吉村芳生─超絶技巧を超えて
 

2018年12月11日(火)東京ステーションギャラリー

おそらく今年の最後になるだろう展覧会。歳末も押し詰まってきたなかで、都心に出かける用事も、今年はないだろうと、今日は多少の時間の余裕はあるので、何かないものかと物色してみて、よさそうなものには、うまく調整がつかない、それて東京駅の展覧会なら、行くことができると、入場料も高くないので、便宜的に立ち寄った展覧会。ポスターを見ただけでは、何をやっているのか、よく分からない。何の期待もなく入ったら、今年最後にきて、最大のサプライズで、ヤラレタ!!という展覧会でした。年末の誰もが忙しそうな平日の夕方、閉館1時間前という時刻で、会場の人影はまばらで、前回のムンク展や、この会場で見たいわさきちひろ展の混雑とは雲泥の差。そのがらんとした展示空間で、展示された作品に圧倒されて、逃げ帰ってきた。11月に見たムンク展に、ヤバさをちょっと期待して、見事に肩透かしを食らったのに対して、この吉村という人の作品は、マジデヤバい!!この感じを言葉にすることができるか、画像を部分的に持ってきても分かってもらえるか、かなり不安だけれど、これから試してみます。

まずは、いつものとおり主催者のあいさつを引用します。“鉛筆による細密描写で知られる吉村芳生(1950〜2013)の回顧展を開催します。1950年に山口県に生まれた吉村芳生は、創形美術学校などで版画を学び、版画とドローイングの作家としてデビューしました。初期には、新聞紙、金網、風景、身のまわりの物など、日常のありふれた情景に取材し、これを明暗の調子に分解して描いたモノクロームの作品で、内外の多くの美術展に入選を重ねます。1985年には山口県の徳地に移住し、豊かな自然に囲まれた環境の中で制作活動を続けました。鮮やかな色鉛筆で描かれた花がモチーフとして登場するのはこの頃のことです。当初は小さな画面に描かれていましたが、徐々に大きな画面に咲き乱れる花畑を描くようになります。自画像は、吉村が初期の頃から一貫して描き続けてきたライフワークとも言うべき主題で、<365日の自画像>をはじめとして、膨大な数の作品が残されています。中期以降は山口県美術展覧会や個展などを活動の中心とし、現代アートの最前線からは消えてしまったかに見えた吉村ですが、2007年の「六本木クロッシング:未来への脈動」展(森美術館)への出品をきっかけに大きな注目を集めます。その後、精力的に制作を続けていましたが、2013年、病のために惜しまれつつ亡くなりました。”この紹介を読む限りでは、写真のように写実的に描写する絵画のような印象を受けるかもしれませんが、そういう絵画は感心こそすれ、圧倒される、ましてやヤバいと感じることはありません。細密描写といっても、以前に見たアントニオ・ロペスのような超絶技巧で圧倒されるという巧いという物ではないと思います(もちろん、下手では細密画は描けないのでしょうが)。吉村の場合は、敢えて言えば、ロペスのような質の方向ではなく、ボリュームの方向で、ここまでやるか!といいったもの、それが尋常ではない、ということだと思います。この尋常ではないというのが、底をぬけてしまったというのか、その言葉におさまりきれない、これは実物を見てみないと、その程度がいかなるものかは分からない。否、見ても分からないかもしれない。そんなことに拘わりなく作家は黙々と、営々と、その作業を続けているということだと思います。こんな御託を並べていないで、早速、作品を見ていきましょう。

 

ありふれた風景

吉村の初期作品、つまり、学校を卒業して10年ほどは学んできた版画や鉛筆のドローイングで日常のごくありふれた情景を題材に作品を制作します。題材はありふれたものかもしれませんが、出来上がってくる作品は異様なものばかりです。

「ドローイング金網」という作品。たとえ縮小しても全容を画像にできるものではないでしょう。展示室に入って、最初に目の前に広げられていたのが、この作品で、私には、一目では、何があるのか分りませんでした。17mのケント紙にひたすら金網を描いたという作品です。どこか破れているとか、蜘蛛の巣がかかっているとか、そんな変化は一切なし。ただひたすら金網が続きます。描かれた金網の網目の数は18,000個というのです(これを数えた人も酔狂な人とは思いますが)。タイトルの“ドローイング”とは実物の模写のことだそうで、そうだとすると実際の金網のひとつひとつの網目を、それぞれひとつずつ模写していったものということ。ほとんど変化のない、同じような網目の繰り返し。よくまあこれほど、私だったら、どの網目を描いているのか途中でこんがらがってしまって、途中で自分が何をやっているのか分からなくなってしまいます。展示の説明では、ケント紙と金網を一緒に重ねて銅版画のプレス機にかけた後、紙に写ったでこぼこの痕跡に鉛筆で立体の描写を加えるという手法で描かれたそうです。これを見ていて、何だ?とか、何をやっているんだ?、何でこんなことを?と率直な疑問が湧いてくる。意味?とか考えてしまう。それほど異様なのでした。

SCENE 24(右図)という作品。この時期の吉村は< SCENE >というシリーズ作品群で、何の変哲もない通りや河原の風景を、とくにアングルを工夫することもなく撮影した写真を引き伸ばしてプリントし、そこに鉄筆で一辺2.5oの方眼を書き込む。そしてそのマスひとつひとつを濃度によって10段階に分け、0から9までの数字を割り振って書き込んでいく。それを方眼紙に写し、透明フィルムをその上にあてて、それぞれのマスの濃度を写し取っていく。その制作の過程では、制作している吉村当人には、描いている全体像が見えないことになります。マスをひとつずつ、ただひたすらに塗り進めていく。その機械的なプロセスをひたすらに繰り返す。それは、神経がすり減らされるような工程といえます。何でまた、そんなしち面倒くさいことをわざわざ、敢えてやるのか。これについて、吉村自身の言葉として“機械が人間から奪っていった感覚を取り戻す”という。それについて“機械的に個性を排した描写は、画面に表われる作者の意図が極限まで薄れるため、鑑賞者が受け身ではなく見ることを強いられる”と解説されていました。さらに、“吉村が制作の中で機械的な作業つまり行為そのもの重視した─(中略)─個性を排除するための行為が吉村には奇しくもそれとは真逆の、生きている意味や自己認識、自己証明へ直結していくのである。どんなに行為自体から感情や意図を取り去っても、目や手を動かすことからこそ作品が完成すること。それは、何かの理論を実現するためではなく、自分が生きた証しとなること。それこそが、さまざまな模索のうえに吉村が見つけていく制作意義、そして独自性だったのではないだろうか。”と付け加えられてしました。そのような意図があったかもしれませんが、近寄って目を凝らして見ると、そのマスのひとつひとつに執拗に細かく描き込まれた何万個にも及ぶマス目が見えてきます。その描き込まれたマス目のひとつひとつに、まるで吉村の魂が込められているような鬼気迫る執念が、画面全体として見えざる炎のように迫ってくる、その迫力を幻のように感じさせられるのです。あまりに、マス目に執拗に描きこまれて、それが過剰なほどに見えてきて、ひとつひとつのマス目が個別に存在を強く主張し、全体としての画面を背景におしやってしまうほどにも見えてくるのです。その結果、全体としての画面の題材である風景が霞んでしまって、まるで幻影のようになってしまっているのです。

例えばSCENE 85-8(左図)、そういう作品が、最初のコーナーにいくつも並べられていました。さきにも述べましたように、題材が平凡であるがゆえに、一見、どれも似たようなもので、個々の作品に取り立てて個性が強く主張されていないゆえに、展示室には、似たような作品群れが全体のマスとしてあって、それぞれの細部が相互に折り重なってたたみかけるように見る者に迫ってくる。その何百万、何千万というマス目が見る者に迫ってくる。その物量に、たじろぐばかりなのです。こんなことを機械的に、執拗に繰り返し作業している吉村の姿を想像すると、異様な姿に、アブナい異常さを見てしまうのです。背筋が寒くなってきます。

「ジーンズ」という作品。会場には、この作品の制作過程を、その画像も乗せて説明したパンフレットが配られていました。それによると、この作品は次のように制作されたということです。“1.ジーンズをモノクロ撮影し、84.0×59.0pになるように写真を引き伸ばす。2.1で用意した写真を鉄筆で2.5×2.5oのマス目を引く。各マス目の濃度を10段階に分け、濃度に応じて0から9までの数字を、マス目に書いていく。3.写真と同じサイズの方眼紙を用意して、2で書いた数字を書き写していく。4.方眼紙と同じサイズの透明フィルムを上から重ねる。5.左端から順に数字に対応する斜線をインクで引いていく。6.完成”ということです。その完成した作品を、ここで縮小した画像でみても、写真のように、あるいは写真のように写実的なドローイングに見えるということだけでしょう。その実物を見ると。会場では、マス目に数字を入れたものも展示されていましたが、改めてその細かさ、ひとつひとつのマス目に数字が漏れなく書き込まれているのをみているだけで、木が遠くなるような、めまいすら感じられるほどでした。そして、その数字に従ってマス目に線が引かれてマスごとの濃淡の差が生まれていくわけです。つまり、濃いマス目は線が稠密にひかれ、薄いマス目は線の数がすくない。いわば印刷のドットの違いのようなものです。それをマス目ひとつひとつただ斜線を引いていくというのは、根気強いというだけで済む作業ではないでしょう。そんなことを思いつくこと、しかも、そんな気の遠くなるような作業を実際に実行してしまうところに尋常でないものを感じます。それゆえにか、そう思ってみてしまうからかもしれませんが、全体として出来上がった画面は陽炎がかかったような、リアリズムというより幻想的に映る。それはまた、おそらく、この画面の出来上がり方の普通ではないところにも起因するのではないかと思います。つまり、私たちはふつう全体像を見ます。絵画というのもそれに従って制作されると思います。それには具象の抽象もちがいないと思います。具象であれば、目の前にある全体をみて、そこから描くべきところを切り取るようにして、その部分を全体として画面に写していく。だから、キャンバスでも紙でも、その画面全体に対象を描く、具体的にはスケッチの線を画面全体の中で、この辺りからあの辺りまでというように1本引く。そういうのが重なって、対象の形とか濃淡ができるわけです。そして、その線の引きかた、例えば勢いとか、筆圧の強さとか、太さとかといったところに画家の個性とかタッチといったものが表われて来る。筆であれば個性はもっと表われます。画面の濃淡の濃いところと言うのは、全体を描いていて、徐々にそのところに線が描き加えられていった結果です。これに対して、吉村の場合は、全体をひく1本の線というのはありません小さなマス目を埋めるように、マス目内に線が収まっているわけですから。おそらく、吉村は最初のマス目を数字の通りに線で埋めて、次のマス目に移るという作業を繰り返したのでしょう。その時、全体のマス目以外の部分は空白です。吉村は描くときに画面全体を見ていない、あるのはひとつひとつのマス目の中だけです。そこには普通で表われるはずのタッチの個性は生まれるべくもなく、画面全体として作られていないのです。部分が集まって、結果として全体があるように見えます。私たちが全体としての形とか濃淡というのが、濃淡、つまり引かれた数の違うというマス目の差異が、結果としてそう見えているということに解体されてしまっているのです。それは、私たちが普通に見ている形とか、それによって形作られている事物の意味といったことが、差異に解体されてしまっているわけです。喩えていうと、人間もそうですが生物というのは無数の細胞の集まりです。その細胞が意識というという統合するものにコントロールされて、その指示によって動いているわけですが、その無数にある細胞の一つ一つが意識を持ってしまって、個々が勝手に動き出したらどうなってしまうか、その時には人間を統合してコントロールする意志というのはなくなってしまうでしょう。その意志をつくるのも一つ一つの細胞なのですから。その結果、その人間がふつうとかわらず動いていたとしても、そこには意志というものが存在していないわけです。吉村の「ジーンズ」には、そういう尋常ではない作られ方をしていて、その恐ろしさが感じ取れるような気がします。というのも、マス目のひとつひとつに引かれている線は機械的に引かれているように見えて、目を凝らしてみると、やはり、機械が引いているのではなく、人の手によって引かれているので、その一本一本が違うのです。それが、個性を主張しているように見えてくるのです。

「365日の自画像」という作品。1年365日、毎日、自分の顔を写真に撮って、それを12p四方の紙に鉛筆で描き写したというものです。先日見てきたムンクという画家も自画像を多数描いた人ですが、数では365点には届かないでしょう。しかも、ふつう画家が自画像を描くというのは、何か事件があったり、転機があったりと原因がある場合が多いのでしょうが、その時の自身を見直すというよう動機によるわけです。これに対して、吉村の場合は、そういう変化のようなものはなく、毎日、相も変らぬ自身の顔を描き続けるわけです。展示されていたのは、365日分全部ではなく、その一部だったのですが、画像を見てもらえれば、おわかりのとおり、それでも圧倒的なボリュームです。私は、展示されている自画像の一枚一枚を隅から隅までみることはできませんでした。最初から、そんな気も起こりませんでした。しかし、不思議なことに、それらを見ていると、同じ人物を描いているように思えなくなってくるのです。描かれているものに変化はありません。あるのは、服装だったり背景だったりです。顔は同じように描かれていました。とくに、表情を変えているわけでもなく、むしろ無表情に近いです。それでも同じ人には見えてきませんでした。さきほど「ジーンズ」で述べたことと同じように考えれば、飛躍した考え方かもしれませんが、この作品を見ていると人格の統一性というのが、解体されるような錯覚に捉われると言えるかもしれません。もっとも、吉村自身は、そんなこと考えて、意図的に描いたわけではないでしょう。むしろ、そんなことを考えずに、おそらく、そうしたいからやった。そんなところではないかと思います。だから却って恐ろしい。ふつうは、そんなことを始めてしまうなどということはないと思いますから。展示室では、入口正面に「金網」が展示してあって、その向かい側に「356日の自画像」が展示されていました。だから、展示の最初から驚異だったのです。すごいインパクト。

その他にもニューヨークタイムスの紙面を、そのまま写して描いてしまった作品などもあったのですが、この展示で唯一違和感があって異彩を放っていたのが「徳地・冬の幻影」という作品です。これは、ほかの作品と比べると普通に変に描かれている作品(というい言い方はおかしいのですが)でした。冬の林を描いていて、そのなかに騙し絵のように人の顔や動物、龍などの姿が隠されています。たしかに、細部の描き方は執拗で、隠されているキャラクターが無数にあって、どれだけ隠されているか全貌が把握できないものではありますが、この作品には、ちゃんと全体像があって、ドットのような原子のようなものの差異に解体されないのです。そのせいか、安心して見ることができます。

 

百花繚乱

フロアが2階に移ります。展示室の自動扉が開くと、それまでの展示とは別世界がひろがっていました。展示タイトルのとおり百花繚乱で、毒々しいほどの色彩が氾濫した空間が目の前に現れました。

吉村は故郷の近くに移住して、地元の画廊やデパートでの個展が活動の中心となって、生活のためには絵を売ることに頼っていて、そこで120色の色鉛筆で精緻に描写された花の絵は人気があったということです。それまで都会のありふれた風景や生活を題材としていた吉村は、田舎に移住したことによって、そのありふれた風景や生活が変化したといいます。ビルや車の風景から森や畑に一変したというわけです。その変化のなかで、新たな題材を模索していて、であったのが休耕の畑に咲く花だったと言います。つまり、田舎のありふれたリアルな風景だったというわけです。そして、題材の変化に伴い、吉村の作品はモノクロームから鮮やかな色彩を得たものに変化したということです。しかし、写真を拡大してマス目に分解して、ひとマスずつ写し取っていくという方法は相変わらずで、そこに色彩が加わったので、モノクロームの濃淡に還元するのではなく、色彩を忠実に写し取ることになったといいます。

「ケシ2008」(左上図)という作品で、その一部(右図)と並べて見てみましょう。こんなのが、色鮮やかで細密で美しい花の絵として人気があったのか。たしかに、ケシの紅は鮮やかだし、細かく描き込まれています。しかし、どこか見慣れた現実の風景とは、何か異質なものに映るのです。どこか毒々しいというのか、不気味というのか、少なくとも、この花をみていて心和むとか、美しく愛でるということは、私にはできそうもありません。それは私の主観的な好み故なのかもしれませんが。ケシの紅が茎や葉の緑色から浮いているような、というより紅と緑が異なる次元にあって、それを透かして断面でみているような感じがします。まるで、視界の色の要素を積分しているようなのです。それは、現実に隠された真実の姿といったようなものとか、現実を拡大鏡で覗くとこんなようになるとかいったようなものではなくて、そんな生やさしいのではなく、異様で不気味なのです。

「コスモス2006」という作品。コスモスを秋桜と書きますが、そういうイメージとは異質な旺盛に繁茂する雑草のような猛々しい感じがします。しかも、描いた表面が汚されたり、傷つけられたりといったような処理がなされているようです。

「無数の輝く生命に捧ぐ」(左下図)という作品です。これまで見てきた吉村の作品のタイトルは即物的なものだったので、このような意味深なタイトルは珍しいのか、晩年近くになって、何かしら変化が生まれたのかは分かりません。2×7mという巨大な画面のボリュームとそこに相変わらず小さなマス目を区切って、そのマス目を精緻に埋めていく方法で描かれている、その藤の花の途方もない集積に圧倒されました。これは、実際の藤の木の写真そのままではなくて、藤の花の同じ部分の写真を複数プリントして、何度か繰り返して貼り合わせ、本来の状態よりもずっと横に長く引き伸ばしたものを描いたといいます。それは写真そのままに画面を写すことから画面を構成することに、吉村の姿勢が変化しているとのことです。しかし、私には、マス目を精緻に描いているという行為が自家増殖しているように思えるのです。画面全体を細かいマス目に分割して、それを埋めていくとい微分的な制作方法が、しかし、出来上がった作品はひとつひとつのマス目が濃密すぎて、画面全体がぼんやりとしてしまうという逆に積分的なものになってしまう。それが結果として、リアルではなくて幻影のように映る。それが、さらに進んで、マス目が画面を分割したものだったのが、それ自体が自家増殖して、まずマス目があって、それが画面をつくっていくようになってしまった、その結果大きさの制限はなくなって、大きなものになってしまった。そのマス目が自家増殖するのは、作品タイトルのあるような「無数の(輝く)生命」ということになるかもしれません。この画面の途方もない数の藤の花が、ひとつひとつが細密に描かれているのは、むせ返るほどの生々しさで、喩えとしてはおかしいかもしれませんが、癌細胞が増殖している顕微鏡映像を見ているような印象で、怖ろしさを覚えます。それは、松井冬子の「世界中の子と友達になれる」(右上図)が藤の花を、とても吉村のように精緻に描ききることはできない代わりに藤の花が不気味な黒い蜂の群れになりかわっていくように描いていたのは、藤の花の怖ろしさを違った方法で表わしていたのかも知れないと想像させるものでした。しかし、この「無数の輝く生命に捧ぐ」という作品は、十分な距離をおいてはなれて見ると、不思議なことにリアルな印象で、しかも美しいと感じられるのです。

「未知なる世界からの視点」(右下図)という2×10mという、さらに大きな作品。川の中州の風景を描いて、最後に上下をさかさまにして作品としたものです。“虚構と現実あるいは日常と非日常が入れ替わった、天も地もない未知なる世界”と解説されていましたが、そんなところなのかなあ。最初、作品をみていて中州の花が咲いた草原と、川面に映る光景が上下さかさまに反転させられていることには気がつきませんでした。実際に、この画像を上下反転して見れば、ごくごく身近な風景が描かれていることがわかります。そのことついては、次のようにコメントしているのもあります。“天地が反転して飾られることで、タイトルにある通り、私たちが生きるこの世界とは異なる領域への入り口があることを暗示する、不吉な気配に満ちた絵となる。この不吉さ、というのが本当のところ吉村の絵が持つ最大の特性なのだ。思えば、新聞紙を一字一句違わずそっくりなぞり写したり、金網を何メートルにもわたってそのまま模写した初期作品が、すでに十分に不吉であった。ここで不吉、というのは、そのような対象をなぞり写す理由を私たちがなんら持っていないからだ。新聞はわざわざそうするまでもなく印刷されて世に氾濫しているし、金網にしても欲しければ必要に応じていくらでも買うことができる。そんなものをなぜ神経をすり減らし、根を詰めてまで描く必要があるのだろう。かつてその理由を吉村は「絶対に誰も描こうとしないものを描いてみたかった」と答えていたが、実のところ、本人にも理由などわかっていなかったのではないか。理由がない行動は指針を欠いている点で無軌道であり、無軌道なものはどこにたどり着くか見当がつかず、ゆえにつねに不安であり、詮じ詰めればやはり不吉だ。その不吉さを覆い隠すものがあるとしたら、それが技巧であったのだろう。技巧さえ伴えば、たとえ新聞紙を描いても金網を描いても人は相応に驚いてくれる。逆に言えば、だからこそ吉村は技巧を必要とした。つまり、有り余る技巧があるから描く対象がなんでもよかったのではない。まったく無意味なものを描くためには、せめて技巧がなければ不安で不安で仕方がなかったのではないか。私たちが、かつて彼の描いた新聞紙や金網を見て不安になるのは、その技巧を食い破った先に、技巧では覆い隠すことのできない揺るぎない無意味さが透けて見えるからだ。花ではそういうわけにいかない。花はたとえ雑草であっても人の目を引く。岡本太郎はかつて花を、人に媚びているという理由で嫌ったが、確かに日常生活でも花は人に媚びを売るときに体良く使われている。お祝いに新聞紙や金網を贈られて嬉しい者はいないだろう。だから吉村にとって花を描くことは逆に最初から安全な意味を持たされていた。ではなぜそんな対照的な花を描いたのかと言えば、結局、何を描いても不安で仕方がなかったからだろう。無意味を描くことの不吉さが結果的に彼の初期作から透けて見えているように、技巧だけでそれを相殺することはできない。としたら、技を尽くして花を描くこと、安心に安心を重ねるような行為ではないだろうか。花を描くか、技を示すか、どちらかでも一定の安心は得られるはずなのだから、技を尽くして花を描くのは保険に保険をかけるようなものだ。しかしそうだとしても安心は確約されるわけではない。いくら保険をかけても不安が消えるわけではないことに、それはよく似ている。むしろ保険をかけるからこそ不安になるのではないか。そういうわけで初期作とは違い、保険に保険を重ねた吉村の花の絵は、新聞紙や金網の絵とはまた違う意味で不吉になっている。冒頭で触れた絵を逆さまにかけたのは、晩年の吉村がその不吉さと対面する勇気(というよりもむしろ自信)を得たからだろう。この勇気は、具体的には水面を絵の上部で際立たせることで、吉村が絵の中の余白の許容へと歩み寄ったことを示している。”あるいは“ひとつの絵だと思って見ていた対象が、近づいて見ただけで、いきなり無限へと分解され、しかもそのすべてが別様に震えながら振動していることを知って、僕らは一瞬、自分が目の当たりしている知覚そのものが信じられなくなる(椹木野衣「日々の集積、新聞的反復」[報告書『吉村芳生──とがった鉛筆で日々をうつしつづける私』、山口県立美術館、2012])”。それでは、まるで吉村が不安に駆られて脅迫されるように細部を描きこんだように映りますが、描くという行為と言うか、鉛筆を持って腕を動かすという肉体の動作の繰り返しそのものが好きだったのではないか。結果として作品が出来上がったわけですが。徐々に、この好きな動きを心地よく続けるにはどうしたらいいかということに従って作品の画面の構成とか、その動作をしやすいものを追求した結果表われたに過ぎないと思えるのです。それは、吉村の見るという行為が作品の画面の構成に直接反映していないと思えるからです。つまり、吉村の作品は自身の目で直接見た事物ではなくて、いったん写真に撮影されてプリントとして表われたものやそれを構成したものを写すことによって、作品を制作しているのです。そこには、目から描くことへのストレートに繋がりがなくて、間に写真という回路が入っているのです。その回路が入るところで、腕が動き易いという要素に変換されるのではないか。したがって、不安とかいったような感情が入る余地があるとは思えないのです。むしろ、そういう余地がないことについて、作品を見ている私たちが不安になるのではないか、そこに吉村の作品の異様さがあるように思えるのです。これは、次のコーナーで自画像を写真を写すのではなく、直接描いたのが、いかにも月並みで陳腐に見えて、それがどこかほっとするところがあるので逆説的に、そのことを証明しているように思えるのです。

 

自画像の森

2階のフロアの広い展示スペースから廊下に移ると、その狭いスペースの壁一面に自画像が貼り付けられ、展示しきれない分は、平積みに堆く積み上げられていました。自画像は吉村のライフワークと言っていいもので、初期から晩年まで制作されている。その特長は数が異常に多いということだと解説されていました。先日見てきた「ムンク展」でも、ムンクは多くの自画像を制作したということで、作品も多数展示されていましたが、それとは量が違う。単に吉村の自画像の数が多いなどというものではなくて、そもそも、その数の次元が異質なのです。それにともなって、自画像という物の意味が両者では別物なのだと思えます。ムンクの場合には画家としての自己アピールと言う側面も強いかもしれませんが、基本的には自分を見つめ直すとか、自分とはという自己認識の作業を自画像を描くことを通じて行うというものだと思います。ムンクに限らず近代以降の画家の中でも、自画像を描いている画家も少なくないし、自身の成長記録のように、青年から晩年まで人生の節目に自画像を描いている画家もいました。しかし、吉村の自画像は人生の節目で折に触れて描いたなどというものではなく、毎日一枚ずつせっせと描いていた。そこで、じっくりと自己を見つめなおしている余裕などなかったのではないかと思います。そこでは、ムンクのような近代の画家たちの場合のように自己というのが、特別なものではなくて、吉村の場合には、ありきたりのものとして他の事物と同値で、しかも、単にもっとも手近にあって描きやすいもの程度でしかなかったと思えてきます。したがって、自己とか自分といったものが、吉村の作品を見ていると、何ら特別のものではなくて、人が思春期などに「自分とは何か?」などといったことに悩むような特別なものであるというそういうことを解体してしまうように感じられるのです。ちなみに、蛇足かもしれませんが、作品のモデルとして吉村の顔は、地味で印象が薄く、ムンクや近代の画家達が描いた肖像に比べて、冴えないなあという印象でした。おそらく、実際に会ったとして、ムンクは強い印象を残すだろうと思いますが、吉村は忘れてしまうのではないかと思わせるのでした。

最初のコーナーで見た「365日の自画像」は、そういう即物的なものとして(自分の)顔を毎日、一つのマス目を埋めるように描き続けた。そこに自己に対する思いいれのようなものは感じられませんでした。1985年にインド旅行をした際に色鉛筆で描いた自画像は旅先のスナップのようなものかもしれませんが、写真を写したものではなく、直接、鏡を見て描いたらしいのですが、ここにも思いいれは感じられず、しかも、写真を写した「365日の自画像」より、明らかに描かれている顔が人間らしい生き生きとした感じかか温かみのようなものがなくて、マネキン人形のような、ある種のギミックのように見えてきます。

それから新聞と自画像をくっつけたような作品。画像は「新聞と自画像2008.10.8毎日新聞」(右上図)というもの。新聞の1面を読んだ後、カメラで自身の顔を撮影し、新聞の紙面と写真を同じ紙に二重に描き写した。制作の際に、新聞紙面を2.7倍に拡大コピーしたものをつなぎ合わせた後、カーボン紙を挟んで転写。自画像は、写真にマス目を引き、新聞紙面を写したものの上に拡大して転写したというものだそうです。新聞と「ドローイング新聞」と同じように、広告や新聞の写真、記事の活字まで克明に転写してあります。

「新聞と自画像2009年」というのはシリーズもので、2009年に吉村は1月1日から毎日欠かすことなく近所のコンビニエンス・ストアで朝刊をチェックし、その日一番おもしろいと思った新聞の一面に自画像を描いたものだそうです(1月2日は、朝刊も夕刊も発行されないため、全体は364点で構成される)。それが、画像のように展示室の壁に隈なく展示されている。もう、その量に圧倒されて、一枚一枚を鑑賞するといったことは、できませんでした。さらにフランスに滞在した時に、ひたすら新聞との自画像を制作していたのが1000点あるというので、展示しきれない作品が、積み上げられて置いてありました。 

 
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