ラファエル前派の軌跡展
 

  

2019年4月26日(金) 三菱一号館美術館

この美術館は東京駅から歩いて数分という便利さもあって、年間でも何回か訪れている。今回も、ちょうど、夕方に都心に出かける用事があったので、空いた時間に寄ることにした。ただ、空いた時間を気軽に過ごすには入場料高めだし、狭い部屋を通り抜ける自動ドアが邪魔くさく、靴音が響いてしまう床がうっとおしいので、何度訪れても慣れないし、落ち着いた気分にはなれない。館内は、平日、しかも連休前日の夕方で、それほど混雑してはいなかったが、比較的女性客が多かったのはラファエル前派の展覧会だからだろうか。

いつものように、展覧会の挨拶から“1848年、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティらが結成したラファエル前派兄弟団は、英国美術の全面的な刷新をめざして、世の中にすさまじい衝撃をもたらしました。この前衛芸術家たちの作品は、観る者の心に訴えかけ、広く共感を呼びました。人々は、社会の基盤が移りゆくなかで、彼らの芸術に大きな意義を見出したのです。その精神的な指導者であるジョン・ラスキンは、あらゆる人にかかわる芸術の必要性を説く一方で、彼らとエドワード・バーン=ジョーンズやウィリアム・モリスら、そして偉大な風景画家J.M.Wターナーとを関連づけて考察しました。本展では、英米の美術館に所蔵される油彩画や水彩画、素描、ステンドグラス、タペストリ、家具など約150点を通じて、彼らの功績をたどり、この時代のゆたかな成果を展覧します。”

この美術館の企画展は、企画の方針とか意図がしっかりしていて、その趣旨にしたがって展示するというより、まず作品を集めて、並べたという印象のものが多い。今回も、ラスキン生誕200年記念と謳っているわりには、あいさつで説明がないし、展示にラスキンの描いたスケッチが並んでいたり、申し訳程度にターナーが展示されていましたが、ラファエル前派とラスキンの関係が展示からは、はっきりせずに(それなら、もっとミレイやハントの初期の作品じゃないの?)とか、つっこみどころはたくさんあるのですが、展示されている作品は、ラファエル前派のガイドブックにある有名な作品が集められなかったのか、落穂拾いのように周縁の作品をかき集めたような内容で、これまでのラファエル前派展の収集かには洩れてしまうような作品が多く、ある意味新鮮な出会いがありました。したがって、ここでは、展覧会の趣旨などは無視することにして、個々の作品の印象を個別に綴っていきたいと思います。

 

第1章 ターナーとラスキン

ラファエル前派のはずなのに、なぜかターナーです。これは、ラスキンがターナーを高く評価したからで、そのターナーの作品とラスキン自身のスケッチや水彩が展示されていました。そのラスキンのスケッチは、例えば「サン・ソーブル教会」(右上図)や「樹木と岩」(右下図)などを見ても、優等生の画学生のようなまじめで几帳面なスケッチで、その細かさゆえにラファエル前派に近い感じがします。それだけにターナーの作品とは、むしろ遠くはなれた感じがして、ラスキンがターナーの価値を衆に先んじて認め、画家を積極的に後援したのは何故か分からないほどです。それほど二人の作品は対照的です。ターナーの展示作品は少なく、ターナーらしい抽象画と見紛うばかりの作品の展示はありませんでしたが、それでも、平凡なラスキンのスケッチと並べてみると変なところ(これは決して貶しているのではありません)が目立ってきます。

「カレの砂浜─引き潮時の餌採り」(左図)という作品は、晩年の抽象画のような作品の兆しが見えると解説されていました。おそらく雲や夕日やその周辺の描き方に、それらしいところがあるというところでしょうか。画面を見ていると、夕日の光が上方に逆V字型に直線的に広がっているのは何故なのでしょうか。夕日の向かって右の光を隠すように右上方に斜めに直線が走っているのは山の稜線のようですが、かといって雲では直線がはっきりでないでしょうし、何なのでしょう。また、夕日の向かって左に建物のような黒い影があります。これも何だか分かりません。また、画面手前で餌を採っている人々は、遠近法の奥行きの描き方であれば、消失点の夕日にむかって小さくなっていくのではなく、逆方向の右に向かって、そっちに消失点があるかのように小さくなっていきます。つまり、風景と人々が異なる空間にいる。しかしそれが、全体としての画面はちぐはぐとしたところがない。だから、不思議な画面です。現実の風景を描いたのでしょうが、現実のリアリズム的な感じがなくて、かといって幻想的でもない。ターナーは尋常じゃないです。この後に展示されているラファエル前派や周辺の画家たちが普通の人が精一杯頑張って普通でないように描いているのに比べて、ターナーは普通に描いていてブッ飛んでいる。ラファエル前派の画家の作品たちが可哀想になりました。

 

第2章  ラファエル前派

広間の展示室に入ると、本題です。この部屋は撮影OKらしいので、スマホの音がカシャカシャで絵の正面は撮影者優先みたいになって、撮影している人のほとんどは撮影するだけで作品の前から立ち去って、絵を見ているのかな?私は、撮影に興味はないので、単に邪魔くさい。で、ここの部屋の展示は、ミレイ、ロセッティなどの主要な画家たちの作品なのですが、ロセッティはまあまあですが、ミレイやハントは小品がいくつか、ということで作品を集めるのが大変だったのだろうことを想像してしまいました。ここ数年で、何度もラファエル前派展があって、オフィーリアなどの有名どころは来ているし、それをまた借りるというのは、向こうもなかなかでしょうから。それで、画集でもメインに出てこないような作品をかき集めて…、とまでいうとクレームになりそうなので、あの、そんなつまりはありませんから、おかげで知らない作品に数多く出会えたので、よかったと思っているのですから。

「滝」(左図)という作品です。小品ですが、ミレイの初期のラファエル前派そのものという時期の作品です。有名な「オフィーリア」の背景の川の風景を滝に置き換えたような、とにかく細かく描きこまれていて、その細部優先が、風景の奥行き感を上回って平面的にすらなっています。流れの向こうの草の描写が細かいこと。滝の水しぶきで向こうが霞んで、などということは考えずに、ひたすら生えていると考えられる草を虫眼鏡で覗いているかのように精緻に描き込んでしまう。まさに、初期のミレイそのものです。手前の岩の岩肌の冷たい感触と、種類の異なる岩を岩石標本のように精緻に描き分けていて、その情報量は小さな画面から溢れてしまうほど。しかし、全体の画面が空間のひろがりが感じられず、箱庭のように感じられてしまうのが、典型的なラファエル前派のミレイです。この画面の細部をひとつひとつ見ているだけで、あっという間に時間が経ってしまいます。

ミレイの作品をもうひとつ「結婚通知─捨てられて」(右図)という作品。展示されているロセッティやハントの描く女性像が、たくましいとか妖艶といったものになってしまう中で、ミレイの描く、この女性には可憐さがあって、ほっと一息つけました。後に肖像画で一家を成した人だけあって、現実にいる普通の人で存在感があります。ロセッティの描く女性のような現実にはありえない、画家本人の願望を画面に投影したようなものとは違い、穏便な印象ですが、そこに落ち着きがあって、それだけに上目遣いの表情や頬の肌の柔らかさなどはとくに、はかなさも感じられます。背景は壁なのか、あえて描かなかったのか分かりませんが、後年の肖像画とは違って、人物の隅から隅まで細かく描き込んであって、衣装の布地の質感も描き分けられ、小品ながら侮れません。ミレイは、この程度で、あとはスケッチが数点。

フォード・マドックス・ブラウンの「トリストラム卿の死」(左図)という作品。ブラウンは、ラファエル前派の主要メンバーより上の世代で、画風に共通性があることから行き来するようになった人で、この作品はアーサー王伝説の中でトリストラム卿がマーク王の妃となったイソード姫を愛してしまい、それを見咎められたマーク王によって殺される場面です。もともとはステンドグラスの下絵デザインを油絵に仕上げたものだということです。そのせいもありますが、奥行きのない平明的な狭い空間に隙間なく人物を押し込めるようにして配置されています。これは、初期のハントやロセッティの宗教的な題材を中世風の素朴で様式的な画面構成と共通するものです。しかも、色遣いが明るい色を濁らせることなくつかっているので、画面全体が明確で、分かり易い。とくに、ブラウンは、ハントのように細部をリアルに詳細に描くことはなく、むしろ人物のポーズはデフォルメされて、マニエリスムのように不自然でわざとらしいところがあります。例えば倒れたトリストラム卿をかばうイソード姫のポーズや首の曲げ方など現実にはありえない形です。しかし、それが物語の場面を見る者に分かり易くしていて、ひとつの秩序をつくっている。

ラファエル前派の初期の主要メンバーの一人、ウィリアム・ホルマン・ハントの作品も小品が2点しかありませんでした。「誠実に励めば美しい顔になる」(右図)という作品は、ミレーの描く女性の可憐さとは違うふくよかな女性像で、次の「甘美なる無為」の女性像になるとたくましさが勝って男みたいに見えてしまうのですが、そこまでは行かなくて、肌のつやつやして生き生きとした生命感は、ロセッティやミレイにはない、この人の女性像の魅力です。手元のティーポットも可愛らしいデザインで、紅茶をたしなむイギリスの上品な女性らしさを、うまく演出しています。彼の代表作「良心の目覚め」の女性の部分を抜き出して上品な装いにして肖像画にしたら、このようになるという印象です。

「甘美なる無為」(左図)という作品。ある人は、“ロセッティ的美人画のハント版”と評したということです。背景にある円形の鏡は、ファン・アイクの「アルノルフィニ夫妻の肖像」からの引用のようです。その鏡に映っているのは暖炉の炎であり、この女性の視線は絵のこちら側である観客に向けられているのではなくて、暖炉の火を見つめているのが分かります。しかし、そのことが、こちらを見ているようで、実はそうでない微妙なずれを鑑賞者に感じさせ、それが女性の視線が夢見がち、もっといえば思索的に映るのです。それはまた、鑑賞者を画面に誘い入れるような錯覚を生みます。そこにある種の倦怠感を伴う雰囲気を醸し出し、ハントには珍しい唯美主義的な作品になっています。しかし、描き方は緻密に描き込んであり、ハントの真骨頂がよく出ていると思います。ただ、私には、この女性の顔はゴツくて、夢見がちな女性には見えないのです。男性のように見えてしまいます。当時のイギリス人には女性に映るのかもしれませんが、あるいは両性具有とか、中性的ということになるのか、タイトルからして、これが甘美と言われると常識が違うと感じざるを得ません。

そして、残る主要メンバーがロセッティで、今回はロセッティの展示作品が多く、この広間の半分以上がロセッティの作品の展示で占められていました。偏りすぎの感はありますが、おそらく、他の画家の作品よりもロセッティの作品が集め易かったのだろうと思います。ロセッティの作品の中でも比較的初期の水彩画が珍しくて、私には、今回の収穫のひとつだったと思います。例えば、「廃墟の礼拝堂のガラハッド卿」(右図)という水彩の小品。1850年代のロセッティは、独特の水彩絵具の使い方で、まるで油絵のような鮮明な色彩の水彩画を制作していました。その頃の作品です。普通の水彩画の淡い色彩でなく、鮮明なころですが、油絵に比べて澄明さがある、独特の色合いを持っています。詩人アルフレッド・テニスンが書いた詩をもとにしたアーサー王伝説の一場面です。円卓の騎士、ガラハッド卿が礼拝堂で祈りの声を聴きながら柱に括り付けたほら貝状の容器から手で水を飲んでいるところです。ひざまずくガラハッド卿の白いマントが、その下の青い甲冑が周囲の夜の青みがかった暗さに同化するようなので、対照的に栄えています。画面左の祭壇は、廃墟のはずなのに光が差して、ガラハッドの頭部と白いマントを照らしだしているように見えます。カラヴァッジォのようなバロック絵画であれば光と影の強烈な対照で劇的な場面にしてしまうこともできるところを、むしろ、画面は平板で水彩絵具の明暗の対照が油絵のようにきつくならないので、対立による緊張が生まれるよりも、ガラハッド卿が照らし出されるようで、しかも平板な画面ゆえに、画面左下の祭壇にかけられた布に織られた祈る人物の姿勢がガラハッド卿と直接向き合っているように見えているのです。

「王妃の私室のランスロット卿」(左図)はペン画ですが、細かく線が引かれて、狭い室内にランスロット卿と王妃が嘆き悲しむ従者とともに閉じこもった閉塞した雰囲気がつよく感じられる作品です。もともとは、ロセッティが請け負ったオックスフォード大学の壁画のプロジェクトのための下絵だったようですが、絶望したように名目して顔をうえに向けている王妃は、窓の外に殺到する兵士を警戒するランスロットに背を向けて、横目で彼に視線をまわしながら自分の世界に入ってしまっている姿は、尖ったあごやまとめられることなく豊かに溢れるような髪の毛などは後のロセッティの官能的な女性像を彷彿させるところがあるとともに、悲劇的な場面を想像させます。というのも、アーサー王伝説では、この王妃とはアーサー王の妃グウィネヴィアで、ランスロット卿は彼女との不義を犯したために宮廷から追放され、アーサー王の死の遠因を作ることになります。画面左下、ちょうどランスロット卿が上半身を折って窓にもたれかかっている下のところに林檎の木の鉢植えがあるのは、原罪の禁断の木の実を表わしているのではないでしょうか。結局、ランスロットは罪深さのゆえに聖杯を拝受する機会を得ながら、それが叶わず、やがて清らかな騎士ガラハッドだけが聖杯を拝受することになります(その意味で、上の水彩画でガラハッドが清らかな白いマントを身につけているのは示唆的です)。

「ボルジア家の人々」(右図)という水彩画の作品です。ロセッティは、後にルクレティア・ボルジアの肖像を描いていますが、その出自であるボルジア家の人々を描いたものでしょう。この中には、ルクレティアや兄のチェザーレ・ボルジア、あるいは父親の教皇レクサンドル6世もいるのでしょう。家族の集合した肖像画のようですが、画面右上の窓が開いて、少年が外から覗き見している様子があるために、物語の場面のようになっています。それぞれの鮮やかな衣裳の原色が対立あってとげとげしくならないのは水彩絵具の透明さのためでしょうか。全体の調子は暗めなのに、衣装の色の鮮やかさが印象的です。

「夜が明けて─ファウストの宝石を見つけるグレートヒェン」(左図)という作品です。1860年代の官能的な女性像を描き始めたころの作品です。これはチョークを使って描かれたということで驚きました。色彩としては、パステルよりも淡く、その淡い色彩のグラデーションで薄く淡い画面で、いまにも消えてしまいそうな儚い印象を与えます。それにもかかわらず、グレートヒェンは初期の水彩画の平板な人物とはちがって立体感があります。しかし、清純で可憐な少女のファウストのグレートヒェンにしては逞しいロセッティ好みの女性像になってしまっています。画面の左下には糸紡ぎの車が置いてあってグレートヒェンであることが暗示されていますが、糸を紡ぐことはしていなくて、ドイツの田舎娘の姿でもありません。宝石箱をあけて宝石を手にしているのは、どちらかというと、ロセッティの好むファムファタールのスタイルに寄っているといえると思います。

「ヴェヌス・ヴェルコルディア(魔性のヴィーナス)」(右図)という油絵作品です。ミレイやハントは有名どころの作品はなかった代わりにロセッティは、数点来ているようです。ロセッティの作品としては珍しい裸体像、とはいっても半裸体ですが、です。ヴィーナスのヌードの骨格は花と髪に埋もれて判然としないでおかれて、これはロセッティが古代彫刻に表わされたような理想的な肉体の美に関心が向いていなかったことを示していると考えられます。この作品がヌード像としてあるのは、ヴィーナスの乳房が露になっていることからで、ロセッティの制作の焦点はこの乳房と、その柔らかな肌合いといったエロティックな表現にあったと思われます。艶やかな柔肌で、おとなしく目を伏せるのとは反対に情熱的な瞳でこちらを見つめるかのようです。そして、肉厚の真っ赤な唇、慎ましさからはほど遠い長く梳かれ赤い髪。このようなヴィーナスの官能性を引き立てるように、背景には伝統的なヴィーナスの花、「愛」の薔薇が、そして画面下部にはスイカズラが隈なく一面に描きこまれています。スイカズラは一般に他の樹木に痕が残るほど強くからみつくため「堅固な愛情」や「愛の絆」を表すとされといいますが、むしろ蜜蜂たちを甘い香りで誘うhoney-suckleであると考えてもいいのではないでしょうか。これらの花は、ヴィーナスの赤褐色の髪と相俟って、見る者に画面の基調色である赤を鮮明に印象付け、ヴィーナスが他ならぬ「愛」の女神であることを感覚的に伝えています。そのヴィーナスの愛の力を証明するかのように、画面右上には一羽の鳥が、そして林檎や矢、ニンブスの周囲には蝶が描かれています。これらは、いずれもヴィーナスの魅力の虜となった男たちの「魂」の象徴です。ここで描かれたヴィーナスは愛の女神というよりは、男性を愛と官能の虜にして破滅に導く古代の異教の神、魔性のヴィーナスです。それは、とくにヴィーナスや薔薇の花に比べて画面手前のスイカズラの花が刺々しいほど明確に、ときにマチエールで盛ってしまうほどに目だたせるように強調して描かれているところからも、絡みつくというのか、ファム・ファタールの要素を前面に出しているのが分かります。

「祝福されし乙女」(左図)という作品です。油絵というより、祭壇のような額縁と女性を描いたキャンバスの下に男性を描いた別のキャンバス(こっちの方がメインであるはずの女性を描いた部分より丁寧で明確に描かれている)があって、それらがセットになっている作品です。祭壇画といった方がいいかもしれません。この作品は、それだけでなくて、この絵に先立ってロセッティは詩を詠んでいて、絵と詩がペアになっているそうです。しかも、この詩がロセッティの詩の中でも有名なのだということで、その内容と合わせて画面を見ると、天に召され乙女(祝福されし乙女)は天から見下ろし、地球上に残る彼女の恋人を見ています。イメージを通して、ロセッティは乙女を地球のものに結び付け、彼女の憧れを象徴しながら恋人同士の距離を強調しています。彼女は神の城壁の上に立ちます。地球から遠く離れていますが、彼女の髪は「熟したトウモロコシのように黄色い」です。彼女の優美な美しさを宣言するのではなく、ロセッティはこの世的な細部を通して乙女の外観を描いています。彼女は恋人から遠く離れて天国に固定されているかもしれませんが、彼女の外見と視線は、彼女の心のように、地球上の最愛の彼女と一緒になっています。画面の最上部には暗い画面の中で、恋人たちの抱擁する様子がいくつも描かれていて、天国の恋人たちということなのでしょうが、暗い画面が、この乙女には叶えられていない。それゆえに、乙女は最愛の人からの距離だけを見ています。天国は固定されていますが、地球は猛烈に回転しており、皮肉なねじれでは、乙女の視線は地球に固定されています。ロセッティは、自分の視線と天国の位置を地上のイメージで描写することによって、彼女の憧れの鋭い感覚を作り出し、そして事実上、見る者に乙女の到達不可能な位置から天国を垣間見せてくれます。天国というなのか、下の恋人の男性が描かれているキャンバスに比べて、輪郭を明確にしたりしていない印象で、乙女はしっかり描いているのですが、他の部分は描き込んでいないというような印象です。これは意図的なのかどうか分かりませんが。とくに中間のある三つの顔は力が抜けている。また、乙女は恋人を遥かに思っているというよりは、物憂げで誘惑する女という、ちょっと恐いイメージです。このように見ていて、今さらながら、ロセッティの描く官能的な女性というのは、逞しくて、たをやめの乙女といったものではなくて、マッチョなイメージです。私の個人的な好みから言うと、女性的な魅力をあまり感じられない。

「ムネーモシューネー」(右図)という油絵作品。ギリシャ神話の記憶を司る女神を描いている作品です。縦長のキャンバスで女神は正面を見据えるように、手つきも妖しく、薄明のなかに堂々として、こちらを向いています。剥き出しになった肩から腕の描く曲線が構図の重要なポイントになっていて、右手を胸に左手を腰に下ろした女神のポーズは“慎みのヴィーナス”というもののポーズだそうです。これは、女神であることを視覚的に暗示しているといえるかもしれません露わになった左腕の太くて逞しいこと!肩幅は広いし、ロセッティは1870年代にミケランジェロを勉強したそうですが、たしかにそういうマッチョなところが見えます。そして、女神は緑色の衣裳を身を包み、前のヴェヌスや乙女たちのように緑と対照的な赤が使われていないので、全体として地味に沈んだような暗く濁った印象となっています。

広間を出て長い廊下を通った小さな展示室に入ります。ここでは。メジャーな3人以外のラファエル前派の人々の小品が並びます。まずはアーサー・ヒューズ。挿絵画家として、たくさんの挿絵を描いた人です。「リュートのひびき」(左図)という作品です。一見すると同じラファエル前派のミレイの「オフィーリア」を想わせるような画面構成です。ただ、「オフィーリア」は死体でうつろな目で仰向けに横たわっていますが、この作品では、少女が物憂げに俯向きに横になって、身体をひねって上を仰ぎ見ています。彼女はヒューズ得々の透明感があって豊かな色の青いガウンと紫色のマントを身に着けていて、そばにリュートが置かれています。人物を画面一杯にして、見る者の間近にさせています。そのわずかな背景には森林を配し、ミレイほど細密ではないけれど、ヒューズの正確な自然の描写と輝く色は、絵画の感情的な強さを増すことを目的としています。この絵はテニスンのアーサー王伝説を語る詩集「王の牧歌」の「マーリンとビビアン」で詠われている不幸な愛に触発された描かれた作品ということです。愛は、リュートの形の音楽で象徴されています。リュートの上に置かれたブルーベルの束は、不変性という花言葉ということです。ただ、この少女には不幸な愛という悲劇性は感じられず、恋に憧れる少女の印象です。顔の前で両手を結んだポーズからは不幸な感じがしてきません。そういう激しさが全体として出てこないで、淡いというのか、穏やかにおさまっているのが、好くも悪しくもこの画家の特徴ではないかと思います。

「マドレーヌ」(右図)という作品です。濃い青色の幅広のガウンを着た美しい女性像です。ヒューズには、今回は展示されていませんでしたが「四月の恋」という作品が割合に有名で、同じように縦長の画面で青いドレスを着た女性が愁いに沈んでいる姿を描いた作品で、ヒューズはこのような女性像を好んでいたかもしれません。顔の輪郭や構図等にロセッティに似ているところがありますが、受ける印象は正反対といってもよく、ロセッティの女性像に感じられる逞しさや官能性はありません。ロセッティの女性は正面を見据えるのに対して、この女性は俯いて、小さな宝石箱から持ち上げたビーズのネックレスに向けられています。おそらく、そのビーズに何らかの思い出があるのでしょう。彼女の顔は、ビーズを見ながら、遠くに思いを馳せているように見えます。ここには、そういう物語を見る者に想起させるところがあります。

「音楽会」という作品。これもアーサー・ヒューズの作品。中央のリュートを弾いている女性のポーズは「マドレーヌ」の女性は同じです。それが、明るい部屋で家族に囲まれているという背景の変化によって、絵の雰囲気が全く違ったものになっています。ヒューズという人は、おそらくミレイなどとは違ってデッサン力がそれほどなかったのでしょう。描いている人物のポーズは限られていて、そういうのを使い回して、他の人物のポーズと組み合わせたり、背景の色調を変えたりして、全体の画面の雰囲気を作っていた。おそらく、ヒューズ自身がデッサン力というか描写する能力では劣っていたことを自覚していたので、画面構成とかデザインで勝負しようとしていた。だからこそ、この人は絵画よりも挿絵を活動の場として選んだ。また、この作品で言えばリュートを弾く女性のドレスの紫色と肩に羽織っている濃い青、そして女性の向かいの男性の濃い緑色の、深くて透明感のある色合いがこの人の独特のもので、これを手にしたことで、ロセッティのようなマニアックな芸術志向の趣味人向けではなく、小市民的な広間に飾るに似合った、穏やかで少し文学的な匂いのする作品を量産するコツを摑むことができた人ではないかと思います。この作品にも、そういうところが出ています。平和で暖かい家庭のひとコマと言えるし、リュートを弾く女性の表情は音楽に没頭しているとも、愁いを含んでいるとも見える。また、向かいの男性は頭を抱えている。そこに何らかの物語を想起することも可能です。

この展覧会は、最初に落穂拾いと申しましたが、ミレイとかロセッティなどの有名どころの他の画家たち、どちらかという日本ではマイナーな画家たちの作品の方が、けっこう発見があって、興味深く見ることができました。「アーサー王の島」(右図)というジョン・ウィリアム・インチボルトという画家の作品です。アーサー・ヒューズと同じようにラファエル前派の近くにいて、その影響を受けた画家です。風景画ですが、いわゆるピクチャレスクの絵になる風景を画面におさめるのではなく、ミレイが至近距離で観察した植物図鑑の図のような野原の景色を、この作品のような遠景で描こうとした人のようです。例えば画面左手前の崖の岩は岩石の種類が分かるほど細密で、崖に生えている草のひとつひとつの種類が分かるほど細かく描写されています。しかも、ラファエル前派に通じるような明るく、濁りの少ない色彩で描かれていて、これがイギリスの海岸線かと想うほど晴朗な感じがします。

 

第3章  ラファエル前派周縁

展示室は隣りに移って、芸術至上主義の画家たちなど、ラファエル前派と活動をともにしたり、近くにいた画家たちです。

「初めて彩色を試みる少年ティツィアーノ」(左図)というジョージ・プライス・ボイスの作品です。17世紀の著述家リドルフィが記した逸話、“ティツィアーノは幼少の頃、描かれた聖母像に花の汁で彩色したことで、将来色彩画家として著名になる最初の兆候を示した” に基づいた絵だそうです。写真を鮮明にする機能を使ったかのように、なんだか絵がくっきりとして鮮やかで、描写が細かい。例えば、少年の足元の花の描写などは、ミレイが「オフィーリア」でやったように細かさて、輪郭がくっきりと描かれています。この絵の中心は、聖母の彫像で、周囲が明暗のくっきりした鮮やかな色彩で描かれているのに、白一色で、背景から浮き上がっているようです。しかも影のつけ方にメリハリがあって、背景がむしろ平板に映るのに、聖母像の方が立体的に見える。白一色なのは、少年が彩色する対象として位置づけられているからでしょう。むしろ、この聖母像に比べて、本来なら主人公であるはずの少年が背景の色彩の中に埋もれてしまって、しかも、背景ほどには写実的に描かれていないので、ここだけ穴が空いたようにうそ臭くなってしまっていてバランスを欠いてしまっているのが、むしろ面白く感じられました。まるで、水木しげるの妖怪まんがの1コマを見ているような気がしました。

同じ画家の「アラン島の風景」(右図)という作品です。母親と4人の子どもたちが水辺で遊んでいる様子でしょうが、何よりも、この光が印象的です。印象派のような南欧の燦々とした明朗な光とは違う、かといって英国のどんよりと湿った光とも違う、透明な光で子供たちの来ているシャツの白や草地の淡いグリーンが映えるような光です。ここでは、「初めて彩色を試みる少年ティツィアーノ」とおなじように背景が細かく描かれていますが、この光のもとで、風景全体が白っぽく、色彩を脱色されてうつろに見えるような印象です。神話の牧歌的な物語の場面に見えてくるような感じがします。

「詩」(左図)というシメオン・ソロモンの水彩画。初期のロセッティを想わせる、おそらく同じような技法で描かれているのでしょう。水彩画特有の滲みがなくて、明確な輪郭で、色彩が鮮やかです。女性の顔の形などもロセッティの影響が明らかです。しかし、印象はまるで違います。ロセッティの描く女性の逞しさというのか、強い自己主張のようなものは感じられず、かといって、同じようにロセッティの影響が見られるアーサー・ヒューズのような穏やかな明るさもない、この女性は表情に愁いを湛えていますが、ヒューズの描く女性のような具体的な対象に向けた感情であるのに対して、この女性の愁いには対象がなく、抽象的です。存在感が薄いというのか、影が薄いという、存在自体がはかないという感じなのです。画面全体の色調も淡い感じで、ロセッティのどきつさやヒューズの鮮やかさはなくて、濁った感じ、鈍さが特徴的です。もっとも、これまでラファエル前派展で何点かソロモンの作品を見てきましたが、スケッチだったり、水彩画でも、ここまできっちりと描き込まれた作品は初めてのような気がします。私のイメージでは、下絵とか走り書きのように即興的に描いているというものをよく見ていて、腰を落ち着けて描き込んで完成させたまとまった作品というのは、初めて見たという印象です。それだけに、今回の展覧会は、このソロモンだったりアーサー・ヒューズのような人々の作品に触れることができたのは、収穫だったと思います。

同じソロモンの「中国の服を着た女性」(右図)という水彩画です。これも同じように淡い色彩で、ちゃんと描かれた女性像です。

ソロモンの影の薄い女性とは正反対の強烈な自己主張をするフレデリック・サンズ「ヴァルキューリ」(左図)という油絵作品です。サンズの作品は、以前のラファエル前派展で「トロイのヘレン」とか「カッサンドラ」といった作品を見て、肉厚の顔つきで激しい感情を見る者にぶつけるような強く自己の存在を主張するような作品という印象を持っていました。この作品で描かれているヴァルキューリというのは北欧神話で、主神オーディンの娘で、戦闘で死ぬ可能性がある人と生きる可能性がある人を選ぶ女神達の1人です。戦いで死んだ人々の半分の中から選択して、彼らをオーディンの支配するヴァルハラに連れて行きます。そこでは、亡くなった戦士たちは不吉者になります。ヴァルマューリは英雄や他の人間の愛好家としても現れます。そこでは時々王族の娘と言われ、時にワタリガラスを伴ったり、白鳥や馬とつながったりします。この作品でも、顎を上げて、その角張った顎が女性の強さをアピールしているし、高い鼻梁で引っ込んだ目から上を向く視線は強いです。

ジョージ・フレデリック・ワッツの「オルペウスとウエリュディケー」(右図)という油絵作品です。ギリシャ神話のオルフェウスの物語はオウィディウスの「変身物語」(多分、ワッツはオウィディウスをもとにして描いていると思います)をはじめとした多くの古代の史料で詳しく語られているものです。この作品は、オルフェウスがエウリディケを振り向いて喪ってしまう場面を描いています。しかし、背景や小道具をほとんど省略していて、二人が冥界にいることは、この場面からは分からないし、オルフェウスのシンボルともいえる竪琴も画面には見られません。この作品ではエウリディケを喪うオルフェウスを描くことに絞って、それ以外の要素を画面から排除しているために、それだけいっそうオルフェウスの喪失感や悲嘆がクローズアップされてきています。これは、もともと初期からのワッツにはラファエル前派のミレイやハントのような細部を明確で詳細に描きこんでいくのとは反対に、明確な輪郭を描きこまず、細部を省略して見る者の想像力に任せる、そして寓意的な画面を志向するところがありました。そこから派生したものでもあると思います。とくに半身像のヴァージョンは上半身のねじれたようなポーズの部分だけをピックアップして、そのねじれが強調され、オルフェウスの姿勢の無理したようなねじれが彼の感情を身体のポーズに仮託しているのが効果的になっていると思います。

同じフレデリック・ワッツの「エンディミオン」という油絵作品。同じようにギリシャ神話の物語を絵にしたもので、月の女神セレーネ(ディアナとも言われる)に愛されたエンディミオンは、女神と同じように永遠の若さを保つために、ゼウスによって永遠の眠りにつくことになります。それを女神は繭のようにエンディミオンを包み込む。この作品でも、リアリズムの描写は省略され夜の暗闇の中でシルバーブルーの女神とエンディミオンの土気色という鈍い色に色彩は限定され、閉じ込められたような空間に二人の人だけがグローズアップされている。眠っている若者を包み込むような透き通った月光の形で女神は、首から下の身体は描かれるものの、顔の表面のみが暈され、目や鼻といった顔のパーツさえ確認できません。さらに女神のみならず、エンディミオンの頭部も闇の中へ溶け込んでしまっています。それは意図的に顔のみを暈すことで、眠りから覚めない想い人を見つめる女神の表情を想像するよう、見る者を駆り立てるようになっていると思います。

 

第4章 バーン=ジョーンズ

「受胎告知」(左下図)という水彩画の作品。バーン=ジョーンズは後年、同じ題名の作品を制作していますが、この水彩画は初期のころで、画家が未だ自身の個性を見つけて、画面に定着できていないころの作品で、ロセッティの初期のころの水彩画で宗教的な題材を取り上げていた頃の作品に似た雰囲気があります。中世の雰囲気といえるような。並んで展示されていた「金魚の池」(右図)という水彩画もそうで、面長の顔つきで物憂げに疲れたように腰掛けている女性像はシメオン・ソロモンに似ているところがあります。また、少女の衣裳や背景の果樹園あるいは赤煉瓦の建物が中世の雰囲気を濃く伝えています。このころのバーン=ジョーンズをとりまく雰囲気では中世はラファエロのように近代的なものに汚染される前の無垢な理想だった。中世には生活と芸術がより自然に近く、それだけ堕落していなかった。そういう理想の世界として、単に歴史的に懐古する他人事の物語の世界ではなくて、そこに、いわば夢を見ていた、それを現実の風景として描くことで、夢と現実を融合させ、彼ら自身の生活スタイルに取り入れようとした。例えば。ロセッティはエリザベス・シダルをモデルにして聖女を描いた りしましたが、バーン=ジョーンズは、弟子として、それを傍らで見ていて、それを受け継いだ、それがこの作品にも表われていると思います。

「慈悲深き騎士」(右図)という水彩画は、そういう初期の作品の集大成的なものと言えるかもしれません。ここでの展示では、この後の1860年代後半以降の展示作品には、典型的なバーン=ジョーンズの人形のような顔が明確にあらわれてきます。ここまでの作品では、そのような顔のパターン化は進んでいません。この作品はフィレンツェの騎士ジョヴァンニ・グアルベルトの伝説に基づくとされているそうで、ある聖金曜日のこと、彼は武装した従者とともにフィレンツェに向かっていた。その道中、自分の兄弟を殺した男と出会った。彼は復讐としてその男を殺そうとした。男は、武器を十字架の形に広げてひざまずき、その日に磔刑に処せられたキリストの御名において慈悲を請うた。ジョヴァンニは男を許した。ジョヴァンニはその後、立ち寄った教会で祈りの最中に、木造のキリスト像が手を差し伸べられ祝福を受ける。キリストのひげは、騎士の額と言い表せない悲しみの表情の盾となっている。キリストの手の聖痕は、騎士のむきだしの手の弱々しさを引き立たせている。また、平面的な画面全体を覆うグリーンの美しさに目を奪われますが、陰影の処理や人体の立体感などにラファエル前派にはない独自性が芽生え、甲冑の光沢感、周囲の幻想的なまでの草花など、後のバーン=ジョーンズの作品を彩る要素がすでに表われています。

「嘆きの歌」(左図)という水彩画には、変化の兆しが見えてきます。ロセッティの物語的な性格の濃い作品から装飾的な画面へと移行しつつあるということです。ロセッティの影響は平面的で装飾的な構図を受け継いでいますが、ロセッティに特徴的なアトリビュートのように細部に意味をもたせて配置するという要素を取り除いて、人物を単純に配置するものしなっています。その結果、見る者は物語を想像することかに、視覚的なレベル、つまり色彩と人物の表情と気分が醸し出す雰囲気で嘆きを感じるようになっています。人物はパルテノン神殿の浮き彫りを参考にしたと言われ、安定した構図で、それが大理石の白亜の背景から素朴な輪郭が浮き上がるようです。そして、人物の衣装の対照が印象的で、その二人の人物像によってかもし出される気分を絵にしみ込ませることによって、見る者に反応を呼び起こし、それは「慈悲深き騎士」のような視覚的な手がかりから物語を説き明かそうとするものではなくなっています。

大作「ペレウスの饗宴」(右図)では、これまでとは変わった、完成したバーン=ジョーンズがいます。ダ=ヴィンチの「最後の晩餐」と似た構図の遠近法による画面は、あきらかに平面的なラファエル前派からの逸脱と言えます。描かれているのは、中世を飛び越えてギリシャ神話の世界。トロイ戦争の英雄アキレウスの両親となるテッサリアの王ペレウスと海の女神テティスの婚礼の最中に起こった事件、これがトロイ戦争の発端となるのですが、を題材にしています。横長の画面には、牧歌的風景の中に置かれた宴席とそこに招かれた神々や給仕を務めるケンタウロスが描かれています。テーブル奥の中央から左に向ってゼウスと妃ヘラ(ピンクのドレス)、知恵の女神アテナ(青いドレスを着て、頭に兜をかぶっている)、美の女神アプロディテ(頭に薔薇の冠をつけている)が並んで立ち、テーブル手前には酒の神ディオニソス、太陽神アポロン、愛の神クピド、運命の三女神モイラがいます。右端に立って神々の注目を集めているのが、不和の女神エリスが、そこだけ暗くなっていますが、婚礼に唯一招かれなかったことに腹を立てて乗り込んできた彼女は、意趣返しに不和の種をその場に持ち込んだのが、その発端ということになります。それは、右手前で、こちらに背を向けて青い帽子をかぶっているヘルメスが左手に持つ林檎がそれであり、その林檎をめぐって、ヘラ、アテネ、アプロディテが争い、トロイの王子パリスの審判に委ねられることになるわけです。画面の神々たちは、皆同じ顔で、来ている衣装によって役を振り分けられているようですが、その顔は、前の水彩画のロセッティ風の面長から丸顔の後期移行のバーン=ジョーンズの作品のパターンとなっている顔に変わっています。また、ラファエル前派初期の画家たちは裸体を積極的に描きませんでしたが、ルネサンス以後のイタリア絵画の理想的な人体さして描かれた肉体表現につらなるような筋肉美の肉体を立体的に描いています。同じ裸体でも「慈悲深き騎士」のキリストと比べると別物のような描き方です。

「三美神」(左図)というパステルです。「ペレウスの饗宴」などとセットでトロイの物語という大作を制作しようとして、その一部のための下絵ということです。三美神はユピテルとユノの娘でエウプロシュネ(喜び)、アグライア(優美)、タレイア(若々しい美)という名前だそうです。三人がお互いの肩に手を置いて中央の一人が背中を見せる構図は、それ自体が美の調和を示すものになっているもので、古代彫刻の定式的なパターンを取り入れているということです。とくに優美な曲線を見せている中央の女神の背中などは、ラファエロの同じ題名の油絵作品(右図)を想わせるところがあります。人物の配置はボッティチェリの「プリマヴェーラ」(右下図)にも似ています。人物の形態を単色のパステルの濃淡だけで立体的に浮かび上がらせる。細部よりも全体のプロポーションを次第に重きを置くように、それによって、バーン=ジョーンズはロセッティやラファエル前派の影響から脱して、個性を形づくっていった。それが、このようなパステルの素描では直接的に表われてくると思います。

「赦しの樹」(左下図)という油絵作品です。トラキア王の娘ピュリスは愛するデーモポーンに捨てられ、絶望の末、自ら命を絶とうとすると奇跡によってアーモンドの木に変えられます。その後、心から後悔したデーモポーンがその木を抱きしめると幹からピュリスが出てきて愛情深い赦しを与えて彼を包み込んだというオウィディウスの「名婦の書簡」から取られた話を題材にしているとのこと。この二人の男女は非常に劇的な状況にいると言えます。ピュリスは悲しくも自分が相手に拒絶されていることを察知した女性です。彼女は、どんなにデーモポーンのことを思っていてもどうにもならない無力な存在です。それを、バーン=ジョーンズは、まるでギリシャ悲劇のように人物は運命づけられた役を演じるに過ぎない、言うならば運命の女神の操り人形なのだとでもいいたげな、彼女の表情はデーモポーンに向けられ、見る者は荒涼としているが起伏に富む風景のなかに配されており、ピョリスの髪の毛と衣文は線的な付属物として用いられており、抑制されたリズミカルな流れが生み出す雰囲気にアクセントをつけている効果で知ることになります。一方、デーモポーンは、彼が通り過ぎるときに人間の姿に変わったピュリスにあらがっているように見えます。彼女は、愛しながら、また許しながら、彼を自分の腕にかき抱こうと願っている。しかし、彼の方は、恐怖して、逃れようともがいている。ふたりの悶えるように、身体をくねらせている様子が二人の人物の緊張関係を体現していて、ほとんど裸体ですが、彼の足には衣服がまとわりつき、花が包み込むように取り囲んでいます。この画面では、彼女の髪の毛と花が人物と同じくらい画面の構成要素となっています。それは、ロセッティなどが花を花言葉などの意味を象徴的に画面に持ち込んだのは違って、視覚的な効果として用いられています。

バーン=ジョーンズの作品は展示点数は少なくなかったのですが、スケッチばかりでした。また、この後の展示はウィリアム・モリスによる雑貨品だったので興味が湧かず素通りでした。

 
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