ラファエル前派の画家達
ウィリアム・ホルマン・ハント
『ドルイド僧の迫害からキリスト教伝道師をかくまう改宗したブリトン人の家族』
 

 

ハントはラファエル前派の画家たちの中でも宗教的な傾向の強かった人で、この作品ではパウロやペテロらの使徒たちが生きていた紀元一世紀ごろの初期キリスト教時代のイギリスに場面を設定し、当時の土着の宗教であるドルイド教の僧からの迫害を受けるキリスト教伝道師の姿を描いたものです。

作品の額縁の聖書からの引用が記されており、そこにハントの制作意図を推し量ることができると思われます。まず、上部には「あなたがたを殺す者がみな、それによって自分たちは神に仕えているのだと思うときが来るであろう」(ヨハネ福音書]Y・2)と「彼らの足は、血を流すのに速く」(ローマ人への手紙V・15)の二つの章句が記されています。これらの章句は画面上部遠景や小屋の隙間から見えるのが、当時のイギリスで宗教的のみならず社会的にも権力の中枢にあったドルイド僧が群集を扇動しキリスト教宣教師を捕らえようとしている様子、つまりは異教徒によるキリスト教徒迫害であることに対応しています。これに対して額の下部には「だれでもキリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よくいっておくが、決してその報いからもれることはないであろう」(マルコ福音書\・41)と「旅人であったときに宿を貸し」(マタイ福音書]]X・35)の二つの章句が記されています。画面前景の中央、追っ手から逃れキリスト教改宗者の家族に小屋の中でかくまわれ、息も絶え絶えの伝道師はキリストのイメージが重ねられているということができるのです。ブリトン人の婦人に傷ついた身体を支えられている伝道師は、十字架から降ろされたキリストの姿、つまり婦人と伝道師はピエタのイメージをそのまま連想させるものです。このピエタ、つまりは哀れみということが、この作品実は隠されたテーマとして底流にあるのですが、それは後述します。この伝道師の赤い上衣はキリストの受難の暗示でもあります。また、その伝道師の右で海綿に水を含ませている少女は、まさに引用の章句の行為に該当するわけですが、磔刑の際にキリストが最期に海綿に含ませた葡萄酒を口にしたことを暗示するものです。そして、伝道師の足下では、別の少女が足に絡みついた茨を取り去ろうとしていますが、これもキリストの受難を暗示したものです。

このほかにも、画面中央上端の藁葺き屋根には、よく見ると二羽の雀が描かれています。これはキリストが、使徒たちがやがて受ける迫害を予言したマタイ福音書の「二羽のすすめは1アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も落ちることはない。(中略)それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりもまさった者である」(]・29-31)に対応しているものと考えられます。神は雀のように卑しいものにも救いの手を差し伸べるということなのです。このようなことから、このブリトン人の小屋は、質素なつくりではありますが、教会堂の内部、キリスト教の礼拝空間にほかならず、この絵を見る者は西から東端の祭室を眺めていることになるのです。伝道師の背後には天蓋を想像させる4本の木柱に囲まれた空間があります。しかも、その奥に置かれた石版には赤い十字架が刻まれています。祭壇を連想させるこの空間には天井からランプが吊り下げられています。そしてまた、この事実は、画面右の小屋の戸口に漁網が掛けられていることからも明らかです。つまり、漁網はこのブリトン人の家族がキリスト教改宗者であること(ドルイド教は魚を神聖視し、捕ることを禁じていたから)を示すと同時に、この小屋が人々の魂を漁る網、すなわちキリスト教会であることを暗示していると考えられます。小屋(内陣)に流れ込む小川によって先例の秘蹟が強調され、さらに小屋の屋根を這う葡萄と画面の右端の麦畑が、聖体の葡萄酒とパンを暗示し、小屋の左端では聖体拝受に備えて男と少年が葡萄を搾っています。

さて、注目すべきは画面右手後方に、分かりにくいかもしれませんが、描かれている、今まさに異教徒によって捕らえられようとしている伝道師の姿です。この伝道師の右足の描写に注目すると、彼が意図的に小屋から離れた方向へ逃げようとしていることが示唆されています。この伝道師は一瞬、小屋の方向を振り返っています。その視線の先に彼は、小屋に身を隠しながら、外の様子を恐る恐る窺う青年を確認したに違いありません。ちなみに、この青年については絵を見る人は背中しか見ることができません。この伝道師は、改宗者であるブリトン人家族と他の伝道師の命を助けるために逃げおおせるはずのない孤独な逃避行を決意したに違いありません。つまり、キリストを暗示する伝道師はブリトン人改宗者たちにかくまわれた(贖われた)のであるわけですが、そのブリトン人改宗者たちも、この今まさに捕らえられようとしている伝道師の行為によってかくまわれ(贖われ)ていることになるわけです。

この描写は、ピエタに象徴されるあわれみということが、人間が他者に示すことのできるあわれみの行為の究極が自己犠牲をともなう行為に行き着くこと。この作品では画面右手後方の伝道師の自らの生命を投げ出して改宗者一家と他の伝道師の生命を贖おうとする姿に表現されていると言えます。

そして、さらに象徴的に暗示されているイエス・キリストこそすべてを贖うために十字架にかけられる存在であり、画面の中心でその姿を暗示しています。ここに、ハントの宗教的な行為が、良心とか倫理とかいったもの以前の義務として捉える姿勢がつよく反映されているといえるのではないか、と思われます。

 
ラファエル前派私論トップへ戻る