ギュスターヴ・モロー展
 

  
 

2005年8月13日 Bunkamuraザ・ミュージアム

フランス国立ギュスターヴ・モロー美術館が改装中なため、その間に展示の一部を借りての展示という。

ギュスターヴ・モローについては先入観があって、印象派のような外光というような絵画の表層的な表現、つまり、見た目の変化に重点を置いて、描く対象は目の前にある物という絵画に対して、画面を想像力で構成してくタイプの画家というイメージがあります。それ以上に神話や聖書等の中から神秘的なイメージを描き、しかも、生前から「パリの真ん中に住む行者」などと言われ、謎に満ちた私生活と、自宅のアトリエにこもり自分の世界を構築するように作品を作っていくという。当時の一部流行していたゴシック・ロマンの世界を思い描いてしまうのです。例えば、JKユイスマンスの小説「さかしま」のデ・ザッサントと俗悪化する世間に耐え切れず、塔の中にこもり完璧に自分の美意識に貫かれた閉鎖的な空間を作り上げます。卑近な例で言えば、江戸川乱歩の「パノラマ島奇譚」も資産家と瓜二つの外貌の男が、その財産を手に入れて島を買い取り自分の思う通りの世界を作り上げ、自らそこで花火となって死んでいく話ですが、一つの世界を完璧に自分の思うままに作り上げて、そこに籠ることで、産業化によって成り上がり者が闊歩し低俗化していく世間から自分を守ろうとした。それを美術でやろうとしたのが、もろーではないか、実際に自宅のアトリエには他人を踏み込ませず、制作した多くの絵画に囲まれていたといいます。そういう完結した神秘と瞑想の世界を絵画作品にも完璧に完結させて作り上げた、などというとドロドロのゴシック・ロマンの異世界を想像してしまっていました。

しかし、実際の作品を見てみると普通の作品というのか、印象派など(といって一括りにしてしまうのは乱暴ですが)に比べて、はるかに伝統的というのか古いタイプの作品であることに最初は驚きました。よく考えてみると、荒唐無稽な想像の世界などと言っても現実をベースに考えるわけで、そんなに突飛で飛躍したことを考えるなどということはできません。また、神話というのは得てして現実の事柄を象徴的に捉えそれをさらに想像を加えたもので、ある意味手は現実の裏返しとも、現実の象徴的表現とも言えるわけで、現実の世界とは無関係に独立して存立しているわけではないわけです。現代の神話的世界ともいえるSF小説の世界では、宇宙とか異次元といった現実にない異世界を描くときも、疑似科学的な理論的説明をほどこして現実世界と無関係でないような体裁を整えているのです。そうでないと、読者がリアリティを感じられず、作品世界に入っていけないからです。海外の場合も一緒で、神話世界と言っても以前からのギリシャ神話や聖書の物語を表わした絵画の伝統があって、近代化したといっても人々の想像力はそこから一気に逸脱するなどということはあり得ないのです。ギュスターヴ・モローだってそういう人々の集団の中にいるわけですから、いくら優れた想像力に恵まれたといってもスタート地点は一緒です。その想像の世界を画面に定着させるときに、枠に嵌めるというのか、その際に伝統的な歴史画を枠として使って、そこに想像を流し込んだということではないかという気がします。とくに、「さかしま」のデ・ザッサントには顕著に出ていますが、ゴシック・ロマンで世界を構築する際に、枠取りのような全体の世界をまず堅固に作り上げるというより、細部の細かなディテールにこだわり、そのようなディテールの積み上げで全体が出来上がっていく作られ方をしてしまうようです。これは、現実の世界を拒否するという防御的な姿勢からは当然と思われるものですが、モローの作品にもディテールへの固執という点も顕著にみられ、全体の構成よりも細部が優先されたという傾向も見られます。そして、何よりも大きく感じられたのは、完成された作品が少なく、未完の作品が多かったということです。これは、頭の中で想像される世界がどんどん広がる一方で、細部にこだわり精緻に描き込まれた作品を制作するのが間に合わなかったからではないかと思います。頭に中から想像の世界がどんどん流れだし、スケッチが増えていくが作品として仕上げていくのは間に合わない。そのため。同時並行でいくつもの作品に着手し、細部を丁寧に描き込んでいくため、完成に至らない。そのとき、ひとつひとつの画面構成という世界構築をひとつひとつ慎重に構想するのが間に合わなかったのではないか。そのせいか、モローの作品の画面構成は緻密で大胆な構成の作品はすくなく、どれも似たような構成になっているように見えます。実際に見る方としても、観方をパターン化できるので、意外とモローの作品は親しみやすいところがあります。題材となる神話を知っていればなおさらですが、知らなくても小説の挿絵のように見ることができる。

とくに、モローの縦の構図という特徴です。基本的に縦長のキャンバスに描くことが多く、その縦長の画面に縦のラインを際立たせるように描いているのです。後で具体的な作品を観て行きますが、人物はたいていすっくりと直立していますし、手は上下に位置していることが多いです。

今回の展示は、未完成の作品や作品制作のための下絵やスケッチが多く展示されていました。自ら絵を描く人や研究者にはたいへん美味しい展示となっていると思いますが、私のような単に作品を観て楽しむような人間は、完成した作品を観てあれこれ想像を思いめぐらせるのが好きなので、作者がこのように作成したというような情報は却って邪魔になりました。したがって興味深いかもしれませんが、そのスケッチ自体が面白いという場合を除いて基本的に素通りしました。展覧会では次のような構成で展示されていて、ここでも、それに従って感想を綴って行きたいと思います。

1.プロローグ

2.神々の世界

3.英雄たちの世界

4.詩人たちの世界

5.魅惑の女たち、キマイラたち

6.サロメ

7.聖書の世界

8.エビローグ  


1.プロローグ 

ギュスターヴ・モローの修業時代の作品です。私の場合は、基本的に作品主体で作品そのものを単独のものとして見たいので、画家の伝的な事実とか作品にまつわるサイド・ストーリーとかエピソードは却って邪魔になるので、美術館の展覧会にある解説は基本的に素通りし、作品を観て何か感じるかを最大限に尊重する見方をします。そうでないと、いま上で述べたようなことに引き摺られてしまって、そこに描かれたものを見なくなってしまうことがあるのです。例えば、モローの絵画は細部にこだわり、ディテールをかなり描き込んでありますが、そこに小物が何か描かれているのを見ることなしに、神秘の世界というコピーに振り回されて神秘を味わったつもりになっている。それよりも、隅に描かれた小物の精緻な描写を味わいたいのです。その結果が神秘的世界になることは何ら否定するつもりはありません。たまに、美術館で音声ガイドのイヤホーンの説明を目をつぶって聴き込んでいる人を見ると、何を見に来ているのかと疑問に思うことが多いです。

とうわけで、画家が完成した作品として、外部の人に見せていいと思ったものを観るというのが、基本的な姿勢なので、習作とか下絵は素通りするのですが、最初のところで少し述べたように、この展示をみるとギュスターヴ・モローという画家が伝統に根ざし、それをいかに生かしていったかがよく分かるのと、実は風景画家としても優れていたということが良く分かるので、そんなにスペースを割くつもりはありませんが、一言述べたくなりました。

「24歳の自画像」という画家にとって唯一の油絵による自画像です。参考に、ロマン主義の画家であるドラクロワによるショパンの肖像画(右図)を並べて見ましたが、とてもよく似ています。モローがこの作品を見たのかどうか分かりませんが、明らかに影響関係が見て取れます。沈鬱な暗い背景の中に浮かび上がる相貌というパターンはそっくりですし、豊かになびく髪と斜めに構えた顔の動勢、黒い上着に身を包み白いシャツがのぞくのがアクセントとなっている。斜めから見た顔が縦長のラインを生かし、細面の繊細さが際立つような描き方で、ショパンの方は顔に深く刻まれた陰翳が幾分病的というのかエキセントリックな雰囲気が感じられますが、モローは未だ若いのかそこまでは行っていない。その分、髪の毛やあごに残された髭の繊細な描写が若さ、柔和さを引き立たせるようです。そこでは、ドラクロワの肖像画のバターンに自らの個性を見毎に当て嵌めて完成された作品世界にしていると思います。実際、その後のモローの神秘的といわれる作品も基本的にはこのパターンを前提に発想されているように、私には思えます。

もうひとつは風景のスケッチです。「ローマのフランス美術アカデミー」は淡彩で小品ながら、風景の広がりを捉えているように思えます。奥の建物と手前の庭園の間に境界となる壁が横切るように中央にあって、手前の淡い広葉樹のような樹木の一群と対角線のように壁の奥に別の深い緑の針葉樹のような樹林が対照的に描かれています。その樹林の上には二つの塔がそびえ、さらにその右後方にはドームがのぞいている。前景の左の記念碑や樹林とで、垂直のアクセントとなっている。他方では、横切る壁、上方の空、あるいは夕暮れの影などがセピア色の濃淡を色分けされて水平に広がるようにリズムを生み出している。横の淡いリズムと縦のアクセントは、私にも分かるぐらいに単純ですが、いかにも拡がりを感じさせるものです。これは、後の作品で、細かく画面に細部を詰め込むように描きながらも、チマチマした感じを見る者にあたえず、一定の空間の広がりをもたらしている描き方に繋がっているのかもしれません。じっさい、これらの空間をベースに想像世界を乗せていくような画面の作りになっているのではないかと思います。 


2.神々の世界〜「エウロペの誘惑」 

プロローグは習作時代の、いわば画家として一人前になる前のモローということで、ここから本格的な展示になり、取り上げられた題材によって分けられています。ただ、モローはそのような区分を意識していたとは思えず、展示のための便宜ではないかと思います。というのも、神話をよく題材に取り上げているので、世紀末とか象徴派の先駆と言われることもあるようですが、モロー自身には小説とか神話とか文学に対する思い入れのようなものは、それ程深くはないように思います。例えば、彼の自閉的な空間であるアトリエへの立ち入りが許された数少ない人々の内には文学者はほとんどいません。むしろ、かれの描きたい架空の動物や古代風あるいは裸体に近い人物等を自由に描けるものとして、しかも当時は絵画としての権威も残されていた歴史画、とくに神話を取り扱ったものに惹かれていったのではないか、と私には思えます。そのため、神話の題材の取り方も伝統的なもので、モローが独自に取り上げたものはない代わりに、画面での個々の人物や怪物、神の描き方を工夫していて、そういうもの自体を好きなように描きたかったのではないかと、私には思えます。また、そこでの人物のポーズの取り方などを見ていると、神話のストーリーが語っているものには見えないことがあります。それは、モローが神話の語りより、画面を描くということを優先させた証しのように思えるのです。

なお、展示は、私から見れば完成された作品というものが少なく、未完成だったり、下書きだったりというものが多く、そういうものには参考として以外、とくに触れるつもりはありません。

「エウロペの誘惑」

ギリシャ神話の中で、ゼウスによるエウロペ略奪の一場面です。チュロスのフェニキア王アゲノールの娘エウロパの美しさに一目ぼれしたゼウスは、白く美しい牡牛となって、海岸で侍女と戯れる彼女の許へ現れます。最初は恐る恐る牡牛に近付いていたエウロペも、次第に慣れてその角を花輪で飾り背に乗った。すると、牡牛に変身していたゼウスは、エウロペを乗せたまま海を渡りクレタ島に連れ去ってしまう。なお、連れ去る際に現在のヨーロッパ中を駆け回ったため、その地はエウロペの名前からヨーロッパと呼ばれるようになったといいます。この作品は、エウロペがゼウスの背に乗った瞬間を描いているもので、エウロペの顔には、まだ連れ去られる不安が現れていません。今、エウロペが牡牛の背に乗った瞬間と言いましたが、これでは実際にゼウスは彼女を乗せて連れ去ることはできません。常識的に考えれば牡牛に乗った人物を絵にするなら、しかも人が乗ったところで走り去るという内容でしたら横の構図の方が絵にしやすいのではないか。牡牛を横から描くという方法で、その方が連れ去るという風景にしやすいゆうに思えます。実際、テッツアーノ(右上図)やブーシェ(右下図)の同じ題材を扱った作品はそのように描かれています。そこに、モローの特徴の一つとして縦のラインへの志向があると思います。縦長のキャンバスに描かれたエウロペの姿態が惜しみなく晒され、前をあげる牡牛に寄り添うように仮面の左上から右下の対角線上あり、これに対して、はだけ風になびいている彼女衣服が、彼女の姿態とX字のように垂直に交錯するように一直線上に左下から右上に伸びている、それと同じ線上に見上げるゼウスとエウロペの視線が構成されているところです。これによって、ゼウスとエウロペの二人のやりとりがモローの作品では表現されているといえます。参考としてあげたテッツアーノやブーシェではエウロペは単に略奪されるだけの物体となってエウロペは描かれていますが、ここでは、連れ去ろうとするゼウスが恋の囁きをしているようにも見えます。後にクレタの王妃となり、ゼウスの子を産み育てることになるエウロパですから、そういう要素が、ここでは垣間見えるといえなくもありません。そのためなのか、牡牛の頭部はゼウスの顔が描かれています。これは、今言ったような効果と、実はモロー自身が人頭獣身のケンタウロスのようなものを描きたかったのではないか、と思うのです。これは私の個人的偏見です。

そして、もう一つの特徴は、衣服がはだけ全裸となり、きわどいポーズで、しかも意味ありげな視線をゼウスと交わすエウロペの姿態に、ほとんどエロチシズムを感じられないことです。これは私の個人的な好みかもしれません。しかし、世紀末という視点から見れば、年若い処女を略奪するという物語や、画面からは人を獣が略奪するという視点も考えられるわけであり、いくつもの要素があるにもかかわらず、エウロペのポーズについても、そういう要素がないとは言えません。しかし、エウロペの身体を見ていると性的な生身の身体というよりも彫像のような肉体の形状としか見えないのです。これは、モローという画家が物語ということより肉体という形状の方により惹かれる、いかにも画家というのか視覚的な捉え方を第一する人ならではのことではないかと思います。おそらく、モローという人は当時から始まろうとしていた近代から現代にかけての絵画の様々な改革運動のようなものにも縁がなかったのではないか。かれは美術アカデミーの教師として多くの若い画家を育てたので、そういう動きを知らなかったはずはないのでしょうから。しかし、そういう運動のほとんどは理念とか思想というようなコトバが先行してもので、視覚で生きていたモローには次元の違う世界のものと映ったように思えるのです。数多く残されたスケッチからも感じられるのは、暇さえあれば何か描いた、というような根っからの、描くことが好きな画家だったのではないかということです。それが、必ずしも彼の画風は好きとも言えないのに、なぜか彼の展覧会に足を運んでしまう理由なのかもしれません。

ここでの展示はほかにもありますが、完成された作品として見ることのできるのは、これ以外にはありませんでした。 


3.英雄たちの世界〜「ヘラクレスとレルネのヒュドラ」 

ギリシャ神話の英雄は超人的な力を持ち怪物を退治したりします。ギリシャ神話では神々は人間の姿をしていて、しばしば人間界に現われ人間の生活に介入します。だから神々と英雄はほとんど重なってしまうようなものですが、大きな違いは神々が不死であるということくらいだそうです。しかし、日本人私から見れば人間がしばしば神になってなってしまうお国柄としては、ほとんど違いを実感できないというところです。

18世紀から19世紀になるとヨーロッパは産業革命と植民地進出により世界の覇権を握ります。その時に、自らの支配の正統性の必要と、いまさらながらではありますがヨーロッパのアイデンテティを模索し始めます。もとよりキリスト教がそのペースなのでしょうが起源は小アジアで純粋なヨーロッパ産ではないのです。そこで再発見されたのがギリシャだったというわけで、そこでヨーロッパの起源としての古代ギリシャが神話化されていきます。例えば、オリンピック等も古代の小アジアのローカルな宗教儀式を近代スポーツの祭典としてヨーロッパの行事に仕立て上げていくのも一つです。また、遺跡の発掘の盛んになり、ドイツのシュリーマンのような人も現れヨーロッパ列強が競って行い、大英博物館やルーブル美術館などに古代ギリシャのコレクションが充実していくのです。そのような中でモローがギリシャ神話の世界に親しめたのは、そのような時代風潮が影響しているのではないかと思えるところもあります。

「ヘラクレスとレルネのヒュドラ」

ギリシャ神話の剛力の英雄ヘラクレスの有名な12の難業の2番目、レルネーの沼沢地帯に棲み付く猛毒を持った九頭の水蛇ヒュドラの退治のエピソードです。前に観たエウロペもそうですが、これも戦いを題材としていながら、動きの少ない画面となっています。それぞれ、「エウロペの誘拐」が連れ去る直前、「ヘラクレスとレルネのヒュドラ」が戦闘直前の対峙しているところという行為の直前を表わしているといいますが、ダイナミックな動きを描くのを苦手にしているのか、あまり好きでないのか、どちらかではないか。多分、モローという画家はダイナミックを動きの要素を画面に挿入することによって構図が乱れるのを嫌っていたのではないかもと私には思えます。例えば、まんがの世界では自動車の疾走感を出すためにタイヤを楕円に歪めて書くことがあります。人間が動きを見る時に残像効果の影響もあって形状が歪んで見えることがあるようです。それを逆用して画面に意識的な歪みを加えてあげることで見る者に動いているように見せかける手法があります。モローは、これが我慢ならなかったのかもしれません。

モローの完成された作品を見ると、大作と言えども細部にいたるまできっちり描かれて、完璧主義といえます。一つの作品はそれ自体で閉じた完成した世界のようです。当然、構成や構図もきっちりしています。「エウロペの誘拐」でも見たように画面構成それ自体に意味があるもの、むしろそれが作品内容を決めているようなところがある。としたら構成が歪むということは、やってはいけないことではないかと思えます。

画面構成を優先させるということは、この「ヘラクレスとレルネのヒュドラ」でも言えることで、一番目立つ点はヒュドラの描き方です。普通では蛇をこの作品のように直立させるということあり得ないことです。蛇は地を這う生き物ですから、せいぜいトグロをまいて鎌首を上げているというポーズです。(右図は壷に描かれたヘラクレスとヒョドラです)しかし、モローは直立するヘラクレスと対峙させるように直立させた。これは、縦のラインといモローの画面の好みが大きくものを言っているのではないか。それよりも、モローという画家はもしかしたら画面構成の画家ではないかということです。画家には絵を構成させるときに様々なタイプがあって、色彩に敏感な人や光の明暗で画面を考えるタイプとか、いろいろに分類することができますが、モローは画面構成によって画面にある空間を設定して画面を作るタイプの画家ではなかったかと思われます。というのも、縦に2つのものが対峙して、左側に主人公がいるというのは、有名なサロメを扱って「出現」という作品の構成と同じなのです。丁度ヒドラとヘラクレスの位置関係がサロメと出現したヨハネの首の位置関係がそっくりで、そのたろかヘラクレスとサロメのポーズも似通っている。そして上に広く空間を空けているところも似通っています。このように、モローは構図でもの考える画家だったのではないかと思のです。

画面左側へは棍棒を手にし雄々しく逞しい肉体と強固な意志を感じさせる視線を毅然とヒュドラへ向けるヘラクレスが、画面右側には九つの鎌首を持ち上げ、ヘラクレスに明らかな敵意を示すヒュドラが配されて、両者の間では戦いの前の緊張感が漲っているようです。そしてヒュドラの周辺には己が殺した死体が散乱しており、観る者へヒュドラの獰猛性と強大な力を連想させます。さらにヘラクレスとヒュドラの間の岩の谷間から広く空をとっているのは張り詰めたこの場の空気を観る者により強く印象付ける効果を生み出しているといえます。 


4.詩人たちの世界〜「ケンタウロスの運ばれる死せる詩人」 

前のページでギュスターヴ・モローという人は、文学的な志向がないのではないかと書いたところで、詩人たちの世界です。詩人たちを題材として取り上げていて、結構、その数も多いのです。でも、取り上げ方は神話のストーリーみたいで、ここでも画面優先という感じがします。そういう画面にするのに格好だったからというと言い過ぎでしょうけれど。

ここでは、そういう題材というよりも、油絵の作品は完璧主義者(と私は思っている)のモローにしては仕上げが十分に為されていない、というのか画面の描き込みが細部でぞんざいなところが見られるので、到底完成作とは思えない作品ばかりだったので、あまり積極的にここで感想を書く気にはなれず、そのかわり水彩画でスピード感をもって描かれたものが善かったので、そちらについて見て行きたいと思います。

「ケンタウロスに運ばれる死せる詩人」

今まで、ここで取り上げ来た油絵の几帳面な完成作と比べて、大胆に省略、デフォルメされたような水彩独特の描き方が、まったく違った効果を上げていて、しかも、色遣いが同じ画家かと思えるほど変わってしまっているので、小品ながら今回の展覧会のなかで印象的でした。詩人の死体の白に対してまとっている布のグリーンと血の赤の対比と、詩人の血に染まったような夕暮れの赤に対しての背景で使われる青が現実にはありえない、非現実な世界をつよく感じさせる色彩世界です。それに対してケンタウロスが、これまで見てきた油絵でおもに使われていた色に近いもので、それらとの対照というものです。とくにケンタウロスが想像の世界の生き物であるはずなのに、生と死という区分から言えばこの世の生き物とかんじさせ、しかも透き通るように蒼白な詩人に対して鈍重で暗い感じすらして、しかも首を垂れたうつむいた格好は何か取り残されたような印象を受けます。どちらかというとこの世に取り残されたケンタウロスと死の世界に旅立った詩人との対比という厭世的にも近い印象すら受けます。しかも、水彩特有の描き方で大胆に省略された夕暮れとその風景は、はっきりとした輪郭を残さず全体として融け込んでいくような幻想的な世界を描き出しています。夕暮れの美しさは、生命が暮れていく死を美しく幻想的に描いているともいえるでしょうか。

今まで、完成された油絵作品を見ていると、神話などの幻想世界を題材として描いたといっても、作品そのものは、明晰で、論理的とも思えるほど画面構成をがっちりと組み立て、一点の誤解も入り込まぬように細部まできっちりと描き込むというという作品でした。だから、そこに文学的な、何か言いたそうな要素などは、微塵も感じられない、絵画として関係したものでした。しかし、ここで展示された水彩画ではそういう論理的な構成感は一歩退き、今まで感じられなかった、何か言いたげな文学的な要素が入り込んできているようです。これは、もともとモローにし、そういう性格があったのが、油絵とは違って、より個人的な要素が強い水彩画という表現方法で出てきたと考えるか、晩年近くになって自制心が効かなくなって、しかも水彩画という描き直しが出来ないところで抑えきれなくでてきてしまったと見るかは、モローという画家に対する見方によって変わってくると思います。しかし、詩人の肢体を見ていると、以前に取り上げたエウロペのエロティシズムを感じさせない彫像のようなものに比べて、はるかに生身に近いものになっていると思います。二つの作品を比べて、モローは死体趣味(ネクロフィリオ)があったと誤解する向きがあってもおかしくはないとおもいます。そういうところから、世紀末の先駆者のような言われ方をするのかもしれません。

「夕べの声」

今まで見てきた作品に比べて、図式的というのか、歴史画ではないためでしょうか。抽象性が強いというのか、まるで中世の次式的な絵画か、ドイツ・ロマン派のルンゲの作品に似ていると感じさえします。しかも、色彩が上記の作品と同様にモローの作品の中で特異です。かといってシンメトリーで、三人の人物(天使)が浮遊しているように見えながら中央に位置させ、三人の天使はそれぞれに意味が付せられているのでしょうけれど、それを色の違いで際立たせるなども構成は厳格なほど貫かれています。 

 

6.サロメ    

今回の展覧会での目玉と私が思っているのが「出現」です。聖書の有名なサロメと預言者ヨハネのエピソードを扱った作品です。世紀末と通俗的に喧伝される議論のなかで、サロメというファムファタールを題材にした作品で、ビアズリーのイラストとともに頻繁に印されているといっても過言ではないでしょう。

この「出現」という作品について、この展覧会の感想の最初に少し触れた「さかしま」というゴシック・ロマンの作品中で、作者のJKユイスマンスは次のように、この作品について書いています。かなり長くなりますが引用します。

「ヘロデの宮殿はアルハンブラ宮のように、虹色に輝くマウル風の板石の軽快な円柱の上にそそり立っており、銀のコンクリートや金のセメントで接着させられたようになっている。青金色の菱型に端を発する唐草模様は、円天井に沿ってうねうねと伸び、円天井の螺鈿の寄木細工の上には、虹色の光やプリズムの輝きが仄めいている。

殺戮はすでに終わったのだ。いま。首斬役人は血に染んだ長剣の柄頭に手をかけ、無感動な表情を持して立っている。

聖者の斬り落とされた首は、敷石の床に置いた皿から浮き上がり、蒼白な顔、血の気の失せた開いた口、真っ赤な頸のまま、涙をしたたらせて、サロメをじっと見ている。一種のモザイコ模様がこの顔を取り囲み、後光のように光り輝いて、柱廊の下に幾条もの光線を放射している。おそろしい浮揚した首のまわりの後光は、いわば踊り子の上にじっと視線をそそいだ、巨大なガラス状の眼玉である。

おびえた者の身ぶりで、サロメは恐怖の幻影を押しやり、爪先だったまま、その場に動けなくなっている。彼女の瞳は大きく開かれ、彼女の片手は痙攣的に喉を掻きむしっている。

彼女はほとんど裸体に近い。踊りのほとぼりに、ヴェールは乱れ、錦繍の衣ははだけてしまった。すでに金細工の装飾と宝石しか身につけていない。胸当てが胸甲のように胴体をぴったりと包み、見事な留金のような華麗な一個の宝石が、二つの乳房にあいだの溝に光を投げている。腰のあたりの下半身には帯が捲きつき、腿の上部をかくしている。また、腿には巨大な瓔珞がまといつき、柘榴石やエメラルドを川のように引きずっている。最後に、胸当てと帯のあいだに見える素肌の腹は、臍のくぼみを刻んで大きく張り出している。臍の孔は、乳色と薔薇色の縞瑪瑙を彫り込んだ小さな印章のようだ。

預言者の首から発する火のような光線を浴びて、すべての宝石の切子面は燃えさかっている。どの宝石も熱気を帯び、白熱セル光線によって女体の輪郭をくっきり浮き出させる。頸にも、脚にも、腕にも、炭火のように真っ赤な、ガスの焔のように紫色な、アルコオルの焔のように青色な、星の光のように蒼白な、火花がぱちぱちと爆ぜている。

髭と髪の毛の先端に赤黒い血の凝りを付着させたまま、おそろしい首はなおも血を滴らせつつ燃えている。この首はサロメだけに見え、その陰鬱な視線は、王や王妃には注がれていないのである。ヘロデヤはようやく決着のついた己の憎悪を反芻している。太守ヘロデは、やや前かがみになり、膝の上に両手をのせて、まだ喘いでいる。黄褐色の香料に浸され、芳香と没薬の煙にいぶされ、樹脂のなかを転げまわった女の裸体が、彼を狂わんばかりにするのである。」

引用していても、何か思い入れが強く募ってくるというのか、過剰に妄想も加わってくるような形容です。19世紀世紀末の象徴主義とデカダンスに生きた人らしいというのか、ヘロデの宮殿のエクゾティズムと神秘、サロメの豪奢とエロティシズム、これに真っ向から対峙するヨハネの死の凄惨さ、といった要素に満ち溢れているといわけです。しかし、このユイスマンスのコメントは、今回展示された「出現」に対してのものではなくて、ルーブル美術館にある大作(右図)に対するものです。

今回出展されたものは、これに比べてサイズは小さく、室内や背景の人物ははっきり描かれず、白を基調とした明るく細い描線で建築の細部を装飾文様のように描かれたことで平面性が増して、サロメとヨハネの首がより鮮やかに際立たせられています。ユイスマンスが描写しているようなヘロデ王や首切り役人は背景に霞み、サロメとヨハネの対峙が浮かび上がっています。さらにサロメのポーズもルーブルの身体をひねって斜に構えたような姿勢(この方がエロティックという要素は増すでしょうが)であるのに対して、正面から対峙しています。そして、首の傾げ方が微妙に傾いていないことで、決然とヨハネと向き合っているように見えます。ルーブルの方は、首を微妙に深く傾げているために、ユイスマンスが書いているように恐れとか自責のようなニュアンスが出ているのに対して、こちらは一切そういう感じはしません。そして、ルーブルと違ってサロメの表情が細かく描き込まれていないため、身体として全身で存在しているかのように見えます。そのため、ルーブルのサロメに対して、こちらの方が逞しさがあって、あまりエロティシズム言う感じがしない。

カタログの解説では、「聖なるものは人の死という犠牲によってなる、というよりも、人の宿命たるこの肉体の流す血によってなる。この肉体の血という観念は、サロメの豊満な裸身の中に激しく移入されているのである。それによってこそサロメは完膚無きファム・ファタルとしての存在を得る。この超絶的な、神秘的な聖性と宿命の肉体との対峙。この対峙は、あらゆるものを照応させて宇宙的なひとつの観念に達する。存在の苦悩と歓喜との。」とかなり過剰な言説をかさねていますが、そういうものを飾りたくなるのでしょう。

それよりも、とくに私がこの作品から感じるのは、そういう言葉の過剰さを招きやすい題材で、しかもヨハネの首が空中に出現するというオリジナルな構図を創りながら、画家はそこから余計な想像を招くような要素を禁欲とも言えるほど削り取って行ったというとです。世紀末ファンというのか文学的にもっと装飾したい人から見ると、物足りないのではないか、もっと扇情的に描くことが可能なのに、あえてそれを行っていない。そこに、モローという画家の古典主義的な教養と画面構成を一貫して追求していくという強い姿勢を感じます。もしかしたら、モローという画家はもっと早く生まれて、バロックとか古典主義の時代の方が画家としていたら、と想像してみたくなります。

また、このあと、聖書の世界とエピローグの展示がありましたが、未完のものばかりで、しかも思いに画面が追い付かないというのか、気力かの衰えというのか、締りが無くなったようで、あまり感想を書く気がしません。

 
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