江戸の狩野派─優美への革新 |
2013年11月15日(金)出光美術館
平日の午後で、しかも雨模様の天気ということでしょうか、それともこういう展覧会は人気のあるものなのか分かりませんが、館内は混み合うこともなく、静かに落ち着いて見ることができました。美術館の立地のせいなのか、出光美術館の特徴なのか、ビジネススーツの人が結構目立ちました。私も、その一人ではあるのでしたが。出光美術館の館内は、比較的古いビルのワンフロアを占有して展示しているので、美術館というよりは広いロビーという印象で、天井が低く、展示する壁面が少なく、沢山の展示は難しいように見えました。日本画の展示ということだからでしょうか、作品がガラスケースに収められて、あまり近づいて見ることができなかったのと、展示のために壁面をとると、その壁面に囲まれたスペースが生まれ、それを埋めるためなのでしょうか、ケースに入れられた陶磁器が多数展示されていたのが、却って私には、絵を観たいのに、余計なものが視野に入り、邪魔でうるさく感じられました。どうしても、個人コレクションで美術館を作ったというのは、集めたコレクションを他人に見てもらいたい(見せびらかしたい)気持ちが強くなるのでしょう。 ただ、展示された作品は、私にとっては、近来にない発見の場となりました。このところ、近代日本画の展覧会を、分らないながらも見てきて、どこかすっきりしないフラストレーションが溜まっていましたが、今回の展覧会で、それを払拭とはいかないまでも、ある程度解消できたからです。横山大観、竹内栖鳳、速水御舟その他、観てきましたが、今回みた加納探幽をはじめとした江戸初期の狩野派の絵師たちの作品の方が遥かに面白いし、絵画になっているのをまざまざと見せつけられたからです。横山大観や竹内栖鳳といった近代日本画の展覧会に行くと、狩野派に対しては、創造性を失った守旧派でパターンの繰り返しに堕してしまったというように解説されていたイメージがありました。それは、外れではないのでしょうが、実際に展示された作品を見てみると、その意味合いはニュアンスが異なっているように思いました。それは、様式を作るということと、作られた様式を所与のものとして受け取るかの違いではないか。とくに、近代の画家たちは、批判的に捉えることによって、自己の方法の新しさをアイデンテファイする必要があった。その対象として狩野派は格好だったということだったのではないか。印象派の画家たちがアカデミーの権威を守旧派として批判したのと同じようなことです。それは、作品自体による、ということもあったのでしょうが、政治的な意図(自らのスタンスを確認し、それを対外的にアピール)も多分に含まれていたことによるものではないか、と思います。しかし、実際に作品を観てみると、こんなに面白かったのか、と目から鱗の落ちる思いでした。具体的なことは、この後お話ししたいと思います。 主催者あいさつの中では次のように述べられています。“江戸狩野の祖となったのは、狩野探幽でした。画才豊かであった探幽は、祖父永徳同様に時代に適う新様式を創りました。それは余白を生かした優美・瀟洒な絵画様式であり、限られたモチーフで詩情溢れる豊かな空間をつくることに特徴があります。探幽の画風は、尚信、安信、益信、常信といった、江戸狩野の絵師たちに継承されていきます。探幽の絵画様式を継承した江戸狩野の絵師たちは、“独創=芸術”という概念が一般的となる近代以降に“粉本主義(手本の模写ばかりを重視すること)”という言葉で、厳しく非難されてきた歴史があります。しかし、画派としての“型”の継承を重視しつつも、それぞれに個性的な絵画作品を制作した絵師は少なくありません。本展では、探幽の写生画や模写を含む様々な絵画作品を特集し、新時代を拓いた探幽芸術の革新性や、その旺盛な創造力をご覧いただくとともに、江戸狩野の草創期に活躍した他の重要な絵師たちの作品にも目を向けながら、探幽をはじめとする“江戸狩野”が、本来もっている清新な魅力を再発見いたします。” なお作品の展示は次のような章立てで為されていました。 Ⅰ章 探幽の革新─優美・瀟洒なる絵画 Ⅱ章 継承者たち─尚信という個性 Ⅲ章 やまと絵への熱意─広がる探幽の画世界 Ⅳ章 写生画と探幽縮図─写しとる喜び、とどまらぬ興味 Ⅴ章 京狩野VS江戸狩野─美の対比、ぢっとが好み? これから、このコーナーに分けて、今考えてきたことを実際の作品で検証しながら、感想をお話ししていきたいと思います。
Ⅰ章 探幽の革新─優美・瀟洒なる絵画
横山大観や竹内栖鳳といった近代日本画の作品を見た私の率直な感想は、とくに、人物において、その線が存在を意識させてしまうのです。それは、私にはうるさく感じられてしまうのです。例えば、竹内の『絵になる最初』(右図)という有名な作品。輪郭の線が存在を主張しすぎてしまっていて、顔の部分が塗り絵になってしまっています。それで、人物が生命をもった人間になっていない。かといって記号化されたアイコンのようなものとして見るには、写生に則ったような輪郭で描かれているため、置き換えることができない。中途半端にリアルなのです。そしてまた、輪郭線は、輪郭線としてしか機能していないので無機的な感じがして、人物の生命感を失わせるようなことになってしまっています。横山の作品の場合もそうで、描かれた人物はリアルでもない、記号化された画面上の機能を担って見る者に想像を働かせるようなものでもない、宙ぶらりんで、何の意味も感じられないものになっているように感じられるのでした。 ところが、この『竹林七賢・香山九老図』では、その線がうるさく感じられないのです。人物そのものの描かれ方は、横山や竹内に比べても、類型的な形をしているのは明らかです。それだけで、解説にあった粉本主義と言いたくなります。しかし、横山や竹内の描く人物と違って自然で画面にハマっているのです。その大きな理由として、線がうるさくない。人物の顔の輪郭を描く線が、存在を感じさせないのです。その一つの理由は、使われている線のバリエィションとその変化です。参考として示した竹内の作品では顔の輪郭線はペンで引かれたような一様の線ですが、こちらの作品では、太さ、濃さが様々です。そして、線自体も途中で変化しています。それが顔の輪郭にアクセントを与えて、顔の一部になっているかのようです。竹内の作品では、線が作品の機能であるとして、できるだけ抽象化させて、存在を消そうとするかのように無機的にしているにもかかわらず、人物の顔と対立してしまって、うるさく感じられてしまっているのです。これに対して、この作品では、線を消そうとするとは反対に、線を生かすことによって人物の顔に表情や、動きを与えて、人物と切り離せないようになって、結果的にうるささを感じさせないようになっているのです。
『叭々鳥・小禽図屏風』(右下図)という6曲1双の屏風。ここでは、線のバイエィションは線という枠を越えて、面に拡がってしまっているかのようです。木の幹は一本の線というよりも、面として描かれているかのようです。ここでの濃淡や墨のかすれを含みながら一気に筆を進めて線を引いてしまうのは、かなり大胆なことではないかと思います。その一気呵成な勢いは、描かれた樹木とは別に、その勢いを感じます。先日見た、竹内栖鳳の『獅子図』(右図)で大胆な線の近い方を感じましたが、この作品は、それ以上です。木々の葉は筆遣いで一気に面のようにさっと引かれているようです。だから、この作品では、線がまるで存在しないかのようなのです。数羽いる鳥たちにしても、輪郭を引かず、数本の線で羽根や主要部分をさっと引いて、まるで一つの面のようになっています。これは、前で屁理屈をこねた西洋画の物体の捉え方に、むしろ近代日本画などよりも距離が近いのではないか。この展示コーナーで飾られているのは水墨画が中心なせいかもしれませんが、ここで私は、狩野探幽の線に魅了されました。
狩野尚信の『叭々鳥・猿猴図屏風』(左図)です。前に見た狩野探幽の『叭々鳥・小禽図屏風』(右図)と比べながら見ると、二人に共通しているところと、二人の違いがよく分ると思います。とくに共通している画題である「叭々鳥」を描いた部分で見比べてみましょう。一見した印象は狩野探幽の方が幻想的ともいえるような優美さを湛えているのに対して、狩野尚信の方は、よりシャープで、峻厳さとまでは行かないまでも、研ぎ澄まされたような厳しさを持っているように感じられます。
狩野尚信という画家は、狩野探幽との比較だけで見られるという程度の人ではなく、むしろ狩野探幽と並び立つほどの一個の独立した個性的な画家であると思います。それは、最初のところに線がうるさくないということを述べましたが、狩野尚信の作品を観ていると、狩野探幽以上に線は大胆で力強く、筆で描かれた線が作品画面をリードしているようなのに、その線をうるさく感じないのです。それは、横山大観などの近代日本画に比べて、線を有機的に活かしていることの証左であると思います。何度も繰り返すようですが、樹の枝を描く線は、墨の滲みを枝の影のように見せて、一本の線を一気に引いて表現したり、細い枝は筆をはじくような勢いで、そして鳥の姿は多大なデフォルメを施したような個性的な表現です。 ただ、水墨画を見た限りでは、そういうことが言えます。しかし、狩野派は水墨画だけではないのです。華麗な色彩を施した大和絵も制作しているはずで、そのような場合、狩野尚信のような個性的な線と強烈な白黒のコントラストでかたちづくられた作品世界は、成り立つのか。その場合、画面全体の構成を最優先する狩野探幽の方が融通性は高いかもしれません。 狩野尚信と狩野探幽は兄弟ですから、同時代に並んで活躍したのでしょう。これほどまでに個性的な二人の画家を抱え、狩野派という集団が、よくも分裂しないで結束できたと。感心してしまいます。この二人の画家をお手本にするにしても、異質な個性を一緒くたにすることは困難以上に不可能でしょう。さらに、狩野尚信の筆遣いを見ていると、とうていお手本にして真似ることができるとは思えない。この二人の画家を見る限りでは、狩野派を粉本主義として、前例踏襲の守旧的な権威という風評は信じがたいところがあります。 話は脱線します。狩野探幽が江戸幕府の御用絵師になったというのは、この展示された作品を観ていて、剣術における柳生新陰流を将軍指南としたことと相通じるように思えました。これは、私の妄想です。戦国時代での合戦では短時間に多くの相手と斬り合いをしなければならないため、それに応える意劇必殺の一刀流が重宝されたと思います。先手必勝で一撃で相手を倒せば、すぐに次の相手に対峙することができます。一人の相手で長時間対峙していれば、相手に加勢が加わったり、周囲を敵に囲まれてしまう危険があります。それに応えるのは剣術のニーズがあったと思います。これに対しての、柳生新陰流は、その名前に「陰流」があるように陽に対する陰です。時代劇の殺陣などで真剣白刃取りを柳生流の極意などと喧伝されることがありますが、「陽」というのは戦国時代のようなこちらから一撃必殺で攻撃するという側面で、「陰」というのは、その攻撃を受ける面と単純化します。つまり、新陰流とは受け身であることなのです。これは戦国の合戦では「陽」にニーズがありました。しかし、戦国時代が終わり、幕府によって統一政権が生まれたことにより合戦はなくなったと言えます。そのとき軍隊の武力は戦争から治安に向けられることになる、ということは短時間で敵に立ち向かうのではなくて、無法者を確実に制圧することに主眼が移ります。その時に一撃必殺で切り込むと成功すればいいのですが、いったん躱されれば態勢が崩れて危機的状況に陥ります。つまり、リスクが大きい。この場合には、リスクを抑え、確実に相手を制圧することです。そのときに、相手の出方に応じて防御を固め、徐々に追い込んでいくやり方にニーズが出てきます。新陰流とはそういうニーズ応えるもので、相手の出方を予想、あるいは相手の出方を含めてその場面をコントロールしてしまおうとする方法です。それを最大限効果的に方法化したのが柳生新陰流と言えると思います。
そういえば、柳生新陰流も柳生宗矩や柳生十兵衛といった著名な人々は初期に限られ後には形骸化していったという話で、狩野派と共通しているところがあるかもしれません。
「白鷴図」のような写生の成果は、模写である「飛鶴図」(左図)にも反映されています。中国の元から明時代にかけて活躍した文正の「鳴鶴図」の羽根の精緻な描き方などは、相通じるところがあると思います。もしかしたら、制作年代は、こちらの「飛鶴図」の方が古いので、模写した文正の作品の技法を習得して、「白鷴図」に用いたのかもしれません。こちらの方は、構図としては多少図式的に見えるのは、模写ということからかもしれません。しかし、これはこれで、十分作品になっていると思います。
面白いことに、この鶴は後世の伊藤若冲も模写(右図)をしていたようです。参考までにご覧ください。
さて、多少、蛇足の感はあるにしても、折角見せてくれるのですから、少しく覘いてみます。説明によると、狩野派は江戸時代に入ると、徳川幕府にくっ付いて行った江戸狩野派と京都に残った京都狩野派に分れたと言います。ここでは、その分かれた狩野派の傾向の違いを対照的に展示している、ということです。まず、京都狩野派の狩野永納の「遊鶴図屏風」(左上図)の一部です。“松の樹幹にみえる強い輪郭線、芙蓉などの花々の写実的な描写、これらが濃い色彩と相俟って濃密な画趣を生んでいる。また、松の針葉が文様のように同じ調子で整然と描かれるなど、他にも緻密な描写が随所にみられ、装飾的な描写が目を引く。”と解説されています。慥かに、そう言えると思います。
ちなみに、活躍した時代が重なると思いますが俵屋宗達の描く鶴(右図)と比べてみると、鶴自体が大きく異なります。 多分、この京都と江戸の比較展示は、両者ょ対照的に見せて、それぞれの特徴を際立たせるものなのでしょうが、私には、狩野派が後に粉本主義として旧態依然のお手本の丸写しを踏襲していると批判されたものの萌芽を見せられ。それが京都にも江戸にも共通しているところを見せてもらえた、と思いました。 |