ヘレン・シャルフベック─魂のまなざし
 

 

2015年7月10日(金)  東京藝術大学大学美術館

株主総会が終わって、一息つける時期、息抜きがてら何かあればと物色していたところ、会期が迫っていたこの展覧会を見つけ、寄ってみた。梅雨末期の激しい雨の隙間のような晴れ間、といっても真夏のようなカンカン照りの下、上野駅から美術館までの道のりは、けっこう堪えた。まったく名前を聞いたこともなかった画家であったにもかかわらず、新聞や雑誌で評判となっていたらしく、平日の昼間なのに、比較的鑑賞者が多く、とくに外国人(シャルフベックの同国人なのか)の姿が目立っていた。

シャルフベックという画家とその作品について、私もほとんど知識がないので、主催者のあいさつを引用します。シャルフベック(1862〜1946)は3歳の時に事故にあい、左足が不自由になりました。そのために学校に通えませんでしたが、家庭教師から学ぶうちに、11歳の時に絵の才能を見いだされました。18歳で奨学金を得ると、当時、画家たちの憧れだった芸術の都パリに渡り、最先端の美術を体験します。パリではマネやセザンヌ、ホイッスラーらの強い影響を受け、フランス、ブルターニュ地方のポン=タヴェンやイギリス、コーンウォール地方のセント・アイヴスなども旅することで、彼女の芸術観し大きくひろがっていきます。フィンランドに戻ると、ヘルシンキの素描学校で教鞭を執るものの、病気がちであったため職を辞さざるを得ず、療養もかねてヒュヴィンガーという町に母親と引っ越しました。ここに15年間とどまりながら制作に集中し、パリでの体験を消化しつつ独自のスタイルを展開していきました。独立前後のフィンランドという新しい国が誕生する激動のさなかで、さまざまな人々と運命を共にしながら、対象をそして自分自身を見つめる、彼女の魂の軌跡ともいえる作品をご覧ください。

このような紹介や、この作品の多くを保養しているフィンランド国立美術館の挨拶などを読むと、この人はフィンランドの国民的な画家という印象を強く受けます。この人とほぼ同年代の作曲家にシベリウスがいますが、彼は音楽の分野で国民的な作曲家となって、7つの交響曲を生涯で作曲しましたが、その2番あたりから国内の注目を集め、後半生は国からの手厚い年金を受けていたといいます。これは、フィンランドの状況がロシア(ソ連)からの独立を果たすという民族的な意識の高まりとシンクロし、というよりもその運動の中でシンボルが求められていたのに上手くハマったということもあるのでしょう。その中で、シベリウス自身も民族的な旋律を作品の中に取り入れ、聴衆はそれが民族的な旋律を取り入れた作品がいつの間にかシベリウスの創り出す音楽は民族的なものを代表するにすり替わっていったところもあったのでしょう。晩年には、かなり抽象的で旋律性の乏しい作品を作っていますが、最後まで民族的な文脈の中で語られたというひとです。

このシャルフベックという画家とその作品に対する人々の見方や評価にも、そのようなところがあるような印象をまず感じました。ひとつひとつの作品を見ていく前に、このようなことを述べてしまうのは、先入観以外の何ものでもないことは否定できません。展示されていたシャルフベックの作品を通して見て、バラバラな印象で、底流に共通するものを見つけることはできませんでした。それだからというわけではありませんが、核心部の空虚さというのでしょうか。本人は、その都度、筆の赴くままに描いたようなのでしょうけれど、それがいわゆる近代の芸術家では考えられないほどのナイーブさというのか、ほとんど考えていない(ということはありえないでしょう)、方法論的な意識とかコンセプトというものが見えてこないのです。これをシャルフベック自身が意図的に行なったとすれば、それは凄い才能なのでしょうが、そうとは思えず、この人の背後には有能なプロデューサーがついていたのではないか、と想像します。展覧会の解説をそのままに信用すれば、フィンランドでは国民的画家として高い評価を受け、定着しているということですから、私には、この画家とその作品もさることながら、この画家の周囲のグループとしての才能であるとか、成功した戦略面とかの方が興味深く思われました。この展覧会では、そういう点には全く触れられていませんでしたが。この人の作品の話に戻りますが、核心部が空虚だという印象は、それを見る人々に受け取られる際には、戦略的に印象を操作することが可能になります。そこで画家の伝記的なエピソードに基づいたものがたりという付加価値をたっぷりつけた、ひろく受け容れ易いイメージを作り上げることは、むしろやりやすいことになるでしょう。そういう点で、画家を中心としたチームがそれぞれに巧みに機能した結果としての作品として、ここに展示されているものを、私は見ていました。

個々の作品を見ながら、具体的に述べていきたいと思います。展示の章立てに従いたいと思います。 

 

1.初期:ヘルシンキ─パリ

シャルフベックの習作期の作品です。地元の画塾で学び始めて、認められてパリに留学して、そこで評価を得られたという時期の、画家として一本立ちするまでの時期、伝記的事実ではそういうことになると思います。

『雪の中の負傷兵』(左上図)という作品です。18歳の時にフィンランド芸術協会の展覧会で高い評価を得て、買い上げられ奨学金を受けることなり、パリに留学することができたという作品です。1808年の第二次ロシア・スウェーデン戦争が題材ということですが、ロシアの支配下で民俗運動が高まってきていた時期で、題材としてはその空気に呼応するものであったと思います。しかし、描かれているのは戦争のドラマチックな意識を鼓舞するものではなくて、雪景色の中に負傷した兵士がひとり取り残されている情景です。それは、シャルフベック自身の境遇や心情が投影されていると解釈することも可能でしょうし、当時のフィンランドの置かれていたスウェーデンとロシアという大国にはさまれて、その支配の下で独立を果たせないでいる状況を仮託する解釈も可能でしょう。とくに、負傷兵の空ろな表情が、二大国の戦争に駆り出され、挙句に負傷させられてしまう空しさとか痛みを解釈することも可能です。それを若干18歳の少女がそつなく画面にまとめたということ。実際、構図にしろデッサンにしろ、上手に描かれていると言えるのではないでしょうか。ただ、作品として、画家の個性の萌芽が垣間見えるとか、突出したものがあるとかいうよりも、私がとくに感じたのは、シャルフベックという人の政治的なセンスというか、才能です。政治的な才能などというと、選挙に出てどうとかそんなことと誤解されるかもしれませんが、そうではなくて、社会の動きとか、人々がどのような方向にいこうとしているかを敏感に感じ取る力というのでしょうか。さらに言えば、それに対して、自分をどのような位置に置くのがよいかを判断できる力とでも言えるものです。ビジネスで言えば、必ずしも一致するとは限りませんが、マーケティング・センスのようなことです。『雪の中の負傷兵』の成功の要因はそういうところにあるような気がします。それは、そこで多分、フィンランドの画壇にシャルフベックという画家についてのイメージを残し、それが国内での後の画家の評価を導く際に、画家自身をそれをうまく利用していくであろう布石にも、結果としてなったのではないか。その意味で、シャルフベックという画家の世間的な成功のためには重要な作品であったのではないかと思います。

『少女の頭部』(左中図)という作品です。展覧会パンフレットにも使われていたので、人気のある作品なのではないかと思います。リアリズムで描いた少女という説明です。これもうがった見方をすれば、19世紀後半の西欧で資本主義経済が勃興し、消費文化がいわゆる小市民(プチブルとかビーダーマイヤーとか揶揄された)という人々を生み出し、その嗜好に応じたようなファンシー・ピクチャーが現れていたのに、うまく乗じた、ということは言えないでしょうか。しかし、それに迎合的になるところで巧みにスタンスをとって、クールベ風の荒々しいタッチで、いかにもリアリズムで描きましたという味付けがされていて、ちょっとだけ高尚ですよと思わせる。小市民階級で、背伸びしたい人々、いわゆる教養のある人々のスノッブなセンスにうまく合わせている。また、シャルフベックが女性であることも、ここではプラスに働くでしょう。開明的で、先進的なイメージが、しかし、社会通念と衝突しないよう按排されているわけです。このように、シャルフベックという画家は、私には、いかに描くかという画家ではなくて、何を描き、それを見る者のどのように提示するかという視点で注目すべき画家として、見えてきます。

『快復期』という作品です。シャルフベックの初期の代表作で、パリの万国博で銅メダルを獲得し、国際的な名声を得ることとなった作品とのことです。この作品は、背後に神話化されたような画家の物語があるとのことで、がかの精神的な自画像であるという解釈があるそうです。曰く、シャルフベックが婚約者から一通の手紙だけで婚約破棄を通告されたことと、この作品が関係する。この作品の少女は、病気から快復してベッドから抜け出し、カップに入った一本の小枝の新芽を楽しげに見つめている。その瞳は、健康な身体を取り戻した安堵感に満ち溢れているかのようだ。つまり、春の芽生えに託された子供の強い生命力に、心の痛手からようやく立ち直ってきたシャルフベック自身が重ねられている。ということだそうです。しかし、私にはそういうものがたりを知らず、神話に感情移入することもないので、先入観なく眺めた時に、この作品の少女が病気に打ち勝った強い生命力を見て取ることはできません。単に寝起きの、シーツに包まって、寝癖のついた髪で寝惚けているファンシー・ピクチャーと見てしまいます。私には、この作品の価値は、付加価値で『快復期』というタイトルをつけたということが大きいのではないかと思います。画家の神話化されたものがたりが真実であるとしても、真実かどうかは作品を見る者にはどうでもいいことで、要は、そのものがたりが作品を見る際に付加価値として有効に機能するかどうかということです。そのために『快復期』というタイトルでものがたりの神話化の布石を打ったということが、シャルフベックという画家の才能ではないでしょうか。つまり、この画家は作品を描くということに限定するのではなく、描いた作品を神話化されたものがたりという付加価値をつけてパッケージして見る者に提供するプロデューサーとしての要素も兼ね備えていた。その点に、シャルフベックという画家の現代性がある。それは、現代アートのアーティストが単に作品を制作するだけでなく、そのコンセプトを言葉で説明し人々の理解を進めようとする姿勢に通じていると考えられないでしょうか。

そして、この作品はパリ万博という国際舞台で評価を受けたことも、大きな付加価値を足していくことになります。これは、近代日本の西洋絵画の画家のことを考えてみれば、似たようなことを想像できると思います。当時のフィンランドは日本ほどではないにしても、ヨーロッパでは周縁の後進地域であったはずです。そこに芸術の中心地であるパリから最先端の芸術の香りを直接持ち込んでくるというのが、それだけで権威になり得ます。この『快復期』においても、印象派の荒っぽいタッチや外光を採りいれる技法を作品の中に持ち込んで、流行の最先端をフィンランドに持ち込んで、人々を最先端に触れさせてあげたという効果をもたらすわけです。しかも、パリ万博での高い評価というお墨付きがあります。新しい流行にたいしては、評価が岐れることがおおいのですが、お墨付きがあれば、人々は安心して新しい流行を受け入れ、浸ることができることになります。いわゆる本朝帰りのオラが国の画家という、一種の権威です。『快復期』には、画家の個性のようなユニークさがほとんど見つけることができないのですが、その反面で、ファンシー・ピクチャーとしての分かりやすさ、その分かりやすさを土台にした、そのような適度の新規さ、があると思います。そのような作品自体に、さきほど述べたような付加価値をパッケージした全体として、この作品を見る、というのが、私のみたシャルフベックという画家への対し方です。

 

2.フランス美術の影響と消化

まず、最初にシャルフベックがパリからフィンランドに帰朝し、本場帰りという箔をいっぱいつけてアカデミーの教師となって教鞭を執る際に、古典を模写したものです。ホルバインの模写(右上図)だそうです。これを見ると、一応、それらしくまとめられていますが、ホルバインの精緻さにはほど遠く、質感とか存在感とかが描き分けられていないことが分かります。それと、全体のプロポーションが均衡したハマッた感じがしません。だからといって、シャルフベックを中傷するつもりはありません。彼女は自身の限界をよく分かっていて、古典的なキチッとした描き方は自分に向いていないことは自覚していたのではないでしょうか。つまり、シャルフベックの画風は、自身の技量をよく考えた上で選択されたものであったのではないか、と私には考えられます。そうなると、この展覧会で説明されているような、求道的な画家のイメージとはちょっと違ったイメージが私の前に現れてきます。それは、自身の技量や消費者が作品をどのように受け取るかを冷静に判断し、その中で最適の効果をあげるような、例えば、いわゆる画家の個性などというものについても、消費者が作品を購入するときに他の画家の作品と区別し評価を分けるための差異のようなものです。それを計算した上で、シャルフベックというブランドを意識して作り上げた、というイメージです。

『教会へ行く人々』(左上図)という作品です。ホルバインの模写に比べて、画面全てをキッチリ描き込まれていません。背景は省略されていますし、教会へ行こうとする4人の人物の描写も細部は大雑把です。パリでシャルフベックが接した印象派などの大雑把な描き方を、自身の技量や描き方にとって適合的であったのでしょう、それを消化して、流行の最先端であるかのように当時のフィンランドの人々に見せることができたのではないかと思います。そしてまた、背景を描きこまず、家並みの影を一部だけ途中まで描いて大胆に省略して、余白のようにしてしまっています。これは、日本画の余白を生かして画面に余韻を与える効果を取り入れた、と直接的ではないでしょうが、考えられるのではないでしょうか。当時のパリで印象派をはじめとしてジャポニスムの影響があったのを間接的にシャルフベックが取り入れたとしても不思議ではありません。この後、シャルフベックの作品では、大胆な省略によって画面に余白をつくり、それによって見る者に余白を想像力で補う作業を行なわせる。これをさらに推し進めて、余白だから見る者が自由に想像できる、という方向に推し進めて、作品をただ受け入れるように受け身で見るというだけでなく、想像することで積極的に参加する方向を持たせ、作品画面の表面に描かれているものだけでなく、それ以上のものを見る者それぞれが想像力を働かさせることで作品画面に付加価値をつけていくようになっていきます。この作品では、教会に向かう人々の横顔に焦点をあてるようにして、それ以外の背景を省略することによって、単に教会に通う人々の風景という以上に、それぞれ世代の異なる4人の人物の横顔を並べることが、4つの世代の象徴とか、人生の歩みの各世代の横顔を映しているかのように見る者に想像させます。そうであれば、これは教会への道に象徴された人生のあり方を見ることもできるといえます。しかも、教会に通う4人の穏やかな淡々とした表情が、かえって、例えば、老婆の顔に刻まれた皺にはそれまでに人生の苦労やその末の諦念に近い穏やかさや子供の顔には未だ苦労を知らない無垢さが、想像できて来るように見えます。このような想像の含みを持った作品は、当時のフィンランドの人々の目には、どのように映ったのでしょうか。少なくとも、伝統的な作品とは違ったものと映ったはずです。かといって、受け容れ難いような突飛なものとはならなかったのではないか。つまり、シャルフベックは人々が受け容れられるギリギリのところでパリの最先端の芸術をフィンランドに持ってきたと言えるのではないでしょうか。

シャルフベックは、この画面の省略の傾向をさらに進めていきます。その結果、老婆は誰々さんという特定のおばあさんから、より普遍性の高い老婆なるものになっていきます。しかし、省略が行き過ぎると抽象的な形態になってしまいますが、シャルフベックの作品では、そういう行き過ぎは注意深く避けられ、普遍的なおばあちゃんというのは、誰にとってもおばあちゃんという類の普遍性で、一人の人物に特定できないからこそ、自分にとってのおばあちゃんであるとして感情移入したり、想像することが出来るものとなっている、ということです。日本の唱歌に「ふるさと」という歌があります。うさぎ追いしかの山〜ではじまる歌です。この歌詞には主語がありません。また、作詞した人物は文部省の官僚であったのが分かっているのですが、あえて作者不詳とされています。これは作詞者が特定されてしまうと、その人物の故郷を歌った歌として、ふるさと一般ではなくなってしまうからです。この歌が、ある時期、日本人の誰もが自分のふるさとを歌っているかのように思ったのは、そのような一般化の操作が働いていたと言われています。シャルフベックの人物の省略した描き方には、似たような操作の末の効果によるものと、私には見えます。この画家がフィンランドの国民画家と呼ばれているようなのも、そのようなところに要因があるのではないか、私には思えます。

『お針子』(左下図)という作品です。シャルフベックの、今まで述べてきた傾向に頂点ともいえる作品で、この作品にはホイッスラーの影響が指摘されています。右隣の作品がホイッスラーの作品で、構図や黒を基調としている点などはよく似ていると思います。しかし、上に述べてきたシャルフベックの傾向に対して、ホイッスラーの作品を見ると、明瞭に描きこまれて、特定の人物の肖像であることが明らかに分かるものとなっていることや、シャルフベックの作品が見る者に想像力を働かせるような余白を作ろうとしているのに対して、ホイッスラーはむしろ余計な想像の余地を排除して、画面に描かれた美そのものを見るようにストイックな画面になっているのが大きな違いではないかと思います。つまり、シャルフベックとホイッスラーは似たような画面の作品を制作していますが、目指す方向性は正反対なのです。

また、習作時代に比べて、ここで見ている一連の作品は使われている色の数が絞られていき、黒やグレー系統の鈍い色が中心に使われていくようになっていきました。このことについては、解説の文章を以下に引用します。通常、黒、白、褐色に限定されるわずかな色数を用いること、より正確には、色彩の明暗のコントラストに集中することによって、絵画が「人生の分析、プラトン主義の鏡像と反映」の領域にまでもたらされ。暗く抑えられた色彩が、憂鬱を示唆するのは明らかだが、画家によっては、それは瞑想的な静寂や観照的な雰囲気、精神性と等しいものであった。面白いことに、こうした無彩色の色調は、抽象的かつ説明的でもあると見なされたのである。このことが示唆するのは、抑制や「非感情的」、より高い精神性、単純さ、純粋さ、飾り気のなさといったものの世紀転換期における比喩的表現であり、この時代に多くの画家が目指したあらゆる暗示的意味である。かなり回りくどい文章ですが、ここで見てきたシャルフベックの作品は、その色調が、見る者に対して瞑想的であったり、それゆえに精神性の高い雰囲気を感じさせる効果を与えているということです。それは、作品を見る者をある雰囲気に包み込み、作品に真正面から対峙するという鑑賞姿勢よりも、雰囲気に包まれ、ここちよく想像の“ものがたり”に浸るという接し方を導くものです。その意味で、シャルフベックの作品は、音楽に近い接し方を指向していると考えられなくもありません。

他方、同じような描き方をしていながら色調が淡い白っぽさを基調として作品がポツポツと展示されていて、それをグルーピングすることもできると思いました。それは、黒を基調とした作品のグループと見る者の印象が異なってくるように見えます。『堅信式の前』(右下図)という作品を見てみましょう。制作は1891年という、パリからフィンランドに戻ったすぐのころです。上で見た『教会へ行く人々』は1895年の制作ですから、教会を前にしての女性の姿が、こうも印象が異なるのかと驚くほどです。こちらは、いかにも印象派の影響が歴然とわかる作品で、女性の純白の衣装は、堅信式をうける汚れのない純真さに象徴なのでしょうけれど、木漏れ日が映え、陽光を受けた木々の緑が衣装の白に反映して輝くような様が活写されています。上で見た『家にて』で椅子に座り裁縫をする老婆と、人物は同じようなポーズで、単純化の傾向がすでに現れてきていると思いますが、この作品は、いかにも、パリの最先端の流行を学んできました、という感じがします。

『コスチューム画U』(左下々図)という作品です。『家にて』の裁縫する老婆を左右に反転させたようなポーズです。1909年の制作ということですから、『家にて』の数年後ということで、ほぼ同時期といってもいいのではないでしょうか。似た構成で、両方とも色彩を限定しているにもかかわらず、しかし、印象は正反対です。『家にて』のような上で見た黒を基調とした作品にホイッスラーの影響が現われているとすれば、こちらの白を基調とした作品には、パリの印象派やセザンヌ、あるいはローランサンといった人々の影響が垣間見えてくると説明されています。実際、シャルフベックは単純化への指向はありましたが、それを分析的に推し進めるとか、単純化を究極まで追求して抽象に向かうということはありませんでしたが、そういう方向に進む傾向はありました。それが、この白を基調にしたグループの作品を見ると分かります。他方で、黒を基調とした作品を見ると、シャルフベックがあくまで具象に残ったという傾向がよく現れています。展覧会の説明にはありませんでしたが、これらを見ていると、シャルフベックが二つの方向性を持っていて、そのなかで揺れ動きながら、全体としての方向性はその中で自身のバランスをとっていたことが分かります。後世から見れば折衷的と批判で、きるかもしれませんが、周縁地域であり芸術の後進地であるフィンランドにいることを考えれば、仕方のないことなのか、というよりは、シャルフベックはそういう地域性とそこでの自身での位置取りを積極的に利用しようとしたのではないか。おそらく、シャルフベック自身は、流行の最先端の革新的なものを生み出すような才能ではないことを自覚していたのではないかと思われるからです。この画家は、終生、自身のオリジナリティーというよりも、お手本となる画家が傍らにあって、そのお手本をならいさらいながらという批評的な姿勢で、自身の作品を生み出していったと言えるからです。例えば、この時期のシャルフベックの作品を見ていても、ネタ本のような類似した他の画家のオリジナルな作品を探し出すことは可能でしょう。しかし、だからとって、それがシャルフベックの作品を人真似と断じるわけでもなく、そこにシャルフベックの個性を見出すことは可能です。むしろ、そういう作品の作り方に当時のシャルフベックのユニークさがあると言えるのではないでしょうか。そういう意味では、現代のコピーとオリジナリティの問題を先取りしていた画家と言える側面を持った人と言えないでしょうか。

『コスチューム画U』という作品に戻りますが、この作品の単純化された顔をみていると、キュビスムの雰囲気を見て取ることが出来ると思います。しかし、先ほども述べましたように、シャルフベックは顔という形態を取り出し足りはしませんでした。それが、この画家のある意味限界であり、むしろ、個性ということになるのでしょう。

『モダン・スクールガール』(右下々図)という作品です。1928年の制作です。『堅信式の前』も『コスチューム画U』も人物のとっているポーズはよく似ているので、描き方の変遷を比較し易いと思います。ここでは、単純化はさらに進んでいます。顔は、形態を写すというよりは、筆先で一気に引いたような、日本画の記号化された顔に近い描き方になっています。マンガに通じるところあるかもしれません。殴り書きのような乱暴さともとれるところもありますが、筆の勢いが、顔に表情を感じさせるものとするような効果を与えています。実際、作品を見る側としては、キュビスムで描かれた、例えばピカソの描く人物画に感情移入することは難しいと思いますが、この作品は単純化されてたものですが、なんとなく表情を想像し、場合によっては感情移入もできるものになっていると思います。おそらく、そのような想像をすることができるということが、シャルフベックの作品の魅力になっていると思います。

『サーカスの少女』(下図)という作品も『モダン・スクールガール』と同じ傾向です。しかし、この作品では、唇の赤をことさらに強調しています。これらのグループの作品は、見る者にモダン、つまり、最先端に近い流行に触れている錯覚を与え(現代でも、“オシャレ”とかいって喜ぶ最先端のセンスを気取るスノッブは多いと思います)、芸術のパトロンを気取る人々の優越感を巧みにくすぐる効果もあったと思います。日本の明治期の洋画家がパリに留学して、当時のパリの流行を持ち込み、画家本人の実力とは別に、それを持ち込んだことによって画壇の権威として地歩を固めた人々は少なからずいたと思います。今の日本美術史に残っている画家が何人かが該当すると思いますが、フィンランドでも、そんな日本ほどではないとしても、似たような状況ではなかったのかと思います。その中で、シャルフベックはそういう状況を巧みに利用しながら、その状況を自身を生かしていくプロセスのなかで、画家としての自身の個性を作り上げたといえないでしょうか。それは、パリに居てはできないことで、また、パリの画家たちにもできない、唯一無二の個性と言えるものだったと思います。 

 

3.肖像画と自画像

シャルフベックは生涯で40点ほどの自画像を描いたということで、自画像が好きな画家だったようです。しかし、これまで見てきたシャルフベックの印象から、この画家の自画像というのは、他の画家の場合と意味合いが異なってくるのではないか、と私には思えます。つまり、シャルフベックの人物画は特定の人物を取り出して個人を写すというのではなくて、一般性を持たせる画像にしていく、例えば、誰々という老婆ではなくて、おばあちゃんの姿として一般化を進める。そうすれば、作品を見る人は、描かれている人物を自分のおばあちゃんに重ねて見て行くことができる。そうなると、即品に描かれた人物に感情移入が可能となって、親しみや、その人物に“ものがたり”を紡ぐこができるわけです。シャルフベックの自画像も、私はそのような文脈で見ていくことができると思います。他の画家であれば、自画像を描くことによって、自己を認識していく、心理学で言う鏡像効果のような役割を果たすものであったり、ある時点での自己の姿をとどめておく記録の役割を果たしていたりといったものとして、作品自体が鑑賞の対象であるのと同時に資料的な価値のあるものになっていると思います。しかし、シャルフベックの場合には、たしかに写真に残されている姿とよく似ているようですが、主眼は、画家の年代の女性の姿を一般化して画面に定着させているように見えます。そして、シャルフベックの作品のスタイルというのは、その時々の流行を巧みに取り入れ、ヨーロッパ周縁の後進地域であるフィンランドの人々、とくに芸術の消費階級であるブルジョワの人々に受け入れられるようにアレンジしたものであったと思います。現在で言えば、ファッションの消費者が“オシャレ”と言えるセンスがいいという範囲です。そのためには、最新の手法を試しながら、フィンランドの人々に違和感を抱かさせることなく、“オシャレ”と感じさせるようにアレンジしていななければなりません。そのためには、何度も描きなおしたりして、画面に一度表わしてみて、反応をリサーチしながら微調整を繰り返す必要があります。そういう作品の制作をしようとした場合に、モデルを頼めば、何度も描き直したり、時間もかかることになります。それならば、自分がモデルになれば、気がついたときに描き直しや調整が容易にできます、そういう物理的な都合によさが原因としてあったのではないかと思います。(私は、実際にシャルフベックが自画像を描いたかを知らないので、これはシャルフベック作品を見た印象から、私が妄想したことにすぎないことを、念のためにお断りしておきます。)

1884〜85年に制作された『自画像』(左上図)を見ましょう。真正面に顔を向けて、こちらを正視する女性は、その印象派風の粗いタッチは、マネの『フォリー=ベルジュール劇場のバー』(右上図)の正面に立つ女性を想わせます。しかし、背景処理において、シャルフベックはマネのようなバーの賑やかで猥雑な雰囲気を取り去って、静かで落ち着いたものにしました。着ている衣装も、シャルフベック場合はアトリエの作業着でしょうか、地味な服に変わっています。マネの作品に比べて落ち着きと自信に満ちた表情が感じられますが、若い女性がこちらを真っ直ぐに見つめる、ある種の若い力強さのようなものが共通して感じられのではないでしょうか。

1895年制作の『自画像』(左中図)はどうでしょうか。10年後の姿は背中をこちらに向けて振り返る画面は、10年前の『自画像』に比べて粗さは後退し、落ち着いた印象を受けます。例えば、女性の頬の微妙な描き方は、画家の技法の変化が表われています。この作品は、イタリア・ネルサンス初期の画家フィリッポ・リッピの『聖母戴冠』(右下図)からの影響を指摘する学者もいるそうです。たしかに戴冠の台の下の手前の向かって右端で、座ってこちらを見ている女性の顔は、この『自画像』と似ているようにも見えます。また、この『自画像』と同じ頃に描かれた肖像画というか人物画を見ていると、この『自画像』で試された描き方を応用して描いているのではないかと思われる作品を見ることができます。『ソンヤ・クレボウ』(右中図)という作品がそうです。

『黒い背景の自画像』(左下図)という作品です。制作は1915年で、上の作品から20年後の作品で、シャルフベックの作品の中でも有名なものらしく、展覧会チラシにも使われていました。上の作品が若者から成熟した大人への過渡期と言えるならば、この作品は、その成熟期の盛りを過ぎて老境に向かおうとしているところという時期だと言えるでしょう。展覧会場では、この三つの自画像が並べて展示してあって、変遷が見て取れるようになっていました。これらを並べて分かるのは、シャルフベックの描き方が単純化の方向に進んでいったということと、それゆえでしょうか、描きこむ部分とそうでない部分とのメリハリが大きくなっていったということで、画面全体の単純化と反比例するように、顔の描き方が細かくなっていった。例えば、頬の描き方は、1885年の『自画像』は粗く絵の具が置かれていますが、若々しい肌のつややかさと若者らしい覇気とか生命感の溢れるさまが躍動的に表われているように見えます。10年後の1985年の自画像では、ルネサンス絵画のスフマートというほどではないでしょうが肌の繊細な移ろいを微妙な筆致で表わしているように見えます。それが、若者のつやつやした肌の輝きが失われてきたのに代わって、陰影が加わって、その翳りが大人の成熟を表わしているように見えてきます。これに対して、この『黒い背景の自画像』では、一見のっぺりと頬紅のような紅がベタッと塗られているだけです。でも、顔の表面をよく見てみると、上の二つの自画像にあったような頬のふくらみは、この作品ではもはやみられず、むしろ頬の上部の眼の周りの薄い紫色で塗られた影が眼の周囲の肉の落ち込みが肉が削げて老い暗示するのにつながっているようにして見ると、頬の紅いところが若い頃のホッペタのふくらみが、むしろ肉の落ちた陰、あるいは痣のように感じられないでしょうか。そして、紅で塗られた部分の形が微妙で、それが見る人によっては人生の苦労を想像させるのではないでしょうか。そのような想像力を掻き立て、煽るような微妙な計算が働いて、意識的に単純化させて見る者の想像力を働かせ易いように余白を作っている。まるで、日本画のようです。もし、シャルフベックの方向性のユニークさを挙げるとすれば、このような見る者の想像を決して邪魔するような主張を作品の表面に出すことはしないで、表現衝動を抑制して、あとは見る者に譲るという姿勢ではないかと思います。当時のヨーロッパの他の画家たちが、作品の中から余計な要素を削り取って、純粋化していったのは、自らの核心となる要素を剥き出しにして明確にするためと言えるところがあると思います。それは言ってみれば、0への回帰のようなものだと思います。これに対して、シャルフベックは、あえて0を踏み越えて、マイナスに足を踏み入れていったのではないか、というわけです。また、この『黒い背景の自画像』と制作年代が近い『木こり』(下図右)という少年をモデルにして描いた作品と比べてみると、同じように省略した顔の描き方でも、こちらは少年の若々しい顔の張りが想像できるのです。それほど、個々の顔のパーツの描き方が違っているわけではないと思われますが、シャルフベックは微妙な差異で、見る者の想像の方向が変わってくるように描いているということなのではないかと思います。

その後、未完の自画像以外の展示はないので、人物画で見ていくしかないようなのですが、『ドーラ(ドーラ・エクストランシル)』(右下々図)という1922年制作の作品で、タイトルが人名なので特定の人物を描いたものなのでしょう。しかし、顔の外形の特徴を写すということは、あまり追求されていなくなっているのではないか。髪型とか、顔の形とか装身具とか、記号的に、他の人との差異を明瞭に識別するものは最低限として押さえているだけのような、まるで浮世絵の美人画のような、どれも同じ顔のような行き方に近づいているように、私には見えます。

『アイトクーネから来た少女U』(左下々図)という1927年の制作の作品も、単純さという点では、『ドーラ(ドーラ・エクストランシル)』と同じようです。髪型と顔の顎のかたちが違うのと着ている服で見分けをつけているように見えます。しかし、単純化とはいっても、形状をとりだして純粋化というのとは感じが、違う気がします。浮世絵はものがたりの挿絵であったり、芝居の登場人物や当時の評判の美人を描くということで、その画面そのもののところ以外の情報を加味して、見る者の想像力で補う、というより想像力を煽ることで、付加価値を高めていったといえます。だからこそ、極端なデフォルメが可能になって、それを後の西欧の画家たちに衝撃を与えたということなのでしょう。そういう画家たちは、デフォルメされた表面的な外形だけを見ていたのかもしれません。シャルフベックは、浮世絵の表面のみならず、その由縁のところから影響を受けていたのかもしれません。それは、本人が自覚してというよりは、結果としてそうなってしまった、というのではないかと思います。というのも、シャルフベックの伝記的エピソード、例えば身体のハンディキャップがあるとか、婚約を理不尽に解消されたとかいったことが、この人の作品を見る者にとって、格好のものがたりとなって、作品の付加価値になっているということで、多分、画家の周囲の人々の作為(情報操作)に由るのではないかと思います。しかし、シャルフベック自身も意図してはいないものの、無意識のうちにか、自身のエピソードを生かすような制作や行為をしていたということも、あながち否定できないと思います。それが、この画家のシンプルな人物画のスタイルと車の両輪のように価値付けの機能を果たしていると思います。

『諸島から来た女性』(左下々々図)という女性は、シンプル化させていった人物画が、まるでファッション雑誌の挿絵のような洗練されたオシャレな感じに仕上がっている作品です。シャルフベックの作品が、国民画家として幅広い支持を得たというのは、こういうオシャレな感じという要素は、ものがたりを想像させるという要素と同じくらい、大きな魅力だったと思います。

そいうふり幅のモダンでオシャレに方向に振れた作品ではないか思われるのが『教師』(右下々々図)という1933年制作の作品です。ちょっとフェルナン・レジェのキュビスムっぽい太い輪郭の単純化された、人間を機械の造形のように描くことでスマートで洗練されたイメージを与える効果に寄っているように見える作品です。こうしてみると、シャルフベックという画家は自身の方法に関しては振り幅をもって揺れ動きながら試行錯誤を繰り返して、意識的だった人ではないかと想像できます。つまり、素材とか理念とかで描くというような、ある種の表現衝動の衝き動かされるような、典型的なのはロマン主義の天才のイメージですが、そういうのではなくて、方法を意識して計算しながら題材を選択したりして制作を続けるというタイプです。

『看護婦(カイヤ・ラバティネン)』(下図左)という1943年制作の作品です。この作品の女性の頬の紅色と、以前の『黒い背景の自画像』の頬を比べて見てください。こちらでは、あきらかに描写という点では後退しているように見えます。つまり、ここでは『黒い背景の自画像』では必要であった要素が、ここでは削られてきています。これらについては、この後の晩年に近づいた画家の作品展示のところで、見えてくると思います。

4.自作の再解釈とエル・グレコの発見

ここでの展示を見ているとシャルフベックの自発性というのか、何らかの刺激に触発を受けることで創作をしていただろう、ということが分かります。この人の場合、創作というのは、何もない無から新たにオリジナルなものを創り出すということではなくて、先行する既存のものから影響を受けつつ、自分なりに消化しながら差異をみつけ加味していくことで新たなものとしていく、というものであったと思うのです。前にも述べましたが、私の見るシャルフベックの特徴、というより、この人のウリは、フィンランドというヨーロッパの周縁地域、文化の中心から距離をおいた後進地において、パリ等の先進的な芸術をいち早くもってきて、流行の最先端の気分を当地の流行に敏感な人々に堪能させつつ、現地の文化的土壌に適合するように融和的にアレンジして受け容れやすくするところにあったと思います。そして、シャルフベックの個性は、先端の流行と現地の文化との絶妙なブレンドの調合にあった、クリエイターというよりプロデューサー的な仕事にあった、私には思えます。そんな、シャルフベックの仕事ぶりをストレートに見ることができるのが、この展示ではないかと思います。

『お針子の半身像』(左上図)は1927年の制作で、第2章の展示で見た1905年制作『お針子(働く女性)』(右上図)の自身による再解釈と言える作品です。これは、アイディアで勝負するタイプの画家が晩年近くに創作力の枯渇したかのように過去作の焼き直しのような作品を描くのとは違います。ひとつは、技量の問題もあるのでしょうが、シャルフベックという画家は、過去の自作をコピーしようとしても、全く同じに描くことができない人だったのではないか、と思えることです。そして、より大きな理由として、上述のように元々、オリジナルに作品を創るというタイプではないので、自作だろうが、他人の作品だろうが、それの作品に倣うことは制作上当たり前のことだったと思われることです。一見、シャルフベックの作品というのは、画家のテンペラメントの動きに引っ張られるように絵画の約束事にとらわれることなく天衣無縫に筆を動かしたかのような印象を受けるところもあります。それは、当時である19世紀の芸術の業界においてアカデミズムという権威主義的な体制で男性社会のヒエラルキーができていて、女性はそこでは部外者、アウトローの立場に立たされてしまって、権威のシステムに従った作品の教育をうけたり、またそういう作品を描いても評価されることはほとんどなく、評価されるとすれば、そのような規格を外れたものを面白がってもらうしかなかった。当時の女性の評価は理性よりも感情的とかいうようなところで、絵画の規格外の捉われ方にしても、男性の理性の範囲外のところで女性“特有”の感情に引っ張られるようなというところで面白がられた、というところがあるとおもいます。シャルフベックにも、そういう点はないとは言えません。

しかしまた、他方で、上述のようなマーケティングの冷静な分析をしたとしか思われないような作品を見る人に与える効果を十分に考慮したコンセプトで制作をしていた面を持っている。この両者が同居している、しかも矛盾対立することがないということは、普段はありえないことだと思います。それが同居しているのが、シャルフベックの特徴でしょう。それは、例えば、流行の最先端の先行作品の影響を受けて、それを倣うように作品を描いても、“女性”らしいテンペラメントゆえか技量のゆえか、同じように描くことができない。それが差異を生んで、結果的に新しい作品を創りだす、ということだったのではないか。つまり、シャルフベックは偶然の即興的な要素が生まれる部分をコントロールして、その効果を最大限にするために冷静な計算により描いて、作品の中で、たくみに自由なところと、それ以外のところのメリハリをつけていくということをやっていったのではないかと思います。

実際の作品に戻りましょう。1927年と1905年制作の両作品の構図はほとんど同じで、同じスケッチを元にしているかのようです。明らかに違うのが分かるのは絵の具の塗り方です。1927年の作品は、手抜きと勘違いするほど、薄塗りで、塗り残しというか余白が目立ちます。その結果、1905年の作品には感じられた、人物の3次元的な肉体の厚みが感じられなくなっています。肉体の存在感がなくなっているかのようです。1927年の、例えば、お針子の黒い服は、人の着ている服ではなくなって、黒い描き割り、塗り絵を稚拙に塗ったような感じです。それゆえに、画面全体が平面的です。それは、外形を抽象的に取り出したのでもありません。面白いことに、その平面的で、人物の存在感が稀薄になっている画面を見ていると、そこに見ているものが「何があったのか?」と想像させるところがあるのです。「そこに何か意味があるのか?」とかです。シャルフベックの作品の特徴は、作品そのもので完結した完全体ではなくて、そこから“ものがたり”の想像を触発して、見る者にコミットさせる、言ってみれば引き込みによってはじめて成立するものであることが、ここで図らずも、1905年とはちがった“ものがたり”を見る者に想像させるものになっているのです。そしてまた、1905年の作品でちがった“ものがたり”を想像させること自体が、そこから派生した“ものがたり”を生んでいくことになります。それが、シャルフベックの作品の広がり、とか豊かさになっていると思います。

会場に並べて展示されている『岸壁に落ちる影』もそうです。1883年の作品(左中図)と1927年の作品(右中図)は、シャルフベックは意図して違うように描いたとは思えません。多分、両作品を重ねてみると、下絵の時点ではほとんど重複してしまうのではないでしょうか。同じように描こうとして、結果は違ってしまった。しかし、見る者は、その結果の違いが、別の“ものがたり”を生んでしまうのです。

当時のフランスで。スペイン絵画、その中にはエル・グレコも含まれていたということでしょうか。『天使断片(エル・グレコによる)』(左下図)という1928年制作の作品を見てみましょう。ある意味で、当時の流行とも言えるのかもしれません。歴史の教科書を見れば、グレコは16〜7世紀のスペインで活躍したバロック美術に分類される画家ということになっていますから、美術史に位置するような過去の権威で著名な画家というように考えがちです。それは、現代の情報が整理された状況でのことで言えることなのであって、当時は歴史の中に埋もれていたといえるのかもしれません。それが、新たな光を当てられて再認識されたのでしょうか。グレコの原画と、シャルフベックが倣った『天使断片(エル・グレコによる)』を見比べてみると、シャルフベックが殊更にアレンジした形跡は顕著ではなく、シャルフベックはグレコの作品を倣っていてそうなってしまったというように見える作品です(これを作品といっていいのかわかりませんが)。しかし、グレコという名前を外してみれば、当時の現代作品のようにも見えてくるのが不思議です。私の見るシャルフベックの特徴として、前にも述べたように、既存の作品の影響を消化して、それを見る人の効果を考えつつ、巧みにアレンジして差異を生み出し加味することによって自身の作品を創り上げていくというものです。その既存の作品は、自身の過去の作品でも、当時の芸術の中心であるパリで学んだ作品でも、あるいはエル・グレコのような過去の作品でも、いいということになるようです。そういう無節操さが、シャルフベックにはあるかもしれません。そこに、印象派のようなアカデミズムに権威に反抗するのとは違って、権威に捉われない、むしろ権威を巧みをすり抜けて換骨奪胎してしまうことによって、新しさと保守的な人々にも受け容れられる懐の広さを得たと言えるのかもしれません。それは、パリのような多くの画家が様々な傾向の作品を制作して競争している環境と周縁地域の保守的な土壌が色濃く残り、文化面での流動性が激しいとはいえないフィンランドとの環境の違いもあるのでしょう。シャルフベックの、調整的な創造の性格にも因っているのではないかと思います。

『横顔の聖母(マクダラのマリアの横顔)(エル・グレコによる)』(右下図)という1943年制作の作品。『天使断片(エル・グレコによる)』から15年を隔てて、同じような作風に見えているのも不思議です。ちょうど、この『横顔の聖母(マクダラのマリアの横顔)(エル・グレコによる)』と同じ頃には、次の章の展示に現れているような晩年の死の影が濃厚になると説明されているような作品を描いていたそのころです。この作品には、その影はあまり見られず、むしろ15年前の『天使断片(エル・グレコによる)』と並べても何の違和感も感じられません。そういうところから、シャルフベックという画家は、豊かすぎる才能に引きずられて、“これしか描けない”という天才肌の人ではなくて、時と場合に、見る人のニーズに合わせて計算しながら適切な描き方を選択していくようなタイプだったのではないかと思います。だから、同じ時期に違ったタイプの作品を描き分けることもできたわけです。そういう意味では、ものごとを絶対化しないで、相対的に捉えていく、こじつけかもしれませんが、ポストモダンの考え方をある意味で先駆け的に制作で体現していたのではないか、と考えられるところがあります。だから、展覧会の説明で触れられているシャルフベックの伝記的なエピソードは、相対的に、作品に“ものがたり”を付加させる一種の装飾としてシャルフベック本人も巧妙に活用したのではないか、と私には想像することができるのです。それは事実でないかもしれませんが、そのような想像を起こさせるところ自体に、一見単純そうでありながら、この人の作品を見る楽しさがあると思います。屈折した見方ではあるかもしれませんが。

 

5.死に向かって:自画像と静物画

最愛の母親と死別し、フィンランドが第二次世界大戦に巻き込まれるような状況、あるいは自身の老境に入ったことによる衰えなどがあったことから、シャルフベックの自画像には死の影が漂い始めるとして、つぎのような解説がありました。“「私は新しいことを何も始められない。私は弱く、家庭もない。自分の人生で私が得たものは絵を描き続けることのみ!」。シャルフベックの自画像による自傷行為は、社会から隔絶した疎外感が根本にあるのだろう。骸骨のように、影のように消え去る自己の表現は、社会の中で自らのボディ・イメージ─それはアイデンティティの確立に繋がる─を築けなかったことも関係していよう。おそらくシャルフベックは、自分の姿を醜く描くことで、迫り来る死に対する不安感や、自分の人生を振り返ったときの空虚感から一時的にでも救済されることを願っていたのではないだろうか。”なるほど、“ものがたり”というは完結していますし、分かり易いです。それは、実際に作品を見て行きながら、確かめていきたいと思います。

『パレットを持つ自画像U』(左上図)という1937年の作品を見て行きましょう。以前のシャルフベックの自画像と比べて顔の左右の対称性がなくなってきているのが目に付きます。顔の左右を分けるように額に影の線が左上に向かって伸びていますが、その線が太くて実体があるように見えます、そのため、顔が痙攣して左上にひきつっているようにピンとハネ上がっているように見えます。下顎も左にむかって飛び出ているような感じのするし、まるで顔の左側は輪郭線が崩れてきているように見えます。眼の形も左側は崩れているよう感じです。

1913年から26年にかけて制作された『自画像』(右上図)は、ここで見ている晩年の自画像の先駆的作品と言えるでしょうが、次のように解説されています。“確かに表現が強調されたとはいえ、私たちを強くとらえるのは、むしろえぐり取られたような頬をもつ顔の左半分である。右半分には若い頃の美しい自分の姿が残されているものの、左半分はピカソの『アゴニョンの娘たち』のような変形を見せている。灰色の背景に灰色で自分の顔を描いたのは、身体性を後退させる意識に他ならず、頭部はまるで透明になったようだ。13年という年月に彼女の身に起こったことは、ロイターへの失恋であり、パリのアートシーンの変化であった。そのどちらもが、顔の左半分に反映されている。まるで腐敗し変形している過程を記録したかのようなこの顔は、彼女が苦悩を絵画表現に昇華することに成功したことの証でもある。”また、同じ説明の中で、ムンクの『叫び』との類似にも触れています。

『黒い口の自画像』(左中図)という作品では、顔の左半分の崩壊は進み、さらに肥大化しているようです。上で引用した解説を読んでいて気がついたのですが、シャルフベックは、類似の作品として挙げられていたピカソやムンクの作品との大きな違いは、肖像画という範囲にかろうじてとどまって、その一線を越えずに踏みとどまっているということです。そのことによって、解説で少しだけ触れられているような“ものがたり”を見る者に想い起こさせるものとなっていることです。例えば、ピカソの『アビニョンの娘たち』は純粋に絵画として“ものがたり”を生む余地がないように見えます。それよりも、何が描かれているのか、を追いかけるだけで精一杯なのではないでしょう。シャルフベックの晩年の自画像で左半分が、ここで見ているように変形し、肥大化してきたのは、そういう“ものがたり”を見る者に想い起こさせるという点で、作品全体で統一的な“ものがたり”を生んでいくということから、例えば、顔の左半分だけでも“ものがたり”を生み出すようになったというように、全体の構成が変ったと私は思います。ただし、顔の左半分は全体の中では部分でしかありませんから、そこから生まれる“ものがたり”は断片的にならざるを得ません。これに対して、顔の右半分は崩れていないでしっかりしているのです。これは左半分とは違った“ものがたり”が生まれてくる余地があります。ほかにも、もっと小さな断片かもしれませんが、“ものがたり”の断片が生まれてくる余地があるようです。それで、作品全体をみると、どうでしょう。そこでは、さまざまな“ものがたり”の断片を見る者が見つけられるようになっている、反面、全体としての統一的な“ものがたり”は、もはや見えてこなくなってしまった、ということになりそうです。それは、見る者の手に委ねられた、と言ってもいいのではないでしょうか。そこに、制作者であるシャルフベックすら意図していなかった断片を見る者が見出す可能性も生まれます。その結果、これらの作品を見る者は、画家の自画像でありながら、それぞれに隠された“ものがたり”を自分なりに発掘し、それらを自分なりに解釈しつなぎあわせて、自身に適った“ものがたり”をつくり出すことができるのです。そこに、見る者がコミットするという余地が生まれます。そして、このコミットは、別の言葉に置き換えれば、作品への没入と言えると思います。

『黒とピンクの自画像』(右中図)は1945年制作で、油彩による最後の自画像だそうです。“生命が消え行くのに同調するかのように、絵画は透明性を帯びている。イエスの顔から汗が拭きとられ、その尊顔が布に写った「ヴェラ・ウコン」のように、カンヴァスという人工物の存在が失われ、その表面は皮膚そのものと化した。それはもはや再現ではなく、行き場を失った彼女の顔が浮かび上がっているようなのだ。”という見事な“ものがたり”が解説されています。これは、作品としてまめられたものなのか、未完ではないか、ちょっと私には分からないので、何ともいえません。しかし、引用した解説のような、私には過剰ともいえる“ものがたり”になっているのをみると、ここに至って、画家本人の意図とか意識は、ある意味どうでもよくなってしまって、作品を見る者が自由勝手に、自分の“ものがたり”をそこに作り出してしまうことをするようになった作品ということができると思います。これは、シャルフベック本人の、そういう描き方というところもあるのでしょうけれど、個々にいたって、環境の勢いがついて、まわりが煽るように、見る者の側に自発的に、そのような接し方をするような環境が作品を育てることになったということなのではないかと思います、シャルフベック晩年の作品は、そういう点から見ることができると、私は思います。

また、ここで静物画が数点まとまって展示されていました。今までの印象からは、あまり静物画や風景画を書きそうにないように思われました。初期の習作期は別にして、それらは“ものがたり”ともっとも離れたところにある題材に思われたからです。かといって、物体の存在感や形態といった外形に注目する眼の画家ではありえません。『緑の静物』(左下図)という1930年制作の作品を見てみましょう。白い皿の上に数個の果物が乗せられているのでしょうか。それにしても、平面的で奥行きがなく、とくに、皿の上の果物は同じような色のため輪郭線でかろうじて、それぞれが分別できるのみです。また、背景も乱雑に彩色されているだけで、静物がどこに置いてあるのか分かりません。かといって、静物だけを取り出して描いてみせたという意図も感じられません。そうであれば、静物をとりたてて注目すべきものとして描くはずでしょうに、ベタッと絵の具を塗ったというにしか、私には見えません。

『かぼちゃ』という1937年制作の作品では、皿の上の野菜が色違いのため、それぞれが判別できることはできます。シャルフベックは自画像のように、配色を人工的に実際にモデルの色と変えてしまうことも、静物画では施さなかったのでしょうか。これらの作品を見ている限りでは、どういう物なのか、シャルフベックが何をしようとしていたのか、分かりません。という言い方では不正確ですね。これらについては、見ている私は、相応しい“ものがたり”をみつけることができないでいます。少なくても、自画像を見た“ものがたり”は、これらの静物画では当てはまらないことだけは確かです。自画像の晩年の諦念というのでしょうか死を間近にした、というよりは、これらの静物画には、別の方向性があるように、私には感じられます。それは、画家の死にとって途中で投げ出されてしまった、新たな方向性だったかもしれません。そうであれば、自画像を中心とした人物画に行き詰まりを感じて、静物画という別の方向への転換を試みようとしていたと考えられなくもありません。私としては、そう考えた方が、作品を面白く眺めることができます。

 
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