生誕140年記念 下村観山展 |
前回ここで見た、横山大観については一般的なネームバリューに対しては素人くささを悪い意味で見えてしまって、落胆はあったのだけれど、今回見た下村観山はプロの画家であるということが、横山大観と一線を画すのが大きな違いだと思う。それだけに、絵画以前のお絵かきみたいだった横山大観の作品に対して、絵画作品として観ることができた。 下村観山という画家については、主催者あいさつで次のように紹介されています。“下村観山(1873~1930)は、紀州徳川家に代々仕える能楽師の家に生まれました。幼いころから狩野芳崖や橋本雅邦に師事して狩野派の技法を身につけ、1889年に東京美術学校の第一期生として入学し、横山大観や菱田春草らとともに、校長の岡倉天心の薫陶を受けました。卒業後は同校の助教授となりますが、天心を排斥する美術学校騒動を機に辞職、日本美術院の創立に参画し、その後は日本美術院を代表する画家の一人として、新しい絵画の創造に力を尽くしたことで知られます。1913年には実業家原三溪の招きにより、横浜の本牧に終の棲家となる居を構えた、横浜ゆかりの画家でもあります。狩野派の厳格な様式に基礎を置きながら、やまと絵の流麗な線描と色彩を熱心に研究し、さらにイギリス留学による西洋画研究の成果を加味し、気品ある独自の穏やかな画風を確立した観山。”といった具合です。この美術館の姿勢というのか、美術展の企画は意欲的な見かけで面白そうと思わせるのですが、こういう主催者のあいさつとか展示の内容では、一般的なところに沿う、主張とか考えの感じられないものになっていて、期待させられただけに落胆するということが多い美術館であると、私は思っています。端的に言えば、内容は取り敢えず措いておいて、突飛な宣伝で気を引くという傾向です。とはいっても、企画とか展示姿勢がどんな出会っても、展示されている作品が良ければ、そんなものはどうでもいいことではあります。その意味では、展示された作品を観るというのが、今回の満足感につながりました。 下村観山の作品に対して、特徴を端的に言うことは、私にはできません。どうしても、日本画をよく知らないため、正直にいえば、区別がつきません。ここで展示されていた下村の作品を単に作者名を伏せて見させられても、これを下村の作品であると判別できるような鑑識眼を持ち合わせているわけではありません。しかし、最近、横山大観をはじめとして竹内栖鳳などの展覧会を見てきた印象と比べると、とくに同僚であったらしい横山大観の作品の印象と比較すると、比較的線がうるさくないということを強く感じました。それと、丁寧に描いているということも感じました。これは横山と比較しているからかもしれませんが(こういう言い方をすると横山を好んでいないように受け取られるかもしれませんが、たしかに作品を観た印象では、彼の作品が世評では高い評価を受けている理由が分かりませんでした)。全体の作品のつくり方の方向性としては、横山大観や竹内栖鳳が、全体を大掴みにして、時には大胆に省略したり構図で工夫したりしていたのに対して、下村の場合には、細部を積み上げて、その結果全体としての作品が出来上がる、という作り方をしているように見えました。そのあり方が特徴的に表われているのが、植物や動物を描いた作品で、植物の葉の一枚一枚を丁寧に精緻に描いていて、屏風のような大作でも隅々までその姿勢が貫かれているのには、じわじわ迫ってくるような迫力を感じました。そこには、対象を把握するというのではなくて、二次元の平面の絵画上の色と平面に還元してしまうという視線が強く感じられたのも確かです。それは、今でいうならドットプリンタのような平面にプリントする各ドット(点)のひとつひとつに分解して、その一点一点の精度を高めようというようにことでしょうか。それだからこそ、何かメッセージを伝えようとか、人物の人となりを表現しようという場合には、物足りなさがつきまとうことになっているとおもいます。下村の人物画は人間とか人物が描かれているのではなく、人物の形をしている彫像にしか見えませんでした。それは、上の展覧会チラシに載せられた作品にも明らかです。森にいる人物の存在感は希薄で、平面的です。しかも顔と衣装(身体ではなく表面的な衣装でしょう)とはチグハグで一体のようには見えません。それこそ、平面的な空間を顔と衣装のそれぞれの平面が埋めているかのようです。それ以上に背景であるはずの木やその葉、草の一つ一つの絵描き方が執拗なほど精緻で、人物の前面に出ています。このチラシでは、その一部にスポットを当てて拡大してくれていますが、例えば松の葉などはその細く描かれた一本一本がそれぞれ描き分けられているかのようで、日本画の技法で筆の勢いでそれらしく見えるようになっているのとは、別のもののようです。そういう、細部肥大症の傾向、そういうところを描かずにはいられない、という画家の癖のようなものが濃厚に表われていると思います。そして、下村の作品に見られるそういった特徴は、私の好みです。そのようなことを実際の作品を観ながらお話ししていきたいと思います。
第2章
東京美術学校から初期日本美術院
下村自身は、そんな懐疑に捉われることなどなく、人物表現を追及していたのでしょう、それひとつが「元禄美人図」(左下図)という作品です。画像は小さくて、それを全体として観ると平面的ですが、顔の部分をみてみると、浮世絵の美人画ややまと絵の人物とは異質な、美人とタイトルにありますが決して美人ではないけれど、特定の個性ある人物の顔が、しかも表情のはっきりとわかる顔を描いているのが分かります。後の時代に速水御舟がリアルを求めて「京の舞妓」という論議を起こした作品を描いていますが、こちらの方が遥かに生の人間を感じることができます。しかし、全体としては肉体をもった実存を描き切れていない。これは下村がヨーロッパに渡り西洋絵画を模写するときに、齟齬を感じされるのですが、それと同じ原因が、この元禄美人の人物表現にもあるのではないかと思います。私の個人的な感想ですが、下村の作品の中で、この作品が人物を描いた作品のピークではないかと思っています。「闍維(じゃい)」という大作のような内容空疎としか見えないものに比べて、とりあえず人間がいるという作品になっていると思います。
第3章
ヨーロッパ留学と文展
そんな人物画の試みの例として「ダイオゼニス」(左図)という作品。この作品の老人のように描かれた日本画を、私の無知ゆえでしょうが、他に知りません。この作品以外にも、女性の肉体性を図案化したような「観音図」(右図)やキン肉マンのような「不動」といったチャレンジングでユニークな作品があり、人物としての存在感がとても感じられる佳品が多く見られました。この後の時期に入ると、下村自身も急速にパターン化に進み、人物が記号と化してしまって存在感を失ってしまうことになります。思えば、日本画で存在感ある人物を画面に定着させるというのは並大抵のことでは出来ないのかもしれません。下村という画家をして、ある気力の充実した時期だったからこそできたのかもしれません。そう考えると、1年の初めに、下村という画家の作品と出会うことができたのは、幸運以外の何ものでもないような気がします。この1年は幸先の良いスタートが切れたと感謝しています。 第4章 再興日本美術院
「白狐」(左図)という作品です。前回に見た「木の間の秋」や「小倉山」に通じる大作です。木の葉や草の精緻な描写には変わりありません。しかし、この「白狐」では、先行のふたつの作品に比べて、色彩が淡く、見た目の変化に乏しいものになっています。晩秋から初冬にかけての、紅葉も終わり、雪化粧には未だ早いという、ちょうど草木が装うすべが何もない時期を
それだけに、下村という画家の作風は、日本人の好む枯淡という風情とは相いれない、何か過剰というべきものが支えていたように思います。出来上がった作品は、すっきりしていますが、その根底は西洋絵画にも負けないほどの脂ぎった描くことへの欲望のようなものを感じます。それは、それほど多くはありませんが、近代以降の日本の画家のなかでは、異彩を放っていると、私は思います。 なお、第1章の狩野派の修業は、下村が、日本美術院に入学するまでの少年期の習作時代の作品です。作品数からしても、第2章以降とは釣り合いを欠くほど少なく、とくに注目したいほどの作品もなく、たんに巧みなお絵かき程度です。下村を特別に勉強するひとや熱狂的なファンではないので、ほとんど素通りです。 |