ムンク展─共鳴する魂の叫び |
2018年11月2日(金) 東京都美術館
おそらく代表作「叫び」は絵画好き以外の人にもひろく知られていて、ムンクという画家は知る人も多いので、こんな画家という紹介は無用だと思いますが、一応、展覧会の主催者のあいさつの一部を引用します。“ノルウェーの由緒ある家系に生まれたムンクは、病弱だった幼少期に家族の死を体験し、やがて画家になることを目指します。ヨーロッパ各地で活動しながら世紀末の思想や文学、芸術と出会うなかで、人間の内部に迫る象徴主義の影響を強く受けながら、個人的な体験に根差した独自の画風を確立し、ノルウェーの国民的画家としての地位を築きました。愛、絶望、嫉妬、孤独など人間の感情を強烈なまでに描き出した絵画は、国際的にも広く影響を及ぼし、20世紀における表現主義の潮流の先駆けにもなりました。本展覧会には、ムンクの代表作《叫び》(1910年?)が出品されます。世界一有名な絵画というべきこの《叫び》”には、技法や素材、制作年の異なるヴァージョンが4点、その他に版画作品も現存します。オスロ市立ムンク美術館所蔵のテンペラ・油彩画の《叫び》は、日本では本展覧会で初めて公開される作品です。さらに、ノルウェーへの思慕が漂う美しい風景画や、肖像画、明るい色彩が印象的な晩年の作品などをあわせて展示し、画家の幅広く豊かな創造活動を紹介します。時代を越えて私たちを魅了するムンクの芸術を、この機会にぜひお楽しみください。” 慥かにムンクは代表作の「叫び」で知られていますが、それゆえにムンクのイメージが固定化してしまっているところもあり、ムンクという画家は「叫び」だけではないということを控えめに述べているようです。かといって、有名な「叫び」を外すことはできない、そんなアンビバレントなところが主催者あいさつに表われていると思います。実際のところ、「叫び」がなければ、この展覧会の入場者数はかなり減ってしまったでしょうから。したがって、主催者あいさつでは控えめな言い方になってしまいますが、カタログの中では、「ムンクをめぐる神話」としてストレートな言い方がされていました。少し長くなりますが、その思いが伝わるものなので引用します。“ムンクといえば、まず有名な《叫び》と結びつける人が多いだろう。いまやこのモティーフは、現代人が抱える不安や疎外感を表わす普遍的なシンボルとなっている。印象的なこのイメージは、説明なくただちに理解できるだけでなく、人間の存在の根幹に関わる何かを私たちに訴える。こうした性質ゆえ、《叫び》は近代芸術における最も象徴的なイメージの一つとなり、度重なる盗難被害やオークションでの記録的価格による取引によってさらに知られるようになった。《モナ・リザ》のように、《叫び》はポップ・カルチャーにおいてもたいへん人気があり、《叫び》をコピーしたり、改変したさまざまな作品が制作されている。そのイメージはホラー映画から政治的な風刺画に至るまで、あちこちで目にすることができる。だが、作品の人気はムンクの「苦悩する芸術家」という側面だけを強調してしまう。本展への来場者は、そうした単純で省略された見方でこの画家を捉えるのではなく、より深い知識と、ニュアンスに富む理解をもって、ムンクの新たな側面に触れることになるだろう。”
1.ムンクとは誰か 展示室に入って最初の作品が「自画像」(左図)という1895年の版画(リトグラフ)です。これを見るとデッサンが上手い人であることが分かります。ちゃんと顔が描かれているというだけに、そこに施されている演技というのか、仕掛けが割合にあからさまに出ていると思います。白黒の版画
また、ムンクは生涯にわたって多数の自画像を描いたということですが、ここで見た作品が自画像である必要はあったのか、その作品自身に根拠が見つかりません。作品の画面の人物に施した細工を見れば、自己の姿への執着がない、それは関心がなくて、単に題材として扱っている。そうであれば、何も自画像ではなくて、この後のコーナーでは有名人のブロマイドのような写真をもとにした肖像画を多数描いているのだから、そのうちひとつを題材としてとりあげたっていいわけです。ここに展示されている作品を見ていると、ここに描かれているのが画家自身ではなくて、家族でも、マラルメでもイプセンでも違いはないだろうし、むしろ、誰でもない人を設定したほうが細工を施し易いはずです。解説の一節に“数々の自画像─それらは、20世紀への変わり目を生きた画家が、新たな表現に取り組む絵画実験の主題となり、名声を築き歴史に名を残す上で戦略的に自己演出する契機となる”という説明がありましたが、それが私には納得できるものでした。職業としての画家であったムンクは、当然その職業で生計をたてていかねばなりません。一般的な画家のイメージとしては、印象派に代表される近代の画家の小説や映画などで描かれているのは画商を通じて金持ちの愛好家に作品を買ってもらうか肖像画の注文を受けることでお金を稼ぐというものです。しかし、ムンクの場合は作品を売ること以上に、ヨーロッパ各地の都市で個展を開いて、その入場料収入の比重が高かったということです。いわば、ドサ回りの営業パフォーマンスです。おそらく、ムンクの描く作品傾向はお金持ちの一般的な好みに沿うようなものではなかったでしょうから、先端的な芸術運動や最新の流行に敏感な人々を対象とするものだったでしょう。しかし、そういう人々は、一部の愛好家を除けば、ムンクと同じような芸術家だったり、学生といった、だいたいにおいて若者で収入の多くない人々だったでしょう。そういう人々にまとまったお金で作品を購入してもらうということは、あまり期待できない。しかし、入場料くらいなら払ってでも作品を見てくれるでしょう。現代の美術展の入場料を払って名画を鑑賞する多数の人々も、その当の作品を購入するなど思いもよらないのと同じように。そういう商売をムンクという画家は行っていた。そこで、できるだけ収入を稼ぐためには、個展の入場者を増やさねばならない。そのためには、ムンクという画家に興味を持ってもらわなくてはならない。個展といってもそれほど長期間開催するわけではないでしょう。一定期間個展を開催したら、次は別の都市で開いて、新しい入場者を得るというためには、効果的な宣伝が必要です。そのために、ムンクという画家のイメージをアッピールするとために自画像を描いて、そこで、自身の画家のイメージを演出した。それがムンクのマーケティング戦略だったのではないか、ということです。そして、その戦略の影響は後の世の現代でも残っていて、一般的なムンクのイメージに強い影響を残している、とは言えないでしょうか。つまり、この展覧会に、ノコノコと出かけてきている私も、ムンクの戦略にハメられているというわけです。そう考えると、ムンクという画家に対して、親近感が湧いてくるではありませんか。 2.家族─死と喪失
「カーレン・ビョルスタ」(左図)という作品です。ムンクの叔母に当たる人だということですが、自然主義的なちゃんと描けた絵画です。具体的な証拠といえるものを指摘できるわけでもなく、私の個人的な偏見なのかもしれませんが、この作品もそうなのですが、光が、例えば南仏の強い陽光とも、フランドルのどんよりした暗さとも違う、北欧の透明な光が、それを通して見えてくる独特の色彩が、この作品にはあるような気がします。淡いという 「死と春」(左下図)という1893年の作品。ムンクらしくなってきました。棺に横たわるのは姉のソフィエでしょうか。窓の外には、春の新緑がまぶしい。ムンクの有名な作品は総じて丁寧に画面を仕上げたとはいえないような粗っぽく見えてしまうものですが、この作品では、その兆候はありますが、まだ多少は丁寧に絵の具を塗っているようです。とくに、窓の外の淡い緑を基調とした部分は、その緑がまぶしく映るように色もしっかりしています。しかし、画面の中心である、遺体については顔の部分はそれなりに描かれていますが、それ以外のところはパターンのようで、横たわる身体はとってつけたように、それらしくなっている。しかも、彩色は白に青を混ぜたような絵の具の塗りにムラが目につく。キャンバスの下地が透けて見えているところもあるほどです。陰影も殆どなくて、ベタ塗りのように平面的です。まるで、立体的に描くということを気にしていないかのようです。これでは、立体感ある人の身体に見えない。そもそも、肉体としての存在感がないのです。それは、考えてみれば、遺体という物質としては存在しているかもしれませんが、人としては存在していないに等しい、そういう存在感のなさというのは、ちょうどよいかもしれません。むしろ、この後の作品を
3.夏の夜─孤独と憂鬱
「夏の夜、渚のインゲル」という1889年の作品です。前のコーナーの「病める子」でも触れた<生命のフリーズ>のモティーフの一つでもある浜辺にいるメランコリックな人物像の萌芽となった作品だそうです。画家の妹であるインゲルは明るい夏の夜の浜辺に白い服を着て、大きな岩の上に座り、静かに物思いに耽っています。海岸の岩は抽象的に表現され、神秘的な形をとっています。背景の海岸には漁網の竿が右から斜めに内側にスライドする明確な線として伸びていて規則的に区切られてリズムを作っています。また、インゲルの背後には波の線が水平に横切っています。これに対して、主人公であるインゲルが垂直に交錯していると言えます。また、浜辺の岩は丸まった曲線で、直線による海岸の上半部と対照ですし、赤茶色で、海の青とで対照されています。色の塗りは全体としてノッペリしていますが、インゲルの白い服のところはテクスチャが見えてくるように細かく短い筆遣いで、浮き立たせられています。しかも、その白が際立つように、それ以外の部分は色を混ぜて鈍くしてあります。それだけに、見る者の目には穏やかに調和的に映ります。海岸の竿の区切りの反復のリズム、石の整然とした配置。全体として、画面は静止した印象で、画中のインゲルは風景を見ているというより、夢うつつで坐っている。つまり、意識として現実にいない。一見、自然主義的なようでいて、当時の批評家から手厳しい反応を受けたと言います。
「赤と白」(左下図)という1899年ごろの油絵です。夏の夜の浜辺の薄明かり下で、二人の女性が描かれています。白い服を着た金髪の女性は海の方を向いて直立の姿勢でいます。一方、赤い服を着て、濃い髪色の女性は正面を向いています。この二人の女性の姿は、女性の生涯の異なる段階、あるいは性格の異なる側面を象徴していて、白衣服を着た女性は無垢と純真さを、赤い服を着た女性は成熟と情熱を表わしているという解釈があるそうです。例えば、正面を向いた女性を横長の画面で描いたという点で共通点がある(かなりこじつけですが)エドゥアール・マネの「フォリー・ベルジェールのバー」(右図)と比べて見ると、この作品の特異性が見えてくると思います。約17年前に制作されたマネの作品は正面を向いた女性像です。背後は大きな鏡で酒場の光景が映っていますが、それゆえにか平面的で奥行きがない画面になっています。しかし、その描法は点描のように煌びやかな照明に照らし出される華やかで虚ろに光る人々の衣装や装飾品が点々と描かれています。これに対して、「赤と白」の方は平面的な画面であるけれど、月明かりか星明りの薄明るい下でうすぼんやりとしているからというわけでしょうか、マネの点描のような光の粒子のような 「星空の下で」(右図)という1905年頃の油絵です。二人の女性は「赤と白」の場合のように別々であったのと違って抱き合っています。この二人の姿には様々な解釈、深読みが可能で、例えば二人の間の愛と欲望という不変の現象を表わしているというとも、二人の内のこちらに顔を向けている方は吸血鬼のように相手の活力を吸い取っているという人の喪失を象徴しているとも、解釈が分かれているようです。それよりも、背景の星空の粗雑と言えるほど塗りムラが大きくキャンバスの地が透けて見えてしまっているような夜の空が、結果的にゴッホ晩年の星月夜の波がうねるような夜の空と似たように見えてしまっているのです。
4.魂の叫び─不安と絶望 フロアがかわって、長いエスカレーターを上ると、そこだけ特に人々が集まっている展示室となります。通路は柵で囲まれて、警備員が沢山いて、立ち止まらないで下さいと絶えず注意している。おそらく、ムンクの一番有名な作品が展示されているところで、この作品目当ての人が大半なのだろうと思います。
「絶望」(左図)という作品は、「叫び」の隣に並んでいました。背景が同じではないか、って、ムンクってこういう人なのだ、やっぱり。この作品と「叫び」とは同じような背景にした前面に異なる人物を配しただけの違い、そこで画面全体の印象が変ってくる。画面の背景や人物といった各部分がモジュールのようで、それを組み替えて別の作品を仕立て上げる。まるで、共通のシャーシをプラットフォームにして異なるボディーを乗せて、別々の車種の自動車を製造する工場のようで 木版画に着色を加えたヴァージョンの「不安」(右図)という作品が、「叫び」と「絶望」と並んで、3点が特別に展示されていました。この正面を向いた人物が、互いを認識する素振がなくて、それぞれが前を向いているというのは、ジェームズ・アンソールの作品(右上図)に通じるところがあると思います。ただ、アンソールの作品は躁状態とでも言った方がいい祝祭的なハイテンションであるのに対して、ムンクの場合は各人の孤独を想像させる欝状態といえるところが違います。この不安をモティーフにした一連のシリーズでは、前のコーナーで見た一連の作品が森や海岸といった自然と結び付いていたのに対して、町の通りや橋、道路といった都市や近代的な生活と結び付いたものとなっています。それが極端な遠近法を用いた構図で、前景と後景の間に大きな断絶を生み出し、とくに「赤い蔦」では建物の壁面を真っ赤に塗りつぶして色彩で強烈な印象(家を圧迫するよう塗られた鮮やかな赤は、それが燃えているように思わせるほどの効果を持っています)を作り出し、不快で緊張感溢れる雰囲気を醸し出しています。
「接吻」という1897年の油絵(右図)です。わずかに開いたカーテンから窓の外の日の当たる明るさと対照的に、画面の大部分は暗い室内ですそこでは恋人たちが抱擁する親密な空間で、しかも、接吻を交わす男女の頭部は溶解したように融合してしまっています。その一体感と性的な欲動が明るい公開の場である戸外から隔絶された閉ざされた空間で抑制が外され、動き出している。それは1895年のエッチング(左図)では、もっとあからさまで、こちらの作品の男女は裸で抱き合っています。しかも、この肉体の描き方は妙に生々しいもので、とくに男性の腰の入れ方はセックスを強く暗示する腰つきです。それが木版画になると、例えば「接吻Ⅳ」という1902年の作品(右下図)では、抱き合う男女は抽象的な形態に単純化され、しかも色彩は濃淡もない黒一色で、背景である室内の描写は切り捨てられます。版木の木目が背景となって、しかも、その木目が抱き合う男女の形態にも残されていて、ノイズとなって、男女の形態が純粋に図案となる邪魔をしています。 これを見ていると、ムンクの作品では背景とか主題といった画面上の優先順位というものが考えられていないのではないかと思えることがあります。この1902年の作品では木目がそのままでていて主題であるはずの抱き合う男女の像の邪魔をしているわけですから、地と図の関係が逆転とは言わないまでも、曖昧になっています。そう考えると、色を塗り残してキャンバス地が見えてしまっている場合なども、キャンバスを地としてその上に図を描くものだとはかんがえられていないように思えます。一方で、1897年の油絵作品では画面左の窓にかかったカーテンがわずかに開いて、窓外の明るさが見えています。また、1895年のエッチングでは窓のカーテンが開かれています。そこでは、程度の差はあっても外から見られているかもしれないのです。この作品で抱き合っている男女は、見られ 「吸血鬼」(左図)という作品です。解説では、ムンクは女性を誘惑する女、ファム・ファタールとして捉えて吸血鬼の形で表現し、男の犠牲者から血を吸う行為の最中を描いたと説明されています。しかし、タイトルを知らないで画面だけを見ていれば、「接吻」のヴァリエイションと見えるでしょう。しかも、この油絵の背景は「叫び」の背景の空の渦巻きとよく似ています。したがって、「接吻」の見られることを意識した姿の想像を掻き立てられるのではなくて、心理的な状態が背景に映し出されるような、とりわけ不安とか絶望とかいっていいような心理的に不安定な状態を背景にして、男女が抱き合っているということから、例えば、愛の曖昧さと二面性、つまり、この女性は打ちのめされた男を包み込むように抱擁している。それが同じタイトルの版画(右下図)になると、画面は弧を描く形態と、緑や青、黄土色や橙色の色面の構成といったような抽象画のようになってしまいます。ここまでくると、作品解説にあったファム・ファタールとはちょっと違うな、というのがわかります。というのも、そういう男を誘惑して、最終的には破滅させてしまう、喰い物にするような生々しさが、最初の油絵もそうですが、感じられない。男を誘惑するには、それなりの魅力、絵画で題材にされる場合にはエロティックになる場合が一般的ですが、これらの作品からはエロティシズムは感じられません。もしかしたら、現代の日本の平面の二次元的な表現の少女への“萌 「マドンナ」もムンクの有名なパターンです。今回は3種類のリトグラフが展示されていました。このリトグラフにはプロトタイプのような油絵が前年に制作されていて(今回の展示にはありませんでしたが)、その油絵でのマリアの表現は、当時としては非常に変わったものだったといいます。というのも、20世紀に至るまでマリアの肖像は品のよい熟年の女性を描いた高踏的な芸術であることが常だったためです。この油絵に描かれた人物は十代にも見えるほど若く官能的で、好色的とまではいえぬにせよ、身をよじらせて表情豊かなポーズをとっています。彼女は後ろに手を伸ばして背をそらし、自分の肉体に鑑賞者の意識を惹き付けるものです。ただし、この変 6.男と女─愛、嫉妬、別れ
「目の中の目」(左図)という1899年ごろの油絵です。草原を背景に中央に二又の一本の樹木があって、その樹木を挟んで男女が向き合っている。このような構成は知恵の樹を伴うアダムとイブの伝統的なイメージを想わせると解説されていて、たしかに似ているところはあめと思いますが、この作品で目につくのは、全体の基調となっている緑色です。普通であれば、緑の草原を描いた作品であれば、それに落ち着きとか癒やしのようなリラックスした印象になるのですが、この作品の緑色は、不思議なというか異様な印象を残します。さらに異様なのは、手前の人物で、男性は顔面蒼白で死体のようにも見えます。目は瞳が点になっていて、虚ろというか、むしろ単なる穴です。他方の女性は、透き通っていて物質的な存在感がなくて、まるで幽霊のようです。しかも、二人とも胸から下はフェイドアウトするように背景に溶けこんでしまっているかのようです。
「すすり泣く裸婦」(右下図)という1913年頃の油絵作品。珍しく、生々しい人間の存在感のある作品です。こういう作品も描けるのに、平面的でパズルのような作品ばかりを描いている。この作品を見ていると、ムンクと言う画家は、「叫び」のような作品を、人々の受けを計算して意図的に制作しているということが、逆説的に分かると思います。 「生命のダンス」(左下図)という1925年の作品です。場面は夏の夜の海岸で、満月に照らされて踊る人々の光景は、人生を誕生と繁殖そして死と繰り返すドラマを表わしている。それが3人の女性が象徴的に描かれていて、左の白いドレスを着た若い女性は青春の純粋さで、右手前の花の蕾に触れるために手を差しのべている。中央の赤いドレスの女性は無表情の男性を誘惑するようにダンスをして |