ティツィアーノとヴェネツィア派展 |
2017年1月31日(火) 東京都美術館 父親の退院の日、朝に会社に顔を出して昼前に病院で退院の手続と、すぐ後で施設にもどるための専用車の手配やら、施設の入所の手続で昼飯を食べ損ねた。やっとひと通り終わった午後、一応ほっとしたのと、緊張から開放されたのと、何とも言えない空しさにとらわれたのとで、精神的に疲れを一気に感じた。中途半端に時間で、空腹は感じつつも、今食べると夕食が食べられなくなってしまう。会社には休みをとったが、このまま疲れを抱えて家に帰りたくない。それで、始まったばかりのこの展覧会に行ってみることにした。東京都美術館についたのは午後4時過ぎで、会期の初めということもあるのか、人影はまばらで、静かな雰囲気で、疲れていた私には落ち着くのによい空間だった。状況としては、フィレンツェ・ルネサンスと違って、ヴェネツィア派は知名度も高くないし、人気もイマイチなのかしら。たしかに、展示されている作品は目玉のティツィアーノは別として、全体として薄味の印象ではあった。
いつものことで主催者あいさつを引用しておきます。今回の展覧会は、現地の美術館から借りられるだけのものを借りて持ってきましたので見てくださいというような展示のように見える(それでいいと思う)ので、とくに展覧会の趣旨とか、焦点の画家をどのように考えているとか、そういうことは語られていない形式的なあいさつになっているようなのですが、とりあえず、というところです。 “アドリア海に面する水の都ヴェネツィアは、15世紀から16世紀にかけて海洋貿易によって飛躍的に反映するとともに、フィレンツェ、ローマと並ぶルネサンス美術の中心地として輝かしい発展を遂げました。絵画の分野を中心に美術の進展をみたヴェネツィアでは、ベッリーニ工房などから、多くの優れた画家たちが輩出されました。なかでもティツィアーノ(1488/90~1576)は、自由な筆遣いと豊かな色彩を特徴とする独自の様式を確立し、その絵画はヴェネツィアのみならず、ヨーロッパに広く影響を与えました。80年以上に及ぶ長い生涯の中で、ヴェネツィアの教会や貴族たちからの絶え間ない注文に応えただけでなく、ヨーロッパ諸国の君主や教皇のための絵画も制作しました。その斬新な油彩画法は、近代絵画の先駆者とも評されます。本展覧会では、ベッリーニ工房を中心に展開するヴェネツィア派の幕開けから、ティツィアーノの円熟期、そして巨匠たちの競合の時代という流れに沿って、およそ70点に及ぶ絵画、版画を紹介します。”
Ⅰ.ヴェネツィア、もうひとつのルネサンス(1460~1515) ヴェネツィア派の創成期のジョヴァンニ・ベッリーニとその工房を中心として、その周辺を主とした展示です。この展覧会のメインがティツィアーノなので、そのイントロといった位置づけになると思います。正直に言えば、これと取り出して特筆したくなるような作品はありません。ティツィアーノと比べると引き立て役になっていると思います。
バルトロメオ・ヴィヴァリーニの「聖母子」(左図)もそうです。聖母子の着ている衣装の深い緑と、聖母が下に着ているピンク色、そして二人が座っている椅子に掛けられた赤い布。これらの色の鮮やかさ。それと背後の光輪になるのか金色に輝くのとの対比が目に映えるところ。人物の描き方とか、陰影がつけられて立体感とかいったことは、美術史の学者や美術館の学芸員が理屈をつけてくれればいいので、私の場合のような消費者のような野次馬は、見た目の快楽ということで、ある意味テーマとか何が描かれているとかいったことは、どうでもよくて抽象画のように意味とか形を考えずに色とその組合せを堪能しているといった具合です。もっとも、これらの作品を、単独でこれだけを、わざわざ鑑賞したいと思うことはなくて、この展覧会のようにずらっと並んでいて、作者もタイトルも考えずに、たまたま視野に入った、これらの作品を見て時間を浪費するといったような鑑賞(消費)の仕方に適しているといったものだと思います。
なお、このコーナーで展示されていたティツィアーノの「復活のキリスト」は画家の若い頃の作品なのか、これがティツィアーノなの?と思うようなものでした。
Ⅱ.ティツィアーノの時代(1515~1550)
しかし、そういう細かさが気にならず、全体として肌色のたおやかな移ろいと言った感じで、その肌色がキレイだということが魅力的に映えているわけです。 一方、このたおやかな肌色に塗られたフローラという女性は丸みを帯びたふくよかな輪郭で、まるで肌色の柔らかさを最大限に生かす佇まいです。つまり、フローラの姿が素描されて、それに彩色されていくという構造になっているのが普通でしょうが、この「フローラ」を見ているかぎりでは、色がまずあって、その色の魅力のためにフローラという題材が選ばれたり、このように描くという素描が行われたのではないか、と思われるのです。もちろん、近現代のフォービズムのように色が独り歩きして、現実にあるとかないといったことを超越してしまうようなものではなく、あくまで女性の肌の色というものです。肌色は現実の人の肌に色に似た色で、それを連想させる範囲内にあります。 じっくり見ると、このふくよかな女性のプロポーションは、フィレンツェ系の画家たちの素描に比べると、顔と身体のバランスやかしげた首の軸とか、ちぐはぐに感じさせるところがあります。しかし、この肌の色をたおやかに、柔らかく、豊かに塗られていると、違和感を生むことがなくて、むしろ、それによって色が引き立つようになっているように見えます。 ティツィアーノの「フローラ」と同じような構成、人物のポーズをしていたのが、パルマ・イル・ヴェッキオの「ユディット」(左上図)という作品です。肌のグラデーションはティツィアーノ以上に精緻で、これに較べるとティツィアーノの「フローラ」はコントラストがあって、輪郭が明確に見えて、その絵画っぽさ、人工的なところが、かえって分かるようです。それほど、この作品の技巧的な精緻さはすごいと思います。ユディットという女性の肌の柔らかさの感触の表現などティツィアーノ以上に肌触りを ほかにも、聖母子などの女性像が展示されていましたが、描き方が雑であったり、色がきたなかったりと、素人の私が見ても、ティツィアーノの作品とはレベルが違うことが明白な作品ばかりでした。むしろ、男性の肖像画に面白いものがありました。そのひとつ、セバスティアーノ・テル・ビオンボの「男の肖像」(右図)です。“陰影を丹念に施す手法や柔らかい光の効果、憂いを帯びた人物表現において、ジョルジョーネの様式に極めて近い”と説明されています。暗い中で、振り返る断線の顔に光が当たり、顔が浮き上がるように見えてきますが、帽子の影になって下半分しかハッキリしません。そのポーズと振り向いた顔の光線の変化を、憂愁の印象にまとめた佳品だと思います。聖母とか言うように理想化されて、いってみれば個性を超えた美という理想に縛られた女性像に比べ、男性の肖像は個人の個性的な顔つきとか形態の描写を追求できているようで、描き方も変化があって、面白かったです。
続いて、ティントレットの「レダと白鳥」(右図)が展示されていました。同じ裸婦ですが、「ダナエ」と並べると雑な感じで、裸婦には生気が感じられないし、白鳥はお座なりにしか見えないし、ガッカリの作品でした。
Ⅲ.ティツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼ─巨匠たちの競合(1550~1581年) この展示の前にヴェネツィア派の版画として、たくさんの版画が展示されていましたが、素通りしました。
この作品で言えば、老人である教皇の皮膚の皺です。この作品では、その皺が作り出す、肌のカサカサになったような硬い感触と、その皺の深さが肌に作り出す影の濃さとなり、その光と影の綾と肌の色の変化の綾が精緻に描写されています。 ここで、多少の脱線になって、少しばかり図式的な議論になると思いますが、ティツィアーノの作品の志向しているところは、こんな方向ではないかというところをまとめてみたいと思います。今回の展示が、ティツィアーノひとりではなく、ヴェネツィア派の系統の画家の作品を集めて、ティツィアーノもその一つという展示の仕方をしていました。昨年のヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たちという展覧会で、“ルネサンス発祥の地であるフィレンツェの画家たちが、明快なデッサンに基づき丁寧に筆を重ねる着彩、整然とした構図を身上としたのに対して、ヴェネツィアの画家たちは、自由奔放な筆致による豊かな色彩表現、大胆かつ劇的な構図を持ち味とし、感情や感覚に直接訴えかける絵画表現の可能性を切り開いていきました。”という説明がありましたが、ここで見てきた作品についても、色彩が大きな魅力になっていました。これは、ローマに近く内陸部のフィレンツェと地中海に面してアジアとの交易で栄えたヴェネツィアという都市の性格の違いが人々の嗜好風土の違いを生んだ。それが絵画の趣味にも反映しているということになるのかもしれませんが。その性格の違いを、少し異なる視点で考えてみたいと思います。フィレンツェの絵画のあり方には、近代的な人間観があると思います。つまり、人間は個々の人格をもち、それは一人ひとりが独立した個人として統合され、個人で完結したコスモスのようなものだ。それは人間の内に存在する、つまり霊とか精神といったものだ。これに対して、現実に人間は肉体、身体をもって存在している。つまり、ここに存在しているそれぞれの人間は精神と身体の統合されたものであるということ。簡単に言えば。それを絵画にした場合に、身体の側面だけを描いていては、人間の内に存在する真実が抜け落ちてしまう。従って、人間の内である精神が表されるようにする。つまり、精神が内に宿した身体という統一性を描くことを求めることになる。それは例えば、人間は内なるコスモスといったように秩序であることから、例えば幾何学的な完璧な図形が真実であるように、均衡を保った形態に、それが象徴的にあらわれ、それを美と呼ぶことができる。それを人体を描く際には、整然として均衡のとれた構図で、そのことを明快に示すデッサンにより表現されるということになるわけです。つまり、精神を伴った真実の形を描くということになります。これに対して、ヴェネツィア派の絵画は、表層の色彩などで感覚に直接訴える、外面的な傾向が特徴です。これは、近代以前の精神とか霊といったことは神に属することで、人間や動物は自然の物質の世界にいる。そういう自然の世界では、目の前に何を見たり、触ったりして感覚できるというものです。そのような目の前にあるという断片がそこかしこにあるという感じで、統一的な秩序というよりは渾沌のようなものです。ある意味では内面的な精神を統一的な秩序としてみる側からは、表面的な感覚を追求するのは、精神を伴わない華美であり、快楽的であったり、享楽的ということになるでしょう。しかし、別の面から言えば、近代以降、現代においては統一的な秩序という近代的な人間観から、そのような統一ということが実はフィクションでしかなく、現実には不条理があり、そこで無理をして統一的な秩序を求めれば必ず歪みが生まれてしまう。それが例えば、個人の孤独だったり、不安だったりといったことです。そして、ティツィアーノのような目の前の感覚を追求していくという絵画のあり方は、近代を跳び越えて、現代に通じるところがあると思えるところがあります。それは、ティツィアーノの前時代の画家の作品をシュルレアリスムやラ ここで「教皇パウルス3世の肖像」に戻ると、この人物の人格的な価値の高さとか宗教的な神聖な人格といったことが、この姿勢や顔の表情や皺の深さに象徴的に表われているとは言えません。また、人物の周囲や背景に、そのようなことを象徴的に表わすアトリビュートのような記号を散りばめることもしていません。この画面にあるのは、豪華な衣装をきらびやかに描くことであり、血色のよく生気に溢れた皮膚の張りを生き生きと描くことです。そこに結果として描かれているのは、役割としての教皇です。その人は、個人という完結したところに留まっているのではなく、その個人がないからこそ教皇という人間と神との架け橋のような機能的な存在として人間を超えたところにいるわけです。そのため、人間の内面を描かないことで、かえって、超越的な存在となっている教皇を表わすことになっているというわけです。 同じティツィアーノの「マグダラのマリア」(左図)です。彼女はもともと娼婦であった罪深い女性だけど、イエスに出会って改悛しその後イエスに従って過ごし、最終的には聖女になった女性、と一般的には解釈され、とくにルネサンス以降には彼女の改悛を主題として取り上げる作品が制作されるようになります。この作品もそのひとつに入ると思います。この場合、マグダラのマリアの改悛という、いわば劇的な信仰のドラマということになりますが、改悛して信仰に生きる女性の改悛に至るまでの罪深い生活を悔悛する痛ましさ、敬虔さという面と、もとは娼婦であったという官能的な魅力を備えた美しい女性という信仰に対して罪深い側面という、相矛盾するふたつの側面を備えています。こ一人の統一した人格としての女性が、このような相反する二つの側面をもっているということを一枚の絵画の画面に表わすということは、とても難しいのではないかと思います。これが時間の経過を伴う、例えば演劇であれば、最初娼婦である彼女がキリストと出遭い、改悛して、過去と訣別し、新たに信仰の道に入るということで、時間の経過の中で二つの面を別々に提示し、官能的な面を後で否定することで、人格の統一は保つことができますし、官能的な面を否定することで、それと対照的に信仰の面が強調されることになります。しかし、絵画には、そのような時間の経過を織り込むことはできません。例えば、バロック美術の画家、カラヴァッジョやラ=トゥールの描くマグダラのマリアは改悛した後の 一方、ティントレットはティツィアーノと並べて巨匠として上げられていますが、「ディアナとエンディミオン」(左上図)という作品をみると、一応完成はしているけれど、力がこもっていないという印象で、ティツィアーノの引き立て役ぐらいにしか見えませんでした。
全体として、力のこもった作品は少なくて、それで全体を判断するのは、早とちりかもしれませんが、ひとつの視点はみえたような気がします。 |