ラファエル前派の画家達
ローレンス・アルマ=タデマ
『テピダリウム』
 

 

 

テピダリウムとは古代ローマの公衆浴場にあった微温浴室のことで、床暖房システムの一種であるハイポコーストで熱を伝え、床や壁に接する部分から人体に熱がほどよく伝わるという仕組みでした。浴室を持たない古代ローマの一般市民は、皇帝が建設した公衆浴場を利用していました。そこでは、テピダリウムはその中心の大ホールとなっていて、そこから他のグループ化されたホールに出入りするようになっていました。入浴者はまずテピダリウムに入り、そこから高温浴室(カルダリウム)や冷室(フリギダリウム)へと向かったと考えられています。テピダリウムは大理石やモザイクで豪華に飾られていた。高窓から採光し、貴重な芸術品を飾っていました。

この作品は石鹸販売会社の宣伝目的で使用しようとして制作が依頼されたものだそうです。しかし、このヌード画像が挑発的でエロティックなために主たる購買者である女性顧客の反発を買うことをおそれて、使われることはなかったそうです。石鹸の宣伝という目的もあって、この作品の主な眼目は女性の肌の艶やかさにあると思います。そのため、小さなキャンバスで狭い空間のほぼいっぱいに女性の全身像を位置させています。そのために、女性が画面の前面に出てきて、見る者に親密感を与えるようになっています。実際のテビダリウムは写真のように広い空間で、同じ題材をあつかったフランス18世紀の画家シャセリオーの作品と比べて見ると、アルマ=タデマの画面の作り方が特徴的であることが分かります。そもそも、テビダリウムという場面設定は、古代ローマの公衆浴場の風景のためではなくて、温熱により温められてほんのり湿って上気した女性の肌を表わすためと、ローマ風の風呂の大理石の冷たさと対照させて女性の肌の柔らかく暖かい質感を強調するためであったのではないかと思われます。かつてハリウッド映画でセシル・B・デミルという映画監督が古代を舞台にしたスペクタクル史劇で、観客の興味をひくために、わざわざ、このような浴室のシーンを入れて女優のヌードの場面を入れたことを想い起こさせます。もともと、アルマ=タデマという画家は大理石の半透明の質と冷たい肌触りを表現することに関して定評の高かった人でした。一方、女性の素肌の美しさを引き出すために丁寧な絵筆のストロークによって均一なトーンを作り出し、バラ色の頬など明るい色を意識的に使用しています。しかし、その眼目は女性の肌を表わすことで、つまりは女性の裸の姿を表わすことで、それは身体の曲線と肌の質感を表わすことで、そこには、生身の肉体のリアルな息吹を感じることはできません。ここで女性は身体の垢を落としているはずなのでしょうが、動きが感じられないのです。そして、女性の顔の表情は描かれてしません。身体のほかの部分は丁寧に描かれているのに、顔の部分だけは、曖昧に表情が分からないようにぼかされているのです。この女性は、肉体と肌の美しさという外面の表面のようなもので、オブジェと同じです。人物としての存在感、あるいは内面のようなものは描くつもりないというものです。

画面に視線を戻しましょう。この作品が浴室であることは、画面に散りばめられた小道具類からもわかります。女性は動物の毛皮の上に寝そべり、大理石の床には朱色のアザレアが置いてあります。入浴している彼女は自らに右手にストリジルという垢すり(ブロンズから作られた曲がった刃の形をしたもので、肌に香水をいれた油をつけて、汚れとともにこすり落とすもの)を持ち、もう一方の手にはダチョウの羽の扇を持っています。その一方で、これらの小道具類は女性の肌に見る者の視線を集めるための工夫が凝らされています。女性が右手に持っているストリジルは、実際は一般的に男性か男性の付き添いのもと奴隷によって使われていたもので、そのため、これは意図的に少女の肌のなめらかさに注意を向けさせようというねらいが込められていると見ることもできるのです。また、そのストリジルは、あえて男根の形を連想させるように描かれ、まるで女性が淫らな気分でそれを見ているようにも見えます。一方、扇は彼女を涼ませるためではなくほんのちょっと陰部を隠すために使われている。さらに、アザレアは明らかに、女性の唇と乳首の色が引き立つバランスを考慮して、絵の構成に後から付け加えられています。

さて、石鹸の宣伝ということから女性の素肌の艶やかさを表わすというところから、裸体にして素肌をたっぷり見せるということに、その際に、見せるのは素肌なのだから、女性の体を即物的に扱うことに、そして、見る者の視線を集める工夫がエロティックな挑発に繋がっているというところにきました。そこで、この女性のポーズについて考えてみたいと思います。イタリアなど大陸の絵画の伝統的な裸婦像で女性が横たわる姿勢で典型的なのは、ティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」です。このポーズはゴヤの「裸のマハ」など、後世の画家たちも数多く、それに倣った作品を残しています。そこで、この作品ですが、明らかに「ウルビーノのヴィーナス」とは異質です。その最大の違いは、「ウルビーノのヴィーナス」は横たわっていても顔をこちらに向けて表情を見せているのに対して、この作品は、顔をこちらに向けず、表情が分からず、眠ったようにぼんやりしているということです。実は、19世紀後半、アルマ=タデマの同時期に活躍した、バーン=ジョーンズ、アンソニー・ムーアフレデリック・レイトンといった画家たちが眠った女性像をくり返し描いていたのです。そこには、それが男性芸術家の美学を如実に反映しているからと言えます。指導者としての男性性を強く求めた当時の社会において、男性としてのアイデンティティを確立するためには、他者である女性は受け身で無私の存在でなければならなかったというわけです。眠る女性は従順な女性性を象徴する姿です。受動的で無垢な女性が男性に自分の人生を委ねるという当時のイギリス社会の女性をシンボライズしたものだったといえます。それが裸でいるとなれば、男性の愛撫を待っている姿という想像に結びつくことになるわけです。

女性のヌードを描くということは、19世紀半ばのロイヤル・アカデミーでは受け入れ可能なものであるとは考えられていなかったようです。1860年代後半にレイトンやポインターなどといった作家が主導して古典復興が始まった頃でも、ヌードを描くためには、一般的に作品の組み立てに神話という口実がなくてはならないものだと考えられていました。タデマは、この「テビタリウム」のような作品が、その時代のイギリスの大衆に公開すれば非難の対象となる可能性があることを分かっていました。そのために、この絵画はロンドンで展示する前にパリのプライベート・ギャリーで展示されました。というのも、パリはロンドンよりも倫理水準が緩いとみられていて、このような猥らなイメージでも不快感を引き起こすことはありえなかったからです。この作品の全体の寸法が小さいことも、重要なことかもしれません。というのも、家族の誰もが近づけるような部屋のための調度品ではなく、むしろ紳士の喫煙室や書斎や更衣室にふさわしい高級家具として意図したのだろうと考えられるからです。

 
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