ザ・ビューティフル ─英国の唯美主義1860〜1900─ |
色々あって、午後から休みを取ったけれど、ちょっと時間が空いたので、その間にということで隙間を利用して観てきた。ひと通り見終わって、外に出たら雪が降り出して、積もり始めていた。 展覧会チラシの中で主催者あいさつをしながら唯美主義の簡単な説明をしている。 「19世紀半ばのロンドン−。産業革命後の物質至上主義がはびこるなか、人々のライフスタイルをも変革した先進的な芸術運動がおこりました。主導したのは前衛芸術家たち。芸術はただ美しくあるために存在するべきだとする彼らの信念は、革新的な美術とデザインを生み出します。芸術と人生のどちらにも美が重要とする芸術至上主義は、一般家庭のインテリアに変革をもたらすとともに、デカダンスの世紀末芸術へと発展していきます。本展は、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館など英国の主要な美術館・博物館の所蔵品を中心する絵画、家具、工芸、宝飾品約150点で構成します。」 展覧会全体としては、絵画だけに限らず陶器や工芸品等多数が展示されていました。しかし、私には、陶器や工芸品には興味がなく、展示の一部の絵画作品だけに限って感想を書いていきたいと思います。ここで展示されていた画家はロセッティやバーン=ジョーンズ、シメオン・ソロモンのようなラファエル前派の画家たちの他に、フレデリック・レイトンやアルバート・ムーアというあまり名の知られていない画家たちやオーブリー・ビアズリーやホイッスラーのような世紀末の画家の作品が少しずつ展示されていました。ここでは、とくに展示テーマを気にせず、アトランダムに取り上げて感想を述べていきたいと思います。 たぶん、主催者が説明している”芸術はただ美しくあるため存在すべき”ということの内容は、最終的に、そのような言葉にタテマエとして結晶されたものではないかと思います。それは産業革命による物質至上主義がはびこるという19世紀後半のイギリス社会を説明していますが、その中で産業資本家という新興の階級が台頭し、伝統的なジェントリーという地主たちにとって代わって社会や経済の主導権を握っていったと考えられます。新興の資本家たちは言うなれば成金のような人たちで、伝統と歴史のある貴族とは違って、眼の前の現実に振り回され、投資ということの性格から将来への視線に重心が移っていたのでないか、そして宗教のような伝統的な心情に対しても世俗化が進んで、より現実的な考え方をするような人たちではなかったと思います。そうであれば、伝統的な絵画でヒエラルキーの高い歴史画や宗教画といった、歴史的なストーリーや宗教的なエピソードといった主題やそれを伝える様々な約束事や方法への教養の蓄積があまりなくて、従って、そういうものに対するニーズをそれ程持っていなかったのではないかと思います。そうであれば、絵画を制作する側でも、教養や知識の蓄積を必要としない新興の階層のニーズに応えるものを提供する必要に迫られて行ったのではないか、それに応えるものとして教養を要するような主題とか宗教とか約束事がなくても親しめるような絵画だったのではないか、つまり、パッと見て分かるという見た目のキレイさ、表面的に映えるということで、そのために趣向を凝らしていく、ということだったのではないか。それを、後付けで正当化する言辞が”芸術はただ美しくあるため存在すべき”と言う言葉で、それが、最初は自己正当化の弁解のようなものだったのが、そういう言葉を与えられることで、それが独り歩きしはじめ、大層な理念でもあるかのような錯覚が生まれ、自己の立場に開き直るかのように正当化したい画家たちの心情とあいまって、次第にエスカレートしていったのが唯美主義という、あたかも芸術運動があったかのような外観ではないのか、思います。 それはまた、一方で当時別の意味で襲来しようとしていた大衆社会に対しては、画家が側からすれば、多額のお金を持たない大衆にたいしては複製による大量生産という方法論をしらず、画家の顧客の対象とはならないとして新興の成金との区別のために、芸術は高尚であるかのような外観を呈することによって一種の高級品ブランドとして高価に見せて、顧客の自尊心をくすぐり、絵画の価格を高く維持する必要があったと思います。それには、”芸術はただ美しくあるため存在すべき”というメッセージは、便利に使え、新興成金の人にも分かり易かった。その意味で、二つの方向で唯美主義というのは、便利だったと思います。それは、例えば、最初にあげるフレデリック・レイトンの作品などに見られる、と私は思います。 フレデリック・レイトン「パヴォニア」(右上図)という作品。ラテン系の顔立ちの若い女性の肖像で漆黒の髪と眉、そして瞳と肌の柔らかな感じが印象的な作品。パヴォニアというのは孔雀のことだそうで、背後に孔雀の羽根の団扇を広げているのを描いているためでしょうか。美人の女性を美女として描いたという作品。それが当時では唯美主義とか芸術至上主義とかいわれた、ということでしょうか。しかし、時代を隔てて、その熱が冷めた後世から見ると女性の肖像を依頼主が喜ぶように実物より少しきれいめに目立つように描き足した肖像画という印象です。描き方は伝統的というのか、しっかり描き込んで、表面の手触りがすべすべするような滑らかな肌の感じとか、衣装の布地の柔らかな感じとか、髪が光るように黒い感触が印象的という程度で、これを殊更に唯美とかいうほどの突出したものがあるのか、はなはだ疑問ではあります。唯美というけれど、その美というのがどういうものか、何をもって美というのか、ということが画家が認識しているとは思えないのです。強いて言えば、浮世絵の美人画のような当時の江戸の町の評判の美人を、当時の人々が美人の絵としてみなすような記号的な表現に絵師が局所的な意匠を加えることで絵の価値を上げるというようなものに近いのではないか、と思います。女性の“美”を抽出して描いたと言うよりは、美しい女性を見栄えよく巧みに描いたという作品ではないかと思います。 同じレイトンの「母と子(さくらんぽ)」(左上図)という作品。部屋で母親と娘の二人が寛ぐ(多少だらしない姿勢になっているけれど)、その部屋には白いユリが壷に活けられていたり、鶴を描いた屏風が立てられていたりというジャポニスムと床にはペルシャ絨毯が敷かれているという道具立てになっている。二人が来ている衣服の白と肌の白さに対して、母親の唇の赤とさくらんぼの赤が映える印象となっている作品と言えます。レイトンと言う画家は、このような見せ方の巧みさとか、描く人物の肌の感触とか局所で冴えを見せるところはあるものの(多分、それを売り物にしていたのではないかと思いますが)、言ってみれば職人芸というのか、それを方法論として独自の美をつくったとか、そういうひとではないと思います。以前に別の展覧会で「プシュケーの水浴」(右中図)という作品を見たことがありますが、言ってみれば、顧客のニーズにうまく応える(あまり良くない言葉で言うと媚びる)という印象だったと思います。多分、レイトン本人には、媚びるとかそういうことの意識的な自覚はなくて、本人の中に自意識とか問題意識が希薄で、とりあえず巧いので、その腕に任せて、どんどん描いていったというが実状ではないのか、と思います。 レイトンと同じことはアルバート・ムーアにも言えると思います。この展覧会の目玉であろう「真夏」(下図)という作品は、ただ巧いということが感想です。東洋風の扇子を持つ女性に挟まれて、椅子に座って居眠りをする若い女性。3人の女性は官能的に透けた薄衣の上に鮮やかなオレンジ色のローブをまとう。その薄衣やローブの触感とか、透けて見える女性の肌の官能的に映る描き方の巧みさは、レイトンの場合とよく似ていると、私には思います。明るく柔らかな光に包まれた白昼夢のような光景という評もあるようです。たしかそれは言えると思いますが、そういう意匠が先に立っているというのは、この作品は小手先の意匠によって差別化されたということを物語っていると見えるのです。こんなことを言うと、意地悪いように聞こえますが、それはいい面でも悪い面でも、この作品の特徴になっていると思います。レイトンやムーアの作品を見た印象では唯美主義というのは表層の表現というものに特化した作品制作に対する姿勢ではないか、とも思われてくるのです。それは、突飛なことかもしれませんが、この展覧会でも触れていたジャパニズムの影響ではないか、とも私には思われてきます。例えば、先ほども少し触れましたが浮世絵の美人画の方法論です。そういう目で見ると、この「真夏」で描かれている3人の女性には個性がなくて、しかし、伝統的な歴史画に描かれる理想の女性の姿とうよりは最大公約数の美人のパターンを写したというものに見えます。中央の女性に意識がないこともあるのでしょうか、活き活きとした生命感が希薄で、女性を題材にした模様の図柄のようなのです。そういう図柄をペースに技巧を凝らして様々な色付けをしていく、例えば光線の当て方とか、衣装とかいったものです。同じムーアの「黄色いマーガレット」(右下図)を見ると、ここで描かれている女性と「真夏」の中央の女性は同じようなポーズをしています。二人の違いは着ている衣装の違いで、言わば着せ替え人形です。そして、そのような傾向をもっと推し進めたのが、「花」(左上図)という作品です。ここで描かれている女性は、着ている衣装とともに背後の花と同質化して一体となって模様の一部になっています。このような模様のような様式化は、もっと進めればアルフォンス・ミシャになってしまいます。つまり、アルバート・ムーアの場合の美しさというのは、例えば部屋の壁紙のような装飾の一部のようなものになっていると言えるのではないか。その意味で、唯美主義というのが生活品にも波及し、量産品として都市部の中産階級等を対象として、商品として使われたというのも分かります。つまり、小市民的な生活で、生活の邪魔にならず、ちょっとした美的なものを手軽に感じて、市民生活を豊かな気分に盛り上げるというものです。いうなれば消費のための一種のセールス・トークです。ただし、大衆資本主義的な経済社会にいる以上は、これに善悪の価値判断を言うつもりはありませんが、主催者のあいさつにある物質至上主義に対する運動という捉え方は、私には、それをやっている人たちの一種の後ろめたさとか自己正当化の主張に寄り添い過ぎているように、私には見えます。アルバート・ムーアについては、以前にウィンスロップ・コレクション展の時の感想でも書いています。興味のある方はこちらをご参照下さい。 そのなかで、この展覧会で突出して見えたのは、オーブリー・ビアズリーでした。私は、必ずしもビアズリーの作品を好んでいるとは言えませんが、ここで展示されている画家たち、ここには感想を書いていませんが、ロセッティやバーンジョーンズのようなラファエル前派の画家たちも含めて、それらを全部合わせても、ビアズリーの研ぎ澄まされたような鋭く、しかし病的に引かれた一本の線の衝撃には及ばない、と原画を見て感じました。オスカー・ワイルドの「サロメ」の有名な挿画が展示されていましたが、印刷されたものや画像ではなくて、原画のペンで引かれたビアズリーの線を実際に見て、その凄味というものが、はじめて分かりました。ペンで引かれた線というものに、これほどの衝撃を受けたのは、全く世界は違いますが、手塚治虫の原画の一気に引かれた丸い線の衝撃に勝るとも劣らないものです。まさに、この線自体が雄弁に語っているというのでしょうか、この線だから描かれる形態とかすべてが決まってしまう。まずは線ありき、そして印刷された画は線のインパクトが薄まっても衝撃が未だに残っているというものです。むしろ、印刷によりインパクトが薄味となったからこそ、受け容れられたのかもしれません。そういうものだったと思います。美しいとかいうよりも、おぞましいとか禍々しいとか、そういう印象です。私自身、再度、見たいとし思いませんが、強烈な印象で、今年の展覧会の中で衝撃度は一番になるのではないかと思います。
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