ラファエル前派、それもミレイやハントがロセッティとラファエル前派兄弟団を結成したころの作品の様式的特徴を考えてみたいと思います。それも、私がラファエル前派の特徴的な姿勢と考えている「反抗」ということをキーワードにして、そういうことが出てくるのが、彼らの理論から入るような観念的な傾向がベースになっていると私は考えています。そのため、ここでラファエル前派の様式的特徴として述べていくに際して、まず理論的な考えとか観念があって、それを実作に反映させるために特徴的な描き方をしているという筋道で展開させていこうと思います。しかも、その理論的な考えは既存の権威に対する反抗から導き出されてきているものと言うことができるのです。
ラファエル前派の画家たちが既存の権威をどのように批判したのかは、別のところで説明しましたが、手短に言えば、決まりきった題材を決まりきったやり方で描く、新鮮味のない、生き生きとしたものを失い形骸化しているという批判です。このような主張がでてくる、そもそもの考え方として、彼らは、次の2点を主張します。一つは、形骸化してしまった方式に捉われずに目の前にあるものを、見たままに描くということです。そして、もう一つについては、彼らの時代の権威ある絵画は、それを成り立たせている社会状況があるわけで、ラファエル前派の画家たちは、当時の社会批判の思潮に乗って、彼ら自身が生きている絵画の世界で異議申し立てを行った、という事情もあるわけです。このとき、現実に対して異議申し立てをするということは、現実の社会ではない、あるべき社会と比べて、そのようにはなっていないとして批判しているわけです。つまり、現実を肯定できないということは、そうできない何らかの物差しがあるはずで、それがあるべき社会ということになるわけです。そのときの物差しとしてのあるべき社会というのを、代表的な論客たちは復古的な、今はもうなくなってしまった過去の社会を取り上げます。美化された過去というわけです。また、ラディカルという言葉は過激と言う意味もありますが、このほかに根源的という意味もあります。今の社会の始まりである過去に遡ることで原点に立ち返って批判を試みるという経路もあった事でしょう。ラファエル前派の画家たちも絵画の世界で、これを真似たと言えます。つまり、形骸化した様式に汚染されてしまう前の過去の時代を美化し、その時代の絵画に範を取ろうとしたのです。そこでは、目の前の現実を、ある理念をもって見るということになります。それは従来の画家の眼というよりは思想家の眼というものに近寄ったものだったと思います。しかし、今あげた2点の主張は、明らかに相互に矛盾しています。目の前のものを見たままに描くということと、目の前のものを見るのにある理念をもって見ることとは繋がりません。ある理念で見るということは、ありのままにみるということと正反対のことです。ラファエル前派を擁護し。理論的裏付けを与えた批評家ラスキンは著作の中で次のように書いています。「細部は偉大な目的に関係している。神の作品の最も細かいもの、もっとも小さいものの中に存在する、計り知れない美のために(自然は)探求されなければならない」つまり、従来の絵画は様式によって神の計り知れない叡知を秘めた自然の真実を歪曲している。その様式を取り払い、つまりはその様式が出来上がる前の絵画では歪曲されなかったということになるわけです。そこで、あるがままに描くということと、復古的な絵画に範をとるということが繋がってきます。このような思考の進め方は、ある事実があると、それに矛盾する事実を対置させ、それらの関係から総合的な事実を導いてくる、弁証法という論証の進め方に極めて近いと言えます。ラファエル前派の姿勢には、二極化ともいえる対立的要素を一緒くたに含み込む傾向があり、その矛盾を矛盾としてではなく、綜合として作品に結実させていくところが確かにあるのです。
さて、このような2つの議論を踏まえて、実際にラファエル前派の絵画に様式としてどのように表われているかを見ていきたいと思います。
(1)15世紀イタリア・ルネサンスやフランドル絵画手法の再評価
ラファエル前派の画家たちが、ラファエロなどの盛期ルネサンスに範をとった伝統的な絵画を批判したときに、見出したのが稚拙と見なされていた初期ルネサンスの画家たちでした。ラファエロなどのように遠近法や明暗法が確立されておらず、画面全体の空間構成のバランスも十分に考えられていると思えない作品は、逆に新鮮に見えたのではないでしょうか。彼らから見れば、ラファエロのような精錬された完成度の高い作品は、近代的な工場で生産されたスマートな工業製品になぞらえ、これに対して初期ルネサンスの作品は、人間がひとつひとつ手作りでつくった素朴な工芸品の感触で見えたのではないかと思います。そこには、現代では失われた敬虔な信仰が息づいていた。例えば、初期ルネサンス絵画の細密な描写や生硬なところの残る直截的な画面構成は、未だ合理的な透視図法や明暗法によるイリュージョニズムが完全なものとなっていなくて、絵画を視覚上効果的に構成する作為がないから、好ましいとされていたと言います。
これにより、彼らの描くものは奥行を欠いた平面的な画面になっていきました。画面の中に空間を形作り、そこに人物や諸々を配するというより、子どものお絵かきのように描きたい人物や諸々を画面の上に並べて、そのバックに背景があるという体裁になっていきます。その場合、描きたい人物やもろもろが前面に出て、それらの自身に存在感がないといけないので(空間のしかるべき位置に配置されているわけではないので、居場所がないことになります)、どうしてもそれらは描き込みがなされ、そうなると細かく描かれる、つまりはそこたけ細密になっていくことになるのです。そして、そのものの存在に意味づけが行われていきました。それは、実生活で言えば近代社会の人間は、世俗化した代わりに国家とか社会とか会社とか家族とか様々な位置があてがわれて、そこにいるだけで名誉とか収入などを受けられるたりすることになっています。しかし、それは位置であって、その人でなければいけないということはなく、別の人がその位置にあっても同じように受けられるわけです。これに対して、近代以前の人々は社会的な位置は固まっていないけれど、篤い信仰により、それぞれが神と向き合っていたわけで、それぞれが唯一無二でなければならなかった。そこでは人の取り替えなど思いもよらないで、人が神と向き合い、一つの人格として存在していた、ということになるでしょうか。それが絵画に反映されれば、ラファエロの宗教画は描かれているのがキリストでなくても何となく神々しい舞台になっているのです。しかし、キリストは背景とか、空間はさておいて、それ自体キリストであってこそ神々しいのです。ラファエル前派の画家たちが初期ルネサンスの作品から読み取ったのはそういうことではないかと思います。それは、例えば、ミレイの『イサペラ』という作品に見ることができます。これは、キーツの詩に基づく一場面で、14世紀のフィレンツェの商人の邸での食事の場面です。しかし、ここが裕福な商人の食堂に見えるでしょうか、狭苦しい、まるで空間になっていないので映像としてのリアリティが感じられません。こんな言い方は写真のような光学的な遠近のイリュージョンに染まっているからだ、とラファエル前派に言われてしまいそうです。この場面、奥行の浅い空間で、食卓につく家人たちは輪郭線を強調した横顔で描かれています。手前の5人の間では緊張感あふれる心理的な駆け引きが行われているのです。この家の娘のイサベラは隣に座る巡礼者ロレンツォと愛し合っていますが、彼女の兄たちはイサベラを金持ちと結婚させるため、ロレンツォの殺害を計画しているのです。画面左手前の兄の、足で犬を蹴る仕草や、その背後の白い羽を弄ぶ鷹は残忍さを、イサベラがロレンツォから受け取る赤いオレンジやイサベラの上のパッション・フラワーは恋人たちの悲劇的な未来を予兆しています。兄たちはロレンツォを森で殺害して埋めてしまいますが、イザベラは夢でみたロレンツォの訴えから死体を見つけ出し、頭部をバジルの鉢に隠し、その死を悼みます。ここで描かれた、画面に展開する心理劇は、それぞれの登場人物の存在を際立たせ、細密に描かれた小さな部分には数々の意味が込められていることを暗示しています。
(2)特異な写実主義
しかし、ラファエル前派の絵画は初期ルネサンス絵画ではありません。
『イザベラ』を見ておわかりの通り、画面全体に奥行がなく平面的であっても、画面中の個々の人物には肉体の厚みが感じられ、個々のモチーフは細密な写実的描写で表わされています。そこにラファエル前派の特徴が表われています。
ラファエル前派が当時の権威である絵画様式に反抗を唱えたまではいいとして、それに代わるものとして初期ルネサンスの絵画様式を見出しました。と言っても、それでは彼らが見出した初期ルネサンス様式そのままに、なぞるように絵画を描いたとしたら彼らが反抗した権威と基本的には変わらないものになってしまいます。単にまとう衣装がかわっただけで中身の衣装を着る人間は一緒ということです。そこで、彼らは一旦様式という尺度をできる限り投げ捨てて、目の前の自然を直接描こうとしました。その時に、彼らの考えを言語化してくれたのがラスキンでした。ラスキンは、無垢な目で自然を見るためには、自ら自然の中に赴き「そこから何も選ばず、何も拒まず、何も蔑むことなく」謙虚に自然を写し取るという、ということを推奨しました。ラファエル前派の画家たちは、これを忠実に行おうとしたのでした。
従って、ラファエル前派の画家たちは自然は自然光の下でということで屋外スケッチに出たり、目前の花や草を博物学的な精確性をもって細密に描きました。そして、このことは、かなり特徴的な個性として、結果として彼らの絵画を際立たせることになったのではないかと思います。例えば、ハントの『ドルイド僧の迫害からキリスト教伝道師をかくまう改宗したブリトン人の家族』(直上)という作品です。全体として、屋外の光景のはずなのに室内のように見え、しかも狭苦しいほど空間というものがありません。しかし、画面右側手前の草の葉など、一枚ずつ葉の繊維がみえるほど細かく描かれているかのようです。しかし、実際に、私たちは庭で花を見ると言う時に、植物学の観察をするように細かく見るでしょうか。花の美しさを愛でるとかいう場合には、実際には一つ一つの花を観察するというよりは、花咲く風景全体をぼんやりと見ている、というものではないでしょうか。だから、ラファエル前派の細密な描写にリアリティを感じるとは、別の印象、かえって現実離れの印象を与えてしまうことになるのです。また、木を見て森を見ないといいますが、普通、私たちは空間という環境のなかにいて、その中で花や草を見ています。そして、花に注目すれば、あたかも映画でいうクローズアップするように、空間の他のものへの注意を減らし、花に注意を集めます。その時に遠近などの関係が影響します。そのような情報処理をしたものを実際「見る」という行為に含ませているわけです。だから、私たちが自然とかリアルと感じるのは、そのような情報処理を済ませたものに似ている画像に対してと言えるのではないでしょうか。しかし、ラファエル前派の描くのは、そういう情報処理を施さない素の情報にあえて近いものを提示しようとしたと言えるのではないでしょうか。
だから、ラファエル前派の、このような様式的な特徴は人為的な、理念的なものに起因しているということができると思います。それは、彼らの作品を前にした時に、明確に言葉にはならないのですが、何となくリアルというよりは幻想的なものとして見てしまう、ということに通じると思います。ラファエル前派が風景画や人物肖像、あるいは静物画そのものを、あまり作品としてのこさず、その多くは物語や伝説を扱ったのは、そういう彼らの画面に適っていたといえると思います。
(3)特徴的な様式による効果〜ある視点
ここまで、見てきたラファエル前派の作品に見られる際立った特徴は、自然の事物を見たままに細密に描写していることと、透視画法による遠近や奥行の表現が確立される以前の初期ルネサンス絵画のような平面的な画面構成になっていたということです。これらの結果として、作品を見る人々が感じ取る効果という点で、ラファエル前派に特徴的なものがあると思います。それは、次のようなことです。(2)特異な写実主義のところで触れましたが、目の前にあるものを片端から細密に写しとるということは、絵を見る人にとっては必ずしもリアルなものに感じられるとは限りません。それは、自然な奥行きのある空間を二次元に置き直して見るという時の操作を施して、人はものを見ているからです。ラファエル前派の試みは、そのような操作を取り払ったところを画面に定着させようとする試みとも言えます。例えば、ロセッティの『聖母マリアの少女時代』という作品を見てみると、画面の中央に百合の花が描かれています。また、その右手(奥)には草の絡まった十字に組んだ棒があります。これを遠近法の様式で描くとすれば、立方体の空間の中で百合の花が手前にあって、空間を隔てて奥に十字架が描かれるでしょう。そのときに、間の空気の処理や人間の視線のあり方に伴って十字架は少し小さく、そして少しぼんやりされられるかもしれません。そういう操作により、見る人は室内の風景としてリアルを感じると思います。しかし、それでは、ここにあるような百合の花のすぐ隣に十字架があるという象徴的な、意味ありげな効果はなくなってしまいます。ここでは、遠近法による空間のリアルを喪わせる代わりに、モティーフに現実とことなる関連を持たせて、象徴的な意味が生まれてくる効果を作っています。この効果を生み出しているのは、もっていえば、百合の花や十字架が背景との関係、つまりは空間にはまった位置づけという存在ではなくて、ひとつひとつが背景から浮いているように単独で存在を主張しているのです。だから、何らかの意味を込めて百合の花や十字架を描いても、それが空間の中に埋没してしまうのではなく、それぞれが浮き上がっている。だから、それを見る人はそのモティーフに注意をすることができるのです。
そしてまた、ラファエル前派の写実は、人物表現に関しても、特定のモデルをおいて、その人を写生することに徹しました。だから、この『聖母マリアの少女時代』についても、ここで描かれている人物はモデルとなった人を特定できてしまうのです。ここの人物たちは実際の人間を写しているのです。だから、従来の伝統的な歴史画や宗教画で描かれていた理想としての人物像とは違うわけです。この作品に限らず、ミレイの宗教画もそうなのですが、描かれている人物たちが、神々しいというよりも、実際の生活で、すぐ隣にいる身近な人のような表情や仕草で、ひとそれぞれの個性を備えた人として描かれているのです。そのために、見る人は、少女時代の聖母マリアを見るというよりは、自分の娘とか、近所の可愛らしい少女といった身近な存在をみるかのように、親しみをこめて、もっと言えば感情移入して見ることができることになります。
だから、この『聖母マリアの少女時代』では百合の花やその他の画面に散りばめられたモチーフの象徴性に注意を引かれ、中心のマリアという少女の姿に感情移入できることで、マリアという存在とその後の聖母という運命を、まるで自分の身近なことのように切実に感じることができることになるわけです。それは、あくまでも外面的な写生に努めながら、結果として精神的な内面に強く訴えかける作品を作り出しているのです。
これは、言ってみれば「反抗」という言葉での理念からスタートし、それを実際に絵画作品に描かれたときには、人が「見る」絵画ということから、見ることを媒介にして象徴的意味を「読む」ということに、そしてさらに作品に感情移入することにより「共感する」という結果に至るもになった、ということができると思います。つまり、「見る」という媒介をここで取り払えば、理念を理解し、共感するというコミュニケーションが見事に成立していることが分かります。これがラファエル前派の作品のあらわれた様式的な特徴です。
(4)様式の現実化〜素材と技法
これまで、ラファエル前派の作品の様式を、画家たちの思想あるいは理念の反映として見てきました。こんどは、実際の作品において、画家たちがその様式を現実化させるためにどのようなことをしたのか、つまり、ラファエル前派に特徴的な技法や、それ伴う絵の具やキャンヴァスといった素材も含めて見ていきたいと思います。
最初に、ラファエル前派は伝統的な権威ある絵画を批判して出てきたわけですから、彼らは伝統的な技法も批判の対象としました。それは、彼らが学んだロイヤル・アカデミー美術学校のカリキュラムで教えられていた伝統的でアカデミックな画法でした。例えば、土色(褐色を含む黒っぽい色)の下塗りをキャンバスに施して構図の中での暗い部分の位置取りを定める「デッド・カラーリング」。画面上で明暗を大まかに按配し、絵の中の主要な部分と副次的に部分を区別する「キアスクーロ」。そして、質感を表現する「ファクチャー」の技法。その他、明瞭な筆跡、色調を融合させて画面上に異質な要素を入れ込むこと、などです。
では、そのような批判をしたラファエル前派の画家たちは、アカデミックな画法が確立されたルネサンスの以前にさかのぼり範を求めました。例えば、15世紀のイタリアやフランドルで盛んに描かれたテンペラ画に見られる透明感のある滑らかな色彩や中世彩飾写本に用いられた細密画の手法などで、そこからラファエル前派の画家たちは明瞭な輪郭、純粋で混じり気のない色彩の使用、画面全体に行き渡る豊かなディテールを特徴としながら、驚くほど視覚的な独創性と効果に富む作品を創りあげてゆくことになります。そのために彼らが用いた技法を、これから、並べていこうと思います。
まず、ラファエル前派の画家たちはアカデミックな方法の「デッド・カラーリング」を批判しました。その代わりに彼らは白の下塗りを施すことによって色彩を引き立てようとしました。しかも、その際の白の下塗りにおいて亜鉛白を油に混ぜて塗った層を一層追加しました。それまで使われていた鉛白は時間の経過に伴い黄変するのに対して、亜鉛白はやや青みがかった、より鮮烈な白となります。鉛白の柔らかな風合いはありませんが、この亜鉛白に重ねていく絵の具の層を透明に保てば。この下地の鮮やかな白が、彩色の鮮やかさを際立たせることができます。それに加えてキャンバスの素材にも、彼らはこだわりました。すなわち、織り目が細かく表面の滑らかな素材、実際のところハイ・ホウボーン街のロバートソンやブラウンといったところで品質の高いキャンバスを購入していました。これにより、パネルのような滑らかな表面と、下塗りを施した白が一層際立つことになりました。
一方、このような下地により鮮やかな彩色が一層映えて、ラファエル前派の画家たちの色彩は公開の展覧会で劇的な効果をあげ、目障りなほどくどい色合いが周囲の作品をことごとく「殺してしまう」と非難されたほどです。そのための技法として、彼らは白の下塗りを施したカンヴァスに黒鉛筆でじかに構図のあらましを描き、主に単色の絵の具をモザイク状に薄く塗りつけていき、グレーズ(透明な薄塗り)も施さず、また仕上げも最小限にとどめるようにしました。この手法は、厚いとはいえ透明な絵の具の層を通して下地が見えるため、底光りする印象を強く与えることとなります。彼らは、絵の具を塗るのに、油彩画に通常用いられるリスやブタ毛ではなく、水彩用のクロテンの筆を用いました。いわば、水彩画の技法の模倣です。水彩の技法の模倣はこれにとどまらず、白の下地をところどころそのままに残したり、なにかしらの形象を表すのに利用するところにも認められます。その好例がハントの「プロテュースの手からシルヴィアを救い出すヴァレンタイン」の遠景に見える白馬の表現です。また、彼らは、細かな筆使いのハッチング(線で陰影をつける)で肉体を描写する細密画の技法も用いています。とりわけハッチングに秀でていたのがミレイで「釈放令、1746年」の登場人物の表現に、そのあらわれを見ることができます。ミレイはこの作品で筆跡の角度を工夫し、男性のキルトと子供のタータンタェックのスモックのツイル織りを表現しています。
そして、ラファエル前派の画家たちは、彩色において用いる色もこだわっていました。例えば、旧来のローズマダー(薄桃色)やウルトラマリン、ガンボジ(雌黄色)に加え、比較的新しいエメラレド・グリーンやコバルト・ブルーなどの透明な顔料を好んで用いていました。彼らは、そうした色を用いる際に、色の調子を画面全体で統一しようとしました。そのため絵の具を混ぜるのに、白い下地に似た白磁器のパレットを用いることもありました。顔料のつなぎには、薄めた油ではなく天然樹脂を主成分とする展色剤を用いました。耐久性に優れた高級ワニスの原料となる天然樹脂は乾くとより艶やかで、一度塗るだけで、厚い層ができるため、一層でステンドグラスのような強烈な彩りの彩色が可能となるからです。
彩色を鮮やかにするために、ラファエル前派の画家たちが新たに開発した技法が、乾き切らない地のあちこちに透明感のある色を塗り、輝きを増す描き方です。この技法はハントとミレイが陽光の効果のために最初用いたもので、これによって線描に頼る初期作品の枠を越えて、描き直したい部分はこそげ落とし、輝きを失うことなく塗り直すことができるようになりました。ハントは回想録の中で、「プロテュースの手からシルヴィアを救い出すヴァレンタイン」のヴァレンタインとプロテュースの頭部の描き方に関連してこの技法を詳しく説明しています。それによると、まず始めに一日の仕事分の漆喰を塗布し、それが乾く前に顔料をのせてゆくという、フレスコ画の場合とよく似た技法です。純粋な色彩を素早く均一に塗布しながらフォルムを溶解させようとする印象派とは異なり、ラファエル前派は緩やかな筆致で、光の当たった部分と奥まった陰の部分の両方に同等の重きを置きながらフォルムを作っていきました。ジグソーパズルのように部分ごとを区切って全体の構造を仕上げていく、この技法は、絵の具に湿った白の地が混じってパステル調になってしまったり、ほこりがついて汚れで濁って見えたりする危険を伴うものでした。ブラウンが「ミレイのいい加減なそそのかし」に乗せられて、「ペテロの足を洗うキリスト」の主要な人物とキリストが跪く下にある真紅の布をこのやり方で描いたのはその一例で、これらの部分は絵の具のムラが目立って上出来とは言い難いものとなってしまいました。ただし危険はあっても、うまくいけば素晴らしい効果が得られるのも事実で、たとえば「プロテュースの手からシルヴィアを救い出すヴァレンタイン」のほつれた髪に射す陽光や赤い照り返しなどは、その成功例に挙げられます。
このような下地を湿らせたまま描く技法では、一度に仕上げられる仕事の量がどうしても限定されることになりますが、白い下塗りが視覚に及ぼす作用を最大限にまで高められるのは大きな利点です。描写された個々の事物が定まった固有色を保持するのではなく、様々に彩られた部分が画面上に隣り合わせに配され、少しはなれたところから見ると網膜上で一つに溶け合って見えます。例えば、ハントの「我らが英国の海岸」では羊の毛を描くのに青とライラック色をオレンジと黄色の隣に配して補色関係を利用し、母子の顔に藤色の影のかかるブラウンの「メエメエ子羊さん」では、非の当たった部分はまさしく陽光で漂泊されているかのようです。この作品でブラウンは、母親の開いた口の中のエメラルド・グリーンの上塗りと、唇の頬のあかね色を対比させる型破りな方法で、残像を錯覚させようとしました。この目覚しい対照は、よほど間近に寄って見ないかぎり目につきません。離れて見れば、自然で正しい色使いのように見えるのです。
1850年代に入ると、各々の画家たちが独自の道を歩み始め、それに伴い彼らが個々に自身の技法を追求していき、その結果として初期のラファエル前派の枠を越えて、むしろ、そこから離れていくことになりました。