小林ドンゲ展 ファム・ファタル(妖婦) |
2019年12月13日(金) 佐倉市立美術館
いかにも地方の田舎の駅前から一本道の歩くと、坂道をのぼったところに、明治か大正時代の洋館建築の事務所といった感じの、少しいかめしい感じの建物が、その美術館だった。画像の建物は玄関ロビーのようになっていて、小さな扉を開けて入ると、人気のないロビーになっていて、そこから、もうひとつ扉を開けると、受付のある1階ロビーに入る。入りにくそうな感じはするが、内側は外観とは違った、地域のコミュニティ・センターみたいな雰囲気で、そこに美術館が入っているという感じ。親しみやすいというのだろう。平日の昼過ぎということなのだろうか、展示室にはいったら、私以外に誰も客がいなくて、係員の人が何人かいて、監視されているような感じで、ちょっと緊張してしまった。しかし、それだけに、作品を独り占めできる雰囲気で、こういうのも悪くはない。都心の美術館では絶対に味わうことができない感覚だった。
ちなみに、エングレーヴィングと似た技法にエッチングがあります。これは、銅板表面にあらかじめ防蝕用のニスを塗り、その上からニードル(鉄針)で素描するように描くという技法です。鋭いニードルの先端によって防蝕用ニスがはがれ、酸の中にいれると、描線部分だけが腐蝕し凹線となって現われるのです。この線の溝は丸くざらざらしたものとなり、線の周囲もビュラン刻線のような緊張した厳しさはありません。その結果、どちらかといえば温味のある線となります。これは、エングレーヴィングのように直接銅板を彫るのではなくて、酸によって銅板に溝をつけるというものです。したがって、エングレーヴィングのような、鋭くて滑らかな線を引くことはできませんが、自由な筆遣いのように線を引くことができるので、線描による細かな陰影などは、こちらの方が勝っているといえます。昨年、八王子で見た清原啓子は、このエッチングを駆使して細密な画面を作り上げました。 そういうことを踏まえると、小林の作品は、エングレーヴィングといいう技法で、はじめて可能によるような特徴的な線を中心に作品の画面をつくり、デューラーが陰影とかいうように絵画に近づけるように努力したのとは違って、線の主張が強い、線によって作品が成立するような、線画ともいえるような方向に進んでいったところに、小林という作家の独自な個性があると思います。
「枯れゆく花」(左図)という作品です。この人の最大の魅力は線にあると思います。その多様な線のバリエーションは、このような初期の作品からすでに持っている。最初から、完成した部分を持っていた人だったと思います。例えば、太めの肉感的な艶めかしい線で描かれた両手。とくに、細く長い指。一目で女性の指と分かる、このような指は、この人の描くものの性格を表していると思います。しかも、この指は、この線とは切っても切れない。もしかしたら、この線であるがゆえに、このような指を描かざるを得ないといった感じもします。この線には入りと抜きがあって、曲線のふくらみに太みがある、そこに官能的な肉体性があります。まるで、日本画の筆で引いたような繊細さです。あるいは、萩尾望都や一条ゆかりなどといったマンガ家の少女の内面まで表してしまうような官能的で繊細なペンの線の方が、私には身近かもしれません。そういう線を、筆やペン
「沼の花」という1958年の作品。同じタイトルで他にも、数作ありますが、実はオロディン・ルドンが同じタイトルの版画作品を制作していますが、これ 堀口大學の詩集『夕の虹』の挿絵のために1957年に制作された版画から「マスク」という作品。この詩集は、堀口大學がフランス象徴詩を翻訳して紹介した壮年期を過ぎて、老年となって自身の人生を振り返って、つぶやくような作品が含まれた詩集で
小林は、『雨月物語』を何度か題材にして作品を制作しています。“世の中の不思議なこと、自分のこうして生きていること、また死後の世界の不安など、考えても考えてもわからないだらけのそんな私が、エドガー・アラン・ポーや上田秋成にひかれていったことは、当然だといえます。けれども日本人である私には、訳されたポーやワイルドの文学の美しさより、ごく自然に雨月物語の幽婉な美しさに引かれていきました。”という本人の言葉があるそうですが、あるいは“雨月物語のなかでも私のことに好きなのは世紀末的愛欲を感じる青頭巾です。非常に悪魔的で現代に息づいてい
小林は1964年に渡仏しました。もともと、版画の師匠である駒井哲郎は抽象的な傾向の作家で、彼が国際的に評価されると、それがトレンドとなっていきました。「昨日まで林檎を描いていた仲間が、いとも安易に抽象に転向して、造形性の追求などと唱えはじめた」そのような仲間から「軽蔑の目で見られるような絵を描き続ける自分は間違っているのかもしれないと思うようになり、自信を喪失」してしまいます。落ち込むドンゲに、堀口大學と小林の両親は、それならば思い切って海外へ行ってみたらと勧めます。パリでの滞在中は長谷川潔が身元引受人となってくれたそうです。長谷川潔は、パリでメゾチントという古い版画技法を復活させ、古風で静謐な独特の具象作品を産み出した版画家です。そので、小林はヨーロッパの版画を学び、伝統的な西洋絵画を浴びるように目にしたのでした。そこで、小林の作品世界は大きな広がりを見せるのです。それは、帰国後の「オフェリアの花」や「マドモアゼル」といった作品に早くも現われます。それまで、線の絵画で、作品画面は平面的だったのが、にわかに立体性を帯び、描かれた女性が生々しくなってきたのです。 版画集『雨月物語』は、1970年頃のようです。例えば「死は見つめる 浅茅が宿」という作品を見ると、同じ浅茅が宿でも、1963年の作品とは大きく異なります。画面全体のデザインがそもそも違うし、印象も異なります(二つ並んだ画像の左が1963年の作品で、右が1970年の作品です)。おそらく、この二つの作品の間には、1年半にわたるヨーロッパの滞在がはさまっているので、それが原因となっているのかもしれません。そのことは、後で触れようと思いますが、この1970年の作品は安定感というか落ち着きが増しているように見えます。女性に、存在感とまでは言えませんが、それまでの二次元的な、いかにも絵という女性像に比べて、人間的なものが感じられるものとなっています。例えば、相変わらず目は切れ長ですが、顔からはみ出してしまう極端さはなくなり、人間の目の範囲に収まっています。鼻も線の鋭さがなくなって小鼻まできちんと描かれています。画面のそれぞれのパーツを描く線の明確に区別できるほど違っていたのに、その区別がつきにくくなり、かえって線が統一された感じがします。以前はそれぞれ線が違っていたのに対して、ここでは一つの線の変化のような感じです。それゆえに多元的な画面から統一性のとれた画面に変化しています。それが全体として安定感あるものに変わったのではないかと思います。しかし、それにしても上田秋成の『雨月物語』の「浅茅が宿」という話は、戦乱の室町時代、京で一旗揚げようとして失敗し、長年捨て置いた我が家と妻のもとにもどった男が、待っていたのは変わり果てた妻で、変わり果てた彼女と一夜明かしたら、翌日、家は朽ち果て、骨と化したなきがらがあったという話です。この作品の女性は、その故郷に捨て置かれた妻の姿でしょう。それが洋装の上品な婦人の肖像画のように描かれているのです。能のものがたりのような幽玄な物語を、世紀末の耽美で怪奇なテイストの画面にしてしまうのも凄い感性だと思います。
「女と猫」という1975年の作品。展覧会のチラシでは別の作品が使われていましたが、ポスターには使われていました。小林ドンゲという作家を代表する作品であるといって間違いはないと思います。初期の線による平面的な作品と、渡仏によって広がった伝統的な西洋絵画の影響が、この作品で見事に融合して、完成されたスタイルになっていると思います。この作品の女性のポーズや画面の構成は、レオナルド・ダ=ヴィンチの「白貂を抱く貴婦人」に感化されたと指摘する人もいるということです(ふたつを並べて、右が小林の「女と猫」、左がダヴィンチの「白貂を抱く貴婦人」です。)。たしかに、全体として安定して落ち着いた印象が強いです。『雨月物語』や『ポーに捧ぐ』の病的な要素か、気にすれば残滓はあるものの、ほとんど感じられません。女の顔の全体は、尖ったような顎や切れ長の目とか、これまで小林の顔のパターンです。以前の作品では、日本画やマンガのような平面的なパターン
だから、作品の元ネタを探すというのは、あまり趣味のいいことではないかもしれません。また、小川国夫の小説『塵に』に挿絵をいれたうちのひとつが、これはモローのポーズを使っているものがあります。 銅版画集『火の処女 サロメ』から「火の舞踏」という作品です。少し太めの身体で、腹のくびれから腰の広がりといった肉体の曲線が艶めかしい。珍しくエロチックな要素が見られる作品です。この版画集になると、全くと言っていいほど背景は描かれなくなり、余白を大きくとって、シンプルに中心となる人物のみを描き、その人物自体もシンプルに描くようになっています。小林は、銅版画でもエングレーヴィングの技法を中心とすることで姿勢が一貫しています。ところが、過去に、よくエングレーヴィングの技法を用いた画家たち、その代表者がアル
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