バーン・ジョーンズ展─装飾と象徴─ |
この展覧会のポスターやバンプに掲げられたのは、今回の展覧会の目玉と言うことになるのでしょう。「ペルセウス」の連作の中の『果たされた運命:大海蛇を退治するペルセウス』ですが、ギリシャ神話の有名なエピソードで、生贄にされた王女アンドロメダをペルセウスが助けるというものです。様々な画家がこのエピソードを描いていて、それらと比べてみるとバーン・ジョーンズの特徴が見えてくるように思います。ここで、比較のために参考として掲げたのはギュスターブ・モローの『アンドロメダ』です。両者を比べて、まず思ったのはバーン・ジョーンズの作品には空間が感じられないということです。ギリシャ神話によれば、アンドロメダは海辺の崖に逃げられないように鎖で縛られているはずです。しかし、バーン・ジョーンズの作品にはそれが感覚として感じられない。強いて言えば室内のような感じです。たぶんラファエル前派の作品に少なからず共通しているので、前期ルネサンス以前にもどれということから空間として全体を把握するという鳥瞰的な観方を意識して排除しているのかもしれません。例えば、JEミレイの『オフィーリア』という有名な作品も小川に身を投げたというよりも室内ブールのような空間なのです。(ただし、ミレイはラファエル前派べったりの画家ではなく、後には距離を置くようになり、それなりに空間の広がりを感じさせる作品も描いています。だから、『オフィーリア』の場合は意図的にそういう空間の描き方をされていたとも考えられます)
そして、画面を構成する個々の人物が非常に細かく丁寧に描かれていることです。例えばペルセウスの装束の説密な描かれ方は、足首についている羽根について羽の1本1本が丁寧に細かく描き込まれているようだし、着ている鎧の細かな襞までもが描き込まれているようです。それだけに神秘性がかじられない。まるで神話の英雄というというよりもコスプレのように見えてしまうのです。 もう一人の主要登場人物であるアンドロメダについても神話上の高貴な王女というよう、神秘化、理想化された姿ではなくて、実際の憧れの女性を裸にしてリアルに描いたヌード写真のように見えます。ペルセウスがコスプレなら、アンドロメダはグラビアのヌード写真のようなのです。 それだけ人物が現実の人物に近くリアルに描かれていながら表情がないのも大きな特徴です。神話上の登場人物なら半分神の様なもので、人間を理想化された姿として卑近な表情を敢えて描かないことにより神々しさを醸し出す効果があらわれます。しかし、バーン・ジョーンズの作品では人物は具体的でリアルに描かれていて、表情が描き込まれていないと虚ろな感じを受けます。ペルセウスには怪物を前にした怒りとか必死さのような表情はなく、アンドロメダにも怪物を恐ろしがったり、ペルセウスの勝利を祈る表情もありません。 これらは思うに、表情をつけることでアンドロメダやペルセウスの顔の造形が崩れることを画家が嫌ったのではないかと思います。後に、ピュグマリオンという人形の女性に命を吹き込む神話や眠り姫というテーマを描きますが、これらは人形であったり眠っていたりと表情がない顔と言うことになります。生き生きとして表情というよりも顔の造作に画家は引かれていたのではないか、と思われるのです。それは、だから今でいうと雑誌のモデルのグラビアに近い印象です。その付属品として衣装とか装身具といった細部を細かく描くことはグラビアを引き立てることになります。逆に空間という全体像を提示して、そこに位置づけるとモデルは全体の一部になって後景に退くようなことになってしまいます。つまりは、この作品で言えば2人の美男美女、もっというとイケメンとアイドルを描きたがったではないか、彼らを引き立てるために神話の舞台装置が適していたのではないか、ただし神話が前面に出ると彼らが霞んでしまう。そのバランスを考えて、このような作品として出来上がったのではないか。ということを感じるのです。このような視点で、個々の作品をさらに観て行きたいと思います。 これは、現代の展覧会で見ている私が勝手にそう感じていることであることは言うまでもありません。当時にコスプレなどということはなかったのですから。
■『眠り姫』連作─<いばら姫>
126×237㎝という横長の大きなキャンバスに「画面にさまざまに配された人物をたちが全体として連続した横のラインを構成し、彼らを取り巻く野いばらの蔓や布、衣服の襞を描く繊細で優雅な線と響き合っている。」とカタログに素晴らしい解説がありますが、画家への愛情が感じられるいい解説です。
しかも、眠っている少女たちの姿勢も、しどけなく、いかにも無防備ではないでしょうか。普段なら絶対に見せてはいけないような格好で、とくに連作のスケッチで一人一人描かれている女性たちの姿は、眠り込んでいるが故に自制心が利かなくなって多少だらしなくなって足をみだしたり、尻を突き出している姿をリアルに細部に至るまで執拗にスケッチされています。 さらに、眠っている少女たちの顔の描き方は、いかにも無防備という風情で、男性の視線の晒されていることに気づかず無垢な姿のままでいるようです。 話は変わりますが、「眠り姫」という伝説は、日本では「眠りの森の美女」という名の方がよく知られているかもしれませんが、精神分析のよる分析の対象として様々な取り上げられ方がされていました。その代表的なものとして少女が大人の女性になるときに、それに対する少女の恐れをあらわした一種の通過儀礼として見る見解があります。少女が眠りにつくきっかけは指を怪我して血を流すことですが、それを初潮とも破瓜の象徴ともとらえることができる。また、眠りそして目覚めるというのは死と再生の象徴であって少女として死んで大人の女性として生まれ変わるというのです。しかも、眠っていた少女を目覚めさせるのは王子による口づけです。男性との性的な接触により大人の女性として生まれ変わるという暗喩です。しかし、それは少女にとって恐ろしいことで破瓜は死に喩えられるなどです。だから眠っている少女の城は野いばらに覆われて男性も容易には近寄れなくなっています。その障害を乗り越えて踏み込んでくる男性だけが少女を大人に目覚めさせることができるのです。 ということは、ここで描かれている眠れる少女というのは処女性の象徴ということもできるわけです。つまり、純粋で、いうなれば男性に汚されていない少女のしどけない姿というわけです。それを彩るために野いばらだの装飾だのを執拗に細かく誠心誠意描き込んでいる、このバーン・ジョーンズと言う画家の姿を想像すると、狂気を感じるのは私だけでしょうか。全然、傾向は違いますが石井隆というまんが家の絵を思い出してしまうのです。(これについては、機会があれば別の時にお話ししたいと思います) ■『フローラ』
前回、画家から感じられる狂気ということについて石井隆というまんが家の名をあげました。ここでは、その辺りのことを話したいと思います。 この作品では、フローラと言う花の女神が、軽やかなステップを踏んで種を蒔くと、指先を離れた金色の種子は地面に落ちるやたちまちのうちに花を咲かせる様が描かれています。その中で、左手の指先から金色の種子が離れ、蒔かれる描き方です。この画面では分かりにくいと思いますが。それこそ種子の金色の一粒一粒が種子として細かく描き込まれています。画像で見ると金色の点か霞のようにしか見えないでしょうが、実際にみるとしっかりと描き込まれているのです。その種子が地面に触れて芽を出し、根付き、花を咲かせるまでの細かな点が、蔓の一茎も葉の一枚もなおざりにすることなく描き込まれているのです。小さな画面のほんの一部で、種子は点か霞のようにすればそれらしく見えると、途中のプロセスはざっと書いてチューリップの花を数本かけば、それなりの体裁は整うところであるのに、画家はその全てのプロセスを執拗に描き込んでいます。前に紹介した「いばら姫」でも野いばらの花や蔓を省略することなくくっきりと描き込んでいました。この辺りの細部への不必要とも言えるこだわりには、画家の執念のようなものを感じます。細部に神は宿るとは申しませんが、一点を疎かにしないというのか、おそらくバーン・ジョーンズと言う人のもって生まれた性分のようなものなのでしょう。それはスケッチを見ると、その描き込み方がさらによく分かります。実は、バーン・ジョーンズのスケッチは完成した作品以上に画家の特徴が出ているとおもわれます。その細かな描き込み方において、とくに。
さて、バーン・ジョーンズの作品ですが、このような細部の背景があって、女神フローラの衣服のふわりとした触感や濃紺のストールが風に巻かれる様子、これに対比的に種を蒔く手の腕の柔らかな触感の描き分けといった、触感的な描き分けが制作に時間を要した理由かもしれません。そして、そのような触感の描き分けによって、赤い衣服を通して豊かな臀部がそこはかとなく暗示されているが分かります。透けて見えるのではなくて、材質の違いにより、その形がなぞられているのです。そこにエロスを感じるというのが、私にとって、この画家の魅力の大きな部分です。 そして、これだけ丁寧に描かれている割には、女神の表情が虚ろで活き活きとした生気が感じられないのです。顔がつくりものめいているといえばいいのでしょうか。スケッチをみると、さらにハッキリしているのですが、よくよく見てみると絵画的というよりもまんがとかアニメの類型的なヒロインの顔に似た感じを受けてしまうのです。
■『ピグマリオン』連作
だから、ピグマリオンという題材を取り上げること自体に、とくにどうということは言えないのでしょうけれど、別のところで取り上げた「眠り姫」でも、眠りについて意識を失っている少女は人形にも通じるものです。これについても、エスカレートしたものはネクロフィリオという変態嗜好に通じるものと言うことも出来ます。 そして、この「ピグマリオン」の連作で描かれている女性は人形であるが故に、表情が描き込まれていません。女性を好んで描く画家なら、生命のない人形から、女神によって命を吹き込まれて女性となったときの生命に輝く姿への変化を描くのでしょう。しかし、バーン・ジョーンズにはそのような劇的な変化には興味がないようです。むしろ、生き生きとした表情がないところで一貫しているようです。それよりも、彫像から人間になったとしても、その女性の外見的な美しい姿に、彫像の硬さや冷たさから、人間となったことによって柔らかさや人間の肌の肌触りが加わったことを嬉々として描いているように見えます。そこに、制作者であるピグマリオンの支配の対象としては彫像でも、人間となっても変わらない描かれ方をされているように見えます。人間となってもピグマリオンに導かれるのに素直に従う様子で描かれているわけです。しかも彫像からの連続ということで、女性の裸像を恥じらいのない露わな姿で現している。
べつに、バーン・ジョーンズのこの作品では、縛ったりとかしているわけではありません。それぞれの作品は、ギリシャ神話のや中世の伝説を描いたということなので、表面上では、上に書いたようなポルノグラフィのような捉え方はされないのでしょう。しかし… ラファエル前派の画家には女性を好んで描く人が多いようです。バーン・ジョーンズもそうでしょう。たとえば、ダンテ・ガブリエリ・ロセッティは女性の神秘性というのか、世紀末のファム・ファタールとしての女性、神秘的な美しさを湛えながら時には男性を手玉に取り奈落の底に落としてしまうような魔性を秘めた姿を描きました。また、ジョン・エバレット・ミレイは歴史に翻弄されながら、時には失意に沈み、時には雄々しく運命に立ち向かう女性の気高くも儚い姿を描きました。かれらの描く女性はそれぞれに生き生きとして独自の存在感を主張していました。これに対して、バーン・ジョーンズの女性は表面的に見えてしまうのです。その第一は表情とか生気に欠けるという点です。そして、前の2人に比べて裸体画や裸体をそれとなく連想させる画像が多いということです。それは、いまの日本の男性雑誌に繰り返し載せられている、少女たちのグラビアといわれる写真の子供っぽいとしか、あるは呆けたとしか見えない、確かなことは彼女たちの自我の主張がない表情と、そっくりのように見えるのです。これは私の偏見かもしれませんが。そういうものと同じような効果をバーン・ジョーンズの描く女性たちは機能していたのではないか。ヴィクトリア朝という時代は、道徳が強調され表面的な礼儀正しさとか公序良俗がやたら目立った偽善的な時代だったという人もいます。そういう、いわば建前がまかり通る息苦しいような時代風潮の中で、ややもすれば抑圧されてしまっているようなものを、表面的には神話や伝説といった名目の陰に隠れて代替的に満たさせてくれるものとして、バーン・ジョーンズの描く女性は機能していたのではないか。だからこそ、存命中は売れっ子作家であった彼は、亡くなる、ヴィクトリア時代が終わると、急速忘れられていったのは、そういう理由もあるのではないか、などと変なことを考えてしまうのです。それが最近になって急速に復権したのは、現代のグラビア写真や美少女イラストとかアニメに似たテイストを持っているからとも思えるのです。 結局のところ、このように書いている私自身の問題で言えば、こうゆうものとして捉えられるからこそ、この手の作品は好きなタイプです。
■まとめ
このように、バーン・ジョーンズの作品が平面的で図案のようだということから、次の特徴が現れてきます。それは、細部まで執拗に細かく描かれているということです。例えば『いばら姫』の少女たちと背後に生い茂る野いばらの描き方を見てみると、同じように細かいところまで描き込まれています。これが、さらに画面の平面性とか図案性をさらに推し進める結果となっています。逆に、平面的だからこそ細かなところまで描き込み易かったのかもしれません。おそらく、彼の画家としての資質が一段高い視点から空間全体を設計して、画面を構成するということよりも、画面を構成するパーツである細部から描き込んで結果として画面が出来上がるという行き方をしているように思われます。その現れとして、画面に描き方に部分による軽重があまりなく全体に誠実に手を抜くことなく描き込まれている、悪く言えばメリハリがあまりない、ということが言えます。 デッサンやドローイングを見れば分かりますが、細かなデッサン力というのが、この画家の得意なところで、強みでもあるもので、それを作品として生かして結実させる、また、全体を大掴みに把握するよりは細部を積み上げていく志向性に合致した画面の作りということで、平面的な画面というのがうまくマッチしたのではないか。 さらに第3の特徴として考えられるのが、バーン・ジョーンズは画家であると同時に、ステンドグラスの下絵デザインや装飾を描いたり、本の挿絵を描いていたということです。そこでは、装飾として用いられることから近代の絵画作品に共通する自己主張のようなものは抑制することになります。その結果が平面的な画面というのは短絡でしょうか。また、さらに、この時代に写真が普及し始めます。似たような機能を果たす絵画にとって写真は新たに出現した競争相手であったはずです。スピードやコスト、リアルな再現力で絵画は写真に勝てないため、写真とは違った特徴を強調することで、生き残りを図ったと思います。それは写真に出来ないこと、例えば、現実に無い幻想や歴史や物語の一部を描いたり、写実とは違う表現を行ったり、人物の内面まで抉るような精神性を追求したり、といろいろあったと思います。そこでの、バーン・ジョーンズの行き方は、写真と正面から対決せずに、写真の特徴であるコピー機能を取り込みながら、装飾的な図案化を施すことによって差別化を図るというものではなかったかと、思います。それが、彼の作品の急速な普及を後押しすることになったのではないか。結果的に、ベンヤミンのいう「複製技術時代の芸術」を絵画の要素として持ち込んだのではないか。 この場合、大量生産に進むことになるでしょう。そうなるとターゲットとなるのは大衆ということになるでしょうか。そのときに、人間の存在とか難しいことをいうよりも、描かれた人物が外形として美しく、しかもギリシャの理想などよりも分かり易いことが求められてくると思います。手っ取り早く言えば、複製可能となったことにより、大量生産が可能となる。そのターゲットとなるのは大衆のはずだが、大衆には各自が審美眼を育てる余裕などない。そこで分かり易い美しさが必要となってくる。その結果、理想とか、内面といったものを欠いた、表面的な見た目の美しさが歓迎されると、画家が意識しなくても、その傾向に添うようなものに傾いてくる。もともと、装飾的な志向があって、精神性とかそういうものとは近しくなかったことも、相乗効果として追求していくうちに、男性から見た女性の美しさを追求していくうちに、エロチックな要素が次第に盛り込まれる結果となったのではないか。もちろん、バーン・ジョーンズ自身にも、そういうものを好む傾向があったと思います。 それが、今回の展覧会での感想のまとめです。ちょっと、最後は駆け足になりましたが。 |