ティツィアーノとヴェネツィア派展 |
2017年1月31日(火) 東京都美術館 父親の退院の日、朝に会社に顔を出して昼前に病院で退院の手続と、すぐ後で施設にもどるための専用車の手配やら、施設の入所の手続で昼飯を食べ損ねた。やっとひと通り終わった午後、一応ほっとしたのと、緊張から開放されたのと、何とも言えない空しさにとらわれたのとで、精神的に疲れを一気に感じた。中途半端に時間で、空腹は感じつつも、今食べると夕食が食べられなくなってしまう。会社には休みをとったが、このまま疲れを抱えて家に帰りたくない。それで、始まったばかりのこの展覧会に行ってみることにした。東京都美術館についたのは午後4時過ぎで、会期の初めということもあるのか、人影はまばらで、静かな雰囲気で、疲れていた私には落ち着くのによい空間だった。状況としては、フィレンツェ・ルネサンスと違って、ヴェネツィア派は知名度も高くないし、人気もイマイチなのかしら。たしかに、展示されている作品は目玉のティツィアーノは別として、全体として薄味の印象ではあった。 昨年の国立新美術館での「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」を見て、この今回の「ティツィアーノとヴェネツィア派展」を見て、どちらがどうと比べるつもりはないが、両方を足しても限られた作品数の中でも、ヴェネツィア派といい多くの画家がいるなかで、ティツィアーノがとりわけ目立ったと思った。ティントレットといった有名な画家の作品も見たが、実際に見た作品の印象では、美術史などの取り扱いとは異なる印象で、私にはティツィアーノが圧倒的で、他の画家は後塵を拝するといったことを見ることができた。この展覧会で、そのことを再確認できたと思う。そもそも、ティツィアーノが中心の展覧会ではあったけれど。残念なのは、しょうがないのかもしれない(これだけの作品を集めて日本にもってくること自体が大変なことなのは分かる)が、(気持ちとして)ティツィアーノの作品をもっと見たいと思った。 いつものことで主催者あいさつを引用しておきます。今回の展覧会は、現地の美術館から借りられるだけのものを借りて持ってきましたので見てくださいというような展示のように見える(それでいいと思う)ので、とくに展覧会の趣旨とか、焦点の画家をどのように考えているとか、そういうことは語られていない形式的なあいさつになっているようなのですが、とりあえず、というところです。 “アドリア海に面する水の都ヴェネツィアは、15世紀から16世紀にかけて海洋貿易によって飛躍的に反映するとともに、フィレンツェ、ローマと並ぶルネサンス美術の中心地として輝かしい発展を遂げました。絵画の分野を中心に美術の進展をみたヴェネツィアでは、ベッリーニ工房などから、多くの優れた画家たちが輩出されました。なかでもティツィアーノ(1488/90〜1576)は、自由な筆遣いと豊かな色彩を特徴とする独自の様式を確立し、その絵画はヴェネツィアのみならず、ヨーロッパに広く影響を与えました。80年以上に及ぶ長い生涯の中で、ヴェネツィアの教会や貴族たちからの絶え間ない注文に応えただけでなく、ヨーロッパ諸国の君主や教皇のための絵画も制作しました。その斬新な油彩画法は、近代絵画の先駆者とも評されます。本展覧会では、ベッリーニ工房を中心に展開するヴェネツィア派の幕開けから、ティツィアーノの円熟期、そして巨匠たちの競合の時代という流れに沿って、およそ70点に及ぶ絵画、版画を紹介します。”
ヴェネツィア派の創成期のジョヴァンニ・ベッリーニとその工房を中心として、その周辺を主とした展示です。この展覧会のメインがティツィアーノなので、そのイントロといった位置づけになると思います。正直に言えば、これと取り出して特筆したくなるような作品はありません。ティツィアーノと比べると引き立て役になっていると思います。 ジョヴァンニ・ベッリーニの「聖母子(フリッツォーニの聖母)」(右図)という作品です。人物が人形みたいで、類型化そのものとか突っ込みどころ満載で、もっともらしい理屈はいくらでもいえるのでしょうが、この作品の魅力は背景の空の色彩に尽きると思います。テンペラという技法でしか出せない鮮やかさなのか、その後の画家たちの油彩では、これほどまでに抜けるような透き通る青空を、見た記憶がありませんでした。見たかもしれませんが、それが記憶に残っていない、ということは、それが印象的に描かれていないということでもあって、絵画というものに対して色々なことを考えたり、様々な要素を画面に織り込んだりすることによって、単純に色の綺麗さとか鮮やかさを愛でるということがやりにくくなっていったのが、絵画の進歩でもあるという考え方もできるわけです。言ってみれば、プリミティブな単純な見た目の気持ちよさを素直に味わえるということだろうと思います。 バルトロメオ・ヴィヴァリーニの「聖母子」(左図)もそうです。聖母子の着ている衣装の深い緑と、聖母が下に着ているピンク色、そして二人が座っている椅子に掛けられた赤い布。これらの色の鮮やかさ。それと背後の光輪になるのか金色に輝くのとの対比が目に映えるところ。人物の描き方とか、陰影がつけられて立体感とかいったことは、美術史の学者や美術館の学芸員が理屈をつけてくれればいいので、私の場合のような消費者のような野次馬は、見た目の快楽ということで、ある意味テーマとか何が描かれているとかいったことは、どうでもよくて抽象画のように意味とか形を考えずに色とその組合せを堪能しているといった具合です。もっとも、これらの作品を、単独でこれだけを、わざわざ鑑賞したいと思うことはなくて、この展覧会のようにずらっと並んでいて、作者もタイトルも考えずに、たまたま視野に入った、これらの作品を見て時間を浪費するといったような鑑賞(消費)の仕方に適しているといったものだと思います。 マルコ・バザイーティの「聖母子と寄進者」(右図)という作品で、この聖母の顔はまるで能面のようで、裸の赤ん坊はセルロイド製のキューピー人形です。描かれた当時は、そういうものだったのかなどと考えることもないのですが、そんなことは関係なく、今、東京でこの作品を見て楽しむことと、それは関係ないので、そのときに、この作品は、それでも十分楽しむことはできるもので、それは、どういうところかという、単純に聖母子の肌の色の心地好さです。画像では、それが伝わらないのでもどかしさが残りますが、実物を見ていて触角に近いような知性を伴わない純粋に感覚的な快感に近い心地好さではないかと思います。 また、こんな見方は冗談のようで教科書的ではないのですが、マルコ・パルメッツァーノという画家の作品が何点か展示されていて、上にあげられた作品に比べるとキチッとしたリアルなスタイルのデッサンができていて、形がはっきりしている作品を制作しているのですが、フィレンツェのルネサンスの画家たちに比べると、どこか人工的なつくものめいた感じがするところがあるのが、ちょっと変な感じで、むしろ近現代の作品に似通った印象を持たされる面白さがありました。例えば、「死せるキリストへの香油の塗布」(右図)という作品は、人物の顔の描き方が柔らかな皮膚に蔽われた滑らかな感じがなくて、ロボットのようです。それだけに顔の輪郭や凹凸が明確に描きこまれていて、描かれている人のキャラクターが図式的に明確化されているのを見ると、20世紀のシュルレアリスムの画家ルネ・マグリットの作品と似ていると思えてしまうのです。また、同じ画家の「射手たち」という作品は、ラファエル前派のバーン=ジョーンズが描いたといっても、そう思ってしまうようなテイストがあります。それが、どうしてなどという穿ったことは、ここでは考えるのをやめておきます。 なお、このコーナーで展示されていたティツィアーノの「復活のキリスト」は画家の若い頃の作品なのか、これがティツィアーノなの?と思うようなものでした。
このコーナーに入ってすぐに、ティツィアーノの「フローラ」(右図)が展示されていたのを見ると、他の画家たちとティツィアーノとは違うレベルにいるのが一発で分かってしまいます。“その魅力は、リズミカルな曲線が織りなす図像の甘美さと、調和のとれた色面の配置にある。女性は、画家の熟練した腕前によって、不明瞭な背景からくっきりと浮かび上がってみえる。画面は、慎重な明暗表現から生まれた動きに基づき、構成されている。ミニバラ、スミレ、ジャスミンなど、春に咲く花々の束を持つ右手のひらの捉え方に、人物を短縮法で描くことへの関心をはっきりと見てとることができる。あらゆる部分が計算された色彩で表わされ、事物の描写に関しては、バラ色の色調で表わされた繻子のブロケードを、純白の肌着の襞が作る陰影に結びつける複雑な色の塗り重ねが特に素晴らしい。肩から滑り落ち、肌を露わにするこの肌着は、古代風の衣装を真似た当時の下着で、若い女性の肌の色を引き立てている。方のほうにわずかに傾けた女性の優美な顔は、赤みがかった金髪に縁どられている。本作品には、ティツィアーノの円熟期を特徴づける絵の具の厚塗りがすでに認められる。柔らかい色彩で人物の立体感が表わされ、素早く力強いタッチでたっぷりと施された鉛白のハイライトに、画家の熟達した技量を見てとることができる。”というような解説がありました。分かったような、分からないような。この解説文をネタにして、作品を見ていきたいと思います。前のコーナーの作品については、色彩や色遣いのことしか述べなかったと思います。この作品でも、色は、その魅力の主要な要素と言えるでしょう。とくにフローラの肌の色です。前のコーナーのテンペラとは違って油彩なので、絵の具や技法が異なるので、単純に一緒にすることはできないのでしょうが、この「フローラ」の魅力のひとつには色彩という面があることは否定できないと思います。例えば、フローラの顔から首、そして露わになった肩から上半身の肌の色です。しかも、ティツィアーノは、それを引き立たせるための演出を行っています。例えば、人物の背景は具体的なものが描かれず、単に暗い色が塗られているだけで、フローラはそこから浮かび上がってくるように映ります。それに伴い、暗く鈍い色の背後と対照的にフローラの肌が光に照らされたように映えるように、見る人に映ります。一方、彼女の着ている衣装は白い下着のような薄い衣服で、露わにさらされているフローラの肌と対立するような緊張をつくっていません。従って、背景から浮き上がった肌の色が、柔らかく、繊細に見えてくるのです。白い衣装以外にも、金髪という髪の色も肌と対照的になっていないし、ガウンのような白い衣装のうえにかけられている服の赤もどぎつさがなくて、穏やかな色調です。これらは肌の色と穏やかなハーモニーをつくりだしているように見えます。見る者は、落ち着いて肌の色を味わうことができる。しかも、この肌は頬の赤みであったり、首や肩の白さといった微妙なニュアンスの変化が、陰影によるグラデーションてあいまって重層的で複雑な変化をもっていて、実際に塗り分けられています。また、白い下着のような衣服は、透き通るほど薄さで肌のいろが透けているのと、襞やしわによって生じる影のグラデーションがさらに細かく彩色されています。 しかし、そういう細かさが気にならず、全体として肌色のたおやかな移ろいと言った感じで、その肌色がキレイだということが魅力的に映えているわけです。 一方、このたおやかな肌色に塗られたフローラという女性は丸みを帯びたふくよかな輪郭で、まるで肌色の柔らかさを最大限に生かす佇まいです。つまり、フローラの姿が素描されて、それに彩色されていくという構造になっているのが普通でしょうが、この「フローラ」を見ているかぎりでは、色がまずあって、その色の魅力のためにフローラという題材が選ばれたり、このように描くという素描が行われたのではないか、と思われるのです。もちろん、近現代のフォービズムのように色が独り歩きして、現実にあるとかないといったことを超越してしまうようなものではなく、あくまで女性の肌の色というものです。肌色は現実の人の肌に色に似た色で、それを連想させる範囲内にあります。 じっくり見ると、このふくよかな女性のプロポーションは、フィレンツェ系の画家たちの素描に比べると、顔と身体のバランスやかしげた首の軸とか、ちぐはぐに感じさせるところがあります。しかし、この肌の色をたおやかに、柔らかく、豊かに塗られていると、違和感を生むことがなくて、むしろ、それによって色が引き立つようになっているように見えます。 ティツィアーノの「フローラ」と同じような構成、人物のポーズをしていたのが、パルマ・イル・ヴェッキオの「ユディット」(左上図)という作品です。肌のグラデーションはティツィアーノ以上に精緻で、これに較べるとティツィアーノの「フローラ」はコントラストがあって、輪郭が明確に見えて、その絵画っぽさ、人工的なところが、かえって分かるようです。それほど、この作品の技巧的な精緻さはすごいと思います。ユディットという女性の肌の柔らかさの感触の表現などティツィアーノ以上に肌触りを再現されたような巧みさが見えます。しかし、これは好みの問題かもしれませんが、ユディットのふくよかさが肥満に見えて、顎がだぶついて、首が陥没しているように見えてしまう、丸みを強調しすぎであることが、どうも見たいと思えないところがあります。彼女のプロポーションの、例えば腕の位置の不自然さとか、紗がかかっているわけでもないのに、薄ぼんやりとしているところが、幻想風になるのではなく、リアルもリアリティも減っているように見えてきます。ちょっとグロテスク、頽廃趣味のグロテスク趣向の美の追求ではなく、美からずれてしまっているような印象です。この作品をティツィアーノの「フローラ」と並べて見ると、ティツィアーノの人工的な、リアルとかリアリティとは無関係な、美をつくっていくという性格がよく分かります。 ほかにも、聖母子などの女性像が展示されていましたが、描き方が雑であったり、色がきたなかったりと、素人の私が見ても、ティツィアーノの作品とはレベルが違うことが明白な作品ばかりでした。むしろ、男性の肖像画に面白いものがありました。そのひとつ、セバスティアーノ・テル・ビオンボの「男の肖像」(右図)です。“陰影を丹念に施す手法や柔らかい光の効果、憂いを帯びた人物表現において、ジョルジョーネの様式に極めて近い”と説明されています。暗い中で、振り返る断線の顔に光が当たり、顔が浮き上がるように見えてきますが、帽子の影になって下半分しかハッキリしません。そのポーズと振り向いた顔の光線の変化を、憂愁の印象にまとめた佳品だと思います。聖母とか言うように理想化されて、いってみれば個性を超えた美という理想に縛られた女性像に比べ、男性の肖像は個人の個性的な顔つきとか形態の描写を追求できているようで、描き方も変化があって、面白かったです。 ティツィアーノの「ダナエ」(左図)。おそらく、「フローラ」と並んで、この展覧会の目玉といっていい作品です。“ティツィアーノは「色彩の力」すなわち、語り得ないものを表現する卓越した力を示した。黄金の光がアクシリオス王の娘ダナエと、ユピテルの突然の出現に驚くクピドの体を照らし、左に寄せられたカーテンの襞とシーツの皺の上で揺らめき、クピドの多彩な翼の上で戯れる。色彩は、あらゆる形態を包み込む黄金の光で満たされた場面の中で煌いているように見える。一方、寝室奥の円柱と壁に落ちる陰影は、空間を閉ざし、前景を圧縮しつつ、ダナエとクピトをまるでフリーズ上の浮彫彫刻のように際立たせている。とりわけ堂々とあらわれる裸婦は、ミケランジェロによる神話や寓意主題の彫刻の偉大さ比肩するほどある。ティツィアーノは、物語にひつようのないいかなる要素も排除し、そこに唯一無二の直接的な現実感を付与している。”「フローラ」と較べると、よくいえば自由に伸び伸びと描いている。別の言い方をすると、「フローラ」ほどキッチリと描かれていない。まあ、画面大きさが「フローラ」と「ダナエ」とではスケールが違うので、同じように描くようにはいかないでしょうが。どちらがいいかは、好みの違いということになると思いますが、「フローラ」のころは、今だ、若い画家としてのティツィアーノが、伝統の中で自身の存在を主張していこうというように、制約の中で妥協しながら制作しているところと、気負いが、いい意味でもそうでない意味での硬さとなって表われているのが、この作品のキッチリしたところだと思います。これに対して「ダナエ」は、すでに名実共に大家となった画家が、伝統とか周囲に余計な配慮をすることなく、自身の個性を全開にして制作している。言ってみれば「フローラ」は、優等生的に課題をクリアするようなところがあって、画家の壮年期に比べて個性が際立ってきていませんが、「ダナエ」には画家の特徴が際立って来ている反面、短所も隠さずに表われていると思います。昨年、新美術館での「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」でティツィアーノ晩年の大作「受胎告知」を見た時も思いましたが、ティツィアーノという画家は、空間を把握して画面に空間を構築するというのは得意ではないのではないか、という点です。しかし、画面の中に描かれている人々のひとりひとりを描くのは、適当に強弱をつけながら上手いので、それが画面全体を生彩あるものにしているという点です。「ダナエ」でも、彼女は室内の、ベッドの上で横たわっているはずですが、そういう場所で、そこにユピテルが雨に変身して部屋に侵入してきたという空間がつくられていません。裸のダナエがいて、画面の真ん中にユピテルが身をやつした靄のようなものが金色にモヤモヤしている。一応、ダナエの下方が白いシーツでベッドがあることらしい、という程度です。しかし、その反面、ダナエ、というよりも裸婦が堂々とした肢体、とくに官能に火照るような肌のグラデーションと柔らかな感触です。しかし、彼女の形態は上半身と下半身のバランスが取れていないようですし、顔の表情はそれというところがなく、あくまで顔であるということ、顔の造作が整っている美人であるということ以上のことは明確に描かれていません。ティツィアーノの特徴としては、色彩やグラデーションから漂う雰囲気かに、感触とかいう視覚化できないものを想像させて、画面を鑑賞させるというものでしょうか。 続いて、ティントレットの「レダと白鳥」(右図)が展示されていました。同じ裸婦ですが、「ダナエ」と並べると雑な感じで、裸婦には生気が感じられないし、白鳥はお座なりにしか見えないし、ガッカリの作品でした。
V.ティツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼ─巨匠たちの競合(1550〜1581年) この展示の前にヴェネツィア派の版画として、たくさんの版画が展示されていましたが、素通りしました。 ティツィアーノの「教皇パウルス3世の肖像」(左図)です。今回展示されているティツィアーノの作品を見た限りでは、ティツィアーノという画家の真骨頂は人物表現にあるのではないかと思われてきます。人物表現といってもアプローチの仕方は様々ですが、私の眼に映った彼の特徴的なところは、表層を描いているというところで、それはとりわれ肌の色合い、そこに光があたるグラデーションや陰影というところです。陰影といっても、人物の立体的な造形を表わして、それを画面という平面に置き換えるときに立体性を表わすものとしてではなくて、陰影が肌の色を変化させていく契機として、彼の場合は、そこで生まれる肌の色の変化の織りなす様子が主眼になっている。そして、その表面を感じるために、感触という視覚ではなくて、触覚の感覚、つまり眼で見えないものをそこに導入しようとしているところです。これが、目に見えないものというと人物の内面とかいう方向性がありますが、ティツィアーノの場合には、そういうものへの志向性がなくて、あくまでも表層に興味が限定されていて、しすし、その表層にこだわることで眼に見えないものである感触に行き着いてしまうといったことを感じるのです。 この作品で言えば、老人である教皇の皮膚の皺です。この作品では、その皺が作り出す、肌のカサカサになったような硬い感触と、その皺の深さが肌に作り出す影の濃さとなり、その光と影の綾と肌の色の変化の綾が精緻に描写されています。 ここで、多少の脱線になって、少しばかり図式的な議論になると思いますが、ティツィアーノの作品の志向しているところは、こんな方向ではないかというところをまとめてみたいと思います。今回の展示が、ティツィアーノひとりではなく、ヴェネツィア派の系統の画家の作品を集めて、ティツィアーノもその一つという展示の仕方をしていました。昨年のヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たちという展覧会で、“ルネサンス発祥の地であるフィレンツェの画家たちが、明快なデッサンに基づき丁寧に筆を重ねる着彩、整然とした構図を身上としたのに対して、ヴェネツィアの画家たちは、自由奔放な筆致による豊かな色彩表現、大胆かつ劇的な構図を持ち味とし、感情や感覚に直接訴えかける絵画表現の可能性を切り開いていきました。”という説明がありましたが、ここで見てきた作品についても、色彩が大きな魅力になっていました。これは、ローマに近く内陸部のフィレンツェと地中海に面してアジアとの交易で栄えたヴェネツィアという都市の性格の違いが人々の嗜好風土の違いを生んだ。それが絵画の趣味にも反映しているということになるのかもしれませんが。その性格の違いを、少し異なる視点で考えてみたいと思います。フィレンツェの絵画のあり方には、近代的な人間観があると思います。つまり、人間は個々の人格をもち、それは一人ひとりが独立した個人として統合され、個人で完結したコスモスのようなものだ。それは人間の内に存在する、つまり霊とか精神といったものだ。これに対して、現実に人間は肉体、身体をもって存在している。つまり、ここに存在しているそれぞれの人間は精神と身体の統合されたものであるということ。簡単に言えば。それを絵画にした場合に、身体の側面だけを描いていては、人間の内に存在する真実が抜け落ちてしまう。従って、人間の内である精神が表されるようにする。つまり、精神が内に宿した身体という統一性を描くことを求めることになる。それは例えば、人間は内なるコスモスといったように秩序であることから、例えば幾何学的な完璧な図形が真実であるように、均衡を保った形態に、それが象徴的にあらわれ、それを美と呼ぶことができる。それを人体を描く際には、整然として均衡のとれた構図で、そのことを明快に示すデッサンにより表現されるということになるわけです。つまり、精神を伴った真実の形を描くということになります。これに対して、ヴェネツィア派の絵画は、表層の色彩などで感覚に直接訴える、外面的な傾向が特徴です。これは、近代以前の精神とか霊といったことは神に属することで、人間や動物は自然の物質の世界にいる。そういう自然の世界では、目の前に何を見たり、触ったりして感覚できるというものです。そのような目の前にあるという断片がそこかしこにあるという感じで、統一的な秩序というよりは渾沌のようなものです。ある意味では内面的な精神を統一的な秩序としてみる側からは、表面的な感覚を追求するのは、精神を伴わない華美であり、快楽的であったり、享楽的ということになるでしょう。しかし、別の面から言えば、近代以降、現代においては統一的な秩序という近代的な人間観から、そのような統一ということが実はフィクションでしかなく、現実には不条理があり、そこで無理をして統一的な秩序を求めれば必ず歪みが生まれてしまう。それが例えば、個人の孤独だったり、不安だったりといったことです。そして、ティツィアーノのような目の前の感覚を追求していくという絵画のあり方は、近代を跳び越えて、現代に通じるところがあると思えるところがあります。それは、ティツィアーノの前時代の画家の作品をシュルレアリスムやラファエル前派に通ずるところがあると戯言を述べましたが、ティツィアーノは、間違いなく、その系統に位置しているわけです。実際に「フローラ」のキッチリしすぎている、人形のような顔かたちは、現代の日本のマンガのニ次元美少女のパターンと共通性を見つけることができそうだ、というのはこじつけでしょうか。 ここで「教皇パウルス3世の肖像」に戻ると、この人物の人格的な価値の高さとか宗教的な神聖な人格といったことが、この姿勢や顔の表情や皺の深さに象徴的に表われているとは言えません。また、人物の周囲や背景に、そのようなことを象徴的に表わすアトリビュートのような記号を散りばめることもしていません。この画面にあるのは、豪華な衣装をきらびやかに描くことであり、血色のよく生気に溢れた皮膚の張りを生き生きと描くことです。そこに結果として描かれているのは、役割としての教皇です。その人は、個人という完結したところに留まっているのではなく、その個人がないからこそ教皇という人間と神との架け橋のような機能的な存在として人間を超えたところにいるわけです。そのため、人間の内面を描かないことで、かえって、超越的な存在となっている教皇を表わすことになっているというわけです。 同じティツィアーノの「マグダラのマリア」(左図)です。彼女はもともと娼婦であった罪深い女性だけど、イエスに出会って改悛しその後イエスに従って過ごし、最終的には聖女になった女性、と一般的には解釈され、とくにルネサンス以降には彼女の改悛を主題として取り上げる作品が制作されるようになります。この作品もそのひとつに入ると思います。この場合、マグダラのマリアの改悛という、いわば劇的な信仰のドラマということになりますが、改悛して信仰に生きる女性の改悛に至るまでの罪深い生活を悔悛する痛ましさ、敬虔さという面と、もとは娼婦であったという官能的な魅力を備えた美しい女性という信仰に対して罪深い側面という、相矛盾するふたつの側面を備えています。こ一人の統一した人格としての女性が、このような相反する二つの側面をもっているということを一枚の絵画の画面に表わすということは、とても難しいのではないかと思います。これが時間の経過を伴う、例えば演劇であれば、最初娼婦である彼女がキリストと出遭い、改悛して、過去と訣別し、新たに信仰の道に入るということで、時間の経過の中で二つの面を別々に提示し、官能的な面を後で否定することで、人格の統一は保つことができますし、官能的な面を否定することで、それと対照的に信仰の面が強調されることになります。しかし、絵画には、そのような時間の経過を織り込むことはできません。例えば、バロック美術の画家、カラヴァッジョやラ=トゥールの描くマグダラのマリアは改悛した後の修道女のような質素な姿で、官能的な描写は抑えられています。それがマグダラのマリアであることは、周辺に配置された彼女を象徴するような小道具(アトリビュート)を配置することで、信仰に生きる女性としてのマグダラのマリアの姿をあらわしています。そこで、ティツィアーノの、この作品を見てみると、官能的な美女を描くということを、折角の機会なのだから、精一杯に美しく描こうとしている、というように見えます。この場合、改悛して信仰に生き、官能的な面を罪深いとして否定し悔いた姿として統一させるということはしていません。前にも述べましたように、ティツィアーノには近代的な個人、つまり統一した内面を備えた人格が姿に表われ、それが均衡という秩序を持った形態という理想として画面に描かれるという方向性にはなっていません。いわゆる理想的な形態が結果として美となって表われるというよりは、感覚的な美、いって見れば官能的な美、全体の均衡よりは部分的とか刹那的に感じらりる美という方向性で作品を描いている面が強い画家であると思います。それは、ヴェネツィア派の画家たちの系譜として共通の基盤のようなものかもしれませんが、ティツィアーノに残されていると思います。それが、この作品ではマグダラのマリアという女性の見た目の美しさ、それが官能的な美しさであるとしても、それが信仰に生きようとする彼女の内心の志向するところに、外面が適合するようには描かれていません。それとこれとは別、とティツィアーノは意識して考えたのではないでしょうが、統一させるということは意識していなかったのではないかと思います。折角の美人なのだから、それを描こうというのが無理なくできた、そういう画家であったのではないか。薄く透明なヴェールと白い下着の姿で左肩をはだけて露わにしたポーズは聖女にふさわしいとは言えないような官能的なポーズで、チラリズムの刺激的な姿です。そのあらわにされた肌の白さ、柔らかで滑らかな感触が、顔では上気したような赤みかがった色合いや、あごの柔らかな肉付きの描き方、仄かに明らんだ唇が震えるような感じと、仰ぎ見るように上に視線をむけて、目頭から涙がこぼれてくる、その目頭が熱くなった赤く充血している。そこでの赤のヴァリエーションの使い分け。そして、赤みかがって光り輝く金髪の豊かウエーブして、肩から胸の膨らみの谷間を流れるようす。それが光に反射するところとウェーブによりつくられ影との陰影。それらが、細かく描きこまれています。これらは、前に見た「フローラ」や「ダナエ」以上に力が入っているようで、信仰の聖女というより、古代の異教の女神を描くのと同じようです。個々で描かれている美は、精神的なものに昇華された天上的なものではなくて、感覚的で官能的な地上的なものです。これをティツィアーノの、この作品では罪深い、否定すべきもの、悔うべきものとして描かれているようには見えません。それは、マグダラのマリアの悔い改められた信仰があっても、同じように美しさが同じ人物のなかで存在しているという姿です。それは、穿っていえば、人間とは、もともと理想的に割り切ったように一貫した存在ではなく、矛盾を抱えた、時には理不尽な存在でもありうるわけです。これは、現代の、例えば実存主義や心理学の指摘などにも通じる点がある、というのは飛躍でしょうが、そのような点に、この作品を現代の私が、ある意味でリアリティをもって切実なものとして受け入れることができる可能性があると言えると思います。 一方、ティントレットはティツィアーノと並べて巨匠として上げられていますが、「ディアナとエンディミオン」(左上図)という作品をみると、一応完成はしているけれど、力がこもっていないという印象で、ティツィアーノの引き立て役ぐらいにしか見えませんでした。 ティントレットより、展示の最後にあったヴェロネーゼの「聖家族と聖バルバラ、幼い洗礼者ヨハネ」(右図)という作品が印象に残りました。ここで、ティツィアーノやティントレットと並べて名前を挙げられている画家なので、美術史のビッグネームなのでしょうが、知識のない私には、その点は不案内です。明るい画面で、左側の女性の金髪の黄金色の輝き、右側の女性の赤と金色の衣装。そしてはだの白さのまぶしさ。それらの色が、それぞれの色の効果を打ち消し合うことなく、全体として、明るい画面をつくって、全体としての輝かしさを形成しているのは、眼がくらむほどです。ここには、ティツィアーノには残っていた人間の内面と外形との矛盾対立はもはや残滓もなくて、屈託をもたずに色彩の操作で画面を作り上げていると思います。人間を人格としてとらえるとか感情移入するとかいうことではなくて、相対的に冷めた眼で人間を、ここでは題材がキリスト教の物語なので、宗教の信仰に没入するというのではなくて、結果として距離を置いた批評性が生まれている、という見方ができるようなものになっていると思います。それは、ティツィアーノには、見られなかったものですが、明らかにティツィアーノが潜在的に持っていたものを、取り出してきて発展的に継承したのではないかと思わせるものです。この作品での中心は色彩であって、幼児のキリストや聖母マリアでなければならい必然性は、見ていて感じられない。この人物構成、配置でヴェネツィアの富裕な商人の家族の光景とタイトルされても違和感はないです。ここに、キリストや聖人の神々しさのそれらしい描き方はされていません。むしろ、赤ん坊の肌の柔らかな色彩とか、金髪や衣装の色彩を消費するような、極端なことを言えば、精神というような重石を切り捨てて、消費する。それは、感覚できるものを、手に取れるものだけを描くという唯物的な姿勢、刹那的な姿勢に行き着くようなもののように思えます。それは、ティツィアーノにも潜在的にもっていて、同時代のミケランジェロなどのような人には持っていない、独特の個性のように思えます。 全体として、力のこもった作品は少なくて、それで全体を判断するのは、早とちりかもしれませんが、ひとつの視点はみえたような気がします。 |