くことがありますが、オーケストラを鳴らすのに巧みなのは分かるのですが、たんに響いているだけという印象で、聴いたという満腹感とか充実感を得ることが少ないので、BGMという位置づけにあります。話しを戻しますと、グエルチーノの作品を見ていると、似たような、色々試して頑張っているようなのですが、それがグッとこちらに迫ってこないで、どこかもの足りないという感じがしました。
ただ、このようなグエルチーノとグレコを比べて、グレコの方が上でグエルチーノはその域に届かないというのではありません。それが、二人の画家の方向性の違いでもあるわけです。そのひとつが、グエルチーノと言う画家の持っているバランス感覚はグレコには希薄だったようでしょうし、リアリズムとまではいかないでしょうが、親しみやすさとか、グエルチーノは様々な要求に応えようとしたのではないかと想像することも可能です。そういう点でみると、グエルチーノという画家は、グレコ等に比べると現代的な視点からも親しみやすい人と言えるかもしれないのです。そのような見方で、これから具体的な作品を見て行きたいと思います。 会場での展示は次のような章立てだったので、それに従って見て行きたいと思います。 Ⅰ.名声を求めて Ⅱ.才能の開花 Ⅲ.芸術の都ローマとの出会い Ⅳ.後期①聖と俗のはざまの女性像─グエルチーノとグイド・レーニ Ⅴ.後期②宗教画と理想の追求
Ⅰ.名声を求めて
そんな展示で、最初に迫ってきたのは、当のグエルチーノの作品ではなく、彼がお手本にしたというルドヴィコ・カラッチの『聖家族と聖フランチェスコ、寄進者たち』(右図)という大作です。これは私の勝手な想像ですが、若干20歳で工房を率いる立場に立って、画家本人としては張り切って仕事に励んだのでしょうが、その反面、工房の人々やその家族を食べさせていかなくてはならない責任が彼の肩に負ってきたのではないかと思います。そのとき、技量を認められていたとはいえ、師匠に教わったということがなく、独学で描いてきたことに不安を感じ多のではないかと思います。イタリアのある地方の都市という狭いところでは、技量を認められていたかもしれませんが、井の中の蛙ではないと、その街の誰が証明してくれるでしょうか。もし、そうであって、彼自身がその自覚がなければ画家として行き詰るのは目に見えているし、工房の人々を路頭に迷わすことになりかねません。そのプレッシャーは若い画家の双肩に重くのしかかっていなかったと誰が言えるでしょうか。そんな画家がすがるようにお手本にしたのが、この作品だったという見方は、ちょっと作りすぎかもしれませんが、グエルチーノがこの作品の様々な要素をそれこそひとつも逃すことなく吸収しようとしたのか、何となく分かるような気がします。
グエルチーノの『聖母子と雀』(左図)という愛らしい作品。この幼子のイエスを抱いた聖母マリアの姿は、『聖家族と聖フランチェスコ、寄進者たち』の中央上部の祭壇上の聖母子の姿とよく似ています。しかし、カラッチの描く聖母子をそのまま引用するように持ってきたというのではありません。例えば、カラッチの聖母子は画面全体の中でのスポットライトを聖母子に当てているために母子の姿全体が明るく照らし出されていますが、グエルチーノの作品では、母子の背後から光を当てるようにして、雀を見ているキリストの表情は影になり、マリアの顔も半分隠れるようです。また、マリアの右手は、雀を止まらせるために、カラッチのようにキリストを抱きかかえる格好とは違っています。これは、グエルチーノがカラッチの聖母子を土台にして、そこに彼なりの創意を加えて作品として制作したものと考えられます。それは、単に丸ごと引用するよりも、土台してそこに自分なりの創意を加えるということで、それだけ影響は深いものと考えてられます。つまり、グエルチーノはカラッチの作品の聖母子の描き方を血肉化するほど取り込んでしまったので、それをもとに応用ができてしまえるほどになっていたということです。おそらく、グエルチーノはカラッチの作品の画面を隈なく舐めるように、吸収していったのではないでしょうか。そこで、人体の描き方とか、女性の顔立ちとか、グエルチーノにとっては、このカラッチのお手本がメジャーに通じる一本道に見えたのだったのではないか。それだけに、愛らしい小品のようにも見える、この作品は、聖母子のアトリビュート(シンボリックな小道具)がなく、神々しい姿にもなっていなくて、カラッチの聖母子の姿の引用で、そのポーズなどで聖母子と見せているということで、カラッチの作品の派生的な作品になっている、と考えられます。つまり、この作品がそのものとして自立していると言えないのではないか。
『祈る聖カルロ・ボッロメーオと二人の天使』(右図)という作品はどうでしょうか。私には、赤いマントを羽織り跪く聖カルロ・ボッロメーオの姿は、『聖家族と聖フランチェスコ、寄進者たち』の画面左下で聖母子に跪く聖フランチェスコの姿と重なってくるのです。人物は異なるし、聖カルロ・ボッロメーオは手を合わせているのに対して、聖フランチェスコは両手を広げていますが、身体の姿勢や祭壇に対する位置関係、あるいは描いている角度や態勢といったベーシックなところは共通しています。
また、一方で、これだけ深甚な影響をカラッチから受けながら、グエルチーノがカラッチにならなかった点、つまり、カラッチとグエルチーノの違いとして明らかに見えるものもあります。それは、グエルチーノには、シンプルさへの指向があるということです。カラッチの作品に見られるゴチャゴチャした感じに対して、グエルチーノはパーツを削ろうという指向がはっきり見て取ることができると思います。それは、『祈る聖カルロ・ボッロメーオと二人の天使』にも見られると思います。天使の姿を聖カルロ・ボッロメーオの背後の二人に絞って、アトリビュートも描き入れることをしていません。そこには、全体の構成とメインの登場人物で画面を構築するという、この後で明らかになってくるグエルチーノの特徴の萌芽が見られると思います。 なお、余談ですがカラッチの『聖家族と聖フランチェスコ、寄進者たち』の聖フランチェスコから、遠くカラヴァッジョの『瞑想する聖フランチェスコ』(左図)の姿が垣間見えてきます。この両者を比べてみると、カラッチの作品を突出したところがないと、私が述べる理由も分かっていただけると思います。
Ⅱ.才能の開花
展示室のフロアが変わって、狭い階段を通り、広い部屋に出ると、宗教的な主題の大作ばかりが、ドッカンと展示されていて、美術館というよりも、教会とか宗教施設の中にいるような雰囲気になっていました。まして、見学者の数も多くなくて、静かな雰囲気だったので、なおさらでした。
さて、抽象的で退屈なことを長々と書きました。何でこのようなことをしたのかと言えば、グエルチーノは、このような環境であったからこそ、世に出ることができたのではなかったのか、と思ったからです。ここでグエルチーノの作品を見て、たしかによい作品であって、それなりに楽しめるものであるし、品質も高いものだと思います。しかし、正直に言えば、これらの作品を誰の作品と教えられずに見せられて、作者を当てろなどと問われたとして、グエルチーノであると迷わずに答えることができるほどに、私にとって強烈な個性を見出すことはできませんでした。他の画家と比べてどっちがいいかとか、あまりそういうランク付けのようなことは好きではないのですが、同じバロック美術に分類されるようなルーベンスとかカラヴァッジョのような一目でそれと見分けがつく画家では、グエルチーノは、私にとっては、なかったのでした。私がそう思ったから、普遍的にそうだとは言えませんが、
抽象的な議論が長くなってしまいました。作品を見て行きましょう。『ロレートの聖母を礼拝するシエナの聖ベルナールと聖フランチェスコ』(右上図)という作品です。2.4×1.5mという大作の祭壇画です。縦長の構図で見上げるような角度で描かれています。ロレートの聖母とは、イタリアの一地方にあるサンタ・カーサに奉納された幼児キリストを抱いた聖母マリアの像(左上図)だそうです。ナザレの地で聖母マリアと家族が暮らしていた家が天使たちによってイタリアのロレートに運ばれ、その奇跡を記念して聖堂が建てられ、それ以降は巡礼地となったということです。つまり、この作品で礼拝される聖母は像で、この作品はそのマリア像そのものの神々しさを表わすイコンのようなものというより、それを神々しさに礼拝する場面を描いているもので、ここに劇の一場面のような、いかにもバロック絵画らしいものと言えます。例えば、右奥の背景の空の描き方がいかにも書割の背景であるかのように描かれていたり、全体的な空間の広がりを感じさせず、むしろコンパクトに画面に収めようとする、多少の窮屈な空間の、まるで劇場の舞台のような都合の良いまとめ方を感じられると思います。これは、いかにも教会に飾るという効率性の要求に応えようとしていると考えられる。そこに、グエルチーノのクライアントの求めに誠実に応えよ しかし、同じ題材の作品について、例えばカラヴァッジョの『ロートの聖母』 (右上図)と比べるとどうでしょうか。カラヴァッジョの作品では聖母像は現実の生身の女性のように描かれ、ロレートの聖母であることが分かるようなもの描かれていません。頭上の光輪からかろうじて聖母子であることが分かるだけで、現実の石造りの建物の前で、母子に汚れた身なりの男女が跪こうとしている瞬間が、まさにそのダイナミックな動きが活写されているように見え、さらにマリアが跪く男女に目をやるところから、祈る側と祈られる側の関係が現実にあるということがリアルに描かれています。ここには信仰という行為が現実の場面として活写されていると言えるのではないかと思います。たとえば、近代的な個人が内面の信仰ということを議論する場合に、このような画像は個人に問いかけるような強い精神性を持っているといえるかもしれません。ただし、ここでは類型的な神々しさとして聖堂に飾る範囲を逸脱してしまうのではないか。個人の自覚とかいう以前に聖堂に会する群集にアピールするにはパターンを外れてしまっているかもしれません。このような、逸脱は後世の現在からみれば、カラヴァッジョの一種の表現の過剰として、彼の特徴として見る事ができるものです。しかし、グエルチーノは、いわば、カラヴァッジョは越えてしまった一線の前で留まっているのです。これは当時の人々への効果を考えれば無理のないことなのですが、後世の私などから見れば、一線を越えたカラヴァッジョと比較してしまうのです。そこにもの足りなさを感じてしまうのを禁じることはできないのです。
Ⅲ.芸術の都ローマとの出会い
30歳を過ぎて、グエルチーノはローカルな画家から、ローマに出てきます。2年ちょっとで、また地元にもどったということですが、それが彼の画風が変化していくきっかけになったといいます。“彼の構図は次第に単純化していき、人物の輪郭は明確になる。光も空間全体を淡く照らすようになり、人物のヴォリュームを強調するようになる。つまり、古典主義的な様式に近づいていく。”そういう説明は、私のような美術作品を見る素養のない者にとっては、違いが具体的には分かりません。
Ⅳ.後期①聖と俗のはざまの女性像─グエルチーノとグイド・レーニ
これに対して、グイド・レーニの作品(右上図)は、背景は同じように暗くなっていますが、彼女は寝室にいるシチュエーションのようなので、グエルチーノの場合のような暗闇と光を対照的に扱うというのではなく、寝室の暗さか背景を省略している意図のように見えます。主人公である女性はグエルチーノの作品に比べると明瞭に隈なく描かれています。これは、生と死の場面の登場人物としてのルクレティアを描いているのではなく、一人の美しい女性を描いていると言った方が近いかもしれません。その美しさを作品として描くためにルクレティアの物語の自害の場面という設 このように言葉にすると、二人の画家の作風を大きく異なると誤解されてしまいそうですが、これは違いを強調してのことで、それほど違うのかといわれれば、実はよく似ていると思います。それは、例えば、有名なパルミジャニーノの『ルクレティア』(左図)と比べると、むしろ両者の近さが分かると思います。 もうひとつ、グエルチーノとレーニを比べてみましょう。題材は同一ではありませんが、似ているものとして、グエルチーノの『サモスの巫女』(左図)とグイド・レーニの『巫女』(右中図)を見てみましょう。似たような扮装の女性像ですが、レーニの方はダイレクトに女性を描いているという作品です。中心は女性像なの 『クレオパトラ』(右下図)という作品を見てみましょう。私には、扮装は違っても、表情やポーズは『ルクレティア』や『サモスの巫女』と同じように見えてきます。さらに見ていくと、前回に見た『聖母のもとに現れる復活したキリスト』でキリストにすがるように跪く聖母マリアの表情と上半身のポーズにも通じているように思えるのです。グイド・レーニの描く女性像は、女性の造形的な美しさを描いていて、衣装や設定はそのための付属品でコスチューム・プレイのようなものだといいましたが、グエルチーノの場合は違った意味でやはりコスチューム・プレイをやっているのではない
Ⅴ.後期②宗教画と理想の追求
そして、『ゴリアテの首を持つダヴィデ』(左下下図)です。画面の構成は、ここで見てきた作品に共通したシンプルなものです。主人公であるダヴィデは、これまでもグエルチーノの作品に頻出した上方を仰ぎ見るポーズです。しかし、これまでの作品はそのポーズの人とともに仰ぎ見られる対象 これらのところに、これまでも、少し触れてきましたが、グエルチーノという画家の一風変わった所を、私は見ます。このようなことは、展覧会の解説にも、展覧会について書かれた感想を読んでも指摘されていないようなので、私の個人的な偏見かもしれません。このグエルチーノの変なところというのは、カラヴァッジョやグレコのような人々の明白に普通でないものとは違って、一見、まったく普通なのだけれど、よく見ると、ほんの偶に片隅にさりげなく現れるようにもので、普段は気がつかないようなものです。カラヴァッジョやグレコのような見ただけで普通でないと分かるものは、彼らの天才をそこに容易に見て取れるもので、要はそれを受け容れることができるか否かという点で、ある意味分かりやすいともいえます。これに対して、グエルチーノの場合には、普段はその普通でないところは隠されて、日常では他の普通の人と同じようにいるけれど、ある時隠しきれずにその片鱗を見せてしまう。言ってみれば陰険というのでしょうか。かっこいい言葉で言えば、日常に隠された狂気とでもいえるものではないかと思います。それだけに、却って不気味なところがあるのです。それに一度気がついてしまうと、気になってしょうがない。グエルチーノの作品を見ていて、すべての作品にあるとは限らず、あったとしても探してもなかなか見つけられない。しかし、気がついたらあら捜しをするように探している自分の姿を発見するのです。
|