SONNY CLARK(ソニー・クラーク)
 


ソニー・クラーク(ピアノ)

黒人ピアノ奏者。
 いわゆるバド・パウエルのプレイ・スタイルをベースにしたパウエル派と呼ばれるピアニストたちの一人。ブルー・ノートの伴奏ピアニストとして数多くのソリストやボーカルの伴奏を勤め、伴奏者としての録音は数知れない。そのような姿勢からも、自分がフロントに出てプレイを前面に出すというよりは、演奏全体を見渡してコントロールして最終的に自分の色彩にまとめ上げていくというプロデューサー・タイプだったように思われる。それは、彼の数少ないリーダー・アルバムでも、その傾向が強く、彼のピアニストとしてのプレイ・スタイルの特徴にも表われているといえる。彼のピアノは固定的でなく、その時のコンセプトや共演者によって、かなり柔軟に変化する。伴奏者としての経験やもともとの資質からかもしれないが、それを加味して、彼の特徴を考えてみたい。といっても、際立った特徴があって、一聴で彼のプレイが分かるというタイプではない。そのため、他のパウエル派のピアニストと比較しながら見ていくと、比較的分かり易いと思われる。

クラークのピアノについて“哀感に満ちた陰翳の美、ピアノのタッチに込められた硬質な表現”と言われることがあるのは、そういう比較の上でのことで、彼がそういうスタイルを前面に出しているわけではない。例えば、ブルー・ノートに録音した「ソニー・クラーク・トリオ」というアルバムの最初に“朝日のようにさわやかに”という曲を演奏しているが、ウィントン・ケリきる、という感じだ。

クラークのピアノのタッチは深くて強い。それが重心のひくい重い音になって聞こえてくる。そのため音色は暗く沈んだ、渋く感じられる。それがクラークの印象を地味にしている。しかし、打鍵がつよいため音には芯があって音の輪郭は明確だ。だから、地味だからと言って、けっして存在が隠れてしまっているわけではないのだ。その明確なタッチは時に強弱のグラデーションが巧みに使い分けられ、「クール・ストラッティン」以降の録音で顕著になるアクセントを後ろにずらして独特の溜めをつくり、フレーズの尻尾が粘るような、“後ろ髪をひかれる”ような後ノリを生み出すことになる。そのノリで聴くバラードは、思いつめたようなロマンティックな気持ちを感じ、哀愁とも翳りとも感じることにつながる。

しかし、その一方、クラークのプレイは、明確なタッチで端正なのだ。あえて言えば、真摯にフレーズで勝負する姿勢といえる。クラークの即興演奏を聴いていると、バド・パウエルの短い分解されたリフを積み上げると言う行き方とは反対に、水平方向にうねうねとしたメロディラインを伸ばすように紡いでいくように聴こえる。まるで、レニー・トリスターノのように。クラークはそこで、意表を突くようなアクセントを施し、ひねりの効いたメロディにしているところがクラークとトリスターノの違うところだ。それを明確なタッチで、パウエルばりの速いテンポで突進することで緊張感をたかめる。多くの曲でクラークは躍動感のあるビートを押し出し、慌ただしさを強調し、緊張感の高いものにしている。これを例えばウィントン・ケリーだと、リラックスしたスイング感を得るために心もち打鍵を遅らせていた。また、スタカートによるアタックは、クラーク好みのヘビのように曲がりくねった構成とうまくマッチしている。そして、さらに、このような時クラークはバーン!とブロック・コードを叩く、これ見よがしのハッタリを使わずにハイテンポのフレーズを端正に演奏する。これによって、緊張感ある一方で、透明感のある演奏になっている。つまりは、劇的に盛り上がりを煽るようなことはせずに、フレーズで勝負しているのだ。そこに、地味だが味わい深い、という全体の印象が醸し出されるといえる。

 

 

バイオグラフィー

麻薬が寿命を大幅に短くしてしまったが、その短い人生でも、ソニー・クラークはバド・パウエルの系統に位置するバップ・ピアニストの中でも最高の一人だった。50年代前半、彼はサンフランシスコでヴィド・ムッソやオスカー・ペティフォードとプレイし、ロサンゼルスに居を定めるとテディ・チャールスと最初のレコーディングを行い、その後1953〜56年、バディ・デ・フランコのカルテットに加わった。彼のバディ・デ・フランコとの録音はモザイク・レコードから豪華限定盤のボックスセットで再発されている。同じ時期に、彼はソニー・クリス、フランク・ロソリーノとライトハウス・オールスターズともプレイしている。1957年にはニュー・ヨークに移り、ブルー・ノート・レコードの専属となった。そこで数枚のリーダー・アルバム(1957年の1年間だけで「Dial S for Sonny」「Cool Struttin'」「Sonny's Crib」の3タイトル)を録音し、ソニー・ロリンズ、ハンク・モブレー、カーティス・フラーやその他のたくさんのミュージシャンたちのサイド・マンとしてプレイした。享年31歳という早すぎる死はジャズにとり大きな損失となった。 

Sonny Clark Trio    1960年3月23日録音

Minor Meeting

Nica

Sonny's Crip

Blues Mambo

Blues Blue

Junca

My Conception

Sonia

 

Sonny Clark (p)

George Duvivier (b)

Max Roach (ds) 

 

ソニー・クラークに対する評として“後ろ髪を引かれる”ということを名盤ガイドやジャズの入門書で目にすることが多いが、このアルバムを聴くかぎり、そのような印象は薄い。

ソニー・クラークには、この「ソニー・クラーク・トリオ」というタイトルの同じアルバムが2作品ある。紛らわしいことこの上ないが、録音レーベルが違うため、こちらはタイム盤と通称され、もう一枚はブルー・ノート盤と通称されて、ファンには区別されている。そして、この作品ではないブルー・ノート盤の方は、典型的な“後ろ髪を引かれる”プレイがおさめられているのだ。とにかくノリもドライブ感も二つの盤では、本当に同じピアニストなのかというぐらい違う。これは、録音レーベルの性格の違いも原因しているかもしれないが、ブルー・ノート盤がスタンダード・ナンバー中心であるのに対して、こちらはソニー・クラークのオリジナル曲という選曲の違いや協演者の違いも大きく原因していると思う。ここでは、ジョージ・デュヴィヴィエのベースと、マックス・ローチのドラムと一丸になって突進してゆくクラークのピアノは、かなりアグレッシヴで、後ろ髪引くどころか、前髪つかんで前へ前へと突進してゆくようだ。

最初の「Minor Meeting」は、深い打鍵の重いピアノのブロック・コードの連打でビートを刻む、アクセントの音でベースとドラムがドスの効いた低音で音を重ねる。ちょっと、バド・パウエルの「ウン・ポコ・ロコ」を想わせる、ビートばかりの無機的に聞こえてくるテーマです。バド・パウエルの場合は、そこから強引にリズムだけとも言える無機的なティストでアドリブも押し切ってしまうのですが、ソニー・クラークの場合は、アドリブに入るとメロディっぽいところが時折しのばせるように出てきて、バド・パウエルに比べて情緒的なところが隠し味のようになっています。その代わりに、ドラムのマックス・ローチが煽るようにアグレッシブでプレイの推進力は衰えるところはなく、最後まで突っ走ります。

続く「Nica」では、前曲の勢いで聴き進めて、マイナー・コードのブロック・コードで始まるテーマで“後ろ髪を引かれる”ような演奏にはピッタリのフレーズだれど、ここでは静かではあっても、しっかり打鍵して、むしろ静かだけれどアグレッシブ。これは、短い続くソロが続くベースが煽っているからかもしれない。アドリブにはいると、ピアノの打鍵は力強くなり、シングルトーンで、短いフレーズを重ねて、それが全体として長い一本の流れになるようなクラークに特徴的なソロを、しかも、前へ前へという、まるで突き動かされるかのように続く。

3曲目の「Sonny's Crip」になってマイナーからメジャーに曲調が変わって、弾むようなリズミカルな雰囲気になるが、演奏の推進力は増してきている。これは聴く側の一方的な感覚だが、最初の2曲のマイナーな曲で勢いがついてしまって、それにつられてグイグイと勢い乗ってしまうのだ。

7曲目の「My Conception」で、一息つくようなスローテンポのナンバーで、クラークのピアノだけのソロ・ナンバーで「枯葉」を想わせるテーマがしんみりとなりそうだけれど、アドリブになってテンポはそのままでも手数がものすごく多くて、テンポはスローなの二、その慌しさは、これもバド・パウエルを想わせる。スローテンポになっても、テンションが高くて息つく余裕を与えてもらえない。

そして、最後の「Sonia」は、明るいリラックスしたムードの快演で、トリオの3人が溌剌と、まるでスピード比べをするかのようにプレイしている。とりわけ、クラークのピアノは突き抜けるようなピュアなタッチが印象的で、爽快に終わる。

全体として、バド・パウエルに負けない、バリバリのプレイで、なおかつアルバムとしてのまとまりや親しみ易さもそなえた作品になっていると思う。時として常人を寄せ付けないような気迫と厳しさを湛えたパウエルのピアノは、一音一音のピアノの音の存在感が強烈だが、それが突っ走りすぎて演奏全体が瓦解してしまうこともある。そういうスリルは、クラークにはなく、むしろ全体を冷静に見通して、フレーズとして聴ける演奏をしているところに特徴がある。それが、ここでは余計な飾りがない裸の姿を見せてくれていると思う。

Sonny Clark Trio    1957年10月13日録音

Be-Bop

I Didn't Know What Time It Was

Two Bass Hit

Tadd's Delight

Softly as in a Morning Sunshine

I'll Remember April

 

Sonny Clark (p)

Paul Chambers (b)

Philly Joe Jones (ds) 

 

同じタイトルで2枚のアルバムを別々にリリースされている中で、こちらは早い時期の録音のブルー・ノート盤と呼ばれて区別されている。どちらのアルバムもアップ・テンポのナンバーが多く、最初の「Be-Bop」ではハイ・スピードで疾走している。ソニー・クラークに対する世評で、よく引き合いに出される“後ろ髪を引かれる”ということから連想される、しっとりとしたとかしみじみとしたというイメージを期待すると、裏切られることになる。ただし、同じタイトルのもうひとつのアルバム(タイム盤)に比べると多少は、その感じがあるかもしれない。ソニー・クラークのアルバムでピアノ・トリオの編成で演っているのは「ソニー・クラーク・トリオ」のタイトルの2作品くらいで、あとは彼のリーダーアルバムといってもホーン奏者との協演になるので、ピアノは傍役になりがちで、ソニー・クラークはそんな時に強引に出しゃばるようなことはしない。だから、ピアノが主役で通せる、この作品では満を持してパリバリ演っているのだろう。無理もないことだ。しかし、ここではフィリー・ジョー・ジョーンズのドラム、とくにシンバルが、時にピアノ以上に聞こえてくる。パワフルな金属音だけではなく、単調なようでいて、繊細にソニー・クラークのピアノに反応し、かといって反応しすぎていないところもツボなのだ。そういうところから、クラークというピアニストは、自身のプレイに突っ走る人ではなく、演奏の全体を見渡しながら自分の居場所を見つけていくタイプのピアニストであることが、この作品ではよく表われている。そこで、彼におけるピアノの深いタッチや独特のタイミング、重量感はあるものの角のとれた丸い感じの音で端正に弾かれるのは、演奏全体が安定して成り立っていることで生きてくる、そのような設計をして演奏を組み立てていることが、このアルバムを聴くとよく分かる。

最初の「ビ・バップ」は曲名からしてもハードに疾走するナンバーだ。最初のテーマもそこそこに、すぐにアドリブを始めると、クラークのピアノはシングルトーンによる、まるで1歩の線が続くようなうねうねとフレーズを紡いでいく。それもハイスピードでテンションの高さを保ったまま。それが約7分間続けられる。その間、ソロの交代も3人のトゥッティのような変化もつけず、ひたすらクラークのピアノ、バックでドラム、とくにシンバルが目立つ煽りをしているが。同じ、バップのピアニストであるバド・パウエルであれば、パウエルは、まさに、目の前で音楽が生まれてくる瞬間に立ち会うような生々しい、切れば鮮血が吹き出すような新鮮な体験をさせてくれる稀有なピアニストだが、その演奏は閃光のようなもので、長時間にわたり付き合える代物ではない。鮮度というのは急速に落ちるものなのだ。クラークの場合は、ピアノ一本のアドリブ勝負で7分間という時間にもかかわらず聴く者を離さない。それはもう、パウエルの新鮮さでは太刀打ちできないものだ。これは、おそらく、パウエルといった人々が創った世界を、クラークは創られたものとして受け継いだというスタンスに違いによるものだ。つまり、生まれた音楽をいかに続けるかという段階にクラークはいる。それがパウエルとの違いだ。だから、クラークのプレイには、この先がどうなるか分からないといったスリルは感じられない。その代わりに、そのプレイそのものを魅力あるものにして、人々が聴いていたいと感じさせるようなプレイをするようなスタイルを選択するようになってきているのだ。それが端的に表われているのが、ピアノのタッチの違いだ。ともすれば、単調になりがちなシングル・トーンのアドリブの長いソロは、クラークは独特のタッチで支えている。クラークは、独特のリズムのノリで聴く者を引き込んでもいく。そして、終盤、ベースソロからにわかに曲想が変化しトリオの競演となり、ドラムソロへとつながり、全員でバトルのような火花散る疾走から鬼気迫るエンディングをむかえる。3曲目の「トゥー・ベース・ヒット」、次の「タッズ・ディライト」といったアップ・テンポのバップ・チューンでクラークはバリバリに弾いているが、ドラムあるいはベースが主導権を持って引っ張っている感じだ。しかし、それはクラークが彼らに演らせている感じだ。そこに、トリオとしてまとまりで演奏をつくっていく意識が前に出ていることが分かる。クラークのタッチとかノリといったことは、このことの一環としてあると思う。

有名な「朝日のようにさわやかに」になるとテンポがぐっと落ちる。この演奏については各処で様々なコメントがある有名な演奏のようなので、今更付言する気はない。むしろ、折角アグレッシブに進んできた勢いが、この曲で止まってしまうので、このアルバムに入れなくても良かったのではないか、と個人的に思っている。 

Cool Struttin'      1958年1月5日録音

Cool Struttin'

Blue Minor

Sippin' At Bells

Deep Night

Royal Flash

Lover

 

Sonny Clark (p)

Paul Chambers (b)

Philly Joe Jones (ds)

Art Farmer (tp)

Jackie McLean (as) 

 

ソニー・クラークのリーダー作品ということになっているが、ピアノ・トリオにホーンの二人、トランペットのアート・ファーマーとアルト・サックスのジャッキー・マクリーンを加えたクインテットなので、ピアノは控えめで、ホーンの方が聞こえてくる。ソニー・クラークについてよく言われる“後ろ髪を引かれる”というイメージに最も当てはまるのが、このアルバムではないかと思う。とくに最初の2曲に、その特徴がもっともよく出ている。

最初の曲、タイトル・チューンである「クール・ストラッティン」は、スロー・ナンバー。全員のトゥッティでテーマをゆっくりと提示する。このホーンによるスローでブルージーなテーマ、そしてその醸し出すムードを好きになるかどうかで、このアルバムの好き嫌いが分かれると思う。それだけ、このテーマにソニー・クラークをはじめとする5人の演奏のムードが集約されている。これはクラークのものであると同時に、ジャッキー・マクリーンのものであり、アート・ファーマーのものであり、フィリー・ジョー・ジョーンズのものであり、ポール・チェンバースのものであり、つまり、全員の共同作業でつくりだされたようなものだ。それは、続く、各自のソロ・パートを聴くとハッキリする。それぞれがタメるノリの競争をしているかのようなのだ。最初にソロをとるのはクラークで、抑え気味にシンプルなプレイだが、これはテーマの際にホーンがテーマのメロディを吹いているバッキングの低音のパートから移行していっているようからだろう、テーマの時にもホーンの音の合い間から、しっとりとしたピアノの音が洩れ聞こえてくるようだったが、ソロ・パートになって、そのピアノが全部聞こえてきて、スローなテンポと相俟ってさらにピアノの重く、暗いタッチが際立ってくる。続いてアート・ファーマーのトランペットもアゲアゲで疾走することもなく抑制気味にじっくりとフレーズを紡いでいく。軽快さとは正反対のどっしりとした重量感。これみよがしのブローもなく、アドリブのキレで勝負するというのでもない、後年のフリューゲルホンによる滋味深いプレイを彷彿とさせる淡々と吹く。続いて、多分、絶好調だったのではないかと思われるマクリーがンあの重いサウンドで、タメにタメたノリで、フレーズの最後でクルリと小節をきかせるマクリーン節が全開で充分に唄い上げる。これらの奏者たちが相互にタメを共用していくなかから、“うしろ髪ひかれる”ようなノリを作っていく、独特のグルーヴ感じと言ってもいい。再びクラークのソロでは、さっきとはうって変わって三連譜を多用し、粘っこいほどタメたノリだ。このあたりのプレイや2人のホーンのバックで弾かれるふくよかなピアノの音色などが、クラークを好きな人には堪らないのではないか。

次の曲「ブルー・マイナー」。古いファンはアナログ・レコードのA面に、最初の2曲が収められていたため、プレイヤーでレコードを聴くと、この2曲をまとまって聴く、レコードを裏面に引っくり返して続く曲を聴くのを面倒になり、最初の2曲ばかり聴くことになってしまうという事情から、アルバム中の最初の2曲をとくに好むという。前の「クール・ストラッティン」に比べミドル・テンポのテーマの呈示のあとマクリーンが、そのテンポのまま、じっくりとソロを聞かせる。それは、マイナー・コードで展開されるタメをきかせる独特の節回しは“泣き”といえるような聴く者に哀感を覚えさせ、これが全体のペースを決めてしまう。この間、リズム部隊も落ち着いたテンポをキープし、煽るようなことはせず、重くリズムを刻んでいる。続く、アート・ファーマーは、流れにうまく乗って、このムードを壊さない。それで聴いていると、後ろに引っ張られるようになり、しかもマイナーキーなので、もの悲しさを微妙に感じるようになるのだ。このあとのクラークのピアノは、テンポをキープしながら、必ずしも哀愁のフレーズを演っているわけではなく、むしろドライなのだけれど、却って全体のムードを印象的にしている。

4曲目の「ディープ・ナイト」は、曲が始まりはピアノ・トリオで演奏が進み、ソニー・クラークのピアノは哀愁ただよう切ないメロディを、少々速めのテンポで過度にセンチメンタルにならず、ピアノの一音一音をしっかりと聞かせるように弾き進める。そして、このピアノに覆いかぶさるようにトランペットがソロを取って代わり、他の曲と同じようなムードの展開となる。

このアルバムは、良くも悪くも金太郎飴のような、一貫したムードで統一されているので、それの中で漂い、雰囲気を味わうので、それに親しめるか否かで好き嫌いが分かれるものだと思う。圧倒的な演奏、音楽で聴く者を否応なく圧倒するタイプのものではない。

DIAL "S" FOR SONNY     1957年7月21日録音 

Dial S For Sonny

Bootin' It

It Could Happen To You

Sonny's Mood

Shoutin' On A Riff

Love Walked In

 

Sonny Clark (p)

Wilbur Ware(b)

Louis Hayes(ds)

Art Farmer (tp)

Hank Mobley (ts)

Curtis Fuller (tb) 

 

ソニー・クラークが26歳の誕生日にブルー・ノートで録音した初のリーダー・アルバム。日本で大人気の「クール・ストラッティン」でのように“うしろ髪引かれる”後ノリが顕著ではないけれど、すでにクラーク独特のずらしは控えめながら、ここでも聴き取ることができる。むしろ、それゆえに全体として、心地よく、まろやかで、寛いだ雰囲気のアルバムとなっている。ここでちょっと大上段に構えた議論をする。クラークの場合はパウエル派などとファンはみなしているが、バド・パウエルが切り拓いたビ・バップのピアノのスタイルに大枠として倣っているからだろうと思う。しかし、そのスタイルはパウエルの、今にも、目の前で音楽が生まれてくるような生々しい創造力あってのものなのであり、パウエルのピアノのタッチの燦然とした輝かしさ、厳しさとは切っても切れないものだ。そして、当のパウエルでさえ常に成功するとは言えない異常ともいえるものだ。だから、クラークをはじめ他のピアニストが、右手重視とかスタイルの外形だけをまねしても音楽として成り立たないし、うまくできたとしても、せいぜいのところがパウエルの亜流で終わってしまうだろう。また、時代も変わってパウエルがスタイルを確立したころとはレコードでの音楽聴取という新たな聴き方によって聴衆も変化してきている。その中で、聴衆に受け容れられて、ひとかどのピアニストとして認められていくためには、時代に合うように、そして何よりも自分というピアニストを人々に印象付けるために、パウエルのスタイルを変化させて、プラスアルファを、つまりソニー・クラークだからこそ聴くことの出来る付加価値をつけなければならない。当時のクラークが本当に、こんなことを考えたかどうかは分からないが、後世の、私が、クラークのピアノのスタイルを聴いていこうとする際には、そんなことを考えながら、彼の特徴とか魅力を聴き取ろうとしている。そのような視点で考えると、パウエルのような一瞬の煌きのように、音楽が生まれる瞬間に立ち会うというのは、仮にLPレコードの録音で聴く場合には、ライブの生々しさはなくなり、20分程度を連続して再生、つまり音楽の垂れ流しを聴取する場合には、適さないだろう。それよりも、切れば血の吹き出るようなスリリングな演奏よりも、安心して、音楽の流れに身をゆだねるとか、演奏をじっくり味わうという、あるいは音楽を自宅のリビングでリラックスして聴くといったニーズわ応えるようなもの、それがクラークのパウエルプラスアルファなのではないかと思う。それが具体的なスタイルとして表われたのが、例えば、タッチの重さ、渋く重厚な音色で、ノリは良いのだけれど過度に滑らず、ホンの少し引っかかるようなところで、微妙なニュアンスを生み出す。それが聴き手に渋い味わいを感じさせる。そういうところだろう。このアルバムでは、そういうところを共有できるような奏者たち、とくにサックスのハンク・モブレーなどは特にそういうところがある、と共同作業で演奏全体の雰囲気をつくり上げていると思う。一方、このアルバムが「クール・ストラッティン」ほど“うしろ髪引かれる”ように、なっていないのは、協演者がモブレーであることも要因しているのではないか、「クール・ストラッティン」のマクリーンとの違いということではないか。

さて、一曲目の「ダイヤル・エス・フォー・ソニー」はクラークのピアノでブルースっぽいイントロから、心地よいリズムで典型的なハード・バップのテーマが3本のホーンのアンサンブルで提示される。そこから順繰りに各奏者のソロへの受け渡されるというシンプルな構造の演奏だが、最初にソロをとるハンク・モブレーが、「クール・ストラッティン」のマクリーンとは違って、節回しを強調する粘っこさはなく素直な伸びのある音で歌うように、一本の長い糸のようにアドリブのフレーズを紡いでいく。繰り返し、聴き込んでも疲れるというものでもなく、何度も聴いて味わっていくという滋味に満ちたプレイではないかと思う。続く、トロンボーンもモブレーのサックスのと調子を合わせるように、低音による滑らかに流れるように演っている。そして、トランペットはちょっとだけ音色の輝かしさを出してみた以外は淡々と、訥々と語るような演奏をする。この3人のホーン奏者の音色のバランスが、ハイテンションになりすぎず、かといってリラックスしすぎず、派手すぎず地味すぎずと過度に一方向にエスカレートせずに絶妙に中庸の調子に演奏がなっている。これらのバックでクラークのピアノは、推進力はあるが煽ることなく、音数を抑えて、必要不可欠なところで控えめに鳴っているが、その控えめさゆえに、どうしてか耳をそばだたせてしまうのだ。

最後の「ラブ・ウォークト・イン」はピアノ・トリオの形で、クラークのソロをたっぷり聴くことができる。前半はビル・エバンスっぽいそこはかとないムードのメロディをゆったりとしたテンポで、クラークは一音一音を丁寧にゆっくりと空間に置くかのように弾く。後半は一転したテンポ・アップでスィング全開となり、クラーク独特のシングルトーンによるアドリブを追いかけるのが楽しい。

このアルバムは、ひとつひとつの曲や演奏を取り出して焦点をあてて聴くというよりも、全編を通して垂れ流しのように聞くともなく聴いて、全体の雰囲気とかムードを味わう愉しみ方を提案しているように思える。

Sonny's Crib                        1957年9月1日録音

With A Song In My Heart

Speak Low

Come Rain Or Come Shine

Sonny's Crib

New For Lulu

 

Sonny Clark (p)

Paul Chambers (b)

Art Taylor (ds)

Donald Byrd (tp)

John Coltrane (ts)

Curtis Fuller (tb) 

 

ソニー・クラークのリーダー・アルバムとしては「ダイアル・S・フォー・ソニー」に続く2作目。前作では3人のホーン奏者が参加し、クラークのリーダー・アルバムとは言ってもホーン奏者がフロントで活躍するというセクステットの録音というべきだった。だから、クラーク個人の個性というよりは、他の3人の個性とあわさって特徴がでていたといえる。このアルバムも、編成は同じで、クラークの性格からいって、同じような結果となっている。ただし、メンバーが異なっているので、前作とは印象が、かなり違う。その大きな要因が、テナー・サックスがジョン・コルトレーンが参加している点だろう。コルトレーンは、自身が後に語った“神の啓示”を受けた直後であり、この録音の数日後に「ブルー・トレイン」を録音している。つまり、伸び盛りの精力に満ち溢れていた時期にあたる。また、トランペットのドナルド・バードもクリフォード・ブラウン亡き後のハード・バップのトランペットとして期待を集めていたころ。つまり、「ダイアル・S・フォー・ソニー」でのハンク・モブレーやアート・ペッパーの地味でしっとりに対して、「ソニーズ・クリブ」でのコルトレーンとバードはバリバリだった。要するに、若い血潮が漲っているということだ。しかし、ややもすると若さゆえに暴走が止まらなくなり、単なるプロウ合戦に終わってしまうおそれもあった。これは、リーダーとなっているクラークの手腕によるのか、彼それこそが彼の個性なのか、ホーンの3人が抑え気味にベストを尽くしたものとなっている。具体的には、アレンジの妙や全体の統一感を求めた結果として素晴らしい演奏になっている。ソニー・クラークというピアニストは、作曲もするということもあり、自身がソロで華やかにピアノを弾くというタイプではなく、ホーン奏者をまじえて、彼らに自由にプレイをさせつつ、全体の演奏を設計したり、バッキングなどでコントロールすることに、より適性があった人ではないかと思えてくる。とくに、このアルバムでのクラークのピアノは、それほど聞こえてこない。著名な「クール・ストラッティン」の場合にも、このような特徴を見ることができる。

1曲目「ウィズ・ア・ソング・イン・マイ・ハート(心に歌を)」。何のイントロもなく、最初からバードのトランペットが高らかなファンファーレのように軽快にテーマを提示すると、他の2管が絡むようにやり取りを少しやってからアドリブに、バードはハイ・テンポで短いフレーズを積み上げていく、次いでコルトレーンのソロは、そのテンションを高めるように、さらに細かいフレーズをハイ・スピードで繰り出し、時に意外なメロディを挟み込む、トロンボーンのソロで少し落ち着き、次のクラークのピアノは、歯切れはいいのだが、バードやコルトレーンのハイ・テンションほどではなく、最後の管の絡みでテーマに戻り、テンションが高まったところで終わる。全体として、クラークのバッキングは、他のリズム・セクションと共に堅実にリズムを刻んでいるというところ。

最初の3曲はスタンダード・ナンバーでテーマはおなじみということなのだろうが、「スピーク・ロウ」のテーマは聴き易いメロディ。これをコルトレーンが提示し、ソロになだれ込んでいくという感じ。テンポは一段落ちてミディアムだけれど、これとレーンのアドリブの後年のカーペット・サウンドと評された、細かい音で埋め尽くすようなものではなくて、けっこうメロディックで歌っている。それに引っ張られるように他の管も高いテンションでメロディックなアドリブの応酬。

後半の2曲がクラークのオリジナルで、「ソニーズ・クリブ」。冒頭の、ジャズではないけれど、イギリスの60年代ビート・グループのアニマルズの「ブーン・ブーン」に良く似た、さぁこれから、行くぜ!!みたいなスタート合図のような短いふれーずから、コルトレーンのソロに入るとテンポが加速し、そこが、ちょっとしたテーマとのギャップもないわけではないけれど、コルトレーンはお構いなしに突っ切るというところ、一人おいてバードトランペットもコルトレーンと競っている。

最後の「ニョー・フォー・ルル」は、「クール・ストラッティン」の2曲目「ブルー・マイナー」に似ているという評もあるようだけれど、コルトレーンの元気さは、ここでも引っ張っていて、「ブルー・マイナー」の雰囲気とは異質な感じがする。この曲では、ソロがクラークから始まり、短いがクラーク自身の主導したプレイがここで聴ける。それでも、全体はコルトレーンとバードのプレイが目立つアルバムであり、クラークのピアノは、バックに隠れていて、印象的なフレーズを繰り出してもこないので、よほどピアノを聴くのに集中しないと聞こえてこない。ただし、全体のまとまりは、クラークによるところのようなので、クラークのそういうところを聞くアルバムと言えるかもしれない。



 
トップへ戻る