ERIC DOLPHY(エリック・ドルフィー)
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エリック・ドルフィー(アルト・サックス)

アルト・サックスを主とするが、フルート、バス・クラリネットも吹くマルチプレイヤー。1928〜1964年カリフォルニア州ロサンゼルス生まれ。

下で紹介しているアルバムの、どの演奏でもいいので聴いてみていただきたい。はじめて人は驚くかもしれない。そこには、このホームページで紹介している他のプレイヤー、例えば、アート・ペッパーでも、ソニー・ロリンズでもリー・コニッツでもいい、ハード・バップ、クール・ジャズなどのスタイルの違いこそあっても、ジャズという音楽であるベースがある。しかし、ドルフィーの演奏は、そういうものが壊れてしまっている、アバンギャルドという言葉のイメージそのままの、「これって、音楽なの?」という感想がでてきても不思議ではない。フレーズはメロディという一般的なイメージには合わず、単に数個の音が続いているだけで、まとまった節に聴こえない(うたわない)。爆音のような音がむき出しでがなりたてている。そこで、かろうじてビートだけが単調に響いている。そんな感じではないかと思う。

それは、ひとつにはドルフィーが活躍した1960年代はじめから半ばという時代状況も影響している。ジャズの歴史でいえば、ハード・バップは下火になり、大衆音楽としてのジャズの人気が落ち始める中で、新主流派からフリージャズといった試みがなされていた。そして、ドルフィーは、そのハード・バップからフリージャズへの橋渡しのようなスタンスにいたということだ。フリージャズなどというと、難解で敷居の高い音楽とか、でたらめでギャーギャーいってるだけの音楽とかいったイメージで捉えられているのではないかと思うが、聴いていただいた、ドルフィーの演奏は、それに近い印象を受けるのではないだろうか。

「そんなののどこがいいの?」素朴にそう問いたくなるだろう。たしかに、ドルフィーの音楽は聴く人を選ぶ、誰にでも受け容れられるというタイプの音楽ではない。

しかし、その演奏の圧倒的なパワーは誰も認めざるを得ないだろう。騒音にしか聞こえない人もいるかもしれないが、それにしても、そのうるささが並外れていることは否定できないだろう。それが、ドルフィーの特徴のひとつを形作っている。

そのひとつの要素として、ドルフィーの音そのもののユニークさがある。例えば、ドルフィーの吹くアルトサックスは楽器が壊れてしまうのではないかと思わせるほどにビリビリと楽器自体が鳴りまくる。そこで響いている音はたとえようもなく硬質で、サックスの音の「芯」だけをそのまま大きくしたような、ギュッと中身の詰まった音。音にゆとりがないというか、遊びの部分がなく、聴いていると切迫感がある。うっとりと身を任せたくなるような心地よさなど微塵も感じさせない愚直なまでにシリアスで、そして、でかい、凄い音圧なのだ。とにかく、音をちょっと聴くだけで、あ、ドルフィーだとわかる個性的な音である。フリージャズのアルト奏者のなかには、演っていることはたしかに難解で、時代の先端を行くような立派な演奏かもしれないが、音そのものが貧弱で、フリーキーにブロウしても、その音が爪楊枝のようにこちらをちくちく刺すだけ、というひとがけっこういる。しかし、ドルフィーの音は太い槍のように我々の心臓を貫くのだ。

そして、メロディになっていない独特のフレーズ。ちなみに、上で説明したようなストレートで心地好さを感じさせない音でメロディをふいても、それに身を任せることができるだろうか。それよりも圧倒的なパワーで力ずくで攻めて来い、といいたくならないだろうか。まさにそうなのだ。あの音で、ビートに乗って、うねるように、巻き込むようにドライブ感に溢れるフレーズが繰り出される。彼独特の咆哮を思わせるような音が跳躍するようにカッ飛んでしまうフリーキーなトーンはデタラメに吹いているように聞こえる。

例えば、ドルフィーがノッてくると、必ず繰り出してくるパターンがある。それは・・・「パッ・パラ・パーラ・パーラ」というデコボコした起伏を持つフレーズで、ドルフィーは、この1小節4拍のフレーズを、それはもう重い音色でもって、何かが弾け飛ぶような感じで、吹き倒す。そしてこのフレーズが出ると・・・その瞬間、ビートが一気に「解き放たれる」ような感じがするのだ。バンド全体の感じているビート感も一気に爆発するとでも言うのか。そしてそれが、本当に気持ちいいのである。聴く者も突き抜けてしまうのである。だから、ドルフィーは決してデタラメに吹いているわけではない。どんなアルト奏者よりも、「きちんと考えて音を選んで、コントロールしたうえで吹いている」からこそできることなのである。サックスを吹いたことのあるひとならわかるだろうが、あんな極端にオクターブジャンプを繰り返すようなフレーズを吹くのはとてつもないテクニックが必要だ。しかもあのすごい音色であのフレーズを延々と吹き続けるのは、まったくもって人間業でない。

ドルフィーのアルトのあのフレーズは、いつまでたっても「慣れる」ということがなく、ひたすら我々の心をざわつかせ、いらだたせ、紙ヤスリでこすられるような不安感、不快感をあおる。ドルフィーの音色もそうだが、ドルフィーのフレーズというのもまた、愚直なまでにシリアスである。ソロの出だしを聴くと、ぎゃはははと笑いだしたくなるような演奏なのだが、しだいに「これは笑っていてはいけないのではなかろうか」と思えてき、だんだん聴いているほうも居住まいを正してしまう……そんな音楽である。

つまり、彼の演奏を聴く者は、聴いているうちに、ドルフィーのデタラメなフレーズのなかに「何か」を見つけて感じとってしまうことになる。同じフリージャズ黎明期の大物プレイヤーであっても、オーネット・コールマンの音楽はどちらかというとわかりやすい。つまり、彼は「そのとき吹きたいように吹く」のであって、言ってみれば、良い意味のデタラメである。そういう気分一発的な演奏というのは、聴く者にとっても、「ああ、もう、わけがわからん」という風にはならず、「なんだかわからないけど、とにかく彼は今、こう吹きたいのだろうな」と納得できる。しかし、ドルフィーの音楽は、どう聴いても、なんらかの楽理に基づいて演奏されているようである。しかし、その理屈がどういうものかさっぱりわからないので、難解ということになってしまう。そこで、ドルフィーの演奏が「何を言っているのかはわからないが、そこには確固としたセオリーが確実に存在していて、音楽総体が発する『意味』は確実にこちらに伝わってくる」という風になっているのだ。

 

 

バイオグラフィー

エリック・ドルフィーは、アルト・サックス、フルートそしてバス・クラリネットにおいて特徴的なスタイルをもった真のオリジナリティのあるミュージシャンだった。彼の音楽は“アヴァンギャルド”のカテゴリーに分類されたが、彼自身必ずしもコード進行による即興を放棄したわけではなかった(コードに対する彼の譜面はかなり抽象的なものだったが)。彼以外のほとんどの“フリー・ジャズ”の演奏が非常に真面目で堅苦しく聞こえるのに対して、ドルフィーのソロは、多くの場合、恍惚と熱狂をもたらした。彼の即興は非常におおきな跳躍、非音楽的で演説のようなサウンドそして彼自身のロジックを使ったものだった。彼が主として演奏したのはアルト・サックスであったが、ハード・バップ以降の最初のフルーティストであり(ジェームス・ニュートンに影響を与えた)、ソロ楽器としてバス・クラリネットをジャズではじめて使った。彼は、(コールマン・ホーキンス以降)伴奏者なしのホーン単独の演奏による録音を行った最初の演奏者の一人で、それは、アンソニー・ブラクストンの5年も前のことだった。

エリック・ドルフィーはロサンゼルスでロイ・ポーター楽団(1948〜1950)と最初のレコーディングを行い、2年間の兵役に服した後、1958年にチコ・ハミルトンのクインテットに加わるまで、ロサンゼルスで無名のプレイヤーだった。1959年にはニュー・ヨークに移り、間もなくチャーリー・ミンガスのカルテットのメンバーとなった。1960年までには、ドルフィーはプレステージ・レーベルに定期的にリーダー録音を残し、ミンガスとの仕事で注目を得るようになった。しかし、彼の短いキャリアを通じて、自身の尖鋭的な演奏スタイルのゆえに定まった仕事を得るために絶えず苦労していた。ドルフィーは、1960〜1961年にファイブ・スポットでトランペットのブッカー・リトルとのセッション、オーネット・コールマンの「フリー・ジャズ」への参加及びマックス・ローチとのセッションという3枚の録音を含めて、その他ヨーロッパでの数枚などかなりのレコーディングを残した。1961年末に、ドルフィーはジョン・コルトレーン・カルテットの一員となった。彼らはヴィレッジ・ヴァンガードで保守的な批評家を前にして長大でフリーなソロの“アンチ・ジャズ”をプレイすることによって、彼らに恥をかかせようとした。1962〜1963年の間、アメリカで、ドルフィーはガンサー・シェラー楽団で第3の流れの音楽をプレイし、自身のグループではめったに演奏しなかった。1964年、彼はブルーノート・レーベルで彼の古典となった『アウト・トゥ・ランチ』をレコーディングし、チャーリー・ミンガス・セクステット(The Great Concert of Charles Mingusで披露するための、おそらく最も刺激的なベーシストのバンド)とともにヨーロッパへ旅立った。彼はヨーロッパにとどまることを選んだ後、数回のギグを演ったが、糖尿病性昏睡で突然なくなり、36歳の生涯を閉じた。

At The Five Spot vol.1     1961年7月16日録音

Fire Waltz

Bee Vamp

The Prophet

 

Eric Dolphyas & bcl

Booker Littletp

Mal Waldronp

Richard Davisb

Ed Blackwellds

 

この録音の少し前に、トランペットのブッカー・リトルが次のようなことを語ったという。「オーネット・コールマンや他の何人かがシーンに登場してきたことはとてもよかったと思う。彼は独自の考えを持っている。つまり、何をすればどうなるかがわかっている。だから、オーネットを批難する人たちの気持ちが理解できない。彼の音楽について論じ合うのはいいと思うけれどね。わたしの場合は、オーネットに比べるとアイディアの面でもっと保守的だ。しかし、彼がやっていることは明確に理解している。そして、それが素晴らしいことも分かっている。やり方さえ分かっていれば、問題など起こらない。純粋に知的な考えに基づいて動く人がいれば、他方では感情にしたがって行動を起こす人がいる。それで、これらの両者が同じ時に同じ場所に到達することもある。思うにバードは、オーネットより演奏面で知的なものを表現していた。オーネットの方は、自分が感じとるものを何でも表現しているように思う。しかし、どちらのやり方も捨て難い」自身やドルフィーについては触れていないが、当然、オーネットと並べて自分たちを位置付けていたと思うし、その後の録音、つまり、このアルバムでの演奏ではオーネットを意識してか、かなりフリーに近いところにいると思う。

最初の「Fire Waltz」のアグレッシブなこと。それはオーネットの柔軟さと好対照かもしれず、オーネットの奇妙さというか、プッと吹き出しそうになるユーモラスなところはなく、ドルフィーやメンバーたちのプレイからはシリアスな熱気がストレートに感じられる。ピアノのイントロから、ドルフィーのアルト・サックスによる“ダララ・ラララー・パッパラー”っていう、ほとんど旋律的な上下動のないリズムだけのようなテーマにブッカー・リトルのトランペットのアンサンブルがちょっとだけあって、すぐに続くドルフィーのアルト・サックスは、テーマと何の関連性も見つけられない音の跳躍をしてからフリーに近いようなソロを始める。ここで、少し脱線するけれど今述べた“フリー”というのは若干説明を要する。ガイドブックやライナーなんかではひとこと“フリー”とか書かれていて、それを表面的に流し読みして分かった気になってしまっているけれど、ここでのドルフィーやリトルのソロで即興的に吹いているフレーズは、ほとんどすべて終止形になっていない断片なのだ。彼ら以前の、パーカーやその他のバッパーたちのアドリブは、原則としてメロディが終わったと聴く者が感じる形、それは調性でいうと基音に戻るという形になるのだが、私たちが会話をしていて互いに自分のしゃべっていることが終わるというのは、言い切りの形をとって、それを相手が分かって、そこで替わって相手がしゃべり出す、そういう決め事のようなものだ。それを音楽では有節形式という。要は節回しが終わったということで、それを聴く者は、その終止形でひとまとまりのメロディと理解して聴いている。しかし時には、パーカーだってそういう終止形にしないこともあるが、それは一時的な効果を狙ったり、ほかの楽器とのアンサンブルでトランペットが引き継いで終止形にしたり、あるいはあえて省略して終止形を聴く者に想像させたりするという捻り技なのだ。だから、聴く者はパーカーが即興的に吹くフレーズを味わったり、楽しんだりするのだ。しかし、ここでのドルフィーやリトルはそういったフレーズを終わらせる終止形をとらずに、投げ出してしまう。だから聴いている者はメロディになっているのか分からない。会話をしていて、相手の話していることが終わったのかどうか分からない宙ぶらりんの状態がずっと続いているのだ。しかも、ドルフィーの凄いのは、そこで聴く者がそのように分からないうちに、置いてきぼりにして、すでに次のフレーズに移ってしまうのだ。この演奏のスピード感は、そこに由来すると思う。しかも、ドルフィーの演奏はリズムが大きく揺れる。こんな演奏ではふつう、音楽として崩壊してしまうはずだ。しかし、そうはならない。だから、この演奏はビンビンに緊張感が高い。現実に演奏が崩壊していないのは、バックのリズム・セクションのおかげだ。パタパタとスネアの音数か多いドラムと、中音域を多用したマイナーコードでリズムを刻むピアノは規則的な繰り返しに終始している。そこにはバップの柔軟なノリはなく、機械的なビートに近い。その規則的な刻みが音楽を形にしている。実際のところ、ドルフィーやリトルはこのビートとは無関係に勝手にプレイしているところがままある。それがこの演奏の自由さであり、かつ音楽としてのまとまりが崩壊しないで踏みとどまっていられるところなのだ。しかし、本当に凄いのは、この後だ。演奏の後半、このリズム・セクションが、ドルフィーとリトルに煽られて煽られてか、どんどん捻れて、限りなくフリーに近い、自由度の高いリズム・セクションに変貌していくのだ。例えば、パルシブなピアノのマルが、捻れながらメロディアスに、限りなくフリーに近いソロを後半で演っているのだ。この演奏が、どうして終わることができたのか、今までに数え切れないほど、この演奏を聴いてきたが、未だに分からない。

2曲目の「Bee Vamp」はブッカー・リトルの曲で、ABACABAという複雑な構成の曲で、小節割りは8-4-8-8-8-4-8になっている、解説されている。例えば、リトルのトランペットとマルのピアノのテーマの受け渡しと伴奏のようなソロのとりあいに、ドラムスのスネアが断片的に挿入してくる。ポリリズムのような重層的なリズム構成などは、リトルの志向性だろう。まるで、近現代のクラシック音楽の精緻な構成をみているようだ。

そして3曲目の「The Prophet」では、ドルフィーとリトルのユニゾンによるテーマから、ベースとドラムのユニットとピアノ間の異なるリズムの作り出す複合ビートの上で、ドルフィーのアルト・サックスが異質と言っても良い。どうやって思いつくのか判らない、思いっきり捻れた、グネグネなアドリブ・フレーズ。この宇宙人的なフレーズを連発するドルフィーに相対するブッカー・リトルのトランペットも対抗するように吹きまくる、意外と端正なリトルのトランペット。この適度に崩れながらの端正さがドルフィーとの相性抜群に進んでいく。

ERIC DOLPHY IN EUROPE vol.1      1961年9月8日録音

Hi Fly 

Glad To Be Unhappy

God Bless The Child

Oleo  

 

Eric Dolphy (fl,bcl)

Bent Axen (p)

Chuck Israels (b)

Erik Moseholm (b)

Jorn Elniff (ds)

 

エリック・ドルフィーがヨーロッパに渡り、現地のミュージャンと即興的にメンバーを組んでライブを行なった実況録音盤。このアルバムでは、ドルフィーのフルートとバス・クラリネットの演奏が収められていて、アルト・サックスはない(vol.2ではドルフィーのアルト・サックスが聴ける)。「At The Five Spot vol.1」のところで、リズム・セクションが規則的なビートを刻んでいると書いた。しかし、このときのメンバーは黒人のジャズの柔軟なリズム感覚が身体に染み付いている人たちだった。そこに無理が生まれ、それにドルフィーは満足できなかったのではないか。ところが、ヨーロッパの白人ミュージシャンたちは、異なる音楽的ルーツをもっていて、オーケストラのような個人が規則を遵守しないと成り立たないアンサンブルの伝統に培われている。vol.2もそうだけれど、この一連のヨーロッパでの実況盤では、メンバーは異なっているが、規則的なビートを当たり前のように厳格に刻んでいる。そこで、ほとんどが定速の4ビートだけれど、単なるビートをキープしているだけでなく、その中で様々な変化が認められる。ドルフィーのプレイ自体がビートから自由に離れているし、バックを務めるミュージシャンも誰かがビートを維持していれば、他の人はそこから離れる時もある。それらが複合されることによって、ポリリズミックな響きが、「At The Five Spot vol.1」よりも顕著に聞こえてくるのだ。さらに、このアルバムでは、ドルフィーの静の部分にも触れることができる。

1曲目の「Hi Fly」はドルフィーのフルートとチャック・イスラエルズのベースの2人のデュオ。ドルフィーの思わせぶりなメロティフェイクによる導入部、無伴奏で、芯の太いフルートの音色が軽やかに飛翔してゆくようなフルートのソロに、ベースが後から入ってきて、リズムを刻み始め、テーマメロディとともに演奏に推進力が出てくる。 そしてアドリブパートに入っては、イマジネーション豊かに飛翔していく、まさにエリック・ドルフィーならではのフレーズが後から後から、その足場作りを黙々とこなすイスラエルズの職人気質的ベースワーク。静謐でありながら、厳格にリズムを守るベースは、一種の峻厳さというか精神性すら漂わせ(ドルフィーのフルートがあるからこそなのだが)ている。ドルフィーの楽しげに、だけど適度な緊張感を保ちながら、淡々と綴られてゆく演奏。じわじわと、静かな高揚感が内側から湧いてくる。次の「Glad To Be Unhappy」では、ピアノ・トリオをバックにドルフィーがリラックスしてフルートを吹いている。ドルフィーが優しいメロディが印象的を大切にしたテーマ演奏をフルートで、じっくり聴かせるが、優しいというよりも不気味に緊張感がある、まるで獲物を目の前にして今にも飛びかかろうと息を潜めているライオンの息吹のようなのだ。案の定、しかしアドリブパートに入ると一転、今度は激情迸る展開になる。3曲目の「God Bless The Child」から、バス・クラリネットに持ち替えて、この曲では、無伴奏の単独ソロを披露している。ドルフィーは、この曲の原曲メロディを、おそらくは、わざと出してこない。始めのうち・・・ドルフィーは、なにやら音をまさぐるように、バス・クラリネットの低音域を使ったアルペジオっぽい音階をしつこく続けてくる。そうしてある時〜たぶん曲のサビの部分か・・・ここでいよいよ、高い音を吹く。これが・・・とても印象的で、それまでの低い音域でのファットな音圧感豊かな音色とは違う質感の、ちょっと歪んだような、ノドをキュ〜ッと絞ったような、そんな悲痛な音色なのだ。でも・・・それが効く。静と動。抽象と具象という感じだろうか。そして最後の「Oleo」ではエキサイティングな演奏で締める。

ERIC DOLPHY IN EUROPE vol.2         1961年9月6日、8日録音

Don't Blame Me 

Don't Blame Me (take 2)

The Way You Look Tonight   

Miss Ann (Les) 

Laura 

 

Eric Dolphy (as,fl)

Bent Axen (p)

Erik Moseholm (b)

Jorn Elniff (ds)

 

1曲目の「Don't Blame Me」から、定型的な4ビートをベースに、そこから付かず離れずの揺らぎをもってドルフィーのフルートがミステリアスにメロディを、クネクネ捻り、からみつくようなフレージングで吹いて、後半はグルーヴィなノリを構築していくリズム隊とコンビネーションをつくる。ドルフィーのアドリブのフレーズには飛翔があったりするのだけれど、全体としては隠し味のスパイスを利かせる雰囲気で、ハード・バップの枠を形式として尊重している演奏。よく、初心者向け鑑賞ガイド本などで「At The Five Spot vol.1」を紹介されているのを目にするが、こちらの方がフリーを聴き慣れない人には、受け容れ易いのではないか。2曲目の「The Way You Look Tonight」からアルト・サックスに持ち替える。ここからは、自由に、それこそ重力を自由に操る術を持ったアルト・サックスが縦横無尽に空間をかけめぐる。冒頭からスピード全開でパーカーばりの高速アドリブは瞬時の緩みも感じさせない緊張感と猛烈なエネルギーを発散させる。ただ、この演奏には様式性というのを感じてしまう。アメリカとは異質なヨーロッパの聴衆やメンバーに囲まれて、それまで当たり前のように考える必要もなかった音楽風土とか身体性が異なることを触覚レベルで実感したのではないか。これは、聴いている私の個人的な妄想なので、事実と誤解しないでほしい。ただ、ここには、パロディ感覚というのか、高速アドリブを繰り広げていながら、「At The Five Spot vol.1」のような熱さがなくて、冷静で、むしろ、リズム・セクションとのディスコミュニケーションを感じ、形式的に譜面をなぞるように精確なプレイを続けているように見えるのだ。3曲目の「Miss Ann (Les)」でも、冒頭から全開のスピードで飛ばしていくのだけれど。「At The Five Spot vol.1」で紹介したように、ドルフィーは決してフリージャズに与していたわけではなかったけれど、それに近いところにいたし、事実、そういうスタイルの演奏をしていた。この「フリー」については「At The Five Spot vol.1」で触れたが、それが異質な文化のヨーロッパに来れば、無調のゲンダイオンガクがすでに存在し、セリーという規則までつくられている。ジャズそのものは関係ないかもしれないが、ヨーロッパではドルフィーの演っていることが必ずしも「フリー」でないことに気づいたはずだ。むしろ、アメリカにいたときはそこから抜け出そうとしたバップの方が、ヨーロッパでは新鮮に採られた可能性もあるとおもう。そこで、ドルフィーは自らのプレイに少し距離を置こうとしたように、私には見える。「At The Five Spot vol.1」にあった熱さが、ここではあまり感じられなくて、冷静さが目立つのはそれゆえではないか。ある意味、ヨーロッパという他者と出会って、ドルフィーは自身のフレーズをひとつひとつ確認しているように、ここでは見える。4曲目の「Laura」では、だから、ドルフィーのアルト・サックスが単独で複雑なラセン状の曲線を描くような、単に発散・放射するのではなくて、自身にフィードバックして回帰してくるような音楽をやろうとしたフレーズにように聞こえるのだ。それが、彼の早すぎる晩年に穏やかな音楽になっていく機縁が、このあたりの演奏で聴けるのではないか、少なくとも最初の『OUT TO LUNCH』の自己完結した世界をつくって、他のジャズとの境界を閉めてしまうようなところから、ここで扉を開くきっかけのひとつがあった、と私は勝手に想像している 

OUT TO LUNCH   1964年2月25日録音

Hat And Beard

Something Sweet,Something Tender

Gazzelloni

Out To Lunch

Straight Up And Down

 

Eric Dolphyas,bcl,fl

Freddie Hubbardtp

Bobby Hutchersonvib

Richard Davisb

Tony Williamsds

 

上で取り上げたアルバムはライブ録音で、聴衆を前にした演奏の熱気とか、演奏者の思いもよらなかったサムシングが加わることがあったりとかいったことがあって、音楽が広がっていくことがある。その反面、どうしても会場の受けといったことも考慮しなければならないだろうから、必ずしも演奏について妥協せざるを得ない場合もある。ドルフィーの場合も、「At The Five Spot」では、その演奏の素晴らしさは当然のことなのだけれど、ハード・バップ的なところがあるので、フリーじゃないからという人もいるらしい。

このアルバムはスタジオ録音で、ライブ録音とは全く違ったドルフィーの可能性に触れることができる。ライブ録音と大きく違って、音楽の広がりという遠心的な方向性とは正反対の求心性が色濃く出ていると思う。ライブでは実現不可能な自己完結したような音楽空間、つまり広がっていくのではなくて閉じた世界で空間を埋め尽くそうとするような方向性で、聴く者はまるで母胎のなかの胎児のように空間に包み込まれ、外界から遮断されて、一体化させられていく。空間をシャープに切断するドラミングと、クールに鳴り響くヴァイブが特徴的なサウンドは精緻に計算されて冷静に構成されたもので、そこにドルフィーのアルトやバス・クラリネットのよじれたフレーズが乗ると、世界は「正確無比に狂った時計」のような様相を示し始めるのだ。アルバム・ジャケットのような。

一曲目の「Hat And Beard」合計すると9拍になる複合拍子の分割バリエーションに着想を得た楽曲で、トランペット、バスクラリネット、ヴィブラホンがビックバンド風のバッキングでリズミックにアクセントをつける中、ベースとドラムによって提示される導入部は9/3拍子(333)によって、そして、テーマ部ならびにソロ中は9/4拍子(54)という変拍子によって演奏される。と言われても、何のことか分からないという場合は、試しに最初のところを手で拍子をとってみるといい、途中で手拍子が余ってしまうし、楽器によって違うリズムで演奏しているので、どの楽器に合わせればいいのか分からなくなってしまう。基本的にはドルフィーのソロはリズムにノッているのだけれど、細かなフェイクを入れたりして、その上を自由に飛翔しているようで、そこに独特のひねくれたような断片的なフレーズにならないようなフレーズをブチこんで、しかもアルト・サックスからは想像できないヘンテコリンな音色を出してくる。最初から歪んでいた空間が、このドルフィーのソロで、さらに歪む方向に動き始め、ボビー・ハチャーソンのヴァイブが止めを刺す。2曲目の「Something Sweet,Something Tender」は、弓で弾くベースをバックにドルフィーのソロで始まるが、半音階的な要素の入ったメロディーは20世紀初頭のクラシック音楽の難解で前衛的な曲のようだ。曲中に5/4拍子や6/4拍子が短く挿入される作曲手法、或いはテーマ-ソロ-テーマ後に短いバスクラブレイクを挟み再度テーマに戻るというイレギュラーで多彩な展開といった、一見、スローバラードなのだけれど、冷静に組み立てられている。これって、曲の構成とか、展開はフリーなのかもしれないが、演奏はふりーなの?と問いたくなるような、まるでクラシック音楽のようなキッチリとした演奏で、息が詰まりそうなほど。この後のナンバーも、変拍子のオンパレードで、しかも規則的に刻まれるので、従来のジャズの柔軟なリズムから生まれるグルーヴとかスイング感のような、思わず身体が動いてくるノリとはあまり縁のない、楽譜に設定された拍節を実体化して音楽の構築性を出現させる役割を果たしていると思う。それは、1950年ころのクラシック音楽の作曲家たちが人の感情に訴えかけるようなロマンチックな音楽に飽和して、数学の計算のような知的な構成物のような音楽をつくっていったのと、似ているような気がする。とくに、この作品は、ジャズの肉体性とか即興性を犠牲にしても、音楽をつくるとか構成することの自由さを追求していった、ある意味ドルフィーの想像の中で鳴っている音楽を可能な限り再現しようとしたものとは考えられないだろうか。このエッセンスを希釈したり、一部を抜き取って活用したのが、「At The Five Spot」といったアルバムではないと思える。  

LAST DATE     1964年6月2日録音

Epistrophy

South Street Exit

The Madrig Speaks,The Panther Walks

Hypochristmutreefuzz

You Don't Know What Love Is

Miss Ann

 

Eric Dolphyas,bcl,fl

Misja Mengelberg (p)

Jacques Schols (b)

Han Bennink (ds)

 

試しに、同じドルフィーのアルバムである「OUT TO LUNCH」を聴いた後で、続けてこのアルバムを聴いてみるとどうだろう。変な形容かもしれないけれど、「OUT TO LUNCH」にある息詰まるほどの過激さは、ここでは見られず、比べると一種の穏やかさに包まれているように感じられないだろうか。ドルフィーが亡くなる数日前に録音されたという伝記的なエピソードから、死を前にした諦念とかそういったストーリーを捏造しようというわけではなく、例えば、ドルフィーの吹く楽器にについて、以前では強い音圧を絶えずかけていて終始楽器が壊れてしまいそうなほど楽器を鳴らし響かせていたのが、ここでは余裕をもってある時は息を抜くように、楽器の残響の余韻を巧みに生かすような鳴らし方をしている。また、「OUT TO LUNCH」の変拍子のオンパレードのような複合リズムで聴く者はノリが許されないようなリズムが、ここでは定速の4ビートを終始キープしているので、安心感がある。もっとも、単にビートをキープしているだけでなく、その中で様々な変化が認められ、ドルフィーのプレイ自体がビートから自由に離れているし、バックを務めるミュージシャンも誰かがビートを維持していれば、他の人はそこから離れる時もある。それらが複合されることによって、ポリリズミックな響きが売れてくる面白さが見られるのは、いかにもドルフィーらしさは失われていないのだが。

1曲目の「Epistrophy」は、そういう穏やかさの中でとドルフィー特有の飛翔が入ってくるので、むしろドルフィーの特徴が鮮やかに際立つ。しかも、不思議と違和感を起こさせることが少なく、聴き手にスッと入り込んでくる。出だしの咆哮一発の驚きと、グロテスクで美しい、まるで異星人の鳴き声のようなアドリブ。それが、今までと違って形の力が抜けてリラックスしていて、しかも、ドラムスとベースがしっかりと4ビートを守って、あまりドルフィーを煽ったりせずにバックに徹しているので、ドルフィーが気持ちよく吹いているのが、聴く者に伝わってくる。そして、ピアノのバッキング。まったりと、どんよりと、時折、効果的なリフを繰り返すバッキングと、フリー・ジャズや現代音楽特有の調整感の希薄な和声。セロニアス・モンクを彷彿とさせる不協和音的なクラスター。黒人の弾くピアノの「粘っこい重さ」とはまた違う、メンゲルベルクの「どんよりした重さ」が、ドルフィーのバスクラをさらに効果的に彩っている。鈍重だけれども、どこかエッジも感じられる不思議なピアノなのだ。5曲目の「You Don't Know What Love Is」では、弓で弾くベースとのデュオで、ドルフィーのフルートが、ちょっとドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」の冒頭のフルートに似た半音階的なメロディーっぽいフレーズをテーマに12分にわたるソロを吹いている。それが、彼の専売特許ともいえる咆哮を思わせるようなフリーキーなトーンを、ほとんど混じえずに、フレーズで勝負して、しっとりとした美しい演奏をしている。この演奏をもって、このアルバムの白眉という人も少なくないという。最後の「Miss Ann」は、フリー・ジャズという感じではなくて、ハード・バップの中にドルフィー独特の突飛なフレーズが収まってしまっている。最後に、有名なドルフィーの独白が入るが、それについては尤もらしく論じている人が沢山いるので、それでストーリーをつくって楽しめばいいと思う。ただ、演奏が終わって拍手を短くフェイドアウトさせると尻切れトンボになってしまうので、落ち着いた声を一節いれることで、静かに終わって、余韻を残す効果が出ていると、私は思うので、何をしゃべっているかは、ほとんど気にならない。 

 
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