現代スペイン・リアリズムの巨匠 アントニオ・ロペス展 |
2013年6月7日(金)BUNKAMURAザ・ミュージアム 今週は大きなイベントである決算説明会が終わり、少し虚脱状態。年齢のゆえか、切り替えてシャキッとすることもできず、何となく身体がだるいような状態。周囲の人には申し訳ないけれど、ちょうどよく無料で収穫のありそうなセミナーがあったので、昼から都心に出て聴講、終わったら遅い時間になっていたので、帰りに行ってみた。地下鉄で向かった渋谷は、駅周辺の都市再開発が進んでいるとはいっても、猥雑で汚ない街の雰囲気は変わらない。辺境のエネルギーと流入する若年者たちによって活気があるのは確かだと思う。でも、感覚的に肌に合わないのか正直なところ、かと言って、BUNKAMURAのスノッブさもあまり好きでなく、ここの映画館やオーチャードホールというコンサートホールも肌に合わない。以前にも書いたことだけど、そのちぐはぐさを肯定的に受け止められるか、違和感を持ってしまうかによって変わって来るのだろうと思う。 思うに、アートとか芸術というのは、今の日本においては、身も蓋もない言い方をすればお金や権力を握っている、それほど多くない人々が好んでいる、あるいは好んでいるポーズをとっていることが有利であるということで、ある限られたパターンの作品をパトロネージュしていることで成り立っている嗜好品です。露悪的なものいいですが、商業的に利益を稼ぎ出している大衆的なサブカルチャーと言われるマンガなどに代表されるそれ自身で広い支持を得て莫大な売上に結びつくというものではありません。きちんと整理したロジックで説明することはできませんが、渋谷の雑踏のエネルギッシュは、大衆的な支持を広範に集めて成り立っているサブカルチャーと似ている、あるいは同根のように思えるところがあります。その精華というか中心のようなところと、そういうものに対して、明らかにマイナーで特別な保護が為されなければ生き残れないような日陰の花のような美術館とを一緒に置かれて、その違いを見せつけられてしまうと、何か僻みとか嫉みというようなネガティブな何ものかを抱いてしまうようなのです。私自身はお金も権力もないし、そういうものに寄生して生活を成り立たしめている実際と、嗜好の点でもそのようなものに擦り寄っているのか、という多少の何というのかネガティブ、とまでは行かないけれどアイロニーを感じてしまって、これは自分でもあまりいい気持ちがしないものです。何か分かりにくい文章ですね。それに、読んでいてあまり気持ちのいい文章ではないですね。 ところで、今回はアントニオ・ロペスの美術展です。現代スペイン・リアリズム巨匠ということで、映画『マルメロの陽光』に出ていたそうです。といっても、ビクトル・エリセという映画監督にピンとくる人は、それほど多くはないのでしょうか。フランス映画社の配給作品を熱心に見ているような人ならともかく。日本なら、ヨーロッパのアート系の映画監督という分類のされ方をされてしまうのでしょうか。けっして、そういう志向の監督ではないのですが。例えば、日本映画の小津安二郎とか溝口健二といった世界的な巨匠という評価が定着してしまった監督は、現役時代は映画会社の売上に貢献するような娯楽映画を作っていたのであって、それを後世の評論家や映画好きが尋常ではない凄い作品ということに祀り上げてしまったところがあると思います。ビクトル・エリセという監督もそれに近いところがあるように見えます。ヨーロッパの監督で言えば、ジャン・リュック・ゴダールとかロベール・ブレッソンとかロベルト・ロッセリーニとか、日本の映画ファンの間では、そういう名匠たちに連なるようなイメージでしょうか。私が、この人の作品みたのは30年くらい前に『ミツバチのささやき』という作品でしたが、それ以来『マルメロの陽光』も含めて2作しか劇場用の長編作品をつくっていない寡作なひとです。『マルメロの陽光』という映画は、画家が自宅の庭に植えられているマルメロの実がなったのを描こうと、キャンバスを張り、スケッチを始める姿と、その家の補修工事でアルジェリア人(?)の大工数人が工事をしている光景を淡々と映した作品で、とたててストーリーとか劇的な盛り上がりのない、映像詩に近いような作品です。正直言って、私がこれを数十年前に見たときに退屈しました。ただ、どうしてか忘れられない作品ではありました。これは、後で触れると思いますが、この映画をつくったビクトル・エリセという監督の映画の画面構成というのか空間の写し取り方と、このアントニオ・ロペスの空間の切り取り方がよく似ているような気がして、初めて『マルメロの陽光』という映画の見方が、今にして分ったような気がしたのも確かです。 肝心の、アントニオ・ロペスについて、未だ全然話していないですね。入口のところでひっかかってなかなか入れない感じです。美術展のタイトルが“現代スペイン・リアリズムの巨匠”とうたっていますが、私には、単なるリアリズムとは見えませんでした。では何なのか、ということで考えてみると、言葉がみつからず、作品をみながら「何なのだろうか」とずっと考えていました。目の前にあるものを写真のように描き写して見せたというのはないです。かといって、それを少しずらして幻想的な風景を見せるというのでもない、感覚的な色とか美学による美しさを追求したというような感覚的なものではなくて、もっと実体的なものです。かと言って、精神とか神秘とか言葉で考えたものを表現しようというような、例えば抽象芸術のような茫洋としたものでもない、そんなではなくもっと明晰で、形がはっきりしているのです。では、形とか、存在とかつきつめていったキュビスムとかセザンヌのようなものかというと、そういう突っ込んで遠くへ行ってしまったのではなくて、もっと近い所にある感じなのです。何なのか何なのか、今以って分かりません。そのためでしょうか、このようなブログで感想を語るには、この人はこういうものだというのを、語り易そうで、実は語りにくい作品なのです。この人のは。 しかし、ポスターに使われている『グランピア』という作品。これは油絵です。この画面で見ていただいただけで、凄いとしか言えないのです。で、実物を見たときは、この画面とは別のもので、しかし、凄いとしか言えなかった。凄いという言葉も便宜的に出て来たただけで、言葉を失ったというのが正しい。この作品についても、後で、個別の作品の感想の中で書いて行きたいと思います。ただし、今回は、今までの美術展と違って(実は今までもそうだったのですが)、言葉にできるか、やってみないと分からないのか正直なところです。
■故郷
アントニオ・ロペスの画学生あるいは修行中(?)の作品が集められていました。ここに展示されている作品を見ているとロペスという画家が写真のように対象を写し取ることを志向していたのではないことが分かります。結果として、写真と見違えるほどそっくりな作品になっていたとしても、それはあくまで意図したということではなく、ただそうなってしまった、ということが、この初期の作品を見ていると分かります。だって、わざとそっくりにならないように描いているではありませんか。『花嫁と花婿』(左図)という作品を見てみましょう。この時点で、すでにロペスはある程度の画力を身につけていたはずです。前回のポスターで見ていただいた『グランピア』の圧倒的な力量とまではいかないにせよ、その素地は十分あったはずです。それにしてはリアリズムとは言えないような作品です。これは意図的に、こう描いているとしか思えません。画面左手奥にギターや瓶や果物等がテーブルに乗ったり立てかけられたりと描かれていますが、リアルな写生ではなくて、単純化され、しかもかなりデフォルメされギターはどのように置かれているかよく分らないといった体で、とりあえず、そこにものが在る、そういう形をしたものが在るという描かれかたです。まるでキュビズム直前のピカソのようなフワフワした感じです。そして、中心の2人の人物も人間というよりは人形に近い、人間の形をしたものが在るという感じです。そして、全体としてのバランスが何となくチグハグで、空間とものとの関係がバラバラにされてしまっている感じです。私には、ここに描かれているここのものの外形が在るということが、ここでのロペスの関心で、それ以外はあまり顧みられなかった、という気がします。若い時の試行錯誤の後だからと言われれば、それまでですが。そういう試行をしようとしたということと、そういう試行だからこそ彼の意図が純粋に近い形で表われている、ということができると思います。そして、色遣い、絵の具の使い方です。なんかキレイでないというのか、余計な色がいっぱい使われているというのが、背景の壁で迷彩模様になっていますし、女性の衣装も花嫁衣裳なので純白ではないかと思うのですが、沢山の色が使われています。これは、例えば印象派の絵画では、そういう意外な色を配置することで光のスペクトルというのでしょうか、まばゆい陽光が当たって煌めくさまが印象的に目に映るのですが、ロペスの作品にはそういう煌めきのようなものは感じられません。ロペスは、このころから意図的に光沢のない透明性の少ない絵の具を用いていたといいます。それらをひっくるめて、作品全体を見てみると、写真のような見たままとは正反対の世界が、そこにちょこんと乗っかっているという感じがします。そして、面白いことにそのために、今まで上げたことを嚆矢として、ほかにも様々な試みをしているのですが、それが決してうるさくない、不思議な静謐さを保っているのです。先ほど、少し触れましたがキュビスムに行く直前のピカソの作品を見てみれば、様々な試みの強い自己主張をもっていて、それらが画面から飛び出してきてしまいそうなエネルギーに充満していて、それは見る方からすれば圧倒されるのですが、ロペスの作品はそれとは反対にスタティックな静けさが漂っているのです。ここでは、突飛に思えるかもしれませんが、スペイン・バロックの時期に、スルバランや他の画家たちによって一時集中的に描かれた「ボデコン」と総称される神秘的な静物画(右図)を彷彿とさせられたのでした。 『立ち話をするフランシスコ・カレトロとアントニオ・ロペス・トーレス』は、さきほどの『花嫁と花婿』に比べれば、遠近法で画面が構成されて、写真のような感じで見ることができます。私には、ロペスが写真のようなものには、敢えてしないという意図のようなものを感じしまうのです。写真のようにしないというのではなくて、そういう写すということはハナから考えていない、ということなのでしょうが。それは、全体しての輪郭がすべてボヤけているように、輪郭線を消して、色遣いの点で隣り合う色同士が対立しないように、慎重に選択されているように見えます。そして、例えば中心にいる二人の男性の着ている黒い背広にしても黒だけでなく異質のいろを慎重に散りばめることによって、黒という強い色が目立たぬようにして、同じように全体に異質のいろを散りばめることによって、画面全体から色彩の対立による緊張関係を生じさせないようにして、対立点である色の境目が輪郭として目立ってこないようにしているように見えます。そのとき、絵の具を塗るというのではなくて、まるで絵の具が置かれるように、そこには筆触が見えないように周到に注意が払われているように見えます。その結果、輪郭が曖昧な幻想とまでは行かないまでも、現実のリアルな世界と一歩ずれたような不思議な世界が現われているような感じがします。そこに配置された人物たちが曖昧な輪郭に囲われて人間らしき外形の色のかたまりがものとして在るという、不思議な感じの作品となっているのです。だから、そこで、人々はそれぞれにポーズをとっているのですが、動きが感じられない。まるで止まっているようなのです。そこで感じられるのは静寂さです。もう一度、展覧会ポスターの『グランピア』を見ていただきたい。街の風景のはずなのに、人影はなく、街の喧騒が聞こえてこない感じがしませんか。この美術展訪問の文章の最初のところで渋谷という街の大衆的なエネルギーに対する違和感を少しくお話ししましたが、ロペスの作品を見ていると、そういうものを注意深くされる、もっというと嫌悪する(言い過ぎかもしれません)、ちょっとした貴族主義的といったら言い過ぎかもしれませんが、ハイエンド志向というのか、私のようなもともとローエンドの人間からは鼻持ちならないと感じられないでもない、ただしこれは批評家からみれば真摯とか映るんでしょうが。そういうものを感じることがあります。 そういう、これまでお話ししてきたことが集大成されているのではないか、思えるのが『フランシスコ・カレテロ』(上図)という肖像画です。ここでのロペスのスケッチ力というのは凄いの一言以外に何もしゃべれないものです。それなのに、この汚い色の使い方は何なのか。まるで画面を汚しているとしか思えないような、関係ない色がそのスケッチが表われるのを妨害するようです。それらの理由というのか、そこで感じ取られる効果というのは、今まで書いてきたことが全部まとまって、見る私の目前に提示されているように見えます。
『マリアの肖像』という作品を見ていきます。紙に鉛筆で描かれたスケッチでこれを板に貼ったものだそうです。これを見て、私は一発で熨されてしまい、言葉が出ないほどでした。多分、画像では巧みなスケッチくらいにしか映っていないかもとれませんが、実物を前にした時に、その重量感というのか、存在感、もっというと出来栄え(誤解を招くかもしれないことばですが)が圧倒的に迫ってくる感じでした。ロペスが愛嬢であるマリアをモデルに鉛筆でスケッチしたという作品なのでしょう。マリア本人を写した写真と見まがう、しかし、全く違う描写力。 ちょっと言葉に拘りすぎかもしれませんが、リアリズムの巨匠という展覧会タイトルからいうと、この作品などは典型的なリアリズムの質の高い作品ということになるのでしょう。たしかに、画像データとして取り込んでウェブにアップしてものをディスプレイで見ていると、写真と変わらないようです。しかし、両者はまったく異なるものです。それは、言葉で説明すると余計な想像を挿入させてストーリーを捏造してしまうことにもなりかねないのですが、敢えて、そういうリスクを負いながら、試みに書いてみます。(上手く行くかはわかりません)第一に言えることとして、ロペスは、おそらく自宅の庭に立っているマリアを描いたのではないかと思いますが、その全てを描いていないということ。マリアの描き方にしても手の先は省略されています。また、マリアの背後の家の壁は上方の一部が少しだけ描かれただけで描かれていません。つまり、ロペスは現実の中から描くべきものを切り取ってきている、そこに選択が働いているということです。これは当たり前のことですが。ロペスのような画家でなくても、私でもそうですが、人間というのは、目の前にある全てを見ていません。たとえ見ても、すべて認識しません。いうなれば見たいものだけを見ている。ここで、ロペスが写真のように全てを描いているわけではないのは、そのためなのか、分かりません。その他にも、作品が完成した時に見る人に与える効果を考えて、省略したかもしれません。そして、第二に描き方のコントラストというのでしょうか。ここで描かれている主なものはマリアと右手の葉です。そして、この両者の描き込みは明らかに差があります。さらに、マリアについても、顔の部分と彼女の着ているコートの部分では描き込みの程度が違っています。最も手が込んでいるのがコートの部分で、少女には少し重く感じられるような重量感が感じられるように、そして暖かそうな手触りが分かるような質感が描かれています。(具体的に、どのような手法で、とうしてこんなことが感じられるように描かれているか、テクニックについては私のような素人には知る由もありませんが)同じマリアでも顔の部分はまったく鉛筆の痕跡がない部分もあり、描き込まれているという感じはしません。明らかに、ロペスはここでマリアというメインの対象に意図的にコントラストをつけていると言えます。これは、第一の点のセレクションを、より精緻に進めたことではないかと思います。これに対して、写真はどうなのでしょうか、写真は撮影したままなので、ここで為されていないコントラストづけはできない…ことはないんです。例えば、デジタルカメラの画像はフォトショップというソフトを用いて簡単に光線の強弱を調節できます。また、フィルム写真であれば、現像や焼きつけの微妙な調性である程度のことはできます。その点で考えられるのが第三の点です。ロペスは画面に意図的にコントラストをつけています。これが写真でできるものとは、全く違うもので、ロペスにしかできないものであります。それはロペスが自分の手で鉛筆を握って描いていることに起因するものです。ロペスによって描かれた『マリアの肖像』ではマリアの顔の部分とコートの部分の描かれ方の密度が異なっていて、存在感の質が違っています。これに対して、写真においては存在感は平等です。そこでのコントラストは密度に差をつける、デジタル画面で言えば画面のドットの数を調節することではなくて、一つ一つのドットの色を薄めることです。見た目には、そんなに変わらず、そんな違いに意味があるのか、と問われそうですが。そこで、私が見た場合、重量感とか存在感の違いとなって現われてくると思います。それをロペスは、描いている時に、つまりは、作品が形を直して後で調整するというという写真の場合の調整とは違って、描いているプロセスの中で、そういう風につくられていったということです。端的に言えば土台からコントラストがつけられているということです。これを言葉で、このように説明してしまうと、あたかもロペスという人の認識のあり方とか、画家として世界をどうとらえたか、解釈しているかという方向に行ってしまいそうですが。そうとはとらないでほしい。それが第四点です。さきに、ロペスは自分の手で描いていると敢えて、言わずもがなのことを言いました。そのことです。この作品をじっくり見てみると、余計な線や描き直した痕跡が見られないのです。いうなれば、一発勝負でこの作品が描かれていったことが分かります。水墨画のように即興的な作られ方をしたのではないかと思います。ただし、水墨画は墨が乾かないうちにという時間的な制約の中で描かれていきますが、この『マリアの肖像』は一本の線が引かれる前に十分な時間かけて慎重な検討が行われてと思いますが、線が引かれれば一発勝負でやり直しがきかない点では、同じだと思います。そこでです。絶対に間違いがいないとは言えないでしょう。中には意図したとおりに行かない場合もある。水墨画なら、その流れを止めないように即興的に転換や、その間違いを生かすような別の流れに乗るようなことをするでしょう。それが水墨画の即興性のひとつでしょう。それと似たようなことをこの作品でもあったのではないか。これは私の想像です。作品の表面上の汚れがそのままにされて、例えばマリアの顔を横切るようにある茶色っぽい染みのそのままにされています。 これらのことから、私が想像してしまうのは、ロペスという画家は描くという自らの肉体の行為のプロセスを、重視しているのではないかということです。だから、頭で考えた理念としてのリアリズムとかそういうものとは違うところで、描いている画家ではないかと思われるのです。水墨画の即興性を少しく話しましたが、そのような日本画の即興性というのが、手が動いて描いて行くことに素直に従って作品を作っていく、その結果としてリアリスティックな作品が生まれた、というのが彼の作品ではないかと思えるのです。最初のところで、「何か」という問いかけをしましたが、それは頭で考えたものや認識したものとかそういうものではなくて、描くという肉体の行為のプロセスそのものに起因するものではないか、という気がします。これは、未だはっきりしたことではなく、ひとつの仮説です。 『マリアの肖像』に関するコメントが長くなってしまいましたが、もう一つ『夕食』という油絵作品です。この作品は未完なのかもしれませんが、マリアもまじえた家族の食事風景です。この作品を見ると、わざと写生的な画面を壊しているような印象を受けます。右手の母親の頭は二重にダブられています。また、マリアの顔も塗りが部分的に何も塗られていない穴があけられているようです。ふつう、こんな穴のあけ方はしないのではないでしょうか。彩色するときにこんな穴の開くような点描みたいなやり方はとられないでしょう。これは明らかに、最初から、ここには絵の具を置かないと意図的に計算されたのは明らかです。それは、どうしてか、どういう意図か、考えても分りません。おそらく未完となっているところをみると、意図したように行かなかったのか、これからベの何かが為されるのか、分かりませんがこのままで画家が満足していたというのはないと思います。もう一つ考えられるのは、何らかの意図があって、こうしたのでしょうけれど、それに加えて、そういう行為をしている画家の身体が即興的に動いてしまったということが、あったような気がしてしまうのです。それは、もしかしたら、画家が無意識に通り一遍の写生のリアリズム作品に抵抗感を持っているかもしれません。それが、この画家の「何か」なのではないかと思います。
■マドリード
最初にポスターでも見ていただいた『グランピア』(上図)という作品です。何度も言いますが、これだけ精緻に描かれていることだけでも凄いという、画像でも片鱗をうかがわせるものですが、実物をみると本当に圧倒されます。人間業かと思わられるほど、よくまあ、これほど描かれるものかという感嘆以外のものは出てきません。しかし、他方で言うと、これまで見てきたロペスの写生ということに納まりきれない何ものかが常に部分的に突出してきた作品をみてきたことと比べると、納まりのいい作品という感は、私には拭えませんでした。圧倒的な技量、パッと見で凄いと分かる作品であることは確かです。しかし、そういう凄さが一目でわかるというのは、人々のものさしに対して違和感がないということです。これまで見てきた作品が、見る人に投げかけてきた何かというものが。この作品にはない。万人受けする仕上がりになっているということは確かなのではないか。そう感じるのは、多分、私がひねくれているからでしょうか。 それと、解説などを読んでみると、朝の一瞬の光線とそれに映し出される風景を描くために、その一瞬だけを定着するためにその光景が現われる20分間だけキャンバスを立てて写生につとめ、それを数年間続けてようやく完成したということが書かれていますが、私の印象は廃墟のように見えてしまうのです。朝の風景にしたって街に人影が何もないし、生活臭がしてこないのです。例えば、朝ならゴミが散らかっていてもいいし、人影だけでなく動物や鳥の影がない。また、建物が動くということはないのですが、とはいっても街です。街の動きというのが全く感じられない。そこは静止した、不気味な静けさの世界という感じです。この美術展の主催者や多分一般的にはロペスの代表作ということになっているのでしょうからポスターにも使われているのですが、そういう点で言うと、私の好みからすると、他のロペスの作品に比べると物足りなさを感じてしまうのです。 これは他の例で言えば話は変わりますが、映画が好きな人で小津安二郎という映画監督の名前を聞いたことがあると思います。1950年代に才能を開花させて集大成的な作品を多く残し、日本的なホームドラマをつくったという一般の評判の監督です。その代表作として誰もがあげるのが『東京物語』という映画で、尾道に住む老夫婦が東京で一家を構える子ども達の家庭を訪ね、そこで生活に汲々としている子ども達から慇懃無礼の歓迎を受け、唯一心の籠った歓待を受けるのは戦死した二男の未亡人の義娘である原節子だけだったというほろ苦い話ですが、この作品は小津作品のなかで突出したものがなく納まりの良い作品なのです。その前の作品である『麦秋』の意味不明の画面のつなぎもないし、固定ショットで画面を破たんさせないという、もっぱら小津に対する一般的評価ですが『麦秋』をはじめとした他の作品では、破たんさせる箇所が何か所か差し挟まれていて、それが何かのっぴきならない緊張感を与えているのですが、『東京物語』には、そういうものがなく、いうなれば、安心して見ていられるのです。先に言ったストーリーを安心して追いかけることができるのです。『麦秋』であれば、一見普通に見える家庭で、それを映画という画面に取り上げられるとそこには活劇と共通するような映画的な動きとか空間があり、通り一遍のホームドラマに納まりきれない葛藤のようなものが生まれ、そこに映画にしかない独特の映画的快感を濃厚に発散させるのです。それが『東京物語』にはないのです。もし、ここに書いたことが抽象的で分かりにくいということなら『麦秋』の最後の5分間、原節子の結婚がきまり、家族で海岸に出掛けて、砂浜に原節子と三宅邦子が腰を下ろしているところを後ろからカメラが撮っているシーンを見てみて下さい。びっくりするし、その後の不可解さに頭を抱えると思います。こんなことをホームドラマの娯楽映画でやっていいのだろうかと。 で、話を『グランピア』に戻すと、これまで見てきたロペスの作品でリアリズムと言われているロペスの評判とは違う何かを感じたものでしたが、この作品ではそういう何かを感じることはできませんでした。例えば、写生とか、リアルといいますが、ここで描かれている風景は、見えたままを描いているわけではないわけです。それらしく描かれているというだけの話です。それをロペス自身、よく知っていて、リアリズムというものに対する懐疑があったと思います。わざと、定規で量った後を残したり、構図を歪めてみたりということを、どこかでやっていました。この作品でも、遠近法を歪めるとか、それらしい形跡は見られません。 遠近法というのは、一種の誤魔化し、あるいは嘘です。そんなことは、見れば分かるといっても美術の教科書でそういう文法にどっぷり浸かってしまっていれば、その文法でしか見られなくなってしまうので、何の疑問も感じなくなるかもしれません。そういう遠近法のパースペクティブに準じて捉えている写真というのも、実はらしいというだけで、人と同じような光の捉え方はしていないものです。簡単に言えば、人は左右の二つの眼でステレオで光を捉えています。これに対して、カメラは基本的に一つのレンズ、つまり眼で光を捉えています。これは平面というものに定着させるため仕方のないことです。しかし、1点と光をとらえたのと、2点で光をとらえるのが、同じであるはずがありません。奥行のない平面で立体であるように錯覚するために使われる約束事と言ってもいいでしょう、遠近法というのは。だから、西洋絵画以外の絵画では、あまり遠近法が使われていません。これは西洋という一ローカルに特徴的な癖なのです。そして、それが癖であるということは、近現代の画家たちは分っていたからこそ様々な実験を試みたのではないかと思います。ロペスもその一人であったような気がします。 もう一つ『トーレス・ブランカスからのマドリード』(左図)という大きな風景画。これは『グランピア』に比べると変なところがあり、まだ安心して(?)見ることができます。1568o×2449oという巨大な画面にこれだけ精緻に描き込まれているのは、『グランピア』と同様に驚嘆しますが、画面を一枚の板ではなくて、つぎはぎで足しています。そして継ぎ目が露出しています。これだけ丁寧に描いていて、それをぶち壊すような画面の継ぎ目を隠そうともしてません。この辺のへんなことは、ロペスは分ってやっていることだろうと思います。ロペスはこの作品と同じような規模でマドリードの風景を何点か描いていますが、どれも画面はつぎはぎです。そして、もう一つ共通しているのは、それだけ描き込まれながら、画面の大半を占めているのが空であるということです。この作品でも上半分が空です。これだけ描けて、対象を写生することがメインであれば、もっと建物を描く部分が大きくてもいいはずなのに、そういう見方、画面の切り取り方をしないのです。描けるのに、あえて描かれない空の部分の画面に占める割合が大きい。それはまるで、これだけ描き込むことは出来るが、それはたいしたことではないと、画家が言っているように感じられます。そして、ロペスの他の作品では、こういった傾向は見られないので、明らかにマドリードの風景を対象とした作品の中で、意図的に行われていたのだろうと思います。そして、この大規模な作品で、息がつまるほど精緻に描き込まれ、定規で量ったように、まるで設計図のように計測されて写し込まれたような街の建築の描写よりも、茫洋とした上空の広く取られた空間の方に、私の場合には、視線が行ってしまうのでした。その時に、画家には悪いのですが、マドリードの街の建築の描写は後景に退いてしまって、空間のひろがりがとこも心地よかったのでした。 これは、この展覧会の感想の最初のところで少し紹介した、ビクトル・エリセという映画監督の映画の空間の把握に共通すると、私が強く感じた部分でもあります。最初に紹介したように、ビクトル・エリセという監督は、ロペスを出演させた『マルメロの陽光』の監督です。このエリセの長編第一作は『ミツバチのささやき』という作品で、アナというスペインの田舎の少女が巡回映画で見たフランケンシュタインを実在すると信じてしまうことから始まるお話しなのですが、その作品の舞台の撮り方が、アナという少女がフランケンシュタインの存在を信じてしまうだろうなと思わせる世界だったり、村の子どもの純真さというのか素朴さが画面に漲っていたりと、決して幻想的な画面ではないのに、フランケンシュタインがいるとかいないとかというのが客観的な事実なのかどうか、見ている者もだんだん曖昧になってくるように世界が見えてくる、そういう作品の印象でした。特殊撮影のような仕掛けめいたことは、最後に少しだけでてくるだけで。その映画の中で、アナが姉と連れだって、後にフランケンシュタインを発見することになる荒野に遊びに行くシーンはがあって、その画面構成が、まさにここでの、ロペスの作品に通じるものだったと思いました。当時の映画ファンは、ジョン・フォードへのオマージュという人が多かった(多分、実際はそうだったとおもいます。この世代のヨーロッパの映画監督はジョン・フォードとかハワード・ホークスといったハリウッド映画全盛期の監督をリスペクトしている人が多かったようですから)。難解な映画という人もいるようですが、そういうシーンの中で小さなアナが動きまわり、そのことにより事件がうまれ、ものがたりが紡がれていく、そうものが生まれるベースとして映画的な空間のひろがりが何よりも、この監督は映画を愛していることが伝わってくるように感じられたのでした。 ああ、『ミツバチのささやき』は大好きな映画なので、語り始めると際限がなくなります。そこで、ロペスの空間です。マドリードの空が単に何もなく茫洋と広がっていたというのではなくて、そこに計測の後だったり、画面の継ぎ目だったり、意図的(?)に様々なものが残されています。何か意味があるのか、仕掛けとして考えさせたり何かさせるのか、私にはロペスのロジックが分らないので何とも分かりません。そう一種の不自然さは、そういう部分というよりも、このように空間の方を大きくとった構図が基本的にそうだと思います。どこかのびるの屋上から見渡した風景をそのまま写し取ったというような解説がありますが、空を全部写し取ったわけではなく、どこからどこまで画面に入れるかという計算は、ロペスはしていたはずで、そこに計算なり、意図があったはずです。そして、この作品の画面に大きさを、これだけの大きさにしたということも。 で、私は、それらはこの空間が決めたのではないか、と何となく、見ていて思ったのでした。空間の広がりとそこの光のあり方を、そういうものとして提示するには画面にも広がりが必要、ということで建築風景を後景として見てしまう、私の見方です。
■植物
アントニオ・ロペスという画家には馴染みがないということから、何かしらの親しむための糸口を模索すると、それほどメジャーな映画ではなかったのに「マルメロの陽光」という映画が以前に公開されたということが取り上げられた。その時のロペスの作品が『マルメロの木』(左図)として展示されています。映画を見た人なら分かると思いますが、ロペスは庭に実っているマルメロの木を、そのままに描こうとして、スケッチから始めて彩色して作品を仕上げて行こうとします。しかし、植物は成長するもので、マルメロの実は成熟して大きく重くなります。そうすると、実の大きさや位置を厳密にスケッチして作品としていたロペスはそのたびに作品の修正を試みます。作品の真ん中に定規で引かれたような線があるのは実っているマルメロの実の位置を計測したように厳密に作品の画面に位置づけようとして引かれたものです。それが数本あるのは、マルメロの実が熟して重くなると、次第に枝がしなって位置が下がっていったのに応じて、ロペスが画面の修正を試みた跡です。そして、修正が追い付かず、マルメロの実は熟して地面に落ちてしまいます。そこで、ロペスは描くのを諦め、作品は未完のまま残されたというわけです。その過程をつぶさに追いかけ、映像としたのか「マルメロの陽光」という映画の内容と言えます。 これは、リアリズムにこだわるロペスの姿勢を映したものと、カタログの解説に書かれたりしています。それはそれとして、慥かにそうなのでしょうけれど、私には、そこに何か病的なもの、リアリズムで片付けられないものを感じたのでした。植物が成長することは分かり切っているはずですから、ある時点の姿を写真で記録していて、描いたものを写真の情報で補完するなり、記憶しておいて補てんするなり、いくらでもリアリズムに見える作品として完成させることはできたはずです。それに、ロペスという人のスケッチの技量はすごいし、それを本人も分っているはずなので、それをしないというのは、そこに何らかの意図があるはずです。執拗に植物の成長を視野に入れず、自分の眼前あるそれを描こうとするのに、そこにロペスの主観が働いているわけで、それが私には病的に映ったのでした。例えば、さっき指摘しましたが、この作品の真ん中に定規で引いた線が残っています。未完成故に残ってしまったのか、完成すれば隠れてしまうものなのかとも考えられなくもないのですが。画面中心近くのところでは、葉や実で彩色されたところの線は白く残されています。こんなところだけ白く残っていたら、後で彩色する時に跡が残ってしまうのではないか。そう考えると、ロペスはこの線は最初から残すつもりではなかったか、と考えてしまうのです。それは、前回見ていただいた『夕食』という作品で、マリアの顔の部分に白い穴のような箇所が数か所残されたことと同じような気がしたのです。とすれば、眼前にあるものをそのまま写生するということとは、実は違うことをしようとしていたのか、とすれば未完にまでして固執した「何か」があったのか。 それは同時に描かれたスケッチ(右図)を見ると油絵とは違った印象で迫ってきます。とにかく、鉛筆で引かれた線が躍動しているのです。その線の多彩なこと。これを見ていると、作品が完成してしまうと、作品を描くという動きが止まってしまうのを恐れているという想像までしてしまうのです。それほど、このスケッチでの線は動きを内に秘めているように見えます。永遠に完成しない作品というと大げさかもしれませんが、ロペスの作品からはそういう矛盾した志向性が感じられるのです。さっき、病的と言ったのは、そういう矛盾を抱え込んで、完成しない作品を、そういう題材をわざと選んで、結果がわかっているのに敢えて、描くという、その執拗さはまるでシーシュポスの神話のようです。 このコーナーは、あまり大きく取り上げるつもりはなかったのですが、これが代表作というのではないのですが、たまたまひとつということで『アビラのバラX』(左図)という作品を見て下さい。白の背景で瓶ざしの白いバラを描いています。白の背景で白いばらの花を描き、そのバラの花の奥行とか花びらの重なりを白のグラデーションで描くというのは素人目に見ても凄いです。そして、水を張ったびんに茎がされている部分。瓶が瓶として明確に描かれておらず光線の屈折の描き方で、そうなっているのがハッキリわかるようなのが、またすごい。しかも背景は白です。白という色だけで、こんなにも描き分けができるのか。何か見せつけられたようなかんじです。しかし、この作品にも定規で引かれた線が残されているのです。わざと、画面の統一感を削ぐように、あえて完成した仕上げにしないと意気込んでいるかのように。へんな比喩ですが、画竜点睛という故事を想い起させるものがあります。それほど鬼気迫る出来栄えと思うのですが。またでてきましたが、そこに「何か」が働いているような気がしてなりません。 ■静物と室内
ロペス展に対する感想は、前回のマドリードがヤマだったので、今回はその残りです。解説での評価では、この室内とかその後の人物を題材とした三次元の作品を大きく取り上げているようです。私には、前回の「グランピア」についてお話しした時に、少し言いましたがロペスの作品で感じられた何か、リアリズムとか写生と言われると、「違うだろ」と言いたくなるような何か、それが嵩じて現実というものに対して違和感を持ってしまうような何か(言い過ぎ化もしれません)が、徐々に感じられなくなり、卓越した技量を持っているが故に、その技量だけが前面にでて、その意味がうすくなり、目的と手段が逆転してしまうように見えて、私には、あまり面白くありませんでした。これは、わたしのかなり主観的な見方ではあるのでしょうが、ロペスの魅力というのは、卓越した技量でいかにも見たままそっくりで写真と見まがうような作品でありながら、実はそういうもの自体が写実でないということが何となく画家本人が自覚しているような懐疑というのかイロニーのようなものが同時に感じられるという、微妙なバランス感覚ではないか、思います。それが、だんだん懐疑が薄れてきて、目先を変えて、それを悪く言えば誤魔化しているように見えてしまうので、後半の展示は面白くない、思うのでした。 その中でも、ロペスの静物画は、16世紀スペイン・バロックのボデコンと呼ばれる静物画の静謐さを彷彿とさせるところがあって、佳品だと思いました。リトグラフの作品がとても印象的だったのですが、ここでは『花を生けたコップと壁』(左図)の普通のコップに水を張って一輪を挿しただけのさりげない作品の静謐さ。白のグラデーションだけでここまでよく描けるなという技量への感心。この白を基調としていることからでしょうか、清澄さというのか、落ち着きと、これが16世紀ならば崇高ということになりそうな感じです。 そして、室内の事物を題材にした作品に対しては、一般評価は高いようですが、私には手段とか技量が先に立っているようで、あまり面白くありませんでした。トイレを描いた作品の場合は、写生がそのまま写していないと思えるアラが欠点のように目立ってしまって、何でこんなものを描いているのかという疑問すら生じてしまうものでした。私には。 これで、アントニオ・ロペス展の感想をひと通り終わりにしたいと思います。この書き込みを通して「何か」と考えてきましたが、そのたびに色々と変化し、最終的には妥協的に今回の冒頭で述べたようなことで、いったん落ち着かせたいと思います。 |