ヘレン・シャルフベック─魂のまなざし |
シャルフベックという画家とその作品について、私もほとんど知識がないので、主催者のあいさつを引用します。”シャルフベック(1862~1946)は3歳の時に事故にあい、左足が不自由になりました。そのために学校に通えませんでしたが、家庭教師から学ぶうちに、11歳の時に絵の才能を見いだされました。18歳で奨学金を得ると、当時、画家たちの憧れだった芸術の都パリに渡り、最先端の美術を体験します。パリではマネやセザンヌ、ホイッスラーらの強い影響を受け、フランス、ブルターニュ地方のポン=タヴェンやイギリス、コーンウォール地方のセント・アイヴスなども旅することで、彼女の芸術観し大きくひろがっていきます。フィンランドに戻ると、ヘルシンキの素描学校で教鞭を執るものの、病気がちであったため職を辞さざるを得ず、療養もかねてヒュヴィンガーという町に母親と引っ越しました。ここに15年間とどまりながら制作に集中し、パリでの体験を消化しつつ独自のスタイルを展開していきました。独立前後のフィンランドという新しい国が誕生する激動のさなかで、さまざまな人々と運命を共にしながら、対象をそして自分自身を見つめる、彼女の魂の軌跡ともいえる作品をご覧ください。” このような紹介や、この作品の多くを保養しているフィンランド国立美術館の挨拶などを読むと、この人はフィンランドの国民的な画家という印象を強く受けます。この人とほぼ同年代の作曲家にシベリウスがいますが、彼は音楽の分野で国民的な作曲家となって、7つの交響曲を生涯で作曲しましたが、その2番あたりから国内の注目を集め、後半生は国からの手厚い年金を受けていたといいます。これは、フィンランドの状況がロシア(ソ連)からの独立を果たすという民族的な意識の高まりとシンクロし、というよりもその運動の中でシンボルが求められていたのに上手くハマったということもあるのでしょう。その中で、シベリウス自身も民族的な旋律を作品の中に取り入れ、聴衆はそれが民族的な旋律を取り入れた作品がいつの間にかシベリウスの創り出す音楽は民族的なものを代表するにすり替わっていったところもあったのでしょう。晩年には、かなり抽象的で旋律性の乏しい作品を作っていますが、最後まで民族的な文脈の中で語られたというひとです。 このシャルフベックという画家とその作品に対する人々の見方や評価にも、そのようなところがあるような印象をまず感じました。ひとつひとつの作品を見ていく前に、このようなことを述べてしまうのは、先入観以外の何ものでもないことは否定できません。展示されていたシャルフベックの作品を通して見て、バラバラな印象で、底流に共通するものを見つけることはできませんでした。それだからというわけではありませんが、核心部の空虚さというのでしょうか。本人は、その都度、筆の赴くままに描いたようなのでしょうけれど、それがいわゆる近代の芸術家では考えられないほどのナイーブさというのか、ほとんど考えていない(ということはありえないでしょう)、方法論的な意識とかコンセプトというものが見えてこないのです。これをシャルフベック自身が意図的に行なったとすれば、それは凄い才能なのでしょうが、そうとは思えず、この人の背後には有能なプロデューサーがついていたのではないか、と想像します。展覧会の解説をそのままに信用すれば、フィンランドでは国民的画家として高い評価を受け、定着しているということですから、私には、この画家とその作品もさることながら、この画家の周囲のグループとしての才能であるとか、成功した戦略面とかの方が興味深く思われました。この展覧会では、そういう点には全く触れられていませんでしたが。この人の作品の話に戻りますが、核心部が空虚だという印象は、それを見る人々に受け取られる際には、戦略的に印象を操作することが可能になります。そこで画家の伝記的なエピソードに基づいた”ものがたり”という付加価値をたっぷりつけた、ひろく受け容れ易いイメージを作り上げることは、むしろやりやすいことになるでしょう。そういう点で、画家を中心としたチームがそれぞれに巧みに機能した結果としての作品として、ここに展示されているものを、私は見ていました。 個々の作品を見ながら、具体的に述べていきたいと思います。展示の章立てに従いたいと思います。
1.初期:ヘルシンキ─パリ シャルフベックの習作期の作品です。地元の画塾で学び始めて、認められてパリに留学して、そこで評価を得られたという時期の、画家として一本立ちするまでの時期、伝記的事実ではそういうことになると思います。
そして、この作品はパリ万博という国際舞台で評価を受けたことも、大きな付加価値を足していくことになります。これは、近代日本の西洋絵画の画家のことを考えてみれば、似たようなことを想像できると思います。当時のフィンランドは日本ほどではないにしても、ヨーロッパでは周縁の後進地域であったはずです。そこに芸術の中心地であるパリから最先端の芸術の香りを直接持ち込んでくるというのが、それだけで権威になり得ます。この『快復期』においても、印象派の荒っぽいタッチや外光を採りいれる技法を作品の中に持ち込んで、流行の最先端をフィンランドに持ち込んで、人々を最先端に触れさせてあげたという効果をもたらすわけです。しかも、パリ万博での高い評価というお墨付きがあります。新しい流行にたいしては、評価が岐れることがおおいのですが、お墨付きがあれば、人々は安心して新しい流行を受け入れ、浸ることができることになります。いわゆる本朝帰りのオラが国の画家という、一種の権威です。『快復期』には、画家の個性のようなユニークさがほとんど見つけることができないのですが、その反面で、ファンシー・ピクチャーとしての分かりやすさ、その分かりやすさを土台にした、そのような適度の新規さ、があると思います。そのような作品自体に、さきほど述べたような付加価値をパッケージした全体として、この作品を見る、というのが、私のみたシャルフベックという画家への対し方です。 2.フランス美術の影響と消化
『お針子』(下右図)という作品です。シャルフベックの、今まで述べてきた傾向に頂点ともいえる作品で、この作品にはホイッスラーの影響が指摘されています。右隣の作品がホイッスラーの作品で、構図や黒を基調としている点などはよく似ていると思います。しかし、上に述べてきたシャルフベックの傾向に対して、ホイッスラーの作品を見ると、明瞭に描きこまれて、特定の人物の肖像であることが明らかに分かるものとなっていることや、シャルフベックの作品が見る者に想像力を働かせるような余白を作ろうとしているのに対して、ホイッスラーはむしろ余計な想像の余地を排除して、画面に描かれた美そのものを見るようにストイックな画面になっているのが大きな違いではないかと思います。つまり、シャルフベックとホイッスラーは似たような画面の作品を制作していますが、目指す方向性は正反対なのです。
『サーカスの少女』(左図)という作品も『モダン・スクールガール』と同じ傾向です。しかし、この作品では、唇の赤をことさらに強調しています。これらのグループの作品は、見る者にモダン、つまり、最先端に近い流行に触れている錯覚を与え(現代でも、“オシャレ”とかいって喜ぶ最先端のセンスを気取るスノッブは多いと思います)、芸術のパトロンを気取る人々の優越感を巧みにくすぐる効果もあったと思います。日本の明治期の洋画家がパリに留学して、当時のパリの流行を持ち込み、画家本人の実力とは別に、それを持ち込んだことによって画壇の権威として地歩を固めた人々は少なからずいたと思います。今の日本美術史に残っている画家が何人かが該当すると思いますが、フィンランドでも、そんな日本ほどではないとしても、似たような状況ではなかったのかと思います。その中で、シャルフベックはそういう状況を巧みに利用しながら、その状況を自身を生かしていくプロセスのなかで、画家としての自身の個性を作り上げたといえないでしょうか。それは、パリに居てはできないことで、また、パリの画家たちにもできない、唯一無二の個性と言えるものだったと思います。
3.肖像画と自画像
1895年制作の『自画像』(左中図)はどうでしょうか。10年後の姿は背中をこちらに向けて振り返る画面は、10年前の『自画像』に比べて粗さは後退し、落ち着いた印象を受けます。例えば、女性の頬の微妙な描き方は、画家の技法の変化が表われています。この作品は、イタリア・ネルサンス初期の画家フィリッポ・リッピの『聖母戴冠』(右下図)からの影響を指摘する学者もいるそうです。たしかに戴冠の台の下の手前の向かって 『黒い背景の自画像』(左下図)という作品です。制作は1915年で、上の作品から20年後の作品で、シャルフベックの作品の中でも有名なものらしく、展覧会チラシにも使われていました。上の作品が若者から成熟した大人への過渡期と言える
『看護婦(カイヤ・ラバティネン)』(左図)という1943年制作の作品です。この作品の女性の頬の紅色と、以前の『黒い背景の自画像』の頬を比べて見てください。こちらでは、あきらかに描写という点では後退しているように見えます。つまり、ここでは『黒い背景の自画像』では必要であった要素が、ここでは削られてきています。これらについては、この後の晩年に近づいた画家の作品展示のところで、見えてくると思います。 4.自作の再解釈とエル・グレコの発見 ここでの展示を見ているとシャルフベックの自発性というのか、何らかの刺激に触発を受けることで創作をしていただろう、ということが分かります。この人の場合、創作というのは、何もない無から新たにオリジナルなものを創り出すということではなくて、先行する既存のものから影響を受けつつ、自分なりに消化しながら差異をみつけ加味していくことで新たなものとしていく、というものであったと思うのです。前にも述べましたが、私の見 『お針子の半身像』(左上図)は1927年の制作で、第2章の展示で見た1905年制作『お針子(働く女性)』(右上図)の自身による再解釈と言える作品です。これは、アイディアで勝負するタイプの画家が晩年近くに創作力の枯渇したかのように過去作の焼き直しのような作品を描くのとは違います。ひとつは、技量の問題もあるのでしょうが、シャルフベックという画家は、過去の自作をコピーしようとしても、全く同じに描くことができない人だったのではないか、と思えることです。そして、より大きな理由として、上述のように元々、オリジナルに作品を創るというタイプではないので、自作だろうが、他人の作品だろうが、それの作品に倣うことは制作上当たり前のことだったと思われることです。一見、シャルフベックの作品というのは、画家のテンペラメントの動きに引っ張られるように絵画の約束事にとらわれることなく天衣無縫に筆を動かしたかのような印象を受けるところもあります。それは、当時である19世紀の芸術の業界においてアカデミズムという権威主義的な体制で男性社会のヒエラルキーができていて、女性はそこでは部外者、アウトローの立場に立たされてしまって、権威のシステムに従った作品の教育をうけたり、またそういう作品を描いても評価されることはほとんどなく、評価されるとすれば、そのような規格を外れたものを面白がってもらうしかなかった。当時の女性の評価は理性よりも感情的とかいうようなところで、絵画の規格外の捉われ方にしても、男性の理性の範囲外のところで女性“特有”の感情に引っ張られるようなというところで面白がられた、というところがあるとおもいます。シャルフベックにも、そういう点はないとは言えません。
実際の作品に戻りましょう。1927年と1905年制作の両作品の構図はほとんど同じで、同じスケッチを元にしているかのようです。明らかに違うのが分かるのは絵の具の塗り方です。1927年の作品は、手抜きと勘違いするほど、薄塗りで、塗り残しというか余白が目立ちます。その結果、1905年の作品には感じられた、人物の3次元的な肉体の厚みが感じられなくなっています。肉体の存在感がなくなっているかのようです。1927年の、例えば、お針子の黒い服は、人の着ている服ではなくなって、黒い描き割り、塗り絵を稚拙に塗ったような感じです。それゆえに、画面全体が平面的です。それは、外形を抽象的に取り出したのでもありません。面白いことに、その平面的で、人物の存在感が稀薄になっている画面を見ていると、そこに見ているものが「何があったのか?」と想像させるところがあるのです。「そこに何か意味があるのか?」とかです。シャルフベックの作品の特徴は、作品そのもので完結した完全体ではなくて、そこから“ものがたり”の想像を触発して、見る者にコミットさせる、言ってみれば引き込みによってはじめて成立するものであることが、ここで図らずも、1905年とはちがった“ものがたり”を見る者に想像させるものになっているのです。そしてまた、1905年の作品でちがった“ものがたり”を想像させること自体が、そこから派生した“ものがたり”を生んでいくことになります。それが、シャルフベックの作品の広がり、とか豊かさになっていると思います。
5.死に向かって:自画像と静物画
1913年から26年にかけて制作された『自画像』(右図)は、ここで見ている晩年の自画像の先駆的作品と言えるでしょうが、次のように解説されています。“確かに表現が強調されたとはいえ、私たちを強くとらえるのは、むしろえぐり取られたような頬をもつ顔の左半分である。右半分には若い頃の美しい自分の姿が残されているものの、左半分はピカソの『アゴニョンの娘たち』のような変形を見せている。灰色の背景に灰色で自分の顔を描いたのは、身体性を後退させる意識に他ならず、頭部はまるで透明になったようだ。13年という年月に彼女の身に起こったことは、ロイターへの失恋であり、パリのアートシーンの変化であった。そのどちらもが、顔の左半分に反映されている。まるで腐敗し変形している過程を記録したかのようなこの顔は、彼女が苦悩を絵画表現に昇華することに成功したことの証でもある。”また、同じ説明の中で、ムンクの『叫び』との類似にも触れています。
『黒とピンクの自画像』 (右図)は1945年制作で、油彩による最後の自画像だそうです。“生命が消え行くのに同調するかのように、絵画は透明性を帯びている。イエスの顔から汗が拭きとられ、その尊顔が布に写った「ヴェラ・ウコン」のように、カンヴァスという人工物の存在が失われ、その表面は皮膚そのものと化した。それはもはや再現ではなく、行き場を失った彼女の顔が浮かび上がっているようなのだ。”という見事な“ものがたり”が解説されています。これは、作品としてまめられたものなのか、未完ではないか、ちょっと私には分からないので、何ともいえません。しかし、引用した解説のような、私には過剰ともいえる“ものがたり”になっているのをみると、ここに至って、画家本人の意図とか意識は、ある意味どうでもよくなってしまって、作品を見る者が自由勝手に、自分の“ものがたり”をそこに作り出してしまうことをするようになった作品ということができると思います。これは、シャルフベック本人の、そういう描き方というところもあるのでしょうけれど、個々にいたって、環境の勢いがついて、まわりが煽るように、見る者の側に自発的に、そのような接し方をするような環境が作品を育てることになったということなのではないかと思います、シャルフベック晩年の作品は、そういう点から見ることができると、私は思います。
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