ラファエル前派の画家達 エドワード・バーン=ジョーンズ『深海』 |
描かれている場面は海底です。女性の人魚が裸体の男性を抱きかかえています。男性の目は閉じられ、人魚は伏目がちに画面のこちらを見ています。人形に体を預けるように弓なりになった男性からは泡が立ち上り、その右上では一群の小魚が身を翻しています。背景には古代遺跡のような人工的な石組みの柱と梁があります。一見では、人魚と若い男性が水中に漂っているように見えますが、画面には運動を暗示する多くの細部があります。男性の頭部や体から上る泡は、彼が今まさに水の中に引き込まれたことを示しています。人魚の髪や不自然なまでに硬直した下半身、とくに下を向く腹鰭からも、2人が海底に向かって急降下したことが分かります。それと同時に人魚の上を向いた尾鰭は、海底にぶつかる前に降下を急に止めたことを示してします。小魚が驚いて身を翻す様子は、この場面の一瞬を切り取ったことを明かにしています。 この一瞬とは、今まさに破滅しようとしている瞬間です。それを沈黙と静止の場面にして描いているのは「眠り姫」や「アヴァロンのアーサー王の眠り」と共通しているところです。その共通点というのは極めて重大な事件の起こる間際の人間です。しかも、これが性体験の含みがあると思われます。この「深海」では、この一瞬というのがセックスの直前の状態であると言えると思います。犠牲者たちは純潔の状態ではなく、迫り来る出来事に気づくその瞬間、つまり、そこに暴力的なものの含みがあると言えます。人魚は男性の体に抱きつくようにしがみついていて、彼の胴体の周りの彼女の腕の致命的な握りは、彼の肩の周りの彼女の髪の蛇のようなねじれによって補強されています。そして二つの体はとても密接に絡み合っているのでそれらはほとんど一体化したように見える。一方男性は、手足を縛られたように、両手は胴に貼り付くようになり、両足はしっかりと圧迫されているように開くことなく足先まで揃えられています。まるで人魚の尾鰭に倣っているかのようです。また、暴力的というのは、男性は明らかに人魚の支配下にあって、人魚の表情には笑みが浮かんでいることから、そこには男性を獲得したこと、支配していることの満足といったことが表われていると思います。 そのために、人魚は半人半魚だけではなく、太い胴体、そして逞しい筋肉を持った彼女はまた、半男性、半女性のように見えます。その顔についても、この作品がロイヤル・アカデミーに出品された時に批評家が“ほとんどレオナルド・ダ=ヴィンチに匹敵する…人間的とも悪魔的ともいえない勝利の表情”と述べたということですが、それはレオナルドの「聖ヨハネ」でも「モナ=リザ」でもそうですが男性とも女性とも見ることができる、いわば両性具有のようなところが妖しい悪魔的な雰囲気を作り出していますが、この人魚の顔にも、それと似たようなところがある、と思います。これに対して、男性の裸体はミケランジェロの人物像の影響が明らかです。実際、この作品の男性の形態はシスティナ大聖堂の「天地創造」の天井画の中の「大洪水」の一部で青年を抱き上げている壮年の男の形態とそっくりです。この天井画の人物の浮遊や夢想のイメージが、ここでも生かされて、人魚に抱かれた男性が目を閉じて意識のない状態であることから精神や理性の眠りを暗示していると言えると思います。 しかし、この作品の場面が深海の海底であることにも意味があると思います。それは、この作品の画面は人魚と男性が前景にあって、キャンバスに詰め込まれているかのように、後景には余白が少なくて窮屈に感じがします。それは、海底に閉じ込められたような印象で、背景の石柱や梁によってつくられた長方形が、さらに枠のように見えてきます。そして海底の砂は画面に向かって傾斜しているように見え、深さではなく圧縮を示唆しているように見えます。画面の右上にある泡の流れや魚の群れでさえも逃げ出すのに苦労しているように見えます。そういうことから、この絵画はまた得られないという感覚を染み込ませます。:2つの裸の体が絡み合う形態は性的な示唆が含まれているのは、前に述べたとおりですが、性行為自体は物理的に不可能です。人魚は人間の交尾が物理的に不可能な場合があります。そして男性は拘束されているようなポーズで無力であることを暗示しています。つまり、この画面は性的な示唆はあるものの、しかし性行為は達成されないのです。それは、「眠り姫」の連作にも共通していることですが、当時の男性の女性に対する矛盾した姿勢が表われていると言えます。それは性行為を求めている一方で、それに対する恐れもあるという態度です。それは、女性に対して性行為の対象として求めながら、無垢で純粋であることも求めているということです。 ところで、この作品の題材となっている人魚というものは、今までに述べてきたことから海底という場所とか、両性具有の悪魔的な存在という条件に叶ったものとして、選択されたものであると思いますが。それは結果としてそうなったというものだろうと思います。この作品が制作された19世紀の後半では、人魚を題材として採り上げた作品が少なくなかったことからです。人魚は、魚の半身という奇怪なイメージと船乗りや漁師を破滅に導く誘惑のポーズとを、繰り返し与えることによって、世紀末のファム・ファタールの系譜に見事に合致したからです。例えば、ロセッティ、レイトン、リケッツ、ペイトン、ウォーターハウス、ポインターらが実際に人魚とその誘惑のイメージを作品化しています。そういう作品のひとつとして、バーン=ジョーンズは「深海」を制作したのでしょうが、むしろ、彼の「眠り姫」の連作や「ピグマリオンと彫像」などに共通して表われている方に引き寄せられた作品になっている点で、他の画家の作品とは一線を画していると思います。 |