吉岡正人展─時は熱く流れる─ |
2009年2月14日(土)仕事関係の研修旅行の帰り、川越で昼食に寄ったところ、隣のギャラリー「呼友館」で偶々出遭った展覧会。蔵を改造したという小さなギャラリーで、ラジカセが置かれタリス・スコラーズのパレストリーナが流れていました。それら合わせて、なんとなく惹かれ、しばらく見入ってしまいました。 全体の印象として、有元利夫を引き合いに出して、比べてみたくなりました。吉岡正人と有元利夫、私の独断と偏見かもしれませんが、テンペラとフレスコと両者とも油絵とは異なった手法を用いていることや、それが盛んだったヨーロッパ中世を連想させるような作品世界を展開させているような見える点で、似通っていると思わせる点もあると思います。そこで、有元利夫と比べながら、吉岡正人の特徴的なところが浮かび上がってくるのではないかと思います。ここに、並べた両者の展覧会ポスターを見比べてみると、一見で違いが目に飛び込んできます。まずは、その色彩。有元はフレスコ特有のくすんだようなものに対して吉岡の色彩は鮮やかで抜けるような蒼さが際立つようです。それは、石造りロマネスク建築のような修道院のほの暗い講堂で見るようなものと、燦々と陽光が降り注ぐテラスに面した壁画のような違いとでも喩えられるものでしょうか。これは両者の手法の違い、フレスコとテンペラという、のもあるし、吉岡の過去の作品を見ると必ずしもこのような色彩に溢れた作品ばかりを描いていたわけではなく、後に獲得したもののようです。そのためか、自分の世界として色彩の使い方を意識しているように思えます。 そして、大きな違いはデフォルメの程度です。有元利夫の場合は、人物が人格のようなものを感じさせないほど外形として図案化されてしまっているのに対して、吉岡の場合は、人物には表情や肉体が残されていて人間を感じさせ、また背景についても風景としてのリアリティを感じさせます。有元利夫の場合は図案化が行き着くところまで追求されたというのか、人物も背景も外形のみが残り、図案となった言うことで写実性が放棄され、抽象画のような画面となっている。その結果、過去である中世やルネサンス初期の作品を通して近代を突き抜けポストモダンと言っても良い宇宙に通じたところが感じられものと刈っていました。それが、有元利夫の作品が現代性をもって、アクチュアリティを持ち続けていると言える点だと思います。 これに対して、吉岡正人の場合には近代的な絵画世界の肉体性というかリアリズムがかなり残されているように見えました。例えば、このポスターの作品「朝(旅に出る)」(上図)では中央の樹木の質感や馬の頭部等は陰影深く、近代絵画の写実的な描かれ方がされているのに対して、下草は様式的な描かれ方がされています。有元利夫はピエロ・デ・ラ・フランチェスカへの敬愛を隠していませんが、吉岡正人はもう少し近代寄りのフラ・アンジェリコの「受胎告知」(右上図)の様式性あたりを意識しているような感じがします。というよりは、吉岡の作品からは近代からこの時代を遡るような意識が感じられます。いうなればノスタルジィというものです。だから近代的な手法は尊重するものの、それに飽き足らずに過去を振り返るような意識的な感じがします。だから、例えばラファエル前派の世界(右下図)に近いものが感じられます。そこで近代と過去の両方に軸足を跨いでいるからこその様式的な中途半端さ(例えば「朝(旅に出る)」で描かれている馬の頭部や脚と胴体にかけられたシートの違い)があるように思います。逆に、それ故にこそ、様式からはみ出してしまうようなもの、例えばセンチメンタリズムのようなものが感じられます(「鳥を放つ」(左上図)の少女や「朝の画家」(左下図)の画家の少年の印象的な緑色の瞳や瑞々しい肌を持ち合せた顔の物憂げな表情)。それが、吉岡の作品の魅力の一つではないかと思います。極端な言い方ですが、有元の作品が時代を突き抜けて現代性を突きつけてくるようなところがあるのに対して、吉岡の作品はこの時代でノスタルジィを漂わせて観るものを慰めるといったものでしょうか。 2016年の吉岡正人展〜永遠の物語をつむぐ画家についてはこちら |