ラファエル前派展
英国ヴィクトリア朝絵画の夢
 

  

2014年2月12日(水)森アーツセンター・ギャラリー

東京に降った大雪が未だ融けきれず、六本木の歩道にも脇に雪が残っている珍しい風景を眺めながら、六本木ヒルズに向かうちょっとした違和感。病院の定期検診の後、時間ができたので、思い切って行ってみた。最初に述べた小さな違和感というのは、ラファエル前派に対する私のイメージに通じるところがあると思ったから。多分、同意する人は少ないと思うけれど、ラファエル前派に対して私が抱いているイメージは英国式庭園のような徹底して人工的な自然らしい空間を作ろうという観念先行のつくり、というものです。そこに意図せぬもの、六本木に積雪のようなことがあると浮いてしまう、そんな印象なのです。さて、森アーツ・センターへは初めてだったのですが、六本木ヒルズの一画にあって、それゆえでしょうか、美術館としては入口が分かりにくく、入場券の売り場が広い割に窓口が少なく行列ができていて、コインロッカーは少なく高い(返金もない)、肝心の展示室への高層階への直通エレベーターで行かされるのですが、案内が立っているのはいいのですが、うるさい。文句がいくらでも出て来そうな、雰囲気が悪い、手際が悪い、で美術館としては興ざめさせられてしまうものでした。展示スペースの使い方も、無駄が多い割に空間の余裕が感じられず、落ち着かない感じでした。多分、私の感覚と絶対に合わないのでしょう。ということにしておきます。今後、余程のことがない限り、ここには来ないだろうと思いますが。

さて、「ラファエル前派」に対しては、中心人物のロセッティが画風を変容させたり、母体となった兄弟団に出入りがあったりで、人によってまちまちの定義がされているようです。ここでは主催者あいさつの中で、次のように説明されています。ラファエル前派兄弟団は1848年、ロンドンのロイヤル・アカデミー美術学校で学ぶ3人の学生、ジョン・エヴァレット・ミレイ、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ウィリアム・ホルマン・ハントを中心とする7人の若者によって結成されました・彼らは、盛期ルネサンスの巨匠ラファエロを規範に据えていた当時の保守的なアカデミズムを憂い、ラファエロ以前の初期ルネサンス絵画を理想に見いだします。自然を注意深く観察してありのままの姿を忠実に描き、より自由な表現を追求しました。彼らの前衛的、すなわち「アヴァンギャルド」な作品は社会から猛反発を受け、英国画壇にスキャンダルを巻き起こします。しかし、美術批評家ジョン・ラスキンの擁護もあり、次第に彼らの活動は認められていきました。またロセッティのもとにエドワード・バーン=ジョーンズや、ウィリアム・モリスら第二世代が集い、唯美主義やアーツ・アンド・クラフツ運動にもつながる英国近代美術の発展に大きく貢献しました。とまとめられています。また、別のところではラファエル前派兄弟団の結成から、象徴主義的な作品に彩られるバーン=ジョーンズの晩年にいたるまで脈々と流れる、ラファエル前派の急進性に光を当てる試みです。挑発的な様式と主題をもって同時代の社会的、政治的な動乱に向き合うラファエル前派芸術を紹介します。と述べて、この美術展のコンセプトを説明しています。具体的には、ラファエル前派の急進性は、彼らの師や世間一般の崇める慣習を受け入れず、芸術的な、そして社会的、政治的な諸問題の根源、あるいは原因にあくまでもさかのぼろうとし、うわべではなく根本的な変化を求めてやまなかったところにある。ラファエル前派の芸術とデザインは、今日改めて見直してみても、製作当時と同様に難解で、一筋縄ではいかない、際立った特質を保っている。その鋭利な線と、エルンスト・ゴンブリッチの言う「けたたましい色彩」は、歴史画に対する革新的なアプローチ、自然界の豊かさや輝かしさの探求、ヴィクトリア朝イングランドの社会と宗教生活に対する批判的精神、そして美と性の独特な描き方とともに、ある種の不穏な音色を奏でている。と説明されています。

引用が長くなって、しかも引用が論文のような抽象的な説明なので、読みにくいかもしれません。引用した説明は、おそらく通説的なラファエル前派に対する捉え方だと思うので、そういうものとして読んでいただければいいと思います。それで、これに対して、私はどう考えているのか、ということをこれから簡単に述べますので、引用した通説と距離を見ていただきたいと思います。私は、ラファエル前派をまとまった芸術運動として、これ自体に共通した特徴を見るほどのこともないと思っています。ロセッテイやミレイはそれぞれ自立した個性を備えた画家たちであって、彼らがラファエル前派兄弟団という団体を結成したといっても、たまたま、王立アカデミーの仲のいい学生たちが集まったという程度のものに過ぎないと思います。とは言っても、同じ学校で一緒に修行していたわけですから、彼らの地盤に共通性があって、一緒に活動していたので、ひとまとめた方が扱いやすい、ということではないのか、と思います。彼らを一人の画家として扱うには知名度はイマイチなので、ラファエル前派としてまとめるとちょうどいい。実際のところ、ミレイは好きだが、ロセッテイはどうも…という人もけっこう多いのではないかと思います。だから、ラファエル前派展とは言っても、私は、ロセッテイやミレイを見に来たという方がいいのかもしれません。でも、今回の展示のようにラファエル前派を一つの視点で斬って、それをまとめて色々な要素を見てみるというのも、新しい発見があるかもしれないと思います。その結果、どうだったかは、これから具体的に作品を見ながらお話ししていきたいと思います。 

  

1.歴史 History

ここでは、歴史や文学の一番を題材として描かれた作品が展示されていた、ということです。その際に、ラファエル前派の画家たちの描き方は伝統的な慣例を無視したものとなり、権威筋の批評家や教養ある鑑賞者たちを挑発する結果となったと言います。例えば、伝統的な歴史画によくある華々しい活劇場面や、裸婦が物憂げに佇む理想化された古典的情景などには興味を示さず、自分たちが読んだ本や芝居から題材を主体的に見出して行ったと言います。とくにシェイクスピアの戯曲からの取り上げ方は、劇場の舞台でのあり様とは乖離した、登場人物の親密な交わりや人間体験に焦点を当てて、人物の輪郭を際立て、衣装や装身具を精緻に描き込み、背景を入念に仕上げるなどにより歴史や文学の情景が、現実にリアルに蘇ることを目指すような描き方をしたと言います。

ミレイ「オフィーリア」(上図)を見てみましょう。今回の展示のメダマ、というよりもミレイの代表作、ラファエル前派を代表する作品です。シェイクスピアの『ハムレット』を題材とした、少女オフィーリアが身を投げるように溺死した場面です。ミレイが想像力豊かに視覚化したハムレットの悲運な恋人の死は、16世紀後半の文学の出現、特別に考案された衣装、そしてオフィーリアの姿そのものを通じて過去を彷彿させる。オフィーリアはゴシックの墓石の彫像のように硬直して仰向けに横たわり、彼女の墓となる水に浮かびつつ身を浸し、鮮やかに花を咲かせる草木に絡まれ、自らが拒んだ生命の素晴らしさを雄弁に語る色とりどりの花々に飾られている。と言う説明は、ここの展示テーマであるアヴァンギャルドな歴史画という線に沿ったもので、そういう方向でもラファエル前派を代表する作品と位置付けているようです。しかし、私がこの作品を見る時に、「オフィーリア」というタイトルはあるもの、歴史画という見方はしないで、幻想絵画とか美少女を取り上げた作品として見ています。フィリップ・アリエスが「子どもの誕生」で指摘したように、かつてはヨーロッパには子供という概念がなくて、近代的な教育制度が整備されるのにしたがって、子供を純粋無垢に存在して創造し、そこに教育を施していくということが進んで行ったといいます。この場合の純粋無垢とは、端的に言えば、セックスの禁忌です。そして、ロマン主義の進展によって、子供と大人の過渡期として青春という時期も創造されます。「オフィーリア」に描かれているのは、ちょうどその時期の、子供の純粋無垢さを一方でもちながらも、大人への過渡期にあってセックスの禁忌が解けようとしている時期の少女です。分厚い衣装のゆえに定かではありませんが、こころもち胸も膨らみ、身体的にはもはや子供ではなく、大人のセックスに耐えうる身体つきに変容してきているのは、明白です。しかし、オフィーリアの表情は虚ろで感情のようなものは表われていません。人間的な感情から離れた、超越した言うなれば無垢な表情になっているとも言えます。このオフィーリアは、だから、純粋無垢な子どもとセックスの禁忌から解かれる大人の両方を兼ね備え、かつ、どちらでもない微妙な過渡期にいる。それは、オフィーリアが死んでしまったことによって、時間が止まってしまって、彼女はその微妙な過渡期の状態で瞬間凍結されてしまった、そのさまを描いた、というように、私の場合は観ています。ちょっと屈折した言い方かもしれませんが、ロセッティがファム・ファタール的な魔性の女性のイメージを描いたのに対抗してミレイが無垢な女性のイメージを描いて見せたのではないか、というように考えたりします。

考えてみれば、溺死という死に方は、様々な死に方がある中で一番身体の表面に損傷を与えない死に方と言えないでしょうか。私には、ミレイはこのような美少女を描きたかったのであって、そのためにオフィーリアという「ハムレット」の登場人物は格好の題材を見つけたというものだったのではないかと想像してしまうのです。それは、他の画家のオフィーリアを描いた作品(例えばウォーターハウス(左図))の作品とあまりに違うのは、そのためではないか。リアリティということから見れば、オフィーリアの浮いている川面は小川のような感じで、とても人をおぼれさせる川には見えません。むしろ、少女の横たわる肢体を描くのにちょうどいいという感じです。柔らかそうな面に横になるというのは、褥に横たわるというセックスの隠喩と、死ぬことによって、それを拒否するということをシンボライズしているようにも見えなくもありません。そして、オフィーリアの周囲に咲く花々は、アトリビュートとして象徴的な意味がそれぞれの花に込められているのでしょうが、花の命は短くて、という一瞬のものというイメージと、花というのは植物の生殖器でもあるということで、オフィーリアを飾っているというように見えなくもありません。

このオフィーリアの構図というのは後世に様々なフォロワーを生んでいて、その多くは私が、ここで述べた視点に近い姿勢で創作されているように思えます。例えば、松井冬子の「浄相の持続」(右図)という作品は、現代日本画の作品ですが、少女の死体が腐乱していく様を描いたシリーズの一つですが、花に囲まれて、虚ろな表情の美少女の死体が横たわるというのは、まさに、この作品の影響を受けたものと思えます。
なお、「オフィーリア」については、2008年のミレイ展の時に感想を書いています。その時と比べて、私の感想は進歩が無いようです。

 

同じミレイの「マリアナ」という作品です(左図)。画像では分かりにくいでしょうが小さな作品で、「オフィーリア」の隣の片隅に展示されていたため、今回は地味な印象になってしまいました。「オフィーリア」は有名な作品ですか、作品の前に人だかりができるのに比べて、こちらは静かにじっくり観ることができました。この作品で、まず目に付くのは、青の印象です。中心の人物の着る衣装の青の鮮烈さです。じつは「オフィーリア」でも作品の完成当時は、もっと青を基調にした色合いだったのが色褪せてしまったといいます。この「マリアナ」では、散らかる木の葉や飾りのステンドグラスなど、他の部分には一切青系統の色が使われず、衣装に集中しているので、その鮮やかな印象は尚更です。その青い衣装のアクセントとしてマリアナの金髪と腰のベルト。そして、その鮮烈な青い衣装に包まれたマリアナのポーズ、あるいは肢体が、腰に手を当ててのけぞるような姿勢を際立たせています。長時間椅子に座っていたのを立ち上がって腰を伸ばしている場面ということなのでしょうか。それにしては、手を当てた腰から尻にかけての線とか、背を伸ばしたことで強調される胸の線が、衣装の青に包まれて、やたら目に付くのです。そこに、私のような人間は性的な仄めかしを感じ取ってしまうのです。しかも、マリアナの物憂げで虚ろな表情が、助長させるのです。マリアナという女性は婚約者を失い、幽閉されるような生活を強いられたというテニスンの詩の登場人物という設定です。愛してくれる人を失ってしまい、さらに閉じ込められた生活での煩悶というのでしょうか。かつて愛を受けた思いが現在はかなわないというフラストレーションとか疼きのようなものが、身体を締め付けるような青い衣装が、そのうずく身体を際立たせるように逆に際立たせている、と言えます。しかも、この小さい画面に描かれた空間の狭い感じ、画面のサイズの小ささがそれを募らせています。さらに、室内の調度や床に散らばった木の葉の一枚一枚まで細かく描き込みことで、室内の稠密さが濃く印象付けられ、また、マリアナのテーブルを不自然なほど小さくして、代わりにテーブルクロスの装飾を執拗に細かく描き込むことなどによって、室内の狭さ、空間的余裕のなさを強調し、マリアナのいる空間の閉塞感を強く印象づけています。「オフィーリア」の場合もそうですが、ミレイという画家は空間を小さくとる傾向があるようで、広がりというよりは小さな空間に閉じ込め精緻に細かく描き込む傾向があるようです。そういう傾向で、歴史画を描くと、壮大なスペクタクルとか活劇の場面などには似合わず、少ない人物を掘り下げて描き込むことに向いているのが分かります。この「マリアナ」のような、きっとマリアナ自身も自覚していないような身体の疼きとか煩悶のようなものを描いてしまうというのは、歴史画では例がなかったと言えると思います。しかし、空間の設定からマリアナのポーズに至るまで、一貫して彼女の精神と身体の微かな疼きのようなものを表わすということが、初めて可能になっているとおもえるのです。この画面の中で、唯一のその一貫性に沿っていないのは当のマリアナの顔です。それが、この作品の節度を保ち、その一方で、マリアナ自身も意識していないような疼きとして屈折したエロチシズムの風情を与えていると言えます。このことは、ウォーターハウスの「南の国のマリアナ」(右下図)という同じ題材を扱った作品と比べてみると、よく分かります。同じようにマリアナを後姿で描き、彼女の嘆くさまを前に鏡をおいて表情まで描いてみせたウォーターハウスの作品には暗さはあるものの、閉塞した空間は感じさせず、マリアナは境遇を嘆いているが、ミレイの作品にあるような疼きに襲われることはありません。ウォーターハウスのマリアナは肉体を備えた個人としてではなく、物語の類型として捉えることによって、ミレイの作品にはない、ある場面でのひとつの理想の美しい女性を描くことができたとも言えると思います。

コールデロンの「破られた誓い」(左図)という作品です。制作したフィリップ・ハーモジニーズ・コールデロンという人はラファエル前派兄弟団に参加した人ではないそうですが、ミレイの「マリアナ」をはじめとした作品の影響を見ることができます。ここでは、「マリアナ」ほどの閉塞感はありませんが、庭の一部という空間の限定と、木の壁や塀に茂った蔦の精緻な描写や、中心の女性の描き方等で「マリアナ」に通じるところが多いと思います。しかし、何よりもこの作品の特徴は、ミレイにはない、陽光の描き方です。陽の当たる部分の明るく暖かな感じは、印象派の描く光と影とは違った光の表現として、もっと触覚に近い感じを与えるものです。主人公の顔に陽光が当たり、その顔の肌が柔らかく映えるあり様と、黒を基調とした衣装とのコントラスト、そして黒い髪が日に映える様は、それだけで魅せられてしまうほどです。
 なお、「マリアナ」についても、2008年のミレイ展の時に感想を書いています。

 

アーサー・ヒューズと言う画家は、初めて聞く名前ですし、それほど日本で有名な画家出来ないと思います。正確に言うとラファエル前派兄弟団に参加したわけではなので、ラファエル前派と言えないということです。1850年ころにラファエル前派の機関誌を熱心に購読し、ラファエル前派の画家たちとも交流があったといいます。ジョン・エヴァレット・ミレイが恋人たちを描いた初期の作品などに影響を受け、この「四月の恋」などもそうで、自然の細密な描写によく表われていますが、自然の逞しさが感じられるミレイに比べて、自然に対する人間若さや恋の儚さを感じさせるところに特徴があるということで、画家としては、アカデミーに出展するも認められず、挿絵画家として活躍したということです。

この「四月の恋」(上図)という作品は、アルフレッド・テニスンの「粉屋の娘」という詩をもとに描かれたようです。

愛すれば心は軋み苛立ち痛むもの

愛に漠とした後悔はつきものか

目は無為の涙に濡れながら

無為の習いによってのみわたしたちは結ばれる

愛とはいったい何でしょう、いずれ忘れてしまうものなのに

ああ、いいえ、いいえ

この詩のこまごまとして部分を描写する代わりに、ヒルガオの繁る庭のあずまやで口論する若い恋人を描いていると言います。しかし、描かれている中心は女性で、男性は女性の右手に影が見える程度です。何よりも、女性のドレスの青と木の葉のグリーンの息を呑むほどの鮮やかさが印象的です。全体に影の部分おおい仄暗い画面の中で、青と緑が鮮やかに輝くと、なんとなくひんやりとした密やかで繊細な印象が強くなります。全体に青みがかった色調のなかで女性の腕と顔の肌色が透き通るようです。女性の顔の表情は細かく描き込まれておらず、観る者の想像に任せるということなのでしょうが、全体の色調と俯きかげんポーズから、物憂げというのか、哀しみを湛えているように見えます。そこをはっきりと描いていないことによって、具体的な感情としてよりも雰囲気として恋の苦しさとか儚さ、それによる哀しさが漂ってくる効果を上げているように見えます。不健康とまでは行かないけれど、繊細さを突き詰めて行けるところまで行ったという感じがします。

同じ作者の「ロムニーを退けるオーロラ・リー」(右図)は「四月の恋」よりも、もっと小さな作品。青と緑の色彩が画面全体を覆い尽くす、その色調のよって幻想的な風景を作り出しています。エリザベス・バレット・ブラウニングの「オーロラ・リー」という詩に題材をとっているということです。画面中央のオーロラ・リーという女性が自身の詩集を携え、ロムニーからの求婚を拒むシーンを描いているといいます。「四月の恋」に比べて、人間の存在感はより希薄になっていて、例えば左側の男性と、彼の手前の白百合を比べてみれば、どちらに存在感があるがは一目瞭然です。二人の人物は地に足がついていないように見えて、画面の中で浮遊しているかのようです。中央の女性も人間と言うよりは妖精のような実体としての存在感があまり感じられず、顔の表情にも生気があまり感じられません。こんなことを書くと不健康で死んだ絵のように受けられるかもしれませんが、これに対して自然描写は細かくて、生命感が感じられるものとなっていて、これに対して、人間を見る目が無常観のような人の儚さに目が行くような視点で描かれているように見えます。その場合、人間の存在の現実性が薄くなって、幻想の風味が反比例するように前面に出てくる。それが、ヒューズの作品の特徴ではないか、と思います。それをヒューズ独特の青と緑の鮮やかな色調が効果的に盛り立てている。それゆえでしょうか、ここで描かれている女性は、ギュスターブ・モローやベルギー幻想派のクノップフの描く幻想的な女性を想わせるところがあると思います。

アーサー・ヒューズは沢山の挿絵を描いたといいますが、ラファエル前派の周辺の画家として、今回、初めて見た画家です。今回の展示で出会うことができたというのは、大きな収穫であったと思います。

 

2.宗教 Religion

宗教を題材とした作品の展示ですが、ラファエル前派の画家たちは敬虔な信仰を有していたという人はおらず、彼らの作品は教会の堂内に掲げられることなく、展覧会や個人が家庭内で鑑賞するために描かれたものだったと言います。ルネサンス初期やそれ以前の古いカトリック美術の象徴性や形式主義に倣ったような作品を制作していったといいます。彼らにとって聖書は人間ドラマの宝庫であり、神の教えではなく文学的、詩的な意味合いを求める対象であったといいます。

ミレイの「両親の家のキリスト(大工の仕事場)」(左図)という作品。幼いキリストとその家族を描いた作品です。父親のヨセフと助手が製作中のドアから突き出た釘で、少年イエスが左手の掌を傷つけてしまう。傷を負った息子を慰めにやって来たマリアがあまりに心配そうなのを見て、イエスは母親を安心させようと左の頬に口づけをする。マリアの夫ヨセフは傷口を確かめようとしてイエスの左手を後ろに逸らし、これが祝福を与える仕草となると同時に、そのために少年の足もとに血がしたたり落ちる。作業台の向こう側から、マリアの母親アンナが傷の原因となった釘を抜こうと手をやっとこに差し延べる。右手からは、洗礼者ヨハネが、従妹のキリストの傷を洗うために盥に水を入れて運んでくる。と場面を説明されています。こうして読むと、なんとも複雑な作品になっています。ミレイという画家は、前のところで見た「オフィーリア」や「マリアナ」のような一人かせいぜい2〜3人の人物に焦点をあてて、そのドラマをじっくりと描くという傾向の画家です。しかし、ここでは6人の人物が登場し、複雑に動きが織り成すスペクタクルを描いています。古い宗教画の作風などを参考に構図などで工夫を凝らしているということですが、どこか窮屈で不自然に無理をしている感じを消し去ることができません。画面に奥行が感じられず平面的で、窓や扉があいて外が見えているにもかかわらず、狭いところに閉じ込められたような窮屈さがあります。もともと、空間を圧縮する傾向にある人ですが、折角の大きなキャンバスもその大きさを感じられません。だから、この画面は広くキリストと聖家族の場面を描いて、宗教的なことを広めるということには至らないようなものになっています。また、登場人物を、意識して様式的に描き、複雑なスペクタクルの機能も果たさせるためにか、かなり無理な描き方をしているように見えてしまいます。例えば、ヨハネのおどおどしたような表情は不自然なほどで、中央のキリストの顔は接吻を施しているようには見えず、マリアは接吻というより愛の口づけを無理強いしているようにしか見えます。そして、何よりも6人の人物の動きがバラバラに見えてしまっていて、相互の動きが関連したドラマを生んでいないのです。だから、6人もの人物画いて窮屈な空間に閉じ込められているにも関わらず、それぞれがばらばらで彼らの関係がドラマを生んでいない。それゆえに、彼らの顔が描き込まれているにもかかわらず、表情に奥行が感じられないのです。後姿で表情が見えない「マリアナ」が濃密な表情を湛えているのと正反対です。その意味で、ミレイの作品としては、異質な印象を抱きました。なお、「両親の家のキリスト」については、2008年のミレイ展の時に感想を書いています

一方、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの「見よ、我は主のはしためなり(受胎告知)」(右図)という作品。画家本人が処女マリアは床に就こうとしているけれども、寝具は見当たらず、これもしかし暑い地方であれば当然であろう。天使ガブリエルがマリアに白百合を手渡そうとしていると説明しているように受胎告知の場面を描いた作品です。受胎告知の絵画と言うと、有名な絵画作品(左図)が数多描かれていますが、そこにある共通のパターンとはまったく異質な描かれ方をしています。天使に羽根がないとか色々言われているようですが、それは措いて、私には、ここで描かれているマリアという女性が、後年のロセッテイの描く女性とあまりにも違うので、それが印象的でした。ファム・ファタールとでも言うような、成熟した、蠱惑的を濃密に描くというロセッテイのイメージとはかけ離れた、ここでのマリアは呆けたような顔をして、天使から逃れるように壁際に身を寄せて、身を護るかのように脚を屈めています。伝統的なマリアの色である青を配すことなく、あえて純白の衣装を着せているのは、受胎告知を受け入れて聖母となる前の、処女の状態でいるという聖母に変貌する直前の、過渡的で不安定な状態を描いたということらしいです。聖母の神々しさはなく、追い詰められて恐怖におののく普通の女の子がいるようなかんじです。それにしても室内に対してマリアのサイズが異常に大きかったり、マリアの中でも顔が不自然に大きかったり、顔が右側にずれていたり、かなり無理な姿勢を強いられているようにみえます。それがこの作品の落ち着きのなさ、これだけ純白の白をつかっているのに静謐さとか清澄さのようなものは微塵も感じられない。ラファエル前派はマニエリスムやバロック絵画の劇的な宗教画を遠ざけたといいますが、別の方法で、バロックとはちがったドラマを、より心理的に描いたと言えるかもしれません。天使の前で不安におののくマリアの姿は古代の女性というよりは近代の個人の心理的なドラマで、その心情が空間の歪みにも表現として現れている、というように考えると一種の幻想絵画の世界とも言えます。そして、そこには性的なニュアンスが見え隠れしていて、聖母の運命を受け入れるということ自体に性的に成熟した女性に変容していくことに対して慄く処女の懊悩というニュアンスが見えるのです。それは、寝台という舞台装置や脚を屈めたというポーズなどが暗示するものです。

 

3.風景 Landscape

ラファエル前派の画家たちは独立した風景画をそれ程には制作していないと思います。あったとしても、スケッチとか習作とか、そういうものではないでしょうか。展示作品も、それほど多くありませんでした。しかし、自然の描き方には特徴があったと言います。批評家ラスキンの著述にも触発され、画家たちは緻密な観察とモチーフとの息の長い関わり合いを通じて、自然界を油彩で描く独自の斬新で正確な手法を確立した。ラファエル前派の自然の見方はほぼ例外なくパノラマ的な景観を避け、近くと遠くを一つにまとめ、すべての要素を等しく正確に描出する。1839年に写真が静止画として完成の域に達しても、画家たちはなお風景を顕微鏡で覗いたように精緻に描こうとする意欲は失わず、かえってさらに細やかな描写を求める傾向に拍車がかかる。これは、例えば、ミレイの「両親の家のキリスト」における窓の向こうの風景や「マリアナ」における窓に映る風景などに当てはまると思います。とにかく、眼の前に映るものを片端からできる限り克明に描いてしまおうというものだと思います。そのときに、風景を空間がひろがるとか奥行が延びるとか、そういうパースペクティブで捉えることをしなかったゆえに風景そのものを単独で取り出して描いて提示するということが、あまりなかったのではないかと思います。空間としてとらえるということには、そこに見る人の尺度が加わり、風景を構成するものに軽重の評価をして描かれた画面はその価値判断によって構成されることが、かれらの考え方にはそぐわなかったということが言えると思います。しかし、目に映るものをすべて描くといっても、目を向けるという制限が自ずとあるので、どうしても風景を限定して切り取ったようなものとならざるを得ません。人間の視野は限られています。だから、それを忠実に描こうとしたら画面と言う制約もあるのですから、言ってみれば箱庭のようなものにならざるを得ません。

チャールズ・オールストン・コリンズの「5月、リージェンツ・パークにて」という作品です。画面に空間を構成させるというのではなくて、風景を切り取って、その切り取ったものを忠実に描いたと思われる作品です。しかし、ある視点で風景を切り取って来るというところに、選択が働くわけで、その切り取り方について、画家に認識があったのか分かりません。しかし、その結果として出来上がったものは、まるで建設現場の建物の完成予想図のような、整理されたものになっています。人気のない公園は、短く刈り込まれた芝生をベースに、花壇、園路、道路、垣根、池が水平の列になって並んでいるのに対して、人物、柵の杭、木の幹の黒い垂直線とで図形のような秩序を形づくっています。それは、たしかに見方によっては、ルネサンス初期以前の遠近法が大きく導入される前の、神の秩序というような現実の空間とは違った平面的に整理整頓して事物を並べたような画面に通じるところがあります。ここにあるのは、現実の風景を描写するということをタテマエとして、手法として掲げながら、その現実とは何かというと、その現実を見る目にフィルターをかけていることに気づいていないか、そのことを見ようとしていない、ということです。ミレイやロセッティといったラファエル前派の有名な画家たちは風景だけを描いた作品というのは、ほとんどなく、人物を思い思いの設定で描いているため、いくらでも好きな衣装を着せたり、背景を意図的に設定したりということができました。しかし、このような風景画では、風景自体を人物のようにいじることはできないため、ラファエル前派の矛盾とまではいかないまでも、どこかチグハグしているところが綻びとして表われているのではないか、そういう作品として、この作品を見ることができると思います。

それはまた、ラファエル前派の作品を購入してくれる主なターゲットである、産業革命や海洋進出で勃興してきた新興のブルジョワジーにとっては、写実的な技法で描かれているので、何が描かれているのかを特別な教養がなくても理解できる分かり易いもので、描かれているものが、秩序正しい、いうなれば品行方正、お上品っぽいもので、しかも熟練度が高い、いかにも高品質というのが識別できるというものであれば、高い評価を獲得できるものであったと思います。

 

4.近代生活 Modern Life

ラファエル前派兄弟団が結成された1840年代には、イギリスの知識人の中で、経済や社会の進歩に対する信頼に疑問を持つ人が現れ始めたといいます。産業化以前の世の中の方が、より健康的で、平和で、精神性が高く、美しかったのではないだろうか。機械時代のもたらす物質的な豊かさを得るための代償として大切なものを失ってしまったのではないか。そこで、ノスタルジックな色合いを含めて中世の宗教に根差した文化や社会のあり方をひとつの理想を見出していく議論が生まれたと言います。それは、ルネサンス初期以前の絵画技法を指向するラファエル前派にも共鳴する部分があったと思われます。

その影響からか、ラファエル前派は風俗画に生真面目な倫理性を添え、近代生活に取材した挑発的な主題を取り上げて作品に鋭い批評性を与える試みをしていると言います。世間の習俗を描く作品は、福音主義の立場から堕落した人間の生き方と救済の必要性を説き、同時に義務と自助努力の重要性を訴えた寓話の形をとったといいます。これはブルジョワジーの信仰であるプロテスタンティズムが禁欲的な倫理を課していたことに適うことであったので、ブルジョワの家庭の居間に飾るということには格好のテーマだったかもしれません。

しかし、もともと、産業社会を強力に推し進めた資本家や企業家といったブルジョワジーの人々こそが、ラファエル前派の作品を支持し、購入する主な担い手であったと思われるわけです。そのブルジョワジーのなし得た産業化社会という成果に対する疑問を投げかけるということに、ラファエル前派の人たちは、自分たちの地盤を批判することにもなりかねない、そういう自覚はなかったのかもしれません。ヴィクトリア朝の道徳倫理というと後世からは表面的で、体裁を取り繕うものといった批判がありますが、社会にたいして倫理的なことを説く一方で、当の自分の立場については蚊帳の外において、とぼけている。そういうことになれば、説いている倫理とやらは薄っぺらなものになってしまうわけです。実際、ウィリアム・ホルマン・ハントの「良心の目覚め」という作品は、ブルジョワの愛人の女性の良心の目覚めを描いたもので、女性の虐げられた社会風俗に批判的な意味合いで描いた作品だったにもかかわらず、娼婦を描いたという見当違いの批判を受けることになってしまったといいます。そこには、画家ハント自身の倫理的な前提が中途半端だったために、タテマエを表面的に表わし、その底には、批判される対象と変わらぬ心情が流れていることを見る人が敏感に気付いたかもしれない、と思われるのです。

実際に、「良心の目覚め」を見てみましょう。とくに先入観とか、こういうテーマで描いているというような情報もなく、虚心坦懐に作品を表面的に眺めてみれば、軽薄な男女がいちゃついていると見える作品です。それは、描かれている男女ふたりの表情が、そういう印象を持たせるものだからです。とくに、女性については良心に目覚めた姿に見えるかというと、私にはそこまで描き込まれているとは思えません。「良心の目覚め」という題名と、この絵のテーマはこうだという説明を受けて、そういう絵だからという視点で見て。漸く、女性については、そのような良心に目覚めたところかもしれないと、そういえば、男性から離れようとしているし、目は遠いところを見ているようにも映ると、想像を逞しくしてはじめて、そう見えるかもしれない、という程度です。

全体として、ハントという画家は細かく精緻に、小道具を描き込んでいます。そこで、どうして女性の表情が中途半端なのか疑問に思いますが。男性は流行の服装に身を固め、女性の指にはことごとく指輪がはまっているが、結婚指輪をはめる指にだけははまっていないと言います。男性に対して女性の服装は着替えの途中のようなありあわせの服装で、愛人という立場の弱さを示している。室内はけばけばしい品で埋め尽くされ、そのことが、男の愛の皮相さを際立たせ。それらをハントは執拗なまでに細かく描いています。また、小鳥を弄ぶ猫、脱ぎ捨てられた手袋、女性の刺繍のもつれた糸などのディテールが女性の囲われ者の立場の危うさを暗示しているといいます。このような、細部に凝りに凝ったように細かな情報を詰め込みながら、当の女性の姿に、そういうものを感じさせる圧倒的なものが見られない。また、全体の雰囲気にも、そういう空気が感じられない。たとえば、この室内については空間性が感じられませんが、それだからこそ、狭い閉塞した空間として描くこともできたはずです。だからこそ、この作品にたいして倫理的に深刻なものというよりも、現代風俗を描いたと見られるか、倫理的なテーマであると見られたとしても深刻に受け止められるほどではなかったのではないか、と思われるのです。ラファエル前の主要顧客であるブルジョワジーの中には愛人を囲っている人も多かったのではないか、そのような人も、とくに気に咎めることもなく、この作品を眺めることができたのではないか。それだからこそ、この作品は受け入れられ、ハント自身の作品としても代表作として見られていると言えると思います。


 5.詩的な絵画 Poetic Painting 

展示は、ここで休憩のようなロビーがあって、後半にはいります。このロビーのようなところでラファエル前派の画家や関係者の人物紹介や複雑な人間関係の相関図のようなものがパネルに展示されていました。私には、邪魔という目障りで、この程度のものにそれほどスペースを割く必要があるのかと疑問に思いました。それなら人気のある作品に人だかりがしているのだから、作品を展示するスペースをゆったりとってほしい。最初にも少し話しましたが、受付窓口といい、ロッカーといい、入口に立っている案内者の態度といい、来館者への配慮がなされていないと思われる点が多いと感じました。あまり、美術作品をゆっくり鑑賞するための居心地のいい環境ではないことは確かだと思います。

後半に入って、ラファエル前派の大看板、ロセッティの作品が多くなってきます。2.宗教のところでのルネサンス初期の画家に倣ったような簡素な画風から、変化をしていきます。1850年代後半、主に水彩画で中世を彷彿とさせる装飾豊かで彩り鮮やかな室内の描写と、長身、蒼白、痩身の鮮やかな衣装を着た女性を描いたものが目立ちます。そして、この動きに触発されるように、若い第二世代の画家たちが、創設者世代を乗り越えて装飾美術に踏み込み、より神秘的で論議を呼びそうな主題を取り上げていくようなっていくと言います。

ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの「青い小部屋」(左図)という水彩画です。サイズは約35×25pと小さな作品です。背景の壁面の青いタイルはアラビア建築でよく用いられるものでしょうか、中世スペインの建築でよく見られるものですが、その中世風の景色を精緻を極めるように細かく描いています。そして、その印象的なアラビアン・ブルーとの色彩のハーモニーを考えて、4人の女性の衣装の色がそれぞれ鮮やかに引き立てています。全体としての構図は、クリュニー美術館展にあったタピスリー「聴覚」(右図)によく似ているようです。ロセッティがこれを見たとは思えませんが、中世には、聴覚とか音楽についての図案の一つとしてあったのかもしれません。2人の女性が楽器を奏で後ろの2人侍女が歌っていというる象徴的な図柄が、音楽という目に見えないで、感情を掻き立てる神秘的で官能性に富んだものの暗示として、ロセッティの幻想への指向に適合した、ということでしょうか。ここでの4人の女性は音楽に酔っているかのよう虚ろで、右手前の金冠を載せている女性の横顔は楽器に寄りかかっている風情は、どこか後の「ペアタ・ペアトリクス」の表情を想わせるところがあるようにも見えます。ちょっと、こじつけかもしれませんが。以前の宗教のところで見た、マリアが感情がわかるような明確な表情が見て取れたのに対して、ここでは、そういう人間的な明確が曖昧になり、逆に、手前の植物を精緻に描いたりと、象徴的な小道具を強調していくことで、リアルっぽく描いているように見えて、実は現実的でなく象徴性に富んだものとなっているものになってきていると思います。

「薔薇物語」(左図)という水彩の小品です。背景の模様と薔薇の生垣、そして天使や人物の衣装の模様が細かくて、似ているので目にチラチラするようです。それが平面的で、かつ幻想的な画面作りに貢献しているようです。13世紀フランスの寓話をもとにしているということですが、夢の中で主人公は美しい庭園を訪ね、薔薇の蕾を目にしたところで、キューピッドの矢に射抜かれるという話だそうです。「青い小部屋」以上に細かな模様や生け垣の薔薇が精緻に描かれ目立ちます。そして、他方では、人物の描き方に厚み、立体性が加わってきて、肉体を備えた人間になってきています。そのような肉体を持った人間の接吻には、中世的な愛の寓意だけに留まらない、肉体的な官能性が感じられるものとになってきているのではないかと思います。男女のポーズもそうですし、二人の指を絡めるようなところを細かく描き込んで、その仕草によって官能を匂わせていると私には見えます。そして、二人の背後で見守る天使の顔は、後年の官能的な女性の肖像の顔を想わせるのです。下あごとか厚い唇とか尖り気味の鼻といった特徴が見え始めているように見えます。結果としてということでしょうか、ロセッティの中世とか初期ルネサンス指向というのは、もともとそういうものを指向し倣ったというよりも、ロセッティ自身の絵画世界の指向するものが、本人が気づいていたかどうかは別として、もともと存在していて、それに本人が気が付くプロセス、そのための手段としてあったというのではないか、と思います。

シメオン・ソロモンの「ミティリニの庭園のサッフォーとエリンナ」(右図)という作品。ロセッティの「薔薇物語」と似た構図です。ロセッティに比べると構成の弱さというのか、ガッチリしていない感じがします。抱擁する2人のポーズはロセッティよりも柔らかな感じはしますが、構図として決まっていない。そこに一種の退廃を見ることは可能かもしれません。ロセッティに比べて異教的な色合いが濃くなってきていることと、身体の輪郭を匂わせる一種のチラリズムが見て取れます。その一方で、背景の草や鳥、鹿や象徴的なアプロディテの彫像が細かくは描かれているのですが、浮いているというのか、目だって来ません。ロセッティの場合には、背景の存在の主張が強かったことから画面に対立的な緊張感が生まれていたのですが、ここには、それはなく弱弱しい感じがします。その弱弱しい感じが、耽美的で、退廃的なムードを醸し出していると言えるでしょうか。その中で、左側の人物の物憂げな表情は、官能性を強調しています。これを初期のラファエル前派の作品と比べてみると、異質なのは明らかと言えるかもしれません。

エドワード・バーン=ジョーンズの「クララ・フォン・ボルク1560年」と「シドニア・フォン・ボルク1560年」(左下図)という水彩画です。人物の、とくに顔に描き方などでは、後年の彼らしい特徴てきな顔になっていませんが、多少、ここで見たロセッティの描く顔の影響から脱しきれていないようにも見えます。解説では、七宝細工的な文様は素材の枠を越えた作品作りとしてバーン=ジョーンズの作品の特徴と説明されています。それよりも、描いたものを一つのまとまった作品、というよりも商品とか製品として高い品質で仕上げるということについては、ロセッティに比べてはるかに巧みであったということが、このような未だ画家として発展途上にあるときから、見て取ることができると思います。それは、ラファエル前派の創始者の世代の画家たちの中のミレイと、彼以外には、見られない特徴であのではないかと思います。そしてまた、ラファエル前派が登場した時に批判したラファエル主義という芸術家というよりは絵画職人という画家のあり方に、彼こそはむしろ近いものではなかったのではないか、と思ったりしています。
展示は次の6章に分かれていました。

  

6.美 Beauty

ラファエル前派のシンボルのひとつが最初に見たミレイの「オフィーリア」であり、もうひとつシンボルが、ここで展示されているロセッティの女性を描いた作品だと思います。その二つのシンボルは、ラファエル前派の両極端で反対に対峙していると思います。1860年ごろから芸術のための芸術という唯美主義的な風潮が広がり、ロセッティは水彩画から油絵に復帰し、女性の上半身に官能的な肉付けを添え、宝飾品と花とで美しく飾った姿をクローズアップした多数の作品を制作しました。濃厚で深い緑、青、濃い赤といった色彩がめくるめくように鮮烈に使われ、ラファエル以前の初期ルネサンスというより、もっと派手にバロックとかヴェネチア派の作品のような絢爛さに近くなってきます。私の場合には、ロセッティといえば、このような女性を官能的に装飾豊かに描いた作品、ひいてはラファエル前派のイメージもそのようなものがあります。また、唯美主義の風潮の中でオスカー・ワイルドのような世紀末の退廃的な傾向を体現した人達がサロメに象徴されるファム・ファタールという官能的な女性のシンボルを作り出し、その影響を受けながらロセッティの描く女性のイメージが様々に受け入れられ、付加価値を高めていくことに伴い、性的な魅力として人々に衝撃を与えるものとなっていったと思います。このようなこともあって、ラファエル前派が世紀末のヨーロッパ各地で勃興した象徴主義的な絵画芸術運動の先駆けとして、見られることもあると思います。

「モンナ・ヴァンナ」(右図)という作品。この作品を見れば、禁欲主義とは正反対のものであることは明らかだろうと思います。タイトルが虚栄の女という意味らしい「モンナ・ヴァンナ」ということで、多少は警句てきなこともあるのかもしれませんが、むしろその煌びやかさを描いているようにしか見えません。贅沢に金糸の刺繍をあしらった白地のドレスに身を包み、雷鳥の羽根製の扇を気だるげに片手に持ち、もう一方の手で太い首にかけたサンゴのネックレスを弄びながら、冷ややかな眼差しを送っている。実際のところ女性の顔の表情は無表情のように見える、内面の感情を推し測れない。それが、外面的な装飾を引き立てているという解釈もあると解説されています。アクセサリーに目を向ければ、怪獣の頭をモチーフにした金の腕輪や緑色の葉をかたどった指輪と耳から下がるイヤリング、のど元に巻きつくように下がるハート形のクリスタルのペンダントなどが彩りを添えています。このような外面的な装飾という目で見れば、アクセサリーや衣装だけでなく、この女性自体についても、そのように見ることができるでしょう。官能的な肉体として女性を見るという視点です。この作品でモデルを務めた女性は特定できるとのことですが、顔の特徴をみれば、尖った感じの顎に肉厚の唇に濃い紅を塗って強調し大きめで被さるような鼻の上にはキツメでつり上がり気味の眉があり、意志的で強い光を帯びた黒目がちの目が光っている。その上には波打つような豊かな金髪がある。肉体は肉付きがよく、それは首の太さから窺い知ることができる。ここにロセッティの描く女性の特徴てきな顔や肉体のパターンが表われているといえます。そういうパターンに目が行くということは、この女性の表情とか内面の感情とかいうものよりも、視線は女性の外面である肉体へと向かいます。それが、この絵に対しての官能的な見方に誘われることになります。ロセッティの他の女性を描いた作品を見ると分かるのですが、このようなロセッティの描く女性の顔というのは特徴的で、一目でロセッティの作品と分かる差別化できるものです。そこには、多分外観としての女性の顔というところでユニークな突出をして差別化した一種のブランドのようなものとして確立させていたと思います。この女性の顔つきはロセッティのもので、それは官能的というイメージを促進させ、ブランドとしての付加価値を煽っていく。その相乗効果でロセッティの描く女性のイコール官能的というイメージが定着していった。そして、個々の作品にいては様々な意匠を凝らすことによって、個々の作品の違いを際立たせる。言うなれば着せ替え人形のようなものです。着せ替え人形に内面を匂わす表情とか感情を込めてしまうと、方向性が限定されて着せ替え人形としては意匠の幅が狭くなってしまいます。そのため、顔は徹頭徹尾外面的でなければなりません。

そのような中で「ベアタ・ベアトリクス」(左上図)は異質です。全体的に輪郭を曖昧にしてぼんやりとした感じにして、特に顔にたいしては他の作品とはアングルを明らかに変えていて、しかも顔のセールスポイントである目を閉じさせています。全体の色遣いについても鮮やかな色を際立たせる派手な効果もなく、むしろ色を混ぜて全体として鈍い感じになっています。方向生々として、他の作品では差別化というのか違いを際立たせて目立たせるというのは、反対に、同質化というのか混ぜて一緒くたにした、その混ぜ合わさっている境界があいまいになってぼんやりとした、という方向性です。そこでは、彼我の区別も曖昧となり、現実とも非現実とも分けられないゆめうつつの夢幻的な雰囲気です。解説などでは、亡くなった妻と、ダンテの『新生』のベアトリーチェのイメージを重ねて、様々な象徴的な意匠をほどこしてシンボリックな作品になっている、ということがよく言われているようです。しかし、同時期のロセッティの女性を描いた作品に比べて、薄暗く、薄ぼんやりとした画面で、のけぞるように上向き加減の顔で、口を半開きにして目を閉じている様は、恍惚としているように見えます。それは、性的な隠喩と考えれば、まさにエクスタシーの瞬間と見えなくもありません。ここで描かれている女性の顔にも手にも肌の色等に生気が希薄な鈍い色になっているところで、その象徴性をさらに強くしています。つまり、性的なものというのは生と死のせめぎ合いでもあるからです。フロイトがエロスとタナトスといって生と死を対にして扱ったこともそうですし、性的な行為はしばしば生と死の隠喩で語られるものです。その結果の最たるものが受精という新たな生に関わるものでもあります。その意味で、決してあからさまにではないけれど、そういう見方もできるわけですし、あからさまではないということから、この作品を部屋に飾ることも気兼ねなくできる、というものになっていると思います。また、解説に説明されている通りに、神秘主義的で象徴主義的な作品として見ることも当然できるわけです。一般には、ほとんどの人は、そう見るでしょうけれど。いずれにせよ、この作品はロセッティの特徴を突き詰めたものとして、このラファエル前派展の前半がミレイの「オフィーリア」が代表していたとすれば、後半はこの「ペアタ・ペアトリクス」が代表していると思います。

「プロセルピナ」という作品です。この展覧会ポスターにも使われた作品です。黒い髪の毛が印象的で、衣装の濃い紺色で、肌の色との対比、そして唇とザクロの赤が強く目立つ作品です。ギリシャ神話に題材をとったタイトルで、それらしい意匠になっているといいますが、黒髪と濃い色の衣装の隙間にほの見える肌の首と背中のラインは豊満で官能的な肉体を暗示しています。「ベアタ・ベアトリクス」のぼんやりとした夢幻的な画面に比べると、こちらはくっきりとしています。むしろ、色を対立的に扱って緊張感をあたえ、顔や首などの肌の白を際立たせ、視線をそこに集めるようになっています。その特徴的な顔こそがロセッティのロセッティたるゆえんとなっている。 
 なお、ロセッテイについては2002年のウィンスロップ・コレクション展の時もまとまって作品をみた感想を書いています。興味がある方はこちらも見ていただければ、幸いです。

 
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