グエルチーノ展
よみがえるバロックの画家
 

 

2015年3月18日(水) 国立西洋美術館

昨年の9月以来の通院日、半年振りの検査で経過を見る。大きな変化なしということで、1年後に様子を見ましょうという医師の言葉に、ほっと安心した。予想していたより早く診察が終わったので、空いた時間で少し無理して上野まで足を伸ばした。一足早い春のようなポカポカ陽気で、天気もよかったためか上野の公園口は平日というのにけっこう人が多かった。それも外国人の姿が多かったようだ。花見でもするのだろうか。展覧会自体は、未だ始まって間もなく、平日の昼過ぎということもあって、人影も少なく、静かにじっくりと作品を堪能することができた。作品のサイズが大きく、そのためか展示点数が40数点という少ないこともあって、ゆったりとした雰囲気も、静けさと相俟って、とても落ち着いた印象の展覧会だった。

いつものように主催者あいさつを見ると、作家とか作品のことはさておき、この展覧会を行なう事情が大きく説明されていました。作品の大半が展示されている美術館が災害にあって避難していて、その援助も兼ねて作品を借り出して展覧会を行なうとの趣旨だそうですが、これは、私が作品を観ることには関係ないことなので、単に、邪魔とだけ書いておくことにします。そうやって主催者が展覧会をすることは否定しませんし、そのおかげで私も作品を観ることができるのでしょうが。しかし、慈善でやるならそういうものだとしてやってもらえばいいと思います。仮にそういうことで展覧会をやったとしても、この画家の展覧会をやろうと思ったのは、この画家や作品に魅力を感じたからであるはずで、それについて、主催者としての考え方を趣旨として明らかにするのが、主催者あいさつとして提示されるものだと、私は思っています。だから、展覧会に行けば、私は、先ずこのあいさつを読みます。そして、このホームページに感想を書き込むときも、主催者のあいさつは尊重する意味で引用させてもらっています。しかし、今回の展覧会のあいさつ、そういう内容が書かれていないので、割愛するとして、替わりにパンフレットの簡単な画家の紹介を引用することにします。

“グエルチーノ(1591〜1666年)はイタリア・バロック美術を代表する画家として知られます。カラヴァッジョやカラッチ一族によって幕を開けられたバロック美術を発展させました。一方、彼はアカデミックな画法の基礎を築いた一人であり、かつてはイタリア美術史における最も有名な画家に数えられました。19世紀半ば、美術が新たな価値観を表現し始めると、否定され忘れられてしまいましたが、20世紀半ば以降、再評価の試みが続けられており、特に近年ではイタリアを中心に、大きな展覧会がいくつも開催されています。”

 私も、クエルチーノという名は、はじめて聞いたのでした。展覧会のサブタイトルが“よみがえるバロックの画家”というものだったので、少し興味を持ったのが展覧会に行った動機です。たしかに引用したパンフの説明にあるようにカラヴァッジョの強烈な明暗の対照に比べると、グエルチーノは、よく言えば古典的で安定した感じがする、悪く言えば微温的でもの足りない。カラヴァッジョの比べると酷かもしれませんが、グエルチーノはカラヴァッジョのような才能に振り回されて行き着くところまで逝ってしまった人ではなくて、普通の(とはいえ有能な)人が地道に努力を重ねて、ある程度のレベルの作品を残すことができた、という印象を受けました。私が見た、グエルチーノという人の特徴は一種のバランス感覚のようなものです。全くの畑違いですが、クラシック音楽の世界で20世紀の作曲家にリヒャルト・シュトラウスという作曲家がいます。有名なグスタフ・マーラーの後を受け継ぐように、半音階を多用し、不協和音を大胆に使用した先端的なオペラをつくり、物議をかもしたということですが、その後の一線をついに超えることはなかったという人です。その一線を超えて調性を否定する作品をつくったのはシェーンベルクという作曲家、彼からいわゆる難解なゲンダイオンガクが始まったと言われるのが西洋音楽史となっています。さて、そのリヒャルト・シュトラウスは一線を踏み越える前で留まった後は、戯古典的な作品に変わって人気作曲家となります。いまでも、クラシック音楽の世界では比較的人気のある作曲家ですが、評価としてはドイツ・ローカルなマニア向けで、いわゆる巨匠のような作曲家に比べて数歩劣るという位置づけです。私も、彼の作品を聴くことがありますが、オーケストラを鳴らすのに巧みなのは分かるのですが、たんに響いているだけという印象で、聴いたという満腹感とか充実感を得ることが少ないので、BGMという位置づけにあります。話しを戻しますと、グエルチーノの作品を見ていると、似たような、色々試して頑張っているようなのですが、それがグッとこちらに迫ってこないで、どこかもの足りないという感じがしました。

例えば、展覧会パンフにつかわれている『聖母被昇天』という作品は、聖母マリアが天使に導かれて天上に昇っていく姿を下から見上げる視点で描いている作品です。たぶん聖堂の高いところに飾って、訪れる人々が見上げるように展示されていて神々しさを盛り上げる効果を及ぼしているのではないかと思います。仰角の下から見上げるという視界でグエルチーノは構図とか、構成とか苦労したのではないかと思います。たとえば、画面の中央上部にシンボルとして描かれている鳩の姿は真下からみた姿のように描かれていて、正確に描かれていると思うのですが、神々しいというよりは、下から見た姿を忠実に描いたという印象で、少しばかり寸詰まりなユーモラスな姿に思わず微笑みをまじえてしまうようなのです。そこで、神々しさをもたらすような緊張が緩んでしまうのです。ここで、グエルチーノとは、全く関係ないかもしれませんが、エル・グレコの『無原罪の御宿り』(右下図)という作品と比べてみたいと思います。登場人物がマリアと天使と鳩で仰角の視線で描かれているというのが共通点といえば、共通点です。グレコの作品はゴチャゴチャしていて、うるさい感じがしますし、グエルチーノの作品に比べれば個々のパーツは不正確で、しかも描き方が雑です。鳩などは角度が違っていて、見るほうが修正してあげて見てあげるようです。しかし、画面全体から溢れるような圧倒的なものが観る者に迫ってくるようなのです。残念ながら、グエルチーノの作品からは、グレコのような圧倒的なものは感じられません。

ただ、このようなグエルチーノとグレコを比べて、グレコの方が上でグエルチーノはその域に届かないというのではありません。それが、二人の画家の方向性の違いでもあるわけです。そのひとつが、グエルチーノと言う画家の持っているバランス感覚はグレコには希薄だったようでしょうし、リアリズムとまではいかないでしょうが、親しみやすさとか、グエルチーノは様々な要求に応えようとしたのではないかと想像することも可能です。そういう点でみると、グエルチーノという画家は、グレコ等に比べると現代的な視点からも親しみやすい人と言えるかもしれないのです。そのような見方で、これから具体的な作品を見て行きたいと思います。

会場での展示は次のような章立てだったので、それに従って見て行きたいと思います。

T.名声を求めて

U.才能の開花

V.芸術の都ローマとの出会い

W.後期@聖と俗のはざまの女性像─グエルチーノとグイド・レーニ

X.後期A宗教画と理想の追求

 

 

T.名声を求めて   

グエルチーノの修行時代の作品ということなのでしょうが、どうやら才能に恵まれた天才少年のような人だったようで、17歳で地元の工房の共同制作者となって、20歳で工房を引き継いだということです。だから、誰かの師匠について修行するということもできず、独学のような学び方をしたのではないでしょうか。ただ、独学といっても偏った方向に行かずに、工房の親方と共同制作をしながら、自分で工夫していったということらしく、実践に裏打ちされたバランス感覚のようなものは、天与のものだったのではないか、と想像してしまいます。

そんな展示で、最初に迫ってきたのは、当のグエルチーノの作品ではなく、彼がお手本にしたというルドヴィコ・カラッチの『聖家族と聖フランチェスコ、寄進者たち』(右図)という大作です。これは私の勝手な想像ですが、若干20歳で工房を率いる立場に立って、画家本人としては張り切って仕事に励んだのでしょうが、その反面、工房の人々やその家族を食べさせていかなくてはならない責任が彼の肩に負ってきたのではないかと思います。そのとき、技量を認められていたとはいえ、師匠に教わったということがなく、独学で描いてきたことに不安を感じ多のではないかと思います。イタリアのある地方の都市という狭いところでは、技量を認められていたかもしれませんが、井の中の蛙ではないと、その街の誰が証明してくれるでしょうか。もし、そうであって、彼自身がその自覚がなければ画家として行き詰るのは目に見えているし、工房の人々を路頭に迷わすことになりかねません。そのプレッシャーは若い画家の双肩に重くのしかかっていなかったと誰が言えるでしょうか。そんな画家がすがるようにお手本にしたのが、この作品だったという見方は、ちょっと作りすぎかもしれませんが、グエルチーノがこの作品の様々な要素をそれこそひとつも逃すことなく吸収しようとしたのか、何となく分かるような気がします。

しかし、です。カラッチは当時の著名な画家であったのでしょうけれど、この作品がグエルチーノのお手本として、いわば彼にとって絵画というもののスタンダードな基準となってしまった偶然ということを考えてしまいます。いわば、これがかれにとって一線ということになったということでしょうから。もし、グエルチーノがこのときに、ローマやフィレンツェにいて、もっと他の天才たちの作品を広く見ることができて、絵画というものの可能性に遠く思いを馳せるような体験をしていたら、彼の視野がもっとひろくなっていたら、その後の彼の展開はどうであったのか、思わず想像したくなってしまったからです。作品と離れた妄想が続きました。実際に見ていくことにしましょう。

グエルチーノの『聖母子と雀』(左図)という愛らしい作品。この幼子のイエスを抱いた聖母マリアの姿は、『聖家族と聖フランチェスコ、寄進者たち』の中央上部の祭壇上の聖母子の姿とよく似ています。しかし、カラッチの描く聖母子をそのまま引用するように持ってきたというのではありません。例えば、カラッチの聖母子は画面全体の中でのスポットライトを聖母子に当てているために母子の姿全体が明るく照らし出されていますが、グエルチーノの作品では、母子の背後から光を当てるようにして、雀を見ているキリストの表情は影になり、マリアの顔も半分隠れるようです。また、マリアの右手は、雀を止まらせるために、カラッチのようにキリストを抱きかかえる格好とは違っています。これは、グエルチーノがカラッチの聖母子を土台にして、そこに彼なりの創意を加えて作品として制作したものと考えられます。それは、単に丸ごと引用するよりも、土台してそこに自分なりの創意を加えるということで、それだけ影響は深いものと考えてられます。つまり、グエルチーノはカラッチの作品の聖母子の描き方を血肉化するほど取り込んでしまったので、それをもとに応用ができてしまえるほどになっていたということです。おそらく、グエルチーノはカラッチの作品の画面を隈なく舐めるように、吸収していったのではないでしょうか。そこで、人体の描き方とか、女性の顔立ちとか、グエルチーノにとっては、このカラッチのお手本がメジャーに通じる一本道に見えたのだったのではないか。それだけに、愛らしい小品のようにも見える、この作品は、聖母子のアトリビュート(シンボリックな小道具)がなく、神々しい姿にもなっていなくて、カラッチの聖母子の姿の引用で、そのポーズなどで聖母子と見せているということで、カラッチの作品の派生的な作品になっている、と考えられます。つまり、この作品がそのものとして自立していると言えないのではないか。

そのように見ていくと、ここで「T.名声を求めて」として展示されている一連のグエルチーノの作品は、釈迦様の手のひらの中で孫悟空が弄ばれたように、カラッチの作品の影響の中で、グエルチーノがカラッチの作品のバリエィションの範囲に留まるものであるように、私には見えてきます。

『祈る聖カルロ・ボッロメーオと二人の天使』(左下図)という作品はどうでしょうか。私には、赤いマントを羽織り跪く聖カルロ・ボッロメーオの姿は、『聖家族と聖フランチェスコ、寄進者たち』の画面左下で聖母子に跪く聖フランチェスコの姿と重なってくるのです。人物は異なるし、聖カルロ・ボッロメーオは手を合わせているのに対して、聖フランチェスコは両手を広げていますが、身体の姿勢や祭壇に対する位置関係、あるいは描いている角度や態勢といったベーシックなところは共通しています。

これらのように、カラッチの作品の影響はグエルチーノの作品の目に見える明白なところに留まらないベーシックなところに及んだのではないか、私には思えます。そのカラッチの作品が、どちらかというと突出した天才的な作品と言うよりも、凡庸とはいいませんが、普遍的要素の強い作品だったとおもえることから、グエルチーノの描き方のベースが個性で突出する方向ではなく、分かりやすく広範囲にアピールできるような方向に導かれたのではないか、とあくまで私の仮説的妄想ですが、ここでの展示を見ていて思いました。

また、一方で、これだけ深甚な影響をカラッチから受けながら、グエルチーノがカラッチにならなかった点、つまり、カラッチとグエルチーノの違いとして明らかに見えるものもあります。それは、グエルチーノには、シンプルさへの指向があるということです。カラッチの作品に見られるゴチャゴチャした感じに対して、グエルチーノはパーツを削ろうという指向がはっきり見て取ることができると思います。それは、『祈る聖カルロ・ボッロメーオと二人の天使』にも見られると思います。天使の姿を聖カルロ・ボッロメーオの背後の二人に絞って、アトリビュートも描き入れることをしていません。そこには、全体の構成とメインの登場人物で画面を構築するという、この後で明らかになってくるグエルチーノの特徴の萌芽が見られると思います。

なお、余談ですがカラッチの『聖家族と聖フランチェスコ、寄進者たち』の聖フランチェスコから、遠くカラヴァッジョの『瞑想する聖フランチェスコ』(右下図

)の姿が垣間見えてきます。この両者を比べてみると、カラッチの作品を突出したところがないと、私が述べる理由も分かっていただけると思います。   

 

U.才能の開花   

展示室のフロアが変わって、狭い階段を通り、広い部屋に出ると、宗教的な主題の大作ばかりが、ドッカンと展示されていて、美術館というよりも、教会とか宗教施設の中にいるような雰囲気になっていました。まして、見学者の数も多くなくて、静かな雰囲気だったので、なおさらでした。

この展覧会のサブタイトルにもあるバロックという美術史上の時代というのは、キリスト教内部でのカトリックとプロテスタントの宗教対立が深刻になっていた時代で、ドイツは30年戦争の戦場となり、国土が焦土と化しました。そのような中で、カトリック教会はプロテスタントに対抗すべく自身の体制強化もはかっていくなかで、正統性を強め結束を固めるという名目で、その内部でも苛烈な異端の排除という粛清が進められていきます。そういう中で、キリスト教会の求心性のニーズに応えるものとしてバロックという美術様式が生まれてきたと考えられます。それは、二つの点でのカトリック教会の求心性のニーズです。ひとつはキリスト教世界全体の中で、プロテスタントに対してカトリックの優位性をアピールするという点です。もうひとつは、カトリック教会内部で異端を排除していくために正統的なものを強烈に示していくという点です。それを、ひろく民衆にも広めるためには分かりやすさも必要です。そのために、強くアピールするということ、端的に言えばインパクトが手っ取り早く有効であると考えられたのでしょうか、そこで劇的な表現が追求されていったのではないかと思います。劇的というのであれば、演劇的な空間がそのものです。自然のリアルな場面というのではなくて、観客に及ぼす効率を考えて効果的な空間をしつらえてあげる。それが劇場という特別な空間です。それと同じようなことを絵画の画面の中で意図的に作ろうとしたのがバロックという美術様式ではなかったのか、と私は思っています。そういう姿勢をベースにして、例えばカラヴァッジョのようなあざといほどに光と影の対照を強調してみせて、キリストにスポットライトを当てて神々しさを際立たせることをするようなことが行なわれた、ということです。

それはまた、他方では絵画に対するニーズが高かったことから、それに応じる才能が集まった、またその才能を評価するパトロンの層があったということも言えるのではないかと思います。教会や王家が自らの正統性や権威付けのために絵画を書かせ、書かせる司教や国王が見識をもっていたり、その周囲に見る目をもった人々の層があり、一方、ローマのような中心地はもとより、グエルチーノの地元のチェントという地方でも工房が成立するような環境ができていたといえることは、地方でも才能のある者がいれば、評価され中心地にも情報が伝わるようなシステムができていたということです。そのためには、画家や工房という制作する側にも様々な才能ある人々の層が形成され、大家から中堅まで様々な層がつくられ、時にはその階層から外れるような異端的な才能もでてくるような環境ができていたのではないか、と私には思えるのです。

さて、抽象的で退屈なことを長々と書きました。何でこのようなことをしたのかと言えば、グエルチーノは、このような環境であったからこそ、世に出ることができたのではなかったのか、と思ったからです。ここでグエルチーノの作品を見て、たしかによい作品であって、それなりに楽しめるものであるし、品質も高いものだと思います。しかし、正直に言えば、これらの作品を誰の作品と教えられずに見せられて、作者を当てろなどと問われたとして、グエルチーノであると迷わずに答えることができるほどに、私にとって強烈な個性を見出すことはできませんでした。他の画家と比べてどっちがいいかとか、あまりそういうランク付けのようなことは好きではないのですが、同じバロック美術に分類されるようなルーベンスとかカラヴァッジョのような一目でそれと見分けがつく画家では、グエルチーノは、私にとっては、なかったのでした。私がそう思ったから、普遍的にそうだとは言えませんが、

前回も触れましたが、グエルチーノの作品の印象は、突出したものがあるというよりは、幾つかの要素を強弱をつけながらソツなく画面に収めてみせるというものです。カラヴァッジョの作品のような観る者に迫力で迫ってくる高い緊張感という点では及ばないかもしれませんが、その代わり、多少安心して眺めていることができる。カラヴァッジョの作品を長時間見つめていると疲れていまいますが、グエルチーノはじっくり眺める鑑賞に堪えられる。しかし、だからといって平板なのではなく、それなりの緊張もある。そういう高いレベルでのバランス感覚です。そういう作品の位置づけというのは、観る者にとっては、カラヴァッジョのように、その作品だけを目当てに、ほかのものはなくても、それだけあればいい、という掛け替えのない作品、というのではなくて、カラヴァッジョもあるけれど、こっちも違った意味で悪くないという位置づけのものではないか、そういうときにグエルチーノの作品は価値の高いものとなるのではないか、と思うのでした。変な喩えですが、グルメ趣味の人が、フレンチの三ツ星の名店で高価なディナーがあるからこそ、変格とでもいうべき無国籍の創作料理とか和風の洋食屋のカニコロッケを堪能できる環境で、行き着けの近所のビストロで裏メニューに舌鼓を打つような感じとでも言ったらいいでしょうか。この場合の近所のビストロは決して一流とは言えないのですが、それだからといって評価していないというのではなく、そこにスタンスの独自性があり、そこで光っているのです。私には、グエルチーノという画家の作品はバロック美術の作品の中で、それに近いような位置づけの独自性で光っていると思えます。

抽象的な議論が長くなってしまいました。作品を見て行きましょう。『ロレートの聖母を礼拝するシエナの聖ベルナールと聖フランチェスコ』(左上図)という作品です。2.4×1.5mという大作の祭壇画です。縦長の構図で見上げるような角度で描かれています。ロレートの聖母とは、イタリアの一地方にあるサンタ・カーサに奉納された幼児キリストを抱いた聖母マリアの像(右上図)だそうです。ナザレの地で聖母マリアと家族が暮らしていた家が天使たちによってイタリアのロレートに運ばれ、その奇跡を記念して聖堂が建てられ、それ以降は巡礼地となったということです。つまり、この作品で礼拝される聖母は像で、この作品はそのマリア像そのものの神々しさを表わすイコンのようなものというより、それを神々しさに礼拝する場面を描いているもので、ここに劇の一場面のような、いかにもバロック絵画らしいものと言えます。例えば、右奥の背景の空の描き方がいかにも書割の背景であるかのように描かれていたり、全体的な空間の広がりを感じさせず、むしろコンパクトに画面に収めようとする、多少の窮屈な空間の、まるで劇場の舞台のような都合の良いまとめ方を感じられると思います。これは、いかにも教会に飾るという効率性の要求に応えようとしていると考えられる。そこに、グエルチーノのクライアントの求めに誠実に応えようとするところが感じられるのではないか、と思います。ちょっと細かいかもしれませんが、マリア像と跪く二人の修道士の関係は変形の三角形を形成していて、前回に見たルドヴィコ・カラッチの『聖家族と聖フランチェスコ、寄進者たち』の聖母マリアとその下で見上げる二人の人物の形成する三角形を踏襲し応用したのかもしれません。修道士が跪いて見上げる仰角の視線の先にマリア像を置いていること、さらにその修道士を斜め後ろから描くことによって作品を見る者の視線と修道士の視線が重なるようにして、その先にマリア像があることで、見る者が、あたかもこの場面の一部に参加しているかのような錯覚を起こさせる、つまりは感情移入を促すような効果を図っていると、言えると思います。そして、カラッチの作品では聖母マリアは幻視の世界でスポットライトが当てられているのに対して、この作品では、あくまでも聖母像だということだからなのでしょうか、マリア像の顔の部分は影になって見えにくくなっていて、幻視の光景ということから現実の風景へとスムーズに移行させて、感情移入のしやすさを図っていると言えるかもしれません。そしてまた、前回見たグエルチーノの『祈る聖カルロ・ボッロメーオと二人の天使』の中の祈る聖カルロ・ボッロメーオの姿は、この作品での手前で祈る修道士の姿をそっくり左右反転させたもののようにも見えます。このようにしてみると、グエルチーノの作品はシンプルな構成を使いまわして、クライアントのニーズに応じてカスタマイズさせていくことで高い品質を保っているのではないかと思えてきます。それは、変な喩えかもしれませんが、日本の自動車メーカーがプラットフォームという共通のシャーシを土台にして顧客の好みに応じてエンジンやボディを組み合わせて、自動車という共通の中でボックスカーやスポーツタイプ、ファミリーカーなどを効率的に作り分けているのと似ているような気がします。実に、グエルチーノの真骨頂はそういうプラットフォームを作ったことと、クライアントのニーズに合わせてカスタマイズさせていく手際にあるのではないかと思います。それが、この展示室に展示されていた、この『ロレートの聖母を礼拝するシエナの聖ベルナールと聖フランチェスコ』や、他の作品、例えば『幼児キリストを崇める聖母と悔悛の聖ペテロ、聖カルロ・ボッロメーオ、天使、寄進者』(左中図)あるいは『キリストから鍵を受け取る聖ペテロ』なども、共通のプラットフォームに拠っているように見えてくるのです。このように展覧会で一堂に会してしまうと、そう見えてしまいますが、本来は、これらの作品はそれぞれに離れた地域にある教会に飾られるもので、それがどうだということは起こらないはずのことで、むしろこのことによって品質を維持させることができるわけです。だから、さっきの喩えではないのですが、日本製の自動車が品質の高さで世界的に評価されているのと同じように、グエルチーノの作品は当時は品質の高さの点で評価されて注文が殺到していたということだったのではないかと思います。ただ、そのことは、グエルチーノという人が工房の代表者として責任を負っていたことを見れば、誠実さの現われとも見えると思います。

しかし、同じ題材の作品について、例えばカラヴァッジョの『ロートの聖母』(右図)と比べるとどうでしょうか。カラヴァッジョの作品では聖母像は現実の生身の女性のように描かれ、ロレートの聖母であることが分かるようなもの描かれていません。頭上の光輪からかろうじて聖母子であることが分かるだけで、現実の石造りの建物の前で、母子に汚れた身なりの男女が跪こうとしている瞬間が、まさにそのダイナミックな動きが活写されているように見え、さらにマリアが跪く男女に目をやるところから、祈る側と祈られる側の関係が現実にあるということがリアルに描かれています。ここには信仰という行為が現実の場面として活写されていると言えるのではないかと思います。たとえば、近代的な個人が内面の信仰ということを議論する場合に、このような画像は個人に問いかけるような強い精神性を持っているといえるかもしれません。ただし、ここでは類型的な神々しさとして聖堂に飾る範囲を逸脱してしまうのではないか。個人の自覚とかいう以前に聖堂に会する群集にアピールするにはパターンを外れてしまっているかもしれません。このような、逸脱は後世の現在からみれば、カラヴァッジョの一種の表現の過剰として、彼の特徴として見る事ができるものです。しかし、グエルチーノは、いわば、カラヴァッジョは越えてしまった一線の前で留まっているのです。これは当時の人々への効果を考えれば無理のないことなのですが、後世の私などから見れば、一線を越えたカラヴァッジョと比較してしまうのです。そこにもの足りなさを感じてしまうのを禁じることはできないのです。

さっきも少し触れましたが、『キリストから鍵を受け取る聖ペテロ』(左下図)を見ていきましょう。このチェントの地で才能を開花させローマに赴くまでの間の時期の代表作ということで、展覧会のパンフレットにも使われている作品です。さきにみた『ロレートの聖母を礼拝するシエナの聖ベルナールと聖フランチェスコ』と並べてみると、上部の天使がカーテンで仕切るような区切りと書割のような背景の空、そして構図は左右が反転されていますが、斜めに仰角で対角線上に視線を上げていって見上げる対象に主人公が位置するという画面構成は良く似ています。しかも、全体として、画面の中に人物が多すぎることなく、かといって少なくて寂しいというほどでもなく、コンパクトにまとまりよく収まっています。中央に描かれているのはキリストで、跪いているのは聖ペテロでしょうが、人物としても人間の肉体らしく描かれていて、違和感がありません。かといって、聖なる人のイメージを壊すようなことはなく、うまくバランスがとられています。つまり、クライアントのニーズに対して、足りないでもない、行き過ぎでもない、ちょうよい、程々のところで応え、それで丁寧にまとまった画面を提供するという品質の高い仕事をしているといえます。これは、実際には大変なことで、グエルチーノという人の能力の高さは、そういうところにあったのではないかと思います。(例えば、もしルーベンスだったと想像したとすると、逞しい肉体をまとった人々で画面が溢れるようで、その迫力に見る者は圧倒され、祝祭的な気分でもっと盛り上がるかもしれない反面、ここにある一種の厳かな感じは後退してしまうと思ったりします。)後世の私は、無責任にもの足りないなどと勝手なことを言いますが、当時のグエルチーノにとっては、現実に工房を経営して、クライアントから注文をとっていかなければいけない、という事情のところで高い品質の仕事を続けているわけで、そのために彼は様々な工夫をしているわけです。それを敢えて、無責任かもしれませんが、私はもの足りないと、どうしても言ってしまうわけで…。これは、グエルチーノをくさすつもりではなく、かりに教会を見学していて、たまたまこの作品が飾られている場に立ち会ったとしても、その場で「ああそう」といって素通りするか、教会の一部として見るくらいで、この絵に感銘してしまって、作者は誰とか知りたがるといった類のことにはならないと思います。それは、もともと、この作品は、そういうものとして制作されたものと思われるので、だからと言って、この作品の価値を貶めるとかそういうものではないと思います。なんか弁解しているようですが、この作品は、よく出来ている、という点でもって、それはある意味で価値あるものと言えるもので、そう思って見ていました。何か、奥歯にものの挟まったような言い方ですが。それぞれが“らしく”ハマっている、ということがいい意味でグエルチーノの作品の印象の特徴と言えると思います。だから、彼の個性とかそういうものではなく、流行して、アカデミーの権威としてみんながお手本にできたと言えるではないか。それを、この作品を見ていて思います。ルーベンスやカラヴァッジョは強烈な個性を有していますが、アカデミーでお手本として年若い学生が勉強するのには適しているでしょうか…。  

 

V.芸術の都ローマとの出会い

30歳を過ぎて、グエルチーノはローカルな画家から、ローマに出てきます。2年ちょっとで、また地元にもどったということですが、それが彼の画風が変化していくきっかけになったといいます。“彼の構図は次第に単純化していき、人物の輪郭は明確になる。光も空間全体を淡く照らすようになり、人物のヴォリュームを強調するようになる。つまり、古典主義的な様式に近づいていく。”そういう説明は、私のような美術作品を見る素養のない者にとっては、違いが具体的には分かりません。

『聖母と祝福を授ける幼児キリスト』(左上図)という作品です。前々回に見た初期作品である『聖母子と雀』と比べながら見ていくことにしましょう。『聖母子と雀』(右上図)は、全体として薄暗い画面の中から右手からさす柔らかな光で聖母子の右側がぼんやりと浮かびあがるものとなっています。これに対して『聖母と祝福を授ける幼児キリスト』の方は、たしかに、上の説明の通り“人物の輪郭は明確”で、“光も空間全体を淡く照らす”ゆえに画面全体が明るく明確に描きこまれているように見えます。“室内にはガラスを通した光が柔らかく拡散し、画面と平行に配された机の上で私たちに祝福を与える幼児キリストと聖母は、曖昧さをいささかも残さずに暗い画面から浮かび上がる。光はもっぱら肉体のフォルムに立体感を与え量感をもたらすことに用いられるが、とはいえ重々しさはない。”と解説されていますが、ここで立体感を与えられているのは全身の裸身が描かれている幼児のキリストでしょう。『聖母子と雀』では、同じようにキリストは裸身の全身像で、『聖母と祝福を授ける幼児キリスト』よりも大きくクローズアップされていますが、光に照らされている部分と影の部分の対照が強く、影の部分は、例えば顔の表情は、はっきりとは分かりません。しかし、それが明暗の対照の中で光の当たっている小さな雀の存在を強調し、その雀と細い糸がキリストの手につながっていることが浮かび上がり、観る者の視線を雀に向けるようにして、実はキリストの視線に同調させるかのような効果をもたらし、キリストの表情が見えないことで、かえって観る者に想像する余地を与え、それによって共感に誘う。このようにキリストの全身像ははっきりとは見えませんが、そのことは却って、この画面で語られるドラマに誘い込まれるような効果をあげています。これに対して、『聖母と祝福を授ける幼児キリスト』の方は、光はドラマをつくるのではなくて、画面全体に行き渡るようで、キリストの全身は明瞭に見えます。ここでの主役はキリストの神々しい姿と、それを優しく見守る聖母マリアであり、『聖母子と雀』では、ドラマが中心でキリストとマリアは、その登場人物としての道具立てのようなものだったのに対して、ここでは、二人の存在が中心になっています。キリストや聖母マリアの姿そのものに観る人の視線が惹かれていくと言えます。

とはいえ、『聖母と祝福を授ける幼児キリスト』をみていて、画面の向かって左に窓があって、そこから光が差し、そのため全体として壁際の構図で左側が壁で切られて右側に空間が広がるシチュエーションやその壁につくようにテーブルが設置されている配置、しかも女性が、その窓に向かっているポージングなど、フェルメール(左中図)を思い起こさせられるのです。しかし、光の繊細な描き分けとか、画面の精細さはフェルメールに及ぶべくもありません。一方、『聖母子と雀』の輪郭を明瞭にすることも犠牲にする代わりに、明暗の対照を強調したドラマを画面に作り出していくのなら、ジョルジュ・ラ=トゥール(右中図)の明暗の強烈な対照で、それこそ聖なる瞬間を活写したような画面に比べるとグエルチーノの方は微温的と言われても強く反論できないところもあると思います。しかし、同じ一人の画家の似たようなモチーフの作品から、全く方向性の異なる画家の作品を連想させるような幅の広さというのは、グエルチーノという画家の持ち味ではないかと、私には思えるのです。それぞれの方向が比較した画家たちに比べれば中途半端に見えるかもしれませんが、それぞれはある程度のレベルにあることは確かです。つまり、幅広さがあって、それぞれが一定のレベルにあるということであれば、教科書としては絶好であるし、人々に広く受け入れられるグランド・マナーの画家としてあるのなら、それはきわめて有利に働くはずです。その意味で、グエルチーノが売れっ子の画家となったことや、アカデミーの権威となったということに、彼の作品の方向性が関係していたのではないか、と思われるところがあると思います。

『聖母のもとに現れる復活したキリスト』(左下図)という作品です。ドイツの文豪ゲーテが「イタリア紀行」のなかでこの絵に対する記述があるとか、グエルチーノの作品の中でも称賛を集めてきた作品だということです。『聖母と祝福を授ける幼児キリスト』と同時期に制作され、ローマ以降のグエルチーノの作風変化がよく見える作品ということです。“この作品は明快な構図・人物描写、理想的な表現といった特徴が見られる。キリストと聖母は前景に並んで配され、キリストの頭を頂点とした三角形を作り出すことで安定感を見せる。キリストには向かって左から全身に光が当たり、彼とともに暗い室内に光がもたらされたかのようだ。この絵で特に称賛されてきたのは衣襞の表現である。そのヴォリュームの戯れと色彩において、グエルチーノは観念的な美すなわち純粋絵画の探究を始めたと述べる研究者もいる。”と解説されていました。三角形と解説されていますが、すがるマリアとキリストの位置関係はタテの構図で、キリストを見上げる構成は、祈る人が下から見上げて、祈られる人が上から見下ろすというタテ構成は、ここで展示されているグエルチーノの作品に数多く見られるものです。まあ、宗教的な題材に作品は、おしなべてそういうものが多いのでしょうか、それゆえにグエルチーノも多く描いたのか、彼自身も好んだのかもしれません。それほど、私には目に付いたのでした。

しかし、この作品もそうなのですが、とくにグエルチーノの作品はいわゆるバロック美術にカテゴライズされる画家たちに比べるとスッキリとして、ここでも解説されているように古典主義とまでは言えないでしょうが、整った明確な構成を備えているように一見感じられるのですが、どこか不自然にところが残るのです。この作品に対して称賛を惜しまないゲーテの「イタリア紀行」でも“キリストの姿勢に、あえて不自然とはいわないにしても、何かしら異様な感じを与える。”という記述があります。言ってみれば、わざとらしいところです。これまで見てきた作品から窺われるグエルチーノのバランス感覚やセンス、技量からいえば、それをさりげなくすることは十分可能であると、私には思えます。そのため、ゲーテも感じた不自然さは、意図的なものの気がします。それが、この作品ではたんに作品を安定したものとして終わらせていないところがあると思います。ややもすると、安定した画面は退屈と紙一重ですが、それを救っているのが不自然さかもしれません。それが、どのようなものかは、今、ここでは、私も把握しきれていないので、もし触れることができれば、後の時期の作品の中で触れることができれば、試みたいと思います。

『聖母被昇天』(右下図)という作品です。この展覧会パンフレットにも採用された作品で、最初のところで少し触れました。建物の天井に飾って下から見上げるような角度で描かれたように見えます。ミケランジェロの『最後の審判』のようにバチカンの聖堂の天井に描かれた作品でも、横の視点で描かれていますが、この作品は視角がそもそも下からの仰角で描かれています。一種のだまし絵のような描き方みたいです。これは、グエルチーノがローマに出てきて間もなく描いたという建物の天井に描いたといわれる(それ故、日本には持ってこられない)『アウロラ』(下図)に通じているような作品です。だまし絵と言いましたが、下から天井を見上げるようにして作品を眺め、しかも、それが仰角の視点で描かれていれば、さらに見上げるように画面の中を見ることになります。だから、この作品のように、聖母が見上げる先にいる天使はもっと高いところにいるように錯覚することになります。この画面の真ん中に、いわば中心としてある雲と空は、それ以上の高みのように見えてくるわけで、聖母が昇天していく先の遥かな高みを錯覚させる効果を最大限に生かしているのではないか、と思います。構図としては、今までにないもので水平の視線とは異質の、普通の水平の視線から見れば、不自然になる構図を、グエルチーノは、戸惑ったというよりは、むしろ、そっちの方が向いているとでもいうかのように喜々として描いたのではないか、と思わせるころがあります。聖母はあごの下部を丁寧に描いたりと、それらしく描いていますが、天使のポーズや描き方は初期作品で描かれている天使とは全く異なるポーズになっていて、このために様々な試行錯誤をしたのだろうことは想像できます。そして、結構大胆なポーズをしているのではないかと思います。グエルチーノという画家は、精細な描き方とか、繊細な表現とか、逆に大胆なドラマとか、そういうひとつの方向での強い特徴を誇示するタイプの画家ではなく、バランスを保つほどほどのところで人々に受け容れやすいタイプの画家であるかと、最初は思いましたが、前の作品で明確に表われたの気付いた薄々には感じられたのですがはっきりそうだとは言えなかった不自然さや、この作品での大胆さをみると、それだけでは終わっていない人であることが分かります。それが、一度は歴史に埋もれてしまったのが、最近になって再発見された理由の一つかもしれません。 

 

W.後期@聖と俗のはざまの女性像─グエルチーノとグイド・レーニ   

さて、グエルチーノも初めて、その名を聞いた画家でしたが、さらにまた聞いたことのない画家が出てきました。グイド・レーニという人も、ここで作品をみても、あまり両者の区分がつきません。グエルチーノについては説明がされていましたが、グイド・レーニについては、家に帰って調べてみました。一番手軽なのはウィキペディアなので、ちょっと引用します。“グイド・レーニ(1575〜1642年)は17世紀前半、バロック期に活動したイタリアの画家。アンニーバレ・カラッチらによって創始されたボローニャ派に属する画家で、ラファエロ風の古典主義的な画風を特色とする。─中略─レーニの作風には、バロック期の巨匠カラヴァッジョの劇的な構図や明暗の激しい対比が見られるとともに、ルネサンス期の巨匠ラファエロ風の古典主義様式が見られる。代表作『アウローラ』に見られる、考え抜かれた構図、理想化された優雅な人物表現、柔和な色彩などはレーニの作風の典型を示すもので、古典研究の成果がうかがわれる。『アウローラ』の並列的な人物の配置には古代の浮き彫りの影響が見られるともいう。レーニは生前から「ラファエロの再来」と呼ばれ、ゲーテによって「神のごとき天才」とまで激賞された画家で、19世紀までの評価はきわめて高かったが、美術に対する人々の嗜好が変化し、古典主義的絵画の人気が下落した20世紀以降は不当に低い評価を得ていた。”グエルチーノに対する説明と似ていますね。

グエルチーノがローマから地元に戻った時には、グイド・レーニは権威として君臨していたとのことです。ビジネスの世界では、新たに市場に参入しようとして、その市場にトップシェアのコンペティターがすでに存在する場合は、価格とか品質とかで上回る競争上の優位性を武器として競争するか、差別化として全く違う戦略をとるか、という選択肢があります。しかし、トップのシェアが圧倒的な場合、その市場自体がトップ企業の土俵になってしまっているので、一度はその土俵にのらないと話にならないことがあります。絵画のような一種のイメージ産業では、いったい浸透したイメージとは全く違うものを投入する戦略は成功すれば、一気にシェアを奪取できるでしょうが、失敗のリスクも高い、ハイリスク・ハイリターンの戦略でしょう。そこで、グエルチーノは、既存のトップ・シェアであるレーニの土俵にのって、その上で物真似と思われない程度に差別化を図ったのではないかと思います。レーニという個人のブランドで、年齢差があるのですから、長期戦略として、レーニが年齢によって衰えたり、亡くなったところで、攻勢に出ればよいのですから。

二人は『ルクレティア』という同じ題材を扱っているのが、同時に展示されています。グエルチーノの作品(左上図)は、背景を暗闇のように影にして、そこから女性がスポットライトを浴びて浮かび上がるように描かれています。背景の暗闇と、女性の光に照らされた白い肌を対照的に描くことで、黒(死を暗示する短剣も黒です)と白によって、今短剣を胸に刺して自害しようとしている生と死、あるいは現世の死と死後の救済の境界にあるドラマに緊張感を与えています。その顔は、視線を仰ぎ見るように上方に向けて、口元には諦念でしょうか死後の救済を信じてでしょうか、仄かな微笑みが浮かんでいるように見えます。このように感情のあらわれを表情に描き込んでいるようです。

これに対して、グイド・レーニの作品(右上図)は、背景は同じように暗くなっていますが、彼女は寝室にいるシチュエーションのようなので、グエルチーノの場合のような暗闇と光を対照的に扱うというのではなく、寝室の暗さか背景を省略している意図のように見えます。主人公である女性はグエルチーノの作品に比べると明瞭に隈なく描かれています。これは、生と死の場面の登場人物としてのルクレティアを描いているのではなく、一人の美しい女性を描いていると言った方が近いかもしれません。その美しさを作品として描くためにルクレティアの物語の自害の場面という設定を選んだというべきでしょうか。そのため、女性の肢体の柔らかな表現とか、肌の白く若々しい色合いとか、輝く金髪とかが目を惹きます。この女性の肉体の描き方は彫像のような感じで、顔の表情も、あまり感情のおののきのようなものは浮かんでいません。

このように言葉にすると、二人の画家の作風を大きく異なると誤解されてしまいそうですが、これは違いを強調してのことで、それほど違うのかといわれれば、実はよく似ていると思います。それは、例えば、有名なパルミジャニーノの『ルクレティア』(左中図)と比べると、むしろ両者の近さが分かると思います。

もうひとつ、グエルチーノとレーニを比べてみましょう。題材は同一ではありませんが、似ているものとして、グエルチーノの『サモスの巫女』(左下図)とグイド・レーニの『巫女』(右中図)を見てみましょう。似たような扮装の女性像ですが、レーニの方はダイレクトに女性を描いているという作品です。中心は女性像なので、ターバンを頭に巻いて上を向いているのは、女性の顎から頸の柔らかな線と、はだけた上半身を生かすためのコスチュームのように見えてきます。これに対して、グエルチーノの巫女は小道具を周辺に散りばめて、物語的な要素を含ませています。つまり、レーニは女性の造形に絞って勝負しようしているのに対して、グエルチーノは物語とか、ドラマとか、装飾的な色彩効果とか付加価値をつけようとしているといえるのではないかと思います。これは、さっきのビジネス戦略の話に戻れば、グエルチーノは基本的には、女性の美しさを描くということでは、レーニと同じ土俵に上がったのだけれど、その造形だけで勝負すれば既存の権威であるグイド・レーニと差別化が難しいので、レーニの作品にない要素を加えることで差別化を図る戦略をとったといえるのではないでしょうか。

『クレオパトラ』(左下下図)という作品を見てみましょう。私には、扮装は違っても、表情やポーズは『ルクレティア』や『サモスの巫女』と同じように見えてきます。さらに見ていくと、前回に見た『聖母のもとに現れる復活したキリスト』でキリストにすがるように跪く聖母マリアの表情と上半身のポーズにも通じているように思えるのです。グイド・レーニの描く女性像は、女性の造形的な美しさを描いていて、衣装や設定はそのための付属品でコスチューム・プレイのようなものだといいましたが、グエルチーノの場合は違った意味でやはりコスチューム・プレイをやっているのではないか、と思えるのです。しいて両者の違いを言うのならば、レーニの場合はモデルのグラビアで、グエルチーノの場合は演劇の舞台女優と言ったらよいのでしょうか。グエルチーノはドラマの場面であるということが大きな要素として加わっているのが違いと言えます。しかも、宗教画にも、このような世俗画にも同じようにキャラクターとして画面にはめ込んでいるために、要素が共通してくる。それは端的に言えば、聖と俗が通じているということです。古代エジプトの妖艶な女王であるクレオパトラ、古代ローマの貞淑な人妻ルクレティア、あるいは異教の巫女という女性たちと聖母マリアを同じように描いているのです。舞台女優があるときは聖女を、別の時は賤しい役柄を演じるというのは現代では不思議なことではないでしょう。しかし、この時代、最初にもいいましたようにバロック美術はカトリック教会が新教との対立の優位性をアピールするためのプロパガンダとして役割を担っていたわけです。とくにカトリック教会には存続への強い危機感に捉われていた時で、そういうときの内部への規制、締め付けは却って強いものがあったときに、異教の女性と聖母マリアを、グエルチーノのように、コスチューム・プレイのように本質を同じように描くことは、描いている画家に普通の人とはズレたところがあったと考えられなくもありません。

突飛な考えかもしれませんが、そう考えてくると、ここに展示されているグエルチーノの女性像は、グイド・レーニの女性像にはない、退廃的な耽美の雰囲気が匂うのです。レーニの彫像のような当時の理想的な姿に対して、リアルな実在感を持たせることで、女性の生々しさを匂わせ、しかも聖母も異教の美女も同じ女性であるとして女性美という点で同列に見てしまう。これは19世紀の世紀末の耽美主義とよく似ているのです。実際に、グエルチーノの描く女性像はラファエロ前派をはじめとしたいわゆるユーゲントシュティールの芸術運動(右下図)などの描いたリアルな描写と物語的要素を追求した女性と似ているようにも見えてくるのです。前回、少し触れまたが、グエルチーノの不自然さ、もっと言うと異様さというのが、19世紀末の伝統を破壊しようとした芸術運動につながっているように見える。じつは、グエルチーノはその動きによって批判の対象とされ埋もれてしまったのですが。そのような事実を踏まえると、グエルチーノが激しく批判され、否定されたのは、批判する当事者にとっては近親憎悪のような感情的な衝動を誘ったのではないと妄想を起こさせるのです。

   

X.後期A宗教画と理想の追求

グエルチーノ晩年にさしかかり、功成り名遂げ、悠々自適で平穏な人生を送ったという時期の作品です。この時期、ライバルであったグイド・レーニの様式を取り込み、解説によれば、“画面はより叙述的かつ詳細となり、スフマートや色調の微妙な変化によって繊細さが追求される。構図は釣り合いや対称性が重視されて、画中の水平線や垂直線が強調されるようになる。”たしかに、ここで展示されている作品を見ていると、画面のサイズは相変わらず大きなものであるけれど、画面の中で描かれている構成要素の数は減ってシンプルになってきて、これに伴い画面の構成も単純になってきています。描かれる人物の数も群集は姿を消し、以前は良く見られた3人の人物による三角形の配置も見られなくなりました。人物が1人ないし2人程度になってしまったので、三角形を構成しないためでしょう。その代わりに、一人一人の人物が丁寧に描かれるようになりました。そのためか、演劇の舞台の一場面を描いていたような、劇的要素や動きは、画面から感じられなくなり、スタテッィクな、物語の場面を背景とした肖像画のような雰囲気の画風になっていたと思います。それは、一面では洗練ともいえ、例えばロココの瀟洒な肖像画に連なっていく感じのするものであるともいえます。また別の一面では、退屈と言えなくもないものになっていったとも言えると思います。

『説教する洗礼者聖ヨハネ』(左上図)という作品は、ヨハネが説教する場面を描いたというよりは、ヨハネという人物を描いたという作品です。以前に見た『聖母のもとに現れる復活したキリスト』(右中図)と比べてみると、それぞれの主役となる人物であるヨハネとキリストは明確な輪郭で描き込まれています。しかし、キリストは右側にすがりつくように跪くマリアを配することで、劇的な瞬間を作り出しています。主役の人物の描き方は似たようなものであっても、それ以外の者との関係によって、画面に動きが生まれています。これに対して、ヨハネの方はポーズをとっているようにしか見えません。しかも、もともと、人物について濃密に描き込むというタイプの人ではないので、ヨハネその人が強烈な存在感をもって観る側に迫ってくるということもありません。例えば、ヨハネを単独で取り上げて、同じように人差し指を立てるポーズをとっている、ダ=ヴィンチの作品(右上図)と比べてみると、ダ=ヴィンチのヨハネは小さいサイズの作品で全身を描いていないにもかかわらず、ヨハネの妖艶さが観る者に強烈な印象を残します。この作品では、観る者に強く訴える要素が、グエルチーノの以前の作品に比べても減退しているのです。それは、バロックというカトリック教会が自己の正統性とプロテスタントに対する優位性をアッピールする機能を担わされたツールとしては、減退と言えるかも知れません。とはいっても、ちょうどこの作品が描かれた1650年当時は、フランスでは長年のユグノー戦争がナントの勅令により一応の決着をみて、その後の宗教対立は潜在化し、一方ドイツでは、ウェストファリア条約で30年戦争に終止符が打たれて、あからさまな宗教戦争は表面的には終わった時代でした。とくに30年戦争はドイツを中心としたヨーロッパ中央を焦土と化し、ヨーロッパには対立への疲弊感があったと考えられます。そのような雰囲気のなかで、バロック美術の対立的要素を孕んだ劇的な緊張感のある画面は観る者に強くアピールするものではあるのでしょうけれど、他方では、緊張感を強いられる側面もあります。観ていて疲れるのです。それは宗教対立に疲れた人に対して、「もういい」というような過剰感を感じさせるものになりそうなものでもあったはずです。そう考えれば、この「」『説教する洗礼者聖ヨハネ』は、アピールする力は弱いかもしれませんが、見ていて疲れを強要させられることは、あまりないと思います。強烈な印象に引き寄せられるものでない代わりに、しばらくの間じっと見ていても、ぼんやりと眺めていることもできる作品です。たぶん、そのことが、グエルチーノの作品が、新古典主義の時代に宮殿や邸宅を飾る家具のような美術の作家たちによって称揚され権威となっていった由縁ではないでしようか。細かく、どのように描かれているという記述は、ここではしませんが、全体の印象として、現代のコスプレ写真に似ていると思いませんか。私には、案外近いところにあるように思えるのです。

『隠修士聖パウルス』(左中図)と『悔悛するマグダラのマリア』(右下図)という作品は、ほぼ同じサイズで、グエルチーノの自宅の装飾のために4枚描いた作品のうちの2枚だそうです。これらはいずれも、風景と青空を背景に一人の人物(聖人)が描かれているという点で共通しています。それぞれに落ち着いた、静謐な画面は、例えば、マグダラのマリアの悔悛にいたる宗教的な恍惚の表情は、カラヴァッジョの描いた(右下下図)エロティシズム漂うようなものでもなく、マグダラのマリアは裸体で描かれていますが、少しくたびれた肉体はエロティシズムをあまり感じさせません。また、聖パウルスは、古代の厳しい時代の聖人にある厳しさのようなもの、例えばラ=トゥールの描く聖トマスやカラヴァッジョの描く聖ヒエロニムス(左下図)のような厳しさはありません。ここには、孤独のなかで、周囲の激動に惑わされずある面では超然として穏やかな宗教的生活に専心する姿があるように見えます。ここにあるのは、例えば日本の仏教美術の菩薩や如来の悟った姿を描いたものと似ていないでしょうか。ひとつのパターンを踏襲し、とくに新機軸を入れようとか余計な野心を交えずに、そのパターンに安住しようとする、というと言いすぎでしょうか。その仕上げに心を砕くことで、ハリボテのようなパターンであっても、装飾として品質を維持し、室内であまり出しゃばらず、ふっと何気ない視線には耐えられる程度で、室内に雰囲気をつくり出している作品を意図しているように見えます。

そして、『ゴリアテの首を持つダヴィデ』(左下下図)です。画面の構成は、ここで見てきた作品に共通したシンプルなものです。主人公であるダヴィデは、これまでもグエルチーノの作品に頻出した上方を仰ぎ見るポーズです。しかし、これまでの作品はそのポーズの人とともに仰ぎ見られる対象も描かれていました。しかし、この作品は仰ぎ見る人物だけが描かれています。それが却って、仰ぎ見られる対象が描かれないことで余韻を作り出していると言えないでしょうか。しかし、その主人公である人物がゴリアテの生首を持ったダヴィデというのは、不思議です。ゴリアテの生首をもったダヴィデを描いた作品であれば、カラヴァッジョの作品(右下下下図)を思い出します。(今回は、カラヴァッジョの作品を持ち出してきて比較することが多く、グエルチーノには可哀想かもしれませんが)カラヴァッジョにみられる生々しさとか尋常でない迫力とか、グエルチーノの、この作品は比べてしまうと可哀想です。まっ、注文があったのでしょうから、それはしょうがないと言えますが、晩年近くのドラマというよりも、スタティックで安定した画面で古典主義的なものに近づいた作風になってきているときに、とくにこの作品では余韻を生むようなところもあるだろうに、生首を持たせるような、その傾向に真っ向から対立するような要素を入れてしまうのでしょうか。そこに、この作品の安定した状態をあえて壊してしまうところがあると思えるのです。これは、この作品に限ったことではなく、『悔悛するマグダラのマリア』でも、あえてマグダラのマリアのくたびれたヌードをあからさまに描かなくてもいいのではないか。

これらのところに、これまでも、少し触れてきましたが、グエルチーノという画家の一風変わった所を、私は見ます。このようなことは、展覧会の解説にも、展覧会について書かれた感想を読んでも指摘されていないようなので、私の個人的な偏見かもしれません。このグエルチーノの変なところというのは、カラヴァッジョやグレコのような人々の明白に普通でないものとは違って、一見、まったく普通なのだけれど、よく見ると、ほんの偶に片隅にさりげなく現れるようにもので、普段は気がつかないようなものです。カラヴァッジョやグレコのような見ただけで普通でないと分かるものは、彼らの天才をそこに容易に見て取れるもので、要はそれを受け容れることができるか否かという点で、ある意味分かりやすいともいえます。これに対して、グエルチーノの場合には、普段はその普通でないところは隠されて、日常では他の普通の人と同じようにいるけれど、ある時隠しきれずにその片鱗を見せてしまう。言ってみれば陰険というのでしょうか。かっこいい言葉で言えば、日常に隠された狂気とでもいえるものではないかと思います。それだけに、却って不気味なところがあるのです。それに一度気がついてしまうと、気になってしょうがない。グエルチーノの作品を見ていて、すべての作品にあるとは限らず、あったとしても探してもなかなか見つけられない。しかし、気がついたらあら捜しをするように探している自分の姿を発見するのです。

 

 

 
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