生誕100年 中村正義 その熱と渦
 

 

2025年5月4日(日)平塚市美術館

会社員生活が終わって後のことを考えていたら、時間はたっぷり取れるようになるので、いままで東京とその周辺しか行くことができなかった美術館について、少しずつ遠くの美術館に行ってみるのも、いいかもしれない。地方の美術館とか。そんなことを考えていたら、今まで対象外だった関東圏の美術館に行ってみるのもいいのではないかと考えた。このゴールデンウィークは上野の美術館などは大混雑なのは容易に想像できる。それで、探してみて、ヒットしたのが平塚市美術館。東京の西部に住んでいる私には、朝出て、夕方おそくには帰宅できる。日帰りの圏内で、ちょうどおもしそうな企画展をやっている。朝9時に家を出て、平塚に着いたのは12時ちょっと前。電車は、うまく混雑を外れてくれた。駅前の商店街を抜けて、大きな八幡神社の裏手に市役所や図書館などの公共施設が集まっていて、その一画に美術館がある。駅から歩いて20分くらい。バスも出ているようだが、八幡宮にお参りしたり、散歩がてら歩いてもいいと思う。mu通りに入ると、前庭を広く取った、アーチ状のドームを備えたような凝った外観の建物が平塚市美術館。個人的には、このような凝った外観は、芸術的なんだろうけれど、いかにもという感じで、使い勝手が悪そう。スペースの無駄遣いというか。第1展示室と第2展示室と分けたり、展示室まで無駄に歩かされたり、そのくせロビーが狭い感じがしたり

展覧会は、混雑しているのでもなく、閑散としているのでもない、そこそこの入場者。大多数の作品が撮影可のようだが、シャッター音は時たまで、気にならない程度。来ていることは、中高年の夫婦がに目につく、リラックスした格好で地元の人なのだろうか。

この展覧会の中村正義という画家のことは知らないので、紹介がてら主催者あいさつを引用します。“異端・鬼才・風雲児などさまざまな呼称が冠せられた中村正義は、戦後の日本美術において特異な存在と目されてきました。1924年5月に愛知県豊橋市に生まれた正義は、中村岳陵に師事して戦後の日展で将来を嘱望されましたが、会員に推挙された1961年に師のもとを離れ日展からも離脱します。以後、旧態依然とした日本画壇に反逆し続けました。多彩で精力的な活動を展開する一方で、同時代の作家たちと深く関わり、彼らを巻き込んでさながら台風の目のように強い牽引力を発揮したことも注目に値します。郷里においては美術の専門教育を受けていなかった仲間たちを日本画家として導き、当地にひとつのエポックを築き上げたほか、針生一郎とともに「日本画研究会」を立ち上げ、片岡球子、横山操、浅倉摂、加山又造など在野の画家たちと日本画の在り方について討議を重ねました。また、同郷の星野眞吾と4ともに異色の美術グループ「人人会」を創立したほか、そこから派生して多様なジャンルの表現者を巻き込んだ芸術祭「東京都展」へと展開します。一方で世に認められることなく病没した三上誠の才を惜しみ、回顧展の開催に力を尽くし、若い画家たちへの支援を行うなど、ジャンルや世代を越えて「つながる」ことを重視した作家でした。自身も道半ばの52歳で病没しましたが、決して長いとは言えないその生涯はさまざまな画家や関係者に影響を及ぼすとともに、こうした交流によって正義のダイナミズムが生み出されたとも言えるでしょう。生誕100年を記念する本展では、正義の画業を代表作によって概観するほか、その交流関係にも着目し、関連作家の作品もあわせて紹介します。また、映画や舞台芸術、写楽研究やシステム化住宅など正義の関わった多様な活動に焦点をあて、あらためて正義の実像に迫りたいと考えています。”

それでは、展示の順番にしたがって作品を見ていきたいと思います。

第1章 研鑽の時代─日展と蒼野社

中村が中村岳陵の主宰する画塾蒼野社に入門し、そこで研鑽を積んで、日展に出品していた時期の作品です。

「斜陽」(右側)は1946年の制作で、第2階日展で初入選を果たしたという画壇へのデビュー作とされています。淡彩の色調は霞や靄に包まれたかのような光と空間の中、民家の土壁を背景に、竹林の幹や葉に斜め奥から夕陽が差し込む逆光を受けて虚ろいゆくときの一瞬を捉えているということです。精緻な線描は、胡粉で線を一度消して、淡彩を乗せた上から再び線描により対象をくっきり描き起こすことによって、装飾的で清らかということです。よく見ると、竹林らは2匹の黒い蝶が描き込まれています。この蝶に何かの意味があるのか、勘繰ってしまいたくなります。日本画には素人の私が、この絵で見てしまうのはそんなところで、作者である中村は下準備を重ね、力が入っているのでしょうが、地味な作品だなというのが、私の印象で、2匹の蝶を含め、意味不明というか、意図がよくわからない部分がいくつかある作品です。その分からない点は、同時に展示されている師匠の中村岳陵の「狭霧霽れゆく」(左側)を見ると、霧が晴れていこうとする木々の間から差し込む逆光の光景で、そこに数匹の蝶が飛び交っている。つまり、「斜陽」は師匠の影響といえると思います。後の展示を見ると分かるのですが、中村正義の作品は、これらが一人の人物によって制作されたのかと驚かされるほどの多彩なのですが、それは、この人がそれほど色々なものが描くことができる器用さを備えていたからだと思います。そうではなくて、不器用で、これしかできないというというのを一途に詰めて自身の作風を大成させるというタイプの人ではないと思うのです。これは数か月前に見た田中一村がそういう人だった思います。何を描いても、それなりに作品ができてしまう。何でも屋さんの器用貧乏で終わってしまいそうなところ、奄美大島に移住して、他にない題材と出逢って、自身の個性を創りだすことができた。中村の「斜陽」は師匠の作風を巧みに消化して、日展に入選してしまえるほどの作品にまとめ上げています。それほど上手い。でも、「斜陽」もそうなのですが、このコーナーで展示されている作品を見ていると、基調としている淡い色彩や陰影でもない濃淡のつけ方の意味(必然性)が分からない。師匠である中村岳陵のスタイルを踏襲しているだけとしか思えないのです。この時期は、中村正義にとって習作期という位置づけなのかもしれませんが、それにしても、このコーナーで展示されている作品は誰々風というのが想像できる。

「清粧」(左側)は1948年制作の女性像。並んで展示されていた1949年の「少女像」もそうですが、背景を描き込まず、ある場面のなかの人物というのではなくて、人物が独立して抽出され存在あるいは造形として描かれています。日本画では、こういう例は少ないのではないか。このようなタイプの女性像として思い出されるのは、速水御舟の「女二題」(右側)とか上村松園の「序の舞」などといった作品です。このあたり、中村という人の頭のよさ、器用さの一面が現われているのではないかと思います。情報への目配りというか、画家たちの新たな試みの情報の敏感で、それを自身の作品に巧みに取り入れてしまう。これは、後の反逆といわれる作風の大胆な転換が、同時代の絵画のムーブメントや社会の動きと連動していたように思われるところで、そこで反逆して玉砕するのではなく、他の画家を巻き込んで、ムーブメントのオルガナイザーとして巧みに身を処して、生き残っていった、その片鱗が現われているというのを、これらの初期作品から読みとるのは、こじつけかもしれませんが。そしてまた、これらの作品では「斜陽」では目立たなかった写実とはすこしズレた色遣いと意味不明な塗りの濃淡がすごく目立ちます。この点で、私は違和感を持たされます。また、人物描写の硬さとを強く感じます。どこか肩に力が入り過ぎて、無理をしている感じが強いです。

第2章 反逆の兆し─日展復帰と一采社

中村が日展に1946年の初入選から1961年の脱退までの15年間の作品です。その間、病気療養による雌伏の期間があり、そこで反逆の兆しを見せ始めるということです。

「谿泉」(右側)という1951年の作品です。谿泉とは聞き慣れない言葉ですが谷間に湧き出る泉という意味です。ここで描かれた女性の眼に白眼がなく黒く塗りつぶされているところや簡略化した人体のかたちの表現など、一緒に展示されていた高山辰雄の「少女」や「室内」の影響を見ることができます。その高山の「少女」(中央)は、人物の描き方や画面の、のっぺりとした平面的なところはゴーギャンの影響らしいのですが、私には、ゴーギャンというよりはモディリアーニの描く少女の顔に似ていると思えてきます。この作品では、背景のグリーンと少女の服の黄色、そして右下の猫の黒といった、彩色され単純化された面の構成が、この作品の大きな特徴だと思います。とくに、グリーンが引き立っていて、深いグリーンが靄のように画面を覆っていて、そこにアクセントを加えるように猫の黒が配され、印象を和らげるように少女の淡い黄色が効果的に使われている。少女の顔に表情はなく、目は空虚に黒く塗られています。また同じ画家の「室内」(左側)になると、二人の少女の服の鮮やかな赤と黄色を中心にして、ふたりの周囲の室内の物が色の平面に還元されるようになって、画面全体が色彩で構成されているという、まるでカンディンスキーの初期の抽象画を描き始める直前の作品にようになっています。おそらく、高山という画家は、自身の資質なのか日本画というのがもともとそういうものなのかは別に措いて、人間を描くというときに、個人の持っている感情とか精神的な内面といったものを単独に、直接的に描くという方向を選択することはしなかったと思います。一方、中村は高山にあったように色自体の強さ、鮮やかさのようなものはなく、鈍いというか地味で、生き生きとした感じはなくて、その代わりに群像の女性たちのポーズが西洋絵画の伝統的なヌードのポーズだったりするのではないでしょうか。この作品のヌード群像を見ると、例えばルーベンスなどが描いたギリシャ神話の「パリスの審判」などを思い出す。ある意味、中村の作品は何かしら引用の痕跡があって、それを探すのは、彼の作品を謎解きのように楽しむ要素なのかもしれません。ちょっと不謹慎かもしれませんが。これはあくまでも個人的な感想です。

「舞妓」は1959年の作品です。病気療養による活動のブランクがあって、日展に復帰したのが前年の「女」という作品で、その翌年の日展出品作ということです。この2作を含めた舞妓三部作というのが、通称赤い舞妓といわれる「女」、白い舞妓といわれる本作である「舞妓」、そして展示されていませんでしたが黒い舞妓といわれる「舞子」の3点で、現在の私の視点からは、それほど奇抜にみえない色彩や構図も、当時の日展ではタブーを犯した問題作であったということです。題材の取り上げ方は、変わったところがあったかもしれませんが、構図や描き方については以前と変わった感じはしませんでした。変化として、敢えて言え陰影が見て分かる程度に付けられて、以前ののっぺりとした平面的な感じがしなくなったことですが。とはいえ、意味不意な塗りの濃淡は残っていて、折角つけられた陰影の効果があまり感じられません。その一方で、この作品では背景に、金箔が貼られたかのように光っている感じがするところに、白い着物や舞妓の白塗りの顔の白が浮き上がってくるところに、濃淡が付されていることで、その白への目の抵抗感を少なくしている。つまり、見る者が自然な感じで受け入れやすくしているようなところがあって、この作品では、それなりの効果をもたらしているとも考えられます。後、展示につけられたキャプションでは、赤い眼が情念を表現しているとされていましたが、この作品に表情とか感情が果たして表現されていたのか、そういう深層ではなく、描かれた表層の作品で、中村という作家はそこで勝負しているように私には思えました。

「太郎と花子」(左側)は1960年の日展への最後の出品作となった作品だそうです。目にチカチカするような原色をドギツイほど荒々しく散りばめた色彩のなかで半裸の若い男女が睦み合う姿が描かれていると説明されていました。不謹慎とか、あるいはヌーベルヴァーグとかと賛否両論を引き起こしたということだそうです。しかし、展示されている作品を実際に見てみると、制作されてから60年以上を経過したためか、絵の具が劣化したたか、当初はドギツかったと思われる色彩は鈍化して、画面全体が濃いグレーのぼんやりとしたものとなって、具体的に何が描かれているか、ハッキリしません。むしろ、濃いグレーを基調とした画面で、赤や黄や青などの色が不定形に点滅するといったように見えます。この作品を見ていて思い出したのが、中村とはまったく関わりがないかもしれませんが、熊谷守一が1931年に制作した「夜」(右側)という油絵です。夜の暗闇の中に死体が横たわっている。しかし、画面の黒の地に原色の点がポツポツとあるとしか見えない。中村は、熊谷とは違って、当初から、そういう画面を目指したわけではないでしょうが、結果としてそうなってしまった。そのようになってしまった画面として見ていると面白い。私は、中村と同時代人ではないので、反逆といわれても、当時の日本画をとりまく状況など分からないし、それをリアルなものとして分からないので、歴史上の事件としてとしか分からない。そういう事情を踏まえた上で、絵画を見るというのは、その事情というのはオマケにすぎないと思います。そのオマケがないと、その作品を見ることができないなら、その作品を見る人は限定されてしまうでしょう。私は、この作品を抽象画みたいな作品として面白く見ました。

第3章 日本画壇への挑戦─日本画研究会発足

1961年に中村岳陵の蒼野社をやめたのを転機に、セピア調からカラフルな作風に転換し、当時としては先鋭的な作風を追求していくことになるということです。

「妓女」は1962年の作品。これまでの淡い色を基調とした落ち着いた調子から、突如、鮮やかな赤を中心に原色を多用した激しい色彩に一変しました。中村本人のコメントが図録にあります“私は自分の好みではない色、関心をもたなかった色に挑戦を試みた。…私自身好きでもない関心もない原色へのこの実験は、数か月たたないうちに、私の既成概念を完全に破壊してしまったようである。私はこのような破壊行為が意識的に計画的に試みられて、私なりの成果をあげたことに狂喜しているわけである。私は私を破壊することに成功した。”ということですが、これは後で語っているだろうから、本人が物語を創っている演技に近いものでしょう。というのも、以前の「舞妓」という1959年の白を基調にした作品と女性の形態は、それほど変わっていないように見えるのです。人物は全体にのっぺりして平面的だし、顔には表情がなく、眼は白目のないアーモンド形のべた塗りということで、ほとんど変わっていません。それが、色彩を転換させただけで、これほど印象が変わってしまった。とくに、以前の作品では中間色の濃淡を塗り分けていた背景を原色を対立するように塗り分けて、それがドギツイ印象を与えています。これまで、意味不意の濃淡だったのが、ドギツイ緊張感を作り出すという意味が分かるものに変わったように思います。そういうことから、この人は表層の人だということを、この作品は如実に示している。そのように私には思えます。

翌1963年の「男と女」という作品です。「妓女」をさらに奔放にしたような作品と言えましょうか。画面の全面が真っ赤の「妓女」の方が色彩のインパクトは強いのですが、蛍光塗料にボンドを混ぜ合わせて、油絵のマチエールのように厚く盛り上げているのが奇を衒ったといいますか、日本画だと思って見た人を驚かせるであろうことは想像できます。また、描かれた題材のかたちについては、「妓女」では以前とはそれほど変わっていなかったのに対して、この作品では形をかなり崩しています。ほぼ同時代(少し前かもしれない)のヨーロッパにおけるジャン・デュビュッフェなどのアンフォルメルのムーブメントによる伝統否定の表現を想わせるところがあります。その一方で太い黒の輪郭線によるコミカルな形によってポップアートの雰囲気も感じられます。おそらく、中村は同時代の最先端の流行として情報を得ていたのではないか。そういう時代状況というか時流に敏感に、敢えて言えば目端のきいて、このようなスタイルを採っていって、そこに反逆といった大義名分を付加した。後の時代からの目線では、そのように映ります。それほどに、この作品はスマートなのです。そしてさらに、後年の中村は、このようなスタイルから写実的な表現に変わってしまいます。まるで、このときは麻疹にかかっていたとでもいうように。そこに、どうしてもマーケティング戦略を見てしまうのです。ただし、それは決して悪いことではなく、積極的に評価できることです。だから、情熱に駆られた反逆というストーリーには違和感を覚えるのです。これは、あくまでも私が作品を見た印象です。とこで、作品の流れとしては、前に見た1960年の「太郎と花子」の流れを汲むような感じですが、男女があからさまに絡み合うポーズは浮世絵の春画の影響と説明されていました。

「源平海戦絵巻」は大作です。全五図の構成だそうですが、展示されていたのは第二図「海戦」第四図「修羅」の二作品。これが、本日最大の収穫でした。これはすごかった。画家が技量の限りを尽くして、精魂を傾けた作品だと思います。「海戦」は大きな画面を埋め尽くすように描かれた合戦の武士たちの顔はマンガ的でユーモラスではあります。しかし、これだけ夥しい数の武士たちひとりひとりの表情はすべて違っていて、それぞれが個人として独立した意志をもった人物として描き分けられています。その武士たちが、各々の意志をもって戦っている。また、中央の船には女官たちそれぞれが、強い意志で戦いを見守ったり、おののいたりして行動しています。この画面に描かれている多くの人間のひとりひとりが皆、必死に生きている。その姿が細密に描写され、ひとりひとりの姿が積み重なって、やがては画面全体に大きなうねりのような動きを作り出しています。それは、描かれた源平の時代の歴史の大きなうねりを感じさせる壮大なドラマに見るものを巻き込んでしまうような迫力があります。その一方、この画面の人々の顔色は土気色で幽霊を想わせるところがあり、日本画の様式化された人物描写にパターンにのっとっているところは、現実のリアルとは外れていて、その在り様がこの世ともあの世ともつかない幻想的な世界にも見えてくるのです。この作品は、細部のひとりひとり人間の姿を追いかけて、この人はどんな人なんだろうかと想像をめぐらしてもいいし、少し画面から離れて画面全体のうねりに流されるような体験をしてもいい。どれだけ見ても、見飽きることはない。そういう作品だと思います。「妓女」や「男と女」のような作品を描く一方で、このような作品も描いていたわけで、この人は器用な人であることを再認識しました。

第4章 生と死の狭間で─人人会と東京展へ

中村は癌の手術を受けたことなどから1970年以降、原色を用いた明るく大胆な作風から、暗鬱な色調の作風に変わっていったそうです。

「おそれ」(右側)は1974年の作品。暗い画面に土気色の顔の人物たちが並んで立っているという作品で、人物たちの顔はコミカルにデフォルメされているが、暗い画面が却って不気味さを増している。香月泰男(左側)がシベリア抑留の体験をもとに制作したシベリア・シリーズの暗闇に、生きているのか死んでいるのか分からないような顔が浮かびあがる陰鬱な作品と構成が似ているような気がします。しかも、はっきりと描かれている人物たちの背後の暗い空間にぼんやりと幽霊のような人物が描かれています。ここには、明確に輪郭がある人物たちと、その背後の薄ぼんやりとした人物たちが、それぞれのっぺりとして平面的に描かれています。つまり、この作品には、二つの平面がある多重平面で構成されているのです。薄ぼんやりした人物たちは、背後だから暗闇に溶けてしまって見えるのでほんやりしているのか、実は前面の人物たちの内心の形を象徴的に表わしているのか、あるいは前面が現実であるのに対して背後の面は幽霊の異界で幽霊は前面の人物たちを見ている(憑りついている)のか、いろいろな解釈が可能でしょう。

「何処へいく」は同じ1974年の作品。マグリットやダリのような写実的に描写した題材を意外な組み合わせで幻想的な光景を作り出す手法を使っているような作品。ここに至って、部分的ではあるが、写実的に描くということに戻っています。前の時期の極端なデフォルメは影も形もありません。潔いほどスパッと切り捨てているのが、この人の真骨頂かもしれません。真っ黒な背景に白い骸骨が浮かび上がるのは、まるでレントゲン写真を見ているようです。それほど、骸骨の描写はリアルです。その真っ黒な背景からは様々な顔が浮かび上がってきます。それぞれの顔はかなり歪んでいて、骸骨と対照的です。この描き方の違いが二つの世界が併存していることが分かります。それを境界づけるのか、あるいはつなぐのか、一筋の足跡が画面中央から下に、まるで奥から手前に向かってきているようにつけられています。何らかの意味合いがあって、見る者に解釈を促す、いかにも意味ありげな、何か言いたそうな雰囲気の作品です。

「うしろの人」は中村の最後の作品だそうです。1960年代の作品に見られた蛍光色や原色でエネルギッシュな造形を試みた痕跡というのか、そのインパクト、いわば見る者がひっかかるようなところが、よく言えば洗練されて、ひっかかりなく、受け容れやすくなっていると思います。行く層も塗り重ねられた絵の具が厚みをもって重量感ある画肌を作っています。1963年の「男と女」の絵の具にボンドを混ぜて盛り上げるようにしてマチエールのような画肌をつくって奇を衒っていたのが、ここでは重厚感という見る者に分かりやすい効果となって、いわば洗練されています。あるいは極端に形を歪めたデフォルメは、ここでは落ち着いたものとなり、むしろ蒼白の幽霊を想わせる顔色の女性の顔として、見る人に抵抗感を起こさせない機能を果たしている。そういうことなどから、反逆とか異端といったレッテルを貼られるほど極端な変化をしてきた画家に、洗練とか成熟といったことは似つかわしくないかもしれませんが、この作品には、落ち着きが感じられます。中央の女性の背後に影のような何者かが立っているのは、「おそれ」や「何処へいく」で見られた二つの世界の系統と見ることもできます。これは、人間の二面性(陰と陽)とも、しのびよる死の影とも、多様な解釈が可能でしょう。そして、女性は1957年の「女」から、何度も繰り返し取り上げられてきた舞妓です。舞妓は、化粧と衣装によって真実を覆い隠すペルソナの側面をもち、いわば化けた者です。その白塗りの顔は、彼女の素顔を隠しているという、二重の存在でもあるわけです。つまり、この作品は女性と背後の何者かという二重性と、当の女性が二重性の存在であるという。しかも、彼女の蒼白な顔色は幽霊のようにも見えて、生と死の二面性が見られる。

ここからは、区画が変わって、一采社や日本画研究会、人人会やその他で中村と関係していた画家たちの作品が展示されていました。そこで、いくつか印象に残った作品がありました。

平川敏夫「樹炎」。平川敏夫は中村との交流の中で日本画を始め、はじめは人の気配の途絶えた漁村や夜の庭園、水辺の景色など幻想的な表現で描いていたが、樹木の根源的な生命力に注目しシリーズで描くようになる。当初は冬枯れの樹枝が波打つ様を描いていましたが、やがて燃えさかる炎と化したかのような樹枝を朱で描いたシリーズに至り、生命力の称揚は頂点に達したといいます。この作品は、その朱で、枝が絡み合う生命体のような威容を示しています。

大森運夫「ふきだまりU」(右側)。大森運夫も中村の勧めで日本画を始めた。「ふきだまり」は三部作で、浅草のドヤ街山谷にたむろする日雇い労働者の姿を描いて、社会の底辺に生きる人々の悲哀とたくましさを骨太い筆致で描き出し、デフォルメされた人物の形は鉈で掘り出したかのように荒く、パレットナイフで厚く盛り上げた岩絵の具は岩肌を思わせるなど、日本画というよりもむしろ油彩画で描いたような印象を与えます。この作品は小山田二郎(左側)を想わせます。

高畠郁子「惜陽」(右側)。高畠郁子も中村の勧めで日本画を始めた。活動初期に幻想的な植物画を数多く手がけている。なかでも銀箔を用いた装飾的な傾向の強い本作は、多様な植物や鳥獣、虫たちの生命力を讃えた代表作。よく見ると、陽を惜しむ虫や鳥たちに交じって、夜を待つ生き物が茂みの中で目を光らせている

斎藤真一「梅雨の頃」(左側)。斎藤真一は1974年に中村らとともに人人会を結成した。津軽に旅した斎藤は盲目の旅芸人・瞽女たちの存在を知り、翌年より一連の制作を始めた。本作では青白い光に照らされて、ひとり髪を洗う半裸の瞽女が描かれている。周囲の赤い縁取りにも髪を結った瞽女の顔が描き込まれているが、彼女たちはこの瞽女の想いを哀調込めて唄っているように見える。このデフォルメした女性の顔は、中村の「うしろの人」と通じているようにも見える。

第5章 深掘り!中村正義をよみ解く

ここから第2会場に移ります。ここでは、中村の多様な取り組みを5つのテーマで紹介しています。これまでの第1会場では、比較的規模の大きな作品をじっくりと見せるという展示でしたが、ここでの展示は中小規模の作品を数多く見せるというように、展示の仕方が変わりました。ここまでで少し疲れ始めてきたので、ここで多数の作品が壁を埋め尽くすような展示に接すると、圧倒されて、丁寧に見る余裕がなくなってきました。なので、かいつまんで

「風景と山水〜写生から心象風景へ」

1950年の「山里暮色」(右側)。写実的な風景画です。いわゆる花鳥風景の定型的パターンではない、田舎の山里の風景です。当時としては斬新だったのかもしれません。向井潤吉が描きそうな風景です。1969年の「雪景色」(左側)は、日展から離れて反逆したため、注文がなくなってしまったときに、この作品をきっかけに注文が再びくるようになったということです。この作品と同じ頃に舞妓を題材にした過激な作品を制作していたのですから、びっくりです。

「花と女〜色彩の実験」

蒼野社に入ったころは花鳥画を描いていたのが、1960年代の反逆の時期に原色を多用する大胆な作品を制作します。1962年の「花(アネモネ)」(右側)はその典型です。三輪のアネモネの花の赤が強烈です。そこに青、黄が対立するように配され、そこに赤がドリッピングのように散らされています。1963年の「薔薇図」(左側)は画面のほとんどが赤で占められ、アクセントのように黄色が激しく対立しています。太い線が引かれた薔薇の形態は大きく省略され、蚊取り線香の渦巻きのようだし、茎の部分と背景は唐草模様のようです。

舞妓は、女性は1957年の「女」から、何度も繰り返し取り上げられてきた舞妓です。この以前に制作された舞妓三部作と呼ばれている作品がある。通称赤い舞妓といわれる1957年の「女」、白い舞妓といわれる1958年の「舞妓」、黒い舞妓といわれる1959年の「舞子」(ここでの展示なし)の3点である

この頃の舞妓は、日展の古い殻を打ち破ろうと試行錯誤を重ね、画面上でさまざまな実験が行なわれていた。例えば「女」では、目の覚めるような朱色の長襦袢を纏った豊満な女を登場させ、「舞子」では、着物の前をはだけて裸体を晒した少女を描いた。現在の時代感覚では、それほど奇抜にみえない色彩や構図も、当時の日展ではタブーを犯した問題作であったという。しかし、日展には「舞妓」を出品した。そこには、隠された部分にさりげなく贅を尽くすという伝統的でありながら、粋で洒脱な日本人特有の美学が横たわっている。その後、第3章で見た1962年の「舞妓」はその薄い膜を剥ぎ取り、鮮烈な色彩を露出させたという。そして、ここで同じ1962年の「舞妓」(左側)は、さらにドギツイ赤で、形態のデフォルメはさらに進み、むしろマンガに近づいている。このお下品さは、同時代の横尾忠則のテイストに近いものを感じます。そして1963年の「舞妓」(中央)は黄色いポップな画面で、全体に黄と紫、赤と緑、青と橙など、意図的に補色を使い、さらにショッキングピンクにより鑑賞者の目を引き付け、人体をこけし人形のようにとらえ、腰から上部の正面を画面の真ん中に配置し、顔の部分は、絵具のチューブから絵具を直接出して凸凹に盛り上げて描いています。一方で単純な形態と円や十字など幾何学模様や明るい色彩が、はかなくポップな軽みを強調しています。1968年の「舞妓之図」(右側)は「うしろの人」の方に一歩踏み出したかのような不気味さが現われ始めました。

「自画像から顔へ」

自画像が壁いっぱいに展示されていました。よくまあ、これだけ描いた。それしか言えません。見切れませんでした。

 

 
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