ルーベンス展示─バロックの誕生
 

  

2018年10月26日(金)国立西洋美術館

ペーテル・ルーベンスという画家、バロックの巨匠と言われている人ですが、捉えどころのないというのでしょうか、とにかく作品の数は多いし、その代表的なものは巨大な作品で運搬するのは大変だろうから、日本で作品を集めて展示するのは物理的に難しい(そうでなくても、作品自体を日本に持ってくるのは大変だろう)だろうと。5年位前に、文化村のザ・ミュージアムという天井の低い、比較的狭いところでルーベンス展をやっていたのを見ましたが、その時は、肖像画や小品を中心にして、あとは工房の制作したもので、本人の大作というのは、あまりなかったと覚えています。この時展示されていた作品のいくつかは、今回、再会できものもありましたが、それでも、肖像画のすばらしさに、その時であったのを覚えています。しかし、この人の本領は大作ではないかと思ったときに、物足りなさを覚えたものでした。それが、今回は、工房制作らしきものや比較のために他の画家の作品もありますが、ほとんど本人の作で、それをこれだけの点数(40点あるということです)、しかも、西洋美術館の地下の大きな天井の高い空間に、宗教画の大作が並べられていたのは壮観以外のなにものでありませんでした。まだ、会期がはじまって10日目で、金曜日の夕方で、比較的混まないだろうと思っていましたが。鑑賞に支障のあるほどではありませんが、けっこう鑑賞者は多くて、作品によっては前に人だかりができているほどでした。これから会期が進むに連れて、かなり混雑するのではないか、しかし、それだけの内容でありました。

さて、ルーベンスという画家については、美術史の中でもひときわ大きく輝く巨星のような人で、いまさら紹介する必要はないと思いますが、しかし、この人の全貌を明らかにするのは不可能に近いので、どうしてもある視点にしたがって、作品を見せるということになると思います。その点で主催者のあいさつを引用します。

“17世紀バロックを代表する画家、ペーテル・パウル・ルーベンス(1577〜1640)。彼は現在のベルギーの町アントウェルペンで修業し、大工房を構え活動しました。しかし、画家として独り立ちした直後の1600年から08年まで、おもにイタリアで過ごしたことは、わが国ではあまり知られていません。ルーベンスはヴェネツィアやマントヴァ、そしてとりわけローマでさまざまな表現を吸収して画風を確立し、帰郷後はそれを発展させたのです。洗練された教養人だった彼にとって、イタリアは芸術における理想の地であると同時に、古代という理想の世界に近づきうる地でした。帰郷して20年以上経った時、ルーベンスは手紙にこう記しています。

「イタリアに行く望みを叶えることを諦めたわけではありません。それどころか、この気持ちは刻々高まるのです。断言いたしますが、もし運命がこの望みを許さないのであれば、私は満足して生きることも、満ち足りて死ぬこともないでしょう。」

本展は、ルーベンスをいわばイタリアの画家として紹介する試みです。彼の作品は、この地の芸術作品とともに展示されます。古代やルネサンス、そして次の世代の作品とルーベンスの作品を比較することによって、彼がイタリアから学んだこと、そしてとりわけ、彼が与えたものはなんであったのかを解明します。ルーベンスとイタリア・バロック美術という、西洋美術のふたつのハイライトに対する新たな眼差しを、日本の観衆に与える最良の機会となるでしょう。”

 

T.ルーベンスの世界

会場入口のロビーの広間でルーベンス紹介の映画らしきものをやっていましたがパスして、さっそく作品へ。まず目に付いては、小品ともいえる作品。ルーベンスの世界というコーナーで、最初にかれらしい大作ではなくて、こんな小さな、しかし愛らしい作品で、ちょっと肩透かしといいますか。これで、前のめりになりました。巧みな展示の演出、と言っておきましょう。「クララ・セレーナ・ルーベンスの肖像」という画家自身の娘を描いたという作品です。映画のクローズ・アップのように、顔の正面にできる限り近寄って、顔と髪の毛の部分を丹念に描き込んで、それ以外の衣服や背景はぼんやりとしか描かれていません。それだけに、見る者の視線は顔に集まります。その顔はというと、つぶらな目はおおきく開かれて、こちらを真っ直ぐに見つめています。視線をこちらにむけて、何か言いたげな、今にもしゃべりだしそうな風情です。幼い子供というのは、普通はじっとしていられず四六時中動き回るものです。感情や気分も常に変化して、さっきまで穏やかに笑っていたのに突然泣き出してしまったりということは日常茶飯事です。そのような、常に変化する表情の一瞬の動きをそのまま写し取ったような画面です。同時に展示されている「カスパー・ショッペの肖像」のように、一瞬の表情の動きを活写するのではなくて、モデルの人物を理想化した姿を描きます。それだけに人物は動きのない彫像のようで、しかも感情をあらわす表情の動きを顔には表われていない、ギリシャ神話の太陽神アポロのような、つまり人間的な表情がなくて、神様のような超然とした様子で表される、というのが肖像画、人物画です。そういう従来の一般的な人物画に比べて、この作品の子供の親しげな表情というのは、理想化されたものではなく、ということは広く人々に向かってのものではなく、特定の人物、おそらく画家である父親に向けての、親密さ、あるいは愛情が表われたものです。このような特定の人に向けたものというのは、それまでの人物画になかったものではないかと思います。ほぼ同時代のスペイン・バロックの巨匠ベラスケスも理想化されない、人間の個性をリアルに描いたといわれていますが、ベラスケスの描いたスペイン王家の王子や王女といった子どもの肖像画には、このような親密な表情の移ろいのようなものは見られません。大胆な空間構成の大作を制作していた一方で、ルーベンスという画家は、こんなところで革新的な作品を描いていたというのは、この展覧会での発見でした。大作というイメージをもっていたのに、この作品における顔や髪の毛の描き方は、なんと細かく丹念に描き込まれていることか。金髪の髪の毛の一本一本を繊細な線で描かれていて、しかも、時が経つのにしたがって刻々と変化する光と影のグラデーションをその金髪の微妙な色調の中で描き分けられています。一方、その髪の毛と同じように顔の輪郭や鼻や唇のくぼみとふくらみのコントラストが、例えば、肌色のグラデーションの細かい描きわけが、柔らかな子供の顔の肌にこれほど細かい凹凸があるのかと驚くほど(頬の赤!)で、しかも、動きを感じさせるために、微妙にバランスを崩していて、左右の瞳や鼻筋は均衡になっていないところが、却って人間らしい温もりを感じさせるものとなっています。つまり、これほど小さな作品であるのですが、ルネサンス以来の理想化した均衡した人物表現ということから、個性をもった個々の人物の理想化されていない不完全なところに、その個性が表われるというところと、そもそも人間というのは動くものというので、その移ろいを表わそうとしたという点で、それまでとは一線を画した、近代の個人主義の前駆となるような人間像の提示、いわゆる近代的なリアリズム、といえるような作品ではないかと思いました。

並んで展示されていた「眠る二人の子供」も同じように子供を描いています。髪を乱したまま赤ら顔で眠るあどけない表情を暖色と寒色の巧みな使い分けは、多少のあざとさが感じられるほどですが、巻き毛の乱れた様子の細かな描写と相俟って、よくもこれだけ丹念に描いたものだと、そのことにルーベンスのモデルの子供への並々ならぬ愛情が伝わってくるようです。この下からの仰角では顔が栄えて見えないのを敢えてやっているのは、神話や宗教的な題材で子供や天使を描くときとは、全然違うので、同じ画家かと疑わしくなるほどです。

「幼児イエスと洗礼者聖ヨハネ」という作品。幼児の聖ヨハネの右側で幼児のイエスが赤い布の上に腰を下ろし、二人は従順な白い子羊を撫でています。この子羊はヨハネの象徴で、イエスの将来の犠牲を暗示するものだそうです。この幼児イエスは受肉の象徴で、この幼児の表情は自ら犠牲になる事を承知していることが表われていると言います。それだからでしょうか、この二人の幼児の表情は、上述の作品と比べて、大人っぽいところがあって、しかも、移ろうというのではなくて確固とした輪郭があります。つまり、形が決まっているスタティックなものです。顔の表情で訴えかけるというものではない。実際のところ、この題材でこの描き方であればねイエスと聖ヨハネを幼児にしなくても、大人で描いても、あまり変わりはないのではないか、子供でなければならない、という物ではない、そう感じられます。ただし、イエスの下腹や足の肉がたるんでいるところなどは、単純に理想化しているとは言えないところがあります。幼児の肌の柔らかさのようなものは、巧いと思わせられます。

U.過去の伝統

この展覧会の主催者あいさつで述べられていた“本展は、ルーベンスをいわばイタリアの画家として紹介する試みです。”ということを、正面にすえて取り扱ったコーナーです。ここでは、ルーベンスがイタリア留学で勉強した古代ローマの古典ともいえるお手本と、それをルーベンスがどのように消化したかを比較して見せるということをしています。また、ルネサンスやイタリア・バロックをルーベンスが模写したものと、その原作を比較照合してみせようという展示です。作品として、メダマは、この後の展示でてきますが、展覧会じたいとしては、このコーナーがメインとも言うべきものだと思います。

「毛皮をまとった婦人像」見てみたいと思います。これは、ルーベンスが50歳を過ぎた成熟期に訪れたスペインで見たティツィアーノの「毛皮の少女」をもとに制作した(模写した)作品だそうです(残念ながら、この作品の展示はありませんでした。まっ、ティツィアーノですから、日本に持ってくるのは難しいでしょう)。たしかに、そっくりで上手いです。しかし、二つの作品の微妙な違いがルーベンスの特徴を浮き上がらせています。まず目に付くのは、ルーベンスの作品の画面のサイズが相対的に横広ということです。これによって画面全体に余裕が生まれています。ティツィアーノの作品は単独で見ると感じることはないのですが、ルーベンスのと比べると少し窮屈な印象を受けます。このことはルーベンスという画家の透徹した眼ということを感じざるを得ません。そして、画面に余裕ができたぶん婦人の肉付きをよくしてふっくらした感じにして、目を心もち大き目に描いて。大きな目がパッチリと開かれていると顔の表情が明るくなり、顔にスポットライトがあったように印象が変わります。二つの画像を見比べてみるとルーベンスの作品が明らかに、ゆったりしていて、明るい、違いがはっきりと分かると思います。これが、ルーベンスの作品が脳天気なほど明るく、ゆったりした印象を生み出すひとつの要因かもしれないと思います。そして、このようなルーベンスの作品の婦人は生き生きとして実在の人間としての存在感、具体的に誰と名指しができるような実在の人間のような生気が溢れています。これに対して、ティツィアーノの作品の少女は影が薄いのです。暗い背景に埋もれているような印象で、ルーベンスの婦人に比べると、模写したものとされたものですか似ているはずなんですが、こちらは整った顔立ちになっています。その分冷たい感じがして、生気があまり感じられないせいもあって、実際に息づいている人間という感じは、ルーベンスに比べると薄くなっています。もっとも、ルーベンスの画期漲る作品と比べるから、そう見えるのであって、これ一つだけを取り出して見れば、そんなことは思いもよらず、自然に見ることができでしょう。例えば、眉の付け根の描き方を比べて見て下さい。ティツィアーノの場合はスゥッと眉が半円のスッキリとしたラインとなって描かれているのに対して、ルーベンスは付け根の始点を強調し、そして眉の眉毛が生えていることをキチンと毛根が見えるかのように描いています。これは、ティツィアーノが人間の顔の形態に目が行っているのに対して、ルーベンスは実在の生きた人間の生々しいリアルさに目が行っているという違いによるものでしょう。これは、ティツィアーノがマニエリスムの影響から抜け切れず理念的というのか理想の女性像のようなものとしてこの少女を描いているように気がします。ティツィアーノの少女の表情をみると湛えている微笑みは人間のというよりはニンフや天使のような印象です。そうして比べて見ると、ルーベンスという画家がイタリア美術の様式や技法に習熟していたが、ベースはリアリズムの人であることが明らかです。しかし、私の好みは影薄いティツィアーノ描く少女の方です。だからルーベンスは苦手…とはいっても、そういう苦手を自覚している人をも惹き付けるものを持っているのです。

「髭を生やした男の頭部」。個性ある頭像というらしい、モデルの人間を筆写して理想化(パターン化)を加えて作品素材として図案化のような作業していって、実際に使われたらしいそうです。つまり、工房で働く画家たちが大作に描きいれる人物のお手本として使われたらしいです。技量がルーベンスに届かない画家たちは大作の中の部分を担当した時に一定レベルを求められので、ルーベンスの描いたお手本を写して利用することで、そのレベルをクリアしていた。そのように、他人がコピーして使いまわすための図案集のような機能を果たすためには、特定の人物の特徴をとらえていることよりは、老人の一般性が現われている方が利用範囲が広まるし、写しやすい。そのような実用的な要求が、実は作品に入ると理想化された普遍性をもった表現になっている、なんと効率的な事か。とはいっても、実際にこの作品を、今、見ると、すごく斬新な感じがしました。その理想化というのは、古代の肖像彫刻の類型表現のパターンに当てはめるようにして、リアルなモデルの描写をシンボリックなものに昇華させたという。そうすると、古代の神話や伝説、歴史的な場面に適したものとなる。しかし、そんなことを抜きにして、この男の頭部を見ると、額は狭く、落ち窪んだような目と鼻以外は髪の毛と髭に覆われている。激しく波打ち、巻かれた、もじゃじゃの髪の毛と髭に強いハイライトが入り、まるで金属のような質感とダイナックな躍動感があるのは、素早い筆遣いと、色遣いによるものでしょうが、この髪の毛の様を見ているだけで水際立った手際の良さにうっとりしてしまうのです。しかも、左から男の正面に光があてられて、金髪の髪の毛が照り映えるのと後頭部の影のコントラストが暗い画面でスポットライトを当てられたように浮かび上がるのは、カラヴァジョのようなドラマチックさこそありませんが、まさにバロック絵画の見本のようです。こんな素材集のようなスケッチでやってしまうのですから。ルーベンス本人が、このようなスピーディーな筆遣いでさっと作品を仕上げてしまう様子を何となく想像してしまいました。

ルーベンスによる素描も展示されていましたが、この頭部のように素材とするためのものや、下絵のためのもの、あるいはイタリアでの模写のような習作のような目的なのかは分かりませんが、たいていは作品になっていないので、研究者や熱狂的なファンでもなければ、面白くないのですが、今回の展示では、そのスケッチした対象の古代の彫刻が並べて展示されていました。それらを見比べると、ルーベンスという人は、描くのがうまいのは当然のことですが、全体像を把握するのが巧く、それを演出するように紙の上に再現していく、それをスケッチの段階でやってしまう人だというのがよく分かりました。

「セネカの死」という作品です。ルーベンスの工房で制作された作品で、おそらく頭部はルーベンス本人の筆が入っているという説明でした。セネカは古代ローマのストア哲学者(ストイシズムの語源になった禁欲主義が特徴)で“暴君”ネロの下で自殺を強要されたと言われています。1.8×1.mという大きな作品です。その画面いっぱいに男性の正面の全身像が描かれていて大迫力です。歴史的な場面であるはずですが、背景は省略された暗闇で、真ん中のセネカに上から光が降り注ぐように当てられています。それに対して、セネカの視線や姿勢は、その上からの光に向けられています。腕を切られて、出血しているにもかかわらず苦痛の表情はなく、上からの光に意志的に向かっている、まるで、今からそちらへ行くと訴えているかのような表情です。その上空を見上げる様子は殉教者を髣髴とさせ、湯の張られた盥は洗礼盤を思わせると解説されていました。背景が省略されているのは、古代ローマの場面にしてしまうと、殉教者になぞらえる象徴性が表われてこないで、現実の自殺の場面になってしまうからでしょうか。この画面いっぱいに、真ん中のセネカを取り囲むように4人の人物が描かれていますが、これらの人々は光が当たっていないか、光に気付いていない。彼らの視線は上に向けられていないで、セネカに向けられています。そのためか姿勢は下向きになっていて、独り上方に向かうセネカと、他の下に向く人々という対照関係があるようです。まるで、セネカ以外の人々は天から下の現世でうごめいているという対照です。しかし、その4人の人物の、それぞれの思惑というのが、この描き分けはきっちりされていて、その中心にセネカがいて、当のセネカは、彼らの交錯した関係から超然として、上に向かっている。ルーベンスという人は画面構成での演出に秀でた人であることが分かります。おそらく、画面構成を設計して、そのデザインのもとに工房の画家たちに描かせたのでしょうが、その設計図が巧みなので、例えば、セネカの頭部と身体にギャップがあるのですが、あまり目立ちません。セネカの身体、というより肉体は、ルーベンスの豊饒で力強い肉体というよりは、イタリア絵画のスマートな感じで、その点は面白いのですが、顔に比べて緊張感に欠けて、弛んでいるような感じがします。腕を切られている、そういう危機感というか切羽詰ったものがなくて、やたら筋肉の凸凹が強調されているような感じで、老人の肉体にも見えません。数年前のルーベンス展で見た「復活のキリスト」の似たような構図で描かれた肉体表現と比べてしまうと、何か違うと感じてしまうのです。

V.英雄としての聖人たち─宗教画とバロック

ここからはルーベンスの作品をテーマ別、題材別に見ていこうということになります。ここからは、作品のオンパレードです。

「聖ドミティラ」。白いシャツを着て、腹部に毛皮を掛け、編み上げた頭髪を宝石の帯とリボンで飾り付けた女性は、右手に殉教者のアトリビュート(持物)である棕櫚の葉を持った姿で描かれ、視線を下方に向けている。あたかも柔らかい肌の感触が見て取れるかのような現実感を備えた生身の女性の描写が達成されている。その一方で、彼女の顔は厳格な横顔として表わされている。つまり、その顔の表現は、メダルやカメオに表わされた頭部を想起させるような威厳をも有しているのであり、古代美術の造形を強く意識しながら、生身のモデルに基づいて制作された作品ということができる。首飾りと棕櫚の葉が、直線を形成するように配されている点からも強い構成意識が見て取れるようです。イタリア留学中のルーベンスはこのような下絵でそれまで学習したことを様々に試みていたのだろうと思います。顔の描き方をみるとタッチはけっこう粗目であるにもかかわらず、棕櫚の葉を持つ手の指先の丁寧な描き方や、古代のカメオのような厳格なプロフィールでありながら、首の線の肉の弛みが肉感的に見えるなど、形式的な構成とリアルな視線の交錯がはっきりと表われていて、ルーベンスという画家が複数の方向性を持っていて、それらが拮抗してなかなかまとまらず、作品の中に対立的な要素が入っているのが大変興味深いです。ルーベンスの作品から放出されるあのエネルギーの源のひとつに、このような葛藤が原因しているのではないか、と少し考えさせられました。

「天使に治療される聖セバスティアヌス」という作品です。聖セバスティアヌスはローマの軍人で、キリスト教徒となったことからローマ皇帝に裏切者の烙印を押され、杭に縛り付けられてハリネズミのようになるまで矢を射かけられてしまいます。しかし、奇跡的に彼は助かり、聖イレーネによって介抱されます。それで、弓矢で射られて殉教する美しい若者の像としてよく描かれ、疫病に対する守護聖人とされているということです。この作品では、介抱してるいのが聖イレーネではなくて天使です。並んで展示されていたシモン・ヴーエの「聖イレネに治療される聖セバスティアヌス」の男性の肉体と比べると、ルーベンスの描く肉体がゴツゴツしていて生々しいのが分かります。ヴーエの描く肉体はすべすべしていて彫像のようです。それはそれで理想化された人物ということなのでしょうが。それだけに、聖セバスティアヌスも傷に手当てをしている聖イレネといって人物も背後の大樹も明確に描かれていますが、それはある意味、彩色された彫刻のように、明確な形がある。また、画面全体が、彫刻の小さなまとまりのようにおさまってしまっていて、空間をあまり感じさせない、そんな感じがします。とはいえ、このように明確にちゃんと破綻なく描き切っている画家の技量はたいへんなものであると思いますが。ルーベンスの場合は、それを途中まで同じように追求しているとは思います。聖セバスティアヌスのプロポーションなどは彫刻を参考にしているだろうことは分かります。しかし、あるところから、そこから離れて、例えば、人の肌の彩色などはヴーエに比べて、かなり細かく使い分けていますし、画面全体に空気感といいますか、なんとなく薄い空気のヴェールがかかったようなものとなっています。また、聖セバスティアヌスがよりかかる大樹の向こうは雲が渦巻くような、右下奥には、はるか遠くに森林があるというような、この世でないように幻想的な風景が奥へと広がっている。それが神話的な空間を作っていると思います。それが、おなじような画面構成、構図で19世紀のギュスターヴ・モローに通じるような幻想的な雰囲気も作り出していると思います。個人的な妄想かもしれませんが、ルーベンスの描く聖セバスティアヌスのポーズ、例えば頭のかしげ方などはとくに、モローの絵画のポーズの癖に通じているような気がします。

ここから、フロアが変わって階段を降りて地下倉庫みたいな広い展示室では、圧巻の展示が、あきらかに、今回のクライマックスといっていい、大作が9点、それらの宗教画の大画面に圧倒されました。ルーベンスの本領の一端を、ここで見ることができたと思います。ヨーロッパの教会に展示されている大作は、おそらく、もっと迫真ですごいことは想像できますが、その一端にでもふれることができたのではないかと思いました。

そのひとつ「法悦のマグダラのマリア」という作品。3×2.mの大画面で、それを見上げるように展示されていました。頭を後方に向けて微動だにせず、恍惚の眼差しを天上に向け、青白い手足からは力が抜け、髪はほどけている。法悦により失神したマグダラのマリアの姿です。これと同じようなマグダラのマリアを描いているのがカラヴァッジョでした(一昨年の、同じ西洋美術館のこの部屋で見ました。)。しかし、カラヴァジョの場合には、マグダラのマリアだけが描かれて、彼女の法悦の姿に注目した作品でした。これに対して、このルーベンスの作品は、おそらくカラヴァジョを参考にしているのでしょうが、マリアの上方の空間を大きくとって、そこから光が降りてきてマリアを照らし出すという画面になっています。ちょっとカラヴァジョの作品を思い出してみると、暗闇の中でマリアの姿が浮かび上がっています。しかし、そこに輝かしさはなくて、闇にとり込まれてしまいそうな雰囲気すら漂っています。髪の毛などは闇にとけ込んで見えなくなってしまっているかのようです。マリアの顔に精気が見えず、顔から首そして胸元まで露出している肌が土気色で、死体と区別できません。顔を見れば白目を剥いて、口は半開きになって締りがありません。そのマリアに対して、下の顎の方から見上げるように光が当てられ、下顎などの顔の下半分ははっきり見えますが、表情のポイントとなる目やその周辺がある上半分は影になって(暗闇に紛れて)しまっています。それだけに、明確に表情が読み取れず、しかも、半開きの口が目立ち、呆けているのか、意識がないのか、という感じがします。この画面にいる女性は、聖人には見えません。カラヴァジョが描いたのは娼婦という罪深い人間です。いくら悔悛したと言っても、外見が変わってしまうわけではありません。マグダラのマリアが悔悛したのは、本人の問題で、それを傍から見ても、本人ではないので、娼婦以外の何ものでもありません。それをまず、キッチリ描いた。しかし、娼婦でずっといたのを、簡単に悔悛できるものではないでしょう。それは、今までの自分の行き方を否定することでもあるはずです。普通に過ごしていれば、そのようなことは考えもしないし、やらない。だから尋常ではないのです。それこそ、生まれ変わるようなことではないかと思います。悔悛などと言葉にするのは簡単ですが、これまでの自分を否定するということは、以前の自分を殺してしまうことと同じで、これまでの自分の死とそこから生まれ変わる、つまり再生ということ。これは、イエスがいちど、磔になって死んだあと、復活することとパラレルと見ることもできるのではないか。カラヴァッジョはピエタの画面を視野に入れながら、マグダラのマリアの画面を考えたのではないかと思うのです。そして、マリアの呆けたような顔の表情を法悦として、ここに生死の境目にいる脱自的な状態、ある意味では仮死状態のようなものです、で描いている。つまり、悔悛し、まさにマグダラのマリアが法悦状態にあって、今までの自分が死んで、新たに再生しようしている瞬間を、一人の娼婦の現実の姿として描いた。そういう作品ですから、輝かしさは必要ないし、天使もいない。これはマグダラのマリアという人間の転回のドラマなのです。しかし、それでは教会を訪れる多くの人々にとって分かり易いとは言えない。そこで、カラヴァジョの描いたマグダラのマリアの内心のドラマを、もっと多くの人々にとって分かり易いものとするにはどうしたらよいか。ルーベンスは、カラヴァジョがマリアのみを画面に、彼女の内面のドラマとして描いたのを、広い空間に置き換えて、マリアの内面にドラマに対して、より広い視野で、それを見守る神の視点を画面に加えた。それは、単にマリアを神が祝福した輝かしいというものではなくて、マリア自身はカラヴァジョが描いてみせた姿と同じように死と再生というギリギリのところで改心した姿なのです。そこにはるか上方から光が差してくる。カラヴァッジョの場合には、闇から彼女の姿が浮かび上がるのですが、ルーベンスは光に照らし出されます。それによって、マリアの転回を人々に広く知らしめ、神がそれを見守っているということをそこで暗に示している。それが、ここの展示室では作品を見上げるよう展示されていましたから、マリアに注がれる、光を見ている者も浴びるような錯覚に捉われる。つまり、この作品の隠された主題は上方からの光で、それは、マグダラのマリアのようなかつて娼婦であった人に注がれている、それが見ているものにも降り注ぐような錯覚にとらわれる。そういう作品になっているのではないか。

ヨーロッパのキリスト教社会において中世、近代を通して、光というのは単なる自然現象のひとつであることに留まらず、“神の御業”、つまり神の霊的な力が目に見える形で顕現したものとして捉えられていたと言います。光は自然に存在する物体の様々な運動を引き起こす力であり、人間が知解できる第一の形象であり、人間の知識を可能にする神の照明であったといいます、光はまた、そこかに善が流れ出す泉でもあった。これを合理的、つまり数学的に追究しようとしたのが光学と言われる学問で、それは、ルネサンスの時代には遠近法と言われていたといいます。当時の遠近法の学者であるグローテストという人は、宇宙に存在する物体はそれ自身の明確な形象を光線の形で発すると主張していたそうです。こじ付けかもしれませんが、ルネサンスの絵画が遠近法で画面を構成していたのは、単に画面を立体的にするだけではなくて、神の御業である光を、ルネサンスの合理的思考に基づいて、画面に表わそうとしたものだったと言えるかもしれません。それを、もっと直接的に、見る者の感性に訴えるようになったのは、カラヴァッジョをはじめとして光と影の強烈なコントラストで劇的な効果を画面に生んだ絵画で、おそらくカトリックとプロテスタントの宗教対立で、民衆レベルでの支持を集めていくために扇情的ともいえるような直接的で刺激に富んだものが求められたためかもしれません。いずれにしても、光というのは特別なものとして、あった。ルーベンスも、その点では例外ではなくて、しかし、カラヴァッジョの後の世代にあって、カラヴァジョが光と影のコントラストをあざといほどに強調するために密室のように空間を閉じて凝縮させたり、エル・グレコやティントレットのように画面全体を暗くして光が際立つように、といった画面全体が暗くなってしまうことがありません。ルーベンスの作品は明るく開放感に満たされています。そこでカラヴァジョ以来の光の強調もされているのです。それは、ルーベンスという人が画面全体の空間構成に独特な才能を発揮したからではないかと思います。それが「法悦のマグダラのマリア」の画面上半分の空間ではないかと思います。また、「天使に治療される聖セバスティアヌス」では聖セバスティアヌスに画面左から光が当たっていますが、彼は右側に俯いているのです。一方、ヴーエの「聖イレネに治療される聖セバスティアヌス」では聖セバスティアヌスは上を向いて、上方からの光を全身で迎えています。「法悦のマグダラのマリア」の場合は、失神していますから、本人の意志は光に向いていない。ルーベンスの場合は、光を迎える主人公の方が一筋縄ではないのです。そういう構図上の複雑さが、独特な空間構成とあいまって、単純でない光によるドラマをつくっているのです。

「キリスト哀悼」という作品です。同じ題名で二つの作品が展示さていましたが、こちらは制作年代が後の方です。構図は、「法悦のマグダラのマリア」とよく似ていて、おおきな違いは、「法悦のマグダラのマリア」にあった上半分の空間が「キリスト哀悼」にはなくて、空間が閉じているようになっていることです。その横長の画面の左上から右下への対角線にキリストの遺骸が仰向けに横たわっています。キリストの身体は緊張感なく開いた両足や力なく垂れた両腕が、何よりも血の気の失せた土気色の肌が死体であることを容赦なく物語っています。キリストの右手には聖母マリアが寄り添い、右手で額に刺さった棘を抜き、左手でわずかに開いたままの眼を閉じようとしています。そのほかにも、遺骸を取り囲む人々が、キリストの死を悼む姿をそれぞれに描き分けていて、それぞれのドラマが物語られているという感じです。その、それぞれのドラマが画面の中心であるキリストの遺骸に向けられて、見る者の視線をそこに引き込むようにして、共感を誘うような構図になっています。その中で、画面右上の女性だけは、キリストの遺骸を見ずに、視線を上に向けています。これは、画面全体が暗い中にあるなかで、上方の空間が切られていて隠された形になっていますが、この女性の視線は、そこに向けられていて、そこに何かがある事を暗示しているのでしょうか。この作品には、強い光は注がれていません。それを、女性ははるか上方に眼を向けているのは、その暗示なのでしょうか。

「死と罪に勝利するキリスト」は、死から復活したキリストで、墓から蘇ったところのキリストの姿です。赤いマントをはおったキリストは石棺の上に腰かけて、その堂々とした身体そのものが死に対する勝利をものがたっているといいます。足元に骸骨と蛇が踏みつけられ、それ象徴されています。これと似たようなものを以前のルーベンス展でも「復活のキリスト」という作品を見ました。これらを見ていると形式的とか様式的とでもいうような感じがします。リアルとか効果という以前に、教会の祭壇などに飾るためにある程度決まりのパターンにまとめるというのか。それだからというのでもないのですが、沢山の作品を、しかも工房というシステムで量産していたためもあるのかもしれませんが、画面は巧みな構成なのにもかかわらず、シンプルで、あまり突飛なことはしていないのです。この作品では、中心にキリストが据えられていて、それで画面は安定しています。その両側に天使を配していますが、さすがにシンメトリーは崩していますが、中心が安定しているので、そこでシンメトリーを崩して硬くならないようにしている。そして、キリストが腰掛けている石棺の上下で対比をつくり、下には髑髏や蛇を踏みつけている。つまり、キリストが勝利した相手の負けた姿が暗いところに描かれています。そして上は、キリストの勝利を天使が祝福する明るい画面にしている。分かりやすい、というわけです。

そして、奥でひときわ目立っていたのが「聖アンデレの殉教」です。ペテロの兄弟で漁師のアンデレはローマ帝国の総督によって十字架に磔にされ、その2日のあいだ彼を取り巻いた人々に教えを説いた。その後で天から光が差して、彼の霊は光とともに昇天したという伝説を描いたものだそうです。画面は、X字の十字架を中心に構成されています。この十字架によって、画面は対角線状に分割され、画面右側には身を震わせて馬に乗るローマ総督の姿が配され、左下では二人の女性が総督に懇願している様子が描かれています。内の一人はアンデレによってキリスト教に改宗した総督の妻ということです。磔にされたアンデレは上を向いて祈りを唱えていますが、それと反対の右上方から光が差し、その光のそばに天使がいて、月桂冠と棕櫚の枝を手にしています。この構図や画面構成は、彼の師匠にあたるオットー・ファン・フェーンの「聖アンデレの殉教」とそっくりで、そのオマージュでもあるという説明です。しかし、両者の構成は共通していても受ける印象は正反対です。フェーンがスタティックな画面を緻密に仕上げて、落ち着いた優美な印象を与えるのに対して、ルーベンスの作品は人物は劇的で感情的なポーズで、しかも少し粗めの筆触が絵筆の動きを残していて、それ自体が生命を持っているかのように、人々に躍動感を与えています。その動きに、この絵を見ている人は惹き込まれてしまうような、感情的な参加してしまうような画面になっています。この荒々しい筆遣いでリアリティを画面に生み出しているのは、同時代のベラスケスにも共通するものではないかと思います。ただし、これだけの大画面を統一した筆遣いで見せるというのでは、おそらく工房で複数の画家が分担して描かせるのは難しいので、工房で作品を量産したルーベンスの中では、このような作品は珍しいのかもしれません。そういう事情については、あとで触れるかもしれません。

W.神話の力1─ヘラクレスと男性ヌード

ここから、階段で上のフロアに上がります。ここは一つの部屋に向かい合うように男性ヌードと、次のコーナーの女性ヌードが展示されていました。いってみれば人体表現、しかも理想化されたものが集められたと言うべきでしょう。この男性ヌードの格好の題材としてルーベンスがよく取り上げたのがギリシャ神話のヘラクレスです。

「ヘスペリデスの園のヘラクレス」という作品は、2.5×1.mというサイズの、それほどの大画面ではなく、ルーベンスが早い筆遣いでさっと描いたものと考えられます。それだけに、荒さがある反面で躍動感に溢れています。ギリシャ神話で、ヘラクレスはヘスペリデスの園のゼウスの妻であるヘラの所有する樹から黄金の林檎を手に入れるという難題に挑戦して、みごとに成し遂げます。この作品でのヘラクレスは、足元に樹を守る竜を踏みしめ、右腕を伸ばし、それとバランスを取るために頑丈な肉体の体重を右足にかけて、一方の左足は力を抜いて曲げています。この姿勢は、当時はファルーネーゼ宮殿にあった、古代ギリシャの彫刻家リュシッポスによって制作された「ファルネーゼのヘラクレス」から引用されたものと説明されていました。慥かに、ポーズはよく似ています。この彫刻は、もはや若くない英雄を、功業の結果疲労困憊した姿を表わしたものとされているそうですが、ルーベンスは、その彫刻に対して沢山の素描を、数々の異なる視点から行い、細部に至るまで分析し、創造の根本あるアイディアを知るために、各部分を幾何学的な形態に換言した図像も試みたそうです。この古代彫刻にはミクロコスモスとでも言うような万物を支配する調和の秩序が反映したがゆえに普遍性を備えた完全な姿であるとして、ルーベンスは、その秘密を古代の人々に倣って幾何学を活用して分析しようとした。それが正方形や長方形や三角形という幾何学的図形を当てはめて、彫刻のスケッチを行ったといいます。その姿を引用するように描いた、この作品のヘラクレスは、したがって普遍性のある完全無欠の理想を表わそうとしたものと言えるかもしれません。たしかに、画面いっぱいに描かれたヘラクレスは、画面そのものは大画面でもないのに巨大さを強く印象付けられます。人間の姿形で描かれていますが、人間を超えた巨大な印象です。それは、同時に展示されていたグイド・レーニの「ヒュドラ殺害後休息するヘラクレス」が同じように古代彫刻のポーズをとっているのですが、ルーベンスに比べると、すっきりとしていて、美しい人体の姿という印象で巨大さを感じさせないのと対照的です。つまり、同じように理想的な人間の肉体を二人とも描いているのに、グイド・レーニは美しい人体の印象なのに対して、ルーベンスは人間の姿をしているのに人間を超えた巨大な何ものかになっているのです。その違いはどこにあるのか、私には明確なことは言えません。あくまでも印象の違いとしか言えません。

X.神話の力2─ヴィーナスと女性ヌード

男性ヌードの理想像がヘラクレスなら女性ヌードはヴィーナスというわけですか。「バラの棘に傷つくヴィーナス」という作品。ヴィーナス云々を言う前に、この豊満で肉付きのよい、というよりも肉がつきすぎて垂れて見えるほどの脂肪の塊のような肉体、これこそが私が思い描いていたルーベンスの女体です。とくに、でっぷりとして垂れ下がったような尻が、ピンク色の肌が光っているように見える。理想とか健康的を通り越して、過剰さが、行き過ぎに見えて、爛れた姿は頽廃的とはいえませんが、そこの手前に紙一重で留まっている。ヘラクレスが人間の姿をしていながら人間を超えた巨大な印象を与えるのと、違ったいみで、このヴィーナスも巨大な印象を与える。しかし、日本人の私から見たら、ゲップが出そうな。ルーベンスが参照したとされるジャンボローニャの彫刻「ヴィーナスとキューピッド」のヴィーナスのポーズは共通するところはありますが、彫刻のヴィーナスはルーベンスの絵画に比べると華奢で少女のように見えてしまい、とても女神には見えなくなってしまいます。

おそらく、ルーベンスの作品の中では小品の部類に入るサイズで、ヴィーナスは描けていますが、しかし筆致は荒いし(それが却ってヴィーナスの肉体の筋肉のごつごつしたような肉感的な生々しさの表現を実現させていると思います。しかも、上半身をひねる姿勢から生まれた肉の襞やくぼみがやけに強調されていて、例えば、太い両腕の間に挟まれてしぼりだされるような乳房なんぞは、まるで乳牛を髣髴とさせるほどです。)、足許に寄り添うプットーたちは仕上げられていないので、早い筆遣いでさっと描かれた油彩スケッチのような作品なのではないかと思います。

Y.絵筆の熱狂

下のフロアでの宗教画の大画面が並んだ大広間が、この展覧会のクライマックスだったとすれば、この展示は最後の前に、もうひと盛り上がりといったところでしょうか。大画面の大作こそありませんが密度の濃い画面の傑作が目白押しで、思わず惹き込まれてしまいます。“ルーベンスの芸術は同時代の美術理論書において、しばしば「普遍的」という言葉とともに説明された。この場合の普遍的というのは、統一的かつ総合的な性格のことで、画面に描き込まれたさまざまなものが、全体としては生き生きとして美しく見えると言っているのである。その秘訣は、色彩と、それを画面に与える素早く熱狂的な筆遣いにあった。いみじくも17世紀の美術理論家ベッローリは、「絵筆の熱狂」という言葉でルーベンスの絵画を説明している。ルーベンスの筆遣いは、細部を省略し、逆に誇張を用いつつ、画面に統一感のある激烈なヴィジョンを生み出して、見る者の空想と想像を掻き立てる。これはヴェネツィアのティントレットやマントヴァのジュリオ・ロマーノら、イタリアの先行する時代の作品を消化することによって得られたものであった。こうしたルーベンス芸術の性格の最もわかりやすい形で見られるのは、力と力がぶつかり合い、動きに溢れ、人間と馬、武具がからみ合う場面である。”と説明されています。しかし、それはおそらくルーベンスの作品全般について言えることではなくて、一部の傾向であると思います。例えば、展示室に入る前にビデオで映写されていたアントワープ大聖堂に掲げられた大作といった代表作では、工房で他の画家に分担させて描かせ他者です。その場合、他の画家たちにルーベンスと同じような熟達した筆遣いを一律に求めることはできないでしょう。また、イタリアの人々にはヴェネツィア派のような荒っぽい筆遣いは歓迎されたかもしれませんが、ルーベンスの地元であるフランドル地方はファン・アイクのような精緻な絵画の伝統が受け継がれているところです。そのような事情から「絵筆の熱狂」と言えるような傾向が抑制された作品が残されています。それは、この後のコーナーで展示されていた「マルスとレア・シルウィア」といった作品にも当てはまります。

大作は工房で他の画家に分担させて描かせる必要がありましたが、そのための下絵や規模の小さな作品は、おそらく他人に任すことなくルーベンス本人が描いたのでしょう。したがって、ここに展示されていた作品は比較的中小規模の作品ばかりです。しかし、大作ではどうしても他人に描かせるから、100%自分の思った通りにはならない、ある程度のところで妥協しなくてはならない。それが、小品や下絵は自分で描くから、そのような妥協せずに済む、そこで思い切り羽根を伸ばすように描いたといえるのが、ここに展示されている作品ではないかと思います。それだけに、かなり攻めている作品が並んでいたと思います。

「聖ウルスラの殉教」という作品です。横1mほどの横長だから小さい作品です。実現に至らなかった作品の下絵であると説明されていますが、おそらく、全体の構想のデザインのようなものでしょう。筆遣いなどは荒っぽくて、時間をかけずにさっと描いたように見えます。彩色だって几帳面にやっているようにも見えない。画面真ん中の白い衣を着たウルスラが天を仰いでいるところに光が差して、その光の中に腕を広げて受け止めるような姿勢のキリストや天使が向かっています。それ以外のところは光のない闇のようななかで殺戮の場面になっています。画面を極端に光と影に二分し、光の部分にテンコ盛りでキリストや天使を詰め込んで神々しさの洪水のようです。その極端な対照、こういう構図はティントレットあたりの影響(例えば、ティントレットの「聖カタリナの殉教」)ということなのかもしれませんが、ルーベンスの画面の方が、場面に奥行きや広がりがあって暗闇の現実(殺戮の場面、この現実の場面が素早い筆遣いで大胆な省略を伴って描かれているためか、この場面の人物たちが、まるで幽霊のように見えるのです。それがゆえに現実の場面でありながら、非現実に見えてくる)に対照して光の部分が強調されることになっています。そこで、非現実に現実が映るに対照して、幻想であるキリストの救いがリアルに映ってくるという転倒が生まれる。しかも、殺戮のダイナミックな生々しさがあり、それがあってこそ天上から天使が殺到してくるようにウルスラに迫ってくる。だから、ティントレットの作品に比べて、闇があるにもかかわらず、全体として暗い画面には見ないのです。

「パエトンの墜落」という作品。これも大きくない。しかし、この決して大きくはない画面に馬と人が入り乱れて、ひっくり返ったりして、上か下か分からなくなってしまうようなあり様を、まとまって収めているのが凄い構成力だと思います。ギリシャ神話で、パエトンは太陽神アポロンの若き息子でありながら父を知らず人の子として育ちます。ある時、真実を知り、放り出した父の罪悪感に訴えて、太陽神の戦車を駆る許可を求めます。息子では戦車を操ることはできないと確信する父は説得を試みるが失敗します。パエトンは日々世界を照らす戦車(ギリシャ神話では太陽神アポロンが、この戦車を走らせるのが昼間の太陽の軌道の動きなのです)に乗り込むものの、すぐに制御できなくなってしまう。そこで、暴走から世界を守るため、ユピテルが雷電を投げつけ、若者は命を落とす。その劇的な場面を描いた作品です。画面では、転覆した戦車から人々(戦車を御すパエトンとホラたち)が宙に投げ出され、パエトンが真っ逆さまに堕ちていき、ある者は雲にしがみつこうとしています。その人物と動物の体勢は驚くほど多様です。しかも、その様子はポーズ過剰といえるほどで、マンガチックなほどわざとらしい。それらの人物や馬、馬車などのすべての要素が渾沌状態のようでありながら、太陽の光へと渦を巻いて上昇し、さらには下方へと落下する動きに統合されるように配置され、一瞬の悲劇的な激しさに収斂するようになって、それが見る者に向かって画面から抜け出して迫ってくるように構成されています。 

 
絵画メモトップへ戻る