ラファエル前派の画家達
エドワード・バーン=ジョーンズ
チョーサー『薔薇物語』連作
 

 

『薔薇物語』はギヨーム・ド・ロリスによって、1230年頃に書かれ、その後1275年頃に別の作者によって補追された、フランス中世宮廷文学を代表する詩を、イギリスの詩人チョーサーが翻訳したもので、中世英語の美しい文学作品として高い評価を受けている。5月のある日、「若者たちが恋に溺れる二十歳の頃の私がいつものようにベッドに入るなりぐっすり寝込んでしまって見た夢を、皆さんの心を楽しませるために」語ったもので、「愛の巡礼」を叙した寓意物語です。夢の中で愛の庭園を訪れた詩人が、愛の神の放った矢に射られ、薔薇に恋をする。番人たちが邪魔をするが、困難を乗り越え、詩人が薔薇に口づけすると、薔薇は閉じ込められてしまい、詩人は嘆くというのが大筋で、その中に儀礼、歓待、理性、純潔、危険、恐怖、嫉妬などが擬人化されて登場する。バーン=ジョーンズは、学生時代にウィリアム・モリスと、この本を気に入り、いつも携行していたと言います。

バーン=ジョーンズが絵画の題材とする契機となったのは、1872年に室内装飾の注文をうけて、ウィリアム・モリスとの共同制作で壁掛け用の刺繍をデザインしたことです。バーン=ジョーンズ、その時の下絵をもとに構想を練り始めて、巡礼者が誘惑を乗り越えて勝利を収め、彼の究極の欲望であるバラの茂みに達するという物語を3点の油絵の連作として完成しました。その最初が「怠惰の戸口の巡礼」で巡礼者は魅力的な女性の姿をした「怠惰」の誘惑に遭います。次の作品「巡礼を導く愛」で、誘惑を逃れた巡礼は別の障害物であるいばらの茂みに導かれます。そして最後「薔薇のこころ」で、目的地バラの茂みで「愛」と出会うという構成です。

同じ物語を題材に、ロセッティが「薔薇物語」という水彩画を制作しています。明らかに中世の写本から影響を受けた画面構成で、夢見心地で抱擁し合うカップルは、1850年代のロセッティ作品の典型であり、彼らの結びつきは天使の翼によって祝福されているという作品です。

「怠惰の戸口の巡礼者」

時は5月、夢の中で青年(詩人本人)は夜が明けたと思って起き上がり、さわやかな朝の空気に誘われて鳥が美しくさえずるなかを散歩に出る。原作では「鳥」が度々登場する。うららかな季節の表現として音の効果を狙っていて巧みである。

小川で一息ついたあと、野を横切って歩き続け「閉ざされた庭」に行き着く。頑丈に庭を囲むにはいくつかの「見事な肖像画」が描かれていた。「憎悪」「悪行」「粗暴」「欲心」「貪欲」などの擬人像である。それらは「まことの愛」にいたる道を阻む障害だ。庭に入る手立てを探すが、やっとひとつ戸口を見つける。「ノックして長いこと待ち聞き耳を立てた。するとひとりの若い女性が現れて丁重に迎えてくれた。頭髪は摘みたてのキンポウゲのような鮮やかな黄色で、肌は雛のように柔らかく、長さも太さも美しい形の首で…白い手袋をし、ゴーント(現ベルギーのヘント)で織られた緑の衣を着ていた…」

私の名は「怠惰」です。多かれ少なかれ

皆さんがそう呼びます…

私は楽しいことや遊ぶことにしか関心がありません。

私は「歓楽」と知り合いです、この庭の主の。

…さあ、中へどうぞ。

三部作の始まりである「怠惰の戸口の巡礼者」は、魅力的な女性の姿をとる怠惰の誘惑に遭遇する巡礼者の姿を描いています。画面では、巡礼者は恥ずべき者として擬人化された怠惰と相対しています。題材とされている物語が中世のものでもあり、もともとが壁掛け用の刺繍のデザインであったいう経緯からも、画面全体が中世風に作られています。たとえば、この画面の全体の構図は、二人の人物が向き合っているのを真横から、あまり奥行きのない作品空間で描いているのはルネサンスのフラ・アンジェリコやレオナルド・ダ=ヴィンチの「受胎告知」の構図によく似ています。そして、石造りの壁で、現世と向こう側を明確に区分して、開いた戸口から、向こう側の花が満開の様子がわずかにのぞかせています。

「巡礼を導く愛」

愛の矢を手にした愛の神が、巡礼者の手をつかんでいばらの茂みから助け出し、バラの茂みへと導く場面です。愛の神は、キリスト教の天使としても、ギリシャ神話の愛の神であるクピドとしても描かれています。荒涼とした風景の中で、巡礼者は片足にいばらがからまって、捕らわれのような状態です。そして、愛の神は背中に羽根をつけていますが、その黒い羽根はラファエロ以前の描かれていた黒い羽根で、本物のワシの翼だそうです。そして羽根の上には解放と自由への逃避を象徴する鳥の群れに囲まれています。

「薔薇のこころ」

連作の最後は、愛の神が最終的に巡礼者を彼の望む目的地、すなわちバラの茂みに導いている場面です。導かれて庭に入ると、そこは天国のような素敵な所で、鳥がたくさん飛んで囀り合っていた。そして「喜び」や「陽気」などに迎えられ、「愛の神」に会う。その「愛」に導かれて庭を奥へと進むが、「愛」の周りにはひっきりなしにフィンチやひばりなどたくさんの鳥が飛びまわる。そして、美しい乙女の薔薇に会うに至ります。

茂みの中に座る美しい乙女が薔薇ということなのでしょうが、肖像画のような姿勢をとり、長い緑色のドレスを着て鑑賞者に視線を向けています。前景では、愛の神と巡礼者がバラの左右に立って、お互いの手を握っています。バーン=ジョーンズは、赤いレンガの壁と草と白い花からなる比較的シンプルな背景を描いています。また、画面の左側とレンガの壁の上に、わずかに森林が見えます。この場面には別ヴァージョンがあって、こちらは巡礼者が手を伸ばし薔薇に触れようとしています。ここでは、大輪の薔薇の花が描かれ。その花の中に乙女の横顔が描かれていて、薔薇と乙女の両方が描かれています。物語では巡礼者が薔薇に触れた瞬間に、薔薇が消失してしまうのです。

 

 
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