ルーベンス展─バロックの誕生 |
2018年10月26日(金)国立西洋美術館
“17世紀バロックを代表する画家、ペーテル・パウル・ルーベンス(1577〜1640)。彼は現在のベルギーの町アントウェルペンで修業し、大工房を構え活動しました。しかし、画家として独り立ちした直後の1600年から08年まで、おもにイタリアで過ごしたことは、わが国ではあまり知られていません。ルーベンスはヴェネツィアやマントヴァ、そしてとりわけローマでさまざまな表現を吸収して画風を確立し、帰郷後はそれを発展させたのです。洗練された教養人だった彼にとって、イタリアは芸術における理想の地であると同時に、古代という理想の世界に近づきうる地でした。帰郷して20年以上経った時、ルーベンスは手紙にこう記しています。 「イタリアに行く望みを叶えることを諦めたわけではありません。それどころか、この気持ちは刻々高まるのです。断言いたしますが、もし運命がこの望みを許さないのであれば、私は満足して生きることも、満ち足りて死ぬこともないでしょう。」 本展は、ルーベンスをいわばイタリアの画家として紹介する試みです。彼の作品は、この地の芸術作品とともに展示されます。古代やルネサンス、そして次の世代の作品とルーベンスの作品を比較することによって、彼がイタリアから学んだこと、そしてとりわけ、彼が与えたものはなんであったのかを解明します。ルーベンスとイタリア・バロック美術という、西洋美術のふたつのハイライトに対する新たな眼差しを、日本の観衆に与える最良の機会となるでしょう。” T.ルーベンスの世界
並んで展示されていた「眠る二人の子供」(左図)も同じように子供を描いています。髪を乱したまま赤ら顔で眠るあどけない表情を暖色と寒色の巧みな使い分けは、多少のあざとさが感じられるほどですが、巻き毛の乱れた様子の細かな描写と相俟って、よくもこれだけ 「幼児イエスと洗礼者聖ヨハネ」(右図)という作品。幼児の聖ヨハネの右側で幼児のイエスが赤い布の上に腰を下ろし、二人は従順な白い子羊を撫でています。この子羊はヨハネの象徴で、イエスの将来の犠牲を暗示するものだそうです。この幼児イエスは受肉の象徴で、この幼児の表情は自ら犠牲になる事を承知していることが表われていると言います。それだからでしょうか、この二人の幼児の表情は、上述の作品と比べて、大人っぽいところがあって、しかも、移ろうというのではなくて確固とした輪郭があります。つまり、形が決まっているスタティックなものです。顔の表情で訴えかけるというものではない。実際のところ、この題材でこの描き方であれば、イエスと聖ヨハネを幼児にしなくても、大人で描いても、あまり変わりはないのではないか、子供でなければならない、という物ではない、そう感じられます。ただし、イエスの下腹や足の肉がたるんでいるところなどは、単純に理想化しているとは言えないところがあります。幼児の肌の柔らかさのようなものは、巧いと思わせられます。 U.過去の伝統
「髭を生やした男の頭部」(左図)。個性ある頭像というらしい、モデルの人間を筆写して理想化(パターン化)を加えて作品素材として図案化のような作業していって、実際に使われたらしいそうです。つまり、工房で働く画家たちが大作に描きいれる人物のお手本として使われたらしいです。技量がルーベンスに届かない画家たちは大作の中の部分を担当した時に一定レベルを求められので、ルーベンスの描いたお手本を写して利用することで、そのレベルをクリアしていた。そのように、他人がコピーして使いまわすための図案集のような機能を果たすためには、特定の人物の特徴をとらえていることよりは、老人の一般性が現われている方が利用範囲が広まるし、写しやすい。そのような実用的な要求が、実は作品に入ると理想化された普遍性をもった表現になっている、なんと効率的な事か。とはいっても、実際にこの作品を、今、見ると、すごく斬新な感じがしました。その理想化というのは、古代の肖像彫刻の類型表現のパターンに当てはめるようにして、リアルなモデルの描写をシンボリックなものに昇華させたという。そうすると、古代の神話や伝説、歴史的な場面に適したものとなる。しかし、そんなことを抜きにして、この男の頭部を見ると、額は狭く、落ち窪んだような目と鼻以外は髪の毛と髭に覆われている。激しく波打ち、巻かれた、もじゃじゃの髪の毛と髭に強いハイライトが入り、まるで金属のような質感とダイナックな躍動感があるのは、素早い筆遣いと、色遣いによるものでしょうが、この髪の毛の様を見ているだけで水際立った手際の良さにうっとりしてしまうのです。しかも、左から男の正面に光があてられて、金髪の髪の毛が照り映えるのと後頭部の影のコントラストが暗い画面でスポットライトを当てられたように浮かび上がるのは、カラヴァジョのようなドラマチックさこそありませんが、まさにバロック絵画の見本のようです。こんな素材集のようなスケッチでやってしまうのですから。ルーベンス本人が、このようなスピーディーな筆遣いでさっと作品を仕上げてしまう様子を何となく想像してしまいました。
V.英雄としての聖人たち─宗教画とバロック
「聖ドミティラ」(左図)。白いシャツを着て、腹部に毛皮を掛け、編み上げた頭髪を宝石の帯とリボンで飾り付けた女性は、右手に殉教者のアトリビュート(持物)である棕櫚の葉を持った姿で描かれ、視線を下方に向けている。あたかも柔らかい肌の感触が見て取れるかのような現実感を備えた生身の女性の描写が達成されている。その一方で、彼女の顔は厳格な横顔として表わされている。つまり、その顔の表現は、メダルやカメオに表わされた頭部を想起させるような威厳をも有しているのであり、古代美術の造形を強く意識しながら、生身のモデルに基づいて制作された作品ということができる。首飾りと棕櫚の葉が、直線を形成するように配されている点からも強い構成意識が見て取れるようです。イタリア留学 「天使に治療される聖セバスティアヌス」(左下図)という作品です。聖セバスティアヌスはローマの軍人で、キリスト教徒となったことからローマ皇帝に裏切者の烙印を押され、杭に縛り付けられてハリネズミのようになるまで矢を射かけられてしまいます。しかし、奇跡的に彼は助かり、聖イレーネによって介抱されます。それで、弓矢で射られて殉教する美しい若者の像としてよく描かれ、疫病に対する守護聖人とされているということです。この作品では、介抱しているのが聖イレーネではなくて天使です。並んで展示されていたシモン・ヴーエの「聖イレネに治療される聖セバスティアヌス」(右図)の男性の肉体と比べると、ルーベンスの描く肉体がゴツゴツしていて生々しいのが分かります。ヴーエの描く肉体はすべすべしていて彫像のようです。それはそれで理想化された人物ということなのでしょうが。それだけに、聖セバスティアヌスも傷に手当てをしている聖イレネといって人物も背後の大樹も明確に描かれていますが、それはある意味、彩色された彫刻のように、明確な形がある。また、画面全体が、彫
そのひとつ「法悦のマグダラのマリア」(左下図)という作品。3×2.2mの大画面で、それを見上げるように展示されていました。頭を後方に向けて微動だにせず、恍惚の眼差しを天上に向け、青白い手足からは力が抜け、髪はほどけている。法悦により失神したマグダラのマリアの姿です。これと同じようなマグダラのマリアを描いているのがカラヴァッジョ(右図)でした(一昨年の、同じ西洋美術館のこの部屋で見ました。)。しかし、カラヴァジョの場合には、マグダラのマリアだけが描かれて、彼女の法悦の姿に注目した作品でした。これに対して、このルーベンスの作品は、おそらくカラヴァジョを参考にしているのでしょうが、マリアの上方の空間を大きくとって、そこから光が降りてきてマリアを照らし出すという画面になっています。ちょっとカラヴァジョの作品を思い出してみると、暗闇の中でマリアの姿が浮かび上がっています。しかし、そこに輝かしさはなくて、闇にとり込まれてしまいそうな雰囲気すら漂っています。髪の毛などは闇にとけ込んで見えなくなってしまっているかのようです。マリアの顔に精気が見えず、顔から首そして胸元まで露出している肌が土気色で、死体と区別できません。顔を見れば白目を剥いて、口は半開きになって締りがありません。そのマリアに対して、下の顎の方から見上げるように光が当てられ、下顎などの顔の下半分
「キリスト哀悼」(右上図)という作品です。同じ題名で二つの作品が展示されていましたが、こちらは制作年代が後の方です。構図は、「法悦のマグダラのマリア」とよく似ていて、大きな違いは、「法悦のマグダラのマリア」にあった上半分の空間が「キリスト哀悼」にはなくて、空間が閉じているようになっていることです。その横長の画面の左上から右下への対角線にキリストの遺骸が仰向けに横たわっています。キリストの身体は緊張感なく開いた両足や力なく垂れた両腕が、何よりも血の気の失せた土気色の肌が死体であることを容赦なく物語っています。キリストの右手には聖母マリアが寄り添い、右手で額に刺さった棘を抜き、左手でわずかに開いたままの眼を閉じようとしています。その 「死と罪に勝利するキリスト」(左上図)は、死から復活したキリストで、墓から蘇ったところのキリストの姿です。赤いマントをはおったキリストは石棺の上に腰かけて、その堂々とした身体そのものが死に対する勝利をものがたっているといいます。足元に骸骨と蛇が踏みつけられ、それ象徴されています。これと似たようなものを以前のルーベンス展でも「復活のキリスト」(上右図)という作品を見ました。これらを見ていると形式的とか様式的とでもいうような感じがします。リアルとか効果という以前に、教会の祭壇などに飾るためにある程度決まりのパターンにまとめるというのか。それだからというのでもないのですが、沢山の作品を、しかも工房というシステムで量産していたためもあるのかもしれませんが、画面は そして、奥でひときわ目立っていたのが「聖アンデレの殉教」(左図)です。ペテロの兄弟で漁師のアンデレはローマ帝国の総督によって十字架に磔にされ、その2日のあいだ彼を取り巻いた人々に教えを説いた。その後で天から光が差して、彼の霊は光とともに昇天したという伝説を描いたものだそうです。画面は、X字の十字架を中心に構成されています。この十字架によって、画面は対角線状に分割され、画面右側には身を震わせて馬に乗るローマ総督の姿が配され、左下では二人の女性が総督に懇願している様子が描かれています。内の一人はアンデレによってキリスト教に改宗した総督の妻ということです。磔にされたアンデレは上を向いて祈りを唱えていますが、それと反対の右上方から光が差し、その光のそばに天使がいて、月桂冠と棕櫚の枝を手にしています。この構図や画面構成は、彼の師匠にあたるオットー・ファン・フェーンの「聖アンデレの殉教」(右上図)とそっくりで、そのオマージュでもあるという説明です。しかし、両者の構成は共通していても受ける印象は正反対です。フェーンがスタティックな画面を緻密に仕上げて、落ち着いた優美な印象を与えるのに対して、ルーベンスの作品は人物は劇的で感情的なポーズで、しかも少し粗めの筆触が絵筆の動きを残していて、それ自体が生命を持っているかのように、人々に躍動感を与えています。その動きに、この絵を見ている人は惹き込まれてしまうような、感情的な参加してしまうような画面になっています。この荒々しい筆遣いでリアリティを画面に生み出しているのは、同時代のベラスケスにも共通するものではないかと思います。ただし、これだけの大画面を統一した筆遣いで見せるというのでは、おそらく工房で複数の画家が分担して描かせるのは難しいので、工房で作品を量産したルーベンスの中では、このような作品は珍しいのかもしれません。そういう事情については、あとで触れるかもしれません。 W.神話の力1─ヘラクレスと男性ヌード
「ヘスペリデスの園のヘラクレス」(左図)という作品は、2.5×1.3mというサイズの、それほどの大画面ではなく、ルーベンスが早い筆遣いでさっと描いたものと考えられます。それだけに、荒さがある反面で躍動感に溢れています。ギリシャ神話で、ヘラクレスはヘスペリデスの園のゼウスの妻であるヘラの所有する樹から黄金の林檎を手に入れるという難題に挑戦して、みごとに成し遂げます。この作品でのヘラクレスは、足元に樹を守る竜を踏みしめ、右腕を伸ばし、それとバランスを取るために頑丈な肉体の体重を右足にかけて、一方の左足は力を抜いて曲げています。この姿勢は、当時はファルーネーゼ宮殿にあった、古代ギリシャの彫刻家リュシッポスによって制作された「ファルネーゼのヘラクレス」(右図)から引用されたものと説明されていました。慥かに、ポーズはよく似ています。この彫刻は、もはや若くない英雄を、功業の結果疲労困憊した姿を表わしたものとされているそうですが、ルーベンスは、その彫刻に対して沢山の素描を、数々の異なる視点から行い、細部に至るまで分析し、創造の根本あるアイディアを知るために、各部分を幾何学的な形態に換言した図像も試みたそうです。この古代彫刻にはミクロコスモスとでも言うような万物を支配する調和の秩序が反映したがゆえに普遍性を備えた完全な姿であるとして、ルーベンスは、その秘密を古代の人々に倣って幾何学を活用して分析しようとした。それが正方形や長方形や三角形という幾何学的図形を当てはめて、彫刻のスケッチを行ったといいます。その姿を引用するように描いた、この作品のヘラクレスは、したがって普遍性のある完全無欠の理想を表わそうとしたものと言えるかもしれません。たしかに、画面いっぱいに描かれたヘラクレスは、画面そのものは大画面でもないのに巨大さを強く印象付けられます。人間の姿形で描かれていますが、人間を超えた巨大な 男性ヌードの理想像がヘラクレスなら女性ヌードはヴィーナスというわけですか。「バラの棘に傷つくヴィーナス」(左下図)という作品。ヴィーナス云々を言う前に、この豊満で肉付きのよい、というよりも肉がつきすぎて垂れて見えるほどの脂肪の塊のような肉体、これこそが私が思い描いていたルーベンスの女体です。とくに、でっぷりとして垂れ下がったような尻が、ピンク色の肌が光っているように見える。理想とか健康的を通り越して、過剰さが、行き過ぎに見えて、爛 おそらく、ルーベンスの作品の中では小品の部類に入るサイズで、ヴィーナスは描けていますが、しかし筆致は荒いし(それが却ってヴィーナスの肉体の筋肉のごつごつしたような肉感的な生々しさの表現を実現させていると思います。しかも、上半身をひねる姿勢から生まれた肉の襞やくぼみがやけに強調されていて、例えば、太い両腕の間に挟まれてしぼりだされるような乳房なんぞは、まるで乳牛を髣髴とさせるほどです。)、足許に寄り添うプットーたちは仕上げられていないので、早い筆遣いでさっと描かれた油彩スケッチのような作品なのではないかと思います。 Y.絵筆の熱狂
大作は工房で他の画家に分担させて描かせる必要がありましたが、そのための下絵や規模の小さな作品は、おそらく他人に任すことなくルーベンス本人が描いたのでしょう。したがって、ここに展示されていた作品は比較的中小規模の作品ばかりです。しかし、大作ではどうしても他人に描かせるから、100%自分の思った通りにはならない、ある程度のところで妥協しなくてはならない。それが、小品や下絵は自分で描くから、そのような妥協せずに済む、そこで思い切り羽根を伸ばすように描いたといえるのが、ここに展示されている作品ではないかと思います。それだけに、かなり攻めている作品が並んでいたと思います。
「聖ゲオルギウスと竜」(左図)という作品は、展示室のなかでひときわ目立っていました。解説ではルーベンスの作というところに?が付されていて、本人の作かどうか疑問があるようです。同じ題名でプラド美術館にあるのは真作ということで有名らしいですが、後でネットで調べてみた、そのプラド美術館の作(右図)と比べると、こっちの方が大胆で破格なため、本人の作かどうか疑わしく思うのは当然と思います。両作品は構成や構図はそっくりの
Z.寓意と寓意的説話 最後の展示コーナーは、いわゆる物語画です。物語という意味づけがあれば、例えばタブーであった裸体画も許されるというので、貴族の室内を飾るとか、理屈をつけた注文に応じて制作されたものと言えます。そういう意味を深読みして鑑賞するのもいいのでしょうが、べつにそのような物語をしらなくても面白い作品が展示されています。
「マルスとレア・シルヴィア」(左下図)という作品です。2×2.7mの比較的大きな作品と、おそらく雛型のような下書きだろう小さな作品の2点が並べて展示されていました。画像は大きなほうです。小さな作品の方が、女性の表情が複雑で、言い寄られて嬉しいのと不安で戸惑っているのと、両方に受け取れるような表情をしているのと、女性の衣服が透き通るように柔らかく描かれているのが違います。こちらの大きいほうの作品では、女性は切ないような表情をしています。また衣装は物質的な存在感がつよく感じられるように描かれています。このようにしっかりと描かれているのは、やっぱり上手いと思います。
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