横山大観展 ─良き師、良き友─ |
仕事の内容が変わり、外出の機会は減っていくだろうことから、これまでのように、外出のついでに余った時間で美術館に立ち寄るということも、機会は減っていくことになるだろうと思います。そんな思いもあって、少し遠いけれど横浜まで足を延ばした。横山大観は日本史の教科書でもお馴染みの、いわゆる歴史的な日本画の大家で、普段なら敬して遠ざけるタイプの美術展。日本画では現代で話題の松井冬子なんかを見たことはあったが、最近、速水御舟、竹内栖鳳といった近代日本画や谷文晁の難解さにたじろいで、多少、挑戦してみようという意志が生まれたので、無理することにした。また、人との約束があり、その間を埋めるに適当な時間つぶしでもあった。ただし、そのことが気になって、頭から離れなかったせいもあって、展示されている作品に集中することはできず、どこか上の空な感じで終始してしまったのは、残念。とはいえ、裏を返せば、展示されている横山の作品が、私にとって、それほど魅力的に映らなかった、あるいは魅かれるところがあまりなかった、とも言えると思う。けっこう、ネットでの感想を拾い読みすると評判はいいらしい。私は、センスが悪いのが、捻くれているのか、そんなものだろうということを再認識した。美術展そのものは、美術館では大掛かりに演っていたようだが、私の行った時は、拝観者でごった返すということはなく、静かに鑑賞することができた。平日の夕方おそくという時間帯のせいかもしれない。 主催者のあいさつの中で次のように、この美術展の趣旨が述べられています“大観はこれまで明治期を共に歩んだ菱田春草、下村観山らとの関係が有名で、大正期以降の交友関係についてはあまり知られていません。薫陶を受けた岡倉天心が大正2年(1913年)にこの世を去った時、大観は40歳半ば。その芸術も実りの時期を迎えており、中国の古典を新しく解釈する東洋趣味や「片ぼかし」と呼ばれた新たな水墨表現、人物や背景のデフォルメ、大胆な色彩表現など、明治時代には見られなかったモダンでユーモラスな新感覚にあふれた作品を生み出していました。このような作風の背景には、大観が当時したしくつきあっていた画家たちの存在がありました。それは今村紫紅、小杉未醒、小川芋銭、富田溪仙ら同じく画壇の一線で活躍する仲間たちでした。互いに漢籍に通じ、東洋思想に共感した彼には日頃から親しく書簡を交わしたり酒を飲みながら芸術論をたたかわせ、《東海道五十三次絵巻》など旅をしながら作品を仕上げていく合作にも取り組みました。大観は溪仙が得意とする新南画や、未醒、芋銭らの文人趣味的な傾向に触発され、大正期の新たな作風を造り上げていきます。時代の波の中で、伝統のみに固執せず、それぞれの優れた資質を尊重して自在に芸術を切り拓き、高め合った彼らの作品をご覧下さい。” ということで、ここで紹介されている画家たちの作品も対照させる意図で展示されていたし、その趣旨はそれなりに分かりますし、ただ私が我儘なのか分かりませんが、どうしてこのような趣旨で美術展をするのかということが、多分大観という作家の作品をどのように捉えるのか、ということに拠ると思うのですが、例えば、今回展示されていた要素が大観の作品にどの程度の重要さがあったのかということ、それを含めた、では横約大観の作品とはどのようなものであったか、という概要が私には見えてきませんでした。もとより、私は横山の作品に対しては何も知らない人間で、この美術展はある程度横山の作品に通じている中級者向けで、勉強してくるのが当然と言われれば、そうなのかもしれません。また、ここで紹介されている画家たちの作品は、私にはまったく魅力が分からず、影響を受けたとして展示されている横山の作品がそれほど彼にとって重要な作品とも思えないのです。とすれば、彼の伝記的情報の中の一挿話程度のものかもしれないと、私は個人的に思われてしまうのです。そうでないという説明は横山の作品の魅力をどう見るか、という説明が不可欠なのですが、それが為されていない、ということなのです。以前のプーシキン美術館展のときもそうでしたが、横浜美術館に対しては、私はとくに悪意を持っているわけではないのですが、辛辣な物言いをしているかもしれません。 私には、先日、近代美術館で見た竹内栖鳳と比べると竹内の作品は絵画だけれど、横山大観の作品は絵画になっていないと思いました。独断と偏見で、しかも辛辣な物言いを許していただければ、多くの作品が展示されていましたが、絵画として見ることができる否かは別にして、魅力あるものとして映った作品は少なく、こんなものもあるんだというような情報の確認のような作品が、このような美術展でもなければ素通りしてしまうような作品が大半だったと思いました。
第一章 良き師との出会い:大観と天心
また「杜鵑」(左図)という作品。これも掛軸という制約にうまくハマった作品です。“ホトトギス一羽を、爽やかな初夏の新緑を舞う鳥としてではなく、深山を飛翔する孤高の鳥として描いている。ホトトギスを小さく描いたがゆえに、まるでその鳴き声が山に響き渡るかのように広く空間を獲得している。”と解説されているのを読むと、そんなものかと思います。慥かに、ほとんど点のように小さく描かれた鳥は風景の一点で、この小ささならば鳥という生命の存在を描き込む必要はなくなります。その意味で、横山の苦手なところを巧みに回避した戦略的な構成と思います。しかも、空に舞う鳥ということで余白を取ることができて平面的な画面構成が許されることになります。とは言っても、下方の木々の描き方がいかにも平面的で、図案化が中途半端です。この辺りが、横山の下手だ感じられるところです。 私は展示時期の関係で見ることはできませんでしたが「屈原」という有名な作品が展示されていたらしいのですが、画集等で見る限りは、迫力ありそうな感じですが、この展示の轍を踏んで、実物を見ると落胆しそうな感じがします。もしかとたら、横山の作品は複製した方が見栄えがするタイプなのかもしれません。 ※ここでは画家のことを「横山」と苗字で呼んでいますが、日本画の画家は大観と号で呼ばれるのが一般的なようですが、私はこの人をファーストネームで呼べるほど詳しくも、親しくもありません。カンディンスキーとは呼んでも、ワシリーとは呼びません。それと同じです。このような呼び方をしていることからも、私の日本画に対する姿勢は想像がつくと思います。
ここからが、この美術展の核心部ということになると思います。解説では“大正期の大観の作風は、鮮やかな色彩が現われた一方で、朦朧体から出発した水墨表現に新たな展開を見せた。また革新的な構図やデフォルメに加えて、主題の新たな探求など、多様な試みで、表現そのものが持つおおらかさを湛えた、伸びやかな画風を切り拓いた。”とこの時期の大観の特徴を説明しています。これに良き友である画家たちが関わったということです。ただし、私は大観すら分らないので、横山と友人の画家との関わりまで追いかけることはできず、横山に絞って、それ以外の画家は切り捨てて観ることにしました。何しろ、彼らの作品は横山以上に難解だったのです。 解説で説明されていたことに沿って、展示は次のように小分けされていました。 一、水墨と色彩 二、構図の革新とデフォルメ 三、主題の新たな探求 そこで、この小分けに従って、最初の水墨と色彩から見ていこうと思います。 大正期の横山の作品を特徴づけるものとして、水墨表現をあげ、「朦朧体」に続いて「片ぼかし」という表現方法で呼ばれるようになったと言います。「片ぼかし」は、“はじめ弧を描くような筆線の内側をやや暈したような描き方を指していたが、水墨の筆力の弱さ特徴ある線自体を指すと言ってもよく、狩野派における濃墨で力強い肥瘦ある筆線と対比的に、穏やかな、柔らかい味わいを出す技法として用いられた。”と説明されています。当時の横山の「片ぼかし」は、“一種の墨の弧線とその濃淡の使用法を以って、飽くまで平面的に描写しようとする大胆な計画で、敢えて技術を稚拙に見せながら、そこに生じる個性の表出や味わいを前面に打ち出す新技法だった。”と言います。う~ん、自分で引用していても、よく分らない。じゃあ、他の日本画家、例えば竹内栖鳳も線を暈した作品を制作していますが、両者の違いは何なのだろう。
構図の革新とは、あくまで、これらの作品が描かれた大正期においてのことでしょう。今の時点でみれば、それゆえに、却って古びて見えてしまうものが大半です。それらは、様々な試みが為されていると思いますが、試みの域に留まったというのが正直な印象です。そのうち、どれだけ横山という画家の性格に合って、かれの世界を広げることになったのかという、私には何とも言えません。
私が、一番印象に残ったのは「老子」(左下図)という作品です。全体のデフォルメに構成が合っていて、横山苦手の人物を題材にした作品では出色ではないかと思うほど印象的です。中央に腰かけた老人が振り向く姿は、その傍らで眠る童子も、デフォルメ
第二章 三、主題の新たな探求
“主題の新たな解釈や探求は、大観が明治期においても常に取り組んできたことではあったが、大正期において、若き画家との交流が活発となって、南画的なおおらかさや、やまと絵研究の上に立ち、さらに探究を深めたと思われる。”と説明されています。と言われていても、新たな主題と新たでない主題の違いがよく分らないので、何とも言えません。私が見る横山の作品の特徴は、現実世界をリアルに写していくことよりも、見たものをデフォルメして図案化し虚構的な世界を作り上げていくのに長けている、というものです。その際に、作品を観る者に虚構的世界に入ってもらわないと、作品を面白いと思ってくれない。そのため、取り上げる題材とかは観る人にとって既知のものするのが手っ取り早いわけです。ただし、それが陳腐 「千ノ與四郎」(右図)という作品は、このコーナーで典型例として説明されているもので、與四郎とは千利休の幼名で、武野紹鷗に茶を学ぶために入門する際に、紹鷗は與四郎を試すために、あらかじめ掃き清めておいた庭を掃除するように命じます。與四郎は木をゆすって落ち葉を散らし、庭に風雅を与えることでこれに応え、紹鷗は與四郎の才能を認めた、という逸話に基づくものだそうです。ここでの與四郎は侘び茶の大成者である千利休ではなく、輝かしい未来を信じる青年として描かれているというのが、横山の主題の独自性だということです。
この作品では、前回も参考として紹介したアンリ・ルソーの作品(左図)と通じているような感じがします。
第三章 円熟期に至る
核心部の展示が済んだところで、オマケです。その後の横山の作品ということでしょう。それと、関連作品と資料ということで、彼のコレクションした陶器や手紙の類、それと現代画家の山口晃の描いた横山大観その他が展示されていました。関連資料は明らかに蛇足、もって言えば邪魔でした。うるさいだけでした。 さて、“大正の時代の空気とともに、絵画の思想性を訴えようとする明治期に見られた頑なな使命感から放たれたかのように、大観の制作は、個性的な画家たちとの交流を背景に、充実した展開を見せたが、それは昭和期にかけていよいよ円熟味をましていった。”と説明されています。まあ、後拾遺集という感じでした。全体として、印象に残る作品が少ない美術展でありましたか、このコーナーでは強いて取り上げたいと思う作品がありませんでした。竹内栖鳳のときもそうでしたが、老境に入り円熟したという作品では、私の見る限り日本画の画家は作品に力がなくなり、緊張感が失われ弛緩した作品になってしまう印象を受けます。例えば「野の花」という作品と「千ノ與四郎」を比べてみれば、植物を描く執拗さが薄れている感は否めません。老境に達しても描かれる人物に生気がないことは相変わらずで、しかも植物の繁茂しようとする生き生きとしたところも失われてしまっては、画面に迫力がなくなって、大画面でも退屈を感じました。あまり、悪口を長々と綴ってもしょうがないので、このへんでやめにします。 この展覧会でまとまって作品を観たかぎりでの横山大観の作品のイメージは、近代日本画の大家とか岡倉天心などと共に近代日本画を成立させたとかいう大層なイメージではなくて、手先が器用で目端しがきくという長所から、商業的成功に結びつくような通俗性(大衆性)を上手にオブラートに包みながら、適当に手抜きして作品を量産できる手際も持っていたという、今で言えば人気イラストレーターというようなイメージです。だからこそ、様式性とかパターン化というのは横山の作品の重要な要素であって、題材として多く取り上げた富士山というのは様式化しやすいものであったからこそ、横山も数多く描くことができたのではないか、と思えるのです。これは、べつに横山を悪く言っているのではなく、それは彼の作品がこれほどまでに親しまれている魅力のひとつではないか、ということです。しかし、私が、今後、横山大観の展覧会があったときに進んで観に行くか、と問われれば、今回で十分ということになるのではないか、と思います。 ただ、前回にも触れましたが、横山とアンリ・ルソーのような人との近似性は考えてもよいのではないかと思います。 |