現代スペイン・リアリズムの巨匠 アントニオ・ロペス展 |
2013年6月7日(金)BUNKAMURAザ・ミュージアム
思うに、アートとか芸術というのは、今の日本においては、身も蓋もない言い方をすればお金や権力を握っている、それほど多くない人々が好んでいる、あるいは好んでいるポーズをとっていることが有利であるということで、ある限られたパターンの作品をパトロネージュしていることで成り立っている嗜好品です。露悪的なものいいですが、商業的に利益を稼ぎ出している大衆的なサブカルチャーと言われるマンガなどに代表されるそれ自身で広い支持を得て莫大な売上に結びつくというものではありません。きちんと整理したロジックで説明することはできませんが、渋谷の雑踏のエネルギッシュは、大衆的な支持を広範に集めて成り立っているサブカルチャーと似ている、あるいは同根のように思えるところがあります。その精華というか中心のようなところと、そういうものに対して、明らかにマイナーで特別な保護が為されなければ生き残れないような日陰の花のような美術館とを一緒に置かれて、その違いを見せつけられてしまうと、何か僻みとか嫉みというようなネガティブな何ものかを抱いてしまうようなのです。私自身はお金も権力もないし、そういうものに寄生して生活を成り立たしめている実際と、嗜好の点でもそのようなものに擦り寄っているのか、という多少の何というのかネガティブ、とまでは行かないけれどアイロニーを感じてしまって、これは自分でもあまりいい気持ちがしないものです。何か分かりにくい文章ですね。それに、読んでいてあまり気持ちのいい文章ではないですね。
肝心の、アントニオ・ロペスについて、未だ全然話していないですね。入口のところでひっかかってなかなか入れない感じです。美術展のタイトルが“現代スペイン・リアリズムの巨匠”とうたっていますが、私には、単なるリアリズムとは見えませんでした。では何なのか、ということで考えてみると、言葉がみつからず、作品をみながら「何なのだろうか」とずっと考えていました。目の前にあるものを写真のように描き写して見せたというのはないです。かといって、それを少しずらして幻想的な風景を見せるというのでもない、感覚的な色とか美学による美しさを追求したというような感覚的なものではなくて、もっと実体的なものです。かと言って、精神とか神秘とか言葉で考えたものを表現しようというような、例えば抽象芸術のような茫洋としたものでもない、そんなではなくもっと明晰で、形がはっきりしているのです。では、形とか、存在とかつきつめていったキュビスムとかセザンヌのようなものかというと、そういう突っ込んで遠くへ行ってしまったのではなくて、もっと近い所にある感じなのです。何なのか何なのか、今以って分かりません。そのためでしょうか、このようなブログで感想を語るには、この人はこういうものだというのを、語り易そうで、実は語りにくい作品なのです。この人のは。 しかし、ポスターに使われている『グランピア』という作品。これは油絵です。この画面で見ていただいただけで、凄いとしか言えないのです。で、実物を見たときは、この画面とは別のもので、しかし、凄いとしか言えなかった。凄いという言葉も便宜的に出て来たただけで、言葉を失ったというのが正しい。この作品についても、後で、個別の作品の感想の中で書いて行きたいと思います。ただし、今回は、今までの美術展と違って(実は今までもそうだったのですが)、言葉にできるか、やってみないと分からないのか正直なところです。
■故郷
■家族
ちょっと言葉に拘りすぎかもしれませんが、リアリズムの巨匠という展覧会タイトルからいうと、この作品などは典型的なリアリズムの質の高い作品ということになるのでしょう。たしかに、画像データとして取り込んでウェブにアップしてものをディスプレイで見ていると、写真と変わらないようです。しかし、両者はまったく異なるものです。それは、言葉で説明すると余計な想像を挿入させてストーリーを捏造してしまうことにもなりかねないのですが、敢えて、そういうリスクを負いながら、試みに書いてみます。(上手く行くかはわかりません)第一に言えることとして、ロペスは、おそらく自宅の庭に立っているマリアを描いたのではないかと思いますが、その全てを描いていないということ。マリアの描き方にしても手の先は省略されています。また、マリアの背後の家の壁は上方の一部が少しだけ描かれただけで描かれていません。つまり、ロペスは現実の中から描くべきものを切り取ってきている、そこに選択が働いているということです。これは当たり前のことですが。ロペスのような画家でなくても、私でもそうですが、人間というのは、目の前にある全てを見ていません。たとえ見ても、すべて認識しません。いうなれば見たいものだけを見ている。ここで、ロペスが写真のように全てを描いているわけではないのは、そのためなのか、分かりません。その他にも、作品が完成した時に見る人に与える効果を考えて、省略したかもしれません。そして、第二に描き方のコントラストというのでしょうか。ここで描かれている主なものはマリアと右手の葉です。そして、この両者の描き込みは明らかに差があります。さらに、マリアについても、顔の部分と彼女の着ているコートの部分では描き込みの程度が違っています。最も手が込んでいるのがコートの部分で、少女には少し重く感じられるような重量感が感じられるように、そして暖かそうな手触りが分かるような質感が描かれています。(具体的に、どのような手法で、とうしてこんなことが感じられるように描かれているか、テクニックについては私のような素人には知る由もありませんが)同じマリアでも顔の部分はまったく鉛筆の痕跡がない部分もあり、描き込まれているという感じはしません。明らかに、ロペスはここでマリアというメインの対象に意図的にコントラストをつけていると言えます。これは、第一の点のセレクションを、より精緻に進めたことではないかと思います。これに対して、写真はどうなのでしょうか、写真は撮影したままなので、ここで為されていないコントラストづけはできない…ことはないんです。例えば、デジタルカメラの画像はフォトショップというソフトを用いて簡単に光線の強弱を調節できます。また、フィルム写真であれば、現像や焼きつけの微妙な調性である程度のことはできます。その点で考えられるのが第三の点です。ロペスは画面に意図的にコントラストをつけています。これが写真でできるものとは、全く違うもので、ロペスにしかできないものであります。それはロペスが自分の手で鉛筆を握って描いていることに起因するものです。ロペスによって描かれた『マリアの肖像』ではマリアの顔の部分とコートの部分の描かれ方の密度が異なっていて、存在感の質が違っています。これに対して、写真においては存在感は平等です。そこでのコントラストは密度に差をつける、デジタル画面で言えば画面のドットの数を調節することではなくて、一つ一つのドットの色を薄めることです。見た目には、そんなに変わらず、そんな違いに意味があるのか、と問われそうですが。そこで、私が見た場合、重量感とか存在感の違いとなって現われてくると思います。それをロペスは、描いている時に、つまりは、作品が形を直して後で調整するというという写真の場合の調整とは違って、描いているプロセスの中で、そういう風につくられていったということです。端的に言えば土台からコントラストがつけられているということです。これを言葉で、このように説明してしまうと、あたかもロペスという人の認識のあり方とか、画家として世界をどうとらえたか、解釈しているかという方向に行ってしまいそうですが。そうとはとらないでほしい。それが第四点です。さきに、ロペスは自分の手で描いていると敢えて、言わずもがなのことを言いました。そのことです。この作品をじっくり見てみると、余計な線や描き直した痕跡が見られないのです。いうなれば、一発勝負でこの作品が描かれていったことが分かります。水墨画のように即興的な作られ方をしたのではないかと思います。ただし、水墨画は墨が乾かないうちにという時間的な制約の中で描かれていきますが、この『マリアの肖像』は一本の線が引かれる前に十分な時間かけて慎重な検討が行われてと思いますが、線が引かれれば一発勝負でやり直しがきかない点では、同じだと思います。そこでです。絶対に間違いがいないとは言えないでしょう。中には意図したとおりに行かない場合もある。水墨画なら、その流れを止めないように即興的に転換や、その間違いを生かすような別の流れに乗るようなことをするでしょう。それが水墨画の即興性のひとつでしょう。それと似たようなことをこの作品でもあったのではないか。これは私の想像です。作品の表面上の汚れがそのままにされて、例えばマリアの顔を横切るようにある茶色っぽい染みのそのままにされています。 これらのことから、私が想像してしまうのは、ロペスという画家は描くという自らの肉体の行為のプロセスを、重視しているのではないかということです。だから、頭で考えた理念としてのリアリズムとかそういうものとは違うところで、描いている画家ではないかと思われるのです。水墨画の即興性を少しく話しましたが、そのような日本画の即興性というのが、手が動いて描いて行くことに素直に従って作品を作っていく、その結果としてリアリスティックな作品が生まれた、というのが彼の作品ではないかと思えるのです。最初のところで、「何か」という問いかけをしましたが、それは頭で考えたものや認識したものとかそういうものではなくて、描くという肉体の行為のプロセスそのものに起因するものではないか、という気がします。これは、未だはっきりしたことではなく、ひとつの仮説です。
■マドリード
それと、解説などを読んでみると、朝の一瞬の光線とそれに映し出される風景を描くために、その一瞬だけを定着するためにその光景が現われる20分間だけキャンバスを立てて写生につとめ、それを数年間続けてようやく完成したということが書かれていますが、私の印象は廃墟のように見えてしまうのです。朝の風景にしたって街に人影が何もないし、生活臭がしてこないのです。例えば、朝ならゴミが散らかっていてもいいし、人影だけでなく動物や鳥の影がない。また、建物が動くということはないのですが、とはいっても街です。街の動きというのが全く感じられない。そこは静止した、不気味な静けさの世界という感じです。この美術展の主催者や多分一般的にはロペスの代表作ということになっているのでしょうからポスターにも使われているのですが、そういう点で言うと、私の好みからすると、他のロペスの作品に比べると物足りなさを感じてしまうのです。 これは他の例で言えば話は変わりますが、映画が好きな人で小津安二郎という映画監督の名前を聞いたことがあると思います。1950年代に才能を開花させて集大成的な作品を多く残し、日本的なホームドラマをつくったという一般の評判の監督です。その代表作として誰もがあげるのが『東京物語』という映画で、尾道に住む老夫婦が東京で一家を構える子ども達の家庭を訪ね、そこで生活に汲々としている子ども達から慇懃無礼の歓迎を受け、唯一心の籠った歓待を受けるのは戦死した二男の未亡人の義娘である原節子だけだったというほろ苦い話ですが、この作品は小津作品のなかで突出したものがなく納まりの良い作品なのです。その前の作品である『麦秋』の意味不明の画面のつなぎもないし、固定ショットで画面を破たんさせないという、もっぱら小津に対する一般的評価ですが『麦秋』をはじめとした他の作品では、破たんさせる箇所が何か所か差し挟まれていて、それが何かのっぴきならない緊張感を与えているのですが、『東京物語』には、そういうものがなく、いうなれば、安心して見ていられるのです。先に言ったストーリーを安心して追いかけることができるのです。『麦秋』であれば、一見普通に見える家庭で、それを映画という画面に取り上げられるとそこには活劇と共通するような映画的な動きとか空間があり、通り一遍のホームドラマに納まりきれない葛藤のようなものが生まれ、そこに映画にしかない独特の映画的快感を濃厚に発散させるのです。それが『東京物語』にはないのです。もし、ここに書いたことが抽象的で分かりにくいということなら『麦秋』の最後の5分間、原節子の結婚がきまり、家族で海岸に出掛けて、砂浜に原節子と三宅邦子が腰を下ろしているところを後ろからカメラが撮っているシーンを見てみて下さい。びっくりするし、その後の不可解さに頭を抱えると思います。こんなことをホームドラマの娯楽映画でやっていいのだろうかと。 で、話を『グランピア』に戻すと、これまで見てきたロペスの作品でリアリズムと言われているロペスの評判とは違う何かを感じたものでしたが、この作品ではそういう何かを感じることはできませんでした。例えば、写生とか、リアルといいますが、ここで描かれている風景は、見えたままを描いているわけではないわけです。それらしく描かれているというだけの話です。それをロペス自身、よく知っていて、リアリズムというものに対する懐疑があったと思います。わざと、定規で量った後を残したり、構図を歪めてみたりということを、どこかでやっていました。この作品でも、遠近法を歪めるとか、それらしい形跡は見られません。 遠近法というのは、一種の誤魔化し、あるいは嘘です。そんなことは、見れば分かるといっても美術の教科書でそういう文法にどっぷり浸かってしまっていれば、その文法でしか見られなくなってしまうので、何の疑問も感じなくなるかもしれません。そういう遠近法のパースペクティブに準じて捉えている写真というのも、実はらしいというだけで、人と同じような光の捉え方はしていないものです。簡単に言えば、人は左右の二つの眼でステレオで光を捉えています。これに対して、カメラは基本的に一つのレンズ、つまり眼で光を捉えています。これは平面というものに定着させるため仕方のないことです。しかし、1点と光をとらえたのと、2点で光をとらえるのが、同じであるはずがありません。奥行のない平面で立体であるように錯覚するために使われる約束事と言ってもいいでしょう、遠近法というのは。だから、西洋絵画以外の絵画では、あまり遠近法が使われていません。これは西洋という一ローカルに特徴的な癖なのです。そして、それが癖であるということは、近現代の画家たちは分っていたからこそ様々な実験を試みたのではないかと思います。ロペスもその一人であったような気がします。
で、私は、それらはこの空間が決めたのではないか、と何となく、見ていて思ったのでした。空間の広がりとそこの光のあり方を、そういうものとして提示するには画面にも広がりが必要、ということで建築風景を後景として見てしまう、私の見方です。
■植物
それは同時に描かれたスケッチ(右図)を見ると油絵とは違った印象で迫ってきます。とにかく、鉛筆で引かれた線が躍動しているのです。その線の多彩なこと。これを見ていると、作品が完成してしまうと、作品を描くという動きが止まってしまうのを恐れているという想像までしてしまうのです。それほど、このスケッチでの線は動きを内に秘めているように見えます。永遠に完成しない作品というと大げさかもしれませんが、ロペスの作品からはそういう矛盾した志向性が感じられるのです。さっき、病的と言ったのは、そういう矛盾を抱え込んで、完成しない作品を、そういう題材をわざと選んで、結果がわかっているのに敢えて、描くという、その執拗さはまるでシーシュポスの神話のようです。
■静物と室内
その中でも、ロペスの静物画は、16世紀スペイン・バロックのボデコンと呼ばれる静物画の静謐さを彷彿とさせるところがあって、佳品だと思いました。リトグラフの作品がとても印象的だったのですが、ここでは『花を生けたコップと壁』(左図)の普通のコップに水を張って一輪を挿しただけのさりげない作品の静謐さ。白のグラデーションだけでここまでよく描けるなという技量への感心。この白を基調としていることからでしょうか、清澄さというのか、落ち着きと、これが16世紀ならば崇高ということになりそうな感じです。
これで、アントニオ・ロペス展の感想をひと通り終わりにしたいと思います。この書き込みを通して「何か」と考えてきましたが、そのたびに色々と変化し、最終的には妥協的に今回の冒頭で述べたようなことで、いったん落ち着かせたいと思います。 |