もうひとつの19世紀
ブーグロー、ミレイとアカデミーの画家たち |
2023年10月15日 国立西洋美術館 企画展の「キュビスム展」を見て、そのチケットで常設展も見ることができるということなので、時間もあったし、会場に入ったら、奥の方で行われていた。常設展には、以前に企画展で見たことのある作品もいくつかあったが、大家の作品があとからあとから、その質と量に圧倒されるほど。ついでに寄るといった内容ではない。ここでは、その一部でやっていた「もうひとつの19世紀―ブーグロー、ミレイとアカデミーの画家たち」が、予期していなかったが、とてもよかったので、あらためて感想をまとめてみた。 展示の概要については主催者あいさつを引用します。“19世紀後半のフランスおよびイギリス美術と聞いて、みなさんが思い描くのは一体どんな絵画でしょうか。フランスにおけるレアリスムや印象派、あるいはイギリスのラファエル前派や唯美主義による作品が浮かんだ方も少なくないでしょう。しかし、今日エポックメーカーとして俎上にあがる芸術運動と画家たちの背後には、常にアカデミー画家たちがおり、彼らこそが当時の画壇の主流を占め、美術における規範を体現していました。かれらは、それぞれの国において最も権威ある美術教育の殿堂であったアカデミー――1648年、フランスで創立された王立絵画彫刻アカデミーと1768年にイギリスで誕生したロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ――に属し、古典主義的な芸術様式を遵守した画家たちです。しかしアカデミーの権威と伝統は、社会の急速な近代化によって揺らぎ、19世紀後半になるとアカデミスムは衰退の危機をむかえます。そんななか、アカデミーで地歩を固めた画家たちは時代の変容や新たな画派の登場に決して無関心ではありませんでした。むしろ変化に富んだ時代において、需要に応じて主題や様式、媒体を変容し制作を行いながら、アカデミーの支柱としてその伝統と歴史を後世に継承しようと努めたのです。本小企画展では、ウィリアム・アドルフ・ブーグロー(1825〜1905)やジョン・エヴァレット・ミレイ(1829〜1896)をはじめとする両国のアカデミー画家たちのキャリアを辿り、多様化した主題やモティーフ、モデルに焦点をあてることで、その柔軟かつ戦略的な姿勢と彼らが率いた「もうひとつの19世紀」を浮き彫りにします。” 会場に入って、すぐに目に入ったのが、ブーグローの「ガブリエル・コットの肖像」です。肖像画と言うのは、この時代の画家たちの主要な収入源で、イギリスの貴族の館を見学すると、廊下や客間に歴代の当主や夫人の肖像が所狭しと陳列されているものですが、新興の富裕なブルジョワもそうだったのでしょう。アカデミーの画家ともなれば、肖像画の依頼は多かったのではないかと思います。しかし、この作品は依頼品ではなく、知人の娘である彼女をモデルに当初、別の絵画の習作として始められたのが、ブーグローはガブリエル・コットの魅力と美しさに魅了され、彼女の肖像画を描くことにしたという。黒い背景でスポットライトを浴びたように浮かび上がる、振り向きざまの表情をとらえた肖像画は、こちらに向けられた優しいまなざしと柔らかな笑みが印象的。塗りが丁寧というか、何よりも肌のみずみずしく柔らかな質感がとても印象的。振り向いた顔に光が差し浮かび上がる様子は、成瀬巳喜男の監督した映画でヒロインが別れて遠ざかって、暗い中に消えていく途中で振り向いた顔に光があたり、姿が消えていく中で顔が浮かび上がり、その表情が印象深いのとよく似ている。この作品でも、こころもち画面右上から照明をあてるような光が淡くさして、顔が浮かび上がるようになっています。まるで、別れを惜しむ一瞬のようなはかない微笑のように映ります。その光の下で、彼女の肌は、ほとんど乳白色に近い色調で見事に混ざり合い、血管のように見えるように水色が加えられ、部分的に柔らかなピンクが加えられて、肉体を模した形と温かみを感じさせます。後でブーグローの技法をネットで調べてみたら、半透明に見えるように薄く塗られた不透明で軽い絵具が、乾燥した暗い下絵具の影響を最終的な効果に与えるという複雑な光学的感覚ということで、その結果として、色温度の冷たさ、質感の柔らかさ、透明感が増し、光に恵まれた女性の若々しい肌のような質感になるということです。ブーグローは、明るい光とハイライトを十分に濃く塗ることで、肉色の真の不透明度に近づけ、暗い中間調の部分や影の部分には、ある種の透け感が見られるようになるというもので。そこから、描かれた女性の肌は、ルネサンスの聖母像の大理石のようなツルツルの輝くようなのとは違う、血の通った生きた人間のもちもちしたような感じ。振り返った首筋が皺になっている、その柔らかさ。その肌の質感が魅力的。この作品を見て、冷やかしの気持ちはなくなり、襟を正しました。 続いて、伝統的な歴史画です。ブーグローの「クピドの懲罰」と「武器の返却を懇願するクピド」の一対のような作品にはさまれて「音楽」という作品が、まるで三福一対のように展示されていました。これらの作品に共通しているのは背景が描かれていないで、白または空色の一色が塗られているだけとなっていることです。このスタティックでパターン化されたところと、淡い色彩の使い方で、刺激が少なく、見る者に緊張を強いることがないところなどは、19世紀フランス象徴主義のシャヴァンヌを想わせるところがあります。そうなると、アカデミスムとは言えなくなりますが。私は、西洋絵画をちゃんと勉強したわけではないので、アカデミスムの伝統がどういうものか分からないため、そういうこだわりはないのですが。穏やかさ、静けさというのは、ブーグローの作品に共通した特徴ですね。「武器の返却を懇願するクピド」などは激しく描こうとすれば、いくらでも激しい作品になるのに、この作品は穏やかです。公共的な場所に派手に展示して人々の注目を集めるというより、貴族や裕福なブルジョワの邸宅に飾るような作品だったのではないか思います。ネットで調べてみたら、銀行家の邸宅の客間の装飾として手掛けられたそうです。そのせいか、刺激は少ないが、見ていて疲れない。パッと見で惹かれるというよりは、見ていて飽きがこないというタイプの作品ではないかと思います。それだけに、見る人によっては退屈と見られてしまうかもしれません。これらのうち、「音楽」は天井に描かれていたということで、天空に浮かぶ白い雲の上でそれぞれ楽器を奏でる4人の女性と歌う3人の女性が描かれている。このうちタンバリンと笛を担当する前景の女性たちは半裸で、女神も思わせるところがあり、やや硬く静謐な古代の壁画の雰囲気です。その部屋にいたら、天井を見上げると、こんなのが見える、って部屋も豪華なんでしょうね。こうして見ると、ブーグローはアカデミーの伝統主義者というよりも、フレデリック・レイトンたちのような唯美主義に近いような気がします。 一方、当時のイギリスでは、ジョン・エバレット・ミレイの作品(ここでも「あひるの子」が展示されています)などの子どもを題材にしたファンシー・ピクチャーが人気を集めていたと言います。ブーグローも少女を題材にした小品を数多く制作したと言います。例えば「少女」という作品です。小さな手を胸もとであわせて祈りのポーズをとる幼い少女の半身像を描いたこの作品は、ファンシー・ピクチャーのひとつと考えられます。ミレイの作品に比べて。少女の肌の柔らかで滑らかな触感が、丁寧に描かれていて、自然な表現が見られ、現実のモデルの存在を感じることができそうです。ブーグローの歴史画が唯美主義的なら、このようなファンシー・ピクチャーはラファエル前派のジョン・エバレット・ミレイと並ぶことになります。そうすると、アカデミーと反アカデミーとの区分は曖昧なんでしょうか。どちらにしても、ブーグローという画家は、技術の高い、丁寧な仕事をする人ですね。 次のラファエル・コランの「楽」という作品です。森の中で木々を通した薄い光がさし、霧がかかったような薄明で、ものの輪郭がぼんやりとした空間に、半裸で、体の一部を覆う薄いヴェールをまとった女性が独り立っている。人物の扱いと背景の扱いにほとんど違いはなく、構図全体が同じ光の絵画層で覆われている。女性は写実的というより、ある種の叙情性を漂わせる存在となっている。親密で、しかし深く響く静謐さに包まれています。象徴主義的な雰囲気の強い作品です。淡い色彩で平面的な作風はピュヴィス・ド・シャヴァンヌあるいは、淡い色彩で空間に溶け込むように女性を描いたアルバート・ジョセフ・ムーアを想わせるような作品です。アカデミーの伝統というより幻想的で、この画家は象徴主義の詩人ピエール・ルイスの挿絵をよく描いていて、それも展示されていましたが、同じ雰囲気です。「楽」という抽象的な作品タイトルも、絵画全体の雰囲気を表していると思います。唯美主義といってもいいと思います。並んで展示されている「詩」も同じような雰囲気の作品です。 いずれにしても、ここで展示されている作品は、総じて仕上げが丁寧で、企画展の会場で見たキュビスムの作品の中にあるようなキャンバスの地がでていたり、荒々しい筆触が残されていたりといった粗雑なところは一切ありませんでした。そこに商品としての品質を気を配るといった配慮が為されている、プロフェッショナリズムを見ることができました。 小さな展覧会でしたが、ウィリアム・アドルフ・ブーグローという未知の画家に出会うことができて、とてもよかったと思います。 |