竹内栖鳳展 ─近代日本画の巨人─ |
都心でセミナーがあって、その空き時間に急いで行ってきました。このところ、速水御舟だの大野麥風だのと日本画の美術展に続けざまに行っています。本来は、日本画に疎いため積極的に出かけようは思わない美術展ばかりです。しかも、今回も、よく知らない画家で、しかも都心でも交通の便があまり良くない近代美術館にわざわざ行って見る、というのは自分でも不思議な気がします。このところ、仕事環境で変化があったり(未だに環境に適応できないでいますが)、体調を一時崩したり、私自身の変化を促すようなことがあったためかもしれないし、馬齢を重ねたことにより(齢をとってマルくなった)若い頃には見向きもしなかったものに親しめるようになったかもしれない(若いころは大嫌いだった漬物が今は大好物になった)し、などと理由はいくらでもデッチあげられます。まあ、直接的な理由としては、先日たまたまみた「谷文晁展」に並べられていたブツがあまりにも難解で、ちんぷんかんぷんだったので、感じること以前で唖然としたまますごした経験(例えば、私の目の前でブロンクス訛りの英語を早口で捲くし立てられ、果たして私に対して言葉が発せられているかも分らず、呆然としているような状態)による、ということにしておきましょう。その後に見た速水御舟にしても大野麥風にしても、これは絵画なのだと自分に言い聞かせながら、絵画である証拠を探しみつけながらようやく見ることができた、という有り様でした。会場に沢山の老若男女が詰め掛けるように来ていましたが、その中で、こんなに戸惑っているのは私だけなのだろうかと(それはそれで、快感であることも、あるのですが)、寂しく思ったりもしました。そういえば、歴史の教科書で見た日本画に魅力を感じたことはなかったかもしれないなどと思い始め、そういうものへの回路がないのか、私は日本人なのに、とか訳の分からない感慨に陥ったり、とまあ、複雑な事情があって行って見たというわけです。 行列ができるほどではありませんが、館内は比較的混んでいました。速水御舟展のときもそうでしたが、年配の鑑賞者(とくに男性)が多く、一方学生なのか若い人も意外といて、私のような中年が少ないという鑑賞者の年齢に偏りがあるようです。 で、竹内の作品の印象ですが、これが見られたのです。違和感なく。不思議なことに。なんか、不遜な言い方ですが、まあ良いでしょう。ちゃんと自腹で入場料を支払っているんだし…。竹内さんとは利害関係は何にもないんだし…。冗談はさておいて、速水御舟や大野麥風の作品に比べると、サマになっている、というのが正直な印象です。どうしてと、きちんと説明するのは難しいのです。絵として見ることができるのは。それは、JR東日本の駅のホームの発車のしらせのチンタラリンが音楽ではない理由の説明が難しいのと同じです。ひとつ、副次的な理由ですが、速水の時のような居間の床の間に飾ってお茶や酒の肴にして愛でるためのツールというような感じはなくて、それ自体が「見ろ!」とでもいうように存在を周囲に主張している、極端な言い方ですが、速水の作品が骨董品として画商ではなくて古物商に扱われるものなら、竹内は画商が扱うという違いでしょうか。説明になっているか分りませんが。もっと直接的にいうと、速水の作品には解説本で説明されているような写実とか近代性とかいったことはついぞ感じられなかったのに対して、竹内の作品は自然とそういう要素が感じられたということです。その辺りのこと考えながら、具体的に作品を見ていきたいと思います。展示は次のような章立てで行われていました。 第1章 画家としての出発 第2章 京都から世界へ 第3章 新たなる試みの時代 第4章 新天地をもとめて このほか、特集展示として 美術染色の仕事 旅 となっていました。このうち第1章は習作期のお手本の模写やスケッチで竹内のお勉強をしたい人にはいいのでしょうが、それに感想でもないので割愛し、第3章の後半あたりから竹内が老境に入ったあとの作品は私には急速につまらなくなるので(ただ、そこで、なぜつまなくなったと思うかの理由を考えていくと、竹内の作品の魅力を逆照射できることになると思うので、割愛はしないで、つまらなくなった竹内も少しだけ見ていきたいと思います)、そこは駆け足ということで、第2章のところを中心的に見ていくことになると思います。 第2章 京都から世界へ
美術展でよく見る風景として、展示されている作品よりも、その説明のプレートの方に多くの人が群がっている情景によく遭遇します。“虚心坦懐に作品に触れる”ということの裏に隠された階級制、つまりはイデオロギーを思えば、あまり無責任なことは言えないのですが、それでも“説明なんか後回しにして、とりあえず見てみたら”と余計なお節介を言いたくもなります。私の場合は、まずは展示作品を見て、良い方面でも悪い方面でも印象に残ったものは、タイトルを確認したいので、そこを見ます。それは、不思議とこれを読む人は少ないようですが、最初に展示されている主催者のあいさつは必ず読むことにしています。ここには、その展示のコンセプトが、主催者がその画家をどのように捉えているか、という考えが明示されているからです。そのことを理解したうえで、展示を向かうと、作品を見ることもありますが、展示ということもみることができるからです。私が、いままで結構批判的なコメントをしていた展覧会は、大体の場合、このあいさつがおざなりだったり、形式的で主催者の肉声が籠っていなかったりした場合です。 今回のあいさつでは、竹内を次のように説明していました。「栖鳳は積極的に他派の筆法を画に取り入れる一方で、定型モティーフとその描法を形式的に継承することを否定し、画壇の古い習慣を打ち破ろうとしました。その背景には、明治33年(1900年)のパリ万博視察のために渡欧がありました。現地で数々の美術に触れ、実物をよく観察することの重要性を実感したのでした。しかし、やみくもに西洋美術の手法を取り入れたのではないところに栖鳳の視野の広さがありました。江戸中期の京都でおこった円山派の実物観察、それに続く四条派の軽妙洒脱な筆遣いによる情緒の表現は幕末には形式化が進み、定型化したモティーフとそれを描くための筆法だけが残りました。栖鳳は実物観察という西洋美術の手法をもとに、西洋と肩を並べられるような美術を生み出そうという気概で、これら伝統絵画の根本的理念を今一度見つめ返そうとしたのです。」念のために、上のあいさつでは栖鳳と名前のほうで画家を示していますが、私の場合は竹内と苗字(ラストネーム)で示しています。それは、単に他人をファーストネームで気楽に呼ぶ習慣を持たないためです。カンディンスキーのことをワシリーとは呼びません。それと同じです。 さて、竹内は師匠について修行を続け1892年に『猫児負喧』という作品を出品したという時期から、彼の画家として独立したと見なしているようで、当の『猫児負喧』は現存しないとのことですが、この時期から期を画して展示を始めます。その初めのころ、1895年の作品として『百騒一睡』(左図)という屏風です。私は、日本画の屏風の作品を知っているわけではないので、どうしても最近みた速水御舟の描いた屏風と比較してしまいます。私は、絶対的な審美眼とか美意識のようなものは持っていない素人なので、作品を見るときは、どうしても他の諸作品と比べてみて、その違いからその作品の特徴とか好き嫌いを判断していきます。だから、その時に、どのような作品と比べるかということが実は私の作品を見るときの決め手となることがあります。たまたま連想した比較作品によって、私の中での作品評価が決められてしまうので、ここで私が書いている感想がいかに場当たり的でいい加減であるかということは、お分かりいただけると思います。さて、『百騒一睡』にもどれば、例えば、速水御舟の『翠苔緑芝』(右上図)と比べてみると、速水のが図案とかデザイン画あるいはイラストであるのに対して、竹内のは明白に絵画です。竹内の作品には作者がいて、そこに視点が存在しているのが明らかです。そして画面全体が空間として設計されています。だから、速水のポストモダンとこじつけられるスーパーフラットな画面に対して、いわゆる絵画(西洋画)を見慣れた眼、あるいは映画のような映像作品に慣れ親しんだ眼にもすんなりと入って行ける画面になっています。ということで、以前に見た速水よりも、竹内は遥かにモダンであるというのが私の第一印象でした。例えば、上側の4匹の犬が描かれているところ、空間的な奥行きが意識され、4匹の空間での位置関係が明らかになるように、画面での上下位置や背景の描き方に工夫がなされているのです。またまた比較するようですが、速水の作品では、平面的な形象が重なりをさけて並べてあるので、平面に同列に並んでいるようにしか見えません。竹内という人は、このような立体的な、(西洋)絵画的な空間設計を日本画の画面の中で違和感なくはめ込んでしまうことができるわけですから、構成力が卓越していたのではないか、と思ってしまいます。それが竹内の大きな魅力になっていると思います。つまり、この後も竹内の作品を見ていきますが、とくに屏風のような大規模な作品において、大胆でしかもすんなりと納得させられてしまうような画面構成に感心してしまうのが常でした。それが、31歳のときの『百騒一睡』ですでに完成されていたと言えると思います。 例えば上側の4匹の犬のうち親犬が目を閉じてうつむいている姿は、微睡んでいるようにも見えます。そこには平和な静けさを表しているようにも見えると言います。これに対して下側の刈田に落ちた稲藁に集まって争うようにこぼれた粒を啄む雀の群れはいかにも騒がしげです。この4曲1隻を左右に並べて置くと、左右で向かい合うように騒がしさと静けさが対照的に対置され、親犬が眠ったふりをしているのか、これから眠りを覚ますのか、それとも雀の騒がしさにも動かされず眠っているのか、様々な物語を喚起しています。細かいところを見ると、様々なことが言えますが、それは他の作品のところでも適宜触れていきたいと思います。 最初のあいさつにもありましたように、竹内は1900年に渡欧しました。彼は、その体験から日本美術のあるべき方向を講演しているそうで、その要点は“@西洋美術の制作の基本である実物観察を通して、対象の形態を把握すること。日本の絵画は実物から離れすぎてしまっている。A光が対象に当たった時にできる陰影を取り入れること。BAとも関連して、微妙な階調による色彩表現を研究すること。C日本の水墨表現は「是非保存」すること。西洋美術にある形態把握の方法と結組み合わせることで、西洋美術よりも「妙趣」ある作品が生まれる。D日本の絵画では、表現に「種々の感覚を含める」こと、すなわち「写意」を得意とする。ここに@の形態把握の手法を合わせることで、西洋の人々を驚嘆させる作品が生まれるだろう。こうした栖鳳の理念は、晩年まで一貫して作画の根底をなすものとなった。形態把握のためのスケッチ、「写意」を表すための抑揚豊かな筆線および濃淡に富んだ墨、さらに展開して色彩の使用が、この理念を実践に移すための手法である。”と解説されています。
それを、何種類も展示されていた獅子(ライオン)を描いた作品に見ることができると言います。当時は、それまでに様々な画家が獅子を描いていたわけですが、実際のライオンを見て描いたということはなく、渡欧して動物園で生きたライオンをスケッチして本物のライオンの姿を描いたというのは、当時の人々にとって新鮮だったのではないかと思います。参考として狩野永徳の『虎獅子図』(左上図)を見てもらうと、実際の虎やライオンとは別の生き物に見えます。このような獅子の画を見ていた人々にとって、竹内の獅子図は新鮮どころか驚きを以て迎えられたのかもしれません。今回の展示では、5種類の獅子図が展示されていましたが、もの珍しさもあってニーズが高かったのではないかと思います。 その中から『虎・獅子図』(1901年)(右図)は、6曲1双の横長の大きな画面を利用して、中央に頭部を位置させた横から見た姿の胴体を左側に身体を伸ばした姿で描き、その右上がりの傾きに対して中央部を境にして線対称のように右下がりの線を獅子が乗り越えようとしている岩を配置している。このようにシンメトリーという発想は、ヨーロッパの美意識のよう、です。しかも、獅子の毛皮の柔らかな触感をおとなしい繊細な線で、これに対して倒木は墨痕鮮やかさを利用して、大きな筆で大胆に一気に太線を引いています。中央を境にして、形態も対称的であるだけでなく、肌触りとか描く書法、線を対照的にして画面が構成されています。それを生かした下地になっているのが、金地に墨で描いたという描き方です。金地であるためか1本1本の線に見られる墨のたまりが生々しく残って、とくに岩の筆線の存在感が強い印象を残します。
『大獅子図』(1902年)(左下図)は4曲1双で正方形に近い画面で遠近を強調して、胴体の後ろ腰の部分を大きく後退させたように小さくしながら足先の指は前後の足で同じ大きさにしてデフォルメすることによって、獅子の身体の大きさと、どうして右半分に偏ってしまう画面のバランス構成を考えているように見えます。大きな顔の部分と鬣に胴体が隠れてしまうポーズで、横たわり後ろ足を伸ばしている姿になっています。右側の画面の大きな部分を占める鬣の毛のふわふわした柔らかさをぼかした線であらわし、それ以外の部分、とくに顔の部分は線の抑揚を抑えてカッチリ描線をひいて、分厚く陰影を塗り分けている。これにより、鬣をはじめとした獅子の毛に覆われた柔らかな体表と体全体の存在感や重さが見て取れます。 このように、獅子を描いた作品は描き方(技法)とそこから生まれる表現効果が異なる。このことは、次のように解説されています。“この違いとは、主に筆線の違いによるものである。つまり栖鳳は、これらライオンのシリーズにおいて、一貫して、筆線の違いにより毛の柔らかさ、動きの力強さといったライオンの様々な特徴を描き出そうとしていたのである。こうした特徴を表すことは、栖鳳が渡欧後に語った絵画理念にある広い意味での「写意」に含まれる。このことから一連のライオンの作品には、実物観察により対象を描くというだけでなく、筆致による「写意」の表現の研究という目的があったということができる。”今回の展示を見て、私が竹内の作品の特徴であると感じたのは、目の前の対象、というよりは世界という広がりに対して、それを画面に構成しようという主体的な意志、なんか小難しくなってしまいましたね、世界を表そうという強烈な思いのようなものとでも言ったらいいでしょうか。その構成のさせ方、いわば、画面という世界の作り方で、描く技法であらわされるものが様々に変わってくるということが大きく影響されるのを、竹内が意識的だった、ということなのではないかと思います。そう考えると、当時においては日本画とか西洋画とかを問わず、かなりモダンな人だったのではないか、と思いました。 そういう、竹内の特徴を考えると、そのような彼の方法論に最も適していたのは風景画ではなかったか、と考えます。実は、獅子図についても、風景画として、それがあたかも風景画であるかのように見ることができると思うのです。ライオンの構成要素をひとつひとつ分解して、そこから描くべきところを取捨選択し、画家の切り口で選択したパーツを構成してひとつのまとまりにして、その筋道を通した結果が作品となる。風景全部を描くことはできませんから、自然とそうなりますが、獅子に対してもそれだけで完結したものとは見ずに、切り取られるべき世界と見て描いている、というように見ることはできると思います。後で触れますが、竹内の人物が少なく、あったとしても面白くないのは、そういう方法論のゆえではないかと思います。
〜風景
私は竹内の特徴を画面構成による世界構築への強い意志に見ます。そのような彼の特徴が最もよく発揮されているのが風景画だったのではないかと思います。それも掛軸に描く山水画にも表われているのですが、こんな窮屈なところでチマチマ細部に工夫を凝らすというのではなくて、少なくとも屏風くらいのスケールで描かれるものに本領が発揮されるように見えました。多分、世界のひろがりへの視線というのか、風景をダイナミックに捉えようという、近代西欧の風景画にあるのと同じ視線を感じることがあるのです。それでは、何ことだか抽象的すぎますよね。例えば、18世紀から19世紀にかけてのドイツロマン派の画家フリードリッヒに『海辺の僧侶』 (右下図)という作品があります。圧倒的な大画面に描かれているのは薄暗くどんよりと曇った空の下、鉛色のあれた海と砂浜が荒涼と広がっている光景で、左隅にちいさくポツンと一人の質素な僧侶が海の方を向いて、ということは背中だけが描かれているので表情を窺い知ることができない、配されている、という作品です。その人物を配置したことにより、対比的に、あるいはその人物が対峙しているような構成となって、荒涼とした空や海、そして砂浜が画面という枠を越えてずっと伸びていくような印象を与えています。これは、風景がたんなる背景の書き割りのようなものではなく、それ自体意味をもったものとして、それだからこそ、広がったり、深まったりという動きを内包しているように見えてくるのです。 比較的似ているところを見易い作品から見ていきましょう。竹内の渡欧の際に見た風景を描いた『羅馬之図』(左上図)という作品です。横長のパノラミックな画面に、対象の大小や色彩の濃淡といった表現を組み合わせて遠近法的な効果を持たせて、拡がりと奥行きのある作品になっています。さきに風景画の例として紹介したフリードリッヒに『雪の中の修道院の墓地』 (左下図)という作品がありますが、これと竹内の『羅馬之図』は構図がよく似ている作品です。多分、竹内は、この作品を知って描いたのではないと思いますが、横長の画面で、廃墟が朽ちるように奥に配されて、その前景には草木が対称的に生命感溢れるように繁茂している。フリードリッヒの場合には、横長の画面がまさにその草木の繁茂の成長が動きとして画面から広がっていくようなダイナミクスを内包しています。そして、朽ちていくような廃墟が奥におかれていることで、対比的にそのダイナミクスが強調されるように映っています。多分、朽ちた修道院の廃墟には何らかの象徴的な意味合いがあるのでしょうが、それはここでは措いておいて、竹内の『羅馬之図』ではフリードリッヒのような過剰な意味づけや対比は試みられていませんが、フリードリッヒの作品にあるのと同じような広がりを感じさせる作品になっていると思います。そして、フリードリッヒと竹内の大きな違いは、その空気感の表現でしょうか。フリードリッヒは暗く鬱蒼とした森で冬の凍てつくような透明な空気の中でどこまでも明晰に描き込まれていますが、竹内の作品では奥の廃墟は靄がかかったようにぼんやりとしています。これは、フリードリッヒの場合には森の暗さで奥行感を出していたのに対して、竹内の場合にはもっと開けた空間で、前景の木々との間にもやをいれることで奥行を間接的に感じさせているようです。それに加えて、廃墟が薄ぼんやりしていることにより、幻想性を加味させ、空間的な広がりにとどまらず、時間的な過去に遡るような幻想性を加味させる効果を出している。つまりは、空間と時間のダイナミクスを含ませているように見ることができます。しかも、セピア色のような色遣いが、ノスタルジックな味わいを加味させ、時間的な位置を曖昧にしていることが、そのような想像を煽っています。 このように風景を描くには、風景という客観的な対象が目の前に在るということを認識する、という現在の私たちには当然のことですが、そのことを前提にしていなければならないはずです。それが在るということが前提されていなければ、在るがままに写そうという写生とか写実という発想は出てきません。それは、近代西欧でいえば、デカルトによって確立された主観と客観の二元論的な世界観です。自分と違うものが実在していると認めるから観察という発想が出てくるわけで、その観察した結果を正確に写そうとして写実ということが生まれてくるわけです。しかし、例えばアニミズム的に木に神が宿っているとみれば、奉ることはあっても、物体として客観的にみるという視点は成立しません。つまり、対象を客観的に認識するためには、それを認識する側である人が主観として確立されていることが必要となります。絵画で用いられる遠近法の基本的なかたちである投射遠近法では消失点という一点に向けてだんだん描かれるサイズが小さくなっていきます。それで遠近感を出しているわけです。その消失点こそがその画面の遠近感をだす視点、つまりはそれを見ている主観の位置に他なりません。それがはっきりしていなければ、遠近法は成立しないのです。そして、近代の日本画をみていると、それができてないで、画家が苦心している例が見られる。ところが、竹内の場合にはそれがキッチリ確立している。竹内の風景画を見るとよく分ります。そのことが、竹内の作品から感じられるモダンさの理由です。
今まで述べてきたのは、西欧の風景を題材にしたものなので反則に聞こえるかもしれません。それで、近代以降の日本画でも取り上げられることの多い富士山を題材とした作品を見ていきたいと思います。1893年の『富士』(右図)という作品を見てみましょう。竹内の初期の作品ですが、横山大観の切手にもなった作品『富嶽飛翔』(左図)と比べてみると、竹内の特徴がよく分ります。横山の成熟した著名な作品と比べると巧拙の差はあるかもしれませんが、一番の違いと感じられるのは、横山の富士は洗練された線でスッキリと秀麗に描かれているのに対して竹内の富士はゴツゴツした感じで、線は重なり、輪郭もスッキリしない正反対の印象だということです。横山の描く富士は、一般的な日本人がイメージするステレオタイプに合致する、というよりも、彼の一連の作品が富士のイメージを定着させる役割を果たしたのかもしれませんが、成層火山のスッキリとした秀麗な姿で、その姿の美しさを表わしています。ただし、私のような日本画の素養のないものが見ると、銭湯の壁に描かれた富士山とおんなじという感じで、横山が作った富士の象徴的なかたちが独り歩きしてしまって、富士山型という山の形象を描いているようで、実際の山の存在感はあまり感じられないというのが正直な印象です。 笑い話ですが、チャーリー・チャップリンという喜劇映画スターは、チビでちょび髭にダブダブの背広上下にシルクハットとステッキでガニマタで歩くスタイルがトレードマークでしたが、ある時、彼のそっくりさんコンテストを開いて、当の本人が参加者の中に内緒で紛れ込んだらしいのですが、本人はコンテントで入賞することもできなかった、というオチがついた話があります。悪意で言えば、横山の描く富士は、そういうところがあります。綺麗ごとすぎるというのでしょうか。よく言えば理想としての姿です。これに比べて、竹内の作品はでは山の重量感というのが感じられます。このゴツゴツしたところは、こじつけかもしれませんが、セザンヌが故郷のサン・ヴィクトワール山を描いた作品(右図)を彷彿とさせるところがあります。竹内の富士には、山の理想的な形というよりも、彼が実際に見た富士の立体感とか重量感のような目の前の存在を描こうとしているように思えるところがあります。それが、うまくいっているかどうかは別として、富士を対象化している竹内の主観は明確に推し測ることができると思います。むしろ、この後で竹内本人を含め多くの富士を描いた作品がありますが、この作品以上に、モダンな作者の意志を感じさせる作品にあまり出会ったことはありません。
竹内が画壇での地位を確立した、後進の指導もしながら意欲的に作品を生み出して行った時期と解説されています。しかし、私がみた竹内の特徴は、繰り返しになりますが画面を構成しようとする強い意志が溢れていて、作品世界の設計と画法のテクニックが相互影響しながら(弁証法的と言いたい)強い緊張感をもって作品を生み出しているよう見えるところです。この時期では、そういう緊張感に漲った作品は一部にとどまり、大胆な構図をとりながらもフォルムは堅固で、大胆になろうとする方向性とフォルムを保とうとする方向性のぶつかり合いのような緊張感が、日本画の記号的なパターンへの方向性と西洋絵画の写実の方向性とのぶつかり合いにも置き換えられるようで、それを画家が強い意志で統御している、というのか作品画面から火花が散っているようなヒリヒリする緊張感を、例えば獅子図などからは強く感じられたものでした。しかし、この時期以降、そういう作品は減っていきます。 これは、竹内の作品に対する好みの違いではないかと思います。たとえば、この時期以降フォルムが崩れた作品が増えていきますが、それを自由闊達の境地として関係する人もいると思います。たしかに、一部では挑戦的なことをしているのは分かるのですが、それよりも長いものには巻かれろということで平面的でのっぺりした日本画の中に埋没してしまったような作品が増えてきます。とくに人物画がそうです。そして、晩年に入ると体力の衰えのせいでしょうか、急速に腑抜けたような作品が増えてゆきます。竹内の老境に入ってからの作品を見ていると、日本画を描くには体力が必要不可欠だったことが分かります。考えてみれば、床や台に敷いた紙や布に筆をもって描くのですから、しかも筆先は柔らかく墨や絵の具は伸びたり、流れたり滲んだりする。そうすると筆先が紙に触れる微妙な感触を腕力をつかってコントロールしなければならないわけです。描いている間、筆を浮かせ続けるには二の腕の筋力を大分必要とすることになるでしょう。そうしなければ線が引けない。体力の衰えた老人にはキツいことになるでしょう。この展覧会の第4章の展示で見られる作品は、そういう点で明らかに線に気力が感じられないし、線を引くのを諦めたように見える作品が多く見られます。これは、あくまで私の個人的感想です。一般的に竹内の老境の境地というのは評価は高いようですから。 『雨』(左上図)という1911年の作品では、墨の濃淡と滲みを生かして雨で風景がけぶっている情景を描き出しています。雨で全体が薄ぼんやりして、ものの輪郭がぼけてしまうのはターナーの晩年の風景画(右図)を連想するのはこじつけかもしれません。竹内は、そのなかでも右下に小さく笠をした人物をくっきり描いたり、木のはが雨に打たれて揺れ動くのが見えて来るかのような細かいところが見えてくるように描いています。全体に靄がかかっている中で、細かいところがくっきり見えることで実在感が感じられる、非常に緊張感の高い作品になっていると思います。 竹内という人は、このような風景画や動物を配した場面を描く場合、大胆で画面構成を行い画面全体がリアルな世界を作り上げていますが、人物画は苦手だったのではないかと思わせるところがあります。例えば『絵になる最初』(左図)という作品を見てみます。モデルが裸体になるのを恥じらう一瞬を描いたとのことで、けっこう有名な作品だそうです。これ一枚を竹内の作品と考えないで単独に取り出せば、女性を描いた日本画ということで、それなりに見ることもできるでしょう。しかし、このような竹内の回顧展で、かれの一連の作品が並べられているところで、彼の他の作品と並べてみると、まず人物がぺっちゃんこで厚みと重量をもった物体になっていない、前回見た『富士』であれほどゴツゴツした山の重量感を表現していたのに、です。また人物の背景も薄っぺらな書き割りで、風景画ではあれほど空間設計に気を配ったのに、まるで何も考えていないかのようです。私の思い込みかもしれませんが、竹内ならば裸体を恥ずかしがる少女の恥じらいと、その一方で女性としての見事な肉体を備えているという、一人の人物のなかでの相異なる要素の対立と矛盾を表わすことだってできたはずです。しかし、悪意に見れば、人体がぺっちゃんこなので、裸体を恥ずかしがるのは身体が貧弱だからなのだと勘ぐってしまうのです。どうしてなのか、そのヒントは天女図のための裸体スケッチ(右下図)が展示されていたものにありました。それらを見ると、西洋絵画の裸体デッサンの場合のような人体の骨格や筋肉の付き方を解剖学的に正確に把握しようというものではなく、天女図の天女の様々なポーズをとらせて、そのシルエットをとるために輪郭を線でなぞっているようなものでした。たぶん、人物を描くということに対しては、別の考えがあったのか、竹内本人がそれほど強い意欲を持っていなかったのではないかと思います。 この後の時期以降、竹内の作品は急速に魅力を減じていきます。あまり、つまらないを連発するのも気分がいいものではないし、とくに感想を書く気も起らないので、これが竹内栖鳳展の感想です。なお、重要文化財に指定された有名な『斑猫』は展示替えの関係で見ることができませんでした。 |