難波田龍起
 

 

2025年7月17日(木)東京オペラシティ・アートギャラリー

昨日までの梅雨末期の豪雨が通り過ぎ、東京の空は落ち着きを取り戻しそうだ。天気が回復したら猛暑になりそうなので、曇りがちの今日は絶好だとして、出かけることにした。予定していたより乗り換えがスムーズにいったら、少しつくのが早すぎてしまい。開館時間前に着いてしまった。ここは、開館が午前11時とおそめだったことを失念していた。入口の自動ドアが開かないので、どうしたのかと戸惑っていると、警備員の人が気がついて来てくれて、開館は11時からです、とことわられた。恥ずかしかった。

以前、難波田史男の展覧会を同じ東京オペラシティ・アートギャラリーで2012年に見ていて、その作品の不安定さというか、明るい色彩を用いながら、どこか陰のあるような世界に強い印象を持っていたので、彼の父親である難波田龍起にも興味を持っていた。まずは、主催者のあいさつを引用します。

“難波田龍起(1905〜1997)は、戦前から画業を始め、戦後はわが国における抽象絵画のパイオニアとして大きな足跡を残しました。大正末期に詩と哲学に関心をもつ青年として高村光太郎と出会い、その薫陶を受けるなかで画家を志した難波田は、身近な風景やいにしえの時代への憧れを描くことで画業を開始します。戦後になると抽象へと大きく画業を進め、海外から流入する最新の動向を咀嚼しながらも情報に流されず、また特定の運動に属することもなく、独自の道を歩みました。その作品は、わが国における抽象絵画のひとつの到達点として高く評価されています。

東京オペラシティ・アートギャラリー収蔵品の寄贈者である寺田小太郎氏が本格的な蒐集活動にのりだし、さらにコレクションを導くコンセプトのひとつである「東洋的抽象」を立てたのも、孤高の画家難波田龍起の作品との出会いがきっかけでした。難波田が当館の所蔵する寺田コレクションの中心作家となっていることは言うまでもありません。

本展は難波田龍起の生誕120年を機に、当館所蔵品はもとより、全国の美術館の所蔵品、また個人蔵の作品なども交え、難波田の画業の全貌を20年振りに紹介し、今日多岐な視点から検証するものです。”

なお、この展覧会の展示の仕方は言葉による説明がなく、説明のキャプションないのはもとより、展示の章立ての表示も、作品タイトルの表示もなく、ただ展示作品リストの番号だけが表示されているものでした。余計な情報にとらわれることなく、作品と向き合ってほしいということなのではないかと思います。たしかに、難波田の作品は、何が描かれてという作品ではなく、作品を見て感じるという作品と言えます。とはいえ、難波田の作品は感性の赴くままに描かれたというものではなく、周到に考えられ計算された、知的な構成とみえるところもあります。全体の展示は制作年代順になっているようでした。これは、展示作品リストを見て分かったことですが、難波田の作品は制作年代によって、作風が変化しているので、難波田の作風の多様さを同時に見ることができるようになっています。

会場は、展覧会の会期が始まったばかりで、しかも、平日の開館すぐというもあり、来客数は多くはなく、落ち着いて作品を見ることができました。私は、途中から作品を見ることに没頭してしまい、周囲を気にしなくなってしまいました。会場は、それほど広いとはいえないと思いますが、思いの外時間が経ってしまい、ひととおり見たら、疲れてしまいました。

それでは、個々の作品を見ていきたいと思います。

 

1.初期作品と古代憧憬

“難波田龍起は大正時代に詩に関心を持つ青年として、高村光太郎と出会い、その薫陶を受けるなかで絵画に目覚め、やがて画家を志した。制作と生き方の両面にわたって、龍起の自己形成における高村からの感化には極めて大きなものがあった。そして龍起は、「生命の戦慄」を芸術の必須の要件とする高村の思想に励まされ、単なる写実を超え、精神の眼を通して「内的生命」を捉えることを目指していく。また、主にセザンヌに託して色彩の重要性を説いてやまない高村の教えも、龍起の生涯にわたる糧となる。(図録P.102)”

「王女之像」(右側)という1928年、本郷絵画研究所に通っていた23歳の時の作品です。上記にあるように、難波田龍起は生来の画家というタイプではなかったようで、むしろ詩人タイプというか言葉で考える人であったようです。だから、「内的生命」などという七面倒くさい理屈を信奉して、それを表現するために描くという観念的なタイプだったと想像できます。絵画研究所、というか絵画塾の教師にとっては生意気に映ったのではないでしょうか。いろいろ調べてみると、難波田は絵画のアカデミックな教育の基礎であるデッサンをいやがって、結局、研究所をやめてしまった、ということです。この作品を見ても、写実的なデッサンに基づいて描いているというより、女性の背景が後光というかオーラのように見えるので、思い込みで描いていたように見えます。おそらく、画集で見て気に入っていたのでしょう、オドィロン・ルドン(例えば、先日パナソニック美術館で見た「ポール・ゴビヤールの肖像」)を真似て、それ風に描いているようです。これだけなら、ただの生意気な餓鬼ですが、難波田龍起がただの餓鬼ではなかったのは、それを一時の迷いとしたのではなく、朴訥に、それを生涯にわたって追求したということではないかと思います。そこまで徹底すれば、頭を下げざるを得ない。

「小石川植物園にて」という1927年の作品。さきに引用した説明の中の“主にセザンヌに託して色彩の重要性を説いてやまない高村の教えも、龍起の生涯にわたる糧となる”について、高村は「トーン」という言葉で説明していると言います。“トーンとは色調という意味で、光太郎はセザンヌのトーンの美しさに言及しつつ、画面全体のトーンを把握することが重要だと説いた。「トオンが出来上がれば、おのずと形は調って来る」のであり、「先に形をつくって、そこへ色を塗っていくんじゃない」というのが光太郎の考えであった。(小林俊介「難波田龍起「抽象」の生成」P.39)”この説明を実践するように、この「小石川植物園にて」には明確な輪郭線の形跡がありません。つまり、風景を形として把握して、その形をデッサンとして形にして、そこに彩色するというのではなく、樹木はブラウンを筆で一気に線を引き、葉や草は緑の絵の具を点描のように置いていくと、結果として草木の風景が出来上がるという、という画面になっているように見えます。難波田の絵画について「内的生命」とか難しげな言葉で説明されていますが、私には、難波田という人は形から捉える人ではなく、結果として形になるという見方をする人、というのが、彼の絵の基本となっていると思います。これは、私が彼の作品を見た個人的な印象から言っていることで、客観的ではないことは言うまでもありません。

“龍起は、高村のもとで見たギリシャ彫刻の写真の影響や、高村の勧めで参加した絵画批評会「金曜会」の主催者である川島理一郎からの影響を受け、1930年代の半ば頃より、ギリシャの古代彫刻やレリーフをモチーフとする絵画を集中的に制作するようになった。そこに自己の大きな方向性を見出していく。龍起によれば、「近代性とは自己分裂の相」であり、「古典性とは自己統一」である。そして近代的自我の自己分裂の耐えがたい不安を克服するため、我々は「古代を自己の内に生かす」ことによって「健康な自己統一を目指して進まなければならない」という。だが、実際に訪れることもなく、写真をよすがに想像をたくましくして描かれた古代彫刻は、古典古代の晴朗たるイメージとはならず、あくまでいにしえへの強い憧れ、思慕のイメージとして、龍起独自の濃密なマチエールとともに描き出されている。「健康な自己統一」を謳いながら、「古代」はあくまで近代的な意識の織り目のなかでしか捉えることが出来ないのである。(図録P.102)”難波田にとってのギリシャは、現代批判として現代に対置されたイメージであり、文学なら詩人のキーツやハウプトマンの『ギリシャの春』、あるいは難波田が真似をしたルドンに古代ギリシャの神話世界への憧れを描いた作品があり、そういう傾向に乗じたもののように見えます。

「ペガサスと戦士」という1940年の作品です。古代ギリシャの美術といえば、均整や調和といった地中海的な明晰さが真っ先にイメージするのですが、この作品がそうであるように、難波田のギリシャを題材にした作品は、そういうイメージからはほど遠く、輪郭はあいまいで、橙色を帯びた茶褐色の色調はカラッとした地中海の青い海というより湿った赤土を思わせるのです。そして、画面の構図は古代ギリシャのレリーフというより、ルドンあるいはギュスターヴ・モローの幻想的なものに似ています。いわば、これは難波田の古代ギリシャ幻想と言えると思います。また、後の抽象的作品で多用されることになる油彩の透明画法が、ここで用いられているそうです。それは油彩の透明性を生かした重層的な技法で、下層から上層に至る複数の絵具層の相乗的効果によって画面の色彩効果が決まる。具体的にいうと、“下層の不透明な塗りと、上層の透明な塗りの組み合わせによって画面上の光学的効果が決定される。この画面上の効果は、ちょうど紙に透明なセロハン紙を被せる行為に喩えることが出来る。たとえば、白い紙に黄色いセロハン紙を被せれば全体として黄色く見えるし、また黄色い紙に青いセロハン紙を被せれば全体として緑がかって見える。(小林前掲書P.77〜78)”

「ヴィナスと少年」という1936年の作品です。画面の右半分をヴィナスが占め、画面左のほぼ中央に神殿、その神殿の下にヴィナスを見上げる少年が描かれています。これらの位置関係を表わすような、地と空を区画するような描写はなく、ヴィナスも神殿も少年もそれぞれ宙に浮かんでいるように見えます。これらは、遠近法や三次元的な空間構成や重力などを無視して、自由に配置されているように見えます。先に述べた現代に対するギリシャという難波田の幻想をギリシャという題材を用いて描いたものと思います。これは、デ・キリコが古代の風景を遠近法を逆にして遠近感を混乱させるような幻想として描いたのと似ていると思います。ただ、テ・キリコの場合には騙し絵みたいな遊びの要素が強いですが、難波田の場合は大真面目だろうと思います。もっとも、この作品では、色調や形態の微妙な処理によって、少年は地面に腰を下ろしているようにも見え、またヴィナスや神殿は地続きの平地に立っているようにも見えます。

「月と豹」という1937年の作品です。古代の陶器の模様を模写したような作品です。

 

2.戦後の新しい一歩:抽象への接近

ここで、展示区画が移ります。区画が移ると、展示されている作品がガラッと変わります。展示作品リストで制作年代をみると約10年間の開きがあります。1.と2.との間には10年間のブランクがあることになります。この間に何があったのかといえば戦争です。戦時下で難波田は描けなかったのか、分かりませんが、作品の展示がないので、幻想的な古代を描いていたのが、抽象的な作品に跳躍してしまったように見えてしまう。とれほど唐突に見えます。この間に移行のプロセスがあったはずですが、作品がないので、分かりません。それとも戦争体験が転機となって、難波田自身の大転換があったのでしょうか。“戦争と敗戦を経て、龍起は戦災から復興する都市のビル群、その「直線」にそれまでにない美を発見する。戦後という時代のなかで、龍起はいままさに自らが生きる「現代の現実」に向き合うことを意識し始めていた。龍起はそれまで敬遠してきた抽象への接近を試みるようになり、キュビスムを咀嚼しながら都市を描き、やがて「直線の構成」を経て幾何学的な純粋抽象に到達する。(展示作品リストに書かれていた展示コーナーの説明より)”という説明では、1930年代に“「近代性とは自己分裂の相」であり、「古典性とは自己統一」である。そして近代的自我の自己分裂の耐えがたい不安を克服するため、我々は「古代を自己の内に生かす」ことによって「健康な自己統一を目指して進まなければならない」という”といっていた難波田です。しかも、抽象絵画のようなモダニズムは人間的要素を悉く追放した知性の芸術であり、近代の自己分裂の所産と断じていたのですが、その難波田が抽象画を描くということは自己分裂を自ら招くことになりかねません。

主観的な想像ですが、戦時中や戦後のそれぞれの統制と荒廃そして混乱という危機的環境、他方で価値観の転換という大混乱という外部的状況で生きのびるために変わらざるを得なかった。それはある意味で甘美な古代の薄暗の神秘に慕っていた自己自身を解放させられた、と言えるのではないか。

「街」という1951年の作品です。これまでの作品では、近所の自然の風景や古代ギリシャの幻想を描いていたのが、現代の現実である街の風景に転換しています。画面中央にドーム状の物体があるほかは、直線による画面分割で建物がひしめくように描かれているのはキュビスムのようです。戦災で荒廃した東京の地で、都市が建設されていくのに復興の活力、生命力を感じたのかもしれません。この作品を見ていて、方法論としてのキュビスムの理論に従って描いというよ、街の活力を描こうとして、力強い線とか直線の伸びる感じに行き着いた、つまり結果としてキュビスム的な構成になったような感じがします。

「森」という1951年の作品です。上記の「街」のように現代の近代的な作品を制作する他方で、それと対照的な、以前の作品に連なるような有機的で、緑色を主調とした樹木を描いた作品も描いていました。まるで、近代性に傾いたことへのバランスをとるようなところがあります。“現実に生きてゆく旺盛な意欲を、我々は取戻したいものです。…私は都会の真中に住んで一勤労者として生活していても、原始的意欲を持ちうる可能性を感ずるのであります。…近代と原始の結婚の可能性を、私は自らのタブロオで実証したいのであります。…自己の生活の身近なものの中から、真実なものが生きると信ずるのです。(図録P.102)”と難波田自身の言葉で説明されています。この二つの傾向の作品は対照的でも、どこか共通した色調をもっていて、この二つの作品では緑色の透明感がとても印象的です。

「色彩によるデッサン」という1951年の作品。前に「小石川植物園にて」で指摘しました、難波田という人は形から捉える人ではなく、結果として形になるという見方をする人、というのが、彼の絵の基本となっているということが、そのまま抽象的な作品になった、と私には見えます。つまり、画面上に色を置いていったところ、植物園の風景になったのが「小石川植物園にて」という作品であり、何の形と言えないものとなったのが、この「色彩によるデッサン」という抽象的な作品と言えるのではないか。はじめから抽象的な画面を設計して抽象画を制作したというのではない。ここにはカンディンスキーやモンドリアンのような計算された冷たさが感じられないのはそのためだろうと思います。画面上の線や塗の揺らぎというか不安定さは感情というか情緒的な内面の揺らぎ表われているように見えるように思います。だから、この作品は抽象画というよりは、表現者である難波田の内面あるいは心の揺らぎを表わしているのではないかと思います。これから見ていく難波田の抽象画は、どこか温かみが感じられるのです。この視点で見ると、先に見た「街」は色ではなく線の交錯によって画面の形がつくられたものと見ることもできると思います。

「アブストラクトA」という1954年の作品。アブストラクトとは抽象という意味で、そのタイトルの通り抽象画です。この展示で、はじめて現われた抽象画です。直線と四角形で構成され、四角形は黒と赤で塗られているというモンドリアンの「コンポジション」(左側)のような幾何学的な抽象画に見えます。でも、この作品は、これまで見てきた「街」や「森」とは傾向が異なり、突飛に見えます。この間隙を埋めるのが、並んで展示されている「私のパレット」という作品です。“龍起は、1953年の夏に生誕の地北海道を訪れ現地の風景や建物などをモチーフに表現の抽象化を進めた。ふる種の風土性をとりこんだ抽象の模索でもあった。それら北海道関連の作品で龍起は、画面を直線で二分する色面分割の構図と、北海道でつかんだという「明るい灰色」を採用した。パレットをモチーフとする本作では、それら北海道関連諸作と同様の色面分割と「明るい灰色」が用いられている。(図録P.113)”と説明されています。想像するに、都会の複雑な風景から北海道のシンプルな風景を見て、視点が変わったのか、「街」の多数の線が交錯するものから単純な画面に志向が変わったのか。それに加えて、この作品では、パレットという平面を描いているわけで、もともと平面なので立体的にみることはできません。そうすると平面を単純化すると、この作品のように抽象画のようになってくる。このような抽象画の作りかたはイギリスの抽象画家ベン・ニコルソン(右側)が参考になっているという説明(小林俊介 前掲書 P.165)もあります。この「私のパレット」をさらに抽象化した、つまり、「私のパレット」の画面からパレットの要素を取り去ったら「アブストラクトA」になる。この作品について、“龍起の全キャリアを通じてもっとも「純粋抽象」に近づいた作品。斜線主体の「直線の構成」から、水平線・垂直線のみのモンドリアン的ないしデ・スティル的な構成へと一挙に飛躍している。…そもそも龍起はモンドリアンを極北とする幾何学的抽象をめぐっては、その思考の徹底性に惹かれつつも、そのいかんともしがたい「非情」さには抵抗を感じていた。(図録P.114)”と説明されています。たしかに、この「アブストラクトA」という作品は幾何学的な印象が強く、黒い線と赤でつくられる図形はたしかに幾何学的ですが、背景の色面分割の色遣いは補色のような対照性はなく、同系列の色分けに近く、緊張感を生じさせるものではない。また、色面を区分する境界も直線で明確にされているわけでもありません。そして、色面の塗りにはムラが残されていて、よく見ると筆の塗り跡もみられます。とくに、「明るい灰色」の大きな色面には汚れのような部分が散在しています。これらにより、幾何学的な抽象性があえて壊されている。それが難波田の限界だったのではないかと思います。1955年の「作品B」も幾何学的な抽象画といえますが、これも塗りにムラがあるし、さらに直線で構成された図形がどこか歪んでいて、緊張感が強くならず、何となく弛んでいるようなリラックスした感じがします。それが、モンドリアンとは一線を画する難波田の個性があると思います。

難波田の抽象は幾何学的なものから、宇宙的なものへと変わっていきます。 “数年間続けてきた「直線の構成」の試みが大きな成果となって結実した作品。線と面、色彩とフォルム、図と地などあらゆる要素が対立と離合集散を繰り返してひとつの動き、ひとつの空間、一つの時間を生み出している。(図録P.114)”と説明されています。この中の“数年間続けてきた「直線の構成」の試み”は、具体的には次のようなもののようです。“まず、白色絵具による綿密な地塗りの上に、木炭によって形態の手がかりをつかむための細い線がたくさん引かれるのが第一段階である。次に、木炭の線が油彩によって置き換えられ、同時に線と面が交互に強められていく、線で囲まれた形は面をなし、面は「明るい灰色」のマチエールで充填されていくのだから、イメージとマチエールは不即不離の関係にある。この描画過程の中で、木炭による最初の線描は、全てが生かされるわけではなく、あるものは上塗りによって隠れてしまうが、薄い上塗りをかけて、そのまま生かしている部分がある。この透明性を生かしたマチエールと前者の不透明なマチエールが、線描のイメージとからみ合い、せめぎ合いながら、作品を成立させていくのである。…このマチエールを難波田の内部の相反する二つの傾向性、「生」の情熱の解放への欲求と、画面の明晰な秩序付けへの欲求との間の葛藤の表われである。(小林俊介 前掲書 P.153〜154)”これは“混沌とした内面の気体の如き渦巻き形 さだかならざるものに、明快な形を与えようとする難波田の内面の葛藤が、自ずと二元論的な形をとったのは確かなようである。実際、この時期の制作について難波田は線と面との烈しいたたかいであると述べている。そして精鋭な精神を線で現すと考えると、面は肉体の欲求にあたるようである。また、地勢と感表われてくるというものである。(小林俊介 前掲書 P.154)”そして、その結果作品の発想は宇宙的なものになっていく、というのです。

「昇天する詩魂B」という1956年の作品。この作品は“高村光太郎の死により、光太郎への鎮魂としての意味をこめて完成されたのである。この作品では、まさに生と死の観念がモチーフであった。難波田は光太郎の死に直面して烈しい怒りのこみ上げてくるのをどうしようもなかったという。それは、死に対する抵抗のごときものであった。難波田にとって、「死に対する抵抗」、すなわち「生」への希求が、造形のテーマとしてはっきり自覚されたのである。…こうした「生」への希求は、画面全体に亀裂が伸びていくかのような、多くの直線と色面による緊張感によって表わされている。(小林俊介 前掲書 P.175)”この作品は、抽象的なんですが、上昇する動きが感じられるダイナミックさ、別の言葉でいえば生命力がある。これは、モンドリアンの幾何学的抽象の静的な画面には絶対にないものです。

「天体の運行」という1956年の作品です。まさに宇宙です。黒い線が直線だったり曲線だったりが、縦横に引かれ、その交錯が至るところに起こり、それが画面にリズム感を生み、円形が動いているように見えてきます。この円形が天体になぞらえることができるというわけでしょうか。しかし、その動きは、天体の運行というより、ピンボール・ゲームの球の動きに見えてしまいます。

 

3.アンフォルメルとの出会い

最初にも言いましたが、展示室には説明の類は一切なく、展示区画も明確でなかったので、展示リストを参照しながら会場を回っていると、どこで、このコーナーに替わっていたのか分かりませんでした。実際、「2.戦後の新しい一歩:抽象への接近」と「3.アンフォルメルとの出会い」の違いはよく分かりませんでした。

アンフォルメルは、フランス語で「形のない」という意味で、第2次世界大戦後のフランスを中心に非定型の芸術として展開された抽象絵画の運動です。戦争による既存の社会や文化の破壊のなかで育った青年層には、例えばサルトルの実存主義運動のような無秩序とか不条理をそういうものとしてありのままに受け入れる者たちがいました。アンフォルメルはそういう風潮のなかで、あらかじめ計算されたような幾何学的抽象に飽き足らず、「形」にとらわれない表現や、怒りや葛藤といった自身の内面をそのままキャンバスにぶちまける表現する。例えば、ジャン・フォートリエ(右側)は伝統的な油彩画法をかなぐり捨てて、紙に糊を塗りキャンバスに貼り付け、さらに石膏や石灰などをふりかけ、分厚い地を構築し、そのマチエールは生の声や苦悩と等価とされました。

一方、同じ頃のアメリカでニューヨークを中心に「何」か具体的なモチーフを描くのではなく、感情や精神状態を色や形で表現することを重視して描く画家たちが現われました。その主な特徴として、具体的な対象や形を描かず、感情や内面を表現し、しばしば、大きなキャンバスに描かれ、画面全体が均質で、広がりを持つような印象を与える。そして、絵を描く行為そのものが重視され、キャンバスは「画家の描画行為のフィールド」とみなされる。例えば、ジャクソン・ポロック(左側)は、キャンバスを地面に置き、その上に自身が乗って、そこに即興的に絵具や塗料をまき散らしたり、注いだり、垂らしたりして絵の具が盛り上がるほど何度も重ねていきます。それがアクション・ペインティングです。

これらは1950年代後半に欧米の新しい思潮として日本に紹介され、難波田も刺激を受けたということです。

「発生」は1959年の作品ですが、展示区画は前のコーナーで「昇天する詩魂B」などと同じ区画に展示されていました。並んで展示されていましたが、それに何か違うという感じはありませんでした。しかし、細かく見ていくと、“やや神経質な曲線が執拗に反復され、周縁部をのぞく画面全体を覆っており、彫り込むような線には強い圧が感じられ、息苦しいほどである。”“片暈かしの色彩法がやや図式的、説明的な印象を与えている。(図録P.115)”と説明されています。そして、前の「2.戦後の新しい一歩:抽象への接近」のコーナーの展示作品である「展開B」との連続性も見られます。この作品は「昇天する詩魂B」などと同じように直線を主とする点では共通していますが、画面上方の大きな円盤や曲線と、それが生み出す運動感は「発生」に通じるところがあります。この作品について難波田は“抽象運動というものは、画面上ではオートマチックな操作をやり出すのである。従って抑圧されている潜在意識の自由な上昇は食い止めようとは思わない。無数の斜線を引いてゆくそのリズミカルな運動感に身を任せてしまう”と述べているということです。だから、あえて言えば、ここで、難波田の抽象画が運動感をより強くなってくる。

「円と角」という1959年の作品です。「発生」とよく似ている作品ですが。「昇天する詩魂B」や「天体の運行」そして「発生」ではハッキリとした輪郭で明確に引かれていた黒い線が、この作品ではぼんやりしています。そのため、「発生」では線により明確につくられていた形が、この作品では崩れてきています。つまり、「直線の構成」ではなくなり始めている。とはいえ、そこに崩壊感はありません。ただ、かっちり構成されているという感じはなくなり、緩さが出てきている。それは、画面全体が切り子面で構成されているように見えて、それぞれの面では輪郭線に近い部分の色を一番濃くして徐々に薄くしていくように着色され、「面」を滑らかに移行させるようになっています。

「青の詩」は1962年の作品。明確な直線は消失し、やみくもに線が引かれ、線の交錯による面の分割も細かくなり、同時に筆触が強調されて、動きが加速され、画面全体が振動し始めるのです。線が細くなり、輪郭の明確さがなくなり、切り子面の形態が明確でなくなるとともに、厚塗りの画面によってパセティックな情感が発生している。“「明るい灰色」のマチエールは筆触で沸き立ち、知的な抑制よりも、むしろ「生」の原始的な情熱が表面に押し出される。いわば「生」のエネルギーが全面に押し出された結果、線的な構成という「近代」のイメージは払拭される。筆触が強調され、物質感を増した「地」のマチエールそのものが前提となる。それは、難波田のなかの生命的なもの、すなわち古代的なものの表出である。(小林俊介 前掲書 P.202)”そして、“ここでは、線による「図」が画面のすみずみまで拡がると同時に、「図」が「地」に対して開かれていく、つまり、地と図の区別がなくなり、画面上で一体化していくのである。これは、造形的には片ぼかしの手法によってなされていく、線で囲まれた形態が明るい灰色の「地」に溶け込み、一体化していくのである。こうした「地」と「図」の一体化、すなわち画面の全体化は、進んできている。曲線の交錯によって画面全体が運動感を帯びるとともに、画面が一体感を増してきているのである。これは抽象表現主義の影響を表わすものといってよいであろう。(小林俊介 前掲書 P.203)”これは、最初のコーナーでの「小石川植物園にて」のところで述べましたが、難波田の作品は何かの対象を描くというのではなく、画面に色を置いたり線を引いたりした結果何かが画面に描かれているのが見える、という構造になっている。それが、この作品にも見られると思います。それが、アンフォルメルや抽象表現主義に近いところがあると思います。

「青い陽」は1961年の作品です。この作品は難波田がエナメル塗料によるドリッピングをはじめて行った作品のひとつだということです。ドリッピングとは液体絵具をキャンバスや他の表面に垂らしたり滴らせたりすることで生まれる模様やデザインを楽しむ技法です。ドリッピングというとジャクソン・ポロックが駆使したことで有名ですが、“難波田のドリッピングによる作品は、ポロックのそれによる作品とは画面の構成自体が異なっている。画面全体がドリッピングで埋め尽くされるポロック作品とは違って、難波田のドリッピングは、背景の「地」に対していわば「図」をなすかのように、まとまって施されている。ポロックのように地と線とが分明つかぬほどに輻輳して、解体した空間の湧き上がるアラベスクを織ることは決してないのである。難波田のドリッピングが、地に対する「図」、すなわちひとつのイメージをなすように働くことは、このドリッピングの手法が採用された動機にも関係していよう。…難波田のドリッピングは描画の意識のコントロールからすこしは自由にさせた線をのせるという、造形主義的にして意図的なところが多分にある。つまり、オートマチスムというよりは造形的な配置としての性格が強いのである。このことは「青い陽」などにみられるように、ドリッピングが画面の左右に密集的に、画面中央で線対称をなすように配されていることが多いことからも分かる。(小林俊介 前掲書P.204〜205)”この作品では、黒い細い線がうねうねと曲がったり、折れたり、時には線ではなく黒い塊になっているのがドリッピングによって描かれた部分です。上の引用を私なりに噛み砕くと、幾何学的な抽象は、あらかじめ計算されたデザインつまり設計を行い、その通りに正確に描くわけです。それは完成された姿ですが、動感はありません。生き生きとした感じはなく、冷たい感じなのです。動くということは形が歪むことでもあるわけです。そこで、画面が生き生きとしたものであるためには、正確な設計の完成された姿ではない、つまり完成をぶっ壊すことになる。そこで用いられたのが、あらかじめ設計されたのではなく、その場で即興的に描くということでした。それが、アンフォルメルや抽象表現主義の手法です。しかし、全部をその場の即興で描いたとしたら、それは、これまで描いてきた作品のすべてを否定することになってしまいます。そこで、難波田は画面全体を大雑把に設計して、ここのところは即興で描くというようにコントロールしようとした。それが、この「青い陽」という作品だというわけです。画面全体がシンメトリー的ですが、厳密というわけではなく、細い線がうねうねしていて動きが感じられます。そこにアクセントのように配された青がとても印象的で、その青が美しい。

「たたかいの日々」という1963年の作品です。まるでジャクソン・ポロックです。秩序というものがなく、ここから何かをイメージすることはない。しかし、不思議なことに、ポロックの作品に感じられる、猥雑さとか騒々しさが、この作品からは感じられず、反対に静けさを感じます。

1963年の「青のコンポジション」という作品です。これは、「たたかいの日々」とは両極端の反対の極のような作品です。「たたかいの日々」が抽象表現主義そのもののような即興的で分散的な作品なら、この「青のコンポジション」は計算された構成の考えられた作品です。この作品は、ドリッピングが使われていません。難波田は、同じ時期に、二つの両極端とも言える作品を制作していた。すなわち、アンフォルメルや抽象表現主義から触発されて、その技法を取り入れたとしても、難波田は、その一方で、それらとは異なる別種の作品も制作していたというわけです。おそらく、そのどちらも難波田という作家の持っているものなのでしょう。それにしても、この作品も、青、深い青が印象的です。

大きな広い部屋に移って正面に大きな作品が並んでいます。「コンポジション」と「ファンタジー青」という二つの作品です。この両作品は、ドリッピング作品の最高傑作といってもいい作品で、全画業を代表する作品と言われることもある、と説明されていました。“色彩・面のシステムとドリッピングによる線のシステムが分離、併存したうえでなお高度に協働して極めて魅力的な絵画空間を生み出している。蜘蛛の糸のように散らされるドリッピングの「黒」は、イメージや絵画平面の二次元性につなぎ止める効果も発揮しつつ、逆説的に色彩の前進や後退、膨張や収縮、コントラストやグラデーションなどの効果を引き立てる役割を担っている。(図録P.116)”ドリッピングによる黒い線は「地」からまったく遊離してしまっているのではなく、むしろ、下地の濃色部分と呼応しながら一体感を保っている。つまり、違和感なく青色調の下地と調和している。このことが、造形的な操作を感じさせない、自然さを生み出している。そして、これらの作品ではドリッピングによる線の動きが抑制されていて、激しさを感じさせない。とはいっても、まったく動きがないというわけではない。むしろ画面が静かに脈打つかのような、いわば「静のなかの動」ともいうべき揺らぎが画面全体にある。この微妙な動きは、下地の深い青のなかに明滅するかのような明色の配置と、その上にドリッピングによる黒い線が浮遊するようにあることによる。また、青い色調の下地は蝋の混入によって半透明になっていて、上層の濃い色との対比で深みのある空間を作り出している。

「紫苑」は1969年の作品。その題名の通り、紫色が印象的で、ドリッピングによる黒い線と下地の紫のグラデーションが、「コンポジション」と「ファンタジー青」の下地の青とドリッピングの黒との関係と同じように、そして、この作品ではサイズが小さくなって、親しみ易くなっています。

 

4.形象とポエジー:独自の「抽象」へ

1970年代はじめ新たな転機が訪れる。“ドリッピング技法は影をひそめ、かわって線と色彩を丹念に紡ぎ出すようにしてひとつの全体へと統合してゆく独自の画風が確立する。これはある意味でキュビスムで想定されるグリッド構造への回帰と言えるが、ドリッピング以前の1950年代の直線の構成がダイナミズムを優先して斜線主体であったの対して、スタティックな水平垂直の構造が明瞭に出てきたことは、結果として画面の統合性を高めることになっている。そうした安定した画面構造のもとで、ゆっくりと成長するような有機的な動きや、時に人影や人物群像、建物などを思わせる形象的なイメージが支配的となる。ここに龍起が当初より心に抱いてやまなかったポエジーと、骨格のある造形への意志の大いなる一致を見ることができる。(会場の展示品リストの説明より)”

「昇天」は1976年の作品です。それまで、ドリッピングで線が蠢いていたのが、ここに至ってほのかに形をとり始めようとする。そんな丹念に紡ぎ出される青と白の空間のひろがりと絡み合う線描をたどると、画面中央に若い男女が向き合うような形象が見え、画面上辺部には若い男性の頭部をおもわせる形象が見えます。“この人影のような形象は、造形的には、「地」の部分の濃色と明色との境目から生まれている。線とトーン、マチエールが一体化したなかから、イメージが生まれてくるのである。(小林俊介 前掲書 P.211)”“この時期の線描が生み出す編み目状の線のつながりは、街や人影、或いは群像など様々なものに見えるが、それは、あらかじめそういったものを描こうとして出来たのではない。むしろ描画するうちに、「ひとりでに」出現したものなのである。(小林俊介 前掲書 P.210)”これらの説明は、このころの難波田の作品が、形のないようで、形があるように見える、でも形ではないという、具象とも抽象とも言える言えない、あいまいで微妙な、境界線をうろちょろしているような画面を指していると思います。

1978年の「曙」も同じ傾向の作品です。線描の中から、見方によって様々な人の形象が見えてきます。これは、見る人が、様々な形象を見つけて、イメージすることで画面が作られていく、という面があると思います。それだけに、ずっと見ていても、飽きることがない。しかも、これまで難波田の作品では目立たなかった赤がアクセントとなって、画面の彩が豊かになっています。

「群像A」は1980年の作品です。人の形象があるようなないようなものが、ここでは群像のように折り重なるようになっているため、何かが息づいている、あるいは蠢いているような気配が生まれています。ここでは、今までの難波田には見られなかった赤を基調とした色調が、その気配を強めていると思います。“これらに見られるイメージは「織りなされる」という言葉が似つかわしい。すなわち、そこには時間が孕まれているのである。無論、すべての絵画は、その内容においても描画の過程においても、何らかの時間性を含んでいるであろう。しかし、透視図的な再現描写が、いわば写真のシャッターを切るように一瞬の画像の定着をめざしているのに対して、難波田の作品の描画過程が示すものは大きく異なる。「人影」が積み重なって群像をなしていくような、いわば部分が重なって全体と化すような難波田の作品では、描画の過程が孕む時間そのものが全体の構造を成していく。難波田の作品がしばしば詩や音楽にたとえられるのもこのためであろう。韻律に基づく時間計術である詩や音楽は、まさにそうした時間性が全体の構造に転化し、作品を形作る。難波田の作品も、時間性を孕んだ描画の過程、すなわちリズムが全体の構造を成していく点、「詩的」であり、「音楽的」であるといってよいかもしれない。(小林俊介 前掲書 P.211〜212)”

「原初的風景A」という1987年の作品です。“この作品では、筆でそれとして描かれる線は姿を消し、線の要素は面(フォルム)の縁に吸収されている。線と色彩、線と面との対立は解消され、より統一的な画面構造が現出している。もちろん、線が面に吸収された分、画面の混乱をさけるために個々のフォルムの分節に意が注がれるあまり、結果はやや説明的となり、面と面、フォルムとフォルムの相互浸透、ふるいは図と地の反転といった絵画的な楽しさは後景に退いているかもしれない。しかし、鍾乳洞の床に筍状に形成される「石筍」、あるいは堆積物が風雨や浸食で削り取られたあとに柱状に残る「土柱」を思わせる。なにか鉱物的なイメージは極めて魅力的だ。よく見ると人為的な構築物も混ざっているかもしれない。(図録P.116)”この説明では筍状といっていましたが、私には、ムーミンのニョロニョロに見えてしまって、筍ではなくニョロニョロは動くので、画面上のこれも動くように思えて、画面全体が揺れているように見えてしまうのでした。それと、いままでの作品では、その形態が多数あるマスという感じでしたがねこの作品では、個々が個々であるように、それぞれの形態が思い思いに別々に動きそうで、統一感とともに、個々が多様であるいう分散的な方向性が感じられました。

「五月の陰影」という1974年の作品です。パステルカラーの色遣いがとても印象的で、それだけで魅力的な作品です。難波田の作品については、とうしても理屈をこねて言葉で語ってしまいがちなところがありますが、実は、この作品のように、感覚的に、ただただきれいで、魅了されてしまう面もあるのです。そして、このあたりの作品になると1950年代の「直線の構成」の太い明確な線や1960年代のドリッピングによるうねうねと動き回る線、というように線が強い存在感をもって目立っていたのが、薄ぼんやりとして消えてしまいそう、あるいは面に埋没してしまいそうになっています。

 

5.石窟の時間

展示作品のサイズが小さいものにかわります。ここは、水彩画の展示でした。“難波田龍起の水彩画は、油彩と近似しているようでいて独自の魅力を湛えており、イメージの瑞々しさより親密に語りかけてくる。「石窟の時間」は1988年に制作された通作で、水彩画らしい透明感と、結晶を思わせる硬質感が不思議な共存をみせている。(会場の展示品リストの説明より)”と説明されていました。

 

6.晩年の「爆発」へ

これまでのコーナーとは違って、ここで作風の大きな変化があったというわけではありません。1980年代に完成の域に達したあとも、1997年に亡くなるまで制作を続けた、ということでその作品が展示されている。

「コンポジション赤」という1988年の作品です。「原初的風景A」で面に埋没していた線が戻ってきました。この作品では、多数の明確な線が存在しています。ただ、下地の赤が強い色で、しかもその赤が濃いめなので、黒い線は下地の赤に埋もれそうです。そして、この線は以前の作品のような面をつくったり、下地の上で自由に動き回るようなことはしていません。それは、「原初的風景A」で色彩の陰影でニョロニョロの群像を表わしていたのを、線で置き換えたように見えます。下地は赤のモノトーンになり、「原初的風景A」に比べて、禁欲的な印象があります。これを、線を減らして、全体をシンプルにしたら晩年のパウル・クレーになってしまうかもしれません。

「無窮A」と「無窮B」は並んで展示されていたので、ワンセットとして見ました。「コンポジション赤」で戻ってきた線は、この作品では、再び下地に溶け込んでしまいました。「図」と「地」の一体化と説明されていましたが、下地の青の濃淡によって、何かの形象らしきものが作品を見る者が認識できるものとなっています。“宇宙か、大地か、あるいは都市か、曖昧ながらも確実にそこにあるなにかの形象が、極めて明瞭に立ち現われてくる。「自然にこのような形象が現われたということはない。事実私の手の動作で描いたのである。…自分が納得できるまで不可解なものを極めていかなければならない。そうした過程を経て心象的な抽象作品は出来上がるのではないかと思う。…すべてわかってしまったら、抽象絵画を描く興味はなくなるものだ。正直なところわからないから描くのである。/手をうごかししてから描くことによって、頭脳は満足し次の指示を与えてくれる。そして手は活発にうごくのである。」(図録P.117)”つまり、難波田自身が意図的にそういうものを描こうとしたというのではなく、描いているうちに自然にこのような形象が現われたというものなのだろうということです。そこには、あらかじめ持っている意図やイメージを必ずしも優先させず、むしろ偶然現われるマチエールやイメージを大事にしながら制作しようとする画家の姿があります。個々に至って、難波田にとっての、これを描こうと言うイメージと描いているマチエールは一体のものとして、どちらかが目的でもうひとつが手段というのではなく、両方が一体となって「生成」されるものとなったといえるでしょう。

「生の記録3」と「生の記録4」は両方とも大作ですが、並んでセットとして展示されていたので、そういうものとして見ました。それぞれ、青と黄色のモノトーンで、それぞれの色が深い色合いで画面に吸いこまれそうな魅力があります。“「生の記録」諸作では、色彩は黄褐色、青などの単色となり、線は単色の明暗、諧調により表現され空間と一体化している。線はもはや画家が「構成」するための所与ではない。もはや画家が引こうとして引いた線とも見えない。それは開闢の混沌、劫初の闇のなかから、自ら生成しつつあるかのような線なのだ。画家は「生の記録」諸作に取り組んだ時期に、「近頃の制作の発想は、取りも直さず「生命の創造」につながるのである。言い換えれば、私は生命のながれを内面的に掴んで、そのイメージの定着を画面に求めている。」と書き、また「自分の生きてきた長い道程」を描こうとしたのが始まりとも述べている。しかし、その結果生まれたイメージは、もはや人間の存在すら超えていた、無機物と有機物との区別を超えた、ものの生成、ものの始まりに関わっているように思われる。それはもっとも深い意味での、「生命の創造」といえるのではないか。(図録P.104)”と説明されています。この二つの作品では、「無窮AB」などの作品で画面が青のモノトーンとなり、その濃淡で作られるようになり、線描が下地に溶け込んで一体化していたのを、さらに進めて、画面全体がひとつの色調として現われるものとなりました。その画面をよく見ると、それぞれ三枚一組の一枚ごとに下方から上方へ枝分かれしながら上昇する線らしきものを見分けることができると思います。それはもはや線ともいいがたい微妙なトーンの連なりであり、流れでもあるわけです。そこには、あらやるものを包摂して流れている生命の川のように、様々なイメージがこの「ながれ」の中に溶融されていく。そして、この「ながれ」に沿って、画面には、静かに振動し、呼吸しているかのような気配が漂うのです。

このあと、大きな展示室から廊下に移って、スケッチやリトグラフあるいは個展のパンフレットなどの資料的なものが並んでいましたが、途中から疲れてしまいました。それは、難波田の作品が疲れを気づかせないほど魅力的だったということだと思います。

“絵画という視覚的な形式を通じて難波田が追い求めてきたものは、終始、眼には見えないものであった。物事の成り立ち、或いは物事を成り立たせている根源的な力、自然の生成力─これを難波田は「生」と呼び「生命のながれ」と呼ぶ、寺田小太郎が語ったように、難波田の探求は内面の混沌を見つめることによって、現象を超えた本質へ向かおうとするものであったといえよう。ゆえに、外面的な描写に因らず、内面的な方法に因らなければならなかったのである。「私は生命のながれを内面的に掴んで、そのイメージの定着画面に求めているのだ」と難波田はいう。従って、難波田の方法は視覚的なものだけにとらわれてはいなかった。ものの根源を凝視めるその眼差しはトーンやマチエールという触知的な実在感の探求へ向かう。一方、晩年の作品に顕著であるように自然の根源にある生成力自体が、いわば時間的な過程として制作のなかに取り込まれている。…難波田の「抽象」は、本質的なもの、普遍的なものの表現なのである。(小林俊介 前掲書 P.234)”という難波田の捉え方もありますが、このような捉え方は展覧会では明示的には打ち出されてはいませんが、図録で引用されている難波田自身の言葉や文章からは似たような内容がうかがえるので、それほど遠いものではないと思います。それはそれとして、たしかに難波田の作品は、視覚的な写実とは違う方向性を持っていると思います。それは、視覚的な「何か」を描くというものではない。とはいえ、難波田が最終的に抽象表現主義やアンフォルメルに行かなかったのは、「何か」を描くということを放棄するまではいかなかったからだと思います。難波田は視覚的な「何か」を描くことはしなくなりましたが、視覚的でない「何か」を描こうとした。ただし、それは引用の文章のように言葉による概念、例えば「内面」とか「生」という概念ではなく、おそらく、難波田自身も、その「何か」がはっきりとは分からなかったのではないか。それで、その「何か」をはっきりさせる作業とどのように描くかを試行錯誤するのが一体化していた。つまり、どのように描くかが固まれば、描く「何か」が炙り出される。だから、難波田の試行錯誤を追いかけることは視野のひろがり、新しい視野が開かれる、ということにつながる。そういう難波田の作品を追いかける楽しさを、この展示で満喫しました。

 

 
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