「菱田春草」展
 

 

2014年10月1日(水) 国立近代美術館

これもまた用事で都心に出たついで、ちょうど始まったばかりで、日本がビッグネームではあり、混雑が予想されるので、今のうちならと、これを機会に寄ってみることにしました。しかし、始まって間もないというけれど、そこそこ人出があって、混雑というほどではないけれど一つの作品の前には数人が必ずいるという状態でした。かといって、ゆっくり見ることのできる余裕もあったので、いいときに見ることができたと思います。

主催者のあいさつでは次のように述べられています。“菱田春草は、長野県に生まれ、東京美術学校に学びました。岡倉天心のもと新時代の日本画をめざし、筆線によって精神性を表わそうとした初期、筆線の表現力を手放したいわゆる「朦朧体」の時期を経て、背景表現を抑制した装飾的な画風を打ち立てました。『落葉』、『黒き猫』は近代美術史上の名作として広く知られています。”

一応、近代日本画の有名画家としてあり、そのなかで新しい点を展示に加味させようと試みているだろうなということは、分かるような気がします。いろいろな調査とか分析とかをしている最新の研究の成果が反映しているらしいのですが、それが展示の章立てとか、展示の順番などに反映しているらしいです。ただ、それで画家や作品のイメージにどのように影響するかは、私には分かりません。

さて、このところ歴史の教科書などでお馴染みの近代の日本画のビッグネームたち、横山大観下村観山といった日本美術院グループ、あるいは竹内栖鳳速水御舟といった人々の展覧会を観てきましたが、そのネームバリューのわりには“こんなものか”という落胆まじりの感想を受けたものでした。これはきっと、私が日本画に疎いが故だと思って、いくつかの展覧会にも足を運んでみました。それらは概して“たいしたことはない”という落胆以外の何ものではないものでした。とくに、日本画のひとつのウリであるときいていた線がつまらない、というのか配慮が感じられないものでした。描かれている線を見ると興ざめしてしまい、とりわけ線で囲まれた人物が絵として自立していないという印象でした。いわゆる絵画芸術というような観点でみると、日本画というのは絵画の範疇に入らないのではないか、画面という完結した世界でひとつの世界を完璧に構築するというものではないのではないか、と思うようになりました。しかし、昨年末にひょんなことから狩野探幽の展覧会で様品に触れて、その圧倒的な線のバリエイションとリアリスティックな写実描写を駆使して画面をマニエスティックと言えるほど恣意的に構成して世界を構築してしまうという驚異的なものを見つけ出してしまいました。それに比べると、それまでに観てきた日本画家たちとの差は、私の中では歴然としたものです。しかしながら、例えば横山大観などの日本美術院グループに対する解説には旧来の伝統墨守で創造性を欠いた粉本主義として狩野派の絵画作品は激しく批判されているのが常です。しかし、作品を見比べると私には圧倒的に江戸の狩野派の祖ともいえる探幽と大観とは天地ほどの格差があると思われるのでした。当然、大観は探幽の足下にも及ばない。その線において、描写力において、何よりも作品制作に対する狂気とも言える執着において、そう感じています。しかし、その狩野派を激しく批判したのは大観たちです。そこには、作品のあり方以外の意図的なもの、いってみれば戦略的なものがあったのではないか、と今は思っています。日本美術院の主張していることを考えてみると、明治の維新政府が迫り来る列強の圧力に危機感を強くもって、富国強兵を推進していったのと同じようなものが日本美術院の主張や作品に観られるのではないか。それは、旧来の支配層が明治維新というクーデターによって交替してしまったことによってパトロンが退場してしまったであろうことも関係しているのでしょう。明治の政治的、社会的風潮の中で、旧来の画家たちは生きていくために、何らかの新奇でも示さないことには、旧来の芸術的な教養蓄積を持たないあらたな顧客層に対して、あるいは外来の目新しい競合に負けてしまうことになる。しかし、かつての探幽ほどの圧倒的実力もあるわけがない、そこで戦略として旧来の権威を批判して目立ってみせる、競合相手を貶めて相対的に自己を優位にもっていく。今でいえば、戦略的な宣伝ということになるでしょう。

そのような視点に立つと、この展覧会では近代日本画の代表的な画家として評価されている菱田春草ですが、私には岡倉天心という理論家に引っ張られたということもあるのでしょうが、その画業が否定からスタートしているように思えるのです。横山大観もそうなのですが、典型的なのは伝統的な権威である狩野派を粉本主義として批判して、そう言ったからには狩野派的ではないものを目指すことで自作を差別化していくというようなことです。有名な「朦朧体」という技法にしても、黒船である西欧文明の洋画に対抗しようとして油絵の西洋絵画ではできないこととして絵の具の滲みや暈しを多用して差異を強調してみせてオリジナリティがあるように見せる、というものではなかったか、と考えられてしまうのです。それは、現代のグローバルな競争が激しい経済社会において経営戦略を駆使して競合するライバルを出し抜こうとするサバイバル・ゲームを繰り返している企業のあり方とよく似ているのではないか、と思わせるほどです。これは、私がサラリーマンとして長く暮らしている偏見から言っていることなのかもしれません。

実際の作品と離れたところで戯言が長くなりました。それでは、個々の作品に触れながら印象を述べて行きたいと思います。なお、さきにも述べましたように、展示の章立ては新しい視点でなされているということで、つぎのように為されていました。

第1章  日本画家へ:「考え」を描く 

第2章  「朦朧体」へ:空気や光線を描く 

第3章  色彩研究へ:配色を組み立てる 

第4章  「落葉」、「黒き猫」へ:遠近を描く、描かない 

では、作品を見て行きましょう。なお、いつものように、これからは画家に対しては菱田というラストネームに呼称を統一します。 
   

第1章  日本画家へ:「考え」を描く

菱田の習作期からデビュー当初の作品です。ここでは「水鏡」(左図)という作品を観てみましょう。一見では、天女が水面を眺める様子を描いたように見えますが、実は“天女もやがては衰える”という“天女衰装”の「考え」が描かれているといいます。天女が衰えるというのであれば、憔悴した面貌とか薄汚れた衣服とかいった衰相にして、観る者にダイレクトに伝わるようにするというやり方があります。その方が、観る者には分かりやすい。しかし、ここでの菱田は天女の美しい姿はそのままに、水に映る姿を濁った色調でかき消して、さらには色が移り変わってやがて枯れる紫陽花を添えて、遠まわしに暗示しようとしたといいます。なんともはや回りくどく分かりにくいものです。この「考え」について、菱田自身は“西洋画で言えばここによい景色があるとすれば其の色を其のままに出そうとする、日本画では其のよい景色を観て色々に考える其の考えを描くのだろうと思う、つまり画家自身の考えを描くのだろうと思う。”と語っているそうです。西洋画の写実に対置して日本画の特性を「考え」と捉えたということでしょうか。この菱田の語ったことは、おそらく岡倉天心の思想を忠実に反映させたものなのでしょうが、ひとつの理念先行の姿勢が垣間見ることができると思います。その理念の底流には、菱田自身の言葉からもうかがえるように西洋絵画への対抗意識、つまり西洋絵画が写実であるから、それ以外のところで「考え」というものを持ち出して独自性を主張しているのです。ここに、私には、このグループの、ひいてはこの日本美術院のグループによって先導され形成されていった近代日本画の不安定なアイデンティティが透けて見えるような気がしてなりません。そもそも、確固とした自信があれば、西洋絵画など意識せずに独自にやっていけばいいのです。それがへんに西洋絵画を意識して、あっちはどうだから、こっちはそうでなくてこうするんだ。などというのは相手の土俵に乗ってしまっているわけで、喧嘩であれば、戦う前に勝敗の帰趨は決まってしまっているのです。私は、「反抗」という言葉を思い出しました。定型的に権威への反抗とか若者の反抗などという使われ方をしますが、この反抗というのはそもそも反抗する対象である権威に寄生するような行為で、権威に対して否というだけの行為で、権威がなくなれば消失してしまう脆弱なものです。菱田のいう「考え」というのは、果たして西洋絵画がないところで成立するのか、私には甚だ疑問です。ただ、当時としては、それだけ外圧としての西洋絵画に対する危機感が強かったのでしょう。

そしてまた、西洋絵画が写実であるという言い方についても、おそらく自分たちの「考え」ということを際立たせたいがゆえに、意図的に単純化されたという操作があったように思えます。例えば、美しい女性を描いて、それが朽ちていくのを象徴的に描いた作品として、この「水鏡」の半世紀前にイギリスのラファエル前派の画家ジョン・エヴァレット・ミレイの制作した「オフィーリア」という作品があります。この作品も水に関係し、その周囲に添えられた花や草が象徴的な意味づけをしています。だから、一概に西洋絵画は写実とは言えるわけではありません。むしろ、「オフィーリア」(右図)の方が画面の中でひとつの世界を構築して完結して見せているといえるわけで、それには十分に考えられていないと不能なことは明白です。これに対して「水鏡」の場合には、画面だけで完結しているとはいえず、この内容を口頭で説明したり、解説を加えないと「考え」が伝わらない舌足らずの感じを拭えません。これは、物語絵巻のように何枚もの連作の一部のような感覚では内科という気がします。だから、これ一枚だけで完結させる画面構成になっていない。あえて言えば「考え」が足りない、ということになります。ただ、西洋絵画で表現されたものの厚みとか質感とかいったものは、たしかに日本画にはなかったものだと思うので、それにはじめて触れたという人々には圧倒的なリアルに迫ってきたように感じられても不思議はないと思います。そのリアルに対抗するためには、リアルでない想像に逃げたということを考えてしまいます。それだけ、「水鏡」という作品は表現として弱い、といわざるをえません。

他方、菱田は、上述の語りの中で線描の重要さについても述べています。西洋絵画で表現された質感とか毒々しいほど鮮やかな色彩に対して、日本画の側は為す術もないように感じられた、それゆえに線描ということに自らの独自性を逃げるように見い出していったのが、菱田の語る線描の重要性ということなのではないかと思います。たしかに天女の髪の毛や眉の繊細な線や天女の被っている透明なヴェールの透き通るような線などを見ているとすごいと言わざるをえません。部分的には確かにそうなのですが、他方で天女や周囲の紫陽花の輪郭を形作っている線は無機的で単に書割の境界にしか見えません。つまり、表現的ではないのです。もし、かりに彩色が鮮明に色分けされて書割の区分がはっきりできるようであれば、これらの線の必要性はなくなってしまうのではないかと思えるほどです。同じ線でも髪の毛とか衣服の模様などのような線自体に意味づけがされていたり、線として存在しているものには、作品の中でもかなりの配慮がされていて、その線はなくてはならないものとなっているのです。これは菱田だけのことではなく、横山大観などでは必要性が感じられないどころではなく邪魔にしか見えないことになっていますが、私には近代日本画におしなべて感じられるものなのです。だから、(ここで少し脱線しますが)日本美術院グループが生み出したとされる「朦朧体」という線を使わない手法は、実のところ線が邪魔であることを当事者たちは自覚していたのではないか、などという妄想をしてしまうのです。閑話休題。

散々、悪口を並べてきました。ここまで読まれてきた方は、このような罵倒に近いような悪口をわざわざ並べるのなら、むしろ最初から無視してしまって、採り上げなければいいと感じられたと思います。その通りですなのです。そこまでして、この作品をとりあげたのは、上述のようなことがあってもなお、どうしても採り上げたいものがあったからです。それは天女の顔です。それは、旧来の日本画の戯画化されたような省略表現にはない、かといって西洋絵画の肖像の人物像とも違う顔になっているのです。仏画がベースになっているのかもしれませんが、個人の顔を写生したのではない、天女という理想の女性の「考え」を人間の顔の形で表現したものに見えました。水面を見下ろす顔に、ごくわずかに表情を与えて、具体的に悲しいのか戸惑っているのか観る者に窺い知ることはできませんが、仏様のような悟りきった無表情ではなく、こころを動かされたことだけは分かる微妙な表情を浮かべているのは分かります。それを見下ろしている顔の角度と、下を見ている瞳、そして奥まった閉じている唇のかたちなどの全体の雰囲気から感じ取れるように描かれています。それは写実とは違った意味で存在感のあるリアルさとなっていると思います。菱田は、この作品と並んで展示されていた「拈華微笑」(左上図)釈迦とその弟子たちを類型的で戯画的な何とも存在感のない挿絵のような描き方をしていたので、人物を描く方法論を会得していたわけではないと思います。そのような中で「水鏡」の場合は、天女という実在の人間とは違う想像上の存在ということもあってなのでしょうが、例外的に実体を感じさせるリアルなものとなっていると思います。

むしろ天女という想像上の存在でリアルな肉体を供えた存在ではない題材が、結果として、この作品の無機的なテイストとうまく適っていると思えます。これとよく似た印象を受けたのが、昨年のプーシキン美術館展で展示されていたアングルのマリア像です。中世のイコンをなぞったような型にハマッた様式的な描き方を敢えて試みで、マリアの精神的な存在であることを強調し、そこに天使や精霊のような神秘的なイメージを表現していました。 

   

第2章  「朦朧体」へ:空気や光線を描く

菱田は東京美術学校を卒業したのち嘱託教員となって学校に残りますが、岡倉天心が退職するのに伴い日本美術院の創立に参加したといいます。その時期に、岡倉の発言が発端となって、横山や菱田らの画家たちが競うように試みたのが朦朧体という手法というのが、歴史で習ったことです。ここでは、その時期の作品を中心とした展示がなされていました。

「寒林」(右図)という作品から見て行きましょう。ちょうど岡倉天心の後を追って東京美術学校を退職した頃に制作されたものらしいです。上の「水鏡」の翌年になりますが、まるで対照的なように、「水鏡」は線の表現に重点を置いて様々な線の表現を試みている、パステルカラーのように淡い色彩を様々に配置して色彩の関係による効果を試みているのに対して、「寒林」輪郭線をなくし、モノクロームにして色彩効果をなくしてしまっています。まるで正反対の方向性の作品をたった1年の間に連続するように制作するということは、菱田という人は節操のない人なのか、それとも自らの方向性を掴めていなくて迷いの中にいたのか、どちらかです。「寒林」というタイトルで中央に猿の親子を配しているけれど、山水の水墨画のような静謐で枯淡な印象はなく、冬の冷気のなかでの張り詰めたような凛とした森閑さという世界ではありません。画面全体の描き方が日本画の省略により余白を生かした余韻のあるものではなくて、どちらかというと西洋絵画のような隅から隅まで描きこむような濃密な画面になっているのです。それが濃密さで迫ってこないのはモノクロームにしてあるためだろうと思います。それで、前年の「水鏡」と一見対照的なこの「寒林」には、菱田が西洋絵画の手法を取り込もうとしたという点で共通点があるのではないかと思います。「寒林」では前景の岩石が配置された川原のような風景と後景の森林の描写が稠密に描きこまれ、後景の森林は遠近法的な遠くになるに従って小さくなる描き方をしています。また、輪郭線を用いないというのは西洋絵画の油絵では絵の具を図面に重ねていって下絵の輪郭線が見えなくするのを表面上真似ているように思えます。いわばこの「寒林」という作品は西洋絵画の手法を実際の絵画制作で試してみようとした作品だったのではないか、と私には思えます。これは、明治維新の新政府が富国強兵のために殖産興業を推し進め、そのために当時の先進技術である西洋の技術をベースである科学とともに急いで取り込もうとした文明開化という動きに、よく似ているように見えます。文明開化は先進的な西洋の学問や技術を取り込もうとしましたが、和魂洋才といわれるように表面的な技術という上澄みを性急に取り入れようとしたもので、後に夏目漱石がその矛盾をテーマに多数の小説を執筆しています。それと同じようにことは、菱田にもあって、西洋絵画の表現技法をテクニックとして勉強して、試そうとしたといえると思います。だから、この「寒林」は何も油絵の具を使っていないということではなくても、西洋絵画の技法を使っていても、そうは見えず、一風変わった日本画となっているということです。たとえば、遠近法的な描き方をしていても画面構成が奥行きのある空間を平面に置き換えるような設計がされていないことです。端的なのは線遠近法的な描き方をしていても消失点がはっきりしない。消失点とは単に遠近法を描くための基準点というだけでなくて、立体である空間を見る際の焦点、視点です。いわば風景を見る主体の自意識です。それがはっきりしていない。つまり、主体が確立されていないのです。ここでの画面は、見えているものを効率的に配置するということで、誰かが何をどのように見たということは、描かれていません。それはまさに和魂洋才であって洋魂ではないのです。敢えて言えば、菱田の精進によって個々の樹木や岩石の表現が西洋絵画のテクニックを十分に租借してそれなりのものとなっているために、西洋絵画と日本画との狭間にあるような過渡的な独自性の煌きを持ち得た作品となっている、と私には見えるのです。

「武蔵野」(左図)という作品は、「寒月」のようなモノクロームではなく彩色が施されていますが、構成とか内容は良く似た作品です。前景のすすきと後景の遠く富士山をのぞむ草原のひろがりのあいだにアクセントとして鳥を配しているという点です。風景画は西洋絵画では風景そのものだけを取り出して描くというのは歴史画や宗教画に比べて歴史の浅いもので、それほど確立していなかったのに対して、日本画では花鳥画の確固たる伝統があって、その伝統の上で途上にあって体系が固まっていなかった西洋画の風景画の技法をつまみ食いするように利用しても、日本画の画面に置くことができたのでしょう。人物画であれば、前回に少し見た「拈華微笑」のような、およそ無残としかいえないほどみっともない結果に陥ることはありませんでした。それは、ちょっと脱線しますが、西田幾多郎が言っていたように日本語という言語が、英語のような西洋言語のような主語ではなく述語が中心に出来上がっているからと言えるかもしれません。つまり、この「武蔵野」の画面で言えば、ススキが見える。鳥が見える。富士山が見える。…というように…が見える。と列記できて、見えるのはそこに描かれているものです。ところが、これを英語のように言い直すと私がススキを見る。というように見る主体である私がないと成り立たないのです。つまり、画面にあるものは見えたものではなくて見る主体が必要になるので、画面に見えるものがあるのではなくて、私がこの画面を見たということになります。もっというと、私が画面をこのように見たということは、画面は私の見る視点によって構成されるということになります。これは、世界は神様が意図をもって創ったということに通じることになるものです。だからこそ、西洋絵画では画面の空間構成ということが重視されるのです。画面というのは一つの世界であり、そこには意図があってつくられたものであるという前提があるわけです。ところが述語を重視して、これがある、あれもあるという、主語の重視する立場からは意図がなく無定見のようなものになっているのです。だからこそ、日本画の風景画には融通無碍なところがあって、西洋絵画の技法をパッチワークのように部分的に取り入れても画面が成立してしまうのです。そのため、菱田の試みも人物画では「水鏡」のような例外を除いて無残な結果となったのに対して、風景画ではそれなりに見ることのできる作品を残すことができたと思うのです。

「秋景」(右図)という作品は翌年に描かれたものらしく、画面の上半分は“朦朧”としています。この少し前に制作された橋本雅邦の「白雲紅樹」(左図)とモチーフや構図がよく似ているので、菱田の「秋景」の“朦朧”としているところがよく分かると思います。いわゆる“朦朧体”については一般的には、日本美術院で岡倉天心が横山大観や菱田たちに空気、光線といったものを描く方法ないかと示唆したことに応えて、画面に置いた色を空刷毛(絵の具をつけない刷毛)で暈すという手法を考え出した。その効果を最大限に活かすため、伝統絵画においてもっとも重視され、かつ、自身も日本画の価値のひとつと認めてきた筆線や筆さばきを手放すことなった、というのが教科書などで述べられていることではないかと思います。もし、このことが真相であるとすれば岡倉はそもそも空気や光線を描く方法を問いかけたのでしょうか。岡倉がこのような問いを発したのは、従来の日本画に空気や光線を描く方法がなかったからでしょう。ということは、そもそも従来の日本画は空気や光線を描くことがなかったからです。日本画でも西洋絵画でもおなじように写実ということを言いますが、日本画の場合は“見たまま”を描くということで、西洋絵画の“リアル”ということとちょっと違うと思います。例えば、光が物体に当たれば陰が生じます。それを“見たまま”に描くということは、陰でものの色がかわったという表面の変化を写すことになります。これに対して、“リアル”ということは物体が立体であり、そこに一方向から光が当たれば当たらないところに光が届かず陰になるということを、つまり、物体が立体であることゆえに陰が生じることを描くことになります。そのためには、単に陰を描くだけではなく、陰をつくりだす光も描く必要が出てきます。それは、間接的な陰を描くことで光を示唆することもあるでしょうが、通常は見えてこない光を描く対象にする必要が生じてくるということなのです。ここで、“朦朧体”の件に話を戻せば、岡倉天心が空気や光線を描く方法を問うたということは、従来の日本画の“見たまま”ではなくて、西洋絵画のような“リアル”を日本画に取り入れようとしたことに他ならないのではないか、と私には思えます。それは、日本画が日本画であるべき根本的な画面のつくりに対する根源的な問いかけ、あるいは変革の求めに他ならなかったのではないか、だからこそ権威をはじめとして当時の日本画の関係者が本能的に“朦朧体”への拒絶反応を示したのではないか、と勝手な想像をしてしまいます。

さて、作品に戻りましょう。このようなことを考えながら「秋景」と「白雲紅樹」を比べてみましょう。滝の位置が左右逆ですが、秋の紅葉のなかで画面の横に滝を配して、岩石と水流と紅葉を対照させて際立たせているという趣向で両者は似たところがあります。しかし、全体として「秋景」の印象は画面が完結しているというのか、その中で濃密な印象があります。これに対して、「白雲紅樹」はもっと開かれた感じと言いますか、サラっと淡白な印象があります。言い過ぎかもしれませんが「秋景」には実際に岩がせり出して深く切り込んだ谷の薄暗い中で岸壁のゴツゴツした感触を目の当たりにしながら滝の流れ落ちる爆音が聞こえてきそうな画面になっています。その下半分は西洋絵画のように隅々まで彩色されて描きこまれています。実際に、私は展覧会場で、この作品を見て、菱田の描写力に感心してしまった、しばらく見入っていました。この展覧会では重要文化財に指定された菱田の代表作と言われる作品も展示されていましたが、そんな作品よりも、このような作品の方が菱田の描写力の凄さが実感できると思います。でも、これだけの描写ができて、西洋絵画の手法を取り入れることができたのに、なぜ菱田は日本画にとどまり続けたのでしょうか。この「秋景」のようなリアルに接近した作品を描くことができのたであれば、西洋絵画の油彩画に転向してしまった方が、この方向性をさらに追求できるはずです。しかし、菱田はそれをしなかった、あるいはできなかったということです。それは、芸術上の理由だけではなく、様々な事情が絡んでいるのだと思いますが、ここで日本画家であろうとしたのが、菱田という画家の個性と、彼の長くはない画業の苦闘に表われているのではないか、と私には思えました。それは、あえて一般論化してしまえば、西洋の先進的な文明を導入した当時のエリートたちが、それでも日本人であろうとし、あるいは日本の伝統的な環境の中で西洋的な文明との間で板ばさみになったに重なるのではないか、と思われたのです。夏目漱石が小説を通して終生追求していったテーマでもあることです。今回の菱田の回顧展の展示をみて、このような日本と西洋の狭間で右往左往する軌跡として、彼の作品の推移を見ていました。

「菊慈童」(右図)という作品です。この作品をみると、菱田の、あるいは“朦朧体”の限界がはっきりと表われています。画面の中心であるべき菊慈童が風景の中に埋もれてしまいそうなのです。そして、全体の風景画リアルに描かれている中で、中心の人物である菊慈童だけがリアルでないのです。今まで述べてきたことによれば朦朧体というのはものごとを“見たまま”ではなく“リアル”に描くための手法として考えてもいいのではということでしたが、そもそもこの作品では人物は“リアル”に描こうという意図は最初からなかったとしか見えません。立体的な厚みとか重量感をもった立体として捉えられず、従来の日本画の平面的な捉え方で外観をつくって、それに対して装飾のように陰影を付け足したようにしか見えず、存在感が薄いのです。それは、画面全体の中で菊慈童のサイズか小さくて目立たないということ以上に、存在感が希薄なので目立たないということなのです。それに比べて、背後の紅葉した森林や水流が色彩を淡くしてあっても“リアル”ら描きこまれているために菊慈童が存在感で勝てなくなっているのです。それ故にでしょうか、菊慈童には輪郭線が引かれて、背後との境界をはっきりさせています。その必要があったのです。私の勝手な妄想ですが、この作品に、私は西洋画の“リアル”と日本画の“見たまま”との間の相容れない間の狭間にあって、どっちつかずに追い込まれて苦労している菱田の姿が見えてきてしまうのです。

ここで、「菊慈童」という作品に対して視線を変えてみることにします。この菊慈童というのは、中国の古代の時代に罪を犯した周王(穆王)の侍童が、幽谷山奥の地に流され、孤独の中で四季の山川草木に身を委ね、風月水土を暦として過ごす慈童。その慈童が野の菊露を飲みつつ、永遠の若さを保ったという故事に基づくものだそうです。そうであれば、画面全体に秋色が広がる中央のやや下に立つ菊慈童があまりに小さく描かれるのは、リアリズムというよりは、たった一人で深山幽谷に暮らす孤独感をシンボリックに表現するためのものだった、という見方もあると思います。仮に、菊慈童を大きく描いて、背景を消し去ってしまったとしたら、人物の表情に寂しげな思いを表わすことはできるでしょうが、その置かれている尋常ならざる状況まで表現するには至らないでしょう。菱田は、そこで紅葉が広がる風景の中で、独りポツンとその風景と一体化するように立つ姿を描いた。そして、物語を表わすのと、菊慈童のシンボリックな姿を際立たせるために、微細な部分を描き込んだ。例えば、小川のところどころに咲く菊、慈童の頭の飾りの菊、その手に持つ手折った菊、そして着物の模様の菊と、それらすべてが菊慈童を際立たせための演出としての効果をあげているのです。これは、前回の「水鏡」のところで若干触れたラファエル前派の手法とも相通じるところがあるということもできます。菱田は、この後、風景の広がりに対して人間や動物を対比的に置いて、風景の広がりと手前の人間なり動物なりとの二項対立の構成を用いることが多くなります。同じ会場で展示されていた「高士望岳(荘重)」(左上図)などもそうです。これらを見ると、苦し紛れに見えなくもないのですが、日本画の平面的な画面世界の中で、それとは異質な立体的な奥行きを対立させずに画面の中に落ち着かせようとする一つの解決策を見い出していく糸口を見つけようとしていたのが分かります。

「王昭君」(右図)という作品は、重要文化財に指定された代表作だそうです。中国前漢の時代に匈奴の王に後宮から女性を差し出すことになり、最も醜い女性を肖像画により選別することなり、その結果選ばれたのは絵師に賄賂を贈らなかった美しい王昭君だった。この作品は、その高潔な王昭君が匈奴の王に嫁す、別れの場面を描いたものだそうです。左に少しはなれて立つのが王昭君だそうです。“20人を超える女性たちに色とりどりの衣装をまとわせ、華やかな画面を作り出している。ハイライトをほどこして量感を表現するが、巧みな暈しが滑らかな質感を生み出し、独特の夢想的な雰囲気を醸していることは見逃せない。女性たちの肌も薄い磁器を思わせるほどに精緻だ。いわゆる「朦朧体」の試みがもたらした実りのひとつである。”と解説されていました。しかし、私には、そのようなこの作品への評価にもかかわらず、この作品の面白さが分かりませんでした。それは、解説にあるような効果はたしかに否定できません。しかし、何のための効果かというのが分からなくて、つまり、空っぽなのです。どういうことかと言うと、平板でのっぺらぼうなのです。この作品の主役は高潔な悲劇のヒロイン王昭君であるのでしょうが、その女性が主役になっていなくて、20人を超えるその他大勢の女性と横に並んでいるだけなのです。王昭君とその他の女性を描いたのではなくて、美女競演で多数並べてみましたというとか見えないのです。それは、人物が厚みをもった人間として描かれていない。もっと言えば、人間が主体的に描かれていないということです。だから、このような場面であれば、送り出されるヒロインである王昭君だけでなく、送り出す側の様々な思いがそれぞれの表情や態度にでて重層的なドラマを作り出して、そこに画面の厚みを自然と作り出すことが期待できてもいいはずなのです。そうであれば、画面構成はもっと奥行きのあるものになったと思います。そもそも、「朦朧体」は“リアル”で立体的な画面を日本画のなかに作り出そうする手法として試行されたものだったのではないか。それが、平板な画面で細部の質感を効果的に見せるための装飾となって、ハマるものとなってしまっている、と私には見えます。それは「朦朧体」という手法を換骨奪胎して、一つのテクニックとして伝統的な日本画に取り込ませてしまうことに他なりません。それは妥協、もっといえば退行ということになりかねません。ここでの菱田は、私には夏目漱石の小説「こころ」で逃げるように自殺してしまう先生の姿に重なって見えてしまったのです。

これは、菱田個人だけに原因があるというよりも、当時の日本の社会の在り方とかそういうもの、とくに日本画に限って言えば、岡倉天心らが中心となって始まった「日本画」という運動が、西洋からの文明開化のインパクトを受けて、日本の絵画に対する危機感が動機になっていることがあったのではなかったのか、と思います。当時としては、しようがないことで、百年以上経た時限の異なるところで、私のような無責任な人間が見下すような言い方をしているようですが、この運動をみると、迫り来る西洋の文明開化に対抗して、西洋文明でない日本のものを守る、そのためには従来の伝統的な日本画ではだめで、そうでない新しい伝統を作っていかねばならない。というような否定からスタートしていて、こういうものをやりたいという理念がなかった。その結果、ああでもない、こうでもない、というように選択肢をどんどん狭めてしまって袋小路に陥った。その一方で、こちらから否定するということは、否定されたほうからは否定され返されるということで孤立していくことになっていった。さらに、否定の方向は最終的に自らに返ってくることもなるわけで、自らの土壌にたいする懐疑というのか、自分たちのやろうとしていたことに対する根本的な懐疑となって返ってくるはずです。そういう葛藤が菱田にあったかどうかは分かりません。もし、それがあったすれば、自分の描こうとしているのは日本画であり、その日本画とは果たして何であるのかという問いかけがあったと思います。菱田自身、伝統的な日本の絵画には飽き足らないという思いはあったと思いますが、それは日本の絵画としてであって、日本の絵画そのものを否定する気持ちはさらさらなかったと思います。種々の原因で周囲から追い込まれるような状況に陥った中で、自分たちのやっていることが日本画であるとしたら、日本画とは一体何かという問いかけがあったとして、その中で自分の足元を見直す作業があったとして、その中で、退行的に見えるかもしれないが、原点をもう一度ということで、恥も外聞も考えず制作したのが「王昭君」であった。だからといって、さまざまな試みをしてきた菱田には、伝統そのものの日本画を描くことはできなかった。そういう作品として「王昭君」という作品を見ることができるのではないか、と私は思います。これは、私が独断と偏見で勝手に見た感想です。資料や事実の根拠は全くありません。

人物画としては、「霊昭女(端妍)」(右図)という作品。中国、唐の時代に隠者の娘であった霊昭女は、自らも禅を修め、竹籠を編んで売り、父母に孝養を尽くしたとされ、古くより禅宗の画題として用いられ、図像としては少女が竹籠を下げた礼拝像風に描かれることが多いものだそうです。ここでは、背景を一切省き、霊昭女のみを対象とした画面構成とされており、崇高な印象を感じさせ、画風は没線主彩によるものであるが、霞をもちいて空間を造成してゆく方向ではなく、澄んだ色彩を用いた主彩画的なものとなっていると解説されていました。背景と人物との関係とか、暈しを多用してところとか「王昭君」と似ているところが多い作品です。ただ、こちらの「霊昭女(端妍)」の人物は比較的外形の輪郭をはっきりさせている分だけ、はっきりとした感じで、暈しによっつ付けられた陰影が人物に立体感を感じさせるようになっている、これはあくまで「王昭君」との比較による相対的なものですけれど。表情は、前回見た「水鏡」に比べて、むしろ無表情になった印象です。この作品に表情を読み取れない私のセンスが鈍いのかもしれません。菱田に限らず、近代以降の日本画は人物表現が一種の癌のように大きなネックとなっていて、西洋絵画に対抗するにしても人格をもった自律した個人として存在感をもった人物というのはうまく描けていない、少なくとも私は成功作というのを見たことがありません。菱田の場合も、決して成功したとは言える作品がありません。人物を描いても、風景の一部のパーツとして扱うというのが、菱田の場合は妥協的な解決策だったのではないかと思います。そうであるにしても、愚直なまでに挑戦していく姿勢には、頭の下がる思いがします。 

 

第3章  色彩研究へ:配色を組み立てる   

菱田は横山大観らと1903年から数年間、インドや欧米に外遊に行ったそうです。そこでの経験を契機に色彩研究に向かっていくといように解説されていました。そのことについて、作品を見ていく前に少し考えてみたいと思います。それまでの日本の画家は海外に出かけるということを考えていなかったと思います。鎖国の世の中でしたから、当たり前のことで、伝統的な絵画は中国絵画や長崎から漏れ伝わってくる洋画を大名のような上流階級の一部の好事家が珍重していた程度だったのではないかと思います。だから、画家たちは海外ということが視野の中にはなかったこと思います。それが、明治維新になって、逆に文明開化になってしまった。そこで、西洋の文物が堰を切ったように一気に入り込んでくる。その中には西洋絵画もあったのだろうと思います。そのなかで、絵画に関して危機感を強く抱いた一部の人々がいた。何か、幕末期の志士たちに重なって見えるところがあります。その志士たちの中でも、高杉晋作といった人々は、日本を西洋の列強から守るためには、先進国であるこれらの国の軍事や技術を積極的に学ぶ必要があると考え、自らも海外に行くことを望んだ。菱田の海外への遊学は、その志士たちから30年経って、絵画の分野で同じようにことをしていたように、門外漢の私からは見えます。実際のところは、日本にいて日本美術院の運動が周囲との対立やら経済状況やらで袋小路にはまり込んで、海外に逃げるように出かけたというところではないか、と想像しています。

それはまた、明治維新が西洋列強に追いつけ追い越せを合言葉に富国強兵に努めた挙句が太平洋戦争だったように、一種の自己否定から始まるということは危うさを秘めていたのではないかと思います。菱田の作品を、これまで見てきた印象も、こういうものを、このように描きたいというといろからスタートしたのではなくて、お手本にしていたようなものではダメと否定するところから、これではないものという追求の仕方をしているように見えました。その際に、伝統的な日本の絵画ではない、西洋の絵画というのは「隣の芝生は良く見える」ようなものとして、一種のエキゾティックな魅力あるものに映った。伝統的な絵画に対して危機感を抱かせるものでありながら、それだけにです。しかし、西洋絵画は確固としで表現や技法が体系付けられシステム化されているので、その一部をいいとこ取りしようとすると、結局は逆に堅固な体系に組み込まれて、「ミイラ取りがミイラになってしまう」それだってあると思います。そのような危うい綱渡りのなかで、一つの試みとしてあったのが「朦朧体」ではなかったか。それは、日本画の「描く」という発想から「塗る」という発想のへの転換を内に含むものであった。「描く」のが線であれば、「塗る」のは色ということになるでしょう。このときの色は、「描く」という日本画で使われていた色とは、意味合いが異なってくるはずです。それは「描く」日本画では、線が中心となって構成されて、色はそれに付随した位置づけとなりますが、「塗る」という場合には、色が中心となって画面が作られることになってくるわけです。それだけ色が前面にでてくることになるので、色そのものが、これまでとは違ったものが求められてくる。いうなれば、色彩研究ということは「朦朧体」を試みたことから、ある意味必然的に導かれたことではないかと思います。それを、海外に出かけて、西洋絵画の色を、日本の気候風土と違う異質の光線のもとで実感してきたことも大きく原因しているとおもいます。

「夕の森」という作品があります。実は同じタイトル、同じ題材の作品が2作品あって、その両方が展示されていました。ひとつは1904年という外遊中に制作されたもので、もうひとつは1906年(左上図)という帰国して色彩研究の中で制作されたものです。この2作品を比べながら見ていくと、菱田の色彩研究ということの一端が分かるのではないかと思います。まず、1904年(右図)の作品は、色彩が抑制されて水墨画のようです。これは外遊という長期間出かけるさいに絵の具や道具を持ち歩くには制限があったため、また、外遊先で盛んに作品制作をしたために、ふんだんに絵の具を使うことができなかったためもあったでしょう。水墨画のように濃淡の陰影を朦朧体の手法で、夕日にぼんやりとかすむ森林を背景に、鳥の群れ飛ぶさまを墨で一羽一羽をくっきりと強調するように描き、対照を際立たせています。ここでは、色彩よりも濃淡が重視されています。これに対して、1906年の作品は、全体が茶色の色調になって、薄暗くなってくる中で夕日の光線と、その夕日を浴びて映える木々を色で表わしています。その木々の一本一本が場所により夕日の当たり方が異なってくるのをそれぞれに茶色のグラデーションで描き分け、しかも影となる部分には鮮やかな青色が用いられています。この青色は写実的なものというよりは、基調となっている茶色との対照効果をうまく生じさせるために意図的に使われたものであると思います。茶と青は暖色と寒色の補色関係の一つであることを利用したものでしょう。これによって、影が黒一色で1904年の作品のように暈しの効果で融けるように全体が盆焼くとしてしまうのではなくて、影がひとつの輪郭を作っていて、森の木々が影の青によって一本一本が独立して立っていて、その一本一本が折り重なるようにして、森の置くに続いている重層的な森の風景が表現されていると思います。そこに、森の奥の厚みとか奥行きを想像させるものとなっています。また、それぞれの木についても、そのなかで陰影をつけられているので、それぞれの木の厚みも表現されていて、その折り重なる森の厚みが二重、三重に想像できるようです。さらに、小さくはありますが、くっきりと鳥の姿がえがかれたことで、そのくっきりとした姿が前景のように感じられて、森の厚みを一層のものとしています。この、1906年の作品は、朦朧体の手法というよりは面で表現することと、色彩の試用によって、空気遠近法のような効果をだして、夕日の光線と、それに映える森の広がりを凝縮して表現しているように思います。

「春丘」(左図)という作品。“黄緑色の野に咲くピンク色の花に、白雲を浮かべた水色の空。鮮明な色彩が印象的な作品である。加えて、花の部分には、油彩の点描のように筆触を残して絵の具を重ねている。黄緑色と補色の関係にあるピンク色を厚く重ねることで、鮮度を引き出す試みであろう。緑色の丘にピンク色と橙色の花を配した「躑躅」(右図)も、同じ関心をもって制作されたといえる。”と解説されています。この「春丘」にしても「躑躅」にしても、「夕の森」にしても、菱田が色彩の実験を重ね、その効果で表われてくる新たな表現の可能性に、喜々として勤しんでいる様が見て取れると思います。たとえば、日本画の余白を生かすという一般的に言われていることも、これらの作品では、余白という捉え方ではなく、背景として中心となっている花や木の色彩と補色をはじめとしたなんらかの関係をもった色彩が塗られていて、何らかの意味を持たされることになり、もはや何もない部分としての余白ではなくなっています。このようなことがあって、日本の絵画というものの枠を越えてしまうというように当時の人々にはみなされたとしても不思議ではないと思います。私が、後世の今から見れば、後出しじゃんけんのような卑怯な見方かもしれませんが、菱田の挑戦は意欲あるものと思いますが、ここで生み出された作品と、西洋絵画に属する水彩の風景画に限りなく近づいている、というよりも、これなら水彩画でもいいのではないかと思わせるものになってしまっていると思います。

私は、どうしても近代以降の日本画の人物表現には物足りなさを感じてしまうのです。菱田の場合も例外ではありません。そもそも人の外形を描けていないし、人が物と同質のものとして描かれて、そこに例えば、表情とか個性とか人に特有の、これは西洋的な近代主義的な人格の考え方がベースになっているからでしょうか、そういう人格が描かれていないことに、物足りなさを禁じえないのです。菱田の場合もそうです。例えば、「賢首菩薩」(左図)という作品。西洋の油絵の量感を求めているわけではないのですが、人物としての存在感がないとうのでしょうか。3人の人物の顔かたちは、とりあえず描き分けられているのは分かるのですが、それは夫々の人物存在を表わしているというよりは、装飾的な要素として、つまり、顔の表情も一種の装身具のようなステイタスにあるようなのです。3人の顔かたち描き分けられているのですが、3人の瞳は同じなのです。まるで少女マンガの少年キャラクターで使われるようなパーツを使いまわしているように見えます。人の表情のキーとなる瞳が、このように一様なので、それをとりまく顔かたちをどんなに区別させても、たんなる区別にしかなっていないのです。この作品は、展示の説明によれば、帰国後の菱田の色彩研究がもっとも先鋭的に表われた作品であるということです。そのような色彩研究の成果という点から、この作品の特徴を見ると、従来の日本画にはない“鮮やかな色彩を、筆触を強調しつつ僧の衣装や掛布に色とりどりに散りばめたところにある。賢首国師(上中央の椅子に座った人物)の袈裟には、刺子の模様に青色と橙色による補色対比も組み入れられる。この刺子の模様はきわめて細かい点を連ねることで描かれており、近づいて見れば補色の関係から鮮やかに見え、離れると視覚混合が生じてまわりの暖色系の色面となじんで見えるという特徴がある。他の色面に模様を細かく描きいれたのも、同様の効果を狙ってのことであろう。”という説明からは、菱田の妥協の姿勢を感じ取ることができると思います。これは、私の偏見によることなのでしょうから、意見が分かれる人も多いと思います。それは、菱田らが、そもそも岡倉天心に引っ張られるように新しい日本画を創作しようとしたのは、西洋絵画のインパクトに対抗するため、いわば当時の日本という国家が西洋列強から自国の独立を守るために、その西洋の先進的な技術を軍事や経済で導入していったのをなぞるように、線描中心の日本画に西洋絵画的な立体を二次元に移植するだの面として物を描くだのといった絵画の構成まで踏み込んで、いわば根底から見直そうとしていったのだと思います。その端的な表れが「朦朧体」という描き方、というより画面の見方なのではないでしょうか。しかし、国家的なプロジェクトである文明開化は西洋の技術や学問が体系化されていたことを考慮せずに、末端の技術をつまみ食いするかのような導入を、いわば促成栽培のようにやろうとしました。「和魂洋才」という言葉に表われていたように。その矛盾を突いたのが夏目漱石の一連の小説で、その板ばさみにあう若いエリート知識人たちを描写してみせました。このときの菱田も同じような板ばさみに遭っていたのではないか。海外に渡り、西洋絵画を現地で目の当たりにして、その拠って立つ基盤に触れ、西洋絵画の思想的な体系の中に様々な技法が位置づけられているのに気付かされた。そこで、つまみ食いするように技法を盗んでいくことの意味と、西洋絵画とは別の日本画の思想とその体系に目を向けざるを得なくなったのではないか。よく海外に出て、はじめて日本に目が向くといいますが、そこで日本画に対峙することを迫られて、「朦朧体」のような西洋絵画的な思想を日本画の体系に持ち込むことに葛藤を覚えたのではないか。それを突き詰めて生まれてくる絵画が果たして日本画といえるのか、そんなことを菱田が考えたかどうか分かりませんが、ただ、それまで過激に伝統的な日本画に対抗するような姿勢であったのが、ここにおいて明らかに伝統的な日本画の枠の中で、小手先の西洋技法の導入によって新奇な味を出していくという方向に転換しているように、私には見えてなりません。それが違った意味で表われているのが「林和靖」(右図)という作品だと思います。

中国の宋の時代の詩人、林和靖は景勝地であった西湖のほとりで梅を愛で鶴を飼って暮らしたということで、この作品以外にも、菱田は題材として取り上げている(左図)ようです。この作品での林和靖は、画面左端の鶴の方を向いているため、作品を観る側には半身に近く背中を向けた状態になっています。しかも画面の中では左端の鶴と対照するように右下に位置させられています。この作品での画面の中心からは外されているということです。ここでの林和靖の存在は画面の中での構成要素の一つ、ワンオブゼムに過ぎなくなっています。菱田は、風景画のなかに動物や鳥を手前に配して、風景の広がりと対照させて、風景の広大さを表現することを屡々やっていますが、この作品では、それが動物や鳥ではなくて人間に替わったにすぎないという位置づけです。とくに林和靖は半身で見る側からは後ろ姿になっているので、まるで、観る者と画面の中の風景を仲介するような位置になっています。菱田は鹿を配した風景を何作が描いていますが、その際の鹿のポーズが尻をこちらに向けていることが多いのです。何を言いたいのかというと、人間も鹿も同じような位置づけになっているのです。そして、この作品での林和靖は、他の菱田の人物画にあるよりはずっとリアルというのか西洋絵画的な人間の外観になっているように見えます。これは、林和靖という人物ではなくて、人間の男性の姿を中国の衣服を着せて描いたという感じです。この作品では、その林和靖いる手前と、その林和靖が眺めている鶴の飛んでいる中景と、その間に空白のような空間をおいて薄くぼんやりと影を描いている岩山の後景とに、大きく三つの場面に分けて、奥行きと湖の広がりを見ることができると思います。あえて言えば、その静かな風景と、その一部になっているような林和靖という人物の存在の穏やかさを、人物そのものというのではなくて、林和靖が居る風景全体として感じさせるものとなっている。つまり、人間が画然と自然とか環境とかと境界分けされているのではない、西洋のキリスト教でいうような人間が精神を持っているが故に自然とは区別されるべき特別の存在である、それ故に精神を有する自我として、その格を描かなければならないというようにことからは、解放されているのです。そんな精神などなくても、周囲の環境のなかに在って、それらをひっくるめて、ある種の存在として提示されてしまう。人をその周囲とパッケージとして提示しているということです。それゆえに、これを人に限定させることもなく、猫でも可能になるということになります。この方向は、極めて限定されたものとならざるを得ず、日本が新たな展開にはなりえないものでしょうが、菱田という画家個人の個性としてなら十分に見合うものだと思います。この後、菱田は若くして亡くなりますが、もしかして、彼が長生きして、この方向をもっと突き詰めて行って、さらに展開させていけば、新しい考え方の日本画の体系が作られたかもしれません。この後、菱田は療養生活に入り、早すぎた晩年にはいり、これまでの試行を整理してまとめる方向に換わってしまい、新たな展開をしなくなってしまいます。 

 

第4章  「落葉」、「黒き猫」へ:遠近を描く、描かない   

菱田は病に仆れ、療養生活を余儀なくされます。その後、病に小康を得たことから制作を再開します。その際に、菱田は色彩研究に替わる新たな課題として距離を掲げ、自宅周辺に広がる雑木林をモチーフに追求し始めたといいます。展示の説明では、菱田自身の言葉が引用されていました。“それにつけても速やかに改善すべきは従来ゴッチャにされて居た距離ということで、これは日本画も洋画も同様大いに考えねばなるまい。自分もこれまで始終このことは注意していたつもりだが、この大切な法則がややもすると絵の面白味ということと矛盾衝突するところから、ついそれの犠牲となってしまう「落葉」にもそうした場面が多かった、決して頭からこの法則を無視したわけではなかったのであるが”(引用は不正確)この引用に対して、菱田は“距離”と“絵の面白味”を相反する要素としてとらえていたと解説されていました。菱田の言う“距離”とは奥行きのことであり、絵の面白味”とは平面性とか装飾性を指すと言われているようです。それは“距離とはすなわち写実のことであり、春草は、画面の中の距離感が却って絵の面白味を損ねることがあると考え、画趣(面白味)を出すために距離感つまり、奥行きを犠牲にした。「落葉」は、遠近法的な写実空間を描くことを超克しようとして誕生した、装飾的絵画空間への知的挑戦であった。”という考え方や“距離の法則という空間の奥行きを表わすことと、絵の面白味という絵画としての構成や装飾的な効果ということの間の矛盾をいかに調和させるかということが、「落葉」の連作において大きな課題として追究されていった”という解釈があるといいます。つまりは、奥行きを感じさせる立体感と平面的な装飾性という、ふたつの相反する方向の板ばさみにあって、いろいろ試してみたということでしょうか。このような議論があるということを踏まえながら、作品を見て行きたいと思います。

菱田は「落葉」という共通のタイトルで、数点の作品を連作のように制作しました。今回の展示では、それらを一堂に集め、まとめて見ることができました。その中で、まず連作の最初に描かれたと考えられている「滋賀本」(左図)と呼ばれる作品から見て行きましょう。この滋賀本は他の一連の作品と比べると印象がまったく違ってきます。それは「落葉」というタイトルでありながら落ち葉が描かれていないことが上げられます。「落葉」というタイトルからは、連作の他の作品がそうであるからと言うことでもないでしょうが、秋の紅葉で葉が落ちるということをまずは想像します。したがって、紅葉するような広葉樹を中心とした雑木林で、葉が落ちてしまっているが故に、遮るものがなく秋の陽が差し込んでくる明るい森の姿です。しかし、ここで描かれているのは杉という紅葉しない針葉樹の林です。短絡的かもしれませんが、私には、このことから菱田は落葉というタイトルは後でつけたもので、もともと落葉とか紅葉を題材として描こうとしていたのではないと想像するのです。では何を描こうとしたのか。それは、この作品で描かれているものを見れば一目瞭然で、木立、あるいは林だったと思います。敷衍していえば、木々が生える林が広がっているさま、です。これは、私の勝手な妄想ですが、菱田の描く作品は風景が多く、伝統的な日本画にあるような花鳥画というような花や鳥だけをピックアップして描いた作品は少ないのです。あったとしても、風景の中においた姿を描いているとか、その中でも風景画広がっているのと対照的に鳥が描かれていることで、逆に風景の広がりが印象深くなるとか、風景の中で鳥や動物がアクセントとなっているのです。また、菱田(と言うよりは日本画)の人物画がことごとく精彩が感じられないのは、人間が一つのまとまりとして有限の完結してしまったものだからではないか、と思われます。その代わりに「水鏡」のように現在の姿と後世の朽ち果てた姿を両方表わそうとした時間的な広がりを含ませた場合に作品は生き生きとしたものに変貌していました。このことから、菱田の作品には時間的であれ空間的であれ、ずっと広がっていくものに対する志向が底流にあったのではないか、と私には思われるのです。そして、眼病を患った闘病生活のなかで、視力が失われていくという画家として生きていけなくなるということを迫られ、残された時間が僅かしかない中で自分の画家としてのアイデンティティを考えたときに、広がりを描くという志向性を自覚したのではないか。そして、それを自分なりに作品に定着させるために選んだのが山水の風景でもなく、川や海でもなく、木々の生える林という題材だった。それは、「朦朧体」に代表されるような面として空間を捉えることや、空気や光を描くという西洋画的な方法論に頼ることなく、線描による日本画の伝統の体系の中で、日本画的に表現するという姿勢でいけば、林のなかの樹木その他のパーツの配置や描き方で、ということを選択することに行き着いたのではないか、と私は想像します。それは、先立つように制作された「秋木立」(右図)という作品が、この作品と同じように杉林を題材としながらも、こちらは杉林の一部の光景を切り取ったにとどまり、この作品のような広がりを感じさせない違いに見ることができると思います。「秋木立」で杉の生える地面が奥へ向かってせり上がっていくように描かれているのは、画面の上方を遠方とする伝統的な日本画のおやくそくの構図を利用としたためと説明されています。さらに奥に向かって徐々に色調を暗くしています。しかし、広がりという点でみれば、「秋木立」の描き方では斜面に見えて、その斜面の地面が観る者の視野を遮ってしまうため、木々の間に広がる空間がなくなってしまい、閉じた印象になってしまいます。これに対して、「落葉」では「秋木立」の斜面という立地を平地に変えようとします。そのために奥の方の木の根元の位置を画面の下にずらし、背後になにもないスペースが生まれました。そこに広がりが生まれる余地が生まれたと思います。しかし、今度は逆に「秋木立」に感じられた奥行感が薄くなって、平面的な印象が強くなってしまいました。

 

次に見たいのは1909年の第3回文展に出品した「文展本(永青文庫本)」(左図)と呼ばれる作品です。この前に制作を始めたものの結局は未完に終わった「未完本」については、後で見るとして、前の「滋賀本」と比べると、大きく変化しています。まず、目立つ変化は描く対象が樹木ではなくなったということで、これによって空間的な広がりを表現するということが、私には明確に打ち出されてきたように思います。この「文展本」での樹木は、もはや根元とそれに続く幹の一部しか描かれていません。これによって、木々の配置の構図によって奥行きを表現することがはっきりと前面に出てくることになりました。画面下方に根元のある木は手前にあり、上方に根元のある木は奥にあるということと、「滋賀本」では明暗で表現していたものを、手前にあるものの色とかたちはくっきりとし、奥にあるものにしたがって色とかたちは徐々にぼんやりとして失われていくように描かれています。そして、この規則を徹底させるため、視点を下げて、木は根元の部分、そして地面に生えた若木や潅木、そして落ち葉を描くことになりました。この結果、地面が画面全体を占めることになり、木々の間の空間はすべて地面となり、絵画の空間的な広がりは地面の面積的な広がりに変化することになりました。

それぞれに見て行きましょう。上述の視点を下げで木々の根元を描くようになったということは、林のどの部分を切り取って描くかというフレーミングに他なりません。永青本において根元に視点を下げているのは木々の上方を、しかも極端なほど断ち切ってしまっているからに他なりません。これは「断ち落とし」と言われるものだそうです。この結果、画面は木々の根元を映すようになり、視点が下がった結果地平線が画面の上のほうよりさらに上になって、画面に入ってこなくなりました。これにより画面は林の地面を一面に映すようになります。自然と、それを見る視点は地面を見下ろすような俯瞰的なものなります。いわば俯瞰構図です。このような「断ち落とし」によって俯瞰的な構図を獲得したわけですが、しかし、縦の方向に視線を伸ばすことはなくなり、地平線が画面に入ってくることはなくなり、画面に空の部分はまったく描かれることはなくなり、画面は平面的なものとなりがちです。“平面的、装飾的構成を好む従来の伝統的日本画は、むろん、この俯瞰構図をしばしば利用している。「落葉」の場合は、やや高いところから斜め前方を見下ろすという視点になっているが、それをいっそう徹底させれば、真上から下を見下ろすという構図になる。こうなれば、画面は完全に地面と平行になり、平面化が完成するわけである。例えば、光琳の有名な「八ツ橋図屏風」(右下図)において、かきつばたの花は真横から見たように描いてあるが、かきつばたの咲いている池に架けられた八ツ橋は、完全に真上から見下されたものとなっている。”と解説されていましたが、光琳ほど装飾的に図案化されておらず、写実的な性格を残してある「落葉」では、地面を画面前面にしてしまうと、前に見た「秋木立」のように、俯瞰にさせるための地面というだけでなく、物質的な地面として見られることなり、地面が奥に行くにしたがってせり上がってくる斜面にいるようなものになってしまいます。それでは、画面の広がりは抑えられてしまいます。

ここで、「秋木立」(上右図)の地面が斜面になってしまったのは、地面に物質性があって存在を主張してしまう、つまりは、そこに地面が物質的に存在しているということを観る者が意識してしまうからです。つまり、俯瞰的に見下ろせば、そこに地面があるわけですが、それが意識されなければいいわけです。地と図という区分がありますが、ここでの地面が地にとどまって図にならないようにすればいいのです。そこで、永青本では、地面を無地にしました。これを「滋賀本」と比べると、「滋賀本」でも、地面を意識して描いているわけではありませんが、地面に陰影をつけて、奥に行くにしたがって陰影を濃くしています。そこでは地面があるということを、どうしても意識してしまいます。それに対して、「永青本」では無地にして何も描かれてしません。しかし、それでは、この無地の部分が地面であると観る者は分かるでしょうか。それが分からなければ、虚空に木の根元が浮かんでいることになってしまいます。

地面そのものを描けば物質としての地面が意識させられて画面の広がりを抑えてしまう。しかし、そこに地面があることが分からなければ、そもそも俯瞰という視点が成立しない。そこで、地面そのものを描くことなしに、そこに地面があることを観る者に分からせる。それは、地面ですよというのが約束事として既成事実にしてしまっているのが、さきほど解説で触れていた「八ツ橋図屏風」です。しかし、「落葉」では写実的な性格を残しているため、そのように開き直ることはできません。そこで工夫されたのは、落ち葉の存在です。そうです。落ち葉が落ちて、散らばったり積もったりしているのは、そこに地面があるからで、落ち葉があることで観る者はそこに地面があることを想像できるのです。「落葉」では、木の根元を中心に、散り敷かれたように落ち葉が描かれて、それらが集合するようになって、それが平面になっているのです。さらに個々の落ち葉は、輪郭線の有無、葉脈の有無、色彩の濃淡の差などで細かく描き分けられ、全体の中では画面下部の落ち葉が濃く、上部にいくにつれて薄くなっていくグラデーションが付けられています。菱田の芸が細かいと感心させられます。この描き分けとグラデーションが平面の広がりを想像させ、描かれていない地面を見ることになるのです。それとセットになって木の根元の存在が地面を想像させます。木の根元には落ち葉があつまり平面を形成し、それが広がれば地面です。さらに、それは自然と観る者の視線が集まるようになっています。したがって、見る者は木の根元から根元へと視線を移動していくことによって、地面という広がりを認識するように導かれます。

このように、観る者はややなだらかに傾斜しながら水平方向に広がる地面を認識することができるのです。その地面は、落ち葉が乗り、木が根付いた、それ以上視線が奥へ貫入しない抵抗面となっています(このように抵抗面として近くされなければ、虚空に樹木が浮いたようになってしまいます)。しかし、画面には地面は描かれてはいません。あるのは、画面全体に広がる白い無地です。この場合、無地である地は、言わばスクリーンのようで、観る者はそのスクリーンに地面を投射すると言えます。このようにして、観る者は画面全体に、水平に広がる空間を認識することになるのです。

「文展本」の「落葉」は屏風という横広の媒体に描かれたことにより、水平方向の空間が広がっていく画面効果を最大限に活かすことになりました。一方で、単に広がりがあるだけでは、観る者にとって掴みどころのないものに陥ってしまうおそれもあります。永遠などと口では簡単にいいますが、限りある我々には、無限などと言われても茫洋とし他ものになってしまいます。無限の宇宙空間などといいますが、夜空に広がる星空を我々は、そのままに見るというよりも星座という秩序を便宜的にねつ造して、勝手な意味づけをして解釈をしようとします。「落葉」の広がりは、それだけでは観る者には茫洋としたものになってしまいます。そこで、焦点としての機能を担っているのが、一双の屏風のそれぞれの左手に描かれた手前に位置している若木です。一本は紅葉の盛りで、大きな葉がおちようとしています。またもう一本は針葉樹の常緑の青々とした佇まいです。菱田は風景画において、単に風景を描くだけでなく、風景の前景に人間や動物を配置して、小さな存在である人間や動物との対比で背後の風景の広がりを強調するように表現してきました。この「落葉」での2本の若木は、菱田の風景画でよく用いられた前景の小さな存在に相当するものになっていると思います。この若木があることによって、観る者は、若木との対比によって林の空間の広がりを見渡すことができることになります。いわば、この若木は空間の広がりを、ここを中心にして見るための始点になっているのです。西洋絵画の場合、空間の奥行を遠近法で表現しますが、遠近法の構成には必ず消失点が存在します。その消失点は空間を鳥瞰するための視点になっていて、観る者は、その視点に同質することによって画面の立体性を認識することになります。「落葉」では、若木が、この消失点の機能を果たしていると言えます。

そしてさらに、「落葉」の画面の空間表現は俯瞰の構図といういわば上から地面を見下ろす描き方によるものでした。しかし、そこで描かれている木々は上から見下ろしたような描かれ方ではなく、横からみた姿になっています。つまり、「落葉」の画面は、上から見たのと、横から見た姿が同居していることになります。複数の視点からの姿が一緒になっているわけです。これは「八ツ橋屏風」のような図案のようなものであれば気になりませんが、「落葉」は写実的な性格を強く残しています。そこで、視線の混乱が観る者に起こらないで、自然に観ているのは、2本の若木の存在によると思われます。観る者は、この若木に焦点を当てることによって、視線の混乱を回避していると言えます。つまりは、2本の若木が画面のおける空間の広がりの出発点であり、画面に統一感を与えると同時に、見る者が画面に入り込んでいくための足掛かりにもなっているのです。

執拗に見えるかもしれませんが、この2本の若木についてもう少し見て行きたいと思います。というのも、前に見た「滋賀本」には、このような若木は描かれていないで、当然に空間の広がりと対照的に位置づけるような構成もとられていません。それだけでなく、この2本の若木は異様なのです。周囲の木々と比べて浮いている印象なのです。実際に、左中図の上半分の左側の若木は常緑樹の緑の葉が茂っていますが、これだけ針葉樹なのです。周囲の木々を見渡せば、根元に紅葉した葉が落ちているところを見ると、すべて広葉樹に見えます。その中で、この若木だけが、葉を見れば一目瞭然ですが、一本だけ針葉樹です。また、下段を見れば、左手の若木は葉を紅葉させていますが、葉の形が下に落ちている葉とまったく違った形なのです。しかも、この若木の葉の描かれ方が、他の散っている葉にくらべてまったくレベルが違うほど、異様に感じられるほど細密で鮮やかなのです。最初に見たときはグロテスクに感じられたほどです。それには理由があるはずでしょうが、私には確かなことは分かりません。ただ、屏風の水平な空間の広がりに対抗させるには、かなり目だって観る者の視線を集める必要があったためではないかと想像するだけです。そしたまた、2本の若木だけを取り出して、この2本を比べてみると、上段の若木は青々として緑が茂っている状態であるのに対して、下段の若木は紅葉が盛りで今にも葉が散ろうとするところです。この2本の若木を比べると、同じ画面の中で同じ若木でありながら今を盛りに茂る状態と、これからまさに散ろうとする状態が並存していることになります。そこで、異なる時期を同居させて時間的な広がりを観る者に想像させているのではないか。ということで、「落葉」は空間的な無限の広がりにとどまらず、時間的な広がりも加味させることで、広がりのゆったりとした動きをも内包させている。つまりは、空間の広がりは静止した状態ではなくて、この作品を見るという行為を通じて、観る者にとって徐々に広がってくるような感覚を起こさせる、というものになっているのではないか、と私には思えます。

 

「文展本」は、その前から制作されていた「未完本」(左上図)の制作をやめて、急遽、その代わりに制作をはじめて完成させて文展に出品されたものです。その一方で、「未完本」は、その名称のとおり、制作が途中で放棄され、未完のまま残されることになりました。しかし、「文展本」のいうなればひな形のような位置づけと、「文展本」には採用されなかった試行のあともあって、独特なものとなっています。しかも、未完ゆえの不完全な風情が、独特な味わいを感じさせるものになっていると思います。「文展本」は、この「未完本」を下敷きにして制作されていることもあって、それほど見た目の大きな違いはないのですが、とくに目立つのは、「未完本」には地平線があるということです。「文展本」における地平線の消失は「文展本」のところで述べたので繰り返しませんが、この「未完本」を見る限りでは、「文展本」のような広がりというのではなくて、西洋画的な遠近法による立体的な書割りにより近い画面になっているのではないかと思います。おそらく、菱田は、そこに行き詰まりを感じていたのかもしれません。これでは林の奥行きこそ感じられるものの、実際の郊外の雑木林そのものになってしまうおそれがあります。「文展本」にもありました若木は、この「未完本」では紅葉した若木のみとなっていますが、この若木と林の広がりを対照させるというよりは、若木は林の一部になってしまっているか、若木があって、林は背景になるか、そのいずれかにしかなり得ないように見えます。菱田は西洋画の立体的な空間構成ではない、かといって従来の日本画の平板な平面のいずれでもない空間を模索していたのでしょう。そのとき、この「未完本」の行き方は菱田にとっては、これ以上の展開が難しかったということなのでしょう。

ただ、私には「未完本」には捨て難い魅力があると思います。それは未完ゆえのことかもしれませんが、敢えて言えば、全体に霧がかかったような薄ぼんやりした景色のなかで木だけが目に入ってくるという幻想的な風景です。その中で、手前の紅葉した若木が非現実のような鮮やかさで迫ってくると、他のバージョンには感じられない毒々しさのようなものを漂わせています。それは、耽美的なあやうさに近い感覚です。それは、後年の「黒き猫」(右上図)の6曲1双の屏風にも通じているように私には思えます。

 

菱田は、「文展本」を完結したものとみなしていたのではないようで、「落葉」を、その後も違ったバージョンで制作しました。「文展本」の後か、同時平行してか分かりませんが、別のベージョンとして福井県立美術館で保管されている、いわゆる「福井本」(左図)です。“西洋絵画の自然科学的な線遠近法を踏まえれば、水平視の方がより明確に距離を表現できるはずだ。ただし、それはモチーフの寸法を縮めつつ遠方まで描き込んだ場合に限られよう。ここでは、「文展本」よりも奥に位置する樹木の根元を下げて俯瞰を浅くしながらも、画面奥の描写を省き、背後の地を広く空けている。それゆえ、最初の「滋賀本」ほどではないにせよやはり奥行きは限定され、かわりに地と図の対照が意識される画面となった。”と解説されていました。このような「福井本」は「文展本」とは異なって、“地と図が明瞭に分けられ、無限の空間というよりも、図と地とが織り成す一種の装飾性がかたちとなってあらわれることとなった。”菱田は、「落葉」について「未完本」と「文展本」そして、この「福井本」(同様の方向の「茨城本」)という三つの方向性で制作しましたが、彼自身そのいずれかについて、これだと一つの方向性を選択しえたわけではなかったと思います。それは、どの方向性にも、これだという決め手を見つけられなかったのか、菱田自身、この「落葉」の後で、まったく別のものを描き始めてしまうので、結果が明らかにならなかったと思います。そして、ほどなく菱田は亡くなってしまったので、しばらく時間をおいて、この試行錯誤を再開するつもりだったのか、分かりません。ただ、三つの方向性を見比べていると、この「福井本」が一番安心して見ていられる、見た目に自然な感じのする、西洋画の遠近法感覚を日本画の平面的で装飾的な調子に破綻なく合わせたようにみえます。この方向は、彼の後に続いた日本画家や同僚の人々にも受け容れやすいものだったのではないかと思います。しかし、その反面では他の2つにあったような面白さが減退しているような印象を受けます。

 

いずれにせよ、これらの「落葉」で試みた菱田の方向性は、同じ日本芸術院で切磋琢磨した横山大観や下村観山が森林風景を取り上げ、同じように琳派の影響を受けた平面的で装飾的な作品を制作したと言われながら、二人とはまったく異なる方向性を志向していたのが分かります。例えば下村の「木の間の秋」(右図)という作品と較べてみると、その違いがはっきり分かります。「落葉」と「木の間の秋」は同じ秋の林を描いた作品でありながら、前者は木々の林の広がりと空間を感じさせるのに対して、後者は稠密な木々の生い茂る密度の高い空間を抽出した印象です。前者が林という深い奥行きと水平的な広がりで画面を越えて広がっていく方向性があるのに対して、後者は奥行きを欠いて林全体に思いを馳せるというのではなく、その一部をピックアップしてそこに生い茂る木や草が絡み合う濃密な姿を活写した密度の高い画面に観る者を引き込んでしまうブラックホールのような趣です。ここに、菱田という画家が空間をつくるという画面構成をまず重視する画家だったことが分かります。個々の細かい描写というよりも全体としての世界を構築するタイプで、横山や下村にはない、というよりも近代の日本画にも似たようなタイプのいない画家だったのではないかと思います。それだけに、伝統的な日本画の制約された空間表現の枠には資質的に収まりきれず、新たな表現を模索したのは、自身の外からある程度強制された面があったかもしれませんが、菱田自身の表現の性質から考えると、必然だったのではないかと思います。その中で、朦朧体とか「落葉」での様々な成果といった表現方法を提示しましたが、その根本には二項対立の姿勢があるように、私には見えます。その技法的な試みは菱田の二項対立の考え方を土台にして生み出され、技法し様々に試行錯誤されますが、ベースとなる二項対立の考え方は一貫しているように私には思えます。作品において、単独のものを提示するのではなく、二つのものを対向的に提示する。例えば「水鏡」では天女を描いた作品のように見えて、水面に映る姿を曖昧にすることで後年の朽ちた姿を対比的に暗示して、それと目に見える姿を対立的に示すことで、今の姿の美しさを際立たせ、時間的なひろがりを画面に持ち込んでいます。「菊慈童」では、深山の秋の風景の広がり、ポツンと残されたように孤独に佇む菊慈童を対立的に画面に置くことによって菊慈童の孤独の深さと彼を包み込む自然の宇宙的な広がりを表わしています。「落葉」では、このような対立的要素が複合的に用いられて、時間的、空間的な広がりを画面に与え、たんに広がるだけでは茫洋としてしまう画面に焦点を示して観る者にたいする画面の導入口を作らせています。このような作品に表れたものだけでなく、日本画の平面性と西洋絵画の三次元空間を二次元の画面に移そうとする志向性の対立、線描と面で描く方法の対立、そのような対立的要素によって物事を捉えていこうとする姿勢が菱田には一貫して見られるように、私には思えます。そして、それらの二項対立に対して一様な回答を与えるのではなく、菱田は自身の制作課題を二項対立の枠の中で捉えて、回答を模索していったというのが、菱田の画業に一貫して流れている姿勢のように私には思えます。

このような二項対立の中で回答を模索していくという姿勢の中から菱田の作品の大胆さやダイナミックで生き生きとした活力が生まれたのではないかと思います。もし、この二項対立に回答が与えられたときには、菱田の芸術は完成したかもしれませんが、二項対立そのものの意味がなくなってしまい、作品の生き生きとしたところは、おそらく失われてしまうに違いありません。したがって、菱田の芸術は完成に向けて試行錯誤を続けられるものの、けっして完成しないという矛盾を抱えたものだったといえるかもしれません。だからこそ、菱田の試行錯誤に方法的な一貫性に貫かれているというよりは、時期的にあることに集中して取り組むと、次の時期には別のあることに集中するが、そこに明確な必然性が感じられず、菱田自身の気が変わったとしか思えないようなところは、そのような彼自身の芸術に内包する矛盾を自覚していたことによるのかもしれません。菱田は志半ばで病に倒れ、画業は中途で途絶えてしまいますが、もともとは決して完成には至らない、成熟とは相容れない芸術だったのではないかと思います。その意味で、彼が長生きをしたとしても、同じように言われたのではないかと思います。

 
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