ラファエル前派周辺の画家
アルバート・ジョセフ・ムーア
 

 

 

 

(1)アルバート・ムーア、伝記的事実

アルバート・ジョセフ・ムーア(1841〜1893)は、1841年、イングランドのヨークで肖像画家ウィリアム・ムーアを父として芸術家一家に生まれ、幼い頃から父や兄から絵画の手ほどきを受け、1858年17歳でロンドンに出てロイヤル・アカデミー美術学校に入学しました。そこでラファエル前派の強い影響を受けました。そのころは聖書などに主題を求めた歴史画を描いていました。そして、1859年には建築家のウィリアム・エデン・ネスフィールドとともにフランスに滞在しました。そこでローマを訪問し、古代彫刻と出会い、次第にに惹かれていきましたた。彼の作品に古典的傾向がみられるのはこのためであると言われています。ロンドンに戻ると、彼は大英博物館の古代大理石彫コレクション、とくにアテネのパルテノン神殿のレリーフである「エルギン・マープル」を丹念に研究しました。そして、その成果は彼の初期の仕事の多くの顔、ポーズと飾りに大きく取り入れられています。

1860年代には、ファエル前派の一員であるモリスの紹介でモリス・マーシャル・フォークナー社でタイルと壁紙とステンドグラスのデザイナーとして活躍する一方で、またギリシアや英国内で壁画家として活動しました。そのなかで、彼の作風は徐々により古典的で審美的なスタイルに移行しました。1865年、彼は「マーブル・シート」(右図)をロイヤル・アカデミーに出品しました。これは歴史や文学を題材とした物語要素のない、純粋に装飾的な絵画でした。襞のついた衣裳を素肌にまとった着衣の人物像と裸体像を描いた作品で、ムーアの代表作といえる作品です。これ以降、ムーアは装飾的な作品のみに注力していくことになり、その姿勢は終生変わりませんでした。

 

(2)アルバート・ムーアの作品の特徴

アルバート・ムーアの絵をひと言で言い表すことはさほど困難なことではないです。浅い装飾的な画面の中に、一人(または複数)の古代風の衣裳を身につけた女性が無表情に佇み、あるいはまどろんでいる。こういえば、おそらく彼の作品中からこれに当てはまらない絵を探す出すのが難しいと言っていいほどです。彼の作品の技術的な点では誰もが認めていたのですが、このようなスタイルに対して、人々の好みは、はっきりと分かれていたようで、非難する側は彼の作品には主題の欠如が内容のなさと受け取られて、絵がかれている人物に明確な表情がないため人間的な共感を得られないというものでした。その他に、古代の生活を題材としていながら時代考証が明らかに間違っているというものでした。

しかし、裏を返せば、アルバート・ムーアという画家は、美しい人物を美しい状況に置いた画面を美しく描くということのみに集中し、他の要素、例えば、主題とか知識等の情報とかは夾雑物として排除していったと言えます。その結果、彼としては、これしかないというパターンを執拗に描いた。

彼の作品タイトルを列記すると「マーブル・シート」「きんぽうげ」「アザレア」「夏の夜」「稲妻」「ふたりづれ」というような、とってつけたようなものばかり。これらのタイトルは、作品の完成後に付けられたもので、まず主題にもとづいたタイトルがあって、そにしたがって描かれるのではないということ。したがって、まず描くことから始まって、後からつけられたタイトルは作品中に何気なく付随的に描かれた物からつけられたりと、どうでいいような、単に作品の区別がつけばいいというものでした。しかし、ムーアの立場からは、タイトルはどうでもいいどころか、そこに残された主題という不純なものの残すカスを払拭するために、意図的にそうしていると言えるのです。

タイトルに象徴的な表われていますが、美しく描くということがまずあって、主題などはむしろ邪魔であるということは、作品の画面の内容ということ、つまり、何が描かれているかという対象に何らかの意味があるということも必要ではなくなってきます。つまり、作品の画面の中の人物も花々も、調度や陶磁器なども、すべてが色彩と画面の構成の調和のための要素として配置されていると言えます。例えば、人物は表情やポーズから一切の感情表現やダイナミックな躍動感を排除するために、無表情あるいは眠りこける女性像を描き、単に立っていたり座っているだけの動きのないポーズで描かれています。これは、目や口や身体が表情豊かに語りかけるようであれば、人物を活写した人物画で、それは装飾的に美しくなくてもいいものです。ムーアの様品では表情を遮断したまま佇み、あるいは眠りこけるとき、人物は周囲の花々や調度類と等価な画面の構成要素となります。このとき、感情表現や躍動感の表現は、作品の純粋な美的の調和に対して邪魔だったからです。だから、主題がないとか人間的な共感ができないなどの彼に対する非難は、画家自らの意思でやっていることなのです。

例えば、「アザレア」(左図)という1868年に制作された作品では、中国風の花瓶にさしたアザレア(つつじ)の側に一人の左手に大きなどんぶりを抱えた女性が立っているという、主題のない絵画の初期の作品です。黄色とクリーム色のドレープに身を包んだ一人の女性の姿が描かれており、顔は横顔だが体はこちらを向いており、裸足で右足を上げており、静止した絵の中にアクションと動きを導入している。そういう女性の姿、ポーズ、そして衣裳は古代ギリシャの彫刻などに見られる姿をおもわせる古典的な印象です。このような古典的な要素はムーアが見たであろう作品をベースにしており、例えば女性のドレスはパルテノン神殿の東側ペディメントの人物像に似ており、髪型やヘアバンドは、エレキテオンの南ポーチのカリヤチッドなど、他のギリシア像をベースにしているようです。しかし、それだけにどまらず、女性が抱えている鯉の図柄の丼と、背景のつつじの非対称の幾何学的な模様のような描き方は日本趣味(ジャポニスム)の影響が見えます。画面の上半分はつつじの花模様で、花瓶に挿したツツジの花と連続しているように見えて、まるで画面の上半分はつつじが咲いて、その中に女性が立っているようにも見えます。そういう幻想的な装飾性。もうひとつのジャポニスムの要素として、白いつつじの花の間を黄色い蝶が飛び交っていて、女性のきている白い服の上に黄色いドレープを重ねているのと対比的に組み合わされています。全体に色合いが淡いのとつつじの花が模様のようなので、まるでキャンバスの画面全体に刺繍がされていかのようで、あちこちに糸があらわれています。このような平面的、装飾的な画面で、その画面全体のデザイン構成は、幾何学図形を想わせるように古典的な均整がとれていて、それはムーアが何度も下書きを試み、緻密な計算を繰り返したという制作方法から意識的につくられている。その上に装飾的であることが、静的な美を作り出しているのです。その背後には、当時のニュートンの物理学などに代表される数学的な計算で宇宙の法則が解明されるということが、新プラトン主義的な究極な理想が真実に通じるというものでした。そこでは、道徳や物語は恣意的なものとして排除されるもので、そういう真実こそが美と重なる。そのような美の捉え方が、上で説明したようなムーアの作品の作られ方を基礎づけていると考えられます。

このような画面において、描くということ、美しく描くということに多大の労力が費やされました。作品の制作は様々な段階で何度も描かれました。大まかな画面の構想が固まると下絵スケッチが制作されます。まるで建築図面のような方眼の桝目に人物や背景の事物をあてはまるように配置をしていきます。ここでは幾何学の図形のようなバランスに人体や配置を適応させる、いわゆね黄金バランスを均衡させるものです。それはまた平面図形という二次元的なもので奥行きをもった三次元的な空間とを作り出すものではなかったからです。つまり、空間の拡がりとか存在感といったものも装飾的な美には余計だったと考えられていたというわけです。この下絵スケッチはまた、配色のバランスを決定させるものでもありました。そのため、ムーアは同じ構図で、配色の異なる下絵を何枚も制作して、最適の配色を実地で試していました。この工程だけを取り出せば、抽象画のコンポジションです。そしと、下絵が決まると、そのポーズで人物の習作を描きます。実際にモデルを使いますが、このとき描くのは裸体像です。人物に着せる着衣は別に習作されます。それらが決まったところで、キャンバスに裸体像が描かれ、その上に衣服が重ねられます。その結果、全体的に明るく淡い色調の中で、薄い衣服の下の人物の身体が暈けることなく、くっきりとして、絵肌が漆喰の壁のようにざらざらしたもとなっていました。そのような絵肌は古代の壁画の雰囲気をつくる効果もありましたが、絵画が写実というような再現ではなくて、絵画として完結したものであることを強調したものとなっていた。それは、彼の作品には女性のヌード像も少なくないのですが、それらは生身の女性を思わせる生き生きとしたものではなくて、絵空事のような絵画的な装飾として見えてくるものだったと言えます。わりませんでした。

 

(3)アルバート・ムーアの主要な作品

ムーアの作品は、あまり日本では紹介されていないようで、日本語のタイトルが不明なため、混同を避けるため英文でタイトルを記すことにします。また、以下の作品が代表作かどうかは何とも言えません。

(1881年)

女性のポーズや装飾的な画面をみていると、まるでアール・ヌーヴォーのポスター、たとえばアルフォンス・ミンシャの作品を見ているようです。この画家の作品を見ていると、人物の存在感とか肉体性という要素は後退して、画面の模様の一部のような全体が装飾のようなものに出来上がっています。それは、正面から作品を見つめて鑑賞するということではなく、壁紙のように市民の居間を構成する一部になってきているといっていいのではないか。作品がそれ自体として独立しているのではなく、室内で何らかの雰囲気を醸し出すパーツの一部として機能させるものに変わってきている。そういう要請に応えているのがムーアの作品ではないかと思えます。

具体的に画面を見ていきましょう。縦長の画面いっぱいに、ギリシャ風の白いローブを身にまとい、ダーク・ブルーの布で髪を包んだ女性の全身像が描かれています。足元の低いカウチを覆っている黄色い花柄の布は、女性の頭上に掛かっているカーテンの模様と呼応していて、左手のカーテンのオリーブ・グリーンは、画面右下に一部覗いているカウチのカバーの裏地や、手前のラグの四角い模様のひとつにも繰り返されています。そして、ラグの上には、鮮やかな黄色のデイジーの花が一輪描かれています。背後の浅い空間は、薄い海老茶色の地に、レースを思わせるような白い桜の花でみっしりと埋め尽くされています。

ムーアは1860年代後半から、古典的な衣装を着けた女性の単身立像を盛んに試みるようになった。そのもっとも早い例のひとつが上記の「アザレア」です。「アザレア」においても、平面的に処理された背景を満開のアザレア(つつじ)の花が埋め尽くしています。これといった主題をもたず、ただ美しい形態と色調のみを追求したこの作品に戸惑いを覚えた当時の批評家も少なくなかったといいますが、唯美主義の詩人スウィンバーンは次のような賛辞を贈りました。「彼の絵は画家たちにとって、テオフル・ゴーティエの詩が詩人たちにとって意味するものと同じである。つまり、形式の上で美しいものだけを崇拝することから生まれた欠点のない確かな表現である…色彩のメロディーも、形態のシンフォニーも完璧である。またひとつ美しいものが成し遂げられ、またひとつ歓びがこの世に誕生した。この絵の意味するものは美であり、美しいということがその存在理由なのである」。ここで触れられているゴーティエという詩人はすでに19世紀前半のフランスにおいて、「何の役にも立たないものこそが真に美しい」として芸術の純粋性を説き、「芸術のための芸術」の思想の先駆けとなった人です。主題や内容ではなく形式の美を重視する唯美主義の芸術は、もっとも感覚的にして抽象的なジャンルである音楽に接近していきました。上に引いた評にもメロディーやシンフォニーといった音楽用語が用いられているとおり、スウィンバーンがムーアの画面に見出したのもやはり音楽的な効果であったと言えます。

「アザレア」では、東洋風の壺にアザレア(つつじ)の木が植えられ、装飾的な表現のなかにもいくぶん自然主義的な要素が織り込まれているが、「花」においてはもはやそうした配慮はいっさい見られず、桜の枝はあたかも壁紙の模様でてもあるかのように背景いっぱいに広がり、カーテンやカウチの花柄とともに、ほとんど抽象的といえるほど濃密な装飾的効果を生み出しています。1870年代半ば頃からムーアが採用するようになった、極端に幅の狭い縦長の構図や、徹底して陰影を排除した明るい彩色も、画面の装飾性をいっそう高めています。ここには明らかに日本の美術品からの影響を見て取ることができると言われています。もっともムーア自身は、自然そのものからも大きな示唆を得たと言っています。色彩の絵画的な効果を追究するためには、彼はしばしば自宅近くのホランド・パークを散策しましたが、あるとき、暗い壁を背にした白い桜の花か、ちらちらするようなトレサリー(挟間飾り)状のパターンを作り出しているのを見て、本作品の背景を思いついたという。

画面の女性は、こちらに目を向けているにもかかわらず、そのどこか虚ろな眼差しは、絵を見る者との直接的なコミュニケーションを阻んでいるかのように見えます。ムーアの作品を含め、唯美主義の絵画の多くに描かれた「現実の時間と具体的な場所を示す指標は消し去られ、だれもいないこの世ならぬ空間に置かれた抽象的な顔」をもつ女性たちについては、単に美的な対象という役割だけでなく、男性との絶対的な差異を固定化し、男性のファンタジーを一方的に映し出すスクリーンとして機能していたとも解釈されています。

なお、画面右手のカウチのすぐ上に描き入れられた、古代ギリシャのスイカズラ文様のモティーフは、1860年代半ば頃からムーアが署名の代わりに用いてきたものです。

■ソファー(1875年)

ムーアは、1875年から76年にかけて、古典的な襞の衣裳を着けた女性がソファーもしくはベンチでまどろむ姿を3点の作品に描いていまする。この作品はその中の1点で、他の2点は「ビーズ」、「リンゴ」(左図)という作品です。アルバート・ムーアの伝記を著したアルフレッド・リース・ボルドリによれば、これらの作品はコンポジションは互いに似ているものの色づかいは異なっていると言います。ボルドリは「ソファー」(右下図)を3点の中で最初に描かれたとし、この作品に対して次のように書かれている。

「若い女性が身にまとう襞のある薄布の白さは、半透明の茶色の柔らかい織物がかけられた金色に輝くオレンジ色のクッションや淡い黄色のソファーを背景に、一際その輝きを増している。右手の女性の膝のあたりにはやや白色を帯びた茶色の布がかけられ、この女性は首のまわりに赤いビーズのネックレスをしている。ついでに言えば、このネックレスはほかの2作品には描かれていない、壁と床は茶系統でまとめられている。手前には茶色の壺がふたつ、青いビーズ、ソファーに立てかけられた白い扇が描かれ、床には白・黄・オレンジ・青の縞模様のマットが置かれている」。さらにボルドリは続けて言います。「3作品を比較するのは興味深い。なぜならこれらの作品を制作した時にバート・ムーアが色彩の使い方にいかに心を砕いていたか、また色彩の重要さに比して主題というものをいかに軽視していたか、こうしたことを3作品の比較はおしえてくれるからである」。

ちなみに、同時期に制作された「リンゴ」は、ソファの上で、古代風の衣を着けたふたりの娘が眠っているという構図で、左手の足元には東洋風の壺と扇が、右手には絵の題名にもなっている林檎が配されています。そして、「ソファー」との大きな違いは色遣いで、ソファの淡い灰色を基調として、薄いブルー、白、オレンジがかった茶色が画面のあちこちで繰り返され、全体で美しい色彩のハーモニーを作り上げています。

これらの作品のように、同じような構成で、色のバリエーションを変えて制作するというのは、後に多くの、より有名なそして現代の芸術家を思い出させます。例えば、モネの大聖堂、おそらくロスコのシーグラム壁画とウォーホルの作品の大部分、特にマリリンのシリーズなどがすぐ思い浮かびます。ムーアがこれらのアーティストに過度に影響を与えたと誰も言うことはないと思いますが、私は彼が彼らの重要な先駆者として見てもいいのではないかと思います。その意味で、ムーアは非常に興味深く、非常に現代的な芸術家であると言うことができます。

夏の夜(1887年)

この作品では、体型も顔つきもよく似た4人の女性が半裸の姿で描かれています。彼女たちはサフラン色をしたダマスク織の布で覆われたベンチに寛いでいて、テラスからは月明かりに照らされた広々とした海が、さらにはきらめく光のかなたには遠くの街が見えます。女性たちがいる空間には雲母を散りばめた雷文様の黒壇が垂直に立ち、そこからは花輪が垂れ下がっています。交錯する花輪と透かし彫りのトレリスの銀色の細工品が縁取りとなって、背景となっている外の風景は額縁に描かれた絵のように奥行きがなく平面的です。それは夏の夜の暗い世界が、そう見せている。しかし、平面的ではあっても、壁のような閉塞感はなく、開放感があるのは、暗い空間の余白のような効果を生んでいるからでしょうか。ギリシャ風と日本風のデザインの壺が置かれ、後者の壺にはギンセンソウが活けられていますが、その側面にはムーアの個人的なエンブレムであるスイカズラが描かれています。二つの壺は多彩な配色のカーペットの上に置かれ、その中央には何枚かの葉が散らばっています。少女たちのうち3人は座っていて、1人は伸びをし、1人は髪にリボンを結び、もう1人はかなたに視線を投げているようです。画面中央には4番目の少女が、大きな枕に頭を乗せて眠っているようです。あらゆるものが、贅沢で表現力豊かな筆遣いによって描かれています。衣服の襞は筒状になって何層にも重なり合っているのですが、それはムーアが知っている古代ギリシャの都市タナゴラのテラコッタ彫刻の表現に基づいているそうです。これは、、量感豊かな少女たちの体が持つ滑らかさと好対照をなしている。画面中央で横たわっている女性の腰の丸みを帯びた盛り上がりから光が溢れるようになって、背景の暗い水面を縦断して遠くの島のシルエットまで届きます。また画面左上に点在するオレンジ色の花は、下の水平線に沿ってきらめく小さな光に映っています。このように、背景と室内の様子が異なる空間のはずなのに連続模様のように見えてくる。そこにムーアの美的秩序が構成されている。

この4人の少女は、一人の同じ人物が眠ったり起きたりする、連続する動作を表現したものだと言われていますが、同様に、当時発展途上にあった連続写真の成果も取り込んでいると思われます。

キンバイカ(1886年)

両手を頭の後ろで軽く組み、両脚を白い絹の布で覆った若い娘の裸婦が、カウチに腰をおろしています。彼女の眼差しは、斜め左下の床に置かれていて、、赤紫の実をつけたギンバイカ(銀梅花)の小枝の方に注がれています。カウチのカバーとその上に載せた大きなクッションの黄色は、手前の床に敷かれたラグや、画面上辺に見えている壁、さらには右手の棚の上に飾られた花の色にも繰り返されていて、。また女性の髪に巻いたターバンのオレンジ色は、ギンバイカを活けた陶製の壺や、ラグの模様の一部とも呼応し合っています。これらのモティーフのあいだを、白い絹布や白を基調とした壁の模様が隙間なく満たし、画面全体が美しい色彩のハーモニーを生み出しています。

色彩以外の面では、古典的な彫刻を思わせる人物像や大理石の柱を模した右上の壁画が、ギリシャ風の趣を強く感じさせる一方で、女性の頭部の後ろに描き込まれた「青海渡」の文様や、右手の黄色い花を差した磁器の花瓶など、日本的・東洋的な要素がところどころに織り込まれています。なにより、奥行きの浅い空間を水平線や垂直線で大胆に区切り、平面的な装飾模様や色面で埋め尽くした構図に、日本画の影響を見て取ることができると思います。

この磁器唯美主義の高まりと平行して、イギリスでは裸体画のリヴァイヴァルが起こりました。その先鞭をつけたのは、1867年にレイトンがロイヤル・アカデミー展に出品した「衣を脱ぐウェヌス」であったが、ほぼ時を同じくして、ワッツやムーア、ホイッスラーやポインターらが月々に裸婦像を発表した。彼らの多くは、大陸とりわけパリで修業した経験を持ちいまだ系統立った人体素描の教育が行われていなかったイギリスに、古典的な裸体表現の規範をもたらしました。とはいえ、道徳的な規制が厳しさを増していたヴィクトリア朝中期のイギリスにあって、これらの画家たちは、性的なものを喚起させる要素を周到に排し、純粋に美的な対象として裸体を扱おうとしたのです。この作品においても、画面の女性には生身の肉体を感じさせる個性や表情は乏しく、画中の美的効果を高めるための装飾的なオブジェと化しているかのように描かれています。彼女の脚を包み込んでいる絹布の衣紋さえも、身体の量感を暗示する代わりに、ほとんどアール・ヌーヴォー的ともいえる装飾的な曲線のうねりを示しています。

稲妻 (1892年)

重い雲に覆われ、稲妻が光る空を背景に、暗い水辺に向かって張り出したテラスには3人の乙女が集まっています。彼女たちのドレープのあるドレスの色は、黄色、緑、淡灰色です。バルコニーは目立たないが下部を青と灰色の艶のあるタイルで飾り、上の欄干部は黄色の格子模様です。淡黄色の陶器の花瓶に入れられたオレンジがかった褐色や黄色の花は、いくつかが床に散在していますが、この調和に満ちた画面に不可欠なアクセントになっています。

さて、この3人の乙女たちに注目してみましょう。雷鳴の轟く烈しい嵐に対する3人の反応です。中央で足をベンチの上に伸ばして横たわる年端のいかぬ様子の女性は、3人の中ではもっともリラックスしています。おそらく彼女は肩に手を回す左の成熟した女性に護られているように感じているからでしょうか。右手の女性は稲妻によって刺繍の仕事を一時中断したように見受けられます。稲妻に驚き椅子から身を引いています。この2人の女性には見られているという意識は感じられません。一方、左手の女性は頭を巡らし画中から画面のこちらを見つめています。作品の画面を見ている鑑賞者からの同情をひこうとしているのでしょうか。彼女は我々の最も恐ろしい嵐を眺めているのだということを確認しようとしているようにも見えます。このように、登場人物の一人と心を通わせることによって観る者を画中に招じ入れるという工夫は西洋ではバロック芸術で頻繁に見られたものですが、ムーアはここで初めてその趣向を用いている。

ここでのムーアは、美を追求した純粋に装飾的な作品から、見る者を作品に引き込もうとする工夫を加えるように変化しています。この作品は、ムーアの私の前年に制作された晩年の作で、美しさだけではなく、見る者へ訴えかける表現への変化が見られます。その意味ではムーアの異色の作品です。

「ふたりづれ」 Companions(1883年)

若い女性が2人、肩を並べて佇んでいます。一方が他方の肩に手を回し、何か語りかけているようだが、その具体的な内容を暗示するものはいっさい描かれていません。2人とも、足まで届くチュニックの上にレースの上衣を羽織り、同じように頭にターバンを巻き、首にはビーズのネックレスを着けています。右手の女性が着ているチュニックの濃い灰色は、左側の女性の袖の部分や靴の色に繰り返され、またやや薄い灰色が、背後の腰板の地色や、床のタイルの市松模様、さらには画面右上の壁の一部にも用いられています。一方、左手の女性のチュニックの緑色は、右奥のカーテンの地色や、2人が立っているテラスの段の部分に反復されていて、彼女の頭に飾った黄色い花の色は、右手の女性のビーズのネックレスと靴、そして足元のケシの花とも呼応しています。

1860年ごろからイギリスで唯美主義の風潮が広まるとともに、ムーアもまた画面の上から主題や物語性を排除し、色彩と形態の組み合せによる純粋に視覚的な効果を追究してきましたが、ここでは緑と灰色を基調として入念に配された色彩と、さまざまなパターンからなる装飾的な模様が、ほとんど抽象的ともいえるような美しい絵画的ハーモニーを生み出していると言えます。ギリシャ風の装いをした2人の女性も、現実の人間というより、装飾的なタペストリーに織り込まれた模様の一部のごとくに見えます。実際、ムーアの描く女性像について同時代のある批評家は、「もはや彼は、パターンとして、見事に構成された線とマッスの配置として以外に、人間というものには関心をもたなくなった。その装飾的な性質だけが、彼にとっては重要だったのである」と語っているということです。

古代風の人物をフリーズ状に配した構図は、1860年代から70年代初頭にかけてムーアがたびたび手がけた、壁画やステンドグラスなどの建築装飾の経験に負っていると言います。また彼の繊細かつ精妙な色遣いは、花や羽毛、貝殻といった自然の事物を綿密に観察した成果と言えます。画面の女性たちが羽織っているレースの布は、1880年代前半にムーアがしばしば用いたモティーフですが、弟子のボールドリーの伝えるところでは、画家が空を背景に木の葉の作り出す形態の効果を研究していた折に、茂った葉と互いに交差する枝の間からちらちら洩れてくる陽光のきらめきに想を得たものだそうです。ムーアの作品においては、装飾性豊かな布が重要な位置を占めているが、そこには19世紀後半のイギリスにおけるアーチ・アンド・クラフツ運動の影響も考えることができます。ムーアが描き出した多彩な布の中には、画家が独自にデザインを考案したもののほか。インドや中国をはじめ彼が蒐集していたさまざまな国や時代の布も含まれているそうです。ムーアはそれらの模様を取り入れただけでなく、各々の布が作り出す微妙な襞の効果にも細心の注意を払いました。唯美主義絵画の多くとは異なり、ムーアの画面では、初期の数点を除いて直接的に音楽とむすびつく要素は見当たらない。とはいえ、壁紙や布のパターン模様や、よく似た人物像の反復が引き起こすリズミカルな効果、あるいはまた、繊細な色彩のヴァリエーションや流れるような衣紋の線が生み出す旋律的な美は、紛れもなく音楽的な印象を喚起させる。ムーアはしばしば、同じ構図を基に配色を違えて複数の画面を試みたが、この作品の場合も、ほぼ同じポーズの人物像に異なった背景と衣裳を組み合わせた「トパーズ」が制作されています。

マーブル・シート  The Marble Seat(1865年)

1865年ロイヤル・アカデミーに出品された、歴史や文学を題材とした物語要素のない純粋に装飾的な作品で、襞のついた衣裳を素肌にまとった着衣の人物像と裸体像を描いた作品で、ムーアの最初の代表作といえる作品です。

裸体の表現という点では、ムーアがイタリアを旅してギリシャやローマの彫刻を見たことが影響しているのかもしれません。紀元前5世紀のギリシャ彫刻や壺絵には、裸の男性と服を着た女性がしばしば描かれています。古典的な設定は「セクシュアリティの暗示を超えて主題を高揚させる」可能性を秘めていたと言えますが、ムーアはヴィクトリア朝時代のイギリスで、服を着た女性と一緒に裸の青年を描くことという危険を冒したのでした。大理石の長椅子の上で3人の女性像が描かれており、1人はパルテノン神殿の東側のペディメント(紀元前435年、アテナの誕生に参列する3人の女神)に描かれた像の1人を彷彿とさせるポーズで寝転んでおり、残りの2人も同じパルテノン神殿の東側のペディメント(紀元前435年、ディオニュソスと3人の女神)に描かれた座っている像を彷彿とさせる姿では座っています。座像は、シメオン・ソロモンの「ミティレーネの庭のサッフォとエリンナ」(1864年)にも類似しており、ソロモンの「ハベト!」(1865年)でも、女性のまなざしの力が取り上げられています。絵の左側では、裸の少年が女性にサービスをしていますが、その際、彼はキリックスと呼ばれる、体を起こして飲むための器を使っています。ソロモンの絵は、タイトルや強い感情の表現によって物語性のある読みを促しますが、ムーアの絵は、物語性のある読みとは無関係で、タイトルからはそれ以上の手がかりは得られず、単に3人の女性がワインが注がれるのを待っているだけで、感情は表現されておらず、寓話的な意味合いもありません。ムーアは、ソロモンが描いた裸の若者の絵とは異なる芸術的意図を持っていたことは明らかです。

この作品のシチュエィションは、ヴィクトリア朝時代のイギリスのセクシャルなものの常識に多くを問いかけを引き起こしました。例えば、当時の常識では、視線は男性のものであり、視線の対象は女性であると考えられていたのですが、ムーアはこれを反転させて、視線を返さない裸の男性を見つめる3人の女性像を示しています。女性像のうち2人は、ソロモンのサッフォーの絵画ほどではありませんが、身体を密接に接触しているので、その接触の性質は不明である。青年は女性像から切り離され、女性像に従属しており、彼らは自分の快楽の中で自己完結しているように見えます。ギリシャの文脈では、裸の男性は男性の鑑賞者の性的快楽のために描かれていたので、この作品では、は従来のヴィクトリア朝の視線の常識を反転させていますが、それは彼がギリシャの慣習に従っているからではない。当時の批評家ウィリアム・ロセッティは、この作品を「神話的、ギリシャ的、ローマ的な題材を扱うことは、学術的な「ハイ・アート」の支持者たちの専門分野とみなされなくなり、若い画家たちによって、型にはまらない、希望に満ちた精神で描かれている」と指摘しています。ロセッティは、ムーアが古典的なヌードの学術的な慣習を参照しているのではなく、近代性の精神とも言える新しい方法でヌードを使用しているという指摘を強調しています。おそらく、ムーアは古代ギリシャに触発されてはいても、ったく新しい感性で、美を構築しようとしたのでしょう。

貝殻 Shells (1874年)

この作品から、ムーアは表面の仕上げを向上させるための新しい技法を開発したといいます。「カーテン」の段階では、主な絵の下地は、跳ね上げられた色のスケッチの上に白い鉛で下塗りされ、絵はより詳細に新しい表面に再び描かれました。絵はその後、再び白い鉛で覆われ、作業をするための鮮やかな白の滑らかな表面となります。しかし、下塗りは下地が透けて見えるように十分に薄くなりました。その後、ドレープの下絵がメインのキャンバスに転写され、最終的なデザインは銀色のグレーで詳細に描かれました。湿った白地のこの使用は、ラファエル前派の人々が表面の輝きと透明感のある色を実現するために使用したと言われ、過去の巨匠たちのフレスコ画の技法との関連性の利点がありました。しかし、これはが非常に困難な作業でした。しかし、ムーアは常に斬新な方法で色を塗ることで、キャンバスの各部分を素早く描きながらも全体の配色を確認できるようにしていました。トレーシングペーパーは、完全な色彩を描くことができるように、絵全体に敷かれています。その後、各部分を切り取って作業を行い、最終的な絵を描く際には手直しや重ね塗りをする必要がなく、全体の配色と照らし合わせて色を判断することができるようにしました。色は事前に混合されており、彼は主要なハイライト部分をフルカラーで描くことから始めました。その上に、まだ濡れている間に、ハーフトーンを作るために非常に薄い暗めの層を描き、このウェット・オン・ウェットの技法のため、選択した部分はその日のうちに仕上げなければならず、ハイライトカラーを除去しなければなりませんでした。

このことは、ムーアが調和、バランス、プロポーションに興味を持ち、ルネサンスや古典フレスコ画に関連した装飾的な技法を用いていたことを示しています。フレスコ画の用語で言えば、原寸大のスケッチを表面に描き、グレーでシノピアを描き、その後、漆喰ではなく濡れた絵の具であるイントナコを使って、一日で完成するような領域(ジョルナータ)を描いていくのです。このような古典的な技法はヴィクトリア朝の芸術家の間ではよく知られており、ポンペイやヘルクラネウムでは新しいブン・フレスコ画のローマの壁画が発見されていました。したがってムーアは、効果的に装飾的なデザインのテクニックを美術の古典的な人物画と組み合わせたのでした。

 

 
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