ラファエル前派の画家達
ウィリアム・ホルマン・ハント
『死の影』
 

 

1870年代初めに制作された作品で、従来の様式的な宗教画のスタイルをとらずにリアリズムで画面空間を作って、その中に宗教的な象徴を入れて、しかもそれがピタリとはまるような作品を、ハントが試み続けてきて、例えば「世の光」や「贖罪の山羊」のような試行錯誤を経て、もっても成功したと評価されている作品です。

この作品で描かれているのは、父ヨセフの家業である大工仕事に励んでいたキリストが、束の間の休息の際に、大きく腕を広げ、伸びの姿勢を取った瞬間です。その時、キリストの姿は、背後の壁面にくっきりと影を映し出それ、それは壁に掛けられた大工道具と重なって、十字架の死を示唆する磔刑図を浮かび上がらせました。傍らで跪いている母マリアはキリストに背を向けながらも、壁に映し出されたその影に眼を留めている。多忙な日常の営みの中で一瞬、映し出された影は、地上のキリストの働きが常に十字架上の贖罪の死に至ることを暗示しています。

このような、キリストを大工というひとりの労働者の姿で、しかも神々しさがまったくない普通の人間として風俗画のように描いているのが、この作品の大きな特徴といえます。ハントに限らず、ラファエル前派では、ミレイの「両親の家のキリスト」やロセッティの「聖母マリアの少女時代」といった、同じ傾向の作品がありますが、それらの作品のスタイルを突き詰めたのが、この作品ということになると思います。

このようなキリストを普通の人間として描くということは、近代のリアリズム絵画として描いたということだけでなく、あえて人間的に描くことに象徴的な意味があります。この作品は、明らかに宗教的な意図にもとに制作されたものですから、最終的にはキリストの贖罪を人々に理解してもらうことにあるわけです。キリストの贖罪とは、誰のどんな罪を負ったのかといえば、人類の原罪です。それはもともとは、アダムとイブが神の教えに背いて禁断の実を食べてエデンの園を追放されたことでしょう。その現われが、人間の汗を流して働き、パンを得て生きるということ、つまり現実の肉体ということです。創世記第3章17〜19節に次のような言葉があります。

17:また,アダムに対してこう言われた。「あなたが妻の声に従い,わたしが命じて,『それから食べてはならない』と言っておいたその木から食べるようになったため,地面はあなたのゆえにのろわれた。あなたは,命の日のかぎり,その産物を苦痛のうちに食べるであろう。

18:そして,それはいばらとあざみをあなたのために生えさせ+,あなたは野の草木を食べなければならない。

19:あなたは顔に汗してパンを食べ,ついには地面に帰る。あなたはそこから取られたからである。あなたは塵だから塵に帰る。

キリストが、普通の人間の形で描かれているということは、このように原罪を負う人間の姿であることを明示すること、そのことがキリストの苦しみの最初の段階であることを示しているということです。そこにキリストの犠牲の本質があるということを示そうとしている。

ハントは普通の人間の姿を強調するために、キリストを痩せた、筋肉質の、強健な若い男性として描いています。さらに、ハントは、そういう若い男性であるキリストが、普通の人間として労働にいそしんでいる姿を描きました。おそらく、ハントはJRハーバートの「Our Saviour Subject to His Parents at Nazareth」(1847年)を参考にしていたと思われます。ハントは1850年代後半の「神殿で見出された主キリスト」で、この作品のような市井の少年の姿でキリストを描いています。この作品では、さらに大工として描こうとしています。

いつも仕事で一生懸命になっていて、晴れやかな日は、彼の1日の労働が終わったという、終わりのための時間が到着したことを彼に伝えます。彼は、彼が働いている厚板からちょうど上昇し、その安らぎと安らぎの感覚を実現するために腕を投げつけるように描写されています。そしてこの肉体的行為と完全に調和して、すべての人にとても自然で感謝する神の勞者は、安息の歓待の時間が来たという父の御心に熱心に魂を注ぎます。

これはハント自身が語った意図ですが、労働(と労働者の階級)を尊重する描き方にすることによって、勤勉に働いている人びとの中にキリストがいるということを、そして、その休息の場でキリストの犠牲の予兆が現われているということから、そういう働いている人々と自然にキリストの救いが繋がっていることが示されていると言えます。

このようにリアリズム的な描写で表わされたキリストの姿は、さらに犠牲の象徴として示されるために類型をたくさん用いてイメージを喚起させます。

まず、キリストのとっている束の間の休息の際に、大きく腕を広げ、伸びの姿勢は、背後の壁に影を映し出し、それは壁に大工道具を掛けるために水平に板が打ち付けられていて、それが十字架の横棒になっているのに、キリストの腕を広げている影が重なって、十字架に掛けられた形になっています。そして、その壁に掛けられている大工道具が、磔刑のさいにキリストの手を十字架に釘で打ちつけたり拷問する暗示になっています。大工道具の向かって左の隅に立てかけられている葦は苦痛の間に彼に押し付けられる勺を表わします。その鋸のもとには赤いフィレットが目立ちます。これは、十字架上のキリストが最後に受けられた酸っぱいぶどう酒をいっぱい含ませた海綿の象徴でもあるし、同じハントの「贖罪の山羊」でキリストが人類の犠牲となった象徴としての山羊に、その徴として角に結ばれていたものです。つまり、これはキリストが人類の犠牲となったことの象徴です。

キリストの右下には、切っている途中で鋸が挟まったままの板があり、その影はまるで突き刺す槍のようです。キリストが切っている厚板の中に立って、鋸は壁に影を投げかけ、明らかにその側を突き刺した槍の形を与えます。キリストの十字架上の贖罪の死を象徴するものは、壁に映る影だけではありません。キリストの肢体の描写も、キリストの贖罪の死を暗示しているように見えます。片方の膝を少し曲げた状態で揃えられた両足、そして掌を上に向けてまるで硬直したような手の指は、いずれも慣習的な磔刑図の描写を彷彿とさせ、釘を打たれるという壮絶な経験を予兆しています。天上の一点を見つめ、点を仰ぎながら、僅かに開かれた口元は、ヨハネによる福音書第17章1〜11節が伝えるキリストが神に向けて祈るのを連想させるものです。キリストの身につけている腰布は、十字架に掛けられた腰布を示唆しています。また、道具の棚から垂れ下がっている重錘は、その場所が影の心臓のところであり、形状が心臓に似ていることからキリストの心を暗示するものです。窓の下の棚に置かれた巻紙は明らかに旧約聖書の一部を、隣に2個の柘榴かパッションフルーツがあって、キリストの情熱を暗示しています。キリストの頭の背後の窓の背後の窓のアーチの円形は、まるで伝統的なキリストの画像で背後に輝く後光の光輪になぞらえることができ、窓の上の星形はユダヤの象徴ベツレヘムの星を想わせます。その窓から見える外の景色はゴルゴタの丘の風景のようで、将来の磔刑の場所を暗示しています。

これを見る者の視線で追いかけて見ましょう。この画面の入り口は大きく分けて2ヶ所あります。ひとつは画面左側の背中を向けている女性のキルトのような布地です。この女性、これは聖母マリアであることは分かりますが、の背中の線を視線は辿っていくと、彼女の左手が触れている品々はキリストの誕生の際に東方の三博士から贈られた祝いの品であり、そのことがキリストと聖母マリアであることを示していることに至ります。そして、彼女はこちらを見ていませんが、頭を向けているのは壁の影が映ったところで、そこに十字架に掛けられたキリストの影が表われています。つまり、見る者はマリアの視線に乗りながらキリストの犠牲の姿に至ります。ここでは、マリアの表情は見えていませんが、その後姿から、不安とか恐怖とか、そういったものを窺うことができます。また、この経路は、途中に壁に掛けられた大工道具や床に散らばる木屑など実際の大工の仕事現場であるというところを通っています。もうひとつの入り口は、右下の赤いフィレットです。このフィレット自身がキリストの犠牲の象徴ですが、そこから木材から繋がってキリストの身体へと直接至り、キリストの祈るような顔に直結します。つまり、二つの経路は最終的には同じキリストの犠牲となった姿に行き着くことになりますが、左側は、その困難さとか恐ろしさを伴うのに対して、右側の経路はその先のキリストの祈り見届けているわけです。そこに、キリストの犠牲に対する人々の畏れの二重の意味が表われていると考えられます。

これらのことから、この作品に表われている特徴を次の6点にまとめてみました。

第一に、大工としてのキリストをリアルなイメージで提示している点です。第二に、キリストが人間であることを引き受けた上で犠牲となったという本質を明らかにしている点。第三に、この地上でキリストと労働を分担する全ての者に慰めを与えることを表わしている点。第四に、ハントの自身の負担を問わず、人よりも神の命令に従うというべきという道徳感を表している点。第五にハント個人にとってもまた慰めであったということを隠していない点。第六に、この作品は、キリストの磔刑と受難の瞑想的なイメージを提供することを意図したものであり、宗教的なおそれとおののきの具体的な形式によって創り出している点。

 
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