バーン・ジョーンズ展─装飾と象徴─ |
都心でセミナーがあり、早めに終わったので、株主総会も終わったので、帰りに寄ってきました。蒸し暑い中、大手町から東京駅の丸の内側を北から南へ、汗を掻きました。三菱一号館美術館というのは、三菱UFJ銀行本店の隣の古いレンガ造りの外観のビルを美術館に流用したものらしい。入り口は道の裏側でパティオのようなちょっとした広場になっていてオープンカフェのようなテーブルが置いてあった。私の様な不粋な者には入り口が分かりにくいだけにしか感じられない。全体として、この美術館は古い建物の骨格をそのまま転用しているのか利用する側にとって使い勝手が悪いものでした。また、中の空調や仕切りやセキュリティなどは最新のものが設置されているようですが、それがしっくりしていないのが明らかで、取ってつけたような装飾にセンスが感じられない。実際にはまず、チケット売り場がわからず、荷物を預けるコインロッカーが見つからず、鞄を抱えながら展示を見ることになってしまいました。チケットを買ってからチケットの確認が狭いところで展示室に行くエレベータを待つのが狭いところで身の置き場に困る。さらに展示室は一つ一つの部屋が狭く(もともとの建物がそうなのでしょう)、それは仕方がないとしても、部屋の仕切りごとに自動ドアが設置されていて、展示時間中は自動ドアなのでしょうけれど、セキュリティのためというのか明らかで、何か監獄の扉を通っているような感じがしました。それと木の床は靴音が響いてうるさく、自身が歩くのにも気を遣うことになり、落ち着いて絵を見るという快適さは感じられませんでした。美術館自体は企画倒れというのか、アイデアはいいかもしれないが、実際の来館者の気持ちを考えてほしいと思います。こういう美術館に限って、結構いい展覧会の企画をするようで、残念です。無愛想なビルでいいから、快適に絵を見せる環境を作ってほしいものだと思います。 バーン・ジョーンズは英国の画家で、DGロセッティやJEミレイらのラファエル前派で描き続けた人です。展覧会パンフにある作品をみると、ラファエル前派の画家であることが一目でわかります。若いことに、ウィリアム・モリスに出会い、そこからジョン・ラスキンやダンテ・ガブリエリ・ロセッティらと出会って、ラファエル前派に入っていくことなるわけですが、正式な絵画教育をほとんど受けることなく、本人の努力もあり現場での修行で習得していったということだそうです。また、画家であると同時に友人のモリスがアーツ・アンド・クラフツ運動を進めて経営しているモリス商会で、その運動の成果ともいえるステンドグラスの下絵のデザインや家具の装飾の仕事に携わり、若い頃はそれによって生計を立てていたということで、今でいえばデザイナーのようなものかもしれません。そのおかげもあって、製作する絵画は画家自身の好きなものを好きなように描いていたらしく、取り上げられたテーマは神話や中世の伝説がほとんどだった。ラファエル前派のロセッティたちの耽美性や象徴性も、モリスのアーツ・アンド・クラフツによる装飾性も体現しているということから、この展覧会のサブテーマが「装飾と象徴」とつけられたのだと思います。 この展覧会のポスターやバンプに掲げられたのは、今回の展覧会の目玉と言うことになるのでしょう。「ペルセウス」の連作の中の『果たされた運命:大海蛇を退治するペルセウス』ですが、ギリシャ神話の有名なエピソードで、生贄にされた王女アンドロメダをペルセウスが助けるというものです。様々な画家がこのエピソードを描いていて、それらと比べてみるとバーン・ジョーンズの特徴が見えてくるように思います。ここで、比較のために参考として掲げたのはギュスターブ・モローの『アンドロメダ』です。両者を比べて、まず思ったのはバーン・ジョーンズの作品には空間が感じられないということです。ギリシャ神話によれば、アンドロメダは海辺の崖に逃げられないように鎖で縛られているはずです。しかし、バーン・ジョーンズの作品にはそれが感覚として感じられない。強いて言えば室内のような感じです。たぶんラファエル前派の作品に少なからず共通しているので、前期ルネサンス以前にもどれということから空間として全体を把握するという鳥瞰的な観方を意識して排除しているのかもしれません。例えば、JEミレイの『オフィーリア』という有名な作品も小川に身を投げたというよりも室内ブールのような空間なのです。(ただし、ミレイはラファエル前派べったりの画家ではなく、後には距離を置くようになり、それなりに空間の広がりを感じさせる作品も描いています。だから、『オフィーリア』の場合は意図的にそういう空間の描き方をされていたとも考えられます) 次に感じられるのは、怪物である大海蛇に恐ろしさとかおぞましさのようなものが感じられないことです。モローの作品では海蛇とか大きさかないのですが、何となく見たくない、近くに来てほしくないようなものとして描かれているように感じます。しかも、曰く言いだけというのかハッキリとは描かれていないのですね。たぶん、神話としては大海蛇という具体的なものというよりも、人々に災いをもたらす恐ろしいもの。アンドロメダを生贄として要求するようなおぞましいもの。そういうものとして捉えられていたのではないか、と思います。だから、人々は恐ろしくて‘それ’を見ることはできないし、見たくもない。‘それ’の正体を知る者は生贄になった者だけなので、誰も知らないし、‘それ’そのものを語るのも恐ろしい。だから、せめて想像の範囲内にとどめて海蛇の大きなのとして、とりあえず詮索しないということなのではないかと思います。『ゴジラ』という怪獣映画で最初にゴジラが姿を現わすまで、映画の半分を要します。それまで、漁船が被害に遭ったことが出てきたり、魚の動きが異常だったりと何かがおこるという無気味な雰囲気を盛り上げて行きますが、ゴジラが姿を現わすにしても、尻尾の一部とか全体像はなかなか姿を現わさないのです。それが恐怖感を煽っていく効果をあげていたわけです。ところがバーン・ジョーンズの作品では、海蛇がまるで標本のように、それと分かるように描かれている。これでは、神秘性とか恐ろしさといったものを感じられません。 そして、画面を構成する個々の人物が非常に細かく丁寧に描かれていることです。例えばペルセウスの装束の説密な描かれ方は、足首についている羽根について羽の1本1本が丁寧に細かく描き込まれているようだし、着ている鎧の細かな襞までもが描き込まれているようです。それだけに神秘性がかじられない。まるで神話の英雄というというよりもコスプレのように見えてしまうのです。 もう一人の主要登場人物であるアンドロメダについても神話上の高貴な王女というよう、神秘化、理想化された姿ではなくて、実際の憧れの女性を裸にしてリアルに描いたヌード写真のように見えます。ペルセウスがコスプレなら、アンドロメダはグラビアのヌード写真のようなのです。 それだけ人物が現実の人物に近くリアルに描かれていながら表情がないのも大きな特徴です。神話上の登場人物なら半分神の様なもので、人間を理想化された姿として卑近な表情を敢えて描かないことにより神々しさを醸し出す効果があらわれます。しかし、バーン・ジョーンズの作品では人物は具体的でリアルに描かれていて、表情が描き込まれていないと虚ろな感じを受けます。ペルセウスには怪物を前にした怒りとか必死さのような表情はなく、アンドロメダにも怪物を恐ろしがったり、ペルセウスの勝利を祈る表情もありません。 これらは思うに、表情をつけることでアンドロメダやペルセウスの顔の造形が崩れることを画家が嫌ったのではないかと思います。後に、ピュグマリオンという人形の女性に命を吹き込む神話や眠り姫というテーマを描きますが、これらは人形であったり眠っていたりと表情がない顔と言うことになります。生き生きとして表情というよりも顔の造作に画家は引かれていたのではないか、と思われるのです。それは、だから今でいうと雑誌のモデルのグラビアに近い印象です。その付属品として衣装とか装身具といった細部を細かく描くことはグラビアを引き立てることになります。逆に空間という全体像を提示して、そこに位置づけるとモデルは全体の一部になって後景に退くようなことになってしまいます。つまりは、この作品で言えば2人の美男美女、もっというとイケメンとアイドルを描きたがったではないか、彼らを引き立てるために神話の舞台装置が適していたのではないか、ただし神話が前面に出ると彼らが霞んでしまう。そのバランスを考えて、このような作品として出来上がったのではないか。ということを感じるのです。このような視点で、個々の作品をさらに観て行きたいと思います。 これは、現代の展覧会で見ている私が勝手にそう感じていることであることは言うまでもありません。当時にコスプレなどということはなかったのですから。 ■『眠り姫』連作─<いばら姫>
一人の王子が、生い茂った野いばらに閉ざされた宮廷に分け入って、100年もの長い眠りに陥ることを運命づけられた美しい姫を見つけ、口づけをした途端、魔法が解けて宮廷が眠りから目覚めるというのは、浩瀚な「眠り姫」伝説で、グリム童話やシャルル・ベローでも取り上げられていたものです。バーン・ジョーンズも「眠り姫」を題材にした一連の作品を制作し、かれの中でも重要な位置を占めていると言います。 126×237pという横長の大きなキャンバスに「画面にさまざまに配された人物をたちが全体として連続した横のラインを構成し、彼らを取り巻く野いばらの蔓や布、衣服の襞を描く繊細で優雅な線と響き合っている。」とカタログに素晴らしい解説がありますが、画家への愛情が感じられるいい解説です。 しかし、私には解説に言う人物たちの連続した横のラインが、横たわる少女たちの薄絹を通して露わになった身体の優美な、言い方を換えればエロチックなラインに見えてくるのです。眠っているということで、意識がないために恥じらうことなく身体の線をしどけなく露わにしているという構図です。ラファエル前派の画家たちは、ダンテ・ガブリエル・ロセッティをはじめとして、ジョン・エバレット・ミレイなども女性の神秘的な美しさをよく描いていますが、裸体やそれに近いものは殆ど描いていないのではないでしょう。彼らの場合は、古代風の衣装を着せたりした扮装とか、顔のとか、それら全体の雰囲気のようなものが中心のように見えます。とくに身体の線は全身像よりも半身像が主だったり、ゆったりとした衣装の隠れてしまうようです。例えば、ジョン・エバレット・ミレイの『オフィーリア』と言う作品は横たわる美少女という点でよく似たシチュエーションの作品ですが、全体の主眼は少女の虚ろな表情とそれを取り巻く幻想的な雰囲気で、しかも少女は全身が描かれておらず、衣装により、さらに身体の大部分は水に沈んでいるため、身体の線は隠されて、窺い知ることができません。 しかも、全体紹介したペルセウスの作品で描かれていたアンドロメダの裸体にも言えるのですが、それまでの常識では女性のヌードを描くと言う時には、神話などの場面をかりて、しかも理想の美の姿として描かれるというような約束事があり、その場合の理想の美とは、ギリシャ彫刻で表現されていたような人体の理想的な姿ということでした。女性の場合には、ミロのヴィーナスが典型的と思われるのですがふくよかで逞しいような姿が理想とされていたようです。これに対して、バーン・ジョーンズが描く女性の身体は、ふくよかで逞しいというよりは、細身になってきているように見えます。華奢とは言いませんが近代の家族の中で生産に携わらない男性に庇護されるという優美が第一というような、そういう捉え方のなかで描かれているように思えます。それは、ファロ・セントリズム、いわゆる男根中心主義というのか、女性はか弱く男性の視線に晒されているというようなあり方です。その対象として見た時に、バーン・ジョーンズの描く女性の身体というは、そういう視線に応える要素を持っているのではないかと思えるのです。 カタログの解説で書かれている“人物をたちが全体として連続した横のラインを構成”というのは、そういう視線に晒された女性の線ということをいみじくも語っているように思えるのです。しかも、当時のヴィクトリア朝の偽善的な道徳の許では、女性があからさまな男性の視線に晒されるということは、はしたないことであるはずです。だから、ふつうは女性がそういう視線に自らを曝すことはあり得ない。そこで、眠っているという状態が、意識がなく恥じらいを感じることがないという特殊な環境にあるということで、日頃は隠されたものが露わになる、禁断の姿を覗き見するような気分になれるといったら、うがち過ぎでしょうか。 しかも、眠っている少女たちの姿勢も、しどけなく、いかにも無防備ではないでしょうか。普段なら絶対に見せてはいけないような格好で、とくに連作のスケッチで一人一人描かれている女性たちの姿は、眠り込んでいるが故に自制心が利かなくなって多少だらしなくなって足をみだしたり、尻を突き出している姿をリアルに細部に至るまで執拗にスケッチされています。 さらに、眠っている少女たちの顔の描き方は、いかにも無防備という風情で、男性の視線の晒されていることに気づかず無垢な姿のままでいるようです。 話は変わりますが、「眠り姫」という伝説は、日本では「眠りの森の美女」という名の方がよく知られているかもしれませんが、精神分析のよる分析の対象として様々な取り上げられ方がされていました。その代表的なものとして少女が大人の女性になるときに、それに対する少女の恐れをあらわした一種の通過儀礼として見る見解があります。少女が眠りにつくきっかけは指を怪我して血を流すことですが、それを初潮とも破瓜の象徴ともとらえることができる。また、眠りそして目覚めるというのは死と再生の象徴であって少女として死んで大人の女性として生まれ変わるというのです。しかも、眠っていた少女を目覚めさせるのは王子による口づけです。男性との性的な接触により大人の女性として生まれ変わるという暗喩です。しかし、それは少女にとって恐ろしいことで破瓜は死に喩えられるなどです。だから眠っている少女の城は野いばらに覆われて男性も容易には近寄れなくなっています。その障害を乗り越えて踏み込んでくる男性だけが少女を大人に目覚めさせることができるのです。 ということは、ここで描かれている眠れる少女というのは処女性の象徴ということもできるわけです。つまり、純粋で、いうなれば男性に汚されていない少女のしどけない姿というわけです。それを彩るために野いばらだの装飾だのを執拗に細かく誠心誠意描き込んでいる、このバーン・ジョーンズと言う画家の姿を想像すると、狂気を感じるのは私だけでしょうか。全然、傾向は違いますが石井隆というまんが家の絵を思い出してしまうのです。(これについては、機会があれば別の時にお話ししたいと思います) ■『フローラ』 古代ローマの花の女神を描いたこの作品は、95×65pのサイズと大作でもないのに着手から完成まで16年の年月を要したとされるものです。もっとも、16年の間、この作品だけを描いていたわけではないでしょうから、他の作品を描きながら中断を挟み結果的に時間がかかってしまったものなのでしょう。 前回、画家から感じられる狂気ということについて石井隆というまんが家の名をあげました。ここでは、その辺りのことを話したいと思います。 この作品では、フローラと言う花の女神が、軽やかなステップを踏んで種を蒔くと、指先を離れた金色の種子は地面に落ちるやたちまちのうちに花を咲かせる様が描かれています。その中で、左手の指先から金色の種子が離れ、蒔かれる描き方です。この画面では分かりにくいと思いますが。それこそ種子の金色の一粒一粒が種子として細かく描き込まれています。画像で見ると金色の点か霞のようにしか見えないでしょうが、実際にみるとしっかりと描き込まれているのです。その種子が地面に触れて芽を出し、根付き、花を咲かせるまでの細かな点が、蔓の一茎も葉の一枚もなおざりにすることなく描き込まれているのです。小さな画面のほんの一部で、種子は点か霞のようにすればそれらしく見えると、途中のプロセスはざっと書いてチューリップの花を数本かけば、それなりの体裁は整うところであるのに、画家はその全てのプロセスを執拗に描き込んでいます。前に紹介した「いばら姫」でも野いばらの花や蔓を省略することなくくっきりと描き込んでいました。この辺りの細部への不必要とも言えるこだわりには、画家の執念のようなものを感じます。細部に神は宿るとは申しませんが、一点を疎かにしないというのか、おそらくバーン・ジョーンズと言う人のもって生まれた性分のようなものなのでしょう。それはスケッチを見ると、その描き込み方がさらによく分かります。実は、バーン・ジョーンズのスケッチは完成した作品以上に画家の特徴が出ているとおもわれます。その細かな描き込み方において、とくに。 ここで、参考として石井隆の画像を見ていただきたいと思います。これも画像ではよく分からないかもしれませんが。髪の毛の描き方を見てほしいのです。実は、この人は髪の毛の一本一本を執拗に描いているのです。その過剰さが画面に異常な迫力を生み出しているのです。普通のまんがでは髪の毛の黒い部分は塗りつぶしてしまうものですが、このように描くことによって、髪の毛の乱れが実体として存在感を持って迫ってきます。その髪を持つ当の女性がページ全体にアップとなって見る者に迫ってくるのです。その存在感がまんがの枠を超えてしまうほどで、この存在感が石井隆というまんが家の大きな魅力であったことは確かです。現在、石井隆はまんがを描くことを辞め(こんなことを、いつまでも続けていたら体が保てないでしょう)、映画作家として秀作を発表し続けています。 さて、バーン・ジョーンズの作品ですが、このような細部の背景があって、女神フローラの衣服のふわりとした触感や濃紺のストールが風に巻かれる様子、これに対比的に種を蒔く手の腕の柔らかな触感の描き分けといった、触感的な描き分けが制作に時間を要した理由かもしれません。そして、そのような触感の描き分けによって、赤い衣服を通して豊かな臀部がそこはかとなく暗示されているが分かります。透けて見えるのではなくて、材質の違いにより、その形がなぞられているのです。そこにエロスを感じるというのが、私にとって、この画家の魅力の大きな部分です。 そして、これだけ丁寧に描かれている割には、女神の表情が虚ろで活き活きとした生気が感じられないのです。顔がつくりものめいているといえばいいのでしょうか。スケッチをみると、さらにハッキリしているのですが、よくよく見てみると絵画的というよりもまんがとかアニメの類型的なヒロインの顔に似た感じを受けてしまうのです。
■『ピグマリオン』連作
キプロスの彫刻家ピグマリオンは、かつて見たことのないほど素晴らしい女性像を創った。ついに彼は、自らの作品をまるで生きているかのように愛するにいたり、ヴィーヌスに祈って救いを求めた。ヴィーヌスは彫像に命を吹き込んで本物の女にし、ピグマリオンは彼女と結婚した。オィデヴィウスの『変身譚』にも収められたギリシャ神話の有名なエピソードです。これはまた、精神分析ではピュグマリオニズムなどと呼ばれる人形偏愛性、生身の人間の女性ではなく心無い対象である人形を愛する性癖、広義に捉えれば、女性を人形のように愛する性癖を指します。つまり、生身の人間の女性は、いくら美しい女性であっても自我がある独立した一人の人間です。だから、こちらの思い通りにはならないし、時には諍いもある。人と人との付き合いですから、そのような煩わしさを嫌い、人形のように自分の思い通りにしたいという性癖のことを指します。これがすすめば変態者になってしまいます。このような例は小説や戯曲では少なからずあり、ピグマリオンをベースに、バーナード・ショーという劇作家が「マイ・フェア・レディ」と言う作品を書いています。上流階級の言語学者が下層階級の少女を淑女に仕立て上げるという作品は、オードリー・ヘップバーンの主演で映画化もされました。こじつけでいえば、「源氏物語」で光源氏が紫の上を引き取って育てるのもそうでしょう。 だから、ピグマリオンという題材を取り上げること自体に、とくにどうということは言えないのでしょうけれど、別のところで取り上げた「眠り姫」でも、眠りについて意識を失っている少女は人形にも通じるものです。これについても、エスカレートしたものはネクロフィリオという変態嗜好に通じるものと言うことも出来ます。 そして、この「ピグマリオン」の連作で描かれている女性は人形であるが故に、表情が描き込まれていません。女性を好んで描く画家なら、生命のない人形から、女神によって命を吹き込まれて女性となったときの生命に輝く姿への変化を描くのでしょう。しかし、バーン・ジョーンズにはそのような劇的な変化には興味がないようです。むしろ、生き生きとした表情がないところで一貫しているようです。それよりも、彫像から人間になったとしても、その女性の外見的な美しい姿に、彫像の硬さや冷たさから、人間となったことによって柔らかさや人間の肌の肌触りが加わったことを嬉々として描いているように見えます。そこに、制作者であるピグマリオンの支配の対象としては彫像でも、人間となっても変わらない描かれ方をされているように見えます。人間となってもピグマリオンに導かれるのに素直に従う様子で描かれているわけです。しかも彫像からの連続ということで、女性の裸像を恥じらいのない露わな姿で現している。 ピクマリオンをベースにした「マイ・フェア・レディ」という物語がありますが、この陰画として、マルキ・ド・サドに「ジュスティーヌ」という物語があります。ナイーブで純粋無垢な乙女のジュスティーヌを、悪意の男たちが寄ってたかって汚して調教していくというポルノグラフィーの古典というべき作品です。これは後の団鬼六の「花と蛇」もそのパターンを踏んでいますし、ポルノグラフィの王道パターンのひとつになっているのです。 べつに、バーン・ジョーンズのこの作品では、縛ったりとかしているわけではありません。それぞれの作品は、ギリシャ神話のや中世の伝説を描いたということなので、表面上では、上に書いたようなポルノグラフィのような捉え方はされないのでしょう。しかし… ラファエル前派の画家には女性を好んで描く人が多いようです。バーン・ジョーンズもそうでしょう。たとえば、ダンテ・ガブリエリ・ロセッティは女性の神秘性というのか、世紀末のファム・ファタールとしての女性、神秘的な美しさを湛えながら時には男性を手玉に取り奈落の底に落としてしまうような魔性を秘めた姿を描きました。また、ジョン・エバレット・ミレイは歴史に翻弄されながら、時には失意に沈み、時には雄々しく運命に立ち向かう女性の気高くも儚い姿を描きました。かれらの描く女性はそれぞれに生き生きとして独自の存在感を主張していました。これに対して、バーン・ジョーンズの女性は表面的に見えてしまうのです。その第一は表情とか生気に欠けるという点です。そして、前の2人に比べて裸体画や裸体をそれとなく連想させる画像が多いということです。それは、いまの日本の男性雑誌に繰り返し載せられている、少女たちのグラビアといわれる写真の子供っぽいとしか、あるは呆けたとしか見えない、確かなことは彼女たちの自我の主張がない表情と、そっくりのように見えるのです。これは私の偏見かもしれませんが。そういうものと同じような効果をバーン・ジョーンズの描く女性たちは機能していたのではないか。ヴィクトリア朝という時代は、道徳が強調され表面的な礼儀正しさとか公序良俗がやたら目立った偽善的な時代だったという人もいます。そういう、いわば建前がまかり通る息苦しいような時代風潮の中で、ややもすれば抑圧されてしまっているようなものを、表面的には神話や伝説といった名目の陰に隠れて代替的に満たさせてくれるものとして、バーン・ジョーンズの描く女性は機能していたのではないか。だからこそ、存命中は売れっ子作家であった彼は、亡くなる、ヴィクトリア時代が終わると、急速忘れられていったのは、そういう理由もあるのではないか、などと変なことを考えてしまうのです。それが最近になって急速に復権したのは、現代のグラビア写真や美少女イラストとかアニメに似たテイストを持っているからとも思えるのです。 結局のところ、このように書いている私自身の問題で言えば、こうゆうものとして捉えられるからこそ、この手の作品は好きなタイプです。
■まとめ
最後に、まとめてみましょう。ここまで、展示されている作品の印象を、それぞれに綴ってきました。ここでは、そういう印象を与えられたのは、バーン・ジョーンズの作品がどのような描かれ方をしているかをまとめてみたいと思います。 先ず第一に、展覧会のポスターやパンフに使われているペルセウスのシリーズのところでもお話ししましたが、このペルセウスの冒険を連作で描いたシリーズでは特に、あるいは『運命と車輪』という作品だったりに顕著に感じられるものですが、画面に空間を感じにくいということです。これらの作品には、人物や怪物、あるいは神様等様々なパーツがビッシリと描き込まれていて、画面の詰め込まれた感じです。その反面、隙間は描かれたもので埋め尽くされ、隙間をあまり取れなくなってしまっているかのようです。ても、それならば、人物などのパーツの大きさを相対的に小さくすれば隙間は取れるはずです。しかし、実際の作品では為されていない。その理由として考えられるのは次の2点です。まず第1点目として、そもそも、この画家には空間というパースペクティブで捉えることがないのではないかということです。そもそも、空間というのは、近代的な認識論の中で、人がある物を見るときに、その物を、それを取り巻くある広がりと共にとらえて、その広がりの中で捉えようとすることをします。そのときに、そのある広がりを捉えるためにものさしのように人が利用する手段のようなものです。それが実体として存在するというよりは、そういう物差しのなかで物を捉えようとする便のようなものです。単純化すれば、地と図の関係の様なものと言えます。例えばルービンの盃というものでは、黒い部分を見ると盃ですが、白い部分だけをみると人の横顔が向かい合っているように見えます。これは極端に単純化したものですが、物というのは、それを単独でみるのではなく、必ず周りとの関係として人は認識しています。その関係を把握する物差しとして空間というのを人は設定するということです。それが絵画でどのように現れているか、というと代表的なものが遠近法という技法です。これによって人物を描いた作品であれば、例えば『果たされた運命:大海蛇を退治するペルセウス』では、描かれた人物が手前にいるのか奥にいるのか、もし人物が2人いれば2人の位置関係が想像できるようになっているわけです。そういう視点で先ほど例として挙げた作品を見ていると、人物の位置関係は、すべて手前に一列に並んでいるように見えます。そもそも、いつ関係が生まれるような奥行が感じられない。つまり、描かれていない。だから、そこに空間という広がりがないのです。むしろ、画面の平面にペルセウス、アンドロメダ、大海蛇というパーツがレイアウトされている、という描かれ方をしているように、見えます。そもそも、空間というを把握するためには、物とそをとりまく周囲というように、あるいは地が図かというような選択が行われているはずですが、バーン・ジョーンズの作品ではそのような主と従の選択がなされていないで、それぞれのパーツが一様に描き込まれているように見えます。そのような一様な平面が一般的なものが装飾的な図案です。 次に第2点として考えられるのは、別のところで取り上げた『いばら姫』という作品を見ると、折り重なるように眠っている少女たちの身体の輪郭の線が優美な曲線となって、画面全体に効果を一定の効果を生んでいます。これは、それぞれの人物がリアルな存在を主張するのではなくて、平面的に図案のように並んでいることで、生まれてくる効果です。これは画家が意識的に意図したのか、結果としてこうなったのかは分かりません。しかし、他の『フローラ』などの作品を見る限り、図案として意図的に考えているように想像できます。その場合、平面的な画面の方がレイアウトとして構成しやすいことは確かです。 このように、バーン・ジョーンズの作品が平面的で図案のようだということから、次の特徴が現れてきます。それは、細部まで執拗に細かく描かれているということです。例えば『いばら姫』の少女たちと背後に生い茂る野いばらの描き方を見てみると、同じように細かいところまで描き込まれています。これが、さらに画面の平面性とか図案性をさらに推し進める結果となっています。逆に、平面的だからこそ細かなところまで描き込み易かったのかもしれません。おそらく、彼の画家としての資質が一段高い視点から空間全体を設計して、画面を構成するということよりも、画面を構成するパーツである細部から描き込んで結果として画面が出来上がるという行き方をしているように思われます。その現れとして、画面に描き方に部分による軽重があまりなく全体に誠実に手を抜くことなく描き込まれている、悪く言えばメリハリがあまりない、ということが言えます。 デッサンやドローイングを見れば分かりますが、細かなデッサン力というのが、この画家の得意なところで、強みでもあるもので、それを作品として生かして結実させる、また、全体を大掴みに把握するよりは細部を積み上げていく志向性に合致した画面の作りということで、平面的な画面というのがうまくマッチしたのではないか。 さらに第3の特徴として考えられるのが、バーン・ジョーンズは画家であると同時に、ステンドグラスの下絵デザインや装飾を描いたり、本の挿絵を描いていたということです。そこでは、装飾として用いられることから近代の絵画作品に共通する自己主張のようなものは抑制することになります。その結果が平面的な画面というのは短絡でしょうか。また、さらに、この時代に写真が普及し始めます。似たような機能を果たす絵画にとって写真は新たに出現した競争相手であったはずです。スピードやコスト、リアルな再現力で絵画は写真に勝てないため、写真とは違った特徴を強調することで、生き残りを図ったと思います。それは写真に出来ないこと、例えば、現実に無い幻想や歴史や物語の一部を描いたり、写実とは違う表現を行ったり、人物の内面まで抉るような精神性を追求したり、といろいろあったと思います。そこでの、バーン・ジョーンズの行き方は、写真と正面から対決せずに、写真の特徴であるコピー機能を取り込みながら、装飾的な図案化を施すことによって差別化を図るというものではなかったかと、思います。それが、彼の作品の急速な普及を後押しすることになったのではないか。結果的に、ベンヤミンのいう「複製技術時代の芸術」を絵画の要素として持ち込んだのではないか。 この場合、大量生産に進むことになるでしょう。そうなるとターゲットとなるのは大衆ということになるでしょうか。そのときに、人間の存在とか難しいことをいうよりも、描かれた人物が外形として美しく、しかもギリシャの理想などよりも分かり易いことが求められてくると思います。手っ取り早く言えば、複製可能となったことにより、大量生産が可能となる。そのターゲットとなるのは大衆のはずだが、大衆には各自が審美眼を育てる余裕などない。そこで分かり易い美しさが必要となってくる。その結果、理想とか、内面といったものを欠いた、表面的な見た目の美しさが歓迎されると、画家が意識しなくても、その傾向に添うようなものに傾いてくる。もともと、装飾的な志向があって、精神性とかそういうものとは近しくなかったことも、相乗効果として追求していくうちに、男性から見た女性の美しさを追求していくうちに、エロチックな要素が次第に盛り込まれる結果となったのではないか。もちろん、バーン・ジョーンズ自身にも、そういうものを好む傾向があったと思います。 それが、今回の展覧会での感想のまとめです。ちょっと、最後は駆け足になりましたが。 |