ラファエル前派展 英国ヴィクトリア朝絵画の夢 |
2014年2月12日(水)森アーツセンター・ギャラリー
さて、「ラファエル前派」に対しては、中心人物のロセッティが画風を変容させたり、母体となった兄弟団に出入りがあったりで、人によってまちまちの定義がされているようです。ここでは主催者あいさつの中で、次のように説明されています。”ラファエル前派兄弟団は1848年、ロンドンのロイヤル・アカデミー美術学校で学ぶ3人の学生、ジョン・エヴァレット・ミレイ、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ウィリアム・ホルマン・ハントを中心とする7人の若者によって結成されました・彼らは、盛期ルネサンスの巨匠ラファエロを規範に据えていた当時の保守的なアカデミズムを憂い、ラファエロ以前の初期ルネサンス絵画を理想に見いだします。自然を注意深く観察してありのままの姿を忠実に描き、より自由な表現を追求しました。彼らの前衛的、すなわち「アヴァンギャルド」な作品は社会から猛反発を受け、英国画壇にスキャンダルを巻き起こします。しかし、美術批評家ジョン・ラスキンの擁護もあり、次第に彼らの活動は認められていきました。またロセッティのもとにエドワード・バーン=ジョーンズや、ウィリアム・モリスら第二世代が集い、唯美主義やアーツ・アンド・クラフツ運動にもつながる英国近代美術の発展に大きく貢献しました。”とまとめられています。また、別のところでは”ラファエル前派兄弟団の結成から、象徴主義的な作品に彩られるバーン=ジョーンズの晩年にいたるまで脈々と流れる、ラファエル前派の急進性に光を当てる試みです。挑発的な様式と主題をもって同時代の社会的、政治的な動乱に向き合うラファエル前派芸術を紹介します。”と述べて、この美術展のコンセプトを説明しています。具体的には、”ラファエル前派の急進性は、彼らの師や世間一般の崇める慣習を受け入れず、芸術的な、そして社会的、政治的な諸問題の根源、あるいは原因にあくまでもさかのぼろうとし、うわべではなく根本的な変化を求めてやまなかったところにある。ラファエル前派の芸術とデザインは、今日改めて見直してみても、製作当時と同様に難解で、一筋縄ではいかない、際立った特質を保っている。その鋭利な線と、エルンスト・ゴンブリッチの言う「けたたましい色彩」は、歴史画に対する革新的なアプローチ、自然界の豊かさや輝かしさの探求、ヴィクトリア朝イングランドの社会と宗教生活に対する批判的精神、そして美と性の独特な描き方とともに、ある種の不穏な音色を奏でている。”と説明されています。 引用が長くなって、しかも引用が論文のような抽象的な説明なので、読みにくいかもしれません。引用した説明は、おそらく通説的なラファエル前派に対する捉え方だと思うので、そういうものとして読んでいただければいいと思います。それで、これに対して、私はどう考えているのか、ということをこれから簡単に述べますので、引用した通説と距離を見ていただきたいと思います。私は、ラファエル前派をまとまった芸術運動として、これ自体に共通した特徴を見るほどのこともないと思っています。ロセッテイやミレイはそれぞれ自立した個性を備えた画家たちであって、彼らがラファエル前派兄弟団という団体を結成したといっても、たまたま、王立アカデミーの仲のいい学生たちが集まったという程度のものに過ぎないと思います。とは言っても、同じ学校で一緒に修行していたわけですから、彼らの地盤に共通性があって、一緒に活動していたので、ひとまとめた方が扱いやすい、ということではないのか、と思います。彼らを一人の画家として扱うには知名度はイマイチなので、ラファエル前派としてまとめるとちょうどいい。実際のところ、ミレイは好きだが、ロセッテイはどうも…という人もけっこう多いのではないかと思います。だから、ラファエル前派展とは言っても、私は、ロセッテイやミレイを見に来たという方がいいのかもしれません。でも、今回の展示のようにラファエル前派を一つの視点で斬って、それをまとめて色々な要素を見てみるというのも、新しい発見があるかもしれないと思います。その結果、どうだったかは、これから具体的に作品を見ながらお話ししていきたいと思います。
1.歴史 History
コールデロンの「破られた誓い」(左図)という作品です。制作したフィリップ・ハーモジニーズ・コールデロンという人はラファエル前派兄弟団に参加した人ではないそうですが、ミレイの「マリアナ」をはじめとした作品の影響を見ることができます。ここでは、「マリアナ」ほどの閉塞感はありませんが、庭の一部という空間の限定と、木の壁や塀に茂った蔦の精緻な描写や、中心の女性の描き方等で「マリアナ」に通じるところが多いと思います。しかし、何よりもこの作品の特徴は、ミレイにはない、陽光の描き方です。陽の当たる部分の明るく暖かな感じは、印象派の描く光と影とは違った光の表現として、もっと触覚に近い感じを与えるものです。主人公の顔に陽光が当たり、その顔の肌が柔らかく映えるあり様と、黒を基調とした衣装とのコントラスト、そして黒い髪が日に映える様は、それだけで魅せられてしまうほどです。
この「四月の恋」(左図)という作品は、アルフレッド・テニスンの「粉屋の娘」という詩をもとに描かれたようです。 愛すれば心は軋み苛立ち痛むもの 愛に漠とした後悔はつきものか 目は無為の涙に濡れながら 無為の習いによってのみわたしたちは結ばれる 愛とはいったい何でしょう、いずれ忘れてしまうものなのに ああ、いいえ、いいえ
同じ作者の「ロムニーを退けるオーロラ・リー」(右図)は「四月の恋」よりも、もっと小さな作品。青と緑の色彩が画面全体を覆い尽くす、その色調のよって幻想的な風景を作り出しています。エリザベス・バレット・ブラウニングの「オーロラ・リー」という詩に題材をとっているということです。画面中央のオーロラ・リーという女性が自身の詩集を携え、ロムニーからの求婚を拒むシーンを描いているといいます。「四月の恋」に比べて、人間の存在感はより希薄になっていて、例えば左側の男性と、彼の手前の白百合を比べてみれば、どちらに存在感があるがは一目瞭然です。二人の人物は地に足がついていないように見えて、画面の中で浮遊しているかのようです。中央の女性も人間と言うよりは妖精のような実体としての存在感があまり感じられず、顔の表情にも生気があまり感じられません。こんなことを書くと不健康で死んだ絵のように受けられるかもしれませんが、これに対して自然描写は細かくて、生命感が感じられるものとなっていて、これに対して、人間を見る目が無常観のような人の儚さに目が行くような視点で描かれているように見えます。その場合、人間の存在の現実性が薄くなって、幻想の風味が反比例するように前面に出てくる。それが、ヒューズの作品の特徴ではないか、と思います。それをヒューズ独特の青と緑の鮮やかな色調が効果的に盛り立てている。それゆえでしょうか、ここで描かれている女性は、ギュスターブ・モローやベルギー幻想派のクノップフの描く幻想的な女性を想わせるところがあると思います。 アーサー・ヒューズは沢山の挿絵を描いたといいますが、ラファエル前派の周辺の画家として、今回、初めて見た画家です。今回の展示で出会うことができたというのは、大きな収穫であったと思います。
2.宗教 Religion
ミレイの「両親の家のキリスト(大工の仕事場)」(左図)という作品。幼いキリストとその家族を描いた作品です。”父親のヨセフと助手が製作中のドアから突き出た釘で、少年イエスが左手の掌を傷つけてしまう。傷を負った息子を慰めにやって来たマリアがあまりに心配そうなのを見て、イエスは母親を安心させようと左の頬に口づけをする。マリアの夫ヨセフは傷口を確かめようとしてイエスの左手を後ろに逸らし、これが祝福を与える仕草となると同時に、そのために少年の足もとに血がしたたり落ちる。作業台の向こう側から、マリアの母親アンナが傷の原因となった釘を抜こうと手をやっとこに差し延べる。右手からは、洗礼者ヨハネが、従妹のキリストの傷を洗うために盥に水を入れて運んでくる。”と場面を説明されています。こうして読むと、なんとも複雑な作品になっています。
3.風景 Landscape
チャールズ・オールストン・コリンズの「5月、リージェンツ・パークにて」(右上図)という作品です。画面に空間を構成させるというのではなくて、風景を切り取って、その切り取ったものを忠実に描いたと思われる作品です。しかし、ある視点で風景を切り取って来るというところに、選択が働くわけで、その切り取り方について、画家に認識があったのか分かりません。しかし、その結果として出来上がったものは、まるで建設現場の建物の完成予想図のような、整理されたものになっています。人気のない公園は、短く刈り込まれた芝生をベースに、花壇、園路、道路、垣根、池が水平の列になって並んでいるのに対して、人物、柵の杭、木の幹の黒い垂直線とで図形のような秩序を形づくっています。それは、たしかに見方によっては、ルネサンス初期以前の遠近法が大きく導入される前の、神の秩序というような現実の空間とは違った平面的に整理整頓して事物を並べたような画面に通じるところがあります。ここにあるのは、現実の風景を描写するということをタテマエとして、手法として掲げながら、その現実とは何かというと、その現実を見る目にフィルターをかけていることに気づいていないか、そのことを見ようとしていない、ということです。ミレイやロセッティといったラファエル前派の有名な画家たちは風景だけを描いた作品というのは、ほとんどなく、人物を思い思いの設定で描いているため、いくらでも好きな衣装を着せたり、背景を意図的に設定したりということができました。しかし、このような風景画では、風景自体を人物のようにいじることはできないため、ラファエル前派の矛盾とまではいかないまでも、どこかチグハグしているところが綻びとして表われているのではないか、そういう作品として、この作品を見ることができると思います。 それはまた、ラファエル前派の作品を購入してくれる主なターゲットである、産業革命や海洋進出で勃興してきた新興のブルジョワジーにとっては、写実的な技法で描かれているので、何が描かれているのかを特別な教養がなくても理解できる分かり易いもので、描かれているものが、秩序正しい、いうなれば品行方正、お上品っぽいもので、しかも熟練度が高い、いかにも高品質というのが識別できるというものであれば、高い評価を獲得できるものであったと思います。
4.近代生活 Modern Life
その影響からか、ラファエル前派は風俗画に生真面目な倫理性を添え、近代生活に取材した挑発的な主題を取り上げて作品に鋭い批評性を与える試みをしていると言います。世間の習俗を描く作品は、福音主義の立場から堕落した人間の生き方と救済の必要性を説き、同時に義務と自助努力の重要性を訴えた寓話の形をとったといいます。これはブルジョワジーの信仰であるプロテスタンティズムが禁欲的な倫理を課していたことに適うことであったので、ブルジョワの家庭の居間に飾るということには格好のテーマだったかもしれません。 しかし、もともと、産業社会を強力に推し進めた資本家や企業家といったブルジョワジーの人々こそが、ラファエル前派の作品を支持し、購入する主な担い手であったと思われるわけです。そのブルジョワジーのなし得た産業化社会という成果に対する疑問を投げかけるということに、ラファエル前派の人たちは、自分たちの地盤を批判することにもなりかねない、そういう自覚はなかったのかもしれません。ヴィクトリア朝の道徳倫理というと後世からは表面的で、体裁を取り繕うものといった批判がありますが、社会にたいして倫理的なことを説く一方で、当の自分の立場については蚊帳の外において、とぼけている。そういうことになれば、説いている倫理とやらは薄っぺらなものになってしまうわけです。実際、ウィリアム・ホルマン・ハントの「良心の目覚め」という作品は、ブルジョワの愛人の女性の良心の目覚めを描いたもので、女性の虐げられた社会風俗に批判的な意味合いで描いた作品だったにもかかわらず、娼婦を描いたという見当違いの批判を受けることになってしまったといいます。そこには、画家ハント自身の倫理的な前提が中途半端だったために、タテマエを表面的に表わし、その底には、批判される対象と変わらぬ心情が流れていることを見る人が敏感に気付いたかもしれない、と思われるのです。 実際に、「良心の目覚め」を見てみましょう。とくに先入観とか、こういうテーマで描いているというような情報もなく、虚心坦懐に作品を表面的に眺めてみれば、軽薄な男女がいちゃついていると見える作品です。それは、描かれている男女ふたりの表情が、そういう印象を持たせるものだからです。とくに、女性については良心に目覚めた姿に見えるかというと、私にはそこまで描き込まれているとは思えません。「良心の目覚め」という題名と、この絵のテーマはこうだという説明を受けて、そういう絵だからという視点で見て。漸く、女性については、そのような良心に目覚めたところかもしれないと、そういえば、男性から離れようとしているし、目は遠いところを見ているようにも映ると、想像を逞しくしてはじめて、そう見えるかもしれない、という程度です。 全体として、ハントという画家は細かく精緻に、小道具を描き込んでいます。そこで、どうして女性の表情が中途半端なのか疑問に思いますが。男性は流行の服装に身を固め、女性の指にはことごとく指輪がはまっているが、結婚指輪をはめる指にだけははまっていないと言います。男性に対して女性の服装は着替えの途中のようなありあわせの服装で、愛人という立場の弱さを示している。室内はけばけばしい品で埋め尽くされ、そのことが、男の愛の皮相さを際立たせ。それらをハントは執拗なまでに細かく描いています。また、小鳥を弄ぶ猫、脱ぎ捨てられた手袋、女性の刺繍のもつれた糸などのディテールが女性の囲われ者の立場の危うさを暗示しているといいます。このような、細部に凝りに凝ったように細かな情報を詰め込みながら、当の女性の姿に、そういうものを感じさせる圧倒的なものが見られない。また、全体の雰囲気にも、そういう空気が感じられない。たとえば、この室内については空間性が感じられませんが、それだからこそ、狭い閉塞した空間として描くこともできたはずです。だからこそ、この作品にたいして倫理的に深刻なものというよりも、現代風俗を描いたと見られるか、倫理的なテーマであると見られたとしても深刻に受け止められるほどではなかったのではないか、と思われるのです。ラファエル前の主要顧客であるブルジョワジーの中には愛人を囲っている人も多かったのではないか、そのような人も、とくに気に咎めることもなく、この作品を眺めることができたのではないか。それだからこそ、この作品は受け入れられ、ハント自身の作品としても代表作として見られていると言えると思います。
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの「青い小部屋」(左図)という水彩画です。サイズは約35×25㎝と小さな作品です。背景の壁面の青いタイルはアラビア建築でよく用いられるものでしょうか、中世スペインの建築でよく見られるものですが、その中世風の景色を精緻を極めるように細かく描いています。そして、その印象的なアラビアン・ブルーとの色彩のハーモニーを考えて、4人の女性の衣装の色がそれぞれ鮮やかに引き立てています。全体としての構図は、クリュニー美術館展にあったタピスリー「聴覚」(右図)によく似ているようです。ロセッティがこれを見たとは思えませんが、中世には、聴覚とか音楽についての図案の一つとしてあったのかもしれません。2人の女性が楽器を奏で後ろの2人侍女が歌っていというる象徴的な図柄が、音楽という目に見えないで、感情を掻き立てる神秘的で官能性に富んだものの暗示として、ロセッティの幻想への指向に適合した、ということでしょうか。ここでの4人の女性は音楽に酔っているかのよう虚ろで、右手前の金冠を載せている女性の横顔は楽器に寄りかかっている風情は、どこか後の「ペアタ・ペアトリクス」の表情を想わせるところがあるようにも見えます。ちょっと、こじつけかもしれませんが。以前の宗教のところで見た、マリアが感情がわかるような明確な表情が見て取れたのに対して、ここでは、そういう人間的な明確が曖昧になり、逆に、手前の植物を精緻に描いたりと、象徴的な小道具を強調していくことで、リアルっぽく描いているように見えて、実は現実的でなく象徴性に富んだものとなっているものになってきていると思います。
エドワード・バーン=ジョーンズの「クララ・フォン・ボルク1560年」と「シドニア・フォン・ボルク1560年」(左下図)という水彩画です。人物の、とくに顔に描き方などでは、後年の彼らしい特徴てきな顔になっていませんが、多少、ここで見たロセッティの描く顔の影響から脱しきれていないようにも見えます。解説では、七宝細工的な文様は素材の枠を越えた作品作りとしてバーン=ジョーンズの作品の特徴と説明されています。それよりも、描いたものを一つのまとまった作品、というよりも商品とか製品として高い品質で仕上げるということについては、ロセッティに比べてはるかに巧みであったということが、このような未だ画家として発展途上にあるときから、見て取ることができると思います。それは、ラファエル前派の創始者の世代の画家たちの中のミレイと、彼以外には、見られない特徴であのではないかと思います。そしてまた、ラファエル前派が登場した時に批判したラファエル主義という芸術家というよりは絵画職人という画家のあり方に、彼こそはむしろ近いものではなかったのではないか、と思ったりしています。
6.美 Beauty
「プロセルピナ」(右図)という作品です。この展覧会ポスターにも使われた作品です。黒い髪の毛が印象的で、衣装の濃い紺色で、肌の色との対比、そして唇とザクロの赤が強く目立つ作品です。ギリシャ神話に題材をとったタイトルで、それらしい意匠になっているといいますが、黒髪と濃い色の衣装の隙間にほの見える肌の首と背中のラインは豊満で官能的な肉体を暗示しています。「ベアタ・ベアトリクス」のぼんやりとした夢幻的な画面に比べると、こちらはくっきりとしています。むしろ、色を対立的に扱って緊張感をあたえ、顔や首などの肌の白を際立たせ、視線をそこに集めるようになっています。その特徴的な顔こそがロセッティのロセッティたるゆえんとなっている。 |