江戸の狩野派─優美への革新
 

 

2013年11月15日(金)出光美術館

どんよりとした曇天で、傘を持って行こうか迷うような空模様の日でした。美術館に立ち寄るのなら、傘は館外の傘立てに預けねばならず、いつもポロ傘を遣っている身としては、恥ずかしい思いをするので、持って行こうか迷いました。出光美術館は、初めていくところで、不案内ゆえか、東京駅から少し歩くことになり(有楽町が最寄駅で、一駅分歩くことになった)、小雨の中で、結局、傘をさして歩くことになりました。この辺りの地理は、私には不案内で、隣にある帝劇も行ったことがなく、危うく間違えて入ってしまうところでした。上野の美術館のような単独の建物ではなくて、ビルのフロアにある美術館のようなので、勝手がわからなかったです。ビルの玄関のところに、案内の人がいて、美術館専用のエレベータまで案内してくれて、ようやく辿り着けました。多分、あの案内の人は、初老といっていい恰幅のある男性だったので、出光を定年退職になった人とか、そういう人なのではないかと思ったりしました。美術館には専門の学芸員もいるのでしょうけれど。それ以外では、そういう人が結構いそうな感じでした。

平日の午後で、しかも雨模様の天気ということでしょうか、それともこういう展覧会は人気のあるものなのか分かりませんが、館内は混み合うこともなく、静かに落ち着いて見ることができました。美術館の立地のせいなのか、出光美術館の特徴なのか、ビジネススーツの人が結構目立ちました。私も、その一人ではあるのでしたが。出光美術館の館内は、比較的古いビルのワンフロアを占有して展示しているので、美術館というよりは広いロビーという印象で、天井が低く、展示する壁面が少なく、沢山の展示は難しいように見えました。日本画の展示ということだからでしょうか、作品がガラスケースに収められて、あまり近づいて見ることができなかったのと、展示のために壁面をとると、その壁面に囲まれたスペースが生まれ、それを埋めるためなのでしょうか、ケースに入れられた陶磁器が多数展示されていたのが、却って私には、絵を観たいのに、余計なものが視野に入り、邪魔でうるさく感じられました。どうしても、個人コレクションで美術館を作ったというのは、集めたコレクションを他人に見てもらいたい(見せびらかしたい)気持ちが強くなるのでしょう。

ただ、展示された作品は、私にとっては、近来にない発見の場となりました。このところ、近代日本画の展覧会を、分らないながらも見てきて、どこかすっきりしないフラストレーションが溜まっていましたが、今回の展覧会で、それを払拭とはいかないまでも、ある程度解消できたからです。横山大観竹内栖鳳速水御舟その他、観てきましたが、今回みた加納探幽をはじめとした江戸初期の狩野派の絵師たちの作品の方が遥かに面白いし、絵画になっているのをまざまざと見せつけられたからです。横山大観や竹内栖鳳といった近代日本画の展覧会に行くと、狩野派に対しては、創造性を失った守旧派でパターンの繰り返しに堕してしまったというように解説されていたイメージがありました。それは、外れではないのでしょうが、実際に展示された作品を見てみると、その意味合いはニュアンスが異なっているように思いました。それは、様式を作るということと、作られた様式を所与のものとして受け取るかの違いではないか。とくに、近代の画家たちは、批判的に捉えることによって、自己の方法の新しさをアイデンテファイする必要があった。その対象として狩野派は格好だったということだったのではないか。印象派の画家たちがアカデミーの権威を守旧派として批判したのと同じようなことです。それは、作品自体による、ということもあったのでしょうが、政治的な意図(自らのスタンスを確認し、それを対外的にアピール)も多分に含まれていたことによるものではないか、と思います。しかし、実際に作品を観てみると、こんなに面白かったのか、と目から鱗の落ちる思いでした。具体的なことは、この後お話ししたいと思います。

主催者あいさつの中では次のように述べられています。“江戸狩野の祖となったのは、狩野探幽でした。画才豊かであった探幽は、祖父永徳同様に時代に適う新様式を創りました。それは余白を生かした優美・瀟洒な絵画様式であり、限られたモチーフで詩情溢れる豊かな空間をつくることに特徴があります。探幽の画風は、尚信、安信、益信、常信といった、江戸狩野の絵師たちに継承されていきます。探幽の絵画様式を継承した江戸狩野の絵師たちは、“独創=芸術”という概念が一般的となる近代以降に“粉本主義(手本の模写ばかりを重視すること)”という言葉で、厳しく非難されてきた歴史があります。しかし、画派としての“型”の継承を重視しつつも、それぞれに個性的な絵画作品を制作した絵師は少なくありません。本展では、探幽の写生画や模写を含む様々な絵画作品を特集し、新時代を拓いた探幽芸術の革新性や、その旺盛な創造力をご覧いただくとともに、江戸狩野の草創期に活躍した他の重要な絵師たちの作品にも目を向けながら、探幽をはじめとする“江戸狩野”が、本来もっている清新な魅力を再発見いたします。”

なお作品の展示は次のような章立てで為されていました。

T章 探幽の革新─優美・瀟洒なる絵画

U章 継承者たち─尚信という個性

V章 やまと絵への熱意─広がる探幽の画世界

W章 写生画と探幽縮図─写しとる喜び、とどまらぬ興味

X章 京狩野VS江戸狩野─美の対比、ぢっとが好み?

これから、このコーナーに分けて、今考えてきたことを実際の作品で検証しながら、感想をお話ししていきたいと思います。 

      

T章 探幽の革新─優美・瀟洒なる絵画

最初の展示室で、作品の前に椅子が配されて大きく展示されていたのが、『竹林七賢・香山九老図』(左図)という大きな6曲1双の屏風でした。この作品を観てしまったがゆえに、ちょうど時間が空いたから寄って見ようかなどと思っていた私にとって、背筋を伸ばし、襟を正され、ただ者ではないと目を見開かさせられたのでした。

その一番大きな点は、線がうるさくないということです。当たり前のように感じられると思います。西洋絵画では、線は彩色されると隠れてしまいます。また、西洋絵画では、線で輪郭を描いて二次元の平面に変異させるというのではなくて、物体の面を置き換えるとか、三次元の奥行をもった立体を、そう見えるように平面に写すというやり方をすると思います。これに対して、私の見てきた日本画は横山大観のような近代日本画にしろ、今回みた狩野派や谷文晁にしろ(ここでは、これらを総称してあえて「日本画」とさせていただきます)、三次元の物体も一方向から見れば平面であって、その平面を面として捉えれば、その面は線で囲われているので、その囲っている線を描くことで物体を二次元の画面に置き換える。描かれた物体は奥行は直接に描かれることなく、線で囲われた平面として描かれる。そのため、描かれた線を消すということは出来なくなります。輪郭線が絵の中心な要素となっているということです。

だから、人物を描くような場合でも、西洋絵画の場合では、立体である人物を作品画面に立体を想像させるような面として置かれて、人物の背景は人物のいる空間の人物の奥として異なった面として描かれ、人物の面と背景の面はそれぞれ別物として、人物と背景を描かれ、作品を観る方も、それぞれを区別して観ることになります。ところが、日本画の場合は人物の輪郭線を引くことで、背景と人物を区別することことなります。線は、人物の形状を決める輪郭であると同時に、人物と背景を区別する境界でもあるわけです。線は、そういう重大な機能を持っています。それと同時に、描かれた人物の画像の構成要素として人物の一部でもあるわけです。だから、線は作品画面の中でその重要な機能を担わなければならないのと同時に、人物の顔の一部だったりするわけです。何か、屁理屈なような、小難しげな説明が長くなりました。そうです、そういう線は、だから、描かれた人物よりも目立って前面にでてはいけないわけです。線があると感じさせないで、自然と見る者が人物が描かれていると見るというのが、理想であるはずです。いうならば、線は存在していなければならないけれど、存在しているのを意識されてしまってはいけないのです。

横山大観や竹内栖鳳といった近代日本画の作品を見た私の率直な感想は、とくに、人物において、その線が存在を意識させてしまうのです。それは、私にはうるさく感じられてしまうのです。例えば、竹内の『絵になる最初』(右図)という有名な作品。輪郭の線が存在を主張しすぎてしまっていて、顔の部分が塗り絵になってしまっています。それで、人物が生命をもった人間になっていない。かといって記号化されたアイコンのようなものとして見るには、写生に則ったような輪郭で描かれているため、置き換えることができない。中途半端にリアルなのです。そしてまた、輪郭線は、輪郭線としてしか機能していないので無機的な感じがして、人物の生命感を失わせるようなことになってしまっています。横山の作品の場合もそうで、描かれた人物はリアルでもない、記号化された画面上の機能を担って見る者に想像を働かせるようなものでもない、宙ぶらりんで、何の意味も感じられないものになっているように感じられるのでした。

ところが、この『竹林七賢・香山九老図』では、その線がうるさく感じられないのです。人物そのものの描かれ方は、横山や竹内に比べても、類型的な形をしているのは明らかです。それだけで、解説にあった粉本主義と言いたくなります。しかし、横山や竹内の描く人物と違って自然で画面にハマっているのです。その大きな理由として、線がうるさくない。人物の顔の輪郭を描く線が、存在を感じさせないのです。その一つの理由は、使われている線のバリエィションとその変化です。参考として示した竹内の作品では顔の輪郭線はペンで引かれたような一様の線ですが、こちらの作品では、太さ、濃さが様々です。そして、線自体も途中で変化しています。それが顔の輪郭にアクセントを与えて、顔の一部になっているかのようです。竹内の作品では、線が作品の機能であるとして、できるだけ抽象化させて、存在を消そうとするかのように無機的にしているにもかかわらず、人物の顔と対立してしまって、うるさく感じられてしまっているのです。これに対して、この作品では、線を消そうとするとは反対に、線を生かすことによって人物の顔に表情や、動きを与えて、人物と切り離せないようになって、結果的にうるささを感じさせないようになっているのです。

そして、竹林の七賢という人物たちが竹林の中に埋もれるようにいる、その竹林という背景の描き方では、そのような線の使い方が一層の効果をあげているように見えます。それは、この大きな画面の屏風で、竹林に人物が描かれているということは、それとして線の織りなす光景として、線の絡みや様々な線を見ているだけでも、観る人を飽きさせないものとなっていました。私にとっては、線というものが、これだけ面白いものと、気づかせてくれた作品でした。そして、狩野探幽の描いたものは、この線を切り口に見ていくと、私が即品に実際に触れることなく抱いていたイメージを覆していったのでした。

『叭々鳥・小禽図屏風』(右下図)という6曲1双の屏風。ここでは、線のバイエィションは線という枠を越えて、面に拡がってしまっているかのようです。木の幹は一本の線というよりも、面として描かれているかのようです。ここでの濃淡や墨のかすれを含みながら一気に筆を進めて線を引いてしまうのは、かなり大胆なことではないかと思います。その一気呵成な勢いは、描かれた樹木とは別に、その勢いを感じます。先日見た、竹内栖鳳の『獅子図』(右図)で大胆な線の近い方を感じましたが、この作品は、それ以上です。木々の葉は筆遣いで一気に面のようにさっと引かれているようです。だから、この作品では、線がまるで存在しないかのようなのです。数羽いる鳥たちにしても、輪郭を引かず、数本の線で羽根や主要部分をさっと引いて、まるで一つの面のようになっています。これは、前で屁理屈をこねた西洋画の物体の捉え方に、むしろ近代日本画などよりも距離が近いのではないか。この展示コーナーで飾られているのは水墨画が中心なせいかもしれませんが、ここで私は、狩野探幽の線に魅了されました。

さらに進めます。これは、言葉先行で考えを弄ぶことのようになりそうですが、多少の脱線と思って捉えていただきたいと思います。様々な線の、それこそ交響楽とも言えるような世界が展開されているのが、狩野探幽の作品世界と、これまで語ってきました。その線は、時には線という範囲を越えて面に拡がるなど逸脱を辞さないものでした。それなら、逆の方向、つまり、線が縮小していって、つきつまるところ線の消失した何もないところ、つまり余白というのも線の一つの発展形として捉えられないか、ということです。この『叭々鳥・小禽図屏風』を同時に展示されている、前の時代の狩野元信の作品と伝えられる『花鳥図屏風』(左図)と比べてみると、同じ鳥と樹木の風景でありながら、狩野探幽の作品が、元信の作品の比べると部分だけをピックアップして、あとは余白にしてしまっているのがよく分ります。それによって画面が軽妙でスッキリとなっていると言えるかもしれません。解説では、狩野探幽の一世代前の長谷川等伯や海北友松等の余白を大きく取った作品が、画面を単純化することによって誇張をすすめ、余白と描かれた部分の対比によって緊迫感を高めたり、モチーフの象徴的表現を可能にしたということが紹介されています。これに対して狩野探幽の場合には、余白と描かれた部分を対立的にあつかうのではなく、余白と描かれた部分が続いているようになっていて、余白自体が絵画表現の一つの要素となっていると説明されています。つまり、線のひとつのバリエィションとなって、余白の部分が何かを観ることができる。作品を観る者は余白に想像力を働かせるようにも作品画面が構成されている、というように考えられるのです。それは、空気感だったり、作品画面の風景画が移ろう際のブリッジだったり、無限の広がりを想像させたりといった具合です。それが作品画面に豊かさを与えて、軽妙でスッキリしていながら、薄浅に終わらない奥行を与えているわけです。


U章 継承者たち─尚信という個性   

狩野探幽の弟である狩野尚信、狩野安信の作品の展示です。

狩野尚信の『叭々鳥・猿猴図屏風』(左図)です。前に見た狩野探幽の『叭々鳥・小禽図屏風』(右図)と比べながら見ると、二人に共通しているところと、二人の違いがよく分ると思います。とくに共通している画題である「叭々鳥」を描いた部分で見比べてみましょう。一見した印象は狩野探幽の方が幻想的ともいえるような優美さを湛えているのに対して、狩野尚信の方は、よりシャープで、峻厳さとまでは行かないまでも、研ぎ澄まされたような厳しさを持っているように感じられます。

例えば、樹の描線の違いを見てみましょう。狩野探幽は淡く薄い墨を用いて、かすれ等も多用して、まるで背景である地の紙に融け込んでしまうような、敢えて言えば空白の地と一体化するような描き方をしています。まるで水彩画のような淡い画面です。この結果、描かれた樹の形は朦朧とした曖昧なものになってしまいます。しかし、それを屏風全体の中でみると余白と調和していて、その曖昧さが観る者の想像力を掻き立てるというのか、作品画面に入るように誘い込むようなものになっています。これに対して、狩野尚信の方は、狩野探幽に比べて濃い墨で地の白と強いコントラストを生み出しています。その結果として樹の枝は明確ですっきりしています。しかも、樹を描く筆の勢いまでもが強いほど観る者に迫ってくるような迫力です。筆遣いの大胆さは狩野探幽以上ですし、どこか一筆で樹を描き切ってしまっている迫力を感じます。おそらく、描写の造形力では狩野探幽を凌いでいたのではないかと思います。それゆえに、この描写を屏風全体でやられてしまっては、観る方は疲れてしまいます。そこで、描かれるものを絞り込み、少ないものに描写を集中させる。そのために、描かれない余白が必要になったという感じがします。そして、余白があることで、観る者は描かれたものに集中することができる。余白だけをとりだして、その意味合いを比べてみると、狩野探幽の場合は、画面の中で描かれたものと一体化して意味を持たされていたのに対して、狩野尚信の場合は、無意味な空間として余白をとるいとで一点集中の卓越した造形描写を対比的に引き立たせ、観る者の視線をそこに集める働きをした、というようにことでしょうか。

狩野尚信という画家は、狩野探幽との比較だけで見られるという程度の人ではなく、むしろ狩野探幽と並び立つほどの一個の独立した個性的な画家であると思います。それは、最初のところに線がうるさくないということを述べましたが、狩野尚信の作品を観ていると、狩野探幽以上に線は大胆で力強く、筆で描かれた線が作品画面をリードしているようなのに、その線をうるさく感じないのです。それは、横山大観などの近代日本画に比べて、線を有機的に活かしていることの証左であると思います。何度も繰り返すようですが、樹の枝を描く線は、墨の滲みを枝の影のように見せて、一本の線を一気に引いて表現したり、細い枝は筆をはじくような勢いで、そして鳥の姿は多大なデフォルメを施したような個性的な表現です。

ただ、水墨画を見た限りでは、そういうことが言えます。しかし、狩野派は水墨画だけではないのです。華麗な色彩を施した大和絵も制作しているはずで、そのような場合、狩野尚信のような個性的な線と強烈な白黒のコントラストでかたちづくられた作品世界は、成り立つのか。その場合、画面全体の構成を最優先する狩野探幽の方が融通性は高いかもしれません。

狩野尚信と狩野探幽は兄弟ですから、同時代に並んで活躍したのでしょう。これほどまでに個性的な二人の画家を抱え、狩野派という集団が、よくも分裂しないで結束できたと。感心してしまいます。この二人の画家をお手本にするにしても、異質な個性を一緒くたにすることは困難以上に不可能でしょう。さらに、狩野尚信の筆遣いを見ていると、とうていお手本にして真似ることができるとは思えない。この二人の画家を見る限りでは、狩野派を粉本主義として、前例踏襲の守旧的な権威という風評は信じがたいところがあります。

話は脱線します。狩野探幽が江戸幕府の御用絵師になったというのは、この展示された作品を観ていて、剣術における柳生新陰流を将軍指南としたことと相通じるように思えました。これは、私の妄想です。戦国時代での合戦では短時間に多くの相手と斬り合いをしなければならないため、それに応える意劇必殺の一刀流が重宝されたと思います。先手必勝で一撃で相手を倒せば、すぐに次の相手に対峙することができます。一人の相手で長時間対峙していれば、相手に加勢が加わったり、周囲を敵に囲まれてしまう危険があります。それに応えるのは剣術のニーズがあったと思います。これに対しての、柳生新陰流は、その名前に「陰流」があるように陽に対する陰です。時代劇の殺陣などで真剣白刃取りを柳生流の極意などと喧伝されることがありますが、「陽」というのは戦国時代のようなこちらから一撃必殺で攻撃するという側面で、「陰」というのは、その攻撃を受ける面と単純化します。つまり、新陰流とは受け身であることなのです。これは戦国の合戦では「陽」にニーズがありました。しかし、戦国時代が終わり、幕府によって統一政権が生まれたことにより合戦はなくなったと言えます。そのとき軍隊の武力は戦争から治安に向けられることになる、ということは短時間で敵に立ち向かうのではなくて、無法者を確実に制圧することに主眼が移ります。その時に一撃必殺で切り込むと成功すればいいのですが、いったん躱されれば態勢が崩れて危機的状況に陥ります。つまり、リスクが大きい。この場合には、リスクを抑え、確実に相手を制圧することです。そのときに、相手の出方に応じて防御を固め、徐々に追い込んでいくやり方にニーズが出てきます。新陰流とはそういうニーズ応えるもので、相手の出方を予想、あるいは相手の出方を含めてその場面をコントロールしてしまおうとする方法です。それを最大限効果的に方法化したのが柳生新陰流と言えると思います。

狩野探幽の作品世界も、画家の個性や作品の価値を強くアピールするような、攻めの世界ではなく、作品全体の構成やバランスを考え、余白という受けを大きく導入し、作品の中に攻めと受けを同居させ、誰にでも親しみやすい世界を作っていると思います。

そういえば、柳生新陰流も柳生宗矩や柳生十兵衛といった著名な人々は初期に限られ後には形骸化していったという話で、狩野派と共通しているところがあるかもしれません。 


V章 やまと絵への熱意─広がる探幽の画世界  

これまで見てきたのは水墨画が主で、線によってかたちづくられる、線が中心の絵でした。ここでは、水墨画に対して鮮やかな彩色が加わり、そちらに中心が置かれるやまと絵が展示されています。ここでも、彩色によって、線が存在を大きく主張は出来なくなっているにもかかわらず、線が生きているということが印象強かったでした。

「源氏物語 賢木図屏風」(上図)を画像で見ると分かりませんが、現物では金箔や鮮やかな彩色よりも線の繊細な使い分けに目が行ってしまいました。描かれている人物や建物といったパーツはやまと絵のパターンそのもの(と言っても、やまと絵を詳しく知らないので、歴史の教科書で見たものと同じような、という程度ですが)を忠実に従っているという感じです。ただ、余白を多くとっているという画面全体のレイアウトが見た目の個性を出しているのかもしれません。参考として、江戸初期の住吉如慶(右図)による同じ題材のやまと絵をあげておきますが、余白の取り方が全く違います。

ただ、私には折角の線が隠れてしまうような気がして、やまと絵は、あまり面白く感じませんでした。 


W章 写生画と探幽縮図─写しとる喜び、とどまらぬ興味   

「白鷴図」(右上図)を見ると、その迫真性に驚かされます。これを見ただけで粉本主義という、お手本をなぞるという批判は、狩野探幽に関する限り的外れであることは、火を見るより明らかです。むしろ、これほどの写生を、近代日本画でも、あるいは鳥獣画で人気の若冲でも、やっていたか、問いかけたくなります。画像でみると迫力が半減しますが、実物を見た時の迫力と精緻さには圧倒されてしまいました。つがいであろう2羽のポーズも図式的というよりは、動きを一瞬で切り取ったようなダイナミクスを孕んだ図像です。これに比べると若冲の花鳥画が様式的に見えてしまうほどです。おそらく、実物の白鷴を見て、その場でスケッチしたのではないか、というほどリアルで、狩野探幽のデッサン力はかなりのものだったと思わせるものです。そして、その精緻さ、羽毛の一本一本が細かく描き分けられていて、しかし、それをやりすぎると重くなってしまうところを、透明感をもたせて、鳥の身体の軽さを失わせていない、構成力は凄い。細密に描き込まれているのに、羽根は透き通るように軽いのです。この辺りの技法のことはよく分りませんが、解説での説明を引用します。“雄(白い方)の体毛には胡粉を用いてつね透き通るような白い羽毛が精細に描かれている。特に、首から肩にかけての白毛は、レースのように軽く、柔らかそうな質感を見事に表わしている。近接して見ると、首部分の黒い体毛には、群青が塗り重ねられており、さらに腹部の黒い体毛には、緑青が塗り重ねられている。光の加減によっては微妙に青っぽく、或いは緑っぽく艶光する黒色を捉えようとしているのである。た、雌にも茶と黒線による緻密な体毛表現が同様に見られる”。

「白鷴図」のような写生の成果は、模写である「飛鶴図」(左図)にも反映されています。中国の元から明時代にかけて活躍した文正の「鳴鶴図」の羽根の精緻な描き方などは、相通じるところがあると思います。もしかしたら、制作年代は、こちらの「飛鶴図」の方が古いので、模写した文正の作品の技法を習得して、「白鷴図」に用いたのかもしれません。こちらの方は、構図としては多少図式的に見えるのは、模写ということからかもしれません。しかし、これはこれで、十分作品になっていると思います。

面白いのは、後の狩野安信がこの構図をそのまま引用して「松竹に群鶴図屏風」(下図)の中で、様々な鶴のポーズの中の一つとして使っているということです。このように、おそらく、後世の狩野派の絵師たちは引用を繰り返していったのかもしません。その際に、当初の狩野探幽のような精緻で繊細な筆遣いまで真似することは出来ず、徐々に図案のみが独り歩きして、生き生きとしたものを失っていったのが、後に粉本主義と批判されるようになったのかもしれません。これは、何も絵だけに当てはまるものではなく、手順をマニュアル化して明確化する試みをするとマニュアルが独り歩きして、本来は豊富な手順の手がかりであるマニュアルが後の引き継がれた世代ではマニュアルでしか手順を踏襲できなくなってしまうことは、どこにでも見られることです。往々にして、マニュアル通りに手順を踏んだ作業は、やっていて面白くなく、その結果として出来たものには生気がなくなっているものです。

面白いことに、この鶴は後世の伊藤若冲も模写(右図)をしていたようです。参考までにご覧ください。


X章 京狩野VS江戸狩野─美の対比、ぢっとが好み?   

出光美術館は古いビルのフロアを使っているため、基本的にはオフィスのスペースを美術館に転用しているような感じで、レイアウトの工夫はいろいろ考えられているのでしょうが、屏風のような展示に広いスペースを要するものには苦労しているのではないかと思います。展示スペースパそれほど広くはないので、余裕を持った展示は難しいのでしょう。どうしても、近くで近視眼的に見てしまいがちなところで、はたして京都と江戸の狩野派の対照まで展示する必要はあったのか。狩野探幽とその周辺に的をしぼって、狩野探幽や狩野常信たちの作品をじっくり見せてくれてもよかったのではないか。また、スペースの空いた所に陶器が展示されていましたが、ハッキリ言って、絵を観るには邪魔にしか感じられず、うっとおしく思いました。これは、私の独断と偏見による個人的な感想です。どうしても、個人のコレクションを展示するような美術館、ほかにも、山種美術館などもそうですが、コレクションを自慢したいという気持ちが露骨に出ていのが感じられて、金を払って見に来る身としては辟易とさせられることが少なからずあります。これは、コレクションなどというものを望むべくもない、庶民の身である私の僻みではあるのでしょうが。

さて、多少、蛇足の感はあるにしても、折角見せてくれるのですから、少しく覘いてみます。説明によると、狩野派は江戸時代に入ると、徳川幕府にくっ付いて行った江戸狩野派と京都に残った京都狩野派に分れたと言います。ここでは、その分かれた狩野派の傾向の違いを対照的に展示している、ということです。まず、京都狩野派の狩野永納の「遊鶴図屏風」(左上図)の一部です。“松の樹幹にみえる強い輪郭線、芙蓉などの花々の写実的な描写、これらが濃い色彩と相俟って濃密な画趣を生んでいる。また、松の針葉が文様のように同じ調子で整然と描かれるなど、他にも緻密な描写が随所にみられ、装飾的な描写が目を引く。”と解説されています。慥かに、そう言えると思います。

そして、隣には江戸狩野派の狩野安信の「松竹に群鶴図屏風」(左下図)が展示されていました。画像は、その一部です。“大樹や岩石、瀑布や水流などが添景となって画面を構成するこしなく、端に土坡を控えめに配しながら、花木類についても若松や若竹、笹などを描いて楚々とした風情を志向し、モチーフを厳選して余白を大きく取り入れた、すっきりとした画面構成を見せている。”と解説されていました。これも慥に言えてます。

ふたつの作品の違いはそうなのですが、祖先が同じで系統分れしたから、違いをことさらに目立たせているのでしょうが、主役である鶴の描き方に違いはあるかというとそれぞれの作品の中の鶴を相互に取り換えても違和感がないのではないか、と思えます。両者の違いは端的に言えば、画面のレイアウトの違いということができると思います。京都狩野派が装飾的というのも、装飾的な花などを多数配置しているがゆえで、描き方そのものが違うわけではありません。それはそれでいいのですが、そういう画面のレイアウトが違うことが、両者の空間把握の仕方に違いが生まれるのかというと、それはないように感じられます。そして、構成が変わってくれば、その部分である鶴の描き方に違いがフィードバックされて描き方、さらに言えば、鶴の捉え方、見方に違いがでてくるはずですが。しかし、鶴自体に違いが見えず、交換可能なのです。それは、二つの作品の線の扱いに表われています。鶴とか樹とか、それぞれのパーツの描写で引かれている線が連係していないのです。それぞれが別個な感じで、有機的なつながりがないのです。多分、これだけの大作ともなれば、工房で制作されて、個々のパーツは分業で制作されたのではないかと思います。そのとき、狩野永納にしろ狩野安信にしろ、クリエイトというよりはアレンジとかプロデュースの姿勢に近いものになっていたのではないか、と思えて仕方がないのです。

ちなみに、活躍した時代が重なると思いますが俵屋宗達の描く鶴(右図)と比べてみると、鶴自体が大きく異なります。

多分、この京都と江戸の比較展示は、両者ょ対照的に見せて、それぞれの特徴を際立たせるものなのでしょうが、私には、狩野派が後に粉本主義として旧態依然のお手本の丸写しを踏襲していると批判されたものの萌芽を見せられ。それが京都にも江戸にも共通しているところを見せてもらえた、と思いました。

 
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