探幽3兄弟展
 

 2014年3月19日(水)板橋区立美術館

都心でのセミナーが早く終わったので、かねてから行ってみたいと思っていた板橋区立美術館に寄って見た。公立の美術館でその方向でコレクションがあって、意欲的な企画展を何度も行っているという評判をきいていたところ、ちょうど、この前、出光美術館で狩野探幽を中心とした江戸狩野派の展覧会を見て面白かったので、格好の機会と思ってのこと。高島平という場所は多摩地区からちょっと面倒臭いところだし、都心から寄るのにもちょっと距離がある。だから多少構えていくぞ、という決意、というほどのこともないが、そんなことが要る。立地は公園の中に在って環境としては悪くないのだろうけれど、都営三田線の終点というのが、都営三田線自体が縁遠いし、終点までは結構ある。そして、駅から首都高速の車の騒音を横目にしばらく歩かされる、とやっぱり行きにくかった。

狩野探幽をはじめとする3兄弟についてと、その3人を取り上げた展覧会の趣旨については、主催者あいさつで次のように述べられています。「狩野探幽(1602〜1674)は狩野永徳の孫にあたり、徳川幕府の開府とともに狩野家の本拠地を江戸に移し、狩野派の画風を一変させて新しい様式を確立した江戸初期の巨匠として知られています。探幽については多くの先行研究や展覧会の開催により、その画業が明らかにされつつありますが、探幽には二人の弟がいて、3兄弟で徳川幕府の御用を勤めていたことは、現在あまり知られていないのではないでしょうか。探幽の五歳年下の弟は尚信(1607〜1650)、十一歳年下の弟は安信(1613〜1685)といいます。探幽・尚信・安信の家系が、後に奥絵師四家と呼ばれる体制に結実するため、江戸時代の狩野家の始点となる3兄弟の存在は非常に重要であると言えます。しかしながら、尚信・安信」の画業は探幽の陰に隠れ、これまでほとんど紹介されていません。本展では、探幽・尚信・安信の作品を一堂に展示することで3兄弟の画業を明らかにし、江戸狩野派の成立期にそれぞれが果たした役割を具体的に検証します。」これは、主催者あいさつの一部ですが、昨年の出光美術館の『江戸の狩野派展』の従来粉本主義と批判されてきた狩野派を江戸狩野派の端緒に遡り模倣と創作の意味を見直すという焦点を絞ったものだったのに対して、こちらは江戸狩野派の実質的な創始者である3兄弟のうち、とくに長兄の探幽の陰に隠れがちな他の2人を紹介しようというものと言えます。ただ、惜しむらくは、作品の保存状態によって見にくくなっているものもあって、私には折角の展示を十分味わうことができなかったということと、彼らの奥絵師としての表向きの作品として襖絵などは城郭や寺院と一体不可分であるため取り外して美術館に展示するというのが難しいのでしょうから代表作と言われるものを集めにくいというもあるのではないかと思います。そしてまた、この美術館の建物は意匠を凝らした設計ということなのでしょうが、作品を展示するということには非常に使いにくそうで、展示に苦労しているのが見て判るほどで、それほど多くの作品を展示できないということもあると思います。まあ、前期と後期で展示替えをすることになっているそうですが、私のような一度訪れるだけでも、多少の決意を要する人間では、前後期ともに訪れることは望むべくもなく、それらを考えると残念な展覧会ではあったと思います。

展覧会のチラシを見ていただけると面白いと思いますが、3人の画家の描いた虎を並べて、それぞれの違いと特徴を比較することによって見分けられる試みをしています。真ん中の大きくスペースをとったのが長兄の探幽の描いた虎で、右下が次兄の尚信の描いたもの、これは探幽に比べるとユーモラスに見えるほどに大胆にデフォルメが施されています。そして左上の虎が末弟の安信の描いたもので、一番省略やデフォルメが抑えられて細部が詳細に描き込まれているように見えます。そのような印象をベースに具体的に作品を見ていきたいと思います。展示は章立てされていたと思いますが、狭いスペースに限られた作品を工夫して展示しているのを、とくに章立てを意識して分けて見ることはしなかったので、兄弟それぞれに分けて感想を述べていきたいと思います。  


 第1章 狩野探幽  

狩野探幽に対して、昨年の出光美術館で何気なく見た『竹林七賢』の線の卓抜な処理と地と図の特徴的な使い分けという個性的な作品に衝撃的な出会いをしてしまったので、今回、かなりの期待をもっていました。期待が大きすぎたのでしょう。展示替えのタイミングもあったり、そもそも狩野探幽の作品を多数集めること自体がたいへん難しいことではあるのでしょう。南禅寺にある『群虎図襖』(上図)というのは有名な作品らしく、今回の展覧会チラシにも使われているようで、大作といえるものでしょう。しかし、傷みが進んで、私のような日本の絵画を見慣れていない者には、中心の虎の部分など絵の具が剥落してしまって、探幽の作品の生命線と私が思っている線が見えなくなってしまっているので、がっかりというのが正直な印象でした。襖に貼られた金箔の上に描かれているようで、絵の具を乗せなければいけないせいなのか、ベッタリと絵の具が塗られているようで、まるでペンキを塗りたくったような感じでした。多分、年月の経過で表面の絵の具が剥落してしまって、筆の手触りが感じられなくなっているのかもしれません。私には、この絵を見るには、この絵が描かれたころを想像できる知識や想像力がないと、この絵の素晴らしさを味わえないように思えました。

『富士山図屏風』(右図)は、『群虎図襖』ほどの傷みは表面化していなかったのですが、手前に久能山の東照宮をキッチリと描き込んで、後景で富士山が望まれるように薄ぼんやりと描いて対照を味わう風情ということなのでしょうか。それにしては、手前の久能山を描くのにキレがないというのか、精緻に描き込むのでもなく、大胆に線を工夫して印象的に描くでもない、中途半端な感じを持ってしまいました。というよりも、正直なことを言うと、これ以外にも、数点の作品が展示されていましたが、今回見た探幽の作品は、印象が残っていません。素通りしてしまったというのが正直なところです。もとより、これは私の個人的な印象です。私には、この後に展示されていた尚信と安信の作品を見るための序章のようなもの程度のものでしかありませんでした。このへんが、私が日本の絵画を見慣れていないせいかもしれません。しかし、出光美術館で見た、あの圧倒的な探幽はどこへ行ってしまったのか。 


 第2章 狩野尚信  

さほど広くない展示室で、痛々しい状態の狩野探幽の『群虎図襖』に唖然とした隣、狩野尚信の『雉子に牡丹図襖』(左図)が展示されていました。『群虎図襖』に較べれば、まだましな状態のようで、痛む前の状態を想像して見るというのは、私のような知識教養のない人間にとっては、いささかつらいものでした。金箔の地に絵の具を定着させるように塗っていくような、このような作品では、以前に出光美術館で見た狩野尚信の特徴的な墨線のダイナミックな動きを見ることもできません。板橋区立美術館というのは狩野派のコレクションや展示を意欲的に行っていることらしいし、今回の展示もその一環ということであろうとすると、この展示は代表的な作品をピックアップしているのだろうと思います。とすれば、私が狩野探幽や尚信に対して注いでいる視点は、多分ズレているのだろうと思いました。別に、私個人が勝手に、好きなように作品を見ているだけなので、それはどうということではないのでよいのですが、自分の視点というのが、何となく、少し見えてきたように思えました。それは、もしかしたら、今回の展覧会での最大の収穫だったかもしれません。

それで、『雉子に牡丹図襖』を見直してみました。多分、私が以前に見た視点では、見えてこない、この作品の魅力があるのかもしれません。ここで、参考として右図の京都二条城の障壁画を参照していただきたいと思います。下の桜の花の前に柴垣があって雉子が配されているのは、尚信の代表作とされているものだそうです。(今回の展示にはありませんでしたので、あくまでも参考)これを見て、真っ先に気が付く面白さは、上下の構図がよく似ているということです。上の松の枝振りと下の桜の木と雲形のおりなす形象はそっくりです。それを飾る場所の違いや意味づけの違いなどによって、似たような形象でも内容が変わって来るということでしょうか。上の大胆で力強い印象に対して、下は繊細で落ち着いた印象ということでしょうか。その下の方で尚信は、落ち着いたといっても、静的な中で、柴垣とか雉子とか様々なアクセントを施すことで動きを与えるとともに、装飾的な豪華さも生み出しているといえます。

そういう二条城の襖絵に比べて、この『雉子に牡丹図襖』は南禅寺金地院という禅寺の襖絵ということで、求められる機能も異なって来るのでしょうが、構図が二条城と違った意味で工夫されたものになっていると思います。その二条城のものと較べれば、この『雉子に牡丹図襖』の特徴がよく分かってきます。まず、画面の構成要素が極端に少ないということ、そして大部分が余白になっているということ、そして、色彩がかなり偏って使われているということでしょうか。画面左下から右上へ対角線を引くと、対角線の左上はすべて余白になって、右下の部分のみに描かれているという偏った構成が取られています。しかも、一番右側の襖に牡丹と岩が配され、牡丹の花の薄いピンク色や葉のグリーンの鮮やかな(当時は鮮やかだったのだろうと思います。今は色褪せてしまっていますが)色は、右側の襖に集中しています。そのため、参考で見た二条城がそれなりに左右でバランスが図られていたのに対して、この『雉子に牡丹図襖』は意識的にアンバランスな構成が取られています。題材が牡丹の花と一羽の雉子というスタティックなもので、背景も省略されている抽象化された画面の中で、ややもするとスタティックになってしまうところを、構成をアンバランスに偏らせることによって、余白の部分が目立ってくることになり、何やら訳ありに見えてくるのと、余白と描かれている部分が対立的な緊張関係を生み出してくるように思います。それだけでなく、右側の襖に鮮やかな色彩を集中的に投下することで、構成のアンバランスを色遣いでさらに煽って、緊張感を際立たせています。そうなると、画面のとしては静的なものであるのに、ピーンと緊張感が張りつめたような印象となってきます。それは、寺院という落ち着いた空間でありながら、精神修行という緊張を絶えず迫られている場所であるという特性に適した雰囲気を作り出している、と言えないでしょうか。さらに、例えば、一番右側の襖では、柔らかな牡丹の花を鮮やかな色彩で装飾的に描くその下側には、骨法によりゴツゴツした肌触りの岩が、苔むすような渋さで、まるで牡丹の鮮やかさを打ち消すように配されて、両者の対立的な緊張関係が形づくられています。また、真ん中左の襖で雉子のポーズが逆S字になっているのに対するように水流がS字を形づくって、両者が対峙するようになって対立関係を作り出しているなど、大きくは画面構成での対立関係から細かい部分まで対立関係が重層的につくられて、その積み重ねが画面全体として緊張関係を作り出しています。それを考えると、尚信という画家の魅力のひとつに画面の構成力ということがあるのかもしれません。

このことは、最初に私が述べた尚信の魅力である墨線という、画家が筆で一瞬の線を引くという肉体的な技量の修練と、一瞬の技によってきまる、いわば即興的な要素とは、全く逆の、知的で論理的な計算による画面構成という尚信の特徴というものを認識させられた、ということでしょうか。しかし、このことは、逆に予め構成を考えるためには、各構成要素の組み合わせという要素が強くなってくることや、頭で考えていくことはパターン化に陥る危険が高くなる恐れがあります。そのことは、後に狩野派に冠される“粉本主義”という批判が生まれる素地にもなっている可能性も考えられなくもありません。そういう危うさが、実は探幽にはない尚信の魅力なのかもしれません。

 

尚信は、上記のように金箔を施した上に彩色するような作品よりも、墨一本で勝負する水墨画のほうに真骨頂があるのだろう、というのが私の印象です。ここでの展示も水墨画点数の方が多かったことから受けた影響かもしれませんが。しかし、私には、以前に出光美術館での展覧会でみた尚信の水墨画に比べて、今回展示されていたものはピンとくるものがありませんでした。『西湖図屏風』(右図)は中国の有名な景勝の風景を描いた伝統的な画題で、パターンは確立されているものではないかと思いますが、これは、そういう伝統をお勉強しています!という作品として、私には見えました。当時の尚信は、職業としての画家で注文があれば、それに応じなければならないので、そういう注文があったということではあるのでしょう。たしかに、墨線の千変万化とも言ってもいいヴァリエイションの多彩さは、彩色を抑えたことで際立っていて、尚信の線を堪能するのに余りあるものとはなっています。とくに、岩峰や建築物を描く線は力強く、ゴツゴツした雪舟の骨筆の肌触りを感じさせつつも奔放さをコントロールしてカチッと決まっているという洗練を加えたものと、遠景や水辺の墨がにじんでぼかしたり紙にフェイドアウトするように輪郭がうすまっていくものとが、対比的に計算されたように構成されているところなど、見どころの少なくない作品です。でも、上の『雉子に牡丹図襖』のようなパターンからいったん飛び出してしまうような奔放さがありながら、結果的にパターンになっている、というのか新たなパターンとなってしまっているような、形式に対するダイナミズムを、この『西湖図屏風』からは感じることはできません。

そういう、私が尚信の魅力と思っているものを感じさせてくれたのが『山水花鳥図屏風』でした。残念ながら、画像はありません。大胆に余白をとっている、というよりは地の部分がほとんどで、点景のようにところどころに何かが描かれているという感じで、手抜きか?と思えてしまうほど。多分描かれているのは、流水と岩とそこにしがみつくように生えている樹木と数羽の鳥なのではないかと思う。というのは、私には正確には何が描かれているか判然としないところがあるからで、それよりも、尚信の筆致というのでしょうか、墨が滲み、跳ね、引かれ、というように墨の軌跡の縦横さに翻弄されるようです。それは、抽象画に近い様な感触でしょうか。筆で墨を即興的に紙に乗せ、滲ませた奇跡を、鳥だの流水だのに後でこじつけた、とでも想像してしまいそうなもので、結果として山水画になっている、と私には見えてしまう作品です。それだけに、私には尚信らしさが全開と思えるものです。ただ、ここでは奔放過ぎというのか(私は、そういうのも好きです)、結果的にできたものがひとつの新たなパターンになっているというような、形式と奔放さのせめぎあいとそこから生じるピリピリとした緊張感というはなかったのでした。たとえば、点景のように描かれた部分がバラバラで、例えば流水がメインとしてその流れに沿って岩や樹木があるといった全体としての一本の筋のようなものがない。それで、一般的な説明では構成が弱いというような評価が書かれていました。


 第3章 狩野安信  

この展覧会では、この狩野安信の作品展示が3人の中で相対的に力が入っていたのではないかと思います。昨年の出光美術館の展覧会では狩野探幽と尚信の紹介に比べて、安信はその後の狩野派という中に入ってしまうような感じで、二人の兄に比べていささか影が薄かったようでした。こんかいの探幽3兄弟展の解説の中でも、狩野安信という人は、創造者というよりは教育者とか狩野派という団体の組織のオルガナイザーとして才能を評価しているようにも見えます。画家兼教育者として、後に粉本主義と揶揄される狩野派という集団の形式的な絵画様式の端緒をつくるような働きをした反面、創造性よりも前例を生真面目に勉強し、その成果を誠実に作品にまとめ上げるという、悪意で言えば、ちゃんとしているが、面白みの少ない、というイメージで語られているようでした。それは、歴史的に見て、探幽や尚信と安信との間の年齢的な開きが、画家として生きた環境を分けたということが大きな理由の一つのようです。探幽や尚信の生きた環境は、狩野永徳の死と安土桃山から江戸へという時代の大きな変化のなかで、永徳の様式の画風が次代の変化に取り残されていき、新たな為政者である徳川家に取り入るために、新時代に適した画風を模索して中で自らの画風を獲得していったのに対して、安信が画家としてスタートして時には、狩野派の地位や体制は固まりつつあって、安信は兄たちのつくった道を歩くことができたという大きな違いです。ただし、そのようなことは私が展示されている作品を見る限りでは、作品からそうであるということを看取することはできませんでした。そのようにして見れば、そう見えてしまう、私には、その程度しか絵を見る力はありません。そのことは、ここで断っておきたいと思います。

『源氏物語 明石・絵合図屏風』(左図)という作品。丁寧に一筆たりとも忽せにしないという感じがします。几帳面に手を抜くことなく描き込まれていて、建物の描き方など、まるで定規で線引きした設計図のようです。茅葺屋根の萱の一本一本までチキンと描かれているようで、彩色も鮮やかで、人物もそれぞれに丁寧に描かれています。また、花咲く花びらの一つ一つや草木の草や葉のひとつひとつまでも丁寧に描かれています。とはいっても、そのような細部にまで描き込まれている割には、画面全体がスッキリしているのは、多分安信という人のセンスの良さ、構成力なのでしょうか。これを実際に屏風として部屋に飾った場合に、それほど自己主張することもなく、部屋や場の雰囲気をそれとなく華やかで落ち着いたものにするような効果をあげる助けになるのではないかと思います。現代の絵画という視点でみると、安信という画家の個性が分からない、ということを考えてしまいますが、調度品というような感じでみると、良質なものといえたのではないかと思ったりします。ただ、正直にいえば、今回の展覧会にしても、狩野探幽、尚信と3人の展示だから、わざわざ見るために出向いてきたのであり、狩野安信の展覧会ということであれば、とくに見に来ようとは思わなかったと思います。今回の展示を見て、そう思いました。


 

【参考】狩野3兄弟と狩野派

展覧会の展示とは直接関係あるものではありませんが、私はこういう絵画作品に疎いため、少しくお勉強してみました。もとより、直接作品に触れるということが大切であって、下手な予備知識は偏った予断を招いてしまうという考え方もあるでしょうが、虚心坦懐に作品に向き合うということそのものの底流にあるイデオロギー性を私は感じていて、それに対して不信感を抱いています。そのことに関してはこちらで考えを述べているので、興味のある方はそちらを参照してください。

で、簡単に狩野探幽らの3兄弟の属した狩野派という集団の絵画というの、どのようなものかをまとめてみたいと思います。右図の狩野派の系図を見ると、始祖とされている狩野正信は生没年からすると東山文化の時代に活躍したことが分かります。日本史の復習ではありませんが、東山文化の代表とされるものの一つが京都東山の地にある銀閣で、絢爛豪華な北山文化の金閣に対していぶし銀のような渋さというのか、“わびさび”のような幽玄な文化という特徴があったと言われています。絵画においても貴族文化をベースにしたやまと絵の装飾的かつ濃彩の屏風ではなく、禅宗を影響のつよい峻厳な山水の水墨画が、そのような気風に適合したものだったと言えます。しかし、水墨画の本場である中国で制作されたものは、掛軸のような体裁であったので、これを日本の事情にあわせて屏風や障壁画に翻案したいというニーズが潜在していたといいます。そこで、そのニーズを掘り起し、応えたのが狩野正信で、その手法を大成したのが次代の元信ということです。

彼らは、単に中国の水墨画を屏風や障壁画に置き換えることだけにとどまらず、武家の心情を取り込んだ方法を編み出していきました。その方法とは端的に言えば、雪舟を代表とする水墨画の花鳥図(左上図)と土佐派を代表とする室町期末のやまと絵(左中図)を合体融合させたものでした。その代表例が、狩野元信の「四季花鳥図屏風」(右下図)と言えます。雪舟は独特の力強い筆致による線で花鳥を描き、そこに微かに彩色したものは、禅画の堅苦しさが残り、新たな時代を切り開いていく武家には保守的なものに映ったといいます。他方、土佐派の伝統的なやまと絵を装飾化し金地を背景とした屏風は、新しい花鳥図の息吹を宿していましたが、貴族的で武家の趣味には必ずしもそぐわないものと言えます。そこで、狩野正信と元信は、雪舟の骨筆用法の花鳥図を描いた上に、鮮やかな彩色を施した装飾画を創り出したといいます。これは、当時の狩野正信や元信は新興の、囚われるほどの伝統を持たなかったがために、大胆な試みが可能になったと言えると思います。狩野元信は、これを金碧花鳥画として発展させ、豪奢で祝祭性に溢れた屏風を制作し貴顕や豪商の好みに適うものとなっていったといいます。

そして、この方法を一層大胆に、極限まで推し進めたのが狩野永徳だったということができます。彼が描く奇々怪々とも言える独創性の高い大作は、乱世から天下統一に向かう新たな時代の力強い息吹にマッチしたもので、狩野派のライバルである長谷川等伯と言った人も、狩野派の絵画を前提に、それを批判しながら自身の画風を確立していくといったような時代のスタンダードの地位にあったといえると思います。

しかし、時代は徳川幕府の成立から安定期に移っていくことになります。時代の変化の中で、狩野永徳の豪放な作風は取り残され、急速にすたれていくことになります。その中で、狩野派の次の世代の人々は、漢画の筆法と大和絵の濃彩との融合になるものとは言え、ともすれば漢画の筆法が勝ちすぎるきらいのある永徳の作風を、筆勢を控え奥行きのある画面構成に誘導しようすることで、新たな時代への適応を図っていったと言います。これは、当時の彼らにとっては大幅な路線変更を迫られるもので、苦しい試行錯誤を繰り返したといいます。そして永徳の長男で探幽3兄弟の伯父である光信の高弟狩野興以が、障屏画において幾何学的構図(左図)を考案します。これは、永徳の様な名人芸的筆勢により、をはみ出さんばかりに伸長する樹木のエネルギーを絵画表現する時代から、むしろ分をわきまえた中に洗練と調和の妙を発揮すべき理知の時代が来るとの考えのもとに生み出されたものです。

このような中から、狩野探幽が登場してくるわけです。

 

 
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