ラファエル前派兄弟団は、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ウィリアム・ホルマン・ハントそしてジョン・エヴァレット・ミレイという3人の美術アカデミーの学生が中心となって結成され、この3人はラファエル前派の中心メンバーでありました。しかし、徐々に3人の方向性の違いが大きくなっていき、ついに1853年にミレイが脱退し、ハントは中東への長期の旅にいってしまい、事実上ラファエル前派兄弟団は瓦解してしまいます。
一人残されたロセッティは水彩画を描きながら細々と活動を続けます。そのロセッティとも若い2人の画家、エドワード・バーン=ジョーンズとウィリアム・モリスが出会うことで、改めてラファエル前派が動き出すことになります。これを、当初のロセッティ、ハント、ミレイによる動きと区別するため、ここでは後期ラファエル前派と呼ぶことにします。そして、ここでは後期ラファエル前派の特徴を作品の様式の上で見ていきたいと思います。
この二つの動きをラファエル前派として同じひとつの括りにしてまとめてしまうには、かなり違いがあります。むしろ、別物と言っていいくらいで、両者に共通しているのは、メンバーとしてロセッティが関与しているという点くらいでしょうか。前期のラファエル前派は中心となる3人の画家たちが、ほぼ同格で互いに切磋琢磨したり協力したりしながら運動として進められたものでしたが、後期の場合はロセッティの下に他の2人が弟子のような形で随いていったというものでした(後に、バーン=ジョーンズは師を追い越していくことになりますが)。だから、後期ラファエル前派の様式的特徴はロセッティの特徴にほぼ重なると見てよいと思います。そこで、ここでは中心メンバーであり、後期ラファエル前派をリードしたロセッティに焦点をあてて特徴を見ていきたいと思います。
前期のラファエル前派は、若い画学生たちが転換期という時代の風潮に乗じて若さゆえの反抗心を動機にして、その動機が理念として一人歩きする形で、伝統的な権威に対するアンチ・テーゼを作品制作に反映させていったものでした。その様式的特徴は、伝統的権威のグランド・マナーの様式でないことを様式として取り入れものと概説することができるものでした。これに対して、後期ラファエル前派の場合は、リーダーであるロセッティはもはや若者という年齢を過ぎ、2人の若い画家の先導者とも師とも言える立場にあり、彼らにとっては権威でありました。ラファエル前派兄弟団を立ち上げた時のような、失うものは何もないという向こう見ずな立場では、もはやありませんでした。しかし、世間的にはミレイのようにアカデミーの会員に列せられたわけでもなく、人気作家として画壇の中心にいたわけでもない、一部の好事家に熱狂的な支持を受けていた周辺的な存在だったと言えます。この点は、権威への反抗とまでは行きませんが、画壇の中心の権威となるものに対して周辺の位置にあったという点では前期も後期も共通しているものと思います。後期に関しては、バーン=ジョーンズの晩年にヨーロッパの人気作家となり、アカデミーの会員となりますが、全体としては周辺的な位置で、現代の文化で言えば、画壇の権威からはサブ・カルチャーとかカウンター・カルチャーのように一段低く見られた存在にあったと思われます。これは、ちょうどフランスの印象派がアカデミーの権威からは蔑まれるように批判されたのと似たようなものだったと思います。そして、ラファエル前派の面々はそのことを自覚していて、むしろそれにより自らをアイデンテファイしていたと考えられます。
もともと、ロセッティという人は画家としての技量よりも、興味や思いが先行してしまうタイプだったと思われる節があります。多分、前期も後期もラファエル前派に理念先行の性格が強いのはロセッティの存在が大きく影響しているものと思います。その意味で、後期ラファエル前派の理念と思われるのは、周辺的存在であるという自覚ではないかと思います。つまり、中心的な権威に反抗するわけではないが、それに従うわけでもない。権威とは距離をおいて、伝統とは異なるものを追求して独自性を求めて行こうとする姿勢と言えるのではないかと思います。
(1)何をどうやろうとロセッティはロセッティ
様式的特徴を説明するには奇妙な見出しになっているが、上述のようにロセッティという人は画家としての技量においては、同じラファエル前派のミレイやハントに比べて、劣っていたと思われます。それは、おそらく本人の根気が続かない移り気な性格のゆえに、美術学校のデッサンから始まる基礎的な訓練に耐えられず途中で投げ出してしまったためと思います。そのため、彼は色々なことを試そうにも技量に限界があるので、十分な成果が表われてこなかったのではないかと思います。それは、ラファエル前派兄弟団を結成して以降、ミレイやハントは意欲的に作品を制作し、矢継ぎ早に発表していきますが、ロセッティは『聖母マリアの少女時代』の連作(左図)以外は大した作品を発表していません。むしろ、できなかったのではないか、と私は思います。そこで、理念として“ラファエル以前に”ということを高らかに謳い上げたものの、ろくに作品を発表することができなかった。ロセッティという人は恋愛スキャンダルを何度も引き起こすような、言ってみれば情熱的な人で、おそらく感情のふり幅が大きい人だったのではないかと思われます。そのような人が、同僚が先を越すようにどんどん作品を発表していくのを冷静に眺めていることに耐えられるでしょうか。そこに強い感情が生まれ、ミレイやハントとの間に感情の亀裂が生まれたと考えても、あながち不自然とは思えません。
このとき、ロセッテイは油絵から水彩画に重点を移し、彼の近くに集まってきた少数の熱心なファンに向けて、限定販売のような形で描いていたと言います。カルト・サークルのようなものでしょうか。油絵と違って水彩はさっと描けてしまうもので、油絵のような入念な仕上げまでは求められません。ロセッティは、そこに自分の道を見出したのではないかと思うのです。それは、初期ラファエル前派のとくにミレイやハントが追求したような自然を忠実に写すということを実践しているうちに、それが絵画の方法論となって、その方法が新たな作品世界を開いていくということではなく、ロセッテイはそこまで方法を突き詰めるだけの技術がなかったのと、彼自身思い入れが強く、方法が作品に対する考え方にフィードバックしてきて自身の考えがその影響で変化していく、ということがなかったのではないかと、私は思います。そこで、絵画に対する考え方、つまり姿勢と、絵画を描く方法論の関係が、ミレイやハントの場合と違って、ロセッテイの場合は、あくまでも考え方が基本として大きく存在していて、方法論はそれを実現するための手段という程度のものでしかなかったのではないか、と思います。だから、ロセッティにおいては絵を描くときの様式的特徴というのは、言ってみれば小手先の変化程度のもの、極端なことをいえぱ装飾のようなものだったのではないか、と思います。そして、ロセッティだけにとどまらず、彼と共に後期のラファエル前派を担ったバーン=ジョーンズも、その点では師匠の格であるロセッティに倣ったように思います。
この後では、その小手先の操作のようで方法論とまで言えない、スタイルと言った方が適しているような様式的な特徴を、個別に見ていきたいと思います。