西行の和歌を読む
 

1.はじめに

西行というと

願わくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ

のようなロマンチックな和歌を詠んだ人程度のイメージしかなくて、新古今集において三夕の歌として教科書にも載っているのを比べてみても、

寂しさはその色としもかなりけり槙立つ山の秋の夕暮       寂蓮

心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮       西行

見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮       定家

これら三つの歌はたまたまた秋の夕暮で終わっているところが共通しているのでピックアップされているようなもので、寂蓮の歌は埒外としても、西行と定家の歌は全く別物で並べるのもおかしいようなきもします。白洲正子の『西行』では“この二つの歌は、詞が似ているだけで、その発想には大きな違いがある。単に老若の差ではなく、西行と定家が生涯を通じて、相容れることのなかった個性の相違といえようか。小林秀雄は『西行』の中で、それについて実に適確な批評をしている。「外見はどうあろうとも、(定家の歌は)もはや西行の詩境とは殆ど関係がない。新古今集で、この二つの歌が肩を並べているのを見ると、詩人の傍らで、美食家がああでもないこうでもないと言っている様に見える。寂蓮の歌は挙げるまでもあるまい。三夕の歌なぞと出鱈目に言い習わしたものである。」”だが、いつも世間を闊歩しているのはその出鱈目な方で、茶道では、定家の「見わたせば…」の歌がわびの極致とされている。そういわれるとそのように見えなくもないが、定家は純粋にレトリックの世界に生きた人で、この歌も源氏物語「明石」の巻その他に典拠があり、いってみれば机上で作られた作品なのである。定家の生活とも関係がない。それにひきかえ西行の歌は、肺腑の底からしぼり出たような調べで、小林秀雄が、上三句に「作者の心の疼きが隠れている」といったのは、そういう意味である。”と長い引用になりましたが、このように西行を持ち上げています。ただし、白洲も小林も、西行の歌は“肺腑の底からしぼり出たような調べ”と称していますが、それがどのようなところにどのように作られているかは具体的に何の説明もされていません。この人たちの常套手段のようなものなのですが、自分で尤もらしいコメントを言って、言いっぱなしにして、あとは読者が分からないのは、読者がバカだからと自分は孤高の人ぶっているところがあります。言ってみれば空っぽの放言居士のようなもので、それを沢山の人々がありがたがって、それによって西行なんかが、その内容に直接触れているかどうかも分からないで祀り上げられている。おそらく、白洲や小林には、そういう自身のやり方の対象として格好だったのではないでしょうか。西行の歌には、そういうもったいぶって偉そうに紹介するのに都合のいいところがあったのかもしれません。オレは定家のようなチャラチャラした飾ってばかりいるような歌に満足できず、もっとホネのある精神性が必要なのだとかいうのに西行の歌はちょうどよかった。そういうのを見ていて反発する気持ちもあって、西行の歌は食わず嫌いになっていました。ちなみに、この西行の歌については、“『鴫立つ』の意味が、単に『飛び立つ』のか、『佇つ』の意味が含まれているのかよくわからない。ふつうは『飛び立つ』の意にとるのが常識だろうが、鴨が細い足で立っている情景も、結構絵になると思うのだが、どうだろうか。」「鴨が佇立したまま、暮れていく沢に、身じろぎもせずにいる、その姿の孤独をいいたかったのではあるまいか。仏と同行二人、少しも寂しくないはずの法師西行が、はしなくも、秋の夕、薄暮のなかにたたずむ鴨の、ぽつねんとした姿に、忘れていた『寂しさ』をふいに身近に感じたのではなかったか。” (尾崎左永子「古今和歌集・新古今和歌集」集英社文庫)という鑑賞があり、こっちの方が具体的であるので、またましですが、白洲や小林の立っているところを無前提に受け入れて、そこから始めているように思えます。

ちなみに、白洲も小林も西行に比べて、あまり評価していない定家の「見わたせば…」の歌は、全体が否定の言葉で統一されていて、そのネガティブに調子に、歌の対象であるものを片っ端から否定していこうとする懐疑的、もっというと虚無的な表現に、この人の持っている空虚さが表われているようで、西行の歌にはない深みを、むしろ想うので、私はこっちの方が好きです。

そういう私だからこそ、小林や白洲たちのように手放しで西行を賛美して、それを当然の如く語るというのとは違う語り方で、西行を語ることができるのではないかと思います。

まずは、遠回りになりますが、西行が詠んだ和歌というのは、どういうものかということから考えてみたいと思います。

【参考図書】

小林秀雄「モオツァルト・無常ということ」(新潮文庫)

白洲正子「西行」(新潮文庫)

尾崎左永子「古今和歌集・新古今和歌集」(集英社文庫)

2.和歌とは何か

和歌と短歌とは別物

西行が詠んだのは、5・7・5・7・7音形式の五句31音の定型詩です。今日の私たちは、この形式を一般に「短歌」と呼んでいます。しかし、ここでは「短歌」ではなく、敢えて「和歌」と呼んでいます。それは、5・7・5・7・7音形式の定型詩をさらに限定的に指しているからです。その限定とは、平安時代の中期に編纂された『古今集』の序文、いわゆる紀貫之の「仮名序」で「やまとうた」、あるいは「うた」とよばれている「みそひと文字」です。この場合「文字」とは仮名文字をさします。「やまとうた」という呼称は、「唐歌」つまり漢詩に対してのものであると思いますが、これについては後ほど触れます。

和歌の源流は、『古事記』、『日本書紀』の歌謡や『万葉集』などの詩歌にあります。『万葉集』には、長歌、短歌や旋頭歌といった様々な形式の定型詩があり、5・7・5・7・7音形式の短歌は、長歌やなど並ぶ複数の歌体のうちのひとつでした。『万葉集』の詩歌は、詠まれる内容に応じて伸縮自在であり、もっとも短い詩形が短歌形式でした。長歌は、5音と7音の1組を任意の回数繰り返し、最後に5・7・7音を加えて出来上がる形式です。短歌形式は、この「5・7」を繰り返さなかった形式に他なりません。つまり、詩歌の形式がいくつかあって、長歌に対して、5音と7音のユニットを繰り返さない短い形式だから短歌ということになります。これに対して、『古今集』では31音の短歌形式しか収録されていません。そこで、「和歌」は短歌を換骨奪胎し、新たな理念のもとに再形成されたものと言えると思います。それを、分かりやすい形で表わすと次のようになります。

宇多天皇のころに編纂が進められたものの、結局完成しなかった『新撰万葉集』は、平安時代の万葉集をつくるこころでしたが、そこに収められる予定だった短歌に次のようなものがあります。

奥山丹 黄葉踏別 鳴麋之 音聴時曾 秋者金敷

秋山寂寂葉零零 麋鹿鳴音数処聆 勝地尋来遊宴処 無朋無酒意猶冷

上が真仮名によって記された短歌、下に並ぶのがその歌を翻案した漢詩です。ちなみに、「奥山丹…」は次の歌です。

奥山にもみぢ踏みわけ鳴く鹿の声聞くときぞ秋は悲しき

この歌は『古今集』に収められ、後年の『百人一首』では、伝説的な歌人である猿丸太夫の作とされている歌です。

古代の人々は外から与えられた漢字の意味を一端棚上げし、日本語の一音節に同音(あるいは類音)の漢字一字をあてる方法によって、日本語を書き記したのであった。こうした表記法は、8世紀に成立した『万葉集』に集中的に見られるために「万葉仮名」と呼ばれます。それが、上で示した漢字で表記した短歌です。やがて漢字の草書体がさらに柔らかく崩されることから平仮名が生まれました。平仮名の成立は9世紀前半で、9世紀半ばにはある程度広く使用されていようです。『古今集』の多くの歌は、まさに平仮名の使用が広がり定着した時期に詠まれている。平仮名によって表記することは、人々の中にあらためて、ことばの「音」についての注意と関心を喚起したはずです。それゆえ和歌は、平仮名=表音文字を介してこそ発想される。歌とは、見方を変えれば「ひとまとまりの仮名の連なり」であり、そうした特性を生かした新しい表現や技法が開拓されました。端的に言えば、既存の言葉を文字に置き換えて風景や心象を書き記すものから、音を確実に記すという仮名の特性を最大に活かして、それまで漢字や万葉仮名では抑圧されていた日本語本来の力を甦らせたと言えるのです。

ちなみに、明治という近代化が推し進められた時代になって、正岡子規が1898年に「歌よみに与ふる書」で『古今集』“くだらぬ集にて有之候”と罵倒し、古今集の選者の紀貫之を“下手な歌よみにて”と酷評し、伝統的な和歌を全面否定した上で、『万葉集』という原点に回帰するという意味合いで「短歌」を近代化するという改革を始めました。

和歌は仮名でつくられた

日本列島における年代の確定する最古の文字資料は、西暦57年に後漢の光武帝が倭国の使者に与えたという金印「漢委奴国王」であり、これによれば日本に漢字が伝わったのは1世紀頃であったと言われています。遺跡の出土資料などから、4世紀末から5世紀初頭には漢字の使用が本格化し、列島各地に広がりつつあったそうです。古代社会の公文書は漢文によって記されているのです。つまり、当時の日本は母語に対応する固有の文化を生み出すより早く、漢字漢文の洗礼を受けていたと言えます。漢字の伝播は中央の制度や文化の普及を意味しており、漢字漢文を操ることは、日本人の思索の幅を格段に広げたのであった。

仮名は、漢字の意味を一端棚上げし、日本語の一音節に同音(あるいは類音)の漢字一字をあてる方法によって、母語を書き記した表記方法です。女手とも言われた仮名は、漢字が公文書で使われたのに対して、私的な文書で使われました。仮名文は、私的な用件(例えば、恋文)の手紙などを書くために発達した書記文体です。それが、美的な内容の和歌や物語などを書くために使用されることによって、美的な文字として洗練されました。平仮名は漢字の草書体を母体として発達したために、字形が曲線的な美しさをそなえていて、文学作品の美的な文体に適合していたと言えます。そのために、テクストの内容だけでなく、書き写した文字連鎖の美しさもまた鑑賞の対象とされたのでした。美しい内容を美しいことばで表現し、美しい文字で書き表わす、ということです。当然、鑑賞にたえる華麗な料紙が選ばれ、書の名品が無数に生み出されている。それらは、まさに総合芸術とよぶにふさわしいものであった。このように、美的表現を基軸とする仮名文で、繊細な心情を31音の短い詩形に凝縮して表現する和歌には、日本語の、もっとも洗練された語句が選択され、特有の語法や修辞が駆使されている。つまり、仮名で表記されることで和歌の特徴が成り立っているのです。

例えば、次の和歌を読んでみましょう。

        かかりひの かけとなるみの わひしきは なかれてしたに もゆるなりけり

当時の仮名は、今日の平仮名と違って、清音と濁音とを書き分けませんでした。和歌は、その特徴を積極的に生かしました。ちなみに、濁音を表わす仮名に必ず濁点を加える習慣が社会的に確立され、仮名から平仮名に完全に移行したのは、近代的な学校教育が導入されて以後のことだそうです。この歌では、、第四句の仮名連鎖「なかれて」に、ナガレテとナカレテとが重ねられています。第三句までは、自分の立場の侘しいことは舟の上で燃える篝火が水中に映る影と同じであって、という意味でしょう。第四句以下を「流れて下に燃ゆるなりけり」と読めば、篝火の影が水面の下を流れながら燃えていることの確認になるし、「泣かれて下に燃ゆるなりけり」と読めば、こっそり、人知れず泣けてきて、恋の「おも火」に燃えていることの確認になります。第二の文脈では、「篝火」と「燃ゆるなりけり」とによって、「篝火」から「おもひ」すなわち、燃えるような「思ひ」の「火」が引きだされ、表に出ない「思ひ」の火がひそかに「燃ゆるなりけり」という脈絡になっていると言えます。そうすると、この歌は、この両者の内容をともに含んだ複線的な意味内容を持っていることになるのです。

以前の漢字を当てはめる万葉仮名では、「龍(たつ)」は「多都」、「鶴(たづ)」は「多豆」というように、清音と濁音とに別々の文字が当てられていたし、平安時代の口頭言語でも清音と濁音とは音韻的に対立していたといいます。それに対して、平安初期に成立した仮名や片仮名の体系では清濁の違いが書き分けられていません。このような仮名に特有の上のような特質を巧みに利用して形成されたのが、複線構造による多重表現が、和歌の特徴です。つまり、言語は一本の線として発話され、発話された順序どおりに理解されるのが普通です。最初から最後まで一本の線として構成されること、すなわち線条性は言語の基本で、文字で書かれたテクストも、やはり、語句が一本の線として配列され、そのとおりの順序で理解されるのです。しかし、この歌のように、ひとつの書かれた言葉が複数の意味内容をもつことによって、書かれた和歌が一本の線だけでなく、複数の線の可能性を有することになる。それが複線構造による多重表現ということです。

このような複線構造による多重表現ということを、それが当然ではなくなった後世の人々(おそらく藤原定家のような平安後期から中世にかけて和歌にかかわった人々)が意識して技法として詠んだり、読んだりするために整理されたものが、枕詞、序詞、掛詞などといった和歌のレトリックであると考えられます。そこでまとめられた体系について、渡部泰明は次のように説明しています。

“和歌的レトリックの基本は言葉の二重性にある。ということが、まず第一に確認できる。一つの語句が二つの別々の働きを持つ点において、枕詞、序詞、掛詞、縁語、本歌取りとすべてのレトリックに共通する。

では、この二重性は何を意味しているだろうか。一首の文脈(言い表わしたいこと)との関係に気を付けてみよう。二重性のうち、片方は文脈の中に収まっているが、もう一方は文脈の枠組みの外に存在している。ここがポイントになる。同じ形をも二つの語が合体もしくは接着している。

同じ形。同音異義語だけでなく、全く同じ語も二語とカウントするということ。言葉の機能が二重になっている。そして二つの語のうちの一つは、和歌の中で表現したい内容(文脈)の流れの中に組み込まれていて、もう一つは、それとは別の意味や働きを持っていることが重要だ。

つまり、和歌的レトリックには、文脈と、文脈とは別の関係とが共存している。

関係とは、一語だけが文脈から突出しているのではなく、必ず別の語句との結びつきが生じていて、それが文脈とは別次元のものとなっている。

こうすることによって、和歌的レトリックは、いわば文脈という意味のまとまりの世界を破って、穴をあけている。そしてそこには文脈の外の関係を持ち込む。普通文章というものは、語句を組み合わせて一つのまとまりある意味世界を形作る。そういう間接的な手順をとってまとまりを経由することがない。だからストレートに相手に届けられる。相手は、概念化を経ることなく、その語をその場で、直接身をもって受け取るしかなくなる。歌の言葉そのものが、発せられるやいなや、ただちに存在感をもって迫ってくる。

文脈外の関係が持ち込まれるだけでは迫力をうまないが、そこに声という要素が加わる。

言葉の二重性とは、広い意味での同音異義語の重ね合わせに基づいていた。だから音の一致に支えられていた。二つの語の音が一致し、なおかつ同時にそれが出現する時、人は自然と、声を合わせて読みあげていることを想像する。複数の声が重なり合い、響き合う、そういう空間が立ち上がってくる。

どんな言葉でも実際に声を合わせて読めば、特別な雰囲気を生み出す。だからこそ、実際に声に出さなくてもそういう雰囲気を生み出せる力が、レトリックをレトリックたらしめる要因になっている。言葉の音の一致が人の声を合わることになるかということは、実際に声を出して読みあげてみれば実感できる。論理の流れからいえば容易に結びつかない言葉が強引に並んでいる。だからことを結び付ける根拠が、読みあげている自分にしかないことが、すぐに分かる。声を出している自分の身体で支えるしかない。例えば「ながながし」など、二重になった言葉の所でも自然と声がダブっているかのように感じられる。まるで自分と誰かが声を合わせているかのように、それは意識のレベルだ。

音の一致だけでなく、さまざまな方法を援用しながら、和歌がかつて歌であったという集団的記憶をかき立てる。声の一致というのは、あくまで擬制的なものであって、必ずしも本当に声を合わせる必要はない。むしろ現実に声に出したら異なってしまう掛詞だってある。合わせているかのように仕組まれていることの方が重要だ。声を合わせているかのような気分にさせる、すなわち、声を合わせることを言葉で装うということ。

そこで、和歌的レトリックは、声を合わせることを言葉で装う表現である。

実際に声を合わせなければならないのだとしたら、やっかいだ。複数の人が同じ場所にいて、気持ちを一つにする必要がある。そんな現実的な諸条件が揃わなくても、いつでもどこでも、言葉から、声を合わせているような特別な空間を再現可能にするのが、和歌的レトリックなのだ。雰囲気を作り出すだけなら、言葉でも可能だろう。具体的な場に縛り付けられるはずの一回的な行為を、普遍的なものに変換する行為をさして、「装う」という。むしろ具体性を越えて本質的なものを立ち現わすということであって、けっして表面だけのものではない。それは演技と言い換えてもいい。

まとめると、言葉の二重性を生かして、文脈と文脈外の関係を共存させ、まるで声を合わせているかのように装う。その時に何が起こるだろうか。ある意味のまとまり(文脈)が、意味が了解されることとは別個に、まるで声を合わせているかのような気分によって共有される、という現象が起こる。声を合わせるとは、他社と心を合わせるということである。したがってそこに他者と共有する空間が立ち現れることになるだろう。別に人がいようといまいと空間は存在するけれども、そういう物理的な空間ではなく、複数の人間が関係し合い、協調し合ったり反発し合ったりする、能動的な意識に満たされた空間でしかない。もちろん、声を合わせる場なんて、普通の空間とはいえない。いかにも特別な、日常生活を離れた空間だ。役割意識に満ちた演技的な空間と言ってもよい。これを私は、儀礼的空間と呼んだ。和歌的レトリックとは、儀礼的な空間を演出する言葉なのであった。”

それゆえ、現代の私たちが和歌を読もうとするときに、現代語に置き換えた解釈では一本の線になってしまうことになってしまいます。その一本の線の視点で和歌を読むと誤解を招くことになってしまう恐れがあります。 

「こころ」の<>

先ほど触れた『古今集』の「仮名序」ですが、作者の紀貫之は、そこで和歌の本質的な定義を語ります。和歌というものは「こころ」と「ことば」からなる、と彼は言います。「こころ」は、大まかにいえば、感情や感動のことで、「ことば」は和歌の言語や表現のことです。そして、この二つの関係は、生き生きと繁茂する植物の比喩によって説明されます。種は葉のもととなるものですが、そのままでは種にすぎない。それと同様に、「こころ」は「ことば」を生み出すものではあるが、「ことば」そのものではないといいます。では、「こころ」はどのようにして「ことば」になるのか?そのメカニズムの一つとして、「見るもの聞くものにつけて」つまり外在する事物に託して、みずからの思いを表現する方法が挙げられていまする。その具体的な方法が<>というものと言えます。

『古今集』の歌々は、共通する表現・発想の<>を前提として成立しています。たとえば「梅」の場合なら、百花にさきがけて咲く早春の花で、かぐわしい香りを愛でるものであり、枝では鶯がさえずり、清楚な白さを雪に見立てるというように、このような<>を共有するところから、一つ一つ異なった「かたち」を持つ歌が生まれ出るという。<>の存在は、『古今集』の和歌に多様な「かたち」を生み出させる創造力の源となっていたと言えます。これは、上で言う外在する事物に託するということで、この<>が、そのまま人の「こころ」にかたちを与える装置にもなっているのです。たとえば<花と霞>は、春の自然を切り取るものであると同時に、「霞」という邪魔者を設定することによって、「花」を愛してやまない人の「こころ」にくっきりした輪郭を与えるのです。また、<菊と霜>は、二つの景物の清らかな美しさを引き立て合うものであると同時に、そうした景物を嘆賞する人の「こころ」のかたちでもありました。つまり<>自体の中で、四季の自然と人の感情とか、一つの融け合っているのである。こうした特徴は『古今集』四季歌に通底するもので、『古今集』は、人の「こころ」というフィルターを通した理想的な四季を創造しているといえます。これは、近代以降の個人のオリジナリティーという観点からは形式的とか表面的とか陳腐といった批判をされそうですが(正岡子規の「歌よみに与ふる書」が典型です)、それは、和歌というものが儀礼の場で詠まれるという在り方も原因していると思います。歌合せをはじめとした催し物の場では和歌が詠まれるのは常で、古代の天皇は、四季折々に群臣を召し、和歌を詠ませ、その折々の風物をどう表現するかで、臣下の賢さ・愚かさを判断したのだそうです。そこで、花や月の美しさを表現するというのは、すでに個人的な感情にとどまるものでありません。花月に感動することそのものが、宮廷人としての資格を表わすのであり、それを表現するとは、宮廷人の思いを望ましい形で代弁する行為で、風物への感動の表現とは、いわば、演技されるものと言えると思います。ただ感情をストレートに表わせばよいというものではないのです。その場にふさわしいように、皆で共有できるように工夫する必要があるのです。そこでは、個人的な心情を社会化すること、社会化されたものとして感情を表現することが求められる。「こころ」とは、近代以降の個人の私的な内心とは違うものです。どうやら和歌とは、わが思いを、それと等価な意味・内容だけではないということだ。和歌には、個人の内面としての意味やイメージの世界に閉じこもらず、直接に人々のいる現実に働きかける面があるということです。そういう、働きかける力の源泉は言葉の「音」にあると思います。言葉の音であるから、正しくは口から発せられる声です。その声が合わせられる。するとそこに儀礼的な空間が生み出される。試しに、誰か他人と声を合わせて口に出してみる、そこにし、日常とは異なる空間が出現することになると思います。例えば、宴会もそうですし、声を合わせて作業をする場でもそうです。そして声を合わせている行為が、何かを演じているように思えてならなくなる。そこに、思いを共有するといったことが起こる。和歌にはそれを可能にする装置なのでもあるからです。

そこで、少し脱線します。このように近代で確立された個人の主体的な「こころ」という観点でみれば、和歌の作者たちの個性を見いだすことは、たしかに難しいと言えます。現代の私たちの目には『古今集』の歌はどれも似かよって見えるのです。それは、和歌が、個性の主要以前に、共通する表現や発想の<>によって詠まれるものだからです。そこで、例えば、有名な在原業平や小野小町といった歌人の「その人らしさ」とは、ほかならぬ『古今集』が演出したものであったと言うこともできます。撰者たちは業平や小町の歌を取捨選択し、あるときは詳細な詞書を添えて歌集の中に位置づけており、仮名序の中で的確な評言を加えてもいる。この人たちの個性は、『古今集』の編集の力によって演出されたものと言えます。逆に、業平にしても小町にしても、自身の個性を表わすことを第一に歌を詠んでいたとは考えられません。彼らは、近代の短歌の歌人のように個人の歌集を自分でまとめるようなことをしていません。そういう作家性とは縁がなかったと言えると思います。近代の歌人は別として、個人の歌集として、名を残しているのは、それこそ西行の『山家集』や源実朝の『金槐和歌集』からではないしょうか。

【参考図書】                               

鈴木宏子「『古今集』の創造力」(NHKブックス)

渡部泰明「和歌とは何か」(岩波新書)

小松秀雄「みそひと文字の抒情詩─古今和歌集の和歌表現を解きほぐす」(笠間書院)

大野ロベルト「紀貫之─文学と文化の底流を求めて」(東京堂出版)

このような和歌の伝統の上で、西行の和歌をとくに取り上げて読んでいきたいと思います。上で述べた和歌というものの性格から、一人の歌人を取り上げて、その特徴をあげつらうということとは矛盾することであることは、ご理解いただけると思います。そういうことが可能となる西行の和歌は、そういうだけでユニークであると言える、それが、私が第一にあげる西行の独自なところです。

それでは、実際に西行の代表的歌集である『山家集』の和歌を読んでいきたいと思います。なお、ここで『山家集』の全部の和歌をとりあげるわけにはいかないので、数首を選ぶのですが、その選択が恣意的となってしまうので、西澤美仁編「西行─魂の旅路」(角川ソフィア文庫)でセレクションされた中の『山家集』の和歌を中心に取り上げて、読んでいきたいと思います。その後で、西行の和歌についてまとめてみたいと思います。

 

3.実際に西行の和歌を読む

 

世にはあらじと思ひたちけるころ、東山にて人々寄霞述懐と云ふ事をよめる

空になる心は春の霞にて世にあらじと思ひ立つかな 

この歌については、白洲正子が次のように述べています。

“山家集の詞書に、「世にあらじと思い立ちけるころ、東山にて人々、寄霞述懐と云事よめる」とあるから、西行が二十三歳で出家する直前の作だろう。いかにも若者らしいみずみずしさにあふれているとともに、出家のための強い決心を表しているが誰もこのような上の句から、このような下の句が導きだされるとは、思ってもみなかったに違いない。それが少しも不自然ではなく、春霞のような心が、そのまま強固な覚悟に移って行くところに、西行の特徴が見出せると思う。その特徴とは、花を見ても、月を見ても、自分の生き方と密接にむすびついていることで、花鳥風月を詠むことは、彼にとっては必ずしもたのしいものではなかった。

世の中を思へばなべて散る花のわが身をさてもいづちかもせん

嘆けとて月やは物をおもはするかこち顔なるわがなみだかな

百人一首で名高いこの歌は、同じ百人一首の大江千里の、「月みれば千々に物こそ悲しけれ我身ひとつの秋にはあらねど」を受けているような感じがあり、それを今少し凝縮させたといえようか、−−−月は物を思わせるのか、いや、思わせはしない、それにも拘わらず、自分は月を見て悲しい思いに涙していると、反語を用いることによって引き締めている。のどかな王朝の歌が、外へ拡がって行くのに対して、どこまでも内省的に、自己のうちへ籠もるのが若い頃の西行の歌風であった。”

それでは、詞書から読んでいきましょう。“世にはあらじと思ひたちけるころ”の“世にはあらじ”は、世は、世の中つまり俗世にあらざるということ、世の中にいないということは世の中から外れる、つまり出家する。それを“思ひたちける”、思い立ったころ。そのころ、「寄霞述懐」といのは霞に関連づけて心中を述べるということで、東山というのは場所でしょうか、そこで人々と「寄霞述懐」という歌題で詠んだのが、この歌だということでしょう。ということから、この歌は、歌会でしょうか人々が集まって歌を詠む場で詠まれた歌であるということです。ここで、出家という個人の決心から派生する内心を内省的に語る歌であるのかと、私には思えます。そうであるとすれば、白洲正子の述べていることは根底から崩壊します。

また、小林秀雄は『無常といふ事』の中の「西行」で、この歌と他に数首を引用して次のように言っています。

“これらは決して世に追ひつめられたり、世をはかなんだりした人の歌ではない。出家とか厭世とかいふ曖昧な概念に惑わされなければ、一切がはっきりしてゐるのである。自ら進んで世に反いた23歳の異常な青年武士の、世俗に対する嘲笑と内に湧き上る希望の飾り気のない鮮やかな表現だ。彼の眼は新しい未来に向かって開かれ、来るべきものに挑んで、ゐるのであって、歌のすがたなぞにかまってゐる余裕はないのである。”

小林は白洲の詠みを、さらに推し進めて、主観的な思い入れを押し付けているのが明らかです。このうたのどこに“世俗に対する嘲笑と内に湧き上る希望の飾り気のない鮮やかな表現”があるのか、具体的に示してほしいものです。私は、探しましたがも見つけることができませんでした。“歌のすがたなぞにかまってゐる余裕はない”と自ら言っているのですから、小林は、実際の歌なんかどうでもいいと言っているようなもので、実際に、ちゃんと歌を読んでいるのかという疑問をぬぐうことはできません。

『古今集』の「仮名序」で紀貫之は“やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。”と述べています。和歌とは、人の心を起源として、さまざまな言葉になったもの、ということです。ここでいう「人」というのは、現代の個人とは違っていて、古典和歌で詠まれる「人」で、文脈に応じて、二人称の「あなた」の意味にも、「あの人」や「世間一般の人々」の意味にもなる融通無碍なものです。要するに「我=自己」以外は、愛する相手も見ず知らずの人も、ひとしなみに「人=他者」として把握されるというものです。古典和歌の世界では、恋しい人は「私」のものではなく、むしろ「世間の人々」とつながっていると言えます。したがって、「人」という「ことば」にこうした二重性があることから、本来「私とあなた」の個別の関係を詠じたはずの歌が、人間一般に通じる普遍性を帯びてくる場合もある。そこで、「仮名序」にもどれば、和歌の人の心の「人」とは、一人称の個人でもあり、人一般でもある。だからこそ、『古今集』で詠われる人の心、つまり心情は普遍的なものとして定型パターンになっているわけです。そう考えると、この歌で、出家を決心する強い覚悟という、他の誰でもない西行という個人に限られる内面の動きを表白しているというのは、和歌として、かなり道を外れたものであるということになると思います。敢えて言えば、和歌の外形をとっていても、「仮名序」でいう和歌の概念から外れたもの、心は和歌ではない。そのような、道を踏み外したと言えると思います。おそらく、それが西行の歌の決定的な独自性ではないかと、と私は思います。とはいえ、白洲正子のいうように、青年の個人のみずみずしい心情を、近代的なもののようにポエムとして表現しているかというと、そんな形のできたものではないと思います。足は道を踏み外したとはいえ、身体の重心は未だ道に残っている。

そういう視点で、歌を読んでいきましょう。上の句の“空になる心は春の霞にて”は、『拾遺集』の次の和歌を、ほぼ借用しているということです。

春霞立つ暁を見るからに 心ぞ空になりぬべらなる                                     よみ人しらず

春霞に喩えられる“空になる心は春の霞にて”というのは、霞の立っている空が心の中にもできてしまった。自分自身のものでありながら自身でも把握しかねる心、自分の身体から遊離してゆく心のことで、いわば「遊離魂感覚」と呼ばれる不思議な感覚のことで、万葉集のころから和歌で詠われてきたものだそうです。

下の句“世にあらじと思ひ立つかな”の“立つ”は思い立つという出家の決心をするという内容だけでなく、上の句の“春の霞”の霞立つという内容にかかっていると考えられます。“立つ”には二重の意味が掛けられているということになり、春の霞のような空になる心と世にはあらじという出家の思いは、“立つ”で結びついている構造になっています。西行個人の出家の決心という内心は、広く詠まれる空になる心という型と繋がっているというわけです。それは、たとえば、思い詰めた果てに見極めることができなかった「心」を、霞のような「空になる心」という「遊離魂感覚」で外に浮遊するように身を委ねることで出家に至るという解釈もあるようです。あるいは、「空になる心」を仏教の「空」の境地と重ねて捉えるという解釈もあるようです。どちらも、無理な解釈のように思えますが、白洲正子の述べているような、上の句に対して意外性のある下の句という読み方は無理があるのが分かる。ただし、上記のような無理な解釈がでてくるというのは、無理をせざるを得ないからともいえるので、そういう解釈を強いられるところに、この歌のこなれていないところがある。西行は、ここでは試行錯誤にいる。むしろ、そういうところを晒してしまうところに、西行という歌人の作家性を見ることができて、それが、この人の特徴であり、魅力であると思います。

【参考図書】

西澤美仁編「西行─魂の旅路」(角川ソフィア文庫)

白洲正子「西行」(新潮文庫)

さてもあらじ今見よ心思ひとりて 我が身は身かと我もうかれむ

このままではいないぞ、さあ見ていろ我が心よ、(出家への)決意を固めて昨日までの私と全く違う私の門出に

詞書には述懐の歌題を人々と5首詠んだとあり、出家の意識が高まった時に詠まれたと言います。前記の「空になる…」の歌と同じように「遊離魂感覚」を表現している歌だと言われています。

第二句の「今見よ心」は心に呼びかけている言葉です。「思ひとりて」とは決心しての意味で、出家に際して揺れ動く心を固めることを言っていて、「我もうかれむ」という出家を断行することに対して、気持ばかりが先行してしまうことを、心が身から遊離すると表わし、その心に対して「さてもあらじ」と、そうはいかない(願望だけに終わらせない)と呼びかけている。つまり、心が先に浮かれ出る(遊離する)、それを追いかけるように身も同じように浮かれ出る。そういう決心。心の浮遊するままに身も浮遊しようと心を固める、そうすることで、心の憧れるままに身の方も以前の我が身とは違う私全体が出家を実行する。かなり理屈っぽいことになっています。

普通、和歌では抒情といい心持ちを表現するという場合、例えば恋歌であれば、繊細優美な恋の情趣を歌い、完成された美的世界を形成しようとする傾向が強いものであって、この場合、和歌を詠む者は、恋をする者であり、その恋する者の立場で自身の恋を美しくうたいあげるというものでした。これに対して、「さてもあらじ…」の歌の姿勢を恋歌にあてはめてみれば、自身の恋愛に即して詠むのではなく、距離を置いて恋という心理的状況を自身と相手を俯瞰的に観察するような傾向になっているところに独自性があると思います。つまり、「遊離魂感覚」ということは、自己から視点が離れて鳥瞰的に自己を眺める視点で、これは西欧の小説のような近代文学にある絶対者の視点で物語を客観的に語るということに近いのではないか。そういう小説の心理描写のような、この「さてもあらじ…」の歌でいえば、出家に際しての心理的な心情の揺れ動きのぐずぐずするようなところを表わしているところは、西行に特徴的なところであり、後世の小林秀雄のような近代人には小説のように読むことができる点で、近しいと映ったのではないかと思います。

また、光田和伸「身の音─「西行」は読めているか」によれば、西行の特徴のひとつとして、彼の作風は新古今風の行き詰まりを打開するオルタナティブと位置付けられるというのです。当時の伝統的な古今風とは「集め、審判し、微笑む」ことに終始する作風で、つまり、あれこれ和歌を集め、それらを審判し微笑んでみせるという雅びな趣味を楽しむという洗練を極めるということは、新しい可能性を創造するものではなく早晩行き詰まることは目に見えていた。その行き詰まりに際して、当時の歌人たちは、古今風の雅な趣味に逼塞する「特権的な私」にその原因があるとして、そのように窒息し、あがいている「私」からどのように脱け出て、それに代わりうる別の「私」の姿を樹立することにあった。例えば、藤原定家とその周辺が提出したのが「看取り、見届ける私」でした。しかし、これは「集め、審判し、微笑む」特権的な「私」の焼き直しにすぎない。これに対して、西行は次元の違う西行風としか言えないような独自のアプローチを試みたという見解を提出します。それでは、西行風の核心は何かと問えば、親鸞の「歎異抄」にあらわれる生き方に通じるものだったのではないかと言う。そこでは、念仏によって浄土に生まれかわるのか、それとも地獄に堕ちるのか、それは問うところではない。法然に言わせれば、たとい地獄行きになっても一切後悔しない、という断念といってもいい、そういうところに自分は生きているという覚悟。それが趣味に閉じ籠った「特権的な私」から離脱して自由になることになる。つまり、分かりやすく説明することを試みると、古今風や、それを批判した定家たちとは「特権的な私」に留まって、その「私」を何とかしようとした。それにたいして、そういう「特権的な私」を突き放して、もう一つの私、つまりメタレベルの私が行き詰まっている「特権的な私」を客観的に眺めることができた。それが、実際に和歌を詠む現場では、和歌の身体的なリズムに積極的に乗っていく。だから、この「さてもあらじ…」の歌は、西行がくよくよ悩んでいる歌とは考えられないといいます。これは、以前に触れた白洲正子や小林秀雄の読んだ近代的個人の悩める自己の内面というものとは違って、もっと力強い表現と言えると思います。

【参考図書】

西澤美仁編「西行─魂の旅路」(角川ソフィア文庫)

光田和伸「身の音─「西行」は読めているか」(『文学』2002年3・4月号)

世の中を捨てて捨てえぬ心地して 都離れぬ我が身なりけり

出家して間もない頃の作品だそうです。世の中を捨てたつもりだが、どうにも捨てられないでいる私だ。こうしてまだ心には都のことが懐かしく忍ばれるのだから、という現代訳で親しまれている歌です。

似たような歌を下にあげておきます。これは出家に際して詠んだ歌で『詞華集』によみ人知らずでおさめられたそうです。

身を捨つる人はことに捨つるかは 捨てぬ人こそ捨つるなりけれ

「捨つ」という語を畳み掛けるように繰り返して、捨てることの微妙な差異を表現しています。同時に、繰り返すことで反復のリズム感をつくりだし、ある種の軽さ・俳諧味を感じさせる。そういうところに、これらの歌の共通性があります。一般に西行の活躍した時代は藤原定家と同じ『新古今集』の時代と呼ばれます。その『新古今集』の特色のひとつとして、初句切、三句切、体言止などの句法があります。西郷信綱は、この句切れから生まれるリズムについて、五・七・五の上の句と七・七の下の句に一首が分れ、上の句と下の句とが互いに反発・照応し独特なリズムを生み出すと指摘していす。この歌では、上の句は「かは」という疑問形で区切られています。そして、下の句は「けり」という詠嘆の助動詞で結ばれています。「けり」の詠嘆というのは、それまで気付かずにいたことに初めて気付いた気持ちを表す用法で、その驚きが強いとき、詠嘆の意が生ずるのです。この歌は上の句で問いかけ、それに対して、自分で答えを見つけたという自問自答の体裁をとっています。その回答は、自分で気づき、驚いたということは、気づくまでに時間がかかっていることを示唆しています。上の句と下の句では時間の隔たりがある。つまり、直接スムーズに繋がっていない。その隔たりが内省しているという思索的なものを感じさせるようになっている。このような自問自答の体裁の歌は、西行の作風の特徴のひとつと思います。

この歌に影響を与えたと思える次の歌には、自問自答の体裁はありません。

心には心をそふと思ひしに身は身をしぼるものにぞありける

源俊頼「散木奇歌集」

それでは

世の中を捨てて捨てえぬ心地して 都離れぬ我が身なりけり

に戻りましょう。『山家集』には、この歌と前後して「捨てる」ということにこだわった歌が並べられています。

前には

捨てたれど隠れて住まぬ人になれば なほ世にあるに似たるなりけり

後には

捨てし折の心をさらに新ためて 見る世の人に別れ果てなん

このように何首も、捨てる捨てないという歌が並んでいるのを見ると、読者は、西行が出家に際して深刻に悩んだということを想像することに導かれます。捨てるべきか捨てざるべきかという二者択一をめぐる問いに、青年西行は、数年を費す切実な課題だったという物語を生むことになります。この頃、つまり出家前後の西行の歌に独白あるいは自問自答の表現形式をもつものが比較的多いのは、この時期、彼が、身の在り方や心の在り方について深刻な思いを巡らした。そこから、数多く詠まれた西行の歌に内面の思索の跡を見いだすようになる。数多く詠まれた自問自答や独白の、しかも流麗さや優美さを欠いた一見拙い歌が、論理的、思弁的に聞こえてくる。それが、それまでになかった内省的な印象を読者に与え、今までの和歌との差別化を生んだのだと思います。

【参考図書】

西澤美仁編「西行─魂の旅路」(角川ソフィア文庫)

西郷信綱「岩波講座日本文学史」第6巻:中世V

世を逃れて伊勢の方へまかりたりけるに、鈴鹿山にて

鈴鹿山憂き世をよそに振り捨てて いかになりゆく我が身なるらん

詞書によれば、出家遁世を果たした後に都から伊勢の地に下向する途次、鈴鹿山に至った時の灌漑で、「都を捨てて鈴鹿山を越える。なりふり構わず憂き世は振り捨ててきたが、明日の我が身はどうなるというのだろう。」と和歌文学大系では解釈されています。それで、出家遁世後の自己の感慨を表白したものということになります。

詞書から見ると、「世を逃れて」は出家遁世してという意味で、これは時期的なものと、出家遁世をした生々しい意識、たとえば、そこに出家をした先への不安とか迷いのようなものが含まれる、そういう状態にあって、この歌を詠んだ「鈴鹿山」は、地理的には都と伊勢とを分かつところとして、ここを越えると都に引き返すことができなくなる。心情的には、出家遁世の迷いにあって引き返す(出家を止めて世俗に戻る)ことのできない一線を越えることに比喩されるという解釈もあります。

そういう鈴鹿山の読み方の先駆として源俊頼の影響は考えられると思います。

鈴鹿山関のこなたにとしふりてあやしくも見のなりまさるかな

おともせでこゆるにしるし鈴鹿山ふりすててけるわが身なりとは

ふりすててこえざらましに鈴鹿山あふぎの風のふきこましかば

これらの「散木奇歌集」の歌では鈴鹿山を境界として捉えている点で、西行の歌と共通点が見られます。「鈴鹿山関の…」の歌では、鈴鹿山を伊勢への入り口として捉えた上で、伊勢に滞在する自身を「関のこなたにとしふりて」と表現しています。「おともせで…」の歌では、鈴鹿山は都と伊勢との中間に位置する境界点として捉えられています。俊頼にとっての鈴鹿山はかつて自分が身を置いていた都と、現在の自分が身を置いている伊勢とを隔絶する存在で、「あやしくも見のなりまさるかな」や、「ふりすててけるわが身なりとは」という感慨、つまり老いた身でありながら僻遠の地に暮らすという歎きを告白するためのものだったと言えます。同じように、西行の歌で「いかになりゆく我が身なるらん」という述懐も、鈴鹿山が旅程における分岐点であり、来し方を振り返り、行く末を思いやるのに相応しい場所で、このような感慨を表白するのに相応しい場所だったと言えます。

和歌において「鈴鹿山」という場所は、歌枕としても捉えられており、「鈴鹿山」の「鈴」が鳴るということから「なる」、あるいは鈴を振るということから「ふる」という言葉が縁語として歌作りに利用されています。この歌でも、「いかになりゆく」には「鳴る」がかかり、「振り捨てて」とともに「鈴」の縁語となっています。そこで、境界という鈴鹿山という現実の場所に、和歌的な気持ちの移ろいという異質な世界が重なって同時的に存在しているといえます。「憂き世をよそに振り捨てて」には、自分の持っているすべてを振り切ろうという切迫感を読み取ることができる一方で、軽やかな鈴の音色が伴うものとなっている。この歌の解釈には、未来への明るい希望をよむか、将来への不安感を強調するかで意見が分かれているといいますが、そのどちらかというわけではなく、両方であると思われます。つまり、不安な心を和歌の伝統に身を委ねることで足取りまで鈴の音のように軽やかな旅人を演じようとした。そのちょっとした背伸びの心の隙間に、不安が忍び寄った。したがって、最初に述べた解釈の西行の個人的な信仰の迷いのモノローグとは、ちょっと違うのではないかと思います。

また、下の句「いかになりゆく我が身なるらん」は和歌の論理として連なる他の作品たとえば

世の中はいかになりゆくものとてか 心のどかにおとづれもせぬ

(和泉式部集)

この歌の詞書には、世の中が騒がしくなったころ、訪れの絶えた人に贈った歌とあります。世の中の二重性を利かせて、男のあなたにとって世の中の騒がしさは政局の不安定などかもしれないが、女の私には、あなたとの直接的関係だけが世の中なのだと言わんばかりです。西行の和歌は、この王朝の女の「(なりゆく)世の中」を受け継ぎながらも、より直接的に、しかも、肉感的に自分自身の肉体に向かって問いかけているというわけです。つまり、出家して「世の中」を捨てると「我が身」はいかに無防備に晒されるものか、と。この歌自体が揺れ動いているといえるのです。

和歌では恋歌にかぎらず、風景を詠んだ歌でも、恋愛について、その諸相を繊細に表現しているのを、西行は、それを出家、つまり信仰に移し変えたと言えます。とくに、恋愛と言っても、和歌は恋の迷いとかかなわぬ恋とか失った恋といった悲劇的な面に注目して重点を置くのが和歌の特徴で古今集に収録された恋歌のほとんどがそういう歌です。西行の和歌には、この作品のような出家することへの迷いや不安が色濃いですが、そういう和歌の形式的な特徴による点が大きいと思います。それを、西行の青年の人生の悩みというような近代文学の青春の悩みのように受け取って共感してしまう(例えば小林秀雄)こともあるようですが、もっと形式的なものではないかと思います。しかも、恋愛は、必ず相手がいるので、ダイアローグになります。それに対して信仰告白はモノローグが基本です。しかし、恋愛で用いられた表現を移し変えたので、モノローグにならずダイアローグを持ち込んだ。それが、この和歌では、掛詞や縁語といった技法を使っているところに象徴的に表われていると思います。これは、ミハエル・バフチンがドストエフスキーの「地下生活者の手記」の主人公のモノローグをダイアローグ的と評したのと重なるのではないかと思うのです。

また、この歌は『山家集』の他にも、例えば『新古今集』にも収められています。この歌は17巻の雑歌に収められ、次の2首が続き、3首セットで配列されています。

題しらず                              慈円

世の中を心たかくもいとふかなふじの煙を身のおもひにて

あづまのかたへ修業し侍りけるに、ふじの山をよめる          西行

風になびく富士の煙の空にきえてゆくへも知らぬ我が心かな

“世捨て人西行の動揺する心の表白、慈円の思いの火としての表白、西行の富士の煙のように果てなしなき思いの表白である。この三首は、山という配列の面からも、出家者の心の表白という内面の連関しても見るべきものがあり、西行的なものが一層生彩を放っているようにも思われる。(糸賀きみ江「新古今集雑部における西行歌の位相」)”このように出家者の心の表白という内面の連関が3首にはあると思います。しかし、それだけでなく、西行による2首。ひとつは出家後間もなくの頃の、言わば西行の出発点に当たる時期の作品と、もうひとつは晩年近くの西行の到達点を示す作品が、慈円の歌を軸とする形で対置的に置かれている。もう少し踏み込んで言うと、西行の「鈴鹿山」の歌は既述のように出家したものの我が身の行く末を案じていろところが表わされているものです。続く慈円の歌。私は身の程も弁えず、この世を厭離しようとしている。富士の煙に思いを託して、と出家者としての慈円の身の思いを示したもの。そして、3首目の西行の「風になびく」の歌は、西行自身が「これぞわが第一の自嘆歌」としたもので、下の句、4句目の「ゆくへ」を詠うとき、「鈴鹿山」の歌でどのようになっていく我が身であろうかと、自分の行く末を問いかけていたのに、その行く末は富士の煙と同一視され、「ゆくえ」の分からなくなってしまうものであることを悟り、まるで人生の答えを出したようでもある。つまり、『新古今集』の編者は、そういう西行の歌を正しく解釈して、あえて3首の組み合わせでセレクションしたのだろうと思います。

【参考図書】

西澤美仁編「西行─魂の旅路」(角川ソフィア文庫)

中西満義「西行の鈴鹿山の一首について」

糸賀きみ江「新古今集雑部における西行歌の位相」

橋本美香「西行」(コレクション日本歌人選)

 

あくがるる心はさても山桜 散りなんのや身に帰るべき 

この歌の現代語訳は、たとえば、このようなものがあります。“花にあこがれ、さまよい出る心はそれとして留めることができないとしても、山桜が散ったあとには、私の身体に戻って来るものだろうか。”これは、使われている単語は現代の言葉でしょうが、文章は意味不明で、何を言っているのか分かりません。それでも、西行の桜を詠んだ歌というと、この歌はセレクションされることが多いようで、おそらく「あくがるる心はさても山桜」というストレートに心情を吐露したように見える表現の雰囲気が気に入られてしまったのでしょう。

「あくがるる」という言葉は、あるべき場所を意味した古代語「あく」から「離る(かる)」ことを言い、そこから、心が何かに惹かれてその方向にさ迷い出ることや、心が落ち着かずいらいらすることという意味になるそうです。したがって、「あくがるる心」は、心が体から遊離していくことを意味します。「空になる心は春の霞にて世にあらじと思ひ立つかな」の「空になる心」と同じような遊離魂感覚による表現です。

久保田淳の「西行の『うかれ出る心』 について」では、次のように説明されています。

花月への讃歌や旅の歌、更には出家前後の一連の述懐歌の基調を成すものを、もしも「うかれいづる心」乃至「あくがる心」という風に表現できるとすれば、これは方向の上ではこれ (王朝女房文学に代表される、恋歌の基調をなす「物思ひ」という、内へ内へと沈潜し屈折してゆく心理)とは正反対の志向、即ち外へ外へと駆り立てられ浮動する心理ということができる。しかしながら、外へ浮動するといっても、それは身体の外へということであって、自己の喪失を意味するものではない。むしろ、身体から切り離されて自己の心だけが純粋な形で取り出され、曝されるという点では、心理的傾向は身体の苦痛まで伴いかねない恋歌の懐悩の場合よりも一層強められていることに注意すべきである。かれは「うかる」といい、「あくがる」といいながら、うかれ、あくがれて忘我の境に遊んでいるのではない。いな、うかれ、あくがるという状態において最も純粋に自らの心、我と対しているのである。

この「あくがるる心」は、内へ内へと沈潜し屈折してゆく「物思ふ」という心理状態とは正反対の志向を示すものですが、二つは何等矛盾するものではなく、深い「物思ひ」の果てにうかれ出た「心」が、やがては「身」に戻り、それが以前よりも激しい「物思ひ」を「心」に強いるというように、西行の「あくがるる心」は円環的な構造において捉えらるものと考えてもいいものです。

この歌が収められた『山家集』では、この歌の前後には

吉野山梢の花を見し日より 心は身にも添はずなりにき

花見ればそのいわれとはなけれども 心の中ぞ苦しかりける

の2首が並べられています。「吉野山梢の花を…」の歌では「梢の花」は「梢」と「来ずえ」を掛けた表現で、来ずという遠さを含んでいて、詠者の住んでいる都からはるばると吉野山まで花を訪ねてやってきた意味を含んでいます。何日もの旅を経て遠くの尾根に花らしい白いものを見いだしたその一瞬に、「心は身にも添はずなりにき」という心が身体から離れて、私は私でなくなる。また、「花見れば…」の歌では、「そのいわれとはなけれども 心の中ぞ苦しかりける」では、忘我の状態の心の中が苦しいとしています。花が心を苦しめているのではなく、私自身が私を苦しめている。それは心と身体と私が分裂しているからこそ言えることでしょう。

この2首に前後を挟まれて位置しているこの「あくがるる…」の歌は、山桜に憧れるあまりに、心を奪われ忘我の状態となります。「さても山桜」に「さても止まず」を掛けて、そのように花に心奪われること自体は、自分の性情だからやむをえない、とあきらめてしまっています。それでもせめて花が散ったら、身体から離れて浮遊する心が「(我が」身」に帰ってくるのかと自問自答するのです。

なお、花が散った後で心が身に帰ることについて、西行は次のような歌も詠んでいます。

散るを見て帰る心や桜花 昔にかはるしるしなるらん

「散るを見て帰る心」は、花が取り終わる見届けために、花への心残りは静まってくることを表現しています。

あるいはまた、次のような歌もうたっています。

散る花を惜しむ心や留まりてまた来む春の種となるべき

花を惜しむ心が花の散った木の下にそのまま留まると表現しています。

なお、山折哲雄によれば、このような遊離魂感覚は、日本人に精神の根底に流れるものだとして、近代短歌の石川啄木の短歌にも見られると指摘します。

不来方のお城の草に寝ころびて

空に吸はれし

十五の心

啄木が盛岡中学でストライキをおこし、退学するころの作で、少年の青臭い倨傲の自我が、真青にひろがる空のかなたに吸いこまれて、一瞬希薄になっている。この「空に吸はれし 十五の心」が、自分のからだから遊離していく心、あるいは遊離していく心の残像であった。 

【参考図書】

西澤美仁編「西行─魂の旅路」(角川ソフィア文庫)

橋本美香「西行」(コレクション日本歌人選)

久保田淳「西行の『うかれ出る心』 について」(「国語と国文学」42巻3号)

山折哲雄「『歌』の精神史」(中公文庫)

花に染む心のいかで残りけん 捨て果ててきと思ふ我が身に

西行は出家して、しばらくして都を出て、吉野で草庵をむすび暮らしたといいます。その頃の歌ということで、白洲正子は西行が吉野に籠った理由を、待賢門院への思慕から解放されるためだったといいます。彼女の面影を桜にたとえたと。

うきよには留めおかじと春風の 散らすは花を惜しむなりけり

諸共にわれをも具して散りぬ花 浮世をいとふ心ある身ぞ

桜への讃歌は、ついに散る花に最高の美を見出し、死ぬことに生の極限を見ようし、「諸共に…」の歌では、桜と心中したいとまで謳っていると言います。これらの歌を白洲は待賢門院の死を、散る花の美しさに喩えた感情移入していると言います。そこで、この「花に染む…」の歌は、心ゆくまで花に没入し、花に我を忘れている間に、いつしか待賢門院の姿は桜に同化され、花の雲となって昇天する。それによって西行は恋の苦しみから解放される。そういう歌だといいます。私には、それはフィクションの後付けに引きずられているように思います。ただ、和歌の読みが物語を生んで、それが歌の内容を豊かにしていくのは、伊勢物語の例もあるので、否定する気はありません。

白洲正子の読みは、かなりロマン主義的で主観的な思い入れの強いものだとは思いますが桜の花への没入を詠んでいるということには変わりなく、その没入をどう解釈するかで、白洲は主観的に傾いている。ただし、歌を読むということは、個人が、その時によって、それぞれに意味をとればいいことなので、それが間違っているとは言えません。ただ、それではこの歌の魅力的な味わいが見落とされてしまうおそれがある。

たとえば、この歌では上の句では「残る」と、下の句では「捨てる」という正反対の方向の動作が対句のように使われています。それが、心の動きの一筋縄にはいかない、あっていったり、こっち向いたりして揺れ動くという動きのダイナミズムを持ち込んでいます。

あくがるる心はさても山桜 散りなんのや身に帰るべき

では、花に憧れて心が彷徨い出ることと帰ることとが同じように対句的に使われています。

この「花に染む…」の歌では、この後で「心はいかで残りけむ」と「いかで」つまり、どうしてという疑問とも反語ともとれる言葉を差し挟んでいます。したがって、最終的には白洲の言うような花への没入を肯定することにはなるのでしょうが、そこに留保のワンクッションが置かれている。そのワンクッションの間の心の揺れ動きが動きとして表現されているのが、この歌ではないかと思います。それだからこと、この歌を読む人は、この動きに導かれて同化するような感覚に捉われる。

そうすると、読んでいる意味合いが白洲の場合とは違ってくると思います。今この時は桜の木を見ながら、この花の美しさに耽溺していたい。そう思う心、出家をしてすべての執着心を捨て去ったはずの自分自身の中に残っていたことを認めざるをえない。そう自省している。しかし、それに対して、この歌では何とも言っていません。否定も肯定も明らかにしていないのです。花の美しさへの執着を捨てきれないことを嫌悪するでもなく、かといって開き直るでもない。そのどちらでもない姿勢は結びの「我が身に」の「に」という助詞で投げかけるような終わり方をして、断定していないところに表われています。そのどちらでもないところが、強いて言えば、西行の特徴と言えるかもしれません。

これをどのように解釈するかには、読む人によって分かれると思いますが、とくに決めつけることはないと思います。例えば、花の美しさに感動するだけでなく、人と共に喜び、人と共に泣くという人の心は失わず、感動する心は捨てていないという境地を詠んでいるという解釈。あるいは、花の美しさへの執着に対する徹底的な罪業意識を突き詰めたあげく到達した解脱の境地への道という解釈。こういう結論というよりも、結論の前の中途にいるというところで読んでいる方が似合っていると思います。

【参考図書】

西澤美仁編「西行─魂の旅路」(角川ソフィア文庫)

白洲正子「西行」(新潮文庫)

少し脱線しますが、西行の待賢門院への思慕という物語では、例えば次の歌

なにとなく芹と聞くこそあはれなれ 摘みけん人の心知られて

何となく芹というのは哀れなものである、それを摘んだ人の心が思いやられて、と単純に読むことができますが、この「芹」というのが、源俊頼の「俊頼脳髄」でも芹摘みの故事と紹介されていることです。

芹つみし昔の人もわがことも 心に物はかなはざりけり

(古歌)

昔、宮中で庭の掃除をしていた男が、にわかに風が吹き上げた御簾のうちで、后が芹を食べているのを垣間見て、ひそかに思いを寄せるようになった。何とかして今一度彼女の顔を見たいと思うが、卑賤の身ではどうすることもできない。もしかしたら気がついてくれる時もあるかもしれないかと、毎日芹を摘んで御簾の傍らに置いていた。それを長年続けていたが、反応はなく、男は恋患いになって死んでしまった。

西行の歌は、この「芹つみし昔の人」の心を自分の心に重ね合せて詠んだと、そして、この故事の后を待賢門院に擬して詠んだと、例えば、白洲正子などは解釈しているようです。宮中の高貴な女性に思慕する身分違いの武士、叶わぬ恋というのは、作家や論者の魅力的な対象なのだろうと思います

 【参考図書】

白洲正子「西行」(新潮文庫)

山本幸一「西行の世界」(はなわ新書) 

おしなべて花の盛りになりにけり 山の端ごとにかかる白雲

この歌は『山家集』に収められた歌ですが、その後『御裳濯河歌合』にも収められました。

西行は、晩年になると、それまでに作りためた自分の歌を集めで自歌合を作り、伊勢神宮の内宮と外宮に奉納したといいます。このようなことは西行以前には例のなかったことだそうです。しかも、西行は単に自分の歌をまとめて奉納するだけでなく、当時の歌壇の巨匠で旧知の藤原俊成や藤原定家に批評の言葉、つまり判を求めました。これについて、目崎徳衛は次のように解釈しています。仏道という宗教生活と歌道という文学という異なった道に志した西行は、最晩年、仏道に没入しきれなかった過去について「年来の数奇生活の総決算」あるいは「自己の歌道生活からの総決算」をしようと試みた。そのために数奇の道への決別に当たって歌壇への置き土産にしようと和歌奉納のための判を求めた。つまり、都の歌人たちとのやり取りは「数奇への執念」から出た行為である。このような宗教と文学という二つの矛盾するものの間で悩む文化人という西行像を批判して、桑子俊雄は次のような解釈を提示します。西行の中で仏道と歌道とは決して矛盾するものではなく、それどころか仏道と歌道を究極的なすがたで統合しようした。そして、この歌合の神宮奉納は西行の仏道修行のひとつの完成であり、西行が到達した最高の宗教的境地と言える。ここでは、仏道と歌道の両者が相互に不可欠な存在となり、一体となっていると。私は、紹介した二つの解釈のどちらかを採るというつもりはありませんが、いずれにせよ、その歌合に収められた、この歌は単に花盛りの景色を詠んだというだけに留まらない、何かを含んでいるという歌で、そのことを西行自身も意識していた、と想像するのは、あながち的外れとは言えないのではないでしょうか。

その上で、歌を読んでいきましょう。下の句の「山の端ごとにかかる白雲」は、花を雲に見立てた伝統的な手法で、見渡す限りの山々が、一様に白雲を抱えているように見えるが、そのすべてが「花の盛り」であることを、何の疑いもなくおおらかに確信しているように映ります。そこには、花ではないかもしれないとか、今に持ち散るかもしれないというような不安もなければ、わが身に立ち返って、花を見ることの罪とか後ろめたさを意識することさえもない。自分の周囲がすべて花に埋め尽くされて今を極めて冷静に、ほとんど平常心でとらえている。そこから破綻のない美しく整った調べが生まれています。しかし、実際の吉野の桜咲く山々を見渡して、これほど眺望が見られるでしょうか。ここでは、花のユートピアが仮構されていると言ってもいい。それは、同じ『御裳濯河歌合』に収められた吉野の桜を詠んだ次の歌もそうです。

なべてならぬもよの山辺の花はな 吉野よりこそ種は散りけめ

これらの吉野の花の詠んだ西行の歌の群れは花のユートピアとしての吉野を中核とした曼荼羅を形成しているように見えます。そこには宗教的といってもいい神秘性があると思います。とくに、この「おしなべて…」の歌は、その破綻がなく整っています。そこには、すべてを払拭した冷静な平常心、これは仏教の悟りの境地に重なると言えるのではないでしょうか、に裏打ちされた、花の調和、心の調和、歌の調和で、この絶妙なバランス感覚は、相反する指向性を持った和歌と仏教という二つそれぞれに、果てしのな魅力を見出してしまった西行が、地平線のはるか彼方に見届けようとした平行線の交差点、その微妙なバランスの一点を示している。そういう歌だと思います。

【参考図書】

西澤美仁編「西行─魂の旅路」(角川ソフィア文庫)

目崎徳衛「西行の思想史的研究」(吉川弘文館)

桑子俊雄「西行の風景」(NHKブックス)

吉野山ふもとに降らぬ雪ならば 花かとみてや訪ね入らまし

吉野山に降る雪がこの麓にまで降らなければ、桜の花びらが散っていると思い、桜を探しに分け入っていくであろうよ。という、この歌は、西行が桜の花を繰り返し詠むことによって、吉野は桜として定着していたことから、花を詠んだ歌と間違えそうになりますが、雪を詠んだ歌です。

吉野の雪を桜に見立てた歌を詠んだのは西行が最初ではなく、素性法師の次のような屏風歌があります。

白雪の降り敷く時はみ吉野の山下風に花ぞちりける

この歌は、屏風歌なので、明らかに実際の吉野を見て詠んだ歌ではない。そのため、吉野山の麓に雪が降り敷くことを、麓に吹く風に花が散っているようであろうとしたものです。これに対して、西行は、吉野の桜が山頂を中心に広がっているということを熟知していたから、桜のことを「ふもとに降らぬ雪」と詠むことができたのです。西行のこの歌は、吉野の雪を冷静に観察したからこそ詠めたもので、素性法師のように歌の技巧として桜に見立てるという表現をしていません。「あくがるる心はさても山桜 散りなんのや身に帰るべき」の歌をはじめとして、桜に対する思いは、桜に留まり続けるとよんでいたのを、この歌は裏付けるかのように、吉野の雪を見ても桜であればいいのにと空想していることが詠まれている。

 【参考図書】

橋本美香「西行」(コレクション日本歌人選)

 

吉野山梢の花を見し日より 心は身にも添わずなりにき

吉野山の梢に咲く桜の花を遠くに見た日から、花に心が奪われ、心が身に添わなくなったと言う和歌です。これも、西行の歌に多い桜の花を詠んだ歌で、西行がどれほど桜に心惹かれていたかを示しています。

桜の花を愛でる姿勢は、西行が追慕した能因や花山院、行尊といった人々にも共通するものだったと言います。例えば能因には

桜咲く春は夜だになかりせば 夢にも物は思はざらまし

花山院

覚つかないづれなるらん春の夜 闇にも花を折りみてしがな

行尊

諸共にあはれと思へ山桜 花より外に知る人もなし

というように、それぞれが桜への愛着を詠んだ歌があります。

ところで、西行の時代の桜は、現代の私たちが見慣れているソメイヨシノではありませ。んでしたソメイヨシノは江戸時代に末期に、江戸の染井という場所で品種改良されてつくられた新種だったのです。ソメイヨシノの特徴は一気に咲いて一気に散るという集団的な性格の強いもので、一本一本の樹の個性というのが稀薄であまり見られないところがあります。これに対して、西行が好んだ吉野の桜は、主に山桜で、開花も吉野山の桜が同時に一斉に咲くのではなく、それぞれの樹が別々に咲くという個性があって、それはまた、花の大きさ、色合い、数などがすべて違っているのです。

吉野山去年のしをりの道変へてまだ見ぬ方の花を尋ねん

という西行の歌は、去年とは違う山の奥にまだ見ないかもしれない桜を探して、桜を見尽くしたいと詠んでいて、そこには桜の個体差があるからこそ、違うということをヴィジュアルに詠むことができると言えます。それは、西行が吉野に庵を結んだり、何度も訪れたりして、実際に吉野の桜を見ていたから詠むことができるとも言えるのです。というのも、平安時代の吉野山は、山岳信仰の霊地として、めったに人を近づけなかったのです。そこは険しい行者道や杣道が細々と通っているだけの険阻な秘境でした。だから、吉野の桜を和歌に詠むとしても、都の貴族には、実際に吉野山の桜を見ることは稀で、遠望するか、話に聞いたのを参考に詠むことしかできなかったと言えます。これに比べて、西行は、吉野山の桜の懐深く推参し、実際に花に埋もれて陶酔することができたからこそ、他の歌人にない、様々なヴァリエィションの桜の歌を創作することができた、と言えるのです。

 【参考図書】

橋本美香「西行」(コレクション日本歌人選)

白洲正子「西行」(新潮文庫)

山本幸一「西行の世界」(はなわ新書)

夢中落花と云事を、清和院の斎院にて人々よみけるに

春風の花を散らすと見る夢は さめても胸のさわぐなりけり

この歌について、小林秀雄は“私達の胸中にも何ものかが騒ぐならば、西行の空観は、私達のうちに生きてゐるわけでせう。まるで虚空から花が振って来る様な歌だ。厭人も厭世もありはしない。この悲しみは生命に溢れてゐます。この歌を美しいと感ずる限り、私達はめいめいの美的経験のうちに、空即是色の教へを感得してゐるわけではないか。(小林秀雄「私の人生観」)”と書いている。この小林の言葉をもとに山本幸一は、落花の風景に魅せられた耽美の体験が、覚醒した者の胸に鼓動している。そういうことを受け入れ、のびのびと詠嘆する。そういう高い境地の歌だと言います。その風景は情緒をふるえさせるとともに、知恵を目覚めされる。そして再び心情のさやぐ風景へと高められていく。詩心と思念との融合によって達成されたひとつの境地だと言っています。しかし、このような表現の境地は、なにも西行の独創というのではなく、春─花─散る─夢というような符号、連想の系統が和歌表現の伝統として存在していたと言います。

例えば『万葉集』の山部赤人の歌

春の野にすみれ採みにと来しわれそ野をなつかしみ一夜ねにける

そして、『古今集』では紀貫之の歌

春の野にわかなつまむとこしものを ちりかふ花にみちはまどひぬ

やどりして春の山べにねたる夜は 夢のうちにも花ぞちりける

『古今集』では上記の二首がひとつづきに並んで収められていて、制作年代も詠まれた場所も別々のこの二首が時間的に場面が進行するような情趣の流れが感じられるように構成されています。『万葉集』の山部赤人の歌の「すみれ」は、紀貫之の歌の「わかな」に引き継がれ、赤人の歌では生活の一部であったすみれ摘みは、紀貫之の歌では、平安時代の貴族社会では行事として形式化つれ、しかも季節の循環を区切る行事の世界から埒外に脱け出た個人の情感が「ちりかふ花にみちはまどひぬ」という表現に表われています。さらに、「夢のうちにも」という甘美な情趣に身も心もつつまれた表現に至るのです。

西行の独自性とは、この伝統に思念の裏付けを加えたことだと言います。「さめても胸のさわぐなりけり」という表現は、夢の中にまどろんでいることから脱け出して、目覚めているわけです。そこでは趣向ということに留まっていないというわけです。

ここで、この歌の詞書を見てみましょう。「夢中落花と云事を、清和院の斎院にて人々よみけるに」というのは、この歌は夢中落花のテーマで、人々が集まったところで詠まれたというもので、実際に夢を見ていたというのではなく、そういうことを観念として詠んでいるという歌です。また、詞書の「清和院の斎院」というのは待賢門院の皇女の上西門院(統子内親王)というひとで、西行の憧れの女性と言われる待賢門院を偲ばせる美しい女性だったと言われています。そのサロンで詠まれたということは、夢中落花を今は亡き待賢門院を夢に見るということと重ね合せて、この歌の「さめても胸のさわぐなりけり」を待賢門院を夢に見て、胸が騒ぐという物語を起こすという読みもできる可能性もあるので、西行は、そういう読まれ方も考えていると、私には思います。私には、そういう意図的なところ、ある意味ケレンに近いところが、後の世の現代の私のような人間にとっての親しみ易さになっていると思います。

 【参考図書】

小林秀雄「私の人生観」(角川文庫)

白洲正子「西行」(新潮文庫)

山本幸一「西行の世界」(はなわ新書)

たつ春の朝(あした)によみける

年暮れぬ春来べし思ひ寝に 正しく見えて叶ふ初夢

「山家集」の巻頭歌で、ページを開くと、まず目にとび込んでくる歌です。はじめという意味合いか、年の初めの歌です。詞書では立春の朝に詠んだとあるので、新春の朝、つまり年の初め日のはじめの時に詠んだ歌ということです。

この歌は、体言止めの結びの言葉からも分かるように「初夢」を詠んだ歌です。しかし、現代の私たちの常識では、初夢は元旦の夜、つまり新年の最初の夜に見る夢です。ところが、この歌は詞書によれば立春つまり元旦の朝に詠んでいます。それでは、元旦の夜に見た夢を詠むことはできないはずです。そのため、この歌でよまれている初夢は、節分の夜から立春の朝にかけて、その間の眠りで見た夢ということになります。

歌に戻りましょう。この歌は「年暮れぬ」と初句切れになっています。したがって、「年くれぬ」と「春来べし」が対比構造になっています。ということは、節分のある前の年と立春から始まる新しい年とが対比的に扱われている。そして、上の句と下の句が対比的に扱わる二重構造になっているのです。つまり、上の句では節分の夜の寝る前の現実の時点で、その年という現実とこれから来る春という将来(これが夢と重なります)を思って寝る。そして下の句では歌を詠んでいる初春の時点で、上の句から見れば将来あるいは夢ということになりますが、下の句の時点では、それがすでに現実になっています。それが下の句の「叶ふ」つまり実現するという言葉が表しています。ということは、上の句で思っていた夢が下の句では現実に叶うことになる。つまり夢=現実ということになります。この歌全体の二重構造が節分から立春への時間の経過と、現実から夢を思い、それが現実化するという夢と現実の二重の二重構造になっています。ただし、夢が現実化するといっても、それが夢かリアルな現実なのかあいまいです。

そういう正夢のあり方は、西行以前の歌でも詠まれていました。

思ひつつ寝つれば見えつ春の夜の まさしき夢にむなしからずな

『兼盛集』

あなたに逢いたいと念じながら眠ったら夢で逢えました。春の夜の夢は正夢になるというが、この夢も夢のままで終わりたくない。本当に逢いたい、という歌です。この歌で、「春の夜の夢」は正夢になるという考え方を導入して、「思ひ寝」も「春の夜の夢」のように正夢になって欲しい、と詠んだのを受けて、その「思ひ寝」のように正夢になって欲しい、と詠んだものでした。夢というのは本来非現実なもので、それがリアルなものとなるとはいっても、それは夢が現実になるというより現実が夢に取り込まれるというような、夢と現実の境界があいまいになる、という性格のものです。

では、この「年暮れぬ…」の歌では、何を思って、つまり欲したのでしょうか。初春に桜の開花を見たいという説もあるそうです。しかし、立春には桜は無理で、正夢になるのは無理です。そこで、春の女神との逢瀬そのものを夢で見たと解する説のほうが、この歌には適していると思います。そこでは、上で引用した兼盛の歌を踏まえたとすると、この歌の「思ひ寝」というのが思う人を抱くということが想像されます。つまり、女神を犯すという破戒行為を幻想とすることで逆に聖性を獲得する獲得してゆくような逆説が潜ませてある。

そして、「年暮れぬ春来べし」とありますが、実際のところ大晦日の翌日には元旦と立春とが同時に来たということで、百年に3、4回は起こっていて、西行の73年の生涯の内にも三度起こっています。初夢の実現とは、現実的にはそのような暦の上での偶発的な出来事に過ぎないのですが、ちょうどその年に詠まれたことは無関係とは言えないでしょう。

【参考図書】

西澤美仁編「西行─魂の旅路」(角川ソフィア文庫)

しづかならんと思ける頃、花見に人々まうできたりければ

花見にと群れつつ人の来るのみぞ あたら桜の咎にはありける

誰にも邪魔されず、ひとり静かに桜と向き合いたいのに、花見の客が押し寄せうるさいのを、桜の罪に仕立てている、という歌です。西行の若い頃の作品で、ストレートな感情表現と一種の世相批判のようなところもあって、西行の和歌の中でも、現代でも比較的取り上げられる機会の多い歌です。

人々が花見に連れだって出かけるのは現代にもよくあることで、この歌の第4句の「あたら」という語は、良いものを持っているのに発揮できないでいる状態を意味しています。桜の花見に人が群れてやってきて騒がしいので、せっかくの桜の魅力を発揮させないてしまっている。そのようにさせてしまっているのは、他の誰でもない、桜自身が招いた罪だと言っているのです。「咎」という終句の言葉は、一般には桜の花を散らす嵐などを非難するときに用いられます。この歌では桜の花自身に「咎」があるというのは一般の反対で、これこそが桜を愛で続けている西行だからこそ生まれてくる表現だろうと言うことになっています。これはまた、桜を味わうことができないことに苛立ち、その苛立ちを人々にぶつけることができずに、桜の花に八つ当たりするという、まるで思春期の腹いせのような心情をそのまま表わしているようにも見えます。

そのような、どちらかという未熟な他者の欲求不満のストレートな吐き出し(今で言えば、若者の共感を得る反抗的な歌に通じるもの)が、『西行桜』という能で表わされると、何か高尚なものに見えてくるから不思議です。『西行桜』という作品のあらすじは次のようなものです。京都、西行の庵室。春になると、美しい桜が咲き、多くの人々が花見に訪れる。しかし今年、西行は思うところがあって、花見を禁止した。一人で桜を愛でていると、例年通り多くの人々がやってきた。桜を愛でていた西行は、遥々やってきた人を追い返す訳にもいかず、招き入れた。西行は、「美しさゆえに人をひきつけるのが桜の罪なところだ」という歌を詠み、夜すがら桜を眺めようと、木陰に休らう。 その夢に老桜の精が現れ、「桜の咎とはなんだ」と聞く。「桜はただ咲くだけのもので、咎などあるわけがない。」と言い、「煩わしいと思うのも人の心だ」と西行を諭す。老桜の精は、桜の名所を西行に教え、舞を舞う。そうこうしているうちに、西行の夢が覚め、老桜の精もきえ、ただ老木の桜がひっそりと息づいているのだった。

『西行桜』の西行と桜の精の問答の中に次のような文言が出てきます。

それ、花は上求本来の梢に現れ、秋の月下化迷闇の水に宿る。誰か知る行く末に三伏の夏もなく、澗底の松の風、一声の秋を催す事、草木国土自づから、見仏聞法の結縁たり。

桜が梢に現われるのは、仏の悟りを求めるようにと人々を勧進するためであり、自然界の啓示がそのまま仏に会い、説法を聞くという仏法の結縁であるというのです。そこには人に限らず、心を持たない草木もすべて成仏できるということが含まれ、西行も桜の精も共に成仏できる存在として同一視される。それだからこそ、西行は桜の木に八つ当たりできるわけで、西行の未熟な心持が人と草木を同列に置く悟りの境地に裏返って重なることになってしまいます。

 【参考図書】

白洲正子「西行」(新潮文庫)

橋本美香「西行」(コレクション日本歌人選)

古畑の岨の立つ木に居る鳩の 友呼ぶ声のすごき夕暮れ

荒れ果てた畑の、土手に生えている木に、止まっている鳩が群れから外れ、友を呼ぶ鳴き声は物寂しそうに聞こえて来る。この夕暮れ時は。というのが教科書的な解釈ですが、それで、この歌の概要を掴んだうえで、塚本邦雄がこの歌に与えている次のような称賛を玩味してほしい。“収穫後の畑、一方は崖になってゐる地形の、そんなところの喬木、そこに鳩が友を呼ぶ夕刻の景色を描いた。肝腎なのは結句の「すごき」であらう。中世の「すごし」は「怖ろし・冷ややかが身にこたへる・慄然たり」等の意を含む。この場合は三者の総合的印象に野趣がいささか加はる。世捨人たることを繰返し、世を厭ふことを強調し、花鳥風月を友とする意をアピールする諸作にあきあきした讀者も、たとえばこの「友呼ぶ聲のすごき夕暮」には一種の救済を覺え、西行を見直すかも知れない。自然を歌へばよいといふのではない。「鴫立つ澤」の思はせぶりに面を背け、千篇一律の月の歌に欠伸する人々も、この鳩や「きりぎりす夜寒に秋のなるままに」、あるいは「津の國の難波の春」等には、西行ならではの不思議な味はひが秘められてゐて、ふと涙ぐましくなることもあらう。西行たるゆゑんである。”塚本邦雄は西行を批判した人ですが、この歌には、塚本が批判する世捨て人の立場の強調と一種の逃避はなく、作為のない真情がストレートに伝わってくると述べています。

「岨」とは切り立った崖のことで、この歌は、そういう崖に接したわずかな畑地で営まれる山人の生活風景を、旅人の目で作品と言えます。「古畑」は、折口信夫によれば焼畑のことだということです。山人は森林の伐採が終わるとそこに焼畑を作ったということです。畑を焼いて土地を活性化させると数年間は循環的に様々な作物が栽培できますが、やがて土地は痩せて休閑期に。この歌は、そのような「古畑」の極限的な荒廃の様子が旅人の目でうたわれています。「古畑」も「岨」も「木」も「鳩」もありふれた山の風景で、それ自体には格別心を動かされていなかった作者が、夕闇にすべてが沈んでいこうとする時に、なんとも寂しい声で鳴く鳩の声を聞いた。人気の絶えた山地に夕暮が迫り、寂しいとか身に染みるとかという常套的な言葉では言い切れないような、背筋もぞっとするような寂しさ。そこに鳩の声が友呼ぶ声に聞こえた時、作者は、高野山中にいた自分に戻っている。古畑の荒廃が、たったひとりでその場に行き合ってしまった作者に、絶対的な孤独となって襲いかかる。それがうたわれている。

 

 【参考図書】

塚本邦雄「西行百首」(講談社学芸文庫)

折口信夫「日本古代抒情詩集」

西澤美仁編「西行─魂の旅路」(角川ソフィア文庫)

 

三重の滝を拝みけるに、殊にたふとくおぼえて、三業の罪もすすがるる心地しければ

身に積もることばの罪もあらはれて 心澄みぬる三重の滝

“「三業の滝」とは、密教にいう身・口・意の業のことで、心に思い、口にいい、行為でもって罪を犯すことを、「三重の滝」で象徴したのであろう。ここで西行は、永年たずさわってきた歌の道で、「言葉の罪」というものを強く意識していたことを物語っている。今でも物を書く人々は(もし良心があるならば)、多かれ少なかれ感じていることだが、たとえ一時的にも滝に打たれることによって、西行は救われた心地がしたに違いない。そういう爽やかな気分が、滝の流となってひびいて来るような歌である。” と、この歌について白洲正子は書いています。白洲の文章を読む限りでは、西行が大峯山中で修業していて、そのなかで詠んだ歌ということになります。“大峰山での修行が、西行に与えた影響が大きかったことに気がつく。月はもはや昔見た月ではなかったし、山林流浪の旅も、深く入れば入るほど、昔あこがれたものとは違っていた。西行は地獄を見たのである。ほんとうの数寄者とはそうしたもので、何につけてそこまで堕ちてみなければ救われることもない。といって、宗教心が深まったわけでもない。時には仏教的な言葉も用いないわけではないが、当時としては常識的なことばかりで、今の「三重の滝」の歌でも、私たちが感じたようとすれば感じられる体験なのである。”というように、この歌も普通の風景も西行も内面の仏教を詠む歌に反映させて、普通でないものにしたということを言います。

実際に歌そのものに接して見ると、白洲はこの歌の上の句をほとんど無視しているように思えます。「身に積もることばの罪もあらはれて」は、我が身に積もった身業の罪で、しかも、詞書の「三業のつみ」とは、身・口・意の三業の罪のことを意味しているということから、とくにといも、(和歌を詠み続けた)口業の罪も洗い流されて、というような意味で、この歌で詠まれているのは西行自身であって、歌ではそのうちとくに「ことばのつみ」を取りあげて詠じたのは、歌詠みであることを意識してわが身に積もる口業をと言っているわけで、この歌の主題は三重の滝ではなく西行自身です。このように歌を詠むことや、その前提となる雅とか美を愛でると言うことに対して、懐疑的な心のわだかまりを表わすことが、西行の歌に見られます。前にみた

花に染む心のいかで残りけん 捨て果ててきと思ふ我が身に

等もそうです。このネタになっているのが狂言綺語観というものです。狂言綺語というのは真理に背くつまらない言葉、人を惑わすほどの飾り立てた言葉を意味します。和歌は愛情にひきずられて、無益な色に染まり、空虚な言葉を飾るため、仏教の「不妄語戒」に抵触するというのです。もともとは白居易の『白氏文集』の「香山寺白氏洛中集記」にあるもので、当時の日本では『和漢朗詠集』に収められ、よく知られていたといいます。

願はくは今生世俗の文字の業狂言綺語の誤りをもって翻して当来狂言綺語世々讃仏乗の因果法輪の縁とせむ

西行の和歌も、この影響の中にあり、このような「罪」を意識した和歌を他に詠んでいました。この「身に積もる…」歌では「罪もあらはれて 心澄みぬる」としていますが、それは必ずしも、罪の意識が無くなって浄化されたというわけではなく、洗われるような清々しい気持ちになるということで、それだけ罪が意識されているということが鏡に映るように表われてきている、ということでしょう。“大峯山中で罪障消滅のために禊する滝だったのである。西行も和歌の文学的表現のために、不妄語戒や不綺語戒を犯したことを自覚して、その罪業をほろぼすために前鬼裏行場の修業をしたことがわかる。しかもこれは大峯奥駈修業には江戸時代ばかりでなく、平安末期にも峯通りから一度は前鬼へ下り、裏行場をすませてからふたたび峯へ出て、先へすすんだことを知る資料である。(五米氏「山の宗教修験道」)”という指摘もあり、このような読みが、あながち私の独りよがりというわけでもないでしょう。

ところで、この歌の収められている『山家集』を眺めていると、この歌の前後には西行が大峯山中の行場を巡り歩いたように、それぞれの修行場を詠んだ歌が並べられています。例えば

大峰の深仙と申す所にて、月を見てよみける

深き山に澄みける月を見ざりせば 思い出もなき我が身ならまし

小池と申す宿にて、

いかにして梢の隙を求め出て 小池に今宵月の澄むらん

そして、この「身に積もる…」の歌に続くのが

転法輪の嶽と申す所にて、釈迦の説法の座の石と申す所を拝みて、

こここそは法説かれたる所よと 聞く悟りをも得つる今日かな

このように釈迦ヶ嶽、深仙、小池といった、前鬼周辺の行場が詠み継がれていて、小池宿は前鬼から熊野方面に登り返した地点にあり、小池の底は龍宮に通じています。また、小池の地下水が三重の滝となり、前鬼川となる、というように修験道場を形成する宗教的・地理的構造に沿った読みができるようになっています。つまり、『山家集』を読む人は、そこに並んでいる西行の歌に導かれるように大峰山中の行場を体験し、西行の導きによって仏教の構造を体験できる装置になっているのです。

 

 

津の国の難波の春は夢なれや 葦の枯れ葉に風わたるなり

塚本邦雄は、この歌について次のように述べています。“いかにも後鳥羽院好みの、颯爽たる哀感の迸る歌である。一目瞭然「心あらむ人に見せばや津の国の難波わたりの春のけしきを」なる能因の後拾遺集歌を下敷きにしてゐる。しつつ見事に逆轉させ、心はあれど氣色なし、今は昔の夢と歌ひすてた。かつまた一方に「心なき身にもあはれは」が浮かんでくる寸法である。幽玄などではない。凄愴の氣さへ颯と心頭をよぎるのが、この歌の相であらう。私は西行の最愛の十首の中に數へたい。”とほとんど絶賛で、この歌に比べれば、西行の有名な「心なき身にもあはれは知られけり 鴫立沢の秋の夕暮」は“甚だ胡散臭く、卑下自慢の逆説に近い”とまでこき下ろしています。この歌を評価するという視点では、そういうことも可能で、私には、この二つの歌を両方詠んでしまえるところに西行という歌人の和歌に対する独特な距離感が現われていると思います。

まずは、「津の国の…」の歌に戻りましょう。塚本の指摘する通り、この歌は『拾遺集』に収められた能因の

心あらむ人に見せばや津の国の難波わたりの春のけしきを

を本歌とする西行には珍しい本歌取りでつくられています。その能因の歌では、難波の春がどう美しいかは具体化しないで、以心伝心、和歌がわかるなら私の心を読み取ってみなさいと呼びかけています。能因の歌の呼びかけに対して、西行の歌は「津の国の難波の春」の美しさが葦の芽吹きの美しさであったことを「枯れ葉」を提示して逆説的に読み解いています。これは、実は能因の呼びかけの元は、仁徳天皇の作と言われる「難波津に咲くやこの花冬ごもり 今は春辺と咲くやこの花」を踏まえている。そういうことを理解するためには、読者は能因の歌を知っていること、そしてその歌の呼びかけの趣味性を面白がるという一種のリテラシーを要するものであることが必要です。能因の歌の「心あらむ人」というのは和歌の情趣を解することができる人という意味です。西行の「心なき身にもあはれは知られけり…」の歌は、それに対して「心なき身」は能因の歌の「心あらむ人」の否定であり、それをわざわざ断っているわけです。それは、リテラシーのある人にとっては余計な表現で、くどいとかあざといという印象を受けることになるでしょう。そして、そういう心のない人でも「あはれは知られけり」と詠んでいるわけです。西行には、リテラシーのない読者も視野に在ったのではないか。その点で、同時代の新古今の歌人たちとを隔てる西行の大きな特徴と言えるのではないかと思います。

そして、西行のこの歌の味わいは、上記のような趣向を踏まえた上で、三句目の「夢なれや」で、上の句の「津の国の難波の春」の春の美しさが断ち切られ、下の句で眼前の光景が示されます。それが、かつて難波宮のあった場所に広がる一面の葦と、その葦を吹きわたっていく風だけです。「夢なれや」の一語によって、「津の国の難波の春」が幻想として立ち現われるのと対照的な現実の荒涼とした姿は塚本のいうように凄愴イメージとなって迫ってきます。しかし、和歌的な幻想、これは和歌のレトリックでは歌枕という常套句としてあるイメージと現実の姿の対象であれば、同時代の藤原定家の有名な「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」もそうです。定家の歌では、その対照を「なかりけり」とストレートに否定しているのに対して、西行の歌では「夢なれや」として、とくに対照を際立たせることはしていません。その代わりに、夢と現実の対比と昔と今という時間的な対照も含んで、悠久の昔に咲き誇っていた花も今はなく、ただ葦の枯れ葉に風が渡っているだけという無常観をも感じされることにもなっています。

さらなる深読みとして、穿ち過ぎかもしれませんが、「津の国の難波の春」のうるわしさというのは、この本歌取りの元ネタである仁徳天皇が聖天子と称されて理想化された伝説的な治世における、社会や人々の豊かな生活を暗に示していて、それが「夢なれや」の一語で伝承となった歴史的な治世と対比して、平安末期の戦乱で焼かれ荒廃した都の現実の光景を映し出しているということもできる、ということです。

 【参考図書】

塚本邦雄「西行百首」(講談社学芸文庫)

橋本美香「西行」(コレクション日本歌人選)

西澤美仁編「西行─魂の旅路」(角川ソフィア文庫)

山本幸一「西行の世界」(はなわ新書)

ここをまた我住み憂くてうかれなば 松はひとりにならんとすらん

西行は50歳のとき、讃岐に渡り、平治の乱に敗れて四国の白峯に流され客死した崇徳院の墓を詣でたといいます。その後、空海生誕の地といわれる善通寺を訪れました。この西行の四国への旅の意義について、例えば、久保田淳は、“単に崇徳院の墓参と大師の遺跡巡りという、所期の目的を達したに止らず、自己の存在、さらに広く人間存在を、具体的に考える機会となったと思われる。”と指摘します。四国への旅で、西行は、人間を、また自分自身を見つめ返す機会を得たが、それは偶然に得られたものではなく、西行の内面に兆した老いの自覚が、さらには死の想念がもたらしたものであった。そして、このような四国への旅が、以後の彼の歩みに大きな影響を与えるものであった、ということになるでしょうか。

大師の生まれさせ給ひたる所とて、廻りの仕廻して、そのしるしに、松の立てけるを見て

あはれなり同じ野山に立てる木の かかるしるしの契りありける

深く感動してしまった。同じように野や山に生えている木でありながら、この松だけは大師誕生を記念して特別の目印が付けられるのは、それ相応の仏縁がそもそもあったことになる。という内容で、「ここをまた…」の歌と同じように(場所は違う場所ですが)松の木に焦点を当てて読んでいます。ここでは、“(弘法)大師に救いを求めたくなるような切羽詰まった気持ちになっていた”という白洲正子の想像から、現在の誕生院となっている地で目にした松の木に思い入れているある種の強引に詠んでいる印象の歌です。

庵の前に松の立てりけるを見て

久に経て我が世をとへよ松 跡しのぶべき人もなき身ぞ

ここをまた我住み憂くてうかれなば 松はひとりにならんとすらん

と詞書とまとめて山歌集に記載されています。西行は善通寺南大門前に庵を結びました。「ここ」とは、その善通寺の庵です。三句目の「うかれなば」で、その「浮かる」は、そわそわして落ち着きがなくなるという意味です。「浮かれ出づる心は身にも叶わねばいかなりとてもいかにかはせん」と、西行自身どうしようもないものだったと思います。漂泊の気が生じて、自分がこの地を離れれば、松はまた一人残されてしまうと、人間のようにその心を思い遣っているのです。松は不浄を浄める霊力があるとされる木で、とくに一本松は神の宿る木とも考えられており、西行には松を詠んだ。前述の「あはれなり同じ野山に…」の歌がそうですし、「ここをまた…」と並んでいる「久に経て…」という歌では、弔ってくれるように頼む相手でもありました。しかし、その空海誕生という尊い地にあり、心を通わせた松を残して、西行はまたどこかへ行こうとするのです。この歌の「ここをまた我住み憂くて」というのは、この庵も住みづらくなるのは、彼の習性のようなもので、「住み憂く」思うことは西行の「うかれ」ていた心を抑えきれなくなることを表わしている。

あるいは、松の木を対比的に自身を見るよすがとしています。「あはれなり同じ野山に…」の歌では、大師の誕生のしるしとして植えられた松という昔を想起させるものと対比させて、自身の老いた姿が認識される。この老いの感慨は四国の旅を続ける西行のうちに絶えず意識されていたのは、四国で詠まれた歌から分かります。たとえば、

いまよりはいとはじ命あればこそかかるすまひのあはれをもしれ

四国の旅において、西行は昔を想起させる景を凝視し、自身の昔を意識にのぼらせ、それとの対比において今ここの我を、その老いを、さらにはその生死をとらえるのです。このことは西行がこの時期の自身の老いを自覚し、また自身の死を意識していたことを読み取ることができます。一方、「久に経て…」と「ここをまた…」の歌では、松への視線は過去ではなく、自分が立ち去った後の「松」つまり、これから先の「我」へ視線が向けられています。この松は擬人的に捉えられ、感傷的な表現となっていますが、「いまよりは…」の歌と併せて捉えると、この二首の「我が心」への問いかけにも、自身を孤独な身と自覚したうえで、これからの「生」を見定めようとする西行の積極的な姿勢を見て取ることができると言えます。

 【参考図書】

久保田淳「新古今歌人の研究」(東京大学出版部)

西澤美仁編「西行─魂の旅路」(角川ソフィア文庫)

橋本美香「西行」(コレクション日本歌人選)

白洲正子「西行」(新潮文庫)

曼荼羅寺の行道所へ登るは、世の大事にて、手を立てたるやうなり。大師の、御経書きて埋ませおはしましたる山の峯なり。坊の外は、一丈ばかりなる壇築きて建てられたり。それへ日毎に登らせおはらせまして、行動しおはしましけると、申し伝へたり。巡り行道すべきやうに、壇も二重に築き廻それたり。登るほどの危ふさ、ことに大事なり。構へて這ひまはり着きて

めぐり逢はんことの契りぞ頼もしき 厳しき山の誓ひ見るにも

大師が師と頼む釈迦にここでお逢いになったという仏縁が、今もそのまま受け継がれていると頼もしく感じた。巡り行道の修業の厳しさは、大師が衆生済度すると請願なさった捨身行をさながら見るようである、という歌です。詞書の曼荼羅寺は現在の八十八番札所の第73番出釈迦寺の奥院で、7歳の弘法大師が衆生済度を誓って捨身すると、たちまち釈迦が出現して大師を救ったという伝承があるということです。その寺に参詣するには世坂と呼ばれる急坂を「手を立てたるやうなり」して登らなければならなかった。それは「登るほどの危ふさ」というほど厳しい修行の面もあったようです。

曼荼羅寺の山号は我拝師山と呼びますが、別の名として筆の山とも呼びます。

やがてそれが上は、大師の御師に逢ひまいらせさせおはしましたる峯なり。「我拝師山」と、その山をば申すなり。その辺の人は、「我拝師山」とぞ申しなにひたる、山文字をば捨てて申さず。また筆の山とも名付けたり。遠くて見れば、筆に似て、まろまろと山の峯の先のとがりたるやうなるを、申し慣はしたるなめり。行道所より、構へてかきつき登りて、峯にまいりたれば、師にあはせおはしましたる所のしるしに、塔を建ておはしましたりけり。塔の礎はかりなく大きなり。高野の大塔などばかりなりれる塔の跡と見ゆ。苔は深く埋みたれども、石大きにして、あらはに見ゆ。筆の山と申す名につきて

筆の山にかき登りても見つかるかな 苔の下なる岩の気色を

我拝師山に登ってみた。筆の山ともいうだけあって、筆で書くように、掻き登る、岩にしがみついて登ることになった。するとそこには、大塔の礎石が苔の下に埋まっていて、その大きさは大師の慈悲の大きさを語るようだった、という歌です。西行は、仏教の修業のためというより、弘法大師の人間に魅せられていたかのように、大師と同じ苦行をして、つまり、追体験して共感することに悦びを見出しているように見えます。

 【参考図書】

西澤美仁編「西行─魂の旅路」(角川ソフィア文庫)

白洲正子「西行」(新潮文庫)

備前の国に、小嶋と申す島に渡りけるに、あみと申すものとる所は、各々われわれを占めて、長き竿に袋を付けて、立てわたすなり、その竿の立て始めをば、一の竿とぞ名付けたる。中に齢高き海士人の立て初むるなり。立つるとして申すなる詞聞き侍りしこそ、涙こぼれて、申すばかりなくおぼえて、詠みける

立て初むる糠蝦採る浦の初竿は 罪の中にもすぐれたるかな

瀬戸内海の風光を彷彿とさせる長大な詞書とともに、一種のルポルタージュ風の異彩を放つ作品群の中の一首です。備前の国の児島で詠まれた歌で、四国ではないので滞在中なのか分かりませんが、遠くないので、滞在中に足を伸ばしたのかもしれません。長い詞書は、児島の漁師の中の長老が「一の竿」を立てる儀式遂行しようとする様子を生き生きと描き出しています。「糠蝦(あみ)」は海老に似た小動物で、漁をする網の目が粗いと零れ落ちてしまいますそのため、目の細かい網を用いて漁をする者なのですが、その漁を近くで見ていた西行は1人の漁師が竿を「立てる」と言ったのを耳にして悲しみの涙を流したと詞書に記しています。これは、衆生済度を立願することを指す「立つ」という言葉を連想させた。衆生済度の立願は『無量寿経』にある、この世のどこからも地獄が消え、餓鬼や畜生のいない世界とならなければ、成仏しないと説いた宝蔵菩薩の言葉です。糠蝦を捕るための一の竿を立てる年長の漁師は、他の漁師たちの先達となって、殺生の罪を犯すことを彼らに示した。また、糠蝦は非常に小さいため、一度に大量の命を奪うことになる。そうしたことに漁師たちは気づかず罪を重ねている。そうしたことへの嘆きが、涙を流させるほどの衝撃をうけているさまということです。『栄花物語』における藤原道長の次の歌を意識して詠まれたという指摘があります。

宇治川の底に沈めるいろくづを 網ならねどもすくひつるかな

「沈む」水中に生息する魚を「網」で「掬ふ」という殺生の文脈と、「沈む」成仏できない魚を「阿弥」陀仏が「救ふ」という救済の文脈が、二重文脈となっています。西行の歌では、「糠蝦」と「阿弥」とが軽い二重さが感じられます。あるいは「立つ」という言葉は、眼を立てる、誓いを立てるということを指す一方で、魚の命を絶つという殺生そのものと二重の内容にかけられて、その言葉に西行が感動したと詞書に述べられているわけです。同時に詠まれたと思われる続く歌群にも二重文脈で罪が意識されます。

比・渋川と申す方へまはりて、四国の方へ渡らとしけるに、風あしくて、ほど軽けり。渋川の浦と申す所に、幼き者どもの数多物を拾ひけるを、問ひければ、つみと申すもの拾ふなりと申しけるを聞きて

下り立ちて浦田に拾ふ海人の子は 螺より罪を習ふなりけり

真鶴と申す島に、京より商人どもの下りて、やうやうの積載の物ども商ひて、又塩飽の島に渡り、商はずる由申しけるを聞きて

真鶴より塩飽へ通ふ商人は 罪を櫂にて渡るなりけり

串に刺したる物を商ひけるを、何ぞととひければ、蛤を乾して侍るなり、と申しけるを聞きて

同じくは牡蠣をぞ刺して乾しもすべき 蛤よりは名も頼りあり

「下り立ちて…」の歌について、日比・渋川は、児島の南にある村で、「螺(つみ)」はつぶ貝のことで、螺類の総称、もしくは流木の小さなもののことです。その「つみ」という名の貝を無邪気に拾って殺生戒を犯す子供たちの罪を半ば哀れみ、半ば愛しんで眺めています。

「真鶴より…」の歌について、真鶴は多度津の西北にある島で、塩飽はその東に点在する群島です。「罪を櫂にて」は、罪を生き甲斐にすることと、船の櫂に掛けて、漁師たちの殺生の積み重ねによって得た海産物の「つみ(積荷)」を買い付ける商人の罪、瀬戸内に生きる人々の所業に西行はそれを厳しく糾弾するのでもなく、ただ胸を痛めて眺めています。

「同じくは…」の歌について、串に物を刺して売っている商人に、何を刺しているかと尋ねたところ、蛤を刺して売っていると答えたので、どうせ売るのであれば、蛤を売るよりも、名前だけでも仏に縁がある牡蠣を売るべきであると詠んでいます。仏に縁があるというのは「牡蠣」と「柿」が、同音異義語であることによります。当時の真言宗の秘伝の中に、柿色の袋に入れて秘蔵した「柿袋」と言われる書があったといいます。また、「柿経」という木簡に写経した物を使って結縁を行い、喜捨を得るものもあり、西行もこれを用いて勧進したと言われています。そのため、その「かき」の音にちなんで、名前だけでも「牡蠣」は仏教に縁がある。牡蠣と蛤は、言葉の響きの上では柿と栗に通じています。そこから生まれた駄洒落のような歌と言えますが、牡蠣という罪深い生き物が、それとは対極に位置するはずの仏教の看経(読経または経文の黙読)という言葉に通じているという二重性があります。

これらの歌について、道長の歌で海底の魚を「沈めるいろくづ」と言っていることからも分かるように、魚介類とそれを殺生する漁師たちや海辺の子供たち、そしてそれを売買する商人たちは、みな同罪で、そうであれば、その様子を言葉遊びのような歌に詠む西行自身も同じ罪にあるという自覚があるというのです。「罪の中にもすぐれたるかな」という言葉遣いには偽悪的なニュアンスがあって、罪人たち罪を犯す前に盛大に行う予祝の祭儀に感歎し、共感する。ともに興じ、ともに祝い、ともに祈る、そのような姿勢が、歌や詞書からも感じ取れるものです。

一方、これらの、とくに詞書では、「申すなることば聞き侍りしこそ、…おぼえて、よみける」とか「といひければ、…、と申しけるを聞きて」とか「申しけるを聞きて」とか「といひければ、…、と申しけるを聞きて」といったように、尋問という形式を採ることによって詠歌の契機とするという特色があります。それらはいずれも、対象を捉える西行の視線が決して単一なものでないことを示しています。これらの作品は一見では、詞書の尋問形式による臨場感があって、海辺の生活風景をそのままに写し取っているような印象を与えます。しかし、はじめに「齢高き海士」の立てる「一の竿」が捉えられ、それに続く歌ではそれとは対照的な「海人の子」が捉えられていることから、これらの一連の作品は意図的に計算されて構成されています。このような構成は、前に述べたような歌の二重性を補強するような効果を果たしていると考えられます。この二重性は、仏道と俗世がこの世において同時に存在し、俗世ではこのような罪を作らなければ生きていけない人々の矛盾に満ちた現実を詠んだと言えると思います。

これらの歌は、以上のような西行の宗教者として海辺の人々の罪を見ながらも断罪することはせず、むしろ彼らに共感し、彼らの側にいる自身を自覚してしまうという姿勢を見ることができますが、また別の面として、西行が海辺の人々に共感したということは、都の貴族に比べれば一介の漁師にすぎない彼らのなりわいに細かな注意を払い、彼らと親しく交わりながら、それまでの和歌の通り一遍でない生き生きとした言葉を発見していくという歌作りをしているかにこそ、可能になったと思います。詞書を読んでいると、小さなことも見逃さず、愛すると言っていいほど興味を持っていなければできないし、そういう関心を雅な都の王朝の文化ではなく、名もない海人や庶民の暮らしにも暖かい視線を注いでいた。そういう視線は、他の新古今の歌人たちにはなかったもので、ここにも西行の特徴が表われています。

 【参考図書】

久保田淳「新古今歌人の研究」(東京大学出版部)

西澤美仁編「西行─魂の旅路」(角川ソフィア文庫)

橋本美香「西行」(コレクション日本歌人選)

白洲正子「西行」(新潮文庫)

中西満義「西行の四国への旅について─命の自覚ということ」

世の中に大事いで来て、新院あらぬさまにならせおはしまして、御ぐしおろして仁和寺の北院におはしましけるに参りて、兼賢阿闍梨いであひたり。月明くて、詠みける

かかる世に影も変はらず澄む月を 見る我が身さへ恨めしきかな

戦乱の続く世に、常に変る事のない光を放っている月が恨めしいことだ。そしてこの世を見てどうしようも出来ない我が身までも恨めしく思われることだ、という内容の歌。保元の乱が起きた時、西行は高野山を下りて京都に来ていました。後白河天皇方の夜襲に遭って、崇徳院は御所を脱出し、弟の覚性法親王を頼って仁和寺に入り、そこで出家します。西行は、その場に出向き詠んだ歌です。自然と人事の対照は古今集以来の和歌の基本構造と言えますが、ここでは、あまりに変わり果てた崇徳院の剃髪姿と、いつもと少しも変わらないその夜の月との対照は、残酷でさえあると言えます。崇徳院の無念を思えば心が痛むわけで、それに対して心が痛めば痛むほど。かえって夜の月の美しさは増すように見えてくる。生涯忘れられないような月夜となってしまったという詠嘆を読み取ることができると思います。

保元の乱直後の、混乱の巷を仁和寺に馳せ参じ、敗者で囚われの身となっている崇徳院に歌を奉るという行動は、たとえ僧綱の位をもたぬ一介の修行僧にすぎぬ西行であっても、かなりの勇気を要することであったことは想像に難くないと思います。しかし、その危険を冒しても、敢えて聖徳院の安否を問わずにいられなかったところに、西行の崇徳院に対する深い同情と、ひたむきな性情がみられると思います。その一方で、この歌については、平凡で、やや形式に流れすぎており、感動の切実さに乏しいという批評もあるのは確かです。しかし、この歌に限らず、西行の崇徳院に対する心情は、歌に直接あらわれたものだけでは判断できぬものがあると思います。両者の関係の事実は、西行の和歌を通して知られるところが大部分ですが、心の結びつきは歌の奥深いところ、あるいは歌を超えたところにあると感ぜざるを得ない面もあるのであると思います。

 【参考図書】

西澤美仁編「西行─魂の旅路」(角川ソフィア文庫)

白洲正子「西行」(新潮文庫)

西村真一「西行の和歌と崇徳院」

讃岐におはしまして、歌ということの世にいと聞こえざりければ、寂然がもとへ言ひ遣はしける。

言の葉の情け絶えにし折節に あり遭ふ身こそ悲しかりけれ

この歌は、崇徳院が讃岐に配流されてから、和歌の道がすっかり衰えてしまうを嘆いた西行が、友人の寂然にその寂しさを訴えたものです。

西行がこの歌で和歌の衰退を嘆くのは、崇徳院が当時の歌壇におけるパトロンとして中心的な位置にいたためです。崇徳院は盛んに歌会を開いたり、「久安百首」などの百首歌を催したり、また6番目の勅撰集である『詞華集』を命じたりしました。これに対して、崇徳院に替わって権力を手にした後白河天皇は和歌にあまり興味を示さず、今様を専ら愛好したことから、和歌の衰退の危機感が高まったのでした。実際、『詞華集』の後『千載集』が藤原俊成の手によって完成したのは40年後になります。西行の歌にある「言の葉の情け絶えにし折節」とは、この時期のことを指していると考えられます。西行から、この歌を贈られた寂然は次の歌を返しました。

敷島や絶えぬる道に泣く泣くも 君とのみこそ跡をしのばめ

西行と同様に、和歌の道が途絶えることを悲しみ、崇徳院のことをあなたと一緒に泣いて偲ぼうという歌です。二人は崇徳院のことを偲ぶだけではなく、崇徳院が讃岐に配流された後も、女房を介して歌を贈っており、寂然は実際に讃岐の配流先を訪ねたといいます。また、西行は崇徳院の女房たちと贈答歌を交わしています。

世の中を背く頼りやなからまし憂き折り節に君が逢はずは

あさましやいかなるゆえのむくいにてかかることしも有る世なるらん

ながらへてつひに住むべき都かはこの世はよしやとてもかくても

これらの歌は、崇徳院の悲運に対して慷慨する西行の心情を明らかにしていると言えます。直接に崇徳院に対して愁嘆の情を述べるのではなく、世の中や時世を嘆く形になっています。どちらかというと西行自身の述懐の感じが強いものですが崇徳院に対する敬慕の念が根底にあり、「あさまし」のような言葉は崇徳院になり代わって痛恨の思いを披瀝していると言うこともできると思います。

また、寂然との贈答歌は、女房との贈答歌と同じように崇徳院への哀傷と敬慕の念が込められていると言えます。こちらの贈答歌では、相手が歌友として親交のあった寂然であったためか、和歌が衰微することを嘆くということによって、そのことが表現されています。西行たちは崇徳院が讃岐に配流されてしまった後の世の中を、「言の葉の情け絶えにし折節」や「敷島や絶えぬる道」と表現し、そのことを悲嘆しています。この贈答歌には和歌が衰微することの嘆きと、崇徳院の悲運に対する悲嘆とが渾然としたかたちで詠み込まれています。西行と寂然の歌からは、崇徳院を和歌のよきパトロンとして期待していた様子を読み取ることができます。「あり遭ふ身こそ悲しかりけれ」や「泣く泣くも君とのみこそ跡をしのばめ」という言葉はそれ自体感傷的ではありますが、その奥には、少なくとも西行たちには崇徳院なきあと衰微していると映った「敷島の道」、つまり和歌を、自分たちの手でなとか伝えていきたいといった決意が感じられます。

 【参考図書】

西澤美仁編「西行─魂の旅路」(角川ソフィア文庫)

橋本美香「西行」(コレクション日本歌人選)

白洲正子「西行」(新潮文庫)

西村真一「西行の和歌と崇徳院」

中西満義「西行の両宮自歌合について─編纂の意図を中心に─」

白峯と申しける所に、御墓の侍りけるに、まいりて

よしや君昔の玉の床とても かからん後は何にかはせん

陛下、もうやめませか。崩御された今となっては、たとえ昔のまま玉座にあらわれたとしても、それが何になるでしょう、という内容の、西行が崇徳院の死後、その墓のある白峯寺を訪れた時に詠まれた歌です。西行が50歳の時に四国に旅をしたのは、崇徳院の墓参りと弘法大師の遺跡巡礼の二つが目的であったと言われています。保元の乱に敗れて讃岐に配流された崇徳院のもとには、寂然や蓮如などが訪れていますが西行は訪ねていません。そこに悔いがあり、せめて墓参だけでもという念願は強かったと考えられています。しかし、その崇徳院についての歌は、この歌を含めて3首しか残されていません。他の2首が次の歌です。

讃岐に詣でて、松山の津と申す所に、院おはしましけん御跡たづねけれど、かたもなかりければ

松山の波に流れて来し舟の やがてむなしくなりにけるかな

松山の波の気色は変はらじを 形なく君はなりましにけり

「松山の波に流れて…」の歌は、ここ松山の地に配流された崇徳院は、帰京の悲願も空しくそのまま当地で崩御されてしまったのですねという内容の、西行が讃岐に上陸した松山の津で、崇徳院の遺跡を尋ねて詠んだ歌です。「院おはしけむ御あとたづねけれど、かたもなかりければ」という詞書の一節は、おそらく事実を述べていると思われ遠く讃岐の地に流され、八年後にこの地で生涯を終えた崇徳院の行在所の跡が、荒れ果てていたことは、予想されたとはいえ、西行には衝撃であったであろうと思われます。西行が松山に着いたのが、崇徳院が崩御されてわずか四年後ですが、御跡の荒廃ぶりは、崇徳院をめぐる世の無常をまざまざと感じさせるに充分であったことでしょう。西行は、廃墟の前で昔日を想い、崇徳院世界の喪失を実感しつつ、この歌を詠んだ。「やがてむなしくなりにけるかな」という下風韻は、 一見、平凡にみえるが、きわめて実感的で、崇徳院の死を改めて事実として確認し、それを哀悼する気持が表白されていると言えます。

「松山の波の気色は…」という歌は、松山の津は昔と変わらず、崇徳院がお住まいのころを偲ぶことができそうですが、肝心の院はもうこの世にいらっしゃらないのですね、という内容の、同じように松山での作です。この地で空しく悲劇的な生涯を終えた崇徳院の運命と、昔と変わらぬ眼前の海浜の風景を対照的に詠嘆し、院に対する同情がこの歌全体にしみじみと流れていると思います。「かたなく」は、跡形もなくなったという意味で、西行の悲しみが目に見えるようです。

しかし、この二首は、西行が宿願を達して讃岐の地に到着し、崇斎院の遺跡を前にして詠んだ歌にしては、切実な響きに乏しいと言えるかもしれません。これについてはしかし、窪田章一郎が“言葉の麗わしさと、調べの優しさは、個人的感懐をあらわに出すことをせず、婉曲な物言いになっている”と批評し、“これは手向けの歌の性質としていいうることで、院に寄せる心情が儀礼的でおざなりであったということとは、全く別個のことである。”と述べています。崇徳院に対する心情は、こうした「手向けの歌」に盛り込めるほどひと通りのものではなく、複雑で底の深いものであった筈です。この2首は、表面的には切迫した感動性に乏しいかもしれませんが、むしろ、歌の余情にみるべきものがあるように思えます。

一方、墓に詣でた時の歌は、これらの歌とは違って、かなり厳しい口調で、院の行為を詰問するかのようです。「よしや君…」の歌の詰問調は、崇徳院自身の次の歌を踏まえていると言われています。

松が根の枕もなにかあだならん 玉の床とてつねの床かは

この崇徳院の歌では、「玉の床とてつねの床かは」と、はるか昔に言っています。西行は、この歌を思い出したからこそ、「玉の床」という言葉を用いたのでしょう。玉座が永遠のものではないと知りながら、なぜ心静かに往生をとげられなかったのか、今まで口をすっぱくして申し上げたことは全部無駄であったのかと、我が身の至らなさをも顧みて、それが詰問調の歌となって表われたのではないかと思われます。この歌について、久保田淳は“既に解脱していると思われる精霊への呼びかけとしては、この歌は説得調が強すぎると考える。未だ怨念は消えていないのではないかという懸念があるからこそ、西行はその菩提を祈らずにはいられなかったのではないであろうか。”という見解を示し、あわせて、これらの歌が後年の崇徳院怨霊説話の一つの核になるような性格を持っていることを指摘しました。『保元物語』以降に、それは成立し広まりましたが、江戸時代の上田秋成は『雨月物語』の「白峯」と崇徳院の怨霊と西行の説話として再構成しました。それは次のような話です。諸国を巡る西行の道行文から物語は始まります。西行は旧主である崇徳院の菩提を弔おうと白峯を訪れ、読経し、前述の「松山の…」の歌を詠みます。「圓位、圓位」と西行のことを呼ぶ声がします。見ると、異様だが判然としがたい人影がこちらを向いて立っていて、「松山の浪にながれてこし船のやがてむなしくなりにけるかな」と返歌したのです。その内容から西行は、声の主が崇徳院であることに気づきます。西行は、崇徳院が成仏せずに怨霊となっていることを諌めます。そして、西行と院の論争が始まります。西行は『日本書紀』「仁徳紀」にある大鷦鷯の王、菟道稚郎子の皇位相譲の話を例に出して王道の観点から、院は易姓革命論から、それぞれ論をぶつけあいます。最終的に、西行は、崇徳院の私怨がゆえである、という本音を引き出すことに成功する。院は、「経沈め」の一件の後、保元の乱で敵方に回った者たちを深く恨み、平治の乱がおこるように操ったのだ、と白状します。そして、大風がおき、ここで初めて院の、異形の姿が顕わになるのです。また、配下の天狗、相模がやってくる。そして、院は、平氏の滅亡を予言するのです。西行は、院の浅ましい姿を嘆き、一首の歌を詠むのです。それが「よしや君…」の歌です。すると、院の顔が穏やかになったように見え、段々と姿が薄くなり、そして消えていきました。いつのまにか月が傾き、朝が近くなっていました。西行は金剛経一巻を供養し、山を下りました。その後、西行は、このできごとを誰にも話すことはありませんでした。世の中は、院の予言通りに進んでいきました。そして、院の墓は整えられ、御霊として崇め奉られるようになった。

和歌が鎮魂の力をもつという信念は、慈円も『愚管抄』で崇徳院の怨霊に触れ、讃岐からお呼びし、都へお帰しして、埋葬申し上げ、国をあげて慰霊し、和歌を捧げなどすれば、こんなことはなかっただろうと述べていることから、慈円も共有していたものであることが知れると思います。

 【参考図書】

久保田淳「新古今歌人の研究」(東京大学出版部)

窪田章一郎「西行の研究」(東京堂出版)

西澤美仁編「西行─魂の旅路」(角川ソフィア文庫)

橋本美香「西行」(コレクション日本歌人選)

白洲正子「西行」(新潮文庫)

西村真一「西行の和歌と崇徳院」

天王寺にまゐりけるに雨のふりければ、江口と申す所に宿を借りけるに、貸さざりければ

世の中を厭ふまでこそ難からめ 仮の宿りを惜しむ君かな

返し

家を出づる人ととし聞けば仮の宿に 心とむなと思ふばかりぞ

能の『江口』や歌舞伎の『時雨西行』にもなっている、いわよる西行伝説のひとつをつくつている歌で、新古今集にも撰ばれているので、あるいは芭蕉が『奥の細道』でも遊女とのやり取りの中で言及しているので、西行の歌のなかでも有名な歌です。

江口というとこは、平安のはじめ桓武天皇のときに開鑿された神崎川が、淀川と合流する地点にあり、山陽道と南海道が分かれる交通の要衝でした。長岡京へ遷都するに当たって、難波の宮の周辺にいた遊女や傀儡をその地に移し、往来の客に色を売ったので、歓楽境として栄え、この地の遊女で歴史に名を残した者も少なくないと言われます。この歌の「仮の宿り」という言葉には二重の意味があり、一時の雨宿りや旅宿という意味と、仏教的な意味での儚い現世とか無常なこの世の意味が込められています。西行は出家者であるという上から目線で遊女には現世への執着を捨てて、清澄な仏の世界である出家を理解せよとまで期待できない、現世への執着があるかに、仮の宿を貸すことさえもったいなく、私に貸すのを渋っているのだろうと、遊女を見くだすようになじっている。そういう西行の歌に対して、遊女が歌を返して、この世の執着から逃れられない遊女に宿を借りることは、仮の世であるこの世に対する執着でもあるので、出家した方ならば、仮の宿に執着するはずはないと思って、それてお断りしたのです、と機知に富んだ切り返しをしています。

この歌のやり取りが収録されている『山家集』では、この歌の前に「苗代に堰き下されし天の川とむるも神の心なるべし」を主とした待賢門院の女房たちと西行の歌のやり取りが載せられています。この時の西行には出家者の威厳があって、女房堀河の「この世にて語らひおかん時鳥死出の山路のしるべともなれ」と、西行をホトトギスに喩え、西方浄土に導いてほしいと詠むと、西行は、「ほととぎす泣く泣くこそは語らはめ死出の山路に君しかからば」と、あなたが死に際したとき、泣きながら導師を務めようと応えます。死後の魂を西方浄土へと導く出家者としての姿を示している歌のすぐ後に、遊女に俗世への執着を皮肉られ、優れた出家者としての西行像が一気に失墜してしまう構成になっています。このように自身の評価を落とす歌は、連歌や俳諧の世界にある滑稽さにも通じる、現代でいえば、自虐に通じるものでしょう。しかも、たかだか一時の雨宿りに、仰々しく現世への未練などという高尚な話題を持ち出し、しかも、直前の宮廷の女房との雅なやりとりと同じ形式で、片や雅に、片や滑稽に対照させているところに、自虐を強調していると言えます。西行の歌の中には、このような俗を諧謔的に詠いながら、いわば俗で聖を裏返して表わそうとする歌があります。それは、同時代の歌人たちには見られないもので、彼の独自性だろうと思います。こういうところに着目して、たとえば、この「世の中を…」の歌なども、芭蕉のような後世の人にも好んで取り上げられた、と思います。しかし、私の好みとしては、奇を衒っている珍奇なところは認めますが、それを除いたら、あえて他の歌よりも、こっちをとるほどのものでもない、というとこでしょう。

このやりとりを材にとった謡曲『江口』では、遊女は普賢菩薩の化身という設定になっています。つまり、そのストーリーは、こうです。僧の一行(ワキ・ワキツレ)が江口の里を訪れ、いにしえ西行法師と歌問答をしたという江口遊女の墓前で西行の歌を口ずさんでいると、一人の女(前シテ)が現れ、「なぜ遊女の返歌を言わないのか」と言う。女は、“この世への執着を捨てよ”と西行に答えた遊女の返歌を明かすと、自分こそ江口遊女の霊だと明かし、姿を消してしまう。その女が実は普賢菩薩のであることが伴の男から語られる。その夜、僧たちの眼前に、川舟に乗った江口遊女(後シテ)が侍女たち(ツレ)を連れて現れた。遊女の川逍遥の姿を見せる彼女たち。江口遊女はこの世の無常を観じ、遊女を生業とする身のつらさを語りつつ舞を舞っていたが、やがて、それも全ては迷いの心ゆえだと述べ、この世界のすがたを見届けると、彼女はたちまち普賢菩薩の姿と変じ、舟は白象(普賢菩薩の乗り物)に化して、天に昇って行った。普賢菩薩は、女人の成仏をかなえてくれる菩薩として、女性たちの信仰を集めてきたものです。その普賢菩薩が、僧である西行にとっても、ありがたい導き手のように描かれているというのが、この能の独創と言える点だと思います。しかもその普賢菩薩は遊女の化身とされているのである。

『撰集抄』では「江口の遊女の事」では、帰路に着く西行の狂言綺語観を痛感するところが物語られています。江口の里を訪れた西行は、河岸の娼家の遊女が行き交う旅人に媚びを売っているのを哀れにはかなく思った。その折に雨が激しくなり、怪しげな家に立ち寄り、宿を借りようとしたが、あるじの遊女が許す気色も見えなかったので、何となく、「世の中を…」と歌を詠んだところ、遊女は笑いながら、「家を出づる人と…」と返して、急いで内へ入れてくれた。その遊女は40代をすぎていたであろうか、見目かたちが美しく、立居振舞も上品で、しとやかな人だった。彼女が言うには、自分は幼い頃から遊女になったが、前世の罪業のほども思われて、悲しくてならない。とくにこの2、3年は賤しい生業を疎む気持ちが募り、年も取ったので、客を取ることをやめてしまった。しかし、夕暮れになると心細く、かりそめの浮世にいつまでも生きているのかと味気なく思い、尼になることも考えたが踏ん切りがつかず、うかうかと過ごしている。西行も哀れに思ったが、雨が上がったので、名残り惜しみつつ再会を約して別れた。帰る道すがら、西行は狂言綺語の戯れ、讃仏乗の因とは、まさにこのことで、もし自分があのような歌を詠まなかったら、あの遊女と会うこともなかった、とありがたく思うのだった。その後、江口を訪れようとしていたところ、用事ができて行けなくなったので、使いの者に消息を託した。

かりそめの世には思をのこすなと ききし言の葉わすられもせず

すると、返事が来たので、急いで開いてみると、美しい字で

わすれずとまづきくからに袖ぬれて 我身はいとふ夢の世の中

と書き、尼にはなたものの、心はいまだ思うようにならないと書かれた後に

髪おろし衣の色はそめぬるに なほつれなきは心成けり

という歌が添えてあった。

この説話で語られる「狂言綺語の戯れ、讃仏乗の因」とは、『和漢朗詠集』に収められている白楽天の詩にあるもので、美辞麗句をもって人を惑わす言葉も、仏法を讃美する起因となるという意味で、遊女が客を魅惑することも、西行が歌を詠むことも狂言綺語の戯れであり、そういう罪を仏法に転換することによって、自他ともに救われる、という考え方を示しています。江口の遊女は、長年たずさわってきた売色の経験により、人間の真実に目覚めたので、それは正しく泥中に咲いた一輪の花に喩えられ、そのようないわく言い難い人生の機微を表現するのに、西行はこの歌のようなまわりくどい表現を用いたのもしれません。

 【参考図書】

西澤美仁編「西行─魂の旅路」(角川ソフィア文庫)

橋本美香「西行」(コレクション日本歌人選)

白洲正子「西行」(新潮文庫)

地獄絵を見て

見るも憂しいかにかすべき我が心 かかる報いの罪やありける

「地獄絵を見て」という詞書の、いわゆる地獄絵連作と呼ばれる27首の最初の一首です。小林秀雄は、この歌について「こういう歌の力を、僕等は直かに感ずる事は難しいのであるが、地獄絵の前に佇み身動きも出来なくなった西行の心の苦痛を、努めて想像してみるのはよい事だ」と言っています。この「見るも憂し…」を含めた最初の4首は27首の連作の序文のような位置づけで、この連作全体をこういうものだと概観しているようなのです。この歌では、「見るも憂し」、つまり見るのも辛いと呻きながら、それでも眼前の地獄絵から目を逸らすことができないでいます。それほどまでに深刻にならざるを得ない「我が心」に動揺し、自身の抱える地獄に堕ちる因果を追究する。「かかる報いの罪やありける」と、このような報いを受けるに値する、どんな罪を私が犯したというのか、という表現は、地獄絵の画面に釘付けにさせられてしまっている西行の状態を如実に表していると言えます。地獄絵は、罪業の諸相を執拗に生々しく描かれていて、宮廷の高級女官たちをキャアキャア騒いで慄かせるたといいます。人々に地獄の恐ろしさと仏教の価値を認識させるのでしょう。しかし、西行の場合には、その通常の効果をはるかに越えて作用して、この歌にしても、伝統的な和歌として雅やかさの中にうまく収まりきれていない、敢えてそうすることを自己に許さなかったところがあるように思わせる。「見るも憂し」と一度は目を背けながら、自身の恐怖の由来を確かめるべく執拗な内省を行った。西行は、地獄絵に対して平静な心情でいられない自身の心に動揺し、自身の罪を思う。

地獄絵については、法然や親鸞が現われる以前の天台や真言の浄土の理念では、この世を穢土として厭離させるために、この世の中で振る舞った行為はひとりでに穢汚を指すことになり、穢汚が少しでも企矩を踏み外すと悪業となり、悪業の多様な種類に対応して懲罰をうけ、悔い改めの契機を造るような来世の場所を「地獄」としてビジュアルに実体化することは、重要なことになっていました。そのために経典の中から、これでもかこれでもかというように、死後の人間が罪人として残虐な報いを受ける場面が描かれました。このような場面は人々に恐怖心や強迫観念を与えて、おびえから罪の自覚に誘導するというものでした。啓蒙的な僧侶がこの傾向に拍車をかけ、可逆的な懲罰の場面をいやというほど絵に作り上げ、人々の被虐的な強迫観念に食い込むように説教をしたといいます。それは、実際に罪を犯した身に覚えのある人には切実でしょうが、仏教の浄土の理念は、正直で信心深いでさえも、ひとつやふたつは思い当たることが必ずあるという罪を悪業の内に数え上げ、あたかも、ひとはみな地獄の報いの恐怖から逃れることはできないという根源的な恐怖となって迫ったのです。こういうシステムに異議を感じたのは法然であり、その違和感を突き詰めて理論化したのが親鸞でした。西行は、未だ法然や親鸞の思想が広まる前の人ですから、このシステムに片足を突っ込んでいたくらいの位置づけで、この歌の姿勢も、そういうとこから窺うことができると思います。

「見るも憂し…」に続く、序文的な3首は次の通りです。

あはれあはれかかる憂き目をみるみるは 何とて誰も世にまぎるらむ

うかるべきつひのおもひをおきながら かりそめの世に惑ふはかなさ

うけがたき人のすがたにうかみいでて 懲りずや誰もまたしづむらむ

「見るも憂し…」の歌では、「かかる報いの罪やありける」という問いかけは「我が心」に向けられます。それが次の「あはれあはれ…」では「何とて誰も」と人間存在一般へと敷衍され、このように人間の愚かさを悲嘆しているが、しかし客観的な立場で詠まれているのではなく、その一人である彼自身の個人的な自省に基づいて詠まれていると言えます。「うけがたき人のすがた」に生を享けながらも「つひのおもひ」をおいて「かりそめの世」に執着している自身の罪を見出している。

最初の4首に続く11首では、地獄絵を見て、それが与える恐怖を主観的な詠嘆の後をまじえながらも写実的に詠んでいると言えます。例えば

好み見し剣の枝に登れとて 笞の菱を身に立つるかな

西行以前に地獄絵を詠んだ歌として、例えば、

地獄のかた書きたるを見て             菅原道雅女

三瀬川渡る水棹もなかりけり 何に衣を脱ぎて掛くらん

地獄絵につるぎの枝に人の貫かれたるを見てよめる  和泉式部

あさましや剣の枝の撓むまで こは何の身になれるなるらん

舟を漕ぐのも衣服を掛けるのも同じ棹だ、という機知に逃げ込むように詠まれた「三瀬川…」の歌の呑気さに比べると、和泉式部の受けた衝撃は大きかった。愛欲に溺れた罪で自分もやがて地獄に堕ちてしまうという切迫感が感じ取れますが、同時に「枝」と「実」を縁語にするなどして、和歌らしい体裁が整えられています。西行の「好み見し…」の歌は、この和泉式部の歌を踏まえて詠まれていて、「剣の枝」に「木の実」「菱」を縁語とて配してはいます。愛欲の罪から、彼自身の出自である武士と関わる殺生の罪に転じています。その罪は彼自身にふりかかるとして直接的に表現されていて、和泉式部の歌が主観的な表現が用いられてはいても、地獄絵を詠んでいるのに対して、西行は直接自身のこととして、地獄絵を見て生じた心の苦を主として詠んでいるのが特徴的です。

黒きほむらの中に、をとこをみな燃えけるところを

なべてなき黒きほむらの苦しみは 夜の思ひの報いなるべし

わきてなほ銅の湯のまうけこそ 心に入りて身を洗ふらめ

塵灰にくだけ果てなばさてもあらで よみがへらする言の葉ぞ憂き

あはれみし乳房のことも忘れけり わが悲しみの苦のみ覚えて

たらちをの行方も我も知らぬかな 同じほのほにむせぶらめども

11首の終わりの5首で、小林秀雄がとくに上げている5首です。いずれも地獄の猛火の中で苦しんでいる男女を描いたもので、焼けて塵灰になったかと思えば蘇り、蘇るとまた火の中へ連れ戻される。自分の父母も、同じ炎にむせんでいるであろうに、その行方を今は知ることもできない、と悲しんでいる。「なべてなき…」の歌では、地獄の極熱の炎に焼かれる罪人を「夜の思ひの報いなるべし」と断定していて、こんなことに耽っていてはいいのだろうかという抑圧された性意識を、これほどまでに直截に表現した歌人は、平安末期から中世にかけて他にいないと、吉本隆明は指摘しています。

「黒きほむら…」の詞書は「なべてなき…」の歌のもののはずですが、それに続く歌にも「をとこをみな燃えけるところ」を扱っています。「なべてなき…」の歌が夜の性行為への懺悔だとすれば、「わきてなほ…」同性愛や姦通のような不倫のエロスに対する懺悔です。「あはれみし…」の歌と「たらちをの…」の歌は、愛欲に見られた罪を一般的な男女から身近な父母へと引きつけて読んでいる。嬰児の自分を可愛がって乳房を含ませてくれたはずの母の温もりを忘れてしまった。私自身がやがて堕ちるだろう地獄の悲しむべき苦痛の恐怖ばかりに心を占められてしっている、と詠んでいます。一方、「同じほのほ」は、「をとこをみな」及び母が焼かれている炎です。「たらちをの行方も我も知らぬかな」と言うのは、「乳房のことも忘れけり」とほぼ同じ表現と言えます。多くの罪人と一緒に燃えている父親を助けたいのだが、そう言う自分自身でさえ罪深い存在であり、とても人を回向できる分際ではないのだ、という認識が「我も知らぬかな」と、一見冷淡な言いまわしになっています。つまり、父や母の罪深さを悲しいと一般的な感慨に留まることなく、西行の「わが悲しみの苦」は、はっきりと母親の乳房につつまれた自分が思い出せないと詠んでいます。ここでは西行の心はひたすら自己自身に向かっているのであり、これらは自己を詠んだ歌として連作の最初の「見るも憂し…」の歌に対応するものと言えます。この2首は西行の深い人間観に裏打ちされた、痛切な歌です。

そして、この後に続く、連作の後半の歌には、長い詞書が物語的に人物の言動が描かれて、歌よりも文章に力が注がれて、単に地獄絵の描写ではなくて、「見るも憂し…」の歌の「いかにかすべき我が心」という問いかけに対する解答を模索するものになっています。前半の歌が罪を題材にしていたのに対して、後半は救済を主な題材にしている。そういう点で趣が変わっています。

こころをおこす縁たらば阿鼻の炎の中にてもと申す事を思ひいでて

ひまもなき炎のなかの苦しみも 心おこせば悟りにぞなる

この詞書は慈恵大師の和讃『註本覚讃』に「心を発す縁あらは阿鼻の焔の中にても仏の種とは萌てん」とあるに拠ったものという指摘があります。和歌の方は、ほとんど詞書を定型のリズムで繰り返しただけのような内容で、新たに展開するプラスアルファは見られません。しかし、流れの中に置いて読めば、「ひまもなき炎のなかの苦しみ」は、我が悲しみの苦ととれて、「心おこせば悟りにぞなる」も、他の発心への勧めというよりは、心の動揺を都合のよい仏説を援用して何とか打消す救済を信じようとしている。

阿弥陀の光願にまかせて、重業障のものをきらはず、地獄をてらしたまふにより、地獄のかなへの湯、清冷の池になりて、はちすひらけたるところを、かきあらはせるを見て

光させばさめぬ鼎の湯なれども はちすの池になるめるものを

前の「ひまもなき…」に続いて、同じような作業を繰り返すように、地獄に阿弥陀如来の光が射し込むことにより、人が煮られる釜の湯が、蓮の池に変わるが置かれ、阿鼻地獄の苦しみが阿弥陀如来によって救済されることが詠まれています。

三河の入道、人すすむとて書かれたる所に、たとひ心にいらずとも、おして信じならふべし。この道理を思ひいでて

知れよ心思はれねばと思ふべき ことはことにてあるべきものを

「三河の入道」は大江定基が出家した後の呼び名で、人に仏道を勧めた時の言葉に、たとえ心に納得しなくても無理に信じるべきだと書いていたのを思い出して詠んだとあります。「ことはことにて」は「事は異にて」と漢字を充てるもので、信じなくてもいいから、仏門に入った方がいい、「知れよ」と強い口調で、まるで自身に言い聞かせているような趣があります。それは、少し変なところがあります。三河の入道の説いたのは現世の絆によって世を捨てられない人々に向けての発心の勧めであったはずです。それを、もう何十年も前に出家した西行が、未だに自身の言い聞かせるような歌を詠んでいる。それが変だというのです。西行は、信じようとして、信じられないでいる。信じようとすること。そして信じられないでいること。それが、あえて、このような変な歌を詠ませている。おそらく、西行の信仰のあり方、ここに暗示されている。西行の求めたのは、自己の内面に答えることのできる、固有のもの。それが、この連作の最初に問われて、それに対する答えでもあったのではないかと思われます。

おろかなる心の引くにまかせても さてはいかにつひの思ひは

煩悩に満ちた愚かな心に身を任せていて、さて死ぬ時の覚悟は如何ばかりか、と自問自答しています。前の「知れよ心…」の歌と対をなしていますが、臨終の正念場の思いを予測することはできなかった。人間というものは、生きている限り、最期まで煩悩から逃れることはできない。人間はそんなに強いものではない。そのことを「おろかなる心」と詠みました。しかし、それだけのことを意味として言うだけなら、西行自身もっと明解に歌を詠んでいます。例えば、

世の中になくなる人をきくたびに 思ひは知るをおろかなる身に

などがそうです。これに対して、西行が「知れよ心…」の歌でやろうとしたのは、この現世の無常を気づかぬまま過ぎて、いつの間にか最期の時を迎えてしまう愚かさを言っているのではなく、また、そのことを知っていても誰でもそうなってしまうものだということを痛切に悔恨する思いでもありません。そういうふうに流布されて人々の常識のなかにおさまった浄土の理念を承認しながらも、たんに流布理念として受け入れることを拒否して、ひとつひとつたしかめながら心の中に言葉を積み入れたかった。意味は同じに見えても、浄土理念をうまく歌にしたものとは違う。自問自答に類して口の中に声が含まれて、他人には聞いても分からないかもしれないが、うかうかと過ごしてしまう愚かさと、そのあとの悔恨。それは、たとえ地獄に堕ちて責め苦に遭うといわれても、人間はそんなふうにうかうかとしか生涯を過ごせない存在なのではないかという。それが、前の「知れよ心…」の歌で、信じることの自問自答と対比するように、「いかにかすべき」の回答をもとめている。

そして、連作の最後は次の2首で締めくくられています。

すさみすさみ南無と唱へし契りこそ 奈落が底の苦に代はりけれ

朝日にや結ぶ氷の苦は解けむ 六つの輪を暁の空

 【参考図書】

西澤美仁編「西行─魂の旅路」(角川ソフィア文庫)

橋本美香「西行」(コレクション日本歌人選)

白洲正子「西行」(新潮文庫)

小林秀雄「無常といふ事」(新潮文庫)

吉本隆明「西行論」(講談社文芸文庫)

 

嵯峨に住みけるに、戯れ歌とて人々よみけるを

うなゐ子がすさみに鳴らす麦笛の 声に驚く夏の昼ぶし

嵯峨に住んでいたころに、「戯れ歌」として人々と詠んだ、と詞書にある13首の連作の第1首です。同じように『聞書集』に収められている「地獄絵を見て」と題する作品群とともに、他の歌人にはなく西行の歌として異彩を放っているので珍重されています。例えば、小林秀雄の“子供を詠んだ歌も実にいいが、彼の深い悲しみに触れずには読み過ごせない。其後、かういふ調べに再会するには、僕等は良寛まで待たねばならぬ。”という評言は有名で、現代では吉本隆明の“西行は、べつに苦しまなくても済んだものを、何処からやってくるともしらず、何につながるかも予見できず、はっきりと体系をとれないままに、こころにたまっている矛盾のすがたを、子供たちの遊びの姿から思いおこさねば矛盾のすがたを、子供たちの遊びの姿から思いおこさねばならなかった。(中略)この「たはぶれ」歌は、老いた罪人のうたのようである。西行は、純粋な詩人だったろうが、けっして素朴な詩人ではない。ただの無邪気な人間は、幼時を思い出したり、子供の遊びこころに描いたりできないものだ。かれは日常にまぎれていれば結構やっていける。単純な感情的な表現ではなく、複雑な論理的なこれらの子供詠の調べは、西行の純粋さが負っている罪障感が練りに練られていることを意味している。”という評言も、「戯れ歌」を子供たちの遊ぶ姿に対して温かいまなざしを注ぎつつ、老年にさしかかった西行が、その感慨を一見では軽妙だが、それゆえに深い含蓄の連作と捉えています。

この歌は、子供が吹き鳴らす麦笛の音に、草庵で昼寝をしていて、はっと目を覚ました様子を詠んだものです。「驚く」は目を覚ますという意味で、「うなゐ子」は髫髪(うない)という項に髪を垂らした、現代の髪型でいえばオカッパ頭の子供のことで、広く童子を指します。この「うなゐ子」を冒頭に置いた戯れ歌は、子供と遊び戯れる程度の気軽さで詠んだ歌であって、あんまり深刻に読まないで欲しい、ということになるでしょう。子供の遊びの姿を描きながら、昼寝から覚めてまだ夢心地でいる自分自身の姿に焦点が当てられて、夢うつつのあわいとでもいえるような様子を表わしています。『白氏文集』に「晝寢」という夏の昼寝を詠じた漢詩は発想源の一つという指摘もあるようですが

坐整白單衣,起穿黃草履。朝餐盥漱畢,徐下階前步。

暑風微變候,晝刻漸加數。院靜地陰陰,鳥鳴新葉樹。

獨行還獨臥,夏景殊未暮。不作午時眠,日長安可度。

夏の昼下がり、ついうとうとしていると、草庵の近くを麦笛を吹きながら子供が走り抜ける。はっと目覚めた老人は、その麦笛を夢の中で聞いていたのか、現実だったのか分からなくなる。近くの子供が現実に走りまわっているのか、夢に出て来たのか、それは幼少時の自分だったのか、走っていたのは自分であったのか、その境がはっきりしないまま、またとろとろと夢の中に落ちてゆく。

戯れ歌は、この歌に続いて

昔かな炒り粉かけとかせしことよ あこめの袖に玉襷して

竹馬を杖にして今日も頼むかな 童遊びを思ひ出でつつ

「炒り粉かけ」とは子供のおやつのようなもので、たすき掛けして遊びながらつくって食べた思い出とか、竹馬で遊んでいる子供の姿を見て、子供の頃に遊んだのを思い出し、現在の自分をありのままに凝視するという歌が続きます。それらが最後の3首では様子がかわってきます。過ぎ去った者に対する切なさや、人生に対する哀歓のようなものが伝わってくる。とくに下の句に仏教的な観念を伴った深い内省的な内容が盛り込まれた歌なのです。

石なごのたまの落ちくるほどなさに過ぐる月日はかはりやはする

「石なご」とは石をまき、その中の一つを投げ上げておいて、下の石を拾い、落ちてくる石をつかみ取って、順に拾い尽くす遊びです。石なごの玉を投げて落ちてくる短い時間と比較して、過ぎ去ってゆく月日の速さは少しも変わりはないと言っています。「ほどなさ」には、月日の速さと短さの両面が込められています。「過ぐる月日」を一般的な時間観念だけでなく、人間の一生、自己の人生と重ねているとみると、「はどなさ」は、短さの方を強調しているように見えます。「やは」という反語によって、人生の無常迅速、瞬間性を、自己自身にも納得させようとするニュアンスを帯びているように見えます。

いまゆらも小網にかかれるいささめのいさ又しらず恋ざめの世や

「いまゆらも小網にかかれるいささめ」は、小さな魚が小網にすくいあげられたような一瞬のはかない生命、無常のことにも通じる風情を表わしていると思われます。「恋ざめの世」は、恋からさめたような、味気ない現実的な世のことで、世の切なさや無常性を形容したものと思います。

そして、最後の13首目では、

蓴這ふ池に沈める立石の 立てたることもなき汀かな

じゅん菜が這うように繁茂した池に、立石が倒れて沈んでいる。水際に立ってそれを眺めていると、志を立てたのにもかかわらず、これといって取り立てた功績もなく老人になってしまった我が身であることよ。という内容で、「立石」は沈淪の身を嘆く述懐の意を表現していて、「立てたる」の「立て」には、「石を立てた」と「誓いを立てた」の意味が掛けられており、「汀」には、池の「水際」と「見の際」が掛けられています。西行が四国の旅で詠んだ「立て初むる糠蝦採る浦の初竿は 罪の中にもすぐれたるかな」でも用例がみられます。したがって、この歌は、倒れてしまって人から顧みられない立石のように、人に知られずに我が身は無用に帰してしまうのだろろうかと、自嘲しているように見えます。しかしだからといって重く沈んだ思いというのではない。というのも、最初に子供の遊びの世界を提示して、まるで昼寝をしてぼんやり過ごしたような老人になってしまった自分の人生を澄んだ目で見つめているのが感じられるからです。最後に最初の歌に円環的に回帰します。

久保田淳はそれを“この作品全体に子供達の姿への愛に満ちた目が働いていることと、それに伴う安らかさが漂っていることを否定するものではない。けれども同時に、まことに安々と、口軽く歌い出されているこの作品群が、「あはれなりける」とか「あはれなりけり」というように、次第にしみじみとした情感を表に出してきて、幼時の恋の回想へと分け入り、時の過ぎてゆく速さを嘆き、この世に対する幻滅を歌い、そしてわが身への自嘲にも似た、荒廃した風景を歌って終わる点をも、─いわば甘く軽やかな旋律が次第に苦く重くなってゆく、明るい色調が次第に暗くなってゆくということをも、軽視すべきではないと考える。”と言っています。そういうサイクルというかストーリー性が、この戯れ歌の13首にはあると思います。冒頭に挙げた小林秀雄や吉本隆明は、その中でも最後の3首の内省的な作品に重きをおいて、子供の遊びを素材にした10首をそのエピローグのように捉えているような、子供の遊びのような無垢で軽やかな世界と対照させて、最後の3首のいわば精神性を過剰に読み込むことで、これらを評価していると思います。もっと、気楽に異質な言葉の響きの和歌を楽しめばいいのに、そこに西行のユニークなとこがあるのに、と私は思います。

 【参考図書】

小林秀雄「無常といふ事」(新潮文庫)

吉本隆明「西行小論」吉本隆明全著作集第7巻(勁草書房)

西澤美仁編「西行─魂の旅路」(角川ソフィア文庫)

橋本美香「西行」(コレクション日本歌人選)

塚本邦雄「西行百首」(講談社学芸文庫)

宇津木言行「隠者の姿勢─西行「たはぶれ歌」論」

久保田淳「山家集」(岩波書店)

歎けとて月やはものを思はする かこちがほなる我が涙かな

『小倉百人一首』に選ばれてこともあって、西行の歌の中でも最も親しまれているもののひとつではないでしょうか。『千載集』にも収められ、「月前恋といへる心をよめる」という詞書がついて、「月前の恋」という題で恋による苦悩を詠んだと言われています。『山家集』では「月」とだけ題されて、恋の部に収められています。

「かこちがほなる我が涙」は、本当はあなた恋しさが涙の原因なのに、月にかこつけようとするかのように涙が流れ出る、という意味です。恋の苦しみのためにあまりに無防備に月の美しさが心に突き刺さってしまう感覚を、月が美しすぎるから、と月にかこつけようとする涙の演出と受け止めています。これ以上恋の痛手を深くしないようにと心配りする「我が涙」は、私にとってかけがえのない友である、というのですが、裏返すと、それだけ涙との付き合いは長くて、いつまでも泣き続けた恋だった、ということのようです。

橋本美香によれば、平安時代には恋による女性の苦悩は物の怪に化すと信じられていたといいます。例えば、『源氏物語』では、光源氏との恋に苦しんだ六条御息所が、源氏の正室である葵上や愛人の夕顔に対して怨霊のように憑りついて殺してしまいます。作者である紫式部は、「亡き人に詫言はかけて煩ふも己が心の」と、物の怪が原因だと思い煩っているのは、実は自分の心に宿る鬼(邪心)の仕業であろうと暴いているといいます。古来、月は「月見れば千々に物こそ哀しけれわが身一つの秋にはあらねど」という大江千里の歌に見られるように、人の物思いを誘うものとして受け取られてしました。西行はこの「歎けとて…」の歌で「かこち顔」という表現を使い、自ら月の仕業であるように仕向けていることを明らかにしています。このように月が物思いをさせるなどというのは誤りだとするこの「歎けとて…」のような歌は珍しいと言えます。古典の世界では、男が女性の許へ行くことができない理由を、月がないから足元が悪くてなどと言い訳するのが、月の明るい夜にはかこける理由がない。そのため、月夜に男を持つ女性の物思いは一層深い。この「歎けとて…」の歌では、自分自身が恋による物思いを月のせいにしていますが、それが偽りであることを冷静に見つめる視線がそこにあります。その視線は月の位置からで、そこで自身の嘆きを距離を置いて客観化している。そういう姿勢は、この歌では、とくに上の句に表われています。しかし、下の句が過度に感傷的であったので、感傷的な歌ということになってしまったのが、この歌の経緯を複雑にしていると思います。

 【参考図書】

西澤美仁編「西行─魂の旅路」(角川ソフィア文庫)

橋本美香「西行」(コレクション日本歌人選)

桑子俊雄「西行の風景」(NHKブックス)

あはれあはれこの世はよしやさもあらばあれ こむ世もかくや苦しかるべき

この歌は、「あはれあはれ」と、感情を露わにする「あはれ」を二度も繰り返す深い歎きとともに始まります。その歎きは、「この世」と「こむ世」、つまり現世と来世に対するものです。この深い苦悩が同じように来世も続くのかと推し量っています。

初句の「あはれあはれ」に続けて「この世はよしやさもあらばあれ」と続きます。あたかも、どうなろうと構わないと、自暴自棄になってこの世への希望を抱いていないかのようです。しかし、このあとに続く下の句の「こむ世もかくや苦しかるべき」で、来世もこのように苦しいのだろうかという不安を訴えているところからすると、その裏では来世も苦悩することはどうしても避けたいと願っていることもまた明らかです。

この歌は、『山家集』では、恋題としての60首ほどの連作の最後から2番目に配置されていて、最後には「頼もしな宵暁の鐘の音もの思ふ罪も尽きざらめやは」と、鐘の音によって恋の物思いの罪障は滅するに違いないと期待した歌が配されています。

このようにして読んでいくと、この歌は果たして恋歌と言ってよいのか、疑わしくなってきます。どちらかというと、恋という心理状態を設定することによって内面の思いを表わそうとしている。一般的な恋歌の、繊細優美な恋の情趣を詠い、完成された美的世界をつくろうとするものとは、この西行の歌は異質です。この歌に限らず、西行の恋歌には、自己凝視の歌というにふさわしく、知的、思弁的な傾向をもち、恋の苦悩を現世に生きる人間の煩悩とみて、煩悩の夢から覚める悟りを目指す境地を表わす述懐の歌と重なるものがあります。それが特徴的です。

 【参考図書】

橋本美香「西行」(コレクション日本歌人選)

桑子俊雄「西行の風景」(NHKブックス)

いとほしやさらに心の幼びて魂ぎられるる恋もするかな

この歌は、恋の始まりから終わりまでを歌にした連作「恋110首」の中のひとつだそうです。和歌には、その時々の感情に即して実体験を詠むばかりではなく、あらかじめ決められたテーマで歌を詠む題詠という手法がありますが、この歌を含む「恋110首」は題詠で生まれた歌です。

この「いとほしや…」の歌には、当時としては斬新な表現が多数試みられているといいます。初句の「いとほしや」という言葉は、可愛らしいという意味ではなく、情けないとか見るに堪えないという意味です。もともと、この語の語源は「厭う」と同根で「労しい」から転じたと言われています。そもそも、このような言葉を自分に対して使うというのは自虐以外の何ものでもありません。だから、もともとは他人について用いる表現です。それを自分の心情に使っているところが新しい。西行は、別の恋歌でもこの語を使っていて、それは次のような歌です。

我のみぞわが心をいとほしむ憐れぶ無きにつけても

「我のみぞわが心をいとほしむ」というのは、自分だけが自分の心を愛おしいとするナルシシズムではなく、恋をすることが原因となって、自分自身を傷付けてしまうことを情けなく思うということです。そのように自分自身を情けなく思うのは、誰も自分のことを気の毒だと思ってくれないからだという意味合いが含まれている。

第三句の「さらに心の幼びて」も斬新な表現ということです。心が幼い、つまり幼稚であるというのですが、言い換えれば、考え方が未熟で、思慮分別のないさまのことです。「さらに心の幼びて」という言い方なので、「さらに」という、程度がその上をいくので、恋をすることによって心がいっそう幼くなると言っています。それは、恋によってこの世への執着がよりいっそう深くつのってしまった状態を指しているという意味合いです。

そして、第四句の「魂ぎられるる」もそうです。魂が切り刻まれというイメージで、このことを自覚して、嘆かわしいという意味合いです。

「歎けとて…」の歌で恋で苦悩する自分を突き放すように冷静に分析した西行ですから、この歌では、「いとほし」や「心幼ぶ」や「魂ぎれらるる」という斬新な表現を恋の歌に用いることを可能にさせたのだと言えます。恋することを嘆かわしく厭わしいとするような発想は、出家者としての西行が俗世にあって恋に物思う心の状態との違いを歌の世界であぶり出している。それが西行の恋歌の特徴だと思います。

 【参考図書】

橋本美香「西行」(コレクション日本歌人選)

木曽と申す武者死に侍りにけりな

木曾人は海のいかりを沈めかねて 死出の山にも入りけるかな

木曾に育った武者はついに大海の怒りを静めることができず、死出の山路を越えることになったのだろうか、という内容の『聞書集』に収められた歌です。

「木曾人」とは木曽義仲のことで、26歳の若さで上洛し平家を都から駆逐しました。しかし、山育ちの彼は、都の文化や生活には馴染めず、後白河院に嫌われ、平氏追討という院宣で西国に逐われ、備中水島で大敗を喫し、今度は義仲追討の院宣がだされ、源義経に遊撃され粟津で30歳で戦死しました。その最期は主従二騎らなり、乳母子であった今井四郎兼平を気遣いながら、自決もかなわず泥にまみれて惨めに死んでいった。その場面は『平家物語』の「木曽殿最期」という悲愴哀切を極めたクライマックスです。

ところが、西行は「木曽と申す武者死に侍りにけりな」と、せせら嗤うような一行の詞書を添えるだけです。「木曽と申す武者」とか「木曽人」という呼び方自体、『平家物語』が滑稽な田舎者として描く視線と共通したものです。「海」が平氏一門のことをほのめかし、「いかり」が「怒り」と「錨」、「しづめ」が「鎮め」と「沈め」のそれぞれの掛詞になっている。そういう諷刺が込められている。このような酷薄な一首は、親平家の、実家の佐藤氏の本領を侵した木曾人への憎しみがあったという説もありますが、『聞書集』では、この歌と同テーマの歌が並んでいます。

世の中に武者をこりて、西東北南、いくさならぬところなし。うちつづき人の死ぬる数聞くをびただし、まこととも覚えぬほどなり、こは何事の争いぞ、あはれなることの様かなとおぼえて

死出の山越ゆる絶え間はあらじかし 亡くなる人の数続きつつ

武者のかぎりむれて死出の山こゆらん、山だちと申す恐れはあらじかしと、この世ならば頼もしくもや。宇治のいくさかとよ、馬筏とかやにて渡りたりけりときこえしこと思ひいでられて

沈むなる死出の山川みなぎりて 馬筏もやかなはざるらん

二首目の詞書にある「山だち」は、山賊のことで、こんなに武者が列をなして死んでいくのでは、死出の山で、山賊に遭っても恐くはないだろうと皮肉っています。「宇治のいくさ」とは、平家物語で有名な宇治川の合戦で、馬筏(馬を並べて筏のようにする)で防戦につとめたが、かなわなかったことを詠んでいます。

 【参考図書】

西澤美仁編「西行─魂の旅路」(角川ソフィア文庫)

白洲正子「西行」(新潮文庫)

塚本邦雄「西行百首」(講談社学芸文庫)

 

陸奥の国へ修業して罷りけるに白河の関に留まりて、所柄にや常よりも月おもしろくあはれにて、能因が、「秋風ぞ吹く」と申しけむ折、何時なりけむと思ひ出でられて、名残多くおぼえければ、関屋の柱に書き付けける

白河の関屋を月の洩る影は 人の心をとむるなりけり

西行は20代の終わりごろ陸奥(現在の東北地方)を旅したそうです。その目的の一つが能因の歌枕探訪だったということです。白洲正子によれば“平安時代にみちのくといえば、最果ての国であり、蝦夷の住む未開の原野のように思われていたであろう。ことに人の心も生活も閉鎖的になっていた平安末期の宮廷人にとって、この謎に満ちた辺境の地が、好奇とあこがれの対象となったことは想像にかたくない。東北地方に歌枕が多いことが、それを証しているが、ただでさえ未知のものに惹かれた西行が、興味をもたなかった筈がないのである。特に西行の場合は、先祖の俵藤太秀郷が活躍した地方であり、歌枕を詠むだけではあきたらず、実地に訪れて、自分の眼で確かめずにはいられなかったと思う。”と、当時の陸奥が現実ではなく虚構の幻想の世界ということになると思います。

歌枕というのは歌人たちによって詠まれ、そして詠みつがれた土地であり、地名であり、または広くは詠まれたもの一般です。この歌に詠まれた土地というのは、一種のフィクションのような歌を詠むときの約束事のようなもので、実際になくてもかまわないものです。とりわけ陸奥は京都からは、あまりに遠く、京都の貴族たちにとっては、和歌を詠む空間として想像力を駆使してうたいあげるべき場所であったと考えられます。実際に白河の関におもむいた人は西行は別にしていないのではないか。ただ、和歌の決まり事のように、こういうときにはこの歌枕を使うとか、言葉の響きで歌の調子を整えるツールとして活用するといった、表現の形式的な、装飾的な手段としてことばあそびのようなものして使われていたものだと思います。そんな、現実に、あってもなくても、そんなことはどうでもいい歌枕を敢えて探しに旅に出たのが能因であり、彼の足跡を追うように旅した西行であったわけです。

「白河の…」の歌に戻りましょう。まずは詞書で言っていることは、次のような内容です。奥州への修業のために下ったとき、白河の関にとどまると、場所柄によるのだろうか、いつもより月が面白く趣が深かったので、能因法師が「秋風ぞ吹く」と詠んだのは、いつだったのだろうかと思い出されて、名残りも多く思われたので、関屋の柱に書き付けた歌。この詞書で取り上げられている能因の「秋風ぞ吹く…」というのは

都をば霞とともに立ちしかど 秋風ぞ吹く白河の関

京都を出立したのは、ちょうど春霞が立ち始めた立春のころであったが、陸奥の玄関口である白河の関に着いてみると、白秋の立ったことを感じさせる秋風が吹いていた。つまり、京都から白河の関まで、当時の標準では1ヶ月半であるはずが、最果ての陸奥の国の玄関口である白河の関に辿り着くのに半年もかかってしまった、という苦難を大仰にうたい上げている。さらに、「白河の関」の「白」を、陰陽五行説でいうと春は青(青春)で、秋は白(白秋)ということに当てはめると、秋の白河到達に必然性を持たせています。半年の行程を立春と立秋との距離として表わそうとして、立秋との距離として表わそうとして、立秋の象徴である「風」と立春の象徴である「霞」とを対比的に持ち出し、「都を出立する」と「霞立つ」とを掛けて、春の旅立ちに必然性を表わしています。

そういう能因の歌を現地で確認するように、西行は「白河の関屋を…」、秋風が吹くころに白河に来たという能因は、関屋に洩れ入る美しい月光に迎えられて、すっかり心惹かれたことだろう。と、遠い昔にここを訪れた能因をしのび、時を隔てて同じ空間に立ち会う感慨に満たされていて、そのような履歴をもつ空間で西行がふたたび歌を詠むことによって、歌枕は履歴を積み重ねて行くわけです。その重ねられ刻まれた履歴を越えて、そこを実際に訪れた西行は、和歌に詠まれる空間と、現実の歴史的空間が重なる。そこで、西行は和歌に詠まれる空間の中に留まることがなかった。その外の現実から目を背けることはなかった。そういう姿勢で詠まれた西行和歌の世界というのは、現実だの、作者である西行自身が実体として、その中にいる、そういうことを西行は志向していたと言えるのではないか。つまり、世界の認識、それが存在と結び付くということです。

 【参考図書】

西澤美仁編「西行─魂の旅路」(角川ソフィア文庫)

白洲正子「西行」(新潮文庫)

桑子俊雄「西行の風景」(NHKブックス)

陸奥の国にまかりたりけるに、野の中に常よりとおぼしき塚の見えけるを、人に問ひければ、中将の御墓と申すは是が事なりと申しければ、中将とは誰がことぞと、又問ひければ、実方の御事なりと申しける、いとかなしかりけり、さらぬだに物哀に覚えけるに霜枯れ枯れの薄、ほのぼの見えわたりて、のちに語らん言葉なきやうにおぼえて

朽ちもせずその名ばかりを留め置きて 枯野の薄形見にぞ見る

歌枕という和歌に詠まれた土地で、その積み重ねが現実を離れて、和歌の言葉で作られた想像的空間となっていたところに、西行はあえて実際に訪れて、現実を見るというのが、彼の東北の旅であったと言えるかもしれません。しかし、実際に来てみると、歌枕では覆い切れない切実な体験をすることになった。この歌などは、そう想わせるところがあります。しかも、西行には珍しく、ロマネスクな貴種流離譚の色合いの濃厚な作品になっています。

詞書の内容は、奥州へ旅した時に、野の中に普通よりも立派に見える墓が見えたので、人に尋ねたところ、中将のお墓というのはこれのことだと申したので、中将とは誰のことかとまた尋ねたところ、実方のことですと言ったのには、たいへん悲しい気持ちになった。そうではなくても哀れに思えるのに、霜で枯れがれになったススキがぼんやりと見え渡せたので、後になって語ろうにも言葉がないように思われたので。

中将実方とは、藤原実方という「枕草子」にも度々現われる人気の貴公子で、一条天皇の面前で藤原行成と和歌について口論になり、怒った実方が行成の冠を奪って投げ捨てるという事件が発生。このために実方は天皇の怒りを買い、「陸奥の歌枕を見てまいれ」と奥州への左遷を命じられた。赴任して3年後、憂悶のうちに亡くなり、帰還もその後の昇進の夢もかなわず、魂は雀になって帰京、平安京清涼殿の「台盤所」の飯を食い散らしたという伝説も残されているということです。左遷された赴任地で失意のうちに亡くなり、死後、魂が都に戻るというと、菅原道真が怨霊となって、都に災厄をもたらしたという伝説が有名ですが、実方の場合は、怨霊になりきれないことが、却って個人的な悲哀の物語として捉えることができると思います。

「朽ちもせず…」の和歌は、不朽の名声だけをこの世に残して、実方中将はこの枯野に骨を埋めたというが、その形見には霜枯れの薄があるばかりだ、という内容。「朽ちもせずその名」という表現には手向けの対象が、後代の西行にとって歌人として著名な人物であることが分かります。そして、「枯野の薄形見にぞ見る」からは実方が陸奥で果てたことを既知として眼前の薄を見ている西行の姿を見ることができます。「枯野」や「薄」は、実方の次の歌と重なります。

霜枯れて枯れ野に立てるむら薄篠におしなみ雪降りにけり

橋本美香は、美貌学才の風流好色の貴公子として実方より一世紀先立つ在原業平は、「伊勢物語」でも東国に下ったことが知られていますが、その業平には、奥州の地で薄に貫かれた小野小町の髑髏と対面する伝承があったといいます。その業平が小町の最期の地を知ったことになぞらえて、西行は実方の墓を見つけ出そうとしていた。「その名ばかりを留め置きて」という歌の表現は、「竜門原上ノ土、骨ヲ埋ンデ名ヲ埋マズ」と、死しても亡き友の詩人としての名声が残ることを詠んだ白居易の詩句から来ています。西行によって見いだされた実方の墓、業平によって発見された小町の髑髏は、詩に名前だけがそこに残っているという白居易の詩句と同じ発想である、という説を述べています。定家ならまだしも、西行はそこまで技巧的に歌をつくるとは、言い切れないと思いますが、詞書で、「霜枯れ枯れの薄、ほのぼの見えわたりて」という情況のなかで、「物哀に覚えける」と思いを明らかにしているのです。

 【参考図書】

西澤美仁編「西行─魂の旅路」(角川ソフィア文庫)

白洲正子「西行」(新潮文庫)

塚本邦雄「西行百首」(講談社学芸文庫)

橋本美香「西行」(コレクション日本歌人選)

桑子俊雄「西行の風景」(NHKブックス)

苗代に堰き下されし天の川 とむるも神の心なるべし

能因の祈雨歌を聞き入れて、天の川の堰を切って苗代に水を下したのが神の御心であったのなら、逆に水を堰き止めるのもまた神の御心でありましょう。という歌の意味を、単独で歌だけを取り出しただけでは、何のことか分かりにくいでしょう。そこで、この歌ともう一首(後で紹介します)に、次のような長い詞書で、この歌が詠まれた場面を理解する必要があります。

小倉をすてゝ高野のふもとにあまのと申す山にすまれけりおなじ院の帥の局都の外のすみか訪ひ申さではいかがとてわけおはしたりけるありがたくなむかへるさに粉川へまゐられけるに御山よりいであひたりけるをしるべせよとありければぐし申して粉川へ參りたりけりかゝるついではいまはあるまじきことなり吹上見むといふ事具せられたりける人々申出でて吹上へおはしけり道より大雨風ふきて興なくなりにけりさりとてはとて吹上に行きつきたりけれども見所なきやうにて社にこしかきすゑておもふにも似ざりけり能因がなはしろ水にせきくだせと詠みていひつたへられたるものをと思ひて社にかきつけける

待賢門院に仕えた中納言の局という女房が、出家して小倉から高野山麓の天野に移り住んでいた。同じ待賢門院女房であった帥の局が、そこを訪ねた。帥の局は都へ帰る途中、紀州の粉川寺に参詣する予定だったが、たまたま高野山から天野まで下りてきた西行と出くわし、西行に粉川寺までの案内を頼んだ。滅多にない機会なので、西行は帥の局の一行と連れ立って粉川寺に参詣した。その後、「帥の局」のお付きの人々が、「吹上の浜」を見たいと言い出し、西行も同行して「吹上」に向かったところが、途中で大雨大風になった。この天気では、吹上に到着しても見るところはなく、神社に輿を下して、失望した。そこで、西行は能因の次の歌を想起しました。

天の川苗代水に堰く下せ 天降ります神ならば神

これは、天の川の堰を切って苗代に水を下してください。三島明神が天から降臨した神ならば、その神の力を見せて下さい、という伊予の大三島の明神に祈雨した一首です。能因のこの歌で、数か月雨のなかった地に、三日三晩の豪雨をもたらしたといいます。この能因の歌とは逆に、西行は次の歌を読みました。

雨降る名を吹上の神ならば 雲晴れのきて光あらはせ

天から降臨してここ吹上の地に鎮座する神よ。あなたが吹上の名を負うなら、雨雲を吹き払い、そらを晴れ渡らせて、日の光をあらわしたまえ。「吹上」という地名と「吹き上げる」という動詞の掛詞のような使い方で、雲を吹き上げて飛ばし、日の光を見せてほしいというという内容になります。続いて、この「苗代に…」の歌を詠みます。

苗代に堰き下されし天の川 とむるも神の心なるべし

能因の歌が天の川の堰を切って、苗代に水を落とし、雨を降らせることを願っていたのとは反対に、この歌では雨が降っているということは今天の川の堰が切れているからで、その堰を止めて、雨降りを止めて下さいと願っている、という歌です。この後、珍しく、歌の後の詞書が付けられています。それが次のようなものです。

かく書きたりければやがて西の風吹きかはりて忽ちに雲はれてうらうらと日なりにけり末の代なれど志いたりぬる事にはしるしあらたなる事を人々申しつゝしんおこして吹上若浦思ふやうに見て歸られにけり待賢門院の女房堀川の局のもとよりいひおくられける

この二首を吹上の神社に書き付けると西行の歌によって願った通り。たちまちに風向きが変わって、雲が晴れ、うらうらと日が照った。神仏への働きかけが本物であれば、神は必ず感応するものだ、という、普通、歌の前にどういう状況で詠んだかを簡潔に述べているのが詞書ですが、ここでは歌を詠んでどうなったかを説明している異例な詞書です。それは、歌によって雨が止んだということを、ここではアピールしたかったのだろうと思います。「末の代なれど志いたりぬる事にはしるしあらたなる事を人々申しつゝしんおこして」と、女房たちに信仰に目覚めさせたことを強調します。「志いたりぬ」とは、歌を通して信仰が不動のものになったことを示しています。その前のところの「末の代なれど」とあるのは、仏の力の及ばないとされる末法の世であるから、神にも歌の心が届かないと考えられていたことが、この歌の背景にありました。そのため、末世にあっても吹上の神に歌を聞き届けてもらえたことにより、女房たちの信仰を確固たるものにした。西行にとって、和歌とは、いわゆる言霊の力、奇跡を起こすものでもあったというと言えるかもしれませんが、むしろ、後世の西行を伝説化したい人々にとっては格好の素材としてもてはやされたという方が、この歌の位置づけではないかと思います。

 【参考図書】

西澤美仁編「西行─魂の旅路」(角川ソフィア文庫)

橋本美香「西行」(コレクション日本歌人選)

あづまのかたへ、あひしりたる人のもとへまかりけるに、さやの中山見しことの昔に成りたりける、思出られて

年たけてまた越ゆるべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山

吉本隆明は「15歳の寺子屋 ひとり」で、この歌について、次のような感想を述べています。“西行も、やはり人生を長い旅路に重ねています。「小夜の中山」というのは、東海道の難所でした。この歌を詠んだ時、西行は69歳。かつて若い頃に越えたところを、そんな高齢になってまた越えようとしている。「命なりけり」というのは、そういう自分の人生を振り返っての感慨だと思うけど、僕が今読むと、「それが自分の宿命だったんだ」というような少し重い意味で響いてくる。生きていくことは、たぶん誰にとっても行きがけの道なんですよ。立派な人にはまた特殊な見え方があるかもしれないけれど、僕ら普通の人間は、悟りを開いて帰りがけになるなんてことはまずないんだってことが自分でわかっていれば、まずそれでいいんじゃないか。人は誰しも行きがけの道を行く。そうして迷いながら、悩みながら、ただただ、歩きに歩いていくうちに、ああ、これこそが自分の宿命、歩くべき道だったんだと思うことがあるんじゃないか。「命なりけり」と気づく時がくるんじゃないか。”たぶん、西行の愛好者で、この歌とか「願わくば…」の歌とかがとくに好きな人で、思想家として西行とか人生の指針とかという視点で西行を読もうとする人の典型的な感想ではないかと思います。歌そのものではなく、最初にこのような感想を持ってきたのは、こういう感想がこの歌の周囲にオマケが分厚くまとわりついていることを明らかにしたかったからで、こういう感想が、この歌を読むときの視点を縛ってしまっていると、私が思っていることを明らかにしたかったからです。

詞書の「あひしりたる人」とは、藤原秀衡のことを指し、この時西行は69歳で、最初の旅から40年ぶりの2度目の奥州への旅に出かけたときの歌です。この旅の目的は1180年に平重衡によって焼き討ちされた東大寺大仏再建のための砂金勧進です。当時の奥州藤原氏の拠点の平泉が、中尊寺金色堂に代表されるような黄金の都であったので、藤原秀衡を目指したのでしょう。『吾妻鏡』には、この旅の途上で源頼朝と鎌倉で会見して、引き出物に拝領した銀の猫を、西行は御所を退出するや、門の外で遊ぶ子供に投げ与えたというエピソードが描かれています。

初句の「年たけて」の表現は、『和漢朗詠集』に「年長ケテは毎ニ労シク甲子ヲ推ス。夜寒クシテ初メテ共ニ庚申ヲ守ル」と、年をとったため、老いによる衰えに対する嘆きが詠まれている許渾の詩からとられている、と言われています。この歌で西行が「年たけて」と詠んでいるは、老齢であることを強く意識して2度目の奥州への旅に出たことを表現していると言えると思います。第三句の「思ひきや」の表現は、予想外のことが起こることを表わす表現であり、西行は再び奥州に向かうことになるとは思ってもみなかったことであるという気持ちが底にあると思います。これは、『伊勢物語』の次の歌

忘れては夢かとぞ思ふ思ひきや雪ふみ分けて君を見むとは

小野の山里に隠棲した惟喬親王のもとへ、雪を踏み分けて「昔男」が訪ねるところで詠まれた歌です。業平が敬愛する惟喬親王に会った喜びの表現が、この歌での「思ひきや」で、西行の「思ひきや」は、このようなめぐり会いの驚異、喜び心が込められていると言えます。

第四句の「命なりけり」は、命の存在を詠嘆していて、「小夜の中山」を再び越えることを運命であると捉えているという表現です。西行以前の歌でも「命なりけり」を詠っていますが、例えば、

春ごとに花の盛りはありなめど あひ見むことは命なりけり     (古今集・春下)

もみぢ葉を風にまかせてみるよりも 儚きものは命なりけり     (古今集・哀傷・大江千里)

これらの古今集の和歌では、「命なりけり」は「〜は」に連接して結句に置かれているのに対して、西行の「命なりけり」は確たる主語を持たずに第四句置かれていて、構造上違っています。そして、西行の場合は、「命なりけり」という詠嘆に続いて、一見するとそれと何の脈絡もない「小夜の中山」という地名(歌枕)が提示されます。これは、読んでいて、なだらかに詠みくだされてきた上の句から第四句「命なりけり」と展開すると、そこで一旦流れが途切れ、結句「小夜の中山」が繋がってゆくのは、何となくギクシャクして不自然な感じがします。そこが、西行の「命なりけり」の独自性であると思いますが、そこには「命なりけり」の意味が、古今集の二首と異質であることを示している。古今集の二首は命が儚いことを嘆じているのに対して、西行の「命なりけり」は、命の儚さに焦点を合わせるのではなく、命のあったことの感慨がうたわれています。つまり、命が儚いからこそ、命があったことを格別なものであるというところが違います。最初に「小夜の中山」を越えて奥州へ旅をしてから約40年の時が過ぎ、再びこの地に立った時、これまでの人生を振り返り、自分の足で「小夜の中山」を越え勧進に向かうことを運命と捉えていることが、「命なりけり」に凝縮していると言えます。そして、結句の「小夜の中山」は、現在の静岡県、旧東海道の日坂宿と金谷宿の間に位置する峠で歌枕として有名でした。

甲斐が嶺をさやのも見しかけけれなく 横ほり伏せる小夜の中山   (古今集・東歌)

「けけれなく」は、「心なく」の東国訛りで、甲斐の山をはっきり見たいのだが、小夜の中山が間に横たわって邪魔をしているという内容で、山に喩えた恋歌と解されています。そこから逢うことかなわない恋の嘆きを詠うものでした。それが西行の歌では、そもそも難所であるということ、そのことからなかなか越えられない、越えると帰ることができるわからない。そういう境界をなしている。その境界とは、都と辺境の奥州の境界であり、現世とあの世との境界であり、40年前の旅で容易に越えた若き日と、今度の苦労してようやく越えた老体の自分を画す境界でもあったことを表わしています。

同じ道中で詠まれた

風になびく富士の煙の空に消えて 行方も知らぬ我が思ひかな

とともに『新古今集』に収められ、西行晩年の境地を示す歌として並んで扱う人も少なくない歌です。しかし、『新古今集』では、「風になびく…」は雑歌に、「年たけて…」は羈旅に、『西行法師歌集』では恋の部と雑の部と、別々の部に収められています。それをわざわざ並べて扱うのは恣意的かもしれませんが、「命なりけり」と慨嘆する作者の心性は、「行方も知らぬ我が思ひ」へと繋がるという読みをどうしてもしてしまいます。つまり、苦難の旅を強いられてきた旅人が難所の「小夜の中山」をようやくにして越えることができた、という意味合いが強く感じられるようになります。

岡本かの子の『蔦の門』では、蔦の芽をひきちぎった子供たちを咎めたことがきっかけで、老婢まきと孤独な少女ひろ子との交渉が深まります。「孤独は孤独を牽くのか」と「蔦の門」をもつ家のあるじ「私」は思うのです。老婢と少女との交渉はほとんど運命的といえるほどに、生涯を通じて深まっていきます。それを終始見てきた「私」は感慨深く西行の歌を思い出し、口ずさむのです。それが

年たけてまた越ゆるべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山

なのです。

 【参考図書】

西澤美仁編「西行─魂の旅路」(角川ソフィア文庫)

橋本美香「西行」(コレクション日本歌人選)

白洲正子「西行」(新潮文庫)

塚本邦雄「西行百首」(講談社学芸文庫)

桑子俊雄「西行の風景」(NHKブックス)

山本幸一「西行の世界」(はなわ新書)

中西満義「「小夜の中山」考─新古今的和歌世界の開示─」

岡本かの子全集第4巻(ちくま文庫)

吉本隆明「15歳の寺子屋 ひとり」(講談社)

風になびく富士の煙の空に消えて 行方も知らぬ我が思ひかな

『西行上人集』では恋の歌として扱われていますが、それは「富士の煙」が恋歌の基本的で伝統的な歌枕であったからです。富士山は霊峰として神格化されていましたが、古今集の頃からは、かなわぬ思いの象徴として恋歌に詠まれるようになりました。例えば、次のような歌

人知れぬ思ひをつねに駿河なる 富士の山こそ我が身なりけれ    (古今集)

この歌では「思ひ」に富士の噴火の「火」が掛けられていますが、西行の「風になびく…」の歌にも「思ひ」の「火」が「煙」の縁語として用いられています。下の句の「行方も知らぬ」も「我が思ひ」も恋歌に多い表現です。だから恋歌とされても無理はなかったのです。

他方、この歌は『新古今集』では恋歌ではなく雑に収められ、次のような詞書が添えられていました。

東の方へ修業し侍りけるに、富士の山をよめる

慈円の『拾玉集』では西行の訃報を語る中で、次のような死を悼む歌を詠んでいます。

世の中を心高くも厭ふかな 富士の煙を身の思ひに      慈円

この歌も、下の句は前記の古今集の歌の下の句と同じようですが、西行の「風になびく…」の歌の「思ひ」が恋ではなく出離厭世の思いであったことを示唆しています。そして、「この二三年の程によみたり、これぞ我が第一の自歎歌と申しし事を思ふなるべし」と、この「自歎歌」とは自讃歌のことで西行が自身の代表的な歌であると考えていたことが述べられています。

そういうこともあって、例えば白洲正子は、“この明澄でなだらかな調べこそ、西行が一生をかけて到達せんとした境地であり、ここにおいて自然と人生は完全な調和を形づくる。万葉集の山部赤人の富士の歌と比べてみるがいい。その大きさと美しさにおいて何の遜色もないばかりか、万葉集以来、脈々と生きつづけたやまと歌の魂の軌跡をそこに見る思いがする。西行が恋に悩み、桜に我を忘れ、己が心を持てあましたのも、今となっては無駄なことではなかった。”と西行が晩年に至り得た境地を示すものとして受け止められていると言えます。

初句の「風になびく」について、目崎徳衛は“煙の空に消えていくように、あてどもなく、つぎつぎに湧いては消えていく、果てしない雑念があるのである。そういう自己を、あるがままに反省し、大きく客観視しているのである。ある特定の雑念・妄想というものが現在もあって、それを苦痛に思っているのではない。人間としてもたざる得なく、またもっているさまざまな思いを、できるならば捨てたいと願う態度でもっていて、そこから歌われている。”と主張します。しかし、これは近代主義的な思想とか精神といった捉え方をしているように見えます。そんな限定されたのではなく、もっと実体的で捉えどころがなく「風になびく」の風は、西行の他の歌でも例えば

あだに散る木の葉につけて思ふかな風さそふめる露の命を

では、風が木の葉を散らすように誘う風です。これは無常の風ということができます。

また、三句目「行方も知らぬ」の「行方」はまた、次の歌

散る花もねにや帰りてぞまたは咲く老いこそ果ては行方しられね

では、桜の花は散って根に還って再び咲くが、老いについては最終的にどうなってしまうのか行方が分からないという。あるいは「鈴鹿山憂き世をよそに振り捨てていかになりゆく我が身なるらん」で出家直後の西行は、どのようになっていく我が身であろうかと、自分自身の行く末を問いかけています。これらの歌で投げかけた自身の行く末は、風になびく富士の煙と同一視され、「行方」の分からなくなってしまうものであることを悟り、まるで人生の答えを出したようでもあるのです。

結句の「我が思ひ」について、西行は終生、自分自身の思いや心を詠み続けた歌人と言えますが、それに応える形で、ここでは詠まれています。その「思ひ」については、様々に考察されていますが、山本幸一の「西行の世界」で整理してまとめられているのを簡単に紹介します。例えば、久松潜一は「行方も知らぬ」を「我が」に続くとともに「思ひ」にかかるとして、自分はこの先どうなるのかと果てしない物思いをすることだと言います。また、石田吉貞『隠者の文学』では、「行方も知らぬ」を「我が」にかかるのではなく「思ひ」にかかると見て、次のように言います。“「行方も知らぬ我が思ひかな」とは、はてしもないわが思いという意味であろう。人生、宇宙、存在、生死、無常、遠く去った青春、初恋の思い、妻、子、過去はすべて美しくゆけるものはすべてなつかしく、しかして、われは老い、笠は黄塵をあび、ついの日は落日のごとく眼の前にある。思いはてなし。人間の思い、隠者の思い。老愁の思い、旅人の思い、それらが一つとなって、まことに限りなきものがあったであろう。”山本氏は、これらの他にも様々な説を紹介していますが、それらを検討して「行方も知らぬ」を「我が」にかかるのか「思ひ」にかかるのかを限定するのは難しいと言います。「行方も知らぬ」という一句には、茫洋として果てしない、という感じとともに、ある不安感を漂わす表現性があることは否定できないとして、つねに颯爽と未来を望む面からだけこの表現を見ることはできない、として小林秀雄が『無常といふ事』での「(青年期の)彼の眼は新しい未来に向かって開かれ、来るべきものに挑んでいる…(中略)…青年期を殆ど例外なく音づれる自分の運命に関する強い予感を持っていた」という視点では、この歌はその予感の帰結が、長年生きてきたことの確認とでもいうような帰結として、思想の行方を見定めえなかったという思想家の晩年の姿を示しているという読みを批判します。さらに、山本氏は、この歌が詠まれた時代状況が反映していると言います。この時代は武士という強固な武力をたのみ、野性に富む新興勢力に傾いていく。一方、和歌を成立させていた古代以来の理念の持続ないしその体制の再生を願う人々はあっても、進むべき方向は見えてこない。そういう時勢の推移を全身で感じ取ってしまったのが、富士の煙の空に消えてゆく風景にそのような歴史を見ないわけにゆかない者の嘆きを、この歌の上の句に込められている。そして、「我が思ひ」の凝視は、西行という一人の歌人の嘆きだけでなく、移ろいゆく時代を生きる者のもろもろの嘆きを集約した「思ひ」として、作家の魂を揺さぶり、果てしのない思いにさらに誘いこんで行ったものだといいます。これは、私には深読みしすぎではないかと思えます。ただし、そういう深読みを誘うという要素は、同時代の藤原定家にも古今集の歌人にもなく、西行という歌人の独特なもので、そういう深読みの誘惑を強く刺激するところが、この歌にもあると思い、それがこの歌の評価を高くしている理由の一つではないかと思います。

 【参考図書】

西澤美仁編「西行─魂の旅路」(角川ソフィア文庫)

橋本美香「西行」(コレクション日本歌人選)

白洲正子「西行」(新潮文庫)

塚本邦雄「西行百首」(講談社学芸文庫)

桑子俊雄「西行の風景」(NHKブックス)

山本幸一「西行の世界」(はなわ新書)

円位上人無動寺へぼりて、大乗院の放出に湖を見やりて、

にほてるや凪ぎたる朝に見渡せば 漕ぎ行く跡の波だにもなし

帰りなんとて朝の事にてほどもありしに、今は歌と申すことは思ひ絶えたれど、結句をばこれにてこそつかうまつるべかりけれと詠みたりしかば、ただに過ぎがたくて和し侍りし

ほのぼのと近江の湖をこぐ舟の 跡なきかたに行く心かな

慈円の家集『拾玉集』第4巻に収められています。詞書の「円位上人」は西行のことで、「無動寺」は比叡山千日回峰の行場です。慈円は摂政関白兼実の弟でのちの天台座主になった人物ですが、西行よりも37歳も年下で、この歌が詠まれたころは、無動寺で修行中の身であった。そこに西行が訪ねてきて。山上の無動寺の放出(テラス)から琵琶湖を見下ろして詠んだものです。

「にほてる」は、琵琶湖のことを水鳥が集まる「鳰の湖」とも言ったのと、「照る」という朝日を受けて照り輝くように凪いた湖面の美しさを掛けていると思います。漕いで行く船も波ひとつ立てていない。そういう静かな風景と精神状態に重ね合せて詠んでいるという歌です。おそらく、この歌の下敷きには『拾遺集』に入っていた沙弥満誓の無常歌、

世の中を何にたとへむ朝ぼらけ 漕ぎ行く舟の跡の白波

いま私たちが目にしているのは、この歌の「朝ぼらけ」の風景そのものですね、と西行が慈円に呼びかけている。この満誓の歌は名歌として『袋草子』などに次のように語られています。

恵心僧都は、和歌は狂言綺語なりとて読み給はざりけるを、恵心院にて曙に水うみを眺望し給ふに、沖より舟の行くを見て、ある人の、「こぎゆく舟のあとの白浪」と云ふ歌を詠じけるを聞きて、愛で給ひて、和歌は観念の助縁と成りぬべかりけりとて、それより読み給ふと云々。さて二十八品ならびに十楽の歌なども、その後読み給ふと云々。

西行は満誓の歌だけでなく、このような恵心僧都源信の説話も重ね合せていたとも考えられます。恵心院は無動寺と同じ比叡山にあり、角度は異なりますが、琵琶湖の湖面を眺望できた。源信は「和歌は狂言綺語なり」として、『往生要集』に名文を誇っても、一首の歌を詠むこともなかった。「狂言綺語」はみだらな飾った言葉という和歌を卑しむことばですが、この満誓の歌に触れて「和歌は観念の助縁」すなわち、和歌の言葉でも仏教の真理を表現できるのだ、とこの歌から悟った源信は、それ以来和歌を詠んだという。彼の見た「朝ぼらけ」の風景もこれだったのですねと西行は詠んでいる。そうすると、この西行の歌には仏教の真理の含みがあるという解釈も生まれてきます。

西行の歌に対して慈円が返歌をします。詞書には、“帰ろうとして、朝の事でもあったので、今は歌を詠むことを断っていたが、最後の歌をここで詠むことにしようことで詠んだので、そのまま帰りがたくて、そのまま詠んだ。”「歌と申すことは思ひ絶え」は、「和歌起請」と呼ばれる歌絶ちをして、その禁を破ってでも「結句」つまり最後の一首を慈円に託したかった。それが「にほてるや…」の歌であるというわけです。西行は比叡山をのぼり無動寺に慈円を訪ねたのでしょう。京都から老人の足では1日がかりで、その日は寺に泊まり、夜のふけるまで語り合ったのでしょう。翌朝早く、二人はテラスで登ってくる朝日を拝した。琵琶湖の湖面は鏡のようで波もなく、東から昇る朝日がまぶしい。ふたりは夜っぴて語り合ったことを振り返った。帰ろうというとき、西行は、湧き上がってくる思いをとどめられない。その思いの強さが和歌起請の歌断ちを破ってまで、和歌を歌うのをこれで終わりにしよう詠んだ。風のやんだ朝、琵琶湖の水面は昇ってくる朝日に輝きはじめ、漕いで行く舟の航跡は跡形もなく消え去った。慈円もまた思いを抑えがたく一首を詠ました。「ほのぼのと…」の歌です。西行の心を詠み、そこに自分の心を重ね合せました。琵琶湖を行く舟の消えてしまった航跡のほうにあなたの心は向かってゆくのですね、と和したのです。二人の深い静かな共感が琵琶湖の湖面に広がってゆく。

これについては、とくに西行の歌は様々に解釈されています。例えば、松野陽一は“慈円を訪ねて夜を過ごし、いよいよ別れを告げんとする翌朝、「はなちで」から見晴らす琵琶湖は、あくまでも凪いで、さざ波一つ立てていない。西行は起請を破って一首を示した。「結句をばそれにてこそつかうまつりべかりけれ」は、勿論、沙弥満誓の無常歌「世の中を…」によって心境をのべたものである。ただ、ここにあるのは無常観ではなく、もはや些少の心残りもない「明鏡止水」のそれである。”と万葉歌人沙弥満誓の歌に表われた無常観でなく、「明鏡止水」の心境を詠んだものと言います。これに対して、山田昭全は「西行最晩年の一首をめぐって」で、“そのとき西行は期せずして朝なぎの琵琶湖を観望した。空は晴れ、明るい朝の光が青く澄み渡った湖面に満ち満ちている。動いているのかいないのか、ゆっくりと湖面を行く船は、あたかも虚空の中にぽつんと浮かぶがごとく、航跡さえもとどめない。そのとき西行の心中に忽焉としてひらめくものがあった。この湖上を船の行くごとく、おのれは一切皆空の中に生きているという想いである。それは確信であり、開悟であった。”と、仏教の「空」を詠んでいるといいます。また、久保田淳は源信の説話が西行には下敷きとしてあって、“西行においても和歌は観念の助縁となり得るという認識があり、少なくとも自身にとってはなり得たという認識があったのだろう”と、この歌は、単なる美景の称賛ではなく、諸法皆空であることを直観した、彼自身の生涯の結句であったとしています。これらのような精神的な解釈もいいのですが、他方で、塚本邦雄は次のように言います。“西行は3年前の文治2年、二見浦百首を勧進、慈円・定家・家隆・寂連らがこれに従った。次代の宮廷歌壇の牽引力となるべき面々に、あやまたず渡りをつけた手並みは見事である。「世捨人」「こころなき身」などとんでもない。花鳥風月によせる心は、反面、みずからの死後の名声確保の道普請も、ぬかりなく行うくらいのゆとりと粘りをもっていたのではないか。”西行には、出家しても、そういう生臭いところも多分に残していて、例えば、この歌にも、いかにも精神性があるよとアピールして、読み手に媚びるようなところもたしかにあると思います。それが一面では西行の親しみ易さで、現代のわれわれにも、精神性があると共感できてしまえるところではないかと思います。

 【参考図書】

西澤美仁編「西行─魂の旅路」(角川ソフィア文庫)

白洲正子「西行」(新潮文庫)

塚本邦雄「西行百首」(講談社学芸文庫)

桑子俊雄「西行の風景」(NHKブックス)

松野陽一「千載集時代和歌の研究」(風間書房)

山田昭全「西行の和歌と仏教」(明治書院)

 

 

 

リンク       .

『奥の細道』の俳句を読む

『野ざらし紀行』の俳句を読む  

『説得』を読む

『マンスフィールド・パーク』を読む

 『高慢と偏見』を読む

『ノーサンガー・アビー』を読む  

 
読書メモトップへ戻る