2025年8月30日(土)足利市立美術館
8月も終わりというのに、日中は35度を超す猛暑が終わらない夏休み最後の土日曜日なので都心は混雑するだろうと思い、ちょっと遠くなるが、行って見る事にした。東京の西部から足利市までは片道3時間ほどかかる。足利にはJR両毛線と東武線の二つの駅があるが、東武線の方が本数が多いようなので、東武線の足利市駅を利用。特急「りょうもう」を利用すると、足利市駅まで1本で行けるが、特急券をケチって、久喜から館林と2回乗り換えて足利市駅へ。改札を出て北側はロータリーになっていて、その向こうに土手が行く手を遮るようにある。その土手を上がっていって渡良瀬川の歩行者用の鉄橋を渡る。橋を渡り、土手を下りると案内が出ていて、ビルの下をくぐるような地下道をおりる。地下道をでると美術館の裏側で、案内の地図があるので、その通りに行くと、到着。美術館は独立した建物ではなくて、ビルの1〜3階を使用していて、入口はビルのガラス張りの玄関を入る。実は、この入口はビルの2階で、入ってすぐに受付がある。左手奥にロビーとミュージアム・ショップがある(係に人に教えてもらってはじめて気がついた)。
受付で案内を受けてフロア右奥の第1展示室。天井は高く、それほど狭いとは感じない。階段を上がって3階はロビー挟んで二つの展示室。このフロアの天井が高い。現代日本画というためか、それとも、この美術館がそうなのか分かりませんが、来場者の姿はなく、会場は閑散としていました。勿体ない。しかし、会場を独占している状態で、誰にも邪魔されることなく、マイ・オウン・ペースで作品を満喫することができました。とくに、今回は大きなサイズの作品が多かったので、近づいたり離れたり、歩き回っていろいろな角度から眺めたりすることができました。展示の仕方が、主催者あいさつはあるものの、それ以外の文章による説明はなく、作品タイトルの掲示もなく、ただ展示番号だけが表示され(展示リストで展示番号から作品タイトルを確認することはできる)、展示の順番も展示番号順ではなく、39番から始まっていました。これは、虚心坦懐に個々の作品に臨んでほしいという、作者や美術館の思いからでしょうか。それを好ましく思います。そういうこともあって、満喫することができた。しかし、作品の保管のため、室温が22度くらいに設定されていたので、寒くなって震えてしまいました。
菊地の紹介を兼ねて主催者あいさつを引用します。“足利市を拠点に活動する菊地武彦(1960〜)は1990年代より絵の始まりである「線を引くこと」をテーマに制作を行ってきました。初期の《線の気韻》シリーズでは、垂直線の重なりが凜とした緊張感を生み出した大自然を彷彿とさせる画面をつくり、《土の記憶》では、偶然できたかたちに寄り添うことを作品の意図としました。さらに2010年代の《線の形象》では、線を引くことで現れる形態やイメージを肯定的に捉える試みをし、近作の《喫水線》では、余白と線の関係を問いながら、伸びやかな身体性に立ち返った制作を展開しています。また菊地は、独自に研究した岩絵具やメディウムによる、日本画で使われる材料をベースにした独特な質感の画面をつくり上げ、そうして表される、様々な輝きを放つ物質感のある画面も、作品の魅力の一つに挙げられます。本展では、菊地武彦の作品を初期から現在までたどる、美術館での初の大規模個展であるとともに、今度の展開を予見させる最新作品を合わせて展示することで、表現の全貌に迫ります。”
次に、展示室別に、見た順に、作品の感想を述べていきたいと思います。
展示室1 線の形象・喫水線
「喫水線2025-7」という作品です。240×100のパネルを4枚つなげた大きな作品です。菊地武彦は「線を引く」ことをテーマに掲げ制作を続けている、とロビーに置かれたパンフレットに説明されていました。この作品は、線を引くということが前面に表われて感じられる作品でした。細長い半円形がいくつも重ねられて画面ができている。全体として花が咲いているような光景に見えます。チューリップや蓮の花を横から見たときのような。そのひとつひとつの細長い半円は、筆を画面の下方から上に向かって線を引き、あるところまでいって折り返して下の方へ戻ってくるという線の引き方をしたものだったと思います。つまり、「線を引く」ことによって作品ができている、といえると思います。それらの線は、下書きをなぞるようなものではなく、一気に引かれる勢いが感じられるものでした。その即興性というか、身体性というか、そういうものが表われている。これは、例えばジャクソン・ポロックや白髪一雄のアクション・ペインティングのような描くという行為そのものを重視し、その結果として作品がある。そういうものに近いように見えます。前掲のパンフレットに次のような菊地の言葉が載せられています。“最初の一筆はいつも緊張します。心地よく線を引きたいという思いがあり、自分の体が大きくしなやかに動いていくような線が出たらいいなと思っています。線をなぞることによって作者の身体感覚や精神状態が伝わる気がします。絵を見た人が、のびやかな気もちよい動きを追体験してくれたら嬉しいなと。あまり悶々と悩んだ線は見せたくないと思っています。”このような言葉から、菊地は線を引くという行為から表われた結果としての線、こうやったからこそ、このような線が引けたということに重点が置かれている。それがポロックや白髪とは異なるところか。そう思うと、菊地は日本画家ということなので、むしろ水墨画とか書道の感じに近いものでしょうか。
となりは「線の形象2024-8」という同じサイズの大作です。さきの作品と同じように半円形の線が何本も引かれた作品です。この作品は赤が基本的な色調で、「喫水線2025-7」は黄色が基調となっています。この後で、これらの作品より以前の作品を見ると、ほとんどがモノクロームだったのですが、それらに比べると、この作品での色の鮮やかさはとても印象的です。この作品では赤の基調に緑の線が紛れ込んで、それがスパイスが効くようなアクセントとなっています。「喫水線2025-7」では黄色の色調に黒がアクセントになっています。そして、その色の鮮やかさは、その色で引かれた線のバリエーションによって、さらに印象が強まります。例えば、水彩絵の具を筆で引いたり、滲ませたり、引いた線を絵の具が乾かないうちに紙の上で拡散させたり、あるいは絵の具を垂らして線を引いたり。あるいは、岩絵の具で油絵のマチエールみたいに絵の具を盛り上げて見たり。あるいは、パステルで。あるいは絵の具を滲ませた紙を切り抜いたものを貼りつけたり。というように。ただし、こちらは、これらが、シンプルに重ねられている、その重なりがバリエーションと線の赤の鮮やかさをさらに複雑に、際立たせていました。
続いて、「喫水線 2024-15」は、展覧会チラシでも使われている小さい作品です。題名の「喫水線」については、“喫水線とは水面に浮かぶ船の、水面と接する線のことである。よって、船が沈没してしまうとなくなる。また、水面から離れ空中に浮上してもなくなる。人工物である船を人類や文明の、水を自然の比喩と考えることができる。自然に埋没しても、そこから乖離してもなくなってしまう。いわば自然との関わりのバロメーターとして「喫水線」は捉えられる。「喫水線」シリーズの画面上部に向けて尖った弧は舳先の様であり、船を真上から見た形を思わせる。それが角度を変えながらいくつも重なっている。人類がどちらの方向に進むのか占っているかのようだ。注意したいのは画面下方に向かう弧がないことだ。これはもはや後戻りできないということだろう。紙の余白は無限の時空を表わしている。”と図録で説明されていました。ということは、ジャクソン・ポロックや白髪一雄のアクション・ペインティングのような行き当たりばったりではなく、あらかじめこういうものを描こうという大雑把なデザインがあって、それをもとに描く(線を引く)、具体的なことは、線を引いているという実際に任せる。パンフレットのインタビューで菊地は下書きをしないで、ぶっつけ本番に描いているということを言っていました。「線の形象2024-8」がシンプルに線を重ねる求心的な性格の作品であるのに対して、この作品や最初に見た「喫水線2025-7」は遠心的といえ、それぞれの線がそれぞれに別個の個性を主張し、それらが交錯し混じったときに線が変質する。そういう画面を見て、何も考えることなく、感覚的に、きれいだった。さきほど引用した解釈のようなものがあるのかもしれないが、そういうのと無関係に単にきれいだった。ポロックのアクション・ペインティングなどは、一見できれいとは思わないけれど、これらの作品は感覚的にきれいなのでした。
「線の形象2024-1」という作品です。ここまで見てきた作品には水墨画的なところがあると思っていましたが、この作品は、これまで見てきた黄色や赤といった鮮やかな色彩の作品ではなく、黒が主体のモノトーンの作品で、まさに水墨画の趣があります。黒い線の重なりの中に緑色の線が混入しているのがとても異質で、それがかえって黒を際立たせている感じがします。これはパステルかチャコールスティックなのか分かませんが、それで引いた線を指で紙に滲ませて、その部分を薄黒い靄のようになっています。それは、線が枝分かれしていくようにも、線から面へのひろがりのようにも見えます。線は、ただ伸びるだけでなく、その線自体が変質している。モノトーンであるために、そのような線の変化に敏感になることができる。そして、それはまた、その黒い線が引かれた下地の白が、真っ白であること。この白さが、かえって印象的です。よく見ると、この下地の白は丁寧に塗られているようで、この作品は黒い線が引かれているのは、下地の白がしっかりしているからだと思ってしまいます。菊地の線を引くという作品には、白い下地というしっかりとした土台が共通して支えている。むしろ、その白が作品の魅力となっているのではないか、実は、線は下地の白を際立たせるためのスパイス的な意味なのではないかと思ったりもします。
1階の展示室は、他に小さな特別展示室があります。3点しか展示されていませんでしたが、それらはモノクームで線ではなく面による作品で、さきほどとは異なる印象の作品が並べられていました。例えば「線の形象 2017-2」という作品です。白い下地に画面上部に野球のホームベースの角を下にした黒い五角形が隙間なく並んでいます。その黒く塗られた五角形は絵の具が分厚く盛り上がって物質滋養になっていました。展示リストには、炭化珪素と書かれていましたが、粒子状の鉱物が絵の具に混ぜられて、黒く塗ら
れた表面がゴツゴツした感じで、照明の光をうけてキラキラ光っていて、見る位置によってその光るところや光り方が変わってくるので、様々に場所をかえて作品を見ていました。ただし、この黒い五角形はただの面ではなく、パンフレットに作者の説明が、同じところに何度も繰り返して線を引いたものだというのです。しかも、薄い黄色から始めて、水彩絵の具で何層かに重ねた上に、岩絵の具を重ねたものだそうです。つまり、色を重ねていった結果、黒になっていったというわけです。それゆえ、黒といっても深い黒です。そして、前のところで白い下地の魅力に触れましたが、この作品では、白い部分は下地というより、画面上で黒く盛り上がっている部分に対して、白く平らな部分として対立関係にあって、その存在感が強いです。これは下地とか余白といった次元ではなく、黒と白のコントラストが強い緊張関係を作っています。なお、この小さな展示室では、この「線の形象 2017-2」の向かい合って、これを上下に反転したような「線の形象 2017-1」が展示されていて、作品内のコントラストに加えて、作品どうしのコントラストが生まれていました。
ここから階段を上がります。2階には二つの展示室とロビーには菊地による岩絵の具の研究が展示されていました。
展示室2 線の気韻・土の記憶
この部屋入って展示番号1の作品の展示があって、ちょっと安心しました。「円-1」という作品です。展示は展示番号順ではないので、いままで、下の階で最近の作品を見てきたのに比べて、1991年という4分の1世紀前の作品です。まだ、線に専心していないようで、面と線で構成されていて、下の階で見てきた作品のようなスッキリとした感じがなく、印象としては汚いという印象。なによりも下地の白が決まっていなくて、それが汚いという印象を生んでいると思います。
「線の気韻1993-9」は「円」の2年後ということになりますが、明らかに線で構成された作品です。沢山の垂直線が引かれて、その線によって半円形がかたちづくられています。それはさながら萌え出る山というでも言いましょうか。それは、半円形の収まりきれず、そこから飛び出す線がいくつもあることからです。それは、線が伸び伸びした勢いがあるということであり、その反面として粗さがある。線は黒の濃淡や時おり茶色が混じるような色のバリエーションが蹴られていますが、それぞれの線の色がハッキリしていなくて、ぼんやりとして、結局のところ混ざって鈍いグレーに映っている。それはまた、下地の白もすっきりとしていなくて、白と薄い茶系統の色がさまざまな濃さのムラで塗られている。それらが、全体としては汚れているようなきたない印象を受けます。「線の気韻」というシリーズについては、“線の制作を始める前、20代の後半は「何を描くのか」という根本的な問いに立ち返らなければならない時期でした。身につけた知識や技術をそぎ落して現われてきたものはモチーフではなく描きたい衝動だけでした。こどものように自由に線を引くことはあこがれでしたが、美大を出て様々な技術を訓練してきた自分にとって、「こどものように」作ることは少し不実を含んでいるように感じました。自分にとってその思いを昇華できる方法は意気を込めて線を引くことだったのです。これらの在り方はやがて垂直線を重ねていく所作に凝縮し、「線の気韻」に結実していきます。線は絵画の始まりの骨格を持っています。面を塗ることや構成することは二次的なことで、原初の生々しさとどめるためには線のみを使うべきだと考えました。”と図録に菊地自身の言葉がありました。語られている内容は別にして、この当時の菊地には描くということについて、それはすなわち線を引くということについての衝動が高まっていたのは何となく分かり、それが荒々しいかたちで、この作品に表われてきていると思います。
それが隣の大きな作品「線の気韻1993-14」は、同じ時期の作品です。「線の気韻1993-9」に比べると線を線として判別できると思います。それは、たんに線を引くという衝動だけでなく、いかに線を引くかとか、他の線とどのように関係するかの難しさを考えていた感じがします。それは、こちらの作品は白い下地がスッキリしてきて、線がはっきりとしているようになっていると思います。この作品になって、汚いという感じがしなくなっています。
この二つの大作が展示してある壁面から、次の壁面に移ると「五十部の細道図より(冬)」という2007年の作品です。「線の気韻」が隙間なく引かれた垂直線で構成されていたのに対して、この作品では、線というより墨痕という感じで、むしろ余白が多く、その余白の方が雄弁な気がします。抽象的な水墨画といった印象です。会場でパンフレットの中で、この作品について、“五十部(よべ)というのは足利市五十部町で、その山の方をイメージしています。こどもの時に歩いた山に続く道をイメージしています。山道を登ってゆくとそのうち道がどんどん細くなって最後は獣道のようになる。今では人が歩かなくなって、道がなくなって途絶えてしまう。そんな場所を想起しています。”という菊地の言葉がありました。ただ、この作品をみていて、山道をイメージすることはできませんでした。まあ、そういうことは見る人の自由なのですが。
「土の記憶 2010-51」も大きな作品です。「土の記憶」シリーズについてはパンフレットの中で“「線の気韻」は垂直線を規準にした作品群ですが、その後の「土の記憶」は、半分画面に任せるような制作方法をとっています。例えば重力に任せて絵の具を流す行為は、意思を込めて線を引く行為と、そこから離れて勝手に絵ができていくことの両方が混ざり合った世界を作る試みでした。”と語る菊地の言葉がありました。絵の具が流れたり、滲んだり、かすれたりといった偶然の、計算外の要素も尊重するということでしょうか。この作品では、たしかに垂直線ではなく、斜めの曲線で、しかも途中で屈曲し、そこから曲線の半径が変わります。全体としては上からお椀型で途中で屈曲し二段階に裾が広がるようなかたちに結果としてなっています。そこで引かれている、それぞれの線は、それぞれにかすれたり、滲んだり、むらになったり、絵の具がこぼれてしまったりと、それぞれです。その結果、それぞれの線がそれぞれに違っていることがハッキリし、それぞれの線に個性があり、それぞれが存在していることが分かり、それが画面大きな変化を作り出しています。そのように、それぞれの線が際立つことで、画面上で線が混じっても汚いという感じがしなくなり、画面がスッキリした感じが強くなり、キレイになり、全体に静けさが生まれたと思います。海外の人が見たら、“禅”という言いそうです。
展示室3 3.11以降・線の形象(古民家に棲む)
ロビーを隔てて向かいの展示室に移ります。展示室に入ると左手に、仕切が設けられ、その内側は床の間や窓が設けられた民家風にしつらえてありました。展示室を右手に行った奥には、インスタレーションが置かれていました。
入ってすぐ右には「線の形象2012-9」という横に細長い小品。「線の形象」シリーズについて、図録に“これは、「同じ行為を繰り返す」ということが意識の上にあったんですね。3.11の震災がきっかけだったんですけれども、日常になぞらえて同じ行為を繰り返していく。ただ垂直線を何本も引くとか、同じ刷毛で同じ場所に色を重ねていくとか、そういったことをやり始めました。少し刷毛を斜めにして、横に並列で何本か線を引くと、不思議なことに、かつてこのあたりにたくさんあった裁縫工場みたいなものに見えてくるんですよ。自分では全く無意識なんですけれども。言われてみれば、確かに三角屋根の裁縫工場に見えます。あるいは、二本目の線を反対にひっくり返してみると、まるで家の形になったりします。家は意識していないですけれど、形っていうものは何か線を一本引くことによって生まれてしまうというか、絵画にそういう力があるかなと思いました。”という菊地の言葉がありました。この作品は、ここで語られている三角屋根が5つ並んだ作品です。たしかに、他の展示作品に比べて規則正しい感じはしました。しかし、とはいっても幾何学的な図形のようになるわけではない。そこから外れる偶然的なところがあるため、形の輪郭はどこかぼやけています。その変化を楽しむのか。ただ、これまで菊地の作品を見てきて、本人の言葉や方法論とは別に、この人の作品の魅力は、スッキリとした線の切れ味にあると思いました。展示されているすへての作品がそうだとは言えませんが、この作品も、そうではない方の作品です。
続いて、「土の記憶2011-30」という作品は縦の線が印象的です。真ん中の太い縦線は、途中で何度も絵の具を注ぎ足したのか、節のある竹のように見えます。その横には縦線がいくつも枝分かれした、まるで広く枝をはりめぐらせた広葉樹の老木のようです。その隣は絵の具を滲ませた紙を縦長に切ったものを貼りつけて、それは白樺のようにも見えます。反対の右半面は、大きく余白が取られていて、展示された作品の中でこれほど樹木という具体的なイメージを思わせる作品はないと思います。まあ、結果としてそうな風になったというものなのでしょうが。
展示室の係のひとに、仕切の中に入って下さいね、と促されて、仕切の中に入ると、狭い部屋で、四方を作品に囲まれるようでした。
入って右手には「線の形象2018-21 四方四季より「夏」」という作品は、緑色が鮮やかで、その緑色の線が勢いよく伸びていく感じが、爽やかな印象を受けます。線の切れ味が前面に表われた、とても魅力的な作品です。この作品との向かいの壁には「線の形象2018-16 四方四季より「冬」」があり、「線の形象2018-21 四方四季より「夏」」の爽やかな軽い線とは対照的に、同じところに同じ行為を繰り返した、軽いに対して重い感じの作品です。私は、菊地の作品の魅力は線の切れ味にあると思いましたが、おそらく、菊
地の作品にはその反対の二つの面があるのだろうと思います。現役バリバリの人のようなので、これからも作風が変化していくようなので、あまり断定的になるのはよくないでしょう。
エアコンが強すぎたのには閉口しましたが、静か、というより閑散としていて、落ち着いて、誰にも邪魔されることなく、作品を見ることができました。