生誕200年「ミレー」展 親しきものたちへのまなざし |
2014年9月17日(水) 府中市美術館
ミレーの回顧展といっても、ジョン・エヴァレット・ミレイではなくて、ジャン・フランソワ・ミレーの方である。ジョン・エヴァレット・ミレイの方は、ラファエル前派などのグループを含めて何度も見に行ったし、今年はじめに「ラファエル前派展」の投稿もしました。私にはジョン・エヴァレット・ミレイの方は比較的近しい画家であるのに対して、今回見に行ったジャン・フランソワ・ミレーの方は、名前だけは聞いたことはあるものの、疎遠にしている傾向の画家でありました。ちょうどよい機会であったので、ジャン・フランソワ・ミレーはどのような画家であるのか見てみることができたというわけです。 さて、ジャン・フランソワ・ミレーは、農民画家というかフランスの田舎バルビゾン村というところで農村の風景やそこで作業に勤しむ人々を描いたということで「落穂ひろい」とか「晩鐘」などいった代表作が日本ではことのほか人気が高い画家ということになっているようです。それまでの宗教画や歴史画、あるいは王侯貴族の肖像とはまったく違って、納所の人々という庶民の生活や労働するありのままの姿を忠実に描いた、ということで新しい絵画の可能性を開いたとか歴史で習った記憶が残っています。それよりも、荒唐無稽な神話や宗教の世界や乙に澄ました上流階級という雲の上の世界ではなくて、働く庶民を尊い姿として詩情をたたえて描いた作品に親近感をもっている日本人が多いということでしょうか。そのためか、平日の昼間、しかも郊外の、必ずしも交通の便がよいとはいえない美術館にもかかわらず、かなりの拝観者がいました。しかも、展覧会は始まったばかりの時期で、人気のほどがうかがえると思われます。学校の教科書にも作品が載っている画家なのでよく知られた画家であることは確かで、しかし、それだけで、それ以上のことまでは良く知らないというのが、私の現状でした。 展覧会の主催者のあいさつでは、ミレーについて次のように紹介し、この展示の趣旨を述べています。“ミレーは、19世紀まで絵画の主題とはなりえなかった現実の農民の労働や生活の様子を見つめ、自然のままに描くことで、荘厳な農民画の世界を生み出しました。その背景には、フランス初の風景画派の誕生の地となったバルビゾン村の自然豊かな制作環境があったことは言うまでもありません。しかし、ミレーの作品理解のためには、ノルマンディーの海辺の寒村で過ごした子供時代の記憶、9人もの子どもを慈しみ見守り続けた父親としての姿も思い出す必要があります。幼い頃から育まれた自然に対する畏敬、祖母から教育を受けた身近な者への慈愛が、ミレー作品の根幹を成しているからです。本展では、初期から晩年までのミレーの画業を通観するするとともに、これまでいわゆる「農民画」の周辺作品と捉えられがちであった、家族の肖像、生活の情景や馴染みの風景を描いた作品にも改めて焦点をあて、画家ミレーの全貌を捉え直します。”府中市美術館の館長は、ミレーについての著作も出している方のようで、自身がミレーに対する思い入れが強いようで、この展覧会に関してひとつの明確なコンセプトを打ち出していて、それがあいさつ文にも窺われます。ただ、あいさつ文では控えめに述べられているので、いまひとつ伝わっていないようです。カタログでの説明を補足的に引用しておきましょう。“本展では、全てのミレー展を見尽くしたベテランのミレー・ファンにも注目してもらえる新しいコンセプトを用意した。それがミレー絵画における「親密性」である。「親密性」とは、一般の美術用語では主にボナールやドニ、ヴュイヤールたちフランスのナビ派の画家の描く対象への心理的な親密的傾向を言う。たとえばボナールの永遠のモデルとなった妻マルトとの愛情生活と、繰り返されたそのヌードのポーズへの執着などがその典型であろう。そして主に絵画の現場となったのは室内と庭である。ミレーの場合、ボナールやナビ派、また印象主義の「親密派」であるルノワールに先んじた妻子、家族、近隣のコミュニティーとの親密な関係を描くテーマ頻出していることは周知の事実と言えよう。これには若い頃の肖像画家としての優れたキャリアが姿を変えて現出しているのである。もうひとつの「親密性」と考えられるのはその造形的な側面である。つまり、その語は画家と対象との共感による距離の近さ、及び構図の親密性をも表わす。たとえばミレーの追随者ジュル・ブルトンやレルミット、ジュリアン・デュプレらの農民画とミレーとのそれを比べてみれば、画面空間の中の対象のヴォリュームが最大限に主張されているのがミレーであって、いわば画面に無駄もなく隙もない。従ってこの場合の「親密性」は、野外を背景にした農民画に顕著に見られる。それはいかにもミレーが農作業に精通し、農民の実在性を大事にしていたかの証である。”“テーマと造形性においてミレー絵画の「親密性」は、同時代のでも古典主義に傾いたコローや社会性を強調するクールベ、また他のバルビゾン派の画家たちにおいても群を抜いている。またミレーの場合、それは親密性のもうひとつの側面である、画面から決して欲求めいたものを発しない慎ましさを基盤としている。”実際の展示については、展示作品の配置や展示方法などで、この「親密性」のコンセプトに従った配慮がなされているようでした。それは単に作品を借りてきて並べるということにとどまらず、展示のコンセプトを読むという楽しみが加わることになって、とてもいいことであると思います。
つまり、ミレーという画家は有り余るほど才能に恵まれた天才というのではなく、むしろ常識的な画家としては下手と位置づけられ、画家として生きていけないところに追い詰められて、都会から撤退して田舎に逃げ帰るまでして、さまざまに試行錯誤を繰り返し、悪戦苦闘の結果、自身のセンスや技量で表現できる題材に出会い、それがたまたま時代状況の変化で人々の新しい嗜好との間に接点を見出し、結果として生き残ることができたという捏造的なストーリーのような印象を持ったのでした。
第1章 プロローグ 形成期
「男性の裸体習作」(右図)として展示されていた作品。作品というより、それ以前の習作でしょう。ここに、有り余るほどの才能の煌きを見つけることは出来ません。凡庸というべきか、拙さをほほえましいとみるか。後年のミレーの作品からの視点で、どうこう言うのは穿ちすぎかもしれませんが、全体に大雑把で細かく描きこむことはしていないとか、頭がバランスを欠くほど大きいとか、そのようなことはこの時点のミレーに対して言うほどのことでもないでしょう。
それは、視点を変えれば肖像画家としてスタートしたものの注文があまりなかったということではないでしょうか。本来ならば、肖像画の注文に応ずるために家族や友人の肖像を丁寧に描いている時間の余裕など取れないほうが画家として成功だったはずです。後にミレーは農民画家として方向性の舵を切ってしまうことによって肖像画を描くことはなくなって、元肖像画家という言い方を展示ではされていますが、これとてもミレーは肖像画としては生きてゆけなかったということの裏返しではないかと思います。つまり、肖像画家としてはミレーは失敗してしまったということではないのでしょうか。今回の書き方はかなり画家に対して辛く当たっているようです。しかし、例えば、「シェルブール市長ポール=オノレ・ジャバン」(左図)と題された肖像画です。シェルブール市からの注文によって描かれたこの作品に対して、市議会は受け取りを拒絶したそうです。ミレー本人はモデルであるジャバン氏を知らなかったということでハンデはあったかもしれません。それをも加味しても、それ以前のこととして、この肖像をみていると威厳ある市長の肖像という感じがしないのです。この人物は“とっちゃん坊や”に見えて、むしろ滑稽に映るのです。その大きな理由は顔と全身のバランスです。顔が不釣合いに大きく、しかも重過ぎるのです。それに対して首が小さく襟の大きさがやたら目立つし、中央下の手はまるで子供の手の大きさです。そのためもあって着ている服がお仕着せのように浮いてしまって、“馬子にも衣装”のような似合わない状態になってしまっています。そして、全体として色調が暗く、もっと人物に照明が当てられてもよさそうなものと、思ってしまうのです。そして、ミレイ自身がモデル本人を知らないのであれば、補助的に象徴的な物品とか、業績を背景に書き加えてあげればいいのに、そのような配慮も為されていません。それで、なおかつ市議会が主張していたのはシャバン氏に似ていないということです。このような作品が出来上がってくるというのであれば、肖像画の注文が来なくなるのは当然のことではないかと思います。
ポーリーヌの肖像以外でも、「犬を抱いた少女」(右図)という作品でも、丸い造形で単純化し、輪郭を明確に画することをさけて、靄がかかったようにぼんやりとさせることによって、写真のような写実的な画像とは違って、子どもに対する潤んだような視線で見つめるときの焦点のボケのような効果を生んでいます。つまり、親しいものが少女を見つめるときに、愛しいといった感情を交えずにはいられないような、いわゆる目を細めるときに映るであろう主観的な姿を結果として画面に現わさせている、と言えるのではないでしょうか。その時に、画面の少女が画面の外側である観る者に視線を向けているのが、親しく微笑みかけてくるような印象を与える結果となります。この作品を観る者は、そこで主観的な思い入れ、あるいは共感ともいえる感情を生み出すことになるでしょう。そのときに、画面構成がバランスを欠いているとか、描写が精緻でないとか、技量的な欠点は、あえて言えば、どうでもいいことになります。さらに言えば、そういう整ったものについて回る、完璧さゆえの一種の冷たさを免れている、“あばたもえくぼ”というような、不完全であるがゆえに却って愛おしい、という効果を生んでいる、というと言いすぎでしょうか。 決して天賦の才能に恵まれていたとは言えず、描画の技量に秀でていたというのでもなく、センスも鈍い凡庸な画学生の一人、つまりはその他大勢に埋もれてしまうような画家であったミレーです。彼は、ここで、凡庸で下手であるがゆえに、それを逆手にとって、中心地パリで活躍する画家たちとは差別化し、上手下手とは異なる尺度で人々に観させる作品のきっかけを、ここで掴んでいたというと、かなりストーリーを捏造しているでしょうか。ここでは、捏造ついでに、この時点では、ミレー自身は無意識で、そのことに自覚はないし、この作品だけの一発屋で終わってしまうおそれは多々ありました。 第3章 家庭・生活
そして、これらの作品で祈りの対象となるのは神様ということになるのでしょうが、この神様というのは伝統的な宗教画にあるような崇高で超絶的な神というのではなくて、もっと身近な存在であるように思えます。そのひとつは、これらの作品のサイズは様々であるとはいえ、1mにも満たない小さなものであることがまずひとつです。教会に飾られるような宗教画は大画面で見る者を圧倒し、畏怖の念を起こさせるものですが、これらの作品は小さくて、そういうことは起こりえません。そして、これらの作品で描かれている人々は神を仰ぐように見上げているのではなく、下を向いて祈っています。これは勿論、神の前で頭を下げているのでしょう。それだけではなくて、作物の恵みをもたらす大地への感謝というのか土俗的な信仰の名残のような身近な存在としての神様に感謝と祈りを捧げているように、私には見えました。「鶏に餌をやる女」で鶏に餌を投げ与えているのは、同時に恵みの大地に感謝の捧げものをしてもいるのではないか、これは穿ちすぎではあるかもしれませんが、この農婦の間近に空虚な中心としての祈りの対象となる神の空間をおくことで、それも故なしとはいえないと思いますし、それだけに神というものに「親密性」を与えることによって、作品を成立させることができた、と私は思います。 さらに、画面を正面からの視点ではなく斜めからの視線で捉え、構成を左右対称にして均衡をはかるのではないものにしているということは、客観性を持たせるのではなく、主観的な性格を与えているように見えます。つまりは、農村の生活風景として、改めてひとつの完結した世界を画面に構築するというよりは、ピンナップ写真のように主観的に断面を切り取ったようなティストを与えるために、ある程度意図的につくられた視点と構図ではないか、と私には思われます。それは、従来の歴史画や宗教画のような余所行きのあらたまった画面とは違うし、かといってリアルな写実とも違う、農家の自然に生活らしさをミレーが、いかにもそれらしく、しかも農家に行ったことのないパリという都会の人にも見やすいようにつくった絵画世界だったのではないかと思います。それは、一種のノスタルジックなユートピアというのでしょうか。例えば、現代の日本において昭和30年代の東京オリンピックを日本が元気で希望に満ち溢れていた時代であるかのように、当時生まれていない若い人々までもが“昔は良かった”とでもいうように見ている。そういう異世界をミレーの農家を描いた作品は、結果として作り出そうとしたことになったのではないか、と私には思えるのです。その世界がリアルにフランスの田舎の農家の生活を写実したものでなかったからこそ、アメリカや日本でミレーの作品が受け容れられた。これは、もともと故郷というものを最初から持てなかったアメリカの人々や国を挙げての近代化政策で伝統的な農村を否定的に見ることを強いられた日本のエリート層にとっては、手頃な代替物としてうまくフィットすることができたのではないか、と想像できます。そこでは、ぼんやりとした描法や画面構成の不均衡さは、むしろノスタルジックなユートピアの幻想性として、人々の想像を邪魔することのない好ましいものに映ったのではないでしょうか。そして、身近なものとして神に祈るというのは、近代化され科学的な志向がいきわたろうとする風潮に敵対することなく、その渦中の人々の心の隙間に入り込むことを可能とした、とくにノスタルジックなユートピアに惹かれるような人々に対してはなおさらです。ただし、このようなことをミレー自身が意識して、それを意図的にやったということではないでしょう。それは、即品が制作された後に、尾鰭がついていってのことだろうことです。
ミレー自身は、パリではやっていけず故郷にもどったはいいが、肖像画家として生きる道は閉ざされてしまう。たしかに、妻をはじめとして家族や親しい人の肖像を描くことによって、自らの特徴を自覚して、それを生かす方向というのがありえることに気付いたのではないでしょうか。ここで、どのような経緯でミレーが農村や農家を描くようになったのかは分かりません。しかし、結果として、そういう題材がミレーの特徴的な描き方が欠点とならない可能性のあるものだったことは確かです。そこで、ミレーの作風も件の肖像画から変化していきます。そのひとつが、肖像画では1人の人物を描くことであったのを2人以上の人物を、しかもその人物たちの織り成す関係を描くことになった点です。この兆候は、ミレーの妻を描いた肖像画にも生じていたと考えられます。それは、モデルである妻と制作者であるミレーの関係が作品に表れてきていたと考えられる。肖像画というのは言ってみればモノローグのようなもので、モデルの人物が大ホールの聴衆を前に講師となって講演をするようなものです。しかし、ミレーの描いた妻の肖像画は、ミレーと妻の対話のようなものになっています。それが絵を観る者にとっては、ミレーに代わって絵に対峙するわけで、そこで話しかけられているだけでなく対話をしているような親密性を感じることになります。その対話を画面の中に持ち込んで、画面の中の人物たちにそういう動きや表情をさせる形になっています。それが画中で人々が向き合う構図だったり、客観性を感じさせないバランスをはずした構成だったりであるわけです。そこに、これまで欠点て思われていた自身の特徴を個性の表れとして生かすことを方法論としてつくりえた、と言えるのではないでしょうか。
第2章 自画像・肖像画
第4章 大地・自然
ミレーという画家は、バルビゾン派などというレッテルで学校で習い「晩鐘」や「落穂拾い」などの浩瀚な代表作のイメージが先にたって、農民画家というように見られがちということで、私もそういう先入見を持っていました。実際のところ、ミレーは農村出身ではあるものの、農業を放棄し都会で画家の修行をした「都会人」であり、全作品が400点と言われる中で農作業を描いた作品は100点に満たないと説明されています。今回の展覧会では、ミレーを、「人間と大地・自然との営み」の1年のサイクルをつぶさに描いた画家というように捉えているといいます。四季折々の移り行く自然の姿と緊密に関係づけながら、大地を耕し、種をまき、牛や羊を放牧して育て、森を守りながら後にその恵みに与る人間を描いた、と言います。
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