2013年7月12日 サントリー美術館
例年より半月以上早い梅雨明け。いわゆる梅雨明け10日のドピーカンの続く中、気温はうなぎのぼりで35度を越える猛暑。株主総会も終わり、少し息抜きをしつつ、第1四半期の決算発表までの狭間の時期、機関投資家をまわってミーティングを毎年行っているが、今日は、この猛暑、資料を抱えての大荷物、しかも上着も離せないという格好で過ごすのは、暑い。ミーティングは神経を消耗するし、節電のためか、室内の冷房はどこも抑えている。という暑さから逃避したい、ということと、ようやく決算期末から株主総会を終わり、多少の息抜きのつもりで、ミーティングが終わったあと、一番近い美術館ということでサントリー美術館を訪ねた。
やっていたのは江戸時代の文人画家である谷文晁の回顧展。骨董品の世界では大人気の人であろうけれど、実際に会場を回って展示をみて、あまりの難解さに、自分は、一体何をしにここに来たのかという、強い後悔に捉われました。入場者が比較的多かったのですが、皆さんは興味深げに鑑賞していた様子だったので、難しさに途方に暮れているのは、私だけかと、たいへん疲れました。
話は少しそれますが、私は音楽を聴くのも好きでジャンルなどには拘らずに聴いていますが、その中には西洋のクラシック音楽の楽曲も好んで聴く曲の中にあります。その中で、モーツァルトというクラシック音楽の代名詞ともいえる大メジャーな作曲家がいます。私はクラシック音楽に接し始めて20年以上になりますが、今以ってモーツァルトとハイドンの作品は難解で、何度聴いてもよく分らないのです。クラシック音楽好きな人に、その話をすると信じられないという顔をされますが、マーラーとかパレストリーナとかは大好きで長時間聴いていても疲れることはないのですが、モーツァルトの曲、例えば有名な「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」とか交響曲とか、何が何だか分らないのです。そこで感じている難しさと、似たものを今回の展示を見て感じました。ともっともらしい理屈を捏ねていますが、本当に分らない。
よく芸術は分かったとか分らないとか、理屈で理解するのではなくて、無心に接してみて、良いか悪いか感じればいい、というようなことを言う人がいます。小林秀夫とか吉田秀和とか著名な評論家の先生は、往々にしてそういうことを言っています。そういうのは、自分が分っているから言えるのであって、それを分らない人に、分っていたうえでやっていることを強いるのは、傲慢でしかありません。むしろ、「オレは分っているからいいんだ。オメエらは分かんねえだろう」という自慢の心の声が聞こえてきるようで、そういう評論家に限って、無心(と自分で思って)に作品に触れるときの、自分の感性の構造をみずから検証しないでいて、じぶんと違った感性の存在が分からず、感性の違う人に対して、どのような説明が理解してもらえるかという視点が全くないため、フォロワーしか彼の評論を理解できないということが往々にしてあります。例えば、吉田秀和が時折漏らす本音。「それが分からない人は、最初から(クラシック)音楽など聴かない方がいい」。それを誤解して、難しくて高尚だとかいって高い評価を受けている評論家の先生が沢山います。絵画に対しても、そういう権威ある先生がいると思います。なんか、自分が分らないということで醜いやつあたりをしてしまいました。
何が難解かというと、本来、こんな議論はおかしいはずで、分らないから難解なので、何が分からないか分っていれば、難解とは普通は言わないはずです。何が分らないかも分らない、ちんぷんかんぷんだから難解というわけです。上で、八つ当たりの啖呵を切った手前、多少でも、私がそんなことを言ったということを、腑分けしなくてはいけないと思ったものですから。すいません、もしかしたら、谷文晁展はどんなだったかを知りたいと思って、検索で辿り着いた方、谷文晁と全く関係ないことを延々と綴っています。もし、そういう目的ならば、申し訳ありませんが、他を当たって下さい。このずっと後で、谷文晁について触れますが、きっと参考になるようなことはないと思いますので。
そもそも論から始めることにします。美術館とか博物館、これをまとめて英語ではMUSIUMと言いますが、このひとつのルーツはヨーロッパ王家のコレクション、クンストカマーと呼ばれるものであったと言います。例えばベルリンのミュージアムはホーエンツェルン家、ウィーンのはハプスブルグ家といった具合に。例えば、ハプスブルグ家はオーストリアやスペインの王家、その前は神聖ローマ帝国の皇帝を輩出していた家系です。もともとはヨーロッパの中央部の小国の領主で財力も武力もなかったといいます。それが、なぜ大国の王家となって行ったかというと、政治力と結婚政策を巧みに利用したらしいです。つまり、当時の大国同士が睨み合って勢力が均衡している時に、その大国のいずれかが国王になるとバランスが崩れてしまうので、小国であるハプスブルグ家がキャスティングボードを握り神聖ローマ帝国の皇帝になってしまう。そして、その地位を利用して大国の一族との婚姻し、相続によって領地を引き継いで行ってしまう。しかし、そこに武力のような実質的な力の裏付けがないため、支配をするためには権威だけが頼りとなる。その一つはローマのカトリック教会です。いわゆる王権神授説といって、神様が正統性を認めるというので、王冠の戴冠式で王冠を授けるのは聖職者なのはそのためです。しかし、中世が終わると教会の権威は少しずつ失墜していきます。そんな中で、ハプスブルグ家はギリシャやローマ時代の莫大なコレクションを築き上げ、それを広く公開します。これにより、王家がギリシャ・ローマから綿々と続いている正統的な家系であって、それが権威の源であるということを強く印象づけるというわけです。例えば、ある程度の年配の方なら、高校の世界史の教科書の記述がギリシャ・ローマの記述の後、ゲルマン民族の大移動の後中世が始まるように書かれていると思います。それを読むと、ヨーロッパはギリシャ・ローマから中世の暗黒時代を経て近代へと連綿と繋がっているように見えます。しかし、よく考えてみれば、ギリシャは地図で見ればヨーロッパというよりはトルコに近い小アジアです。ローマ帝国といっても当時のラテン人というのはギリシャ人やフェニキア人(今の中東の人々)と一緒に競っていたのですからアジア人に近いと言えなくもありません。また、ヨーロッパの文化のルーツが古代ギリシャやローマといわれても、いったん断絶したのをイスラムを経由して得られたものです。でそれを、あたかもヨーロッパの祖先のごとく扱った歴史が教科書で教えられると、現代のヨーロッパはローマ帝国や古代ギリシャを祖先として、それが続いてきたような誤解をしてしまいます。オリンピックの競技会だって、聖火と称して古代ギリシャの遺跡で火を起こして、それをわざわざリレーして会場に点火するセレモニーをしますが、あれだって、ヨーロッパは古代ギリシャの子孫である支配の正統性をアピールしている場に他なりません。(だから私は、オリンピックは近代ヨーロッパの文化帝国主義政策の一環であると思っています。)ミュージアムとは、そのような政治的な支配の正統性の片棒をかついだものとして機能していたことは否定できません。だから、西洋絵画のヒエラルキーで歴史画は高い地位にあるのです。
そういう機能で美術展というものを考えた時に、谷文晁の美術展に何らかの意義があるのか、つまり、そもそも、谷文晁というのは本質的に美術館で取り上げるべきものなのか、ということなのです。なんか、アナクロで、現代のアート市場ではそんなことは通用しないといわれそうですが、それこそ現代のアート市場でコンセプトが重視されるのは、そういう正統性というタテマエがもともと期待されていたためです。そして、この理由が、私にはまったくわかりませんでした。これは谷文晁さんには何ら責任はなくて、主催者、企画者がコンセプトを説明してくれていないので、無知な私は知りようがないのです。
そして、第二に、これもそもそも論ですが、こういう美術展で日本の絵画を取り上げるというのは、西洋絵画というものが明治維新後、日本に入ってきて、それまでなかった芸術とか絵画という概念とか機能がなかったところで、それに対抗するいみで日本画という概念が急遽でっち上げられたものが、その後、づるづるべったりで続いているものだということです。だから、美術展ということと、日本の絵画というのがそもそも異質で、美術館の壁にズラっと並べて展示されるということが谷文晁の作品(作品という概念も、この場合に適切でないかもしれません)にそぐわないのではないかという違和感を強く抱いて、終始拭うことができませんでした。これは、私がこういう日本の絵画の美術展というが初めてで、そういう文法とか作法とか慣習に通じていないせいなのかもしれませんが。
そして、第三に、上のところで私がクラシック音楽の中でモーツァルトの音楽に対して抱いた難解さの印象に通じることです。端的に言えば、谷文晁の描いた絵が、例えば、他の画家の描いた絵と区別がつかないし、谷文晁の作品の中でも並べられたそれぞれの作品の違いが判らず、同じ見えてしまうのです。これが谷文晁だとか、これが谷文晁の何々という作品であると特定ができないのです。西洋絵画(一応、便宜上このような言い方をします)では、画家が他の画家と同じということになれば、個性がないということで評価の対象にすらならないでしょうから、最初の作品が成り立つ前提として、だれもがいまさら言うことのほどでもないのです。しかし、私が当時の絵画の知識がなく、そういうものに対する感覚的な土壌を欠いているためかもしれませんが、谷文晁の描いたものは、そういう基準を満たさない、規格に当てはまらないのです。だから、私からすれば、それは絵画ではないということになります。そういうものを理解できるか、理解できません。だから難解なのです。
と、一応、それらしく分析の振りをしてみました。なんかわざとらしいですね。これ以上、自分に対してコメントするのは野暮ですから、これ以上のことは、ここまで我慢して付き合って下さった方のご想像にお任せします。
いままで、好き勝手なことを書いてきましたが、ここまで読んで下さった方は、私が、谷文晁の描いたものに対して、何か感想を言うとしても、決して展覧会をこれから見に行くときの参考にならないこと、あるいはすでにこの展覧会に言ってきた方が、自分の印象を反芻する際の参考にしならないことは、明白だと思います。
実際、未だ一言も谷文晁の描いたものに対してコメントしていませんしね。
展覧会チラシを見ると、谷文晁という人は様々な流派の画法を学び折衷に努めて一家を成したと解説されていますが、狩野派とか土佐派とか言われてもピンと来ないので、取敢えず最初に展示してあった『連山春色図』(右図)を見てみましょう。私のような素人でも山水図というのがもともと禅の思想的な表現で、単に風景を写したというのではなくて、そこに虚構的な仕掛けが施された約束事があること程度の知識はあるつもりですが、ここでは、その世俗化とみていいのか、山水画の構図に見立てて、描かれているようです。実際に、ここで描かれているような山稜が日本に現実に存在するかと言えば、私は見たことがありません。私は学生時代、国内の山岳をけっこう登って回りましたが、これに似た山も見たことがありません。つまり、これは現実の山ではなくて、山水画のお約束で「山というのはこうして描きなさい」という作法に基づいて描かれた、言うなれば、山ということを示す一種の記号です。だから、そこに描き手がユニークな解釈を施すことができず、山という記号が伝わることが優先されます。記号の代表的なものは文字ですが、文字を独自の解釈でユニークな形にアレンジしたら読むことができなくなってしまいます。ここでの山は、それて似たようなものでしょう。そうしたら、記号として伝わることが優先されるとしたら、それに支障がない範囲で装飾を加える程度の趣向というところで、描き手は個性を出すしかない、ということになります。言うなれば小手先です。こういうのは谷文晁が始めたのか、分かりませんが、例えば中世の雪舟に見られるようなゴツゴツした描線から醸し出される山稜の厳しさのようなものはなくて、山脈は岩稜ではあるものの、細い線で繊細に描かれ、たおやかな印象を受けます。左側の山稜が屈曲しながら画面手前のこちらに向かって途切れることなく連なってくるのは禅画の作法のよるものでしょうか。手前の森林の緑と奥の岩稜の土色がそれぞれ地味な色ですが、そのぎらでーションを使って遠近感と空気感を感じさせると言ったらいいのか。これは、その諧調を愛でて楽しむという類のものではないか。つまり、趣向です。山ということなら、例えばセザンヌのように山そのものの存在感を本質と捉え、それを画面に定着させるにはどうしたらいいか、というようなことはなく、山らしく描いてみせて、あとは、それを見立てて描き方の趣向やテクニックを愛でるということになるでしょうか。セザンヌの立ち位置で悪意で言えば、一種の退廃です。何を描くかという本質的なところは、取敢えず問わずに、巧く、うけるような描き方を工夫するということになるわけです。だから、このような美術館に展示して、真面目に鑑賞するというのではなくて、強いて言えば、部屋に飾って親しい友人と、これを眺めるでもなく、深山の風景に思いを馳せて一献傾けるのに御誂え向き、といったものなのではないかと、想像します。それを考えると、構図とか線の引き方とかよりも、薄ぼんやりとした空気の感じが淡い色調のグラデーションでうまく出ているのが、雰囲気を醸し出しているように見えます。
実際に、石山寺縁起絵巻を復興させたりしていますが、きっと器用な人だったのではないかと思います。だからこそ、そういうことができた。今回の展示でも、これがひとつの目玉となっていたようですが、私は見てても、ちっとも面白くなかった。多分、(西洋)絵画という概念に毒されているからかもしれませんが、谷文晁は器用に巧みに絵巻を復興、再現していますが、お手本を見倣って、うまく写したという程度にしか見えませんでした。少なくとも、画家谷文晁ではなくて、優秀な職人の業績というものではないか、と思い、ここで美術館として展示する意義がどこにあるのか、谷文晁の世界というのか画家としての視野というよりも、手先の器用を生かしたアルバイト程度ではなかったのか。その証拠に、この絵巻の視野とか世界観とか技法とかいったものが、谷文晁の描くものにどのように影響していったのか描いたものに、どのように現われているかの検証するような展示がなかったからです。
もう一つ見てみましょう、『慈母観音図』(左図)というものですが、山水画とは全然別の仏画です。同じようなものが2点並んでいますが、この2点の区別がつくでしょうか。私は、区別がつきませんでした。左側が酒井包一、右側が谷文晁の描いたものです。二人の絵師は交友関係にあったらしいですから、相互影響もあったのかもしれませんが、ここまで同じような作品を遺すとは、驚きました。なお、今回の展示では酒井のものは展示されていません。たまたま、ネットを見ていたら見つけてしまったのです。これだけから即断するのもどうかと思いますが、慈母観音像のお約束があって、二人とも、それに忠実に従った結果が、このようなものになったのではないか、と思います。
今回の展示されたものの中に谷文晁が模写したものが少なからずありました。その点でも、器用さという点で秀でていたのは分かります。しかし、ここで西洋の油絵の模写(右図)をしていますが、遠近法という視野、世界観、あるいは輪郭を線で捉えるのではなくて面とか立体として捉える空間把握というような本質的な絵画思想のようなことは、模写することによって谷文晁の作品世界に影響があるかというと、それは全く見られない。それは、構成の明治維新政府が西洋の知識や技術を熱心に輸入に努めた時の和魂洋才、つまり、小手先のテクニックの速効的な導入に努めたことの先駆けかもしれません。
そのようなところで谷文晁の特徴として、私が見出したのは、描くということは記号的な戯れとして、お約束の文法に乗って、その中で趣向という、テクニックを追求するということで、そのテクニックの細かな差異が彼の特徴であるとして愛でるということではないかと思います。そのためには、自分でも多少は絵筆をとって嗜む程度の知識と経験がないと、かれのテクニックがどのようなものであるかは、理解できないという、好事家とか、大名のような当時の知識人という閉じた世界のなかで戯れるには最適のものだったのではないか、と思いました。かなり揶揄的な書き方になってしまっていますが、しかし、ここでもちいた言辞は、二十年ほど前に一世を風靡したポストモダンの論客たちが好んで用いたタームを意識して流用してみました。というのも、小手先の細部の差異に戯れるというようなことは、まさにポストモダン的なものそのものだったからです。こんな言葉を使って、すごく懐かしい気がしましたが、谷文晁の描いたもの、描き方というのが、そういうものと親和的ではないか、とつよく感じました。もし、20年前だったら、谷文晁とポップアートを並べて見るといかいった企画があり得たかもしれないなどと思いました。