ラファエル前派の画家達
エドワード・バーン=ジョーンズ
『眠り姫』の連作
 

 

一人の王子が、生い茂った野いばらに閉ざされた宮廷に分け入って、100年もの長い眠りに陥ることを運命づけられた美しい姫を見つけ、口づけをした途端、魔法が解けて宮廷が眠りから目覚めるというのは、浩瀚な「眠り姫」伝説で、グリム童話やシャルル・ベローでも取り上げられていたものです。もともと、ヨーロッパの伝統的な『眠り姫』は男女それぞれの成熟の物語と言えます。王女は魔法によって深い眠りに入り性的成熟を待つわけです。一方、王子はいばらの茂みをくぐり抜けて王女を救出することで、一人前の男となるのです。このように、主体的な行動力を学んだ男性と受動的な忍耐力を学んだ女性が最後に結ばれるのです。「眠り姫」のモチーフが、当時のイギリス文学や絵画の中で繰り返し用いられたのは、それが男性芸術家の美学を如実に反映しているからと言えます。指導者としての男性性を強く求めた当時の社会において、男性としてのアイデンティティを確立するためには、他者である女性は受け身で無私の存在でなければならなかったというわけです。「眠り姫」は従順な女性性を象徴する姿です。美しい女性が凍結した時間の中で若さを保ったまま、男性による救出を眠りながら待つという「眠り姫」の物語は、受動的で無垢な女性が男性に自分の人生を委ねるという当時のイギリス社会の女性のシナリオだったといえます。当時の代表的詩人アルフレッド・テニスンが「白日夢」という作品でとりあげたのも、その一例です。彼は1857年の挿絵入りに詩集に、この作品を収めました。その挿絵を描いたのがロセッティで、バーン=ジョーンズは、それを間近に見ていたらしい。テニスンは、ペローや子供向けの物語そのものよりも、その断片、つまり物語の終わりの方の、世界が深い眠りに屈してしまったエピソードを切り離して使っています。そして、目覚めの重要性を強調するために「復活」を導入しています。「触れて、くちづけをすると、魔法が解けた」と。

(1)1871年の3点からなる小連作

バーン=ジョーンズは、30年にわたって、この「眠り姫」にまつわる題材をくり返し描き続けたといいます。最初は装飾タイルのための図案でしたが、作品として発表されたものは、1871年からパトロンであったウィリアム・グレイアムの依頼を受けて横長の3点の油彩で構成された連作でした。すなわち、「いばらの森に入る王子」「眠る王と廷臣たち」「眠り姫」の3点です。

「いばらの森に入る王子」では、王子は絵の高さいっぱいに立ち姿の全身を見せて垂直の形態を生み出していて、騎士たちの水平な配置と対照的です。このようにして、呪縛を解こうとする王子の決意が、彼がただ一人目覚めている者であるがゆえに文字通りに、そして彼が構図の中で、絵の上から下まで一貫している唯一の部分であるがゆえに象徴的です。しかし、画面全体に野いばらが生い茂り、その錯綜したもつれが合わさって恐ろしい障壁をつくっています。同時に野いばらが生み出すリズムが、救助に失敗して昏睡状態に陥っている騎士たちを引き立てています。テニスンはこの場面をつぎのように詠んでいます。

妖精の王子は

また狐よりも軽やかな足取り。

かつてここを越えんとした

者らの骸と骨が

茨に囲まれた場所で朽ち

野ざらしとなって散らばっている。

彼は物言わぬ死者たちを見つめる。

バーン=ジョーンズの絵画では、この詩の陰惨な印象は避けられています。

「眠る王と廷臣たち」は、魔法の眠りによって動きが凍りついた状態を描いています。眠る廷臣たちの連なりは、それぞれに固有の面白さがありますが、しっかり全体の構図に組み込まれて、横方向の線で強調されています。

「眠り姫」では、眠り姫は差し迫った目覚めを知らぬまま横たわっています。彼女は、騎士、廷臣といった深い眠りに入った人々の連鎖によって生み出されたリズムの頂点に位置します。同時に、彼女の背後の欄干にかかっている布が、横になった彼女の姿を連作の反対側に位置する王子と関連づけています。左側のひだが合わさって縦の結び目をなし、それが王子の位置と響き合っていますが、キャンバスに沿って徐々にひだが変わってゆき、掛け布の右端は姫の身体の線に従っています。このようにして、バーン=ジョーンズは姫をよみがえらせる魔法のくちづけを暗示しています。しかし、それが前面に出ることはなく、世界全体が静止しているという印象が支配的です。

(2)4点からなる大判作品

バーン=ジョーンズは、3点の小連作を制作中に、同じ主題による大規模な連作のアイディアを得て、先の3点に「王宮の中庭」を追加した4点からなる大型の油彩の連作を1890年に完成させました。この二つの連作は、表面上は人物が対応して同じデザインですが、扱い方と雰囲気が根本的に異なっています。

「いばらの森に入る王子」では、小連作では、王子が森に入るときの姿勢に彼の決断が見て取れる。王子の目は前方を見据え、足と剣は彼の確固たる決断と調和しています。それと対照的に、この連作の王子は、森に入って姫を救出する意志が萎えているように見えます。両足は平行で前に踏み出すようにもみえず、視線も焦点がはっきりしていません。剣は身体の側面に下向きで持ち、盾といえば、救出の試練に失敗した騎士たちの死体を視界から遮るように目の前に持ち上げているだけです。おそらく、この連作で描かれた王子に、王女を目覚めさせたくないというバーン・ジョーンズの願望が込められているのだろうと想像してしまいます。ウィリアム・モリスをこの場面に次のような詩を添えました。

恐ろしきまどろみが漂い流れる

もつれあう薔薇のあたり。

だが、見よ、運命づけられし手と心を

そはまどろむ呪いを引き裂かんがため。

この連作で新たに加えられた「王宮の中庭」は魔法にかかった女性たちが水汲みや機織の最中に眠り込んでいる場面が描かれています。女性たちは連続した横の流れを保っていて、同時に彼女たち一人一人が美しく、大きなパターンの一単位となって目を引いて、互いの配列の中の入り組んだ副次的なリズムをつくりだしています。この場面についてもモリスの詩が添えられています。

この国の乙女の遊園は

いかなる声や手の動きも知らぬ。

眠る水は杯を満たさず

休まぬはずの杼も止まって動かぬ。

「眠り姫」の姫君も「いばらの森に入る王子」の王子と同じように、小連作に比べて変化しています。小連作では長椅子に窮屈そうに横たわっており、首や肩がぎこちない角度で突き出しています。それに対して、こちらの姫は静かに休んでいることは彼女のリラックスした姿勢に枕に沈み込んでいる様子から明瞭です。野いばらの混沌のなかに横たわる騎士たちも小連作の落ち着かない雰囲気に貢献していて、彼らの体はぎざぎざの形に描き出されています。それに対して、こちらでは崩れ落ちた騎士たちがなめらかな形を作っています。王子が姫君を目覚めさせたくないのに応えるように、姫君はいつまでも眠っていたいようにも見えてくるのです。

そして、バーン=ジョーンズは王子のキスシーン、つまり姫の目覚めのシーンを描いていません。彼はこの理由を、「私は王女を眠ったままの状態で留めておきたいのです。それ以上は何も説明せず、その後のことは観る人の創意や想像にまかせておきたいのです」と語ったそうです。つまり彼が描きたかったのは永遠に目覚めない「眠り姫」だったと言えるかもしれません。そこには、永遠の処女に対する男性の願望が潜んでいると言えるかもしれません。実際、19世紀中葉から世紀末にかけて「眠り姫」のモチーフは絵画や文学に繰り返されていくのですが、画家たちがいわば「目覚めた」女性に恐怖心を抱きつつ、なおも「眠る女」に執着したと言うことは、男性のアンビヴァレントな感情を反映していると言えるかもしれません。少女を描いたり目覚める前の女性を描くということは、成熟の可能性を持つ女性、あるいは性的(セクシュアル)な女性に惹かれていることの裏返しであり、その一方で成熟した女性に対する恐怖も抱いていた。それが、こちらの連作では強く窺うことができます。

(3)習作、関連作品

バーン=ジョーンズは「眠り姫」の最初の小連作から、次の大型画面の連作に取り掛かったようですが、製作期間が長期化し、その間にいくつかの習作や優れた関連作品を手掛けています。例えば、1874年ごろに大型の油彩で「眠り姫」を完成させています。小連作の「眠り姫」とは同じような構図ですが、全体として画面全体は落ち着いた薄緑の色調を湛えていて、見る者に静寂を感じさせるようになっています。その代わりに、人物の顔の表情も手のポーズも、より豊かに印象的に描かれています。また、野いばらの茂みや、布や衣裳の襞は装飾性が高められ、絶妙なまでの調和が図られています。ここでは小連作の「眠り姫」とは象徴性のモチーフの扱いを変えています。例えば、野いばらの花びらを散らすことなく咲いたままで、姫君の右側の人物が抱える楽器の弦も切れていません。さらに画面の右上端には止まったままの砂時計が新たに描き加えられて、姫君が少女のままで成長しないことを暗示しています。つまり、死の影を薄くし、その代わりに永遠の処女性を強調させるように変えられているのです。

この連作では、「眠り姫」が当時の男性の女性に対するアンビヴァレントな心証が投影されていると言えますが、少女のエロティシズムの側面も見ることができると思います。つまり、この画面の人物の連続した横のラインが、横たわる少女たちの薄絹を通して露わになった身体の優美な、言い方を換えればエロチックなラインに見えてくるのです。眠っているということで、意識がないために恥じらうことなく身体の線をしどけなく露わにしているという構図です。ラファエル前派の画家たちは、ロセッティをはじめとして、ミレイなども女性の神秘的な美しさをよく描いていますが、裸体やそれに近いものは殆ど描いていないのではないでしょう。彼らの場合は、古代風の衣装を着せたりした扮装とか、顔のとか、それら全体の雰囲気のようなものが中心のように見えます。とくに身体の線は全身像よりも半身像が主だったり、ゆったりとした衣装の隠れてしまうようです。例えば、ミレイの「オフィーリア」と言う作品は横たわる美少女という点でよく似たシチュエーションの作品ですが、全体の主眼は少女の虚ろな表情とそれを取り巻く幻想的な雰囲気で、しかも少女は全身が描かれておらず、衣装により、さらに身体の大部分は水に沈んでいるため、身体の線は隠されて、窺い知ることができません。あるいは、バーン=ジョーンズと同世代で唯美主義に位置づけられているアルバート・ムーアの「ソファー」という作品で、地中海風のゆったりとした衣装をまとった女性たちが、ソファーに横になっている様子を描いています。“若い女性が身にまとう襞のある薄布の白さは、半透明の茶色の柔らかい織物がかけられた金色に輝くオレンジ色のクッションや淡い黄色のソファーを背景に、ひときわその輝きを増している。右手の女性の膝のあたりにはやや白色を帯びた茶色の布がかけられ、この女性は首の周りに赤いビーズのネックレスを付けている。壁と床は茶系統でまとめられている。手前には茶色の壷がふたつ、青いビーズ、ソファーに立てかけられた白い扇が描かれ、床には白・黄・オレンジ・青の縞模様のマットが置かれている。” 茶色を全体の基調色として、そのグラデーション的な使い分けに、青や赤をアクセントとして効果的に使っているのが分かります。とくに人物の肌色にまとわりつくような半透明の白が全体の雰囲気を柔らかなものにして、襞の効果を巧みに生かして、女性の肌の暗示と身体の曲線の仄めかしがちょっとしたエロティシズムを醸し出しています。

一方で、当時の常識では女性のヌードを描くと言う時には、神話などの場面をかりて、しかも理想の美の姿として描かれるというような約束事があり、その場合の理想の美とは、ギリシャ彫刻で表現されていたような人体の理想的な姿ということでした。女性の場合には、ミロのヴィーナスが典型的と思われるのですがふくよかで逞しいような姿が理想とされていたようです。これに対して、バーン=ジョーンズが描く女性の身体は、ふくよかで逞しいというよりは、細身になってきているように見えます。華奢とは言いませんが近代の家族の中で生産に携わらない男性に庇護されるという優美が第一というような、そういう捉え方のなかで描かれているように思えます。それは、ファロ・セントリズム、いわゆる男根中心主義というのか、女性はか弱く男性の視線に晒されているというようなあり方です。その対象として見た時に、バーン=ジョーンズの描く女性の身体というは、そういう視線に応える要素を持っているのではないかと思えるのです。さきほど述べた“人物をたちが全体として連続した横のラインを構成”というのは、そういう視線に晒された女性の線ということをいみじくも語っているように思えるのです。しかも、当時のヴィクトリア朝の偽善的な道徳の許では、女性があからさまな男性の視線に晒されるということは、はしたないことであるはずです。だから、ふつうは女性がそういう視線に自らを曝すことはあり得ない。そこで、眠っているという状態が、意識がなく恥じらいを感じることがないという特殊な環境にあるということで、日頃は隠されたものが露わになる、禁断の姿を覗き見するような気分になれるといったら、うがち過ぎでしょうか。しかも、眠っている少女たちの姿勢も、しどけなく、いかにも無防備ではないでしょうか。普段なら絶対に見せてはいけないような格好で、一人一人描かれている女性たちの姿は、眠り込んでいるが故に自制心が利かなくなって多少だらしなくなって足を乱したり、尻を突き出している姿をリアルに細部に至るまで執拗に描写されています。さらに、眠っている少女たちの顔の描き方は、いかにも無防備という風情で、男性の視線の晒されていることに気づかず無垢な姿のままでいるようです。

 

 
ラファエル前派私論トップへ戻る