ラファエル前派周辺の画家 アルバート・ジョセフ・ムーア |
(1)アルバート・ムーア、伝記的事実
1860年代には、ファエル前派の一員であるモリスの紹介でモリス・マーシャル・フォークナー社でタイルと壁紙とステンドグラスのデザイナーとして活躍する一方で、またギリシアや英国内で壁画家として活動しました。そのなかで、彼の作風は徐々により古典的で審美的なスタイルに移行しました。1865年、彼は「マーブル・シート」(右図)をロイヤル・アカデミーに出品しました。これは歴史や文学を題材とした物語要素のない、純粋に装飾的な絵画でした。襞のついた衣裳を素肌にまとった着衣の人物像と裸体像を描いた作品で、ムーアの代表作といえる作品です。これ以降、ムーアは装飾的な作品のみに注力していくことになり、その姿勢は終生変わりませんでした。 (2)アルバート・ムーアの作品の特徴 アルバート・ムーアの絵をひと言で言い表すことはさほど困難なことではないです。浅い装飾的な画面の中に、一人(または複数)の古代風の衣裳を身につけた女性が無表情に佇み、あるいはまどろんでいる。こういえば、おそらく彼の作品中からこれに当てはまらない絵を探す出すのが難しいと言っていいほどです。彼の作品の技術的な点では誰もが認めていたのですが、このようなスタイルに対して、人々の好みは、はっきりと分かれていたようで、非難する側は彼の作品には主題の欠如が内容のなさと受け取られて、絵がかれている人物に明確な表情がないため人間的な共感を得られないというものでした。その他に、古代の生活を題材としていながら時代考証が明らかに間違っているというものでした。 しかし、裏を返せば、アルバート・ムーアという画家は、美しい人物を美しい状況に置いた画面を美しく描くということのみに集中し、他の要素、例えば、主題とか知識等の情報とかは夾雑物として排除していったと言えます。その結果、彼としては、これしかないというパターンを執拗に描いた。 彼の作品タイトルを列記すると「マーブル・シート」「きんぽうげ」「アザレア」「夏の夜」「稲妻」「ふたりづれ」というような、とってつけたようなものばかり。これらのタイトルは、作品の完成後に付けられたもので、まず主題にもとづいたタイトルがあって、そにしたがって描かれるのではないということ。したがって、まず描くことから始まって、後からつけられたタイトルは作品中に何気なく付随的に描かれた物からつけられたりと、どうでいいような、単に作品の区別がつけばいいというものでした。しかし、ムーアの立場からは、タイトルはどうでもいいどころか、そこに残された主題という不純なものの残すカスを払拭するために、意図的にそうしていると言えるのです。 タイトルに象徴的な表われていますが、美しく描くということがまずあって、主題などはむしろ邪魔であるということは、作品の画面の内容ということ、つまり、何が描かれているかという対象に何らかの意味があるということも必要ではなくなってきます。つまり、作品の画面の中の人物も花々も、調度や陶磁器なども、すべてが色彩と画面の構成の調和のための要素として配置されていると言えます。例えば、人物は表情やポーズから一切の感情表現やダイナミックな躍動感を排除するために、無表情あるいは眠りこける女性像を描き、単に立っていたり座っているだけの動きのないポーズで描かれています。これは、目や口や身体が表情豊かに語りかけるようであれば、人物を活写した人物画で、それは装飾的に美しくなくてもいいものです。ムーアの様品では表情を遮断したまま佇み、あるいは眠りこけるとき、人物は周囲の花々や調度類と等価な画面の構成要素となります。このとき、感情表現や躍動感の表現は、作品の純粋な美的の調和に対して邪魔だったからです。だから、主題がないとか人間的な共感ができないなどの彼に対する非難は、画家自らの意思でやっていることなのです。
このような画面において、描くということ、美しく描くということに多大の労力が費やされました。作品の制作は様々な段階で何度も描かれました。大まかな画面の構想が固まると下絵スケッチが制作されます。まるで建築図面のような方眼の桝目に人物や背景の事物をあてはまるように配置をしていきます。ここでは幾何学の図形のようなバランスに人体や配置を適応させる、いわゆね黄金バランスを均衡させるものです。それはまた平面図形という二次元的なもので奥行きをもった三次元的な空間とを作り出すものではなかったからです。つまり、空間の拡がりとか存在感といったものも装飾的な美には余計だったと考えられていたというわけです。この下絵スケッチはまた、配色のバランスを決定させるものでもありました。そのため、ムーアは同じ構図で、配色の異なる下絵を何枚も制作して、最適の配色を実地で試していました。この工程だけを取り出せば、抽象画のコンポジションです。そしと、下絵が決まると、そのポーズで人物の習作を描きます。実際にモデルを使いますが、このとき描くのは裸体像です。人物に着せる着衣は別に習作されます。それらが決まったところで、キャンバスに裸体像が描かれ、その上に衣服が重ねられます。その結果、全体的に明るく淡い色調の中で、薄い衣服の下の人物の身体が暈けることなく、くっきりとして、絵肌が漆喰の壁のようにざらざらしたもとなっていました。そのような絵肌は古代の壁画の雰囲気をつくる効果もありましたが、絵画が写実というような再現ではなくて、絵画として完結したものであることを強調したものとなっていた。それは、彼の作品には女性のヌード像も少なくないのですが、それらは生身の女性を思わせる生き生きとしたものではなくて、絵空事のような絵画的な装飾として見えてくるものだったと言えます。わりませんでした。 (3)アルバート・ムーアの主要な作品 ムーアの作品は、あまり日本では紹介されていないようで、日本語のタイトルが不明なため、混同を避けるため英文でタイトルを記すことにします。また、以下の作品が代表作かどうかは何とも言えません。 ■花(1881年)
具体的に画面を見ていきましょう。縦長の画面いっぱいに、ギリシャ風の白いローブを身にまとい、ダーク・ブルーの布で髪を包んだ女性の全身像が描かれています。足元の低いカウチを覆っている黄色い花柄の布は、女性の頭上に掛かっているカーテンの模様と呼応していて、左手のカーテンのオリーブ・グリーンは、画面右下に一部覗いているカウチのカバーの裏地や、手前のラグの四角い模様のひとつにも繰り返されています。そして、ラグの上には、鮮やかな黄色のデイジーの花が一輪描かれています。背後の浅い空間は、薄い海老茶色の地に、レースを思わせるような白い桜の花でみっしりと埋め尽くされています。 ムーアは1860年代後半から、古典的な衣装を着けた女性の単身立像を盛んに試みるようになった。そのもっとも早い例のひとつが上記の「アザレア」です。「アザレア」においても、平面的に処理された背景を満開のアザレア(つつじ)の花が埋め尽くしています。これといった主題をもたず、ただ美しい形態と色調のみを追求したこの作品に戸惑いを覚えた当時の批評家も少なくなかったといいますが、唯美主義の詩人スウィンバーンは次のような賛辞を贈りました。「彼の絵は画家たちにとって、テオフル・ゴーティエの詩が詩人たちにとって意味するものと同じである。つまり、形式の上で美しいものだけを崇拝することから生まれた欠点のない確かな表現である…色彩のメロディーも、形態のシンフォニーも完璧である。またひとつ美しいものが成し遂げられ、またひとつ歓びがこの世に誕生した。この絵の意味するものは美であり、美しいということがその存在理由なのである」。ここで触れられているゴーティエという詩人はすでに19世紀前半のフランスにおいて、「何の役にも立たないものこそが真に美しい」として芸術の純粋性を説き、「芸術のための芸術」の思想の先駆けとなった人です。主題や内容ではなく形式の美を重視する唯美主義の芸術は、もっとも感覚的にして抽象的なジャンルである音楽に接近していきました。上に引いた評にもメロディーやシンフォニーといった音楽用語が用いられているとおり、スウィンバーンがムーアの画面に見出したのもやはり音楽的な効果であったと言えます。 「アザレア」では、東洋風の壺にアザレア(つつじ)の木が植えられ、装飾的な表現のなかにもいくぶん自然主義的な要素が織り込まれているが、「花」においてはもはやそうした配慮はいっさい見られず、桜の枝はあたかも壁紙の模様でてもあるかのように背景いっぱいに広がり、カーテンやカウチの花柄とともに、ほとんど抽象的といえるほど濃密な装飾的効果を生み出しています。1870年代半ば頃からムーアが採用するようになった、極端に幅の狭い縦長の構図や、徹底して陰影を排除した明るい彩色も、画面の装飾性をいっそう高めています。ここには明らかに日本の美術品からの影響を見て取ることができると言われています。もっともムーア自身は、自然そのものからも大きな示唆を得たと言っています。色彩の絵画的な効果を追究するためには、彼はしばしば自宅近くのホランド・パークを散策しましたが、あるとき、暗い壁を背にした白い桜の花か、ちらちらするようなトレサリー(挟間飾り)状のパターンを作り出しているのを見て、本作品の背景を思いついたという。 画面の女性は、こちらに目を向けているにもかかわらず、そのどこか虚ろな眼差しは、絵を見る者との直接的なコミュニケーションを阻んでいるかのように見えます。ムーアの作品を含め、唯美主義の絵画の多くに描かれた「現実の時間と具体的な場所を示す指標は消し去られ、だれもいないこの世ならぬ空間に置かれた抽象的な顔」をもつ女性たちについては、単に美的な対象という役割だけでなく、男性との絶対的な差異を固定化し、男性のファンタジーを一方的に映し出すスクリーンとして機能していたとも解釈されています。 なお、画面右手のカウチのすぐ上に描き入れられた、古代ギリシャのスイカズラ文様のモティーフは、1860年代半ば頃からムーアが署名の代わりに用いてきたものです。 ■ソファー(1875年)
「若い女性が身にまとう襞のある薄布の白さは、半透明の茶色の柔らかい織物がかけられた金色に輝くオレンジ色のクッションや淡い黄色のソファーを背景に、一際その輝きを増している。右手の女性の膝のあたりにはやや白色を帯びた茶色の布がかけられ、この女性は首のまわりに赤いビーズのネックレスをしている。ついでに言えば、このネックレスはほかの2作品には描かれていない、壁と床は茶系統でまとめられている。手前には茶色の壺がふたつ、青いビーズ、ソファーに立てかけられた白い扇が描かれ、床には白・黄・オレンジ・青の縞模様のマットが置かれている」。さらにボルドリは続けて言います。「3作品を比較するのは興味深い。なぜならこれらの作品を制作した時にバート・ムーアが色彩の使い方にいかに心を砕いていたか、また色彩の重要さに比して主題というものをいかに軽視していたか、こうしたことを3作品の比較はおしえてくれるからである」。
これらの作品のように、同じような構成で、色のバリエーションを変えて制作するというのは、後に多くの、より有名なそして現代の芸術家を思い出させます。例えば、モネの大聖堂、おそらくロスコのシーグラム壁画とウォーホルの作品の大部分、特にマリリンのシリーズなどがすぐ思い浮かびます。ムーアがこれらのアーティストに過度に影響を与えたと誰も言うことはないと思いますが、私は彼が彼らの重要な先駆者として見てもいいのではないかと思います。その意味で、ムーアは非常に興味深く、非常に現代的な芸術家であると言うことができます。 ■夏の夜(1887年)
この4人の少女は、一人の同じ人物が眠ったり起きたりする、連続する動作を表現したものだと言われていますが、同様に、当時発展途上にあった連続写真の成果も取り込んでいると思われます。 ■キンバイカ(1886年)
色彩以外の面では、古典的な彫刻を思わせる人物像や大理石の柱を模した右上の壁画が、ギリシャ風の趣を強く感じさせる一方で、女性の頭部の後ろに描き込まれた「青海渡」の文様や、右手の黄色い花を差した磁器の花瓶など、日本的・東洋的な要素がところどころに織り込まれています。なにより、奥行きの浅い空間を水平線や垂直線で大胆に区切り、平面的な装飾模様や色面で埋め尽くした構図に、日本画の影響を見て取ることができると思います。 この磁器唯美主義の高まりと平行して、イギリスでは裸体画のリヴァイヴァルが起こりました。その先鞭をつけたのは、1867年にレイトンがロイヤル・アカデミー展に出品した「衣を脱ぐウェヌス」であったが、ほぼ時を同じくして、ワッツやムーア、ホイッスラーやポインターらが月々に裸婦像を発表した。彼らの多くは、大陸とりわけパリで修業した経験を持ちいまだ系統立った人体素描の教育が行われていなかったイギリスに、古典的な裸体表現の規範をもたらしました。とはいえ、道徳的な規制が厳しさを増していたヴィクトリア朝中期のイギリスにあって、これらの画家たちは、性的なものを喚起させる要素を周到に排し、純粋に美的な対象として裸体を扱おうとしたのです。この作品においても、画面の女性には生身の肉体を感じさせる個性や表情は乏しく、画中の美的効果を高めるための装飾的なオブジェと化しているかのように描かれています。彼女の脚を包み込んでいる絹布の衣紋さえも、身体の量感を暗示する代わりに、ほとんどアール・ヌーヴォー的ともいえる装飾的な曲線のうねりを示しています。
■稲妻 (1892年)
さて、この3人の乙女たちに注目してみましょう。雷鳴の轟く烈しい嵐に対する3人の反応です。中央で足をベンチの上に伸ばして横たわる年端のいかぬ様子の女性は、3人の中ではもっともリラックスしています。おそらく彼女は肩に手を回す左の成熟した女性に護られているように感じているからでしょうか。右手の女性は稲妻によって刺繍の仕事を一時中断したように見受けられます。稲妻に驚き椅子から身を引いています。この2人の女性には見られているという意識は感じられません。一方、左手の女性は頭を巡らし画中から画面のこちらを見つめています。作品の画面を見ている鑑賞者からの同情をひこうとしているのでしょうか。彼女は我々の最も恐ろしい嵐を眺めているのだということを確認しようとしているようにも見えます。このように、登場人物の一人と心を通わせることによって観る者を画中に招じ入れるという工夫は西洋ではバロック芸術で頻繁に見られたものですが、ムーアはここで初めてその趣向を用いている。 ここでのムーアは、美を追求した純粋に装飾的な作品から、見る者を作品に引き込もうとする工夫を加えるように変化しています。この作品は、ムーアの私の前年に制作された晩年の作で、美しさだけではなく、見る者へ訴えかける表現への変化が見られます。その意味ではムーアの異色の作品です。 ■ 「ふたりづれ」 Companions(1883年)
古代風の人物をフリーズ状に配した構図は、1860年代から70年代初頭にかけてムーアがたびたび手がけた、壁画やステンドグラスなどの建築装飾の経験に負っていると言います。また彼の繊細かつ精妙な色遣いは、花や羽毛、貝殻といった自然の事物を綿密に観察した成果と言えます。画面の女性たちが羽織っているレースの布は、1880年代前半にムーアがしばしば用いたモティーフですが、弟子のボールドリーの伝えるところでは、画家が空を背景に木の葉の作り出す形態の効果を研究していた折に、茂った葉と互いに交差する枝の間からちらちら洩れてくる陽光のきらめきに想を得たものだそうです。ムーアの作品においては、装飾性豊かな布が重要な位置を占めているが、そこには19世紀後半のイギリスにおけるアーチ・アンド・クラフツ運動の影響も考えることができます。ムーアが描き出した多彩な布の中には、画家が独自にデザインを考案したもののほか。インドや中国をはじめ彼が蒐集していたさまざまな国や時代の布も含まれているそうです。ムーアはそれらの模様を取り入れただけでなく、各々の布が作り出す微妙な襞の効果にも細心の注意を払いました。唯美主義絵画の多くとは異なり、ムーアの画面では、初期の数点を除いて直接的に音楽とむすびつく要素は見当たらない。とはいえ、壁紙や布のパターン模様や、よく似た人物像の反復が引き起こすリズミカルな効果、あるいはまた、繊細な色彩のヴァリエーションや流れるような衣紋の線が生み出す旋律的な美は、紛れもなく音楽的な印象を喚起させる。ムーアはしばしば、同じ構図を基に配色を違えて複数の画面を試みたが、この作品の場合も、ほぼ同じポーズの人物像に異なった背景と衣裳を組み合わせた「トパーズ」が制作されています。 ■ マーブル・シート The Marble Seat(1865年)
裸体の表現という点では、ムーアがイタリアを旅してギリシャやローマの彫刻を見たことが影響しているのかもしれません。紀元前5世紀のギリシャ彫刻や壺絵には、裸の男性と服を着た女性がしばしば描かれています。古典的な設定は「セクシュアリティの暗示を超えて主題を高揚させる」可能性を秘めていたと言えますが、ムーアはヴィクトリア朝時代のイギリスで、服を着た女性と一緒に裸の青年を描くことという危険を冒したのでした。大理石の長椅子の上で3人の女性像が描かれており、1人はパルテノン神殿の東側のペディメント(紀元前435年、アテナの誕生に参列する3人の女神)に描かれた像の1人を彷彿とさせるポーズで寝転んでおり、残りの2人も同じパルテノン神殿の東側のペディメント(紀元前435年、ディオニュソスと3人の女神)に描かれた座っている像を彷彿とさせる姿では座っています。座像は、シメオン・ソロモンの「ミティレーネの庭のサッフォとエリンナ」(1864年)にも類似しており、ソロモンの「ハベト!」(1865年)でも、女性のまなざしの力が取り上げられています。絵の左側では、裸の少年が女性にサービスをしていますが、その際、彼はキリックスと呼ばれる、体を起こして飲むための器を使っています。ソロモンの絵は、タイトルや強い感情の表現によって物語性のある読みを促しますが、ムーアの絵は、物語性のある読みとは無関係で、タイトルからはそれ以上の手がかりは得られず、単に3人の女性がワインが注がれるのを待っているだけで、感情は表現されておらず、寓話的な意味合いもありません。ムーアは、ソロモンが描いた裸の若者の絵とは異なる芸術的意図を持っていたことは明らかです。
■貝殻 Shells (1874年)
このことは、ムーアが調和、バランス、プロポーションに興味を持ち、ルネサンスや古典フレスコ画に関連した装飾的な技法を用いていたことを示しています。フレスコ画の用語で言えば、原寸大のスケッチを表面に描き、グレーでシノピアを描き、その後、漆喰ではなく濡れた絵の具であるイントナコを使って、一日で完成するような領域(ジョルナータ)を描いていくのです。このような古典的な技法はヴィクトリア朝の芸術家の間ではよく知られており、ポンペイやヘルクラネウムでは新しいブン・フレスコ画のローマの壁画が発見されていました。したがってムーアは、効果的に装飾的なデザインのテクニックを美術の古典的な人物画と組み合わせたのでした。 。 |