ラファエル前派の画家達
ウィリアム・ホルマン・ハント
『贖罪の山羊』
 

 

ハントは、キリストや聖書のエピソード、あるいは十字架や教会といったキリスト教の題材を用いないで、象徴的な宗教画を制作しましたが、この作品は、そのひとつです。

荒野に角に赤い布をつけた山羊が一匹描かれているというシンプルな内容です。しかし、ハントは山羊の毛の一歩一本をまで精緻を極めたように描きこんでいます。近くで見ると、その描きこみの迫力に圧倒されそうです。しかし、それが宗教性を見る者に抱かさせるか、というとそれがハントの意図だったかもしれませんが、それには成功していないのではないかと思います。実際、私は、そういう気持ちを抱くことはありませんでした。

ハントは観客を導くために額縁の上の方と下の方に聖書の文言を引用しています。

「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。」(イザヤ書53章4節)

「雄山羊は彼らすべての罪責を背負って無人の地に行く。雄山羊は荒れ野に追いやられる」(レビ記16章22節)

上記の旧約聖書レビ記では贖罪の山羊(スケープゴート)は浄化のための犠牲となる儀式として記述しています。つまり、部落の穢れとか罪を一身に背負って追い出されると部落にあった穢れや罪はスコープゴートが外へ持っていってくれるというものです。ハントはイザヤ書を引用されているように、スケープゴートがキリストが原罪を背負って人間の犠牲となったことの原型になっていると考えました。これは予型論という考え方で旧約聖書の中に登場する事象や人格を救世主イエス・キリストの表象として解釈するというもので、旧約聖書の「贖罪の雄山羊」がキリストの十字架上の「贖いの死」の予型としてとらえられ、それが引用された聖書の箇所の関連となっているのです。したがって、この作品の山羊はキリストがゴルゴタの丘で人間の原罪を背負い犠牲となったことへの畏れを引き出すための瞑想的なイメージを表わしたものです。つまり、この作品は、キリストの生涯や罪と苦しみの本質と、神の全福音の仕組みについての感動的な瞑想の機会を提供することを意図した宗教画ということができます。

しかし、このような意図はスケープゴートというものをよく知っている人にしか通じないのではないでしょうか。この作品が制作されたヴィクトリア朝時代にしても、この作品を見ている現代の私たちにしてもです。たしかに、ヴィクトリア朝の芸術家や文化人、とくにハントの周囲にいた人々はスケープゴートが何たるかは、知っていたかもしれません。しかし、それは教会での説教で聞いたとか、純粋に芸術的な詩の中などに限られていたことで、宗教的な実感とはほど遠かったのではないかと思います。

そこで、ハントは、この作品で苦しんでいる山羊をことさらに強調するように描きました。ハントの得意とするリアリスティックな迫真的な山羊の姿は、しかし、見る者にとっては、非常に押し付けがましく感じられてしまうわけです。ハントは山羊の姿を凝視してもらいたいのにもかかわらず、見る者はあまりに緊張を強いられるので、目をそむけたくなってしまうのです。そして、ハントの描く山羊は細部にわたって執拗なほど描きこまれていて、山羊の写生として立派なものですが、むしろ、見る者の視点は、そっちに行ってしまいがちです。キリストの犠牲を想うのに、それほど執拗に山羊を描きこむ必要があるのでしょうか。むしろ表現の過剰があります。そして、ハントは山羊に対して人間的な表現をほどこしています。山羊の眼を見て下さい。それは山羊の眼というよりも人間の眼に近いのです。この瞳は悲しみを映しながら、しかし眼光は鋭く、「贖の死」を前に何らの迷いも感じさせないで、自らの死の持つ意味を理解しているようです。それは、この山羊がキリストのイメージを引き出すものであること示していると言えます。しかし、それがリアルで迫真的な山羊の描写の中でやられていると、むしろ滑稽さやセンチメンタリズムを感じさせてしまうのです。それは宗教的な感動とは正反対のものではないかと思います。そして、山羊がいる位置が手前すぎて余裕がないというのか、部落を追い出されて孤独にいる状況が、これでは見えてこないんです。ここまで近いところで見せられると、山羊の群れの中の一匹をクローズアップして、他の山羊たちは画面の見えないところにいるようにも見えてしまうのです。

一方この作品が制作されて1世紀以上経過した今日の人々はカタログや展覧会での解説の説明を読むことで、山羊が何を象徴しているのか、スケープゴートとは何かを、つまりハントの意図を知識として知ることはできるようになりました。しかし、ハントの意図そのものが、宗教的なものであり単に言葉の上の理解だけでは足りないものでもあります。しかも、上で列挙したハントの手法上の理由からだけでなく、そもそも山羊だけに、他のシンボルの助けもなく象徴的な効果を期待するのは無理があったのかもしれません。この作品では、山羊の存在を生かすためのドラマもストーリーもなく、スタティックに山羊を置いているだけです。この作品で、そういう助けが期待できるのは、山羊の頭の赤いリボンと背景の荒野の風景でしょう。死海の岸辺に堆積した塩や辺りに散在する家畜の死骸の迫真の描写は山羊の苦しみを強調し、山羊が瀕死の状態になる環境にいることを表わします。

この作品は、作者のメッセージ性というよりは、そのような細部の描写を個別に味わうほうが、むしろ味わい易い作品になっていると思います。例えば、スペイン・バロックの画家スルバランのボデコンのような食器を描いた静物画が宗教性を帯びてくるのとは違って、象徴的な手法によって直接的なメッセージとして伝えようとしたところに無理があったと思います。その意味で、この作品は今でも問題作という位置にいると思います。

 
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