SONNY ROLLINS(ソニー・ロリンズ)
 


ソニー・ロリンズ(テナー・サックス)

テナー・サックス奏者。 

ソニー・ロリンズのプレイの最も大きな特徴として、彼の創り出す音楽には歌がある、と言われる。

それは、ロリンズがメロディを情感タップリに嫋嫋と歌うように演奏するというのではない。端的に言えば、ロリンズの生み出すアドリブのフレーズのほとんどがメロディとして聴けてしまうということだ。試しに、他のサックス奏者のアドリブと聴き比べてみると、ロリンズのアドリブが突出しているのが分かる。普通、その場その場の即興で、そうそうまとまったメロディなど作れるものではない。かといって作り置いたものを用意しておいて使うにしても、そこで使えるとは限らないし、そもそも作り置いて新鮮さを失ってしまったものは、生ものであるアドリブとは相いれないだろう。著名なプレイヤーであっても短い節で、せいぜいがメロディのかけらのようなものをプレイしている。それと比べた時のロリンズの創造力の凄さだ。人間の創造力なんてたかが知れている。まとまったフレーズなんてそう簡単に作れるはずがない。仮に作れたとしても、そうたびたび目新しいものなど作れるはずがない。メロディというまとまった形をとれば、人の記憶に残り、似たようなものがあれば、すぐに見破られてしまうだろう。だから。そこで、プレイの度に瑞々しいアドリブプレイを重ねるロリンズが天才的だと言える。

さらに、ロリンズの歌い回しが絶妙で、クラシック音楽で、例えばショパンのピアノ曲を優れたピアニストは、左手で演奏する低音部でキッチリをとり、右手で演奏する高音部のメロディはそのリズムから間をとって心もちズラしたり、リズムを崩したりする。そこにピアニストの個性的な歌い回しが生まれ、独特の情感や余韻を作り出す。クラシックのピアノのテクニックでテンポ・ルバートと呼ばれるものだ。ロリンズにも、そこまで体系化されているわけではないが、おそらく本能的に独特の間の取り方や崩し方で個性を際立たせているところがある。それが、豪快で男性的とも言われるロリンズの演奏を味わい深いものにしている。それがロリンズの歌いまわしだ。

 

バイオグラフィー

40年以上の間、ソニー・ロリンズは、ジャズの巨人の一人であり、コールマン・ホーキンス、レスター・ヤングやジョン・コルトレーンといったジャズの歴史を通じての偉大なテナー・サックス奏者と並び称せられている。最初はピアノだったが、アルト・サックスに手を出したあと、1946年にテナー・サックスにかわり、そのまま現在に至っている。1949年、バブス・ゴンザレスとレコーディング・デビューを果たしてから、同じ年に、JJジョンソン、バド・パウエルとの数日間と後日のファッツ・ナバロも加わってのセッションは大きな衝撃を及ぼした。ロリンズの実力ははじめからジャズの世界では知れ渡った。そして1951年にマイルス・デイビスと2年後にはセロニアス・モンクとレコーディングを始めるのだった。1955年にマックス・ローチとクリフォード・ブラウンのクインテットに加わり、ブラウニーが亡くなる1957年まで続けた。それから、彼はつねにリーダーだった。

1950年代のプレステージ、ブルー・ノート、コンテンポラリーそしてリバーサイドのための一連の輝かしいレコーディングは、ロリンズが絶好調だったことの証だ。そしてジョン・コルトレーンが抬頭してくるまで最高のテナー・サックス奏者として絶賛されていた。それゆえ、1959〜60年に音楽の世界から離れるというロリンズの決心はジャズの世界に衝撃を与えた。1961年にジム・ホールをフィーチャーしたカルテットでカム・バックした時、彼のスタイルは変わっていなかった。しかし、オーネット・コールマンの革命をよく知ることとなり、フリー・ジャズのプレイーに間もなく変貌してしまう。時にはオーネットのコルネット奏者ドン・チェリーを起用さえしたのだ。彼のプレイは以前から少しエキセントリックなところがあったけれど、1968年に再び引退の決心をするまでメジャーには位置していた。

1971年にカム・バックすると、ロリンズは、リズム・アンド・ブルースのリズムとポップ・ミュージックの影響を進んで受けるようになり、彼のレコーディングは以前に比べて彼本来のものとは離れてしまう(サイド・メンが彼のレベルに追い付けていなかった)が、ロリンズ自身は不可欠のソリストであった。彼の手腕にかかれば、ふつうならありそうもない素材でもジャズになってしまうのである。彼のソロパフォーマンスにおける自由なリズムとテーマの崩しは、他の追随を許さず、90年代においても彼はジャズの達人であった。彼のたくさんの録音は現在でも、その多くを聴くことができる。

 

村上春樹はロリンズについて、以下のようなことを書いている。(「ポートレイト・イン・ジャズ」より) 

ロリンズのテーマのメロディの崩し方、あるいは自由な間の取り方は、優れた歌手がメロディを自由に自分の個性に合わせて崩し、伴奏者にはきちんとリズムを取らせながら、好きなタイミングをとらえて歌に入り、自分なりの間を創造してしまうのに通じている。ロリンズは、それと同じことをサックスで行っているのだ。くずし、間の取り方のうまさに加えて、ほとばしり出るアドリブの奔流が凄まじい。ただ、ロリンズの場合は、嵐のような即興フレーズでも、原曲のイメージとかけ離れてしまわないところが、歌心を称賛される理由である。優れた歌手は、歌を自在に自分の懐に引き付けてしまう。つまり、個性的な表現だ。それは歌い手の声そのものとなって、一つの定型にまで高められるだろう。ジャズでも似たようなことは起こる。優れたジャズメンは楽器を通して自分の声を持っている。ロリンズももちろんそうした一人だ。しかし、本当に即興の精神に忠実なジャズメンは、それを日々新たな、そのときの自分の声としなければ満足しない。つまり、あらかじめ練習し、考え抜いた上で、定型的表現へ向かうということはやらない。一つ間違えれば収拾のつかない混乱に陥ることも恐れず、果敢にそのとき、この世に生まれ出る歌声を求めるのが、ジャズの歌心なのである。


ソニー・ロリンズの私的名盤

ソニー・ロリンズは活動暦が長く、ずっとトップ・プレイヤー君臨し続けた巨人のようなプレイヤーと言えるでしょう。その間、時代の変化やジャズを愛ずる状況の変遷などによって、また、本人の伝記上の様々なエピソードは紹介やネットの検索によって容易に知ることができるでしょうが、その長い活動期間のなかでプレイスタイルを変化させてきている。それに対する好き嫌いは、ファンによって色々と分かれると思う。ここでは、私個人の主観で、つまりは好き嫌いでアルバムを紹介しているので、ここにコメントしているのは、あくまでも私の好みであって、そういうものとして読んでいただきたい。しかし、そのためには、私の好みとはどのようなものかを、明らかにしなければフェアではないだろう。そこで、私はソニー・ロリンズのプレイをこのようなものとして捉えているということを以下で簡単に述べておきたいと思う。

端的に申し上げると、ソニー・ロリンズのプレイ(アドリブ)の特徴は、“言うべきことを言い切ってしまう”潔さと責任感にあると思っている。このような言い方は、音楽の用語でもなく実際の演奏とは関係のない言葉の上での精神論のように受け取られるかもしれない。具体的に言うと、ロリンズのフレーズというのは、様々なヴァリエーションがあるけれど、そこに一貫して流れているのは、有節形式で終わらせることではないかと思う。つまり、フレーズというのは、2つ以上の音が続けば何かしら音形として受け取ることができるから、さまざまな可能性はあるけれど、ロリンズの場合は、基調となるコードの上で、最後の音は主調に必ず戻る形になる。聴く者にとっては、メロディが終わったと感じる形を必ずとっているということだ。ロリンズのアドリブのフレーズがうたうようだというのは、ここにひとつの大きな要因があると思う。しかし、このような形で徹底してフレーズを作るというのは、実は大変なことなのだ。まずは、そういう形でフレーズを作ることが出来とは限らないということだ。それはまた、フレーズを作る際に、その可能性を限定して絞ってしまうことになるわけだ。何しろ終わり方が決まってしまうのだから。その制約でフレーズを作るのが大変ということ。そして、もうひとつの困難として、そのようにフレーズを終止形にしてしまうと、後にプレイを続けるのが難しくなるということだ。プレイを続けるには、何時までも終わらない形で、つまりは、フレーズの尻を中途半端にして、次のフレーズに連続させれば、後から後からフレーズを繋ぐことができる。実際、そうやって延々とプレイする人もいる。しかし、いったん終止形のフレーズにしてしまうと、その後で新たなフレーズをつくって始めなければならない。したがって、このように終止形のフレーズにこだわるには、それなりの決心が要る。

他方で、そういう決心ができたからと言って、すぐにそれがプレイでできるとは限らない。そのためには、フレーズを作る即興的な創作力が要るだろうし、それがあってたとしても、例えば、ジョン・コルトレーンのようにいったんフレーズを作ったとしても、何か言いたいことを言い切れていないと感じてしまい、そのフレーズに満足できず、足りない分を付加するように、別のフレーズを足して行って、それが続いてしまう。結果として、プレイが音で埋め尽くされてしまうことになってしまう。コルトレーンの場合は極端な例かもしれないが、フレーズをつくっても、必ずしも満足しきれないケースは他のプレイヤーでも少なからずあろう。しかし、ロリンズの場合には、そこでコルトレーンのように次のフレーズを足すことをしない。そこには、求めたことをすべて満たしたフレーズを毎回作ってしまっているのか分からない。しかし、私には、そうとは思えず、そこではロリンズは、その場合には、あえて付加することを潔く諦めて、次の展開に移って知っているのではないかと思う。

その理由は、ロリンズのつくるフレーズはよくうたうといわれるけれど、陰影とか情緒的なニュアンスのようなものは混じっていないのだ。ロリンズはぶっきらぼうなほど、フレーズを朗々とストレートに吹く。もし、フレーズにもの足りなさを覚えれば、そこに陰影をつけたり、クラシック音楽でいうテンポルバートのようにリズムのズレといった小細工を施すこともできるだろうが、ロリンズはそういうことをすることはない。彼のフレーズがうたうと言われる一方で、彼のプレイが豪快とも言われるのは、そのためではないかと思う。チマチマとした小細工をあえて捨てているからだ。

このように、ロリンズは有節形式のフレーズをつくるということ1本で勝負している。そこに私の見るロリンズの特徴がある。その、私に言わせれば、ストレート一本勝負をもっとも直接的に聴くことのできるのは、1955年から1960年の沈黙までの間に録音されたアルバムということになると思う。

くどいかもいれないが、これは私の個人的な好みである。

Saxophone Colossus

St. Thomas

You Don't Know What Love Is

Strode Rode

Moritat

Blue 7

 

Doug Watkins (b)

Max Roach(ds)

Sonny Rollins(ts)

Tommy Flanagan (p)   

 

 

冒頭の「St. Thomas 」は“トンスト・トトト・トンスト・トトト”という軽快なドラムから始まって、ロリンズがそっと陽気でかつ翳りを秘めたカリプソ風のテーマ・メロディを吹く。これが有名な一節。初めて聞いたときは、何となく脳天気なメロディと思っていたが、何度も聴くうちに、実はこの何気ないメロディの演奏の背後には緊張感が張りつめていることが分かってくる。それは、この後の展開を知っているからこそなのだが、ロリンズは、テーマをワンコーラス吹いた後、これを何度か繰り返し、さらに、たった二音の単純なリフを何度も繰り返す。ここのことを次のように言う人もいる。“おそらくロリンズは、この繰り返しのところで、どんな方向へ向かって自分の歌を離陸させようか、探っているのだろう。つまりロリンズは勝手知ったる自作曲であっても、それをあらかじめ煮詰めることで完成へもっていくのではなく、即興の精神そのままに、自分の曲が演奏に臨んでどんな方向へと育っていくのかに、じっと耳を傾けるのだ。ロリンズはこのアルバムで、こうした綱渡りのような危険な賭けを─というのも、先の展開はその場の成り行きなのだからメチャメチャになる可能性をいつも孕んでいる─全編にわたって繰り広げている。それにもかかわらず、気軽に聴けばそれなりに楽しめてしまうのは、ロリンズならではの才能ではあるが、じっくり聴けば、これはけっこう緊張する演奏でもある。”そこまで、深読みしなくても、と思うが、それは聴く方にもひしひしと伝わってくる。単純なリフの繰り返しの度に、どんどん緊張感が高まって来るのだ。それを聴く方は、逆に期待感がどんどん高まっていく。実は、そういう緊張感の高まりが最初のテーマのところから徐々に高められてきている。しかし、その緊張感が高まっていくにつれて、ロリンズのサックスの音が徐々に軽くなっていくのだ。精神が緊張していくにつれて、音は逆にリラックスしていく。実際に、そこから始まるロリンズのソロは、吹きまくるということをしない。しかし、そこで出てくるのは、最初のテーマから、どうしてこうなってしまったのかと、まるでワープしてしまったかのような突拍子もないのだけれど完璧に歌となったメロディが出てくる。とくに、最初に一発カマすなどという必要がなく、フレーズで勝負してくるのだ。実際、ドラム・ソロが終わって、曲が後半に入るころ、ようやくロリンズは豪快に走り出す。それは、だから、そういうこともできる、という程度のアクセントなのだろう(とは言っても豪快で、力強いもので、その迫力は、簡単に真似のできるものではないだろうけれど)。そこには、豪快で、天才的な閃きに満ちているとはいいながら、フレーズ一本で勝負している愚直なまでのロリンズの姿勢が現われている。 

最後の「Blue 7」は、わずか12小節のブルースのメロディを、ロリンズは原曲の小さい部分(モティーフ)を変えて、他の部分と結びつける際に、何ももとの順序に従う必要はないと、いくつかの目ぼしい音(X)に変化をつけて演奏し、別の数音(Y)に変化をつけ、さらに別の数音(Z)に変化をつけ、ふたたびYに変化をつけ、Xに変化をつけるというふうに演奏する。時にその変奏はテンポを倍加してパーカーふうな音の奔流となるが、それ以外では不可欠のもの、そう、たった二つの音、ひとつの音程にまで削ぎ落とされる。そういう極限まで研ぎ澄まされたような、夾雑物を排した即興に臨むロリンズには鬼気迫るものを感じる。 

A NIGHT AT THE VILLAGE VANGUARD   1957年11月3日録音 

Old Devil Moon

Softly As In A Morning Surise

Striver's Low

Sonnymoon For Two

A Night In Tunisia

I Can't Get Started

 

Sonny Rollins (ts)

Wilbur Ware (b)

Donald Bailey (b)

Elvin Jones (ds)

Pete La Roca (ds)

 

ブルー・ノートからリリースされた3枚目のアルバム、ピアノレスのトリオを率いてヴィレッジ・ヴァンガードに出演した時のライブ録音である。ライブということもあるのだろう、ここでのロリンズは伸び伸びと奔放にプレイしている印象で、それが聴き手に気持ちよさを感じさせる。だが、凄い演奏をしているのもたしかで、それを聴く者に心地好さを与えてしまうロリンズはすごい。

最初の「Old Devil Moon」は、有名な『Saxophone Colossus』の「St. Thomas」を彷彿させるような、ラテンのリズムでくだけた調子で、ぶっきらぼうに吹かれるテーマのあとで繰り広げられるロリンズのアドリブは、ドラムのエルヴィン・ジョーンズの煽りも受けて、まさに奔放さ全開。次の「Softly As In A Morning Surise」は、ウィルバー・ウェアのベースのイントロが、まるでベース・ソロのような煽りで、それに応えるようなのか、スタンダードなテーマ・メロディを吃音のようなフレーズで吹くと、しみじみとしたメロディがユーモラスに変貌してしまう。曲全体はイントロからベースが支配して、ロリンズのテーマの吹きようで、ユニークな「Softly As In A Morning Surise」の行き方が、ここで決まったという印象で、ここからベースの煽りにロリンズが時にわざと外したりながらのソロは遊び心満載で、エルヴィン・ジョーンズのドラム・ソロも付き合うようにリズムを時折無視したように間を外して遊んでみせる。これはベースが全体を支配している上での遊びだろうことは、ベースの力強い弾力的な響きからも分かる。ここでのプレイは、とにかく3人とも音圧が凄いのだ。3曲目の「Striver's Low」はロリンズのオリジナル曲で、全編アドリブといっていいほどロリンズは全開のプレイ。その高速のフレーズは、あのジョン・コルトレーンのシーツ・オブ・サウンドにも引けをとらない迫力。しかも、コルトレーンの無機的なのに比べて、ロリンズはメロディアスでもある。「A Night In Tunisia」では、ピアノレス・トリオの編成を採用したことで、ロリンズのこのときばかりともいえる大胆なプレイが聴ける。曲も向いているのだろうけれど、テーマ・パートではひとりでボケとツッコミをやっているような箇所もあって、最初と二番目のコーラスを繋ぐ間奏部分で、オリジナルのコード進行を踏襲しながら大胆にメロディを発展させるところは、凄いとしか言いようがない。最後の「.I Can't Get Started」はバラードで、バラードで締めるというのは、レコードという録音媒体の制約でそうなってしまったというだけなのだろうけれど、ここでのロリンズはライブ録音ということからはやる気持ちもあっただろうが、それを抑えてじっくり自身のフレーズと向き合ってみせる。豪快なプレイに真髄を発揮するロリンズだが、このように落ち着き払った演奏をするときも魅力を放つ。ぶっきら棒に吹き始めるテーマ・メロディが独特の歌心に繋がって、ピアノのコンピングがなくても豊かな楽想を感じさせる。さっきも述べたが、たった3人で、これほどのパワフルな音空間を作り出してくるのに身を任せるように聴いていて、締めはバラードというのは、また最初にもどって聴きたくなる誘惑を抑えきれない。 

Newk's Time      1957年9月22日録音 

Tune Up

Asiatic Raes

Wonderful! Wonderful!

The Surrey With Fringe On The Top

Blues For Philly Joe

Namely You

 

Sonny Rollins (ts)

Wynton Kelly (p)

Doug Watkins (b)

Philly Joe Jones (ds)

 

ブルー・ノートでの「A NIGHT AT THE VILLAGE VANGUARD 」の前に録音した2枚目のアルバム。世評の高い「Saxophone Colossus」などに比べてワイルドに吹きまくったハード・バップの傑作といてもいいのではないか。とこかく、ここには絶好調という感じで、直球勝負のアドリブを豪快にキメていて、サックス奏者であれば、こうやりたいと思わせるようなカッコよさに溢れた内容になっていると思う。

1曲目の「Tune Up」。初っ端からキレの良いシンバルワーク、絶妙のスネアを活かしたフィリー・ジョーのドラミングが炸裂する。この挑発に乗るようにロリンズの軽快にテーマを吹くと、そこから加速するようにアドリブに移るとテーマの変奏のような入り方から、次第に分解するようにフレーズを分割していって、様々な大きさの断片的なフレーズを重ねて、畳み掛けていくようにしてテンションを高めていく。その加速を煽るようにシンバルワークの良く響くドラムスがいて、ウィントン・ケリーのピアノがよく随いて行っている。次の「Asiatic Raes」はトランペットのケニー・ドーハムのオリジナル、「Lotus Blossom」の別名曲。ラテン・ビートに乗って「Lotus Blossom」のよく知られたテーマの後で、ドラムの短いインターバルの後、ピアノがテーマを伴奏のように弾くのをバックに一転してアドリブに突入すると、そこからは正統派4ビートで、時折不協和音なのか音をわざと外しているのか分からないような音が混じって、ロリンズの凄いのはそこで違和感を聴き手に持たすことなく、いかにも自然に聴かせてしまって、ワイルドに暴れているくらいにしか感じさせないところ。ロリンズのプレイの豪快さと、形容されることは多いけれど、決して爆発するようなブローを連発するわけではないし、コルトレーンのようにごり押しのパワーで圧倒するわけではない。必ず音楽性の魅力で聴き手に迫っている、例えば、アドリブの断片のひとつひとつのどれをとってもメロディとなって、それなりにうたっている。それが、自然に聴けてしまう、大きな要因なのだろう。とどのつまりは、アドリブのフレーズすべてに有機的な意味が通っているということ。こうやって言葉にすると、どうということもないけれど、これは実際に即興でプレイする場合には、大変なことなのだろうと思う。戯れに、ピアノのキーボードを何気なく叩いても意味のある、うたうようなフレーズはなかなか出てこない。それを瞬間的に外れ無しで、こともなげにやってしまう(ように見える)ロリンズの凄みというのは、このアルバム全編に行き渡っている。次の「Wonderful! Wonderful!」は、ロリンズのオリジナル。前曲のムードをそのまま引き継いだような曲展開、つまり悠然としたテナーサックスにイケイケのリズム隊という対決姿勢が鮮明なのだ。4曲目の「The Surrey With Fringe On The Top」は、まさしく圧巻と言うほかない、ロリンズのアドリブの凄みを嫌というほど味わうことができる。この時代では珍しい、テナー・サックスとドラムスのデュオですが、ロリンズもフィリー・ジョーも挑戦的な音を連ね、剣豪同士の真剣勝負に似た緊張感が漂っている。ロリンズのアドリブはテーマのヴァリエイションを展開させるように進む、言い換えれば、原曲メロディを大切にした歌心のあるアドリブから、次第に途方もないところに連れて行かれる。最後はフェイドアウトしてしまうが、まるでドラムスと二人だけで対話しているような孤絶の道を進もうとするような剥き出しの骨ばかりの音楽に、削ぎ落としていく様相が凄まじい。この最後のところは孤高という形容が浮かんでくる。次の全然ブルーでなくごキゲンな「Blues For Philly Joe」に続いて、最後の「Namely You」で、はじめてテンポがミディアムに落ちる。ロリンズは、スローナンバーで、嫋々とメロディをうたわすことはなく、どこまでも剛直に吹くのだが、それでいて、間の取り方やフレージングで朗々とサックスを鳴らしている。 

SONNY ROLLINS VOL.2      1957年4月14日録音

Why Don't I?

Wail March

Misterioso

Reflections

You Stepped Out Of A Dream

Poor Butterfly

 

Sonny Rollins (ts)

J.J. Johnson (tb)

Horace Silver (p)

Thelonious Monk (p)

Paul Chambers (b)

Art Blakey (ds)

 

煽るブレイキー。この勢い溢れる焚きつけっぷり。これによって煽られまくったロリンズは、一音でも多くの音を吹きたくて吹きたくてたまらなかったのだろう、ドラムスとの4小節交換の箇所など平気ではみ出しまくっているし、このはみ出しっぷりが逆に演奏にものすごい推進力を生みだしている。しかも、ロリンズだけではなく、冷静な印象の強いトロンボーンのJ.J.ジョンソンも音の速射砲さながらに丸太い音を連射する。ブレイキーに煽られてか、はたまたブレイキーに煽られたロリンズに感化されてか、とにもかくにもJ.J.もノリノリ元気。この豪快な勢いで燃え盛る炎に向けて、もっと燃えろとばかりに火をくべ、団扇で煽りまくるのが、名手ホレス・シルヴァーのピアノと、ポール・チェンバースのベース。こうなると、ロリンズの快進撃は止まらない。そこに乱入する、セロニアス・モンク。

最初の「Why Don't」。メンバー全員が一丸となったテーマ吹奏が、いきなり強烈で、この冒頭のトゥッティのキメの短いリフを随所の節目節目に折り込みながら、最初からロリンズのソロは全開に縦横無尽に暴れるように豪放に吹きまくる。続くJ.J.ジョンソンが冷静ながら、テンポとテンションを落とさないでいると、背後からアート・ブレイキーのドラムが迫るように煽る。しかし、これは最初の小手調べ。次の「Wail March」アート・ブレイキーが十八番のマーチドラミングのイントロで一発カマしてから、力強いテーマが始まり、すぐさま高速4ビートで J.J.ジョンソンがスーパーテクのアドリブを聴かせる。しかも背後ではアート・ブレイキーが襲い掛かるように煽る。続くロリンズは、最初からブローを繰り広げる。ここでのロリンズは吹きたくてしょうがないという風情。3曲目の「Misterioso」では、セロニアス・モンクが乱入して、なんと1台のピアノをホレス・シルヴァーとセロニアス・モンクの2人が弾いたという。曲はモンクのオリジナルで、最初セロニアス・モンク自身がピアノでミステリアスなメロディをリードし、ホーン隊が加わっての合奏から、ロリンズが全く異質なフレーズで乱入しムードを描き回しているのに、ちゃっかりバックでモンクがリードしている、この2人の駆け引きは凄い。続く、ピアノ・ソロはモンクで、ロリンズに輪をかけて異質なフレーズをぶち込んで、コードワークは大混乱の様相のはずなのに、といっているうちにピアノの調子が変わり、ぐっとファンキーに。しかし、よくもこんな脈絡のない展開にリズムをつけられると感心しているうちにロリンズのソロとなってハード・バップ調になんとも閉じた後、モンクのピアノが最初の調子に強引に持って行って、本当に終わったの?次の「Reflections」のモンクのオリジナルで、モンクのピアノから始まる。ロリンズがメロディを朗々と吹いてアドリブのオカズを広げていくと、モンクはそのメロディの情感をはぐらかすようなピアノで、そこにアグレッシブに切れ込むロリンズのサックス。これがスリリング。スローバラードなのだろうけれど、このスリルと緊張はただ事ではなく。先の予想がつかない。次の「You Stepped Out Of A Dream」では、明らかにモンクとは違うホレス・シルヴァーのファンキーなピアノが、なんと安心を誘うのだろう。そこから、軽快なテンポでハード・バップなアドリブをロリンズが快速にとばす。最後の「Poor Butterfly」はテンポをおとしたミディアム・ナンバー。これも凄い演奏なのだけれど、モンクの乱入の次元の異なるプレイから、ようやく安心して終わることができた、というところ。 



 
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