ANDREW HILLY(アンドリュー・ヒル)
 

アンドリュー・ヒル(ピアノ)
 

アンドリュー・ヒルのピアノは聴けばすぐ分かる。バド・パウエル、セロニアス・モンク、ビル・エヴァンス、オスカー・ピーターソン、キース・ジャレットと様々なタイプのジャズピアニストがいるが、それらのどのピアニストともハッキリ違うと分かるそれほど、ジャズのピアニストの中では異質だ。打楽器的なピアノのタッチはギクシャクしたメロディ・ラインは、聴いていると襲いかかってくるような感じがする。

ヒルの音楽の特徴は、彼のオリジナル曲により鮮明に表われている。彼のオリジナル曲は短調で書かれたものが多く、その曲を構成している要素で目立つのは、不協和音の使用、頻繁に使用される二度のハーモニー、ギクシャクしたバランスの悪いメロディ・ライン、取り憑かれたようなフレーズの繰り返し、虚しさを感じさせる長い休止などをあげることができる。これを聴いたものが感じる印象は、薄暗く、精神的に追い詰められた感じ、もっと抽象的にいえば、不安とかコンプレックスとか苦悩という印象である。それまでの、身体的な乗りとか、爽快感とか、熱気、ストレートにぶつけられる感情あるいはユーモアといった要素とは、異質な複雑で、クールな知性を感じさせるものとなっている。それゆえに、高尚な感じはするが、理屈っぽい、取っ付き難さも感じさせ、聴き手を制限してしまう音楽となっていた。

ヒルの音楽は従来のジャズの語法をベースにしてはいるが、フリー・ジャズやクラシックの現代音楽に近い。アバンギャルドな音楽と捉えられていたフシがある。 

 

バイオグラフィー

アンドリュー・ヒルはずっとハイレベルのピアニストでありコンポーザーだった。決してフリー・ジャズというのではなかったけれど、バップのファンに受け容れられるにはあまりに先進的であったために、彼の複雑な音楽は理解されることはなかった。しかし、彼自身は革新的なジャズミュージャンとして広く尊敬を集めた。13歳でピアノを始め、クラシックの作曲家パウル・ヒンデミットのもとで作曲を勉強した。1950年代のシカゴはジャズとR&Bの間にあまり垣根はなかった。1961年にニュー・ヨークに移り、ダイナ・ワシントンの伴奏者になった。1962年にローランド・カークのグループに参加した後は、ほとんどをリーダーとして過ごした。1963〜66年にブルー・ノートで実験的で先進的なアルバムを録音し、これはモザックからボックスセットとして復刻されている。1964年の「Point of Deperture」は、ケニー・ドーハム、エリック・ドルフィー、ジョー・ヘンダーソンが、別の日には、ジョン・ギルモア、フレディ・ハバード、サム・リヴァースがサイド・メンとして参加したものだった。彼はまた、1968〜70年までブルー・ノートでレコーディングを続け、教育者となって70年代中ごろまでカリフォルニア州で教鞭をとっていた。彼は、様々なレーベルのために過去の20年間にはレコーディングはへったが、自身の他に類を見ない音楽のビジョンにこだわりを持ったミュージシャンとしてあり続けている。



Point Of Departure         1964年3月31日録音

Refuge

New Monastery

Spectrum

Flight 19

Flight 19(alternate take)

Dedication

Dedication(alternate take)

 

Andrew Hill(p)

Kenny Dorham (tp)

Eric Dolphy (as,fl,bcl)

Joe Henderson (ts)

Richard Davis(b)

Tonny Williams(ds) 

 

ジャズでもクラシックでもピアニストというのは他の楽器奏者と明らかに違う。例えば、トランペット奏者のリーダー・アルバムについて何事かを語ろうとすると、その演奏者のプレイを中心に語ればよい。これに対して、ピアノという楽器は他の楽器をまじえないで単独で演奏することも可能だし、逆に沢山の楽器を従えてオーケストラのように各楽器のバックに回ったり、引き出したりすることもできる。だいたい、トランペットの曲をピアノで音を拾って作曲することだって可能なのだ。ピアニストの中には作曲やアレンジもする人が多いのはそのためだ。だから、ピアニストの録音について語る際には、ピアノが常にフロントに立つピアノ・トリオはピアニストのプレイを中心に語ればよいので、トランペット奏者の場合と同じだ。しかし、ピアニストのリーダー・アルバムであってもトランペットやサックス奏者を招いて、彼らにソロをプレイさせる録音に関しては、ピアニストだけを語るのが、必ずしもアルバムを語ることと一致するとは限らない。おまけにセロニアス・モンクのような人は、自身はそれほどピアノの音を聞かせないにもかかわらず、メンバーのプレイを支配していて、まるでお釈迦様の掌のなかの孫悟空のように演奏者たちをモンク色に染めて、結果としてモンクのプレイ以外の何ものでもないようなものを残してしまう場合もある。アンドリュー・ヒル自身のプレイは特徴的ではあるけれど、作曲もするし、ピアノ・トリオの録音を残していないので、モンクの諸作(モンクにはソロ・ピアノの録音もあるが)のようなプレイヤーを意のままにして結果的にオリジナリティを出すという志向性が強い人であったようなイメージがある。このアルバムは、まさにヒルの、そのような志向性が全面的に出たもので、全体の結果として出てきたもののユニークさでヒルの特徴が鮮明に表われたものと言える。

ヒルのピアノのプレイは特徴的で、他のジャズ・ピアニストでも似た人がいないと思う。しかし、不思議なことにヒルのフレーズとか、これを聴いたらヒルと分かるというトレードマークのようなものはないのだ。だから、語りにくい(笑)こと、この上ない。

1曲目の「レフュジー」。冒頭のテーマは、同じ高さの音を並べたリズムで聞かせるようなフレーズで、変な連想かもしれないがベートーヴェンの“運命が戸を叩く主題”のリズムでダダダと迫るのを想わせる。それを3管のホーンとピアノでいっせいのせでトゥッティで鳴らすのだが、どこか合っていない。しかも音の高さも合わない、ハモりもしない。どこかズレた感じが、次第に各楽器のリズムのズレがひろがっていく、その動きがフレーズを分解していくようなのだ。そのベースには、ドラムスが再分化したようにビートを刻んでいるのが目立つので、実際は、それほど速いテンポの曲ではなかったはずなのに、急き立てられる気分に襲われる。この合っていない微妙にズレた感じは聴いていて引っ掛かるというのか、フレーズを一節聴いたという完結した感じをもてなくて、宙ぶらりんのまま先延ばしにされたような感じがずっと続く、それをシンバルの細かなビートが急き立てるように迫ってきて、聴き手はフラストレーションから解放されない。それは、20世紀の初頭にクラシック音楽で試みられたアバンギャルドな作曲家たち、ノイエ・ザッハリヒカイトやノイエ・ヴィエナ・スコラの歌えない旋律を連想させる。このあと、ヒル自身のソロがあって、エリック・ドルフィーのソロとなる。ヒルのソロは、アドリブで即興的にフレーズが生まれてくるとか、テーマを展開させていくというのとは違い、まるでテーマをリズムの刻みに分解するようなかんじだ。だから、音数はソロが進むにつれて減っていく。この後が、エリック・ドルフィーのソロだ。全体にこの曲もそうだけれど、アルバム全体の印象も、エリック・ドルフィーの印象が強烈だ。形式的な名義はアンドリュー・ヒルだけれど、内容はエリック・ドルフィーのアルバムではないかと思うほど。それほど溌剌と吹いている。このアルバムは、ヒルがリーダーであり、曲はヒルのオリジナルで固められてはいるが、どういうわけか、ドルフィーのために書かれた曲のようにすら聴こえてくる。スタンダード的なコードやメロディの曲が無いということなのか。おそらくドルフィーを好きな人には、ドルフィーが裏リーダーで、曲もドルフィーが書いた、もしくはドルフィーのために書かれたように聴こえてしまうだろう。ドルフィーに特徴的な激しい“ブケッ!”とか“バヒョッ!”とか、“ウネウネウネウネウネ”が満喫できて、それが何の違和感もなく、ハマっているのだ。このアルバムを通してのドルフィーの活躍は、彼の名盤「ファイブ・ライブ・スポット」を想わせる。しかも、続くケニー・ドーハムのトランペットが“クワイエット・ケニー”のイメージとは全く異なって、まさに「ファイブ・ライブ・スポット」のブッカー・リトルが還ってきたようなプレイをしているのだ。しかし、それを背後で演出しているのはアンドリュー・ヒルなのだろう。というのも、バッキングしているヒルのピアノがまた独特で、ドルフィーやドーハムの熱演が、さらに「ファイブ・ライブ・スポット」とは異質の聴かれ方をするように導いているかのようなのだ。ヒルのピアノは最低限以下の音数で、コードを時折、挿入するように鳴らす。リズムを刻まず、旋律っぽいフレーズは入れない。コードは完全に下支えのハーモニーに徹している。その時折入ってくるピアノのコードが妙に印象的に聞こえ、ホーン奏者の激しいプレイと裏腹の静けさを印象付けるのだ。それが、この演奏の特徴で、激しいアドリブのプレイの中に静けさがあり、不安定なホーンの動きの一方で安心を与えるようなピアノの響きが対照的に存在している。その振り幅の大きさが激しい一辺倒にもならず、不協和音や変拍子が矢継ぎ早に繰り出されるのにもかかわらず、深刻にならずに、楽しんで聴ける演奏になっていると思う。そして、こういうようにしているのは、間違いなくヒルのピアノだろう。記述が長くなってしまったが、この1曲目のプレイが、このアルバム全体を集約して表わしていると思うからだ。後の曲については、幾つかをかいつまんで紹介する。

2曲目の「ニュー・モナステリー」ではテンポがぐっと落ちて、4ビートを強調したリズムにヒルのピアノが聴かせるのが、セロニアス・モンクっぽい、ちょっとヘンテコリンな感じのリズムが微妙にズレッとした感じのフレーズ。それに続くヒルのアドリブは、そのテーマをさらに分解して、分解したパーツを展開させようとするセロニアス・モンクの行き方に倣ったように展開してみせる。ここでは、ドーハム、ドルフィーの熱演以上に、ジョー・ヘンダーソンの細かいフレーズを重ねていく、煮詰まった悪あがきのような、振り絞るプレイが曲調に妙に合っている。

3曲目の「スペクトラム」はもう、やりたい放題という言い方がピッタリの破天荒な演奏。これはもう、聴いてもらうしかない。

Black Fire       1963年11月8日録音

Pumpkin

Subterfuge

Black Fire

Cantarnos

Tired Trade

McNeil Island

Land Of Nod

 

Andrew Hill(p)

Joe Henderson  (ts)

Richard Davis(b)

Roy Haynes(ds) 

 

アンドリュー・ヒルがブルーノートで録音した最初のリーダー・アルバム。テナー・サックスのジョー・ヘンダーソンが参加したワン・ホーン編成で、中の数曲はヘンダーソンが参加しないピアノ・トリオの編成で演奏されている。「Point Of Departure」などでもそうなのだけれど、アンドリュー・ヒルのピアノとリチャード・ディビスのベースそしてドラムの作り出すリズムは、タメをつくって呼吸をするように、次へ繋げていく、言うなれば“息づく”ようなものではなくて、意図的にザクザク刻む、つまりは繋げない、ポップスの場合で言えばタテノリのようなところだ。それを小刻みにビートを刻み、シンバルのような派手で目立つ音で強調させる。そうすると、切迫感を生み、あるいはフェイクを入れたり変拍子にする際のリズムの不安定さが際立つ。それは、当時、どれだけ革新的に、むしろ革命的に響いたのではないか。そのためもあって、このアルバムも全体としてアップ・テンポに聴こえる。

最初の曲「パンプキン」から前回で疾走する感じだ。切迫感のあるハイハットワークと23連のベースのリフに続く、同じ高さの音を並べたようなリズムだけのようなテーマがジョー・ヘンダーソンのゴツゴツしたようなサックスにピッタリに思える。それを、ヒルのピアノが引き継いでパーカッシブに弾き、そのままアドリブに変奏曲のように展開していくと、ヘンダーソンのソロとなり、リズム部隊のソロ・パートを経て、ヘンダーソンのテナー・サックスに引き継がれる。メロディを歌わせることなく、細かくフレーズを分解して打楽器のように積み上げていくヘンダーソンのスタイルにピッタリとはまる。そして、テーマに戻ると、突然、断ち切られるような終わり方がかっこいい。

2曲目の「サブタルフュージュ」。言い逃れという意味だろうか、ヘンダーソンが参加していないピアノ・トリオの編成でプレイしている。前の曲の場合もそうであったがリズムパターンのようなテーマをピアノが打楽器的に提示すると、その後の展開は、そのリズム的なテーマをリズム変奏するように展開させていって、その上に即興的に右手でシングルトーン的なアドリブを重ねていく。それはクラシックで言えば、バッハのパッサカリアやフーガのような左手で弾かれる低音部でテーマを変奏させて(現代の聴き手は、ほとんど気づいていないが)、右手では即興的なフレーズを載せていくと、両手の旋律線が交錯したり、追いかけっこしたりすることで自由で複雑な印象を受けるのと似ています。しかし、ヒルの場合は、一筋縄ではいかず、右手で弾かれるフレーズの線は不協和音により、ヘンテコリンな印象(これは決して貶しているのではなく、例えば、オーネット・コールマンの紡ぎ出すフレーズが普通のジャズの感じとかけ離れて、その文脈からいうとヘンテコリンとしか言いようのないのと似ている)だったり、せっかくフレーズが繋がっているところを同じピアノの左手の低音のリズムの刻みの響きが断ち切ったりする。しかし、全体としてスウィンギーなノリが失われないので、プレイは生き生きとして、最後フェイドアウトしていくように終わる。

3曲目のアルバム・タイトルでもある「ブラック・ファイヤ」は、ヘンダーソンが戻りクァルテットでのプレイとなる。テーマはサックスであればタンギングで音を区切り、打楽器のようにリズムを全面に出すようなもので、ジョー・ヘンダーソンのプレイ・スタイルである音をつなげて歌わせない、が合っている。それをリズム部隊の急かすような強いバッキングで、躁状態のようなテンションの高いスピード感を帯びている。ここではヘンダーソンのあとでヒルのピアノ・ソロの時間が比較的長く、前曲のトリオ編成の時よりも、ヒルのピアノを堪能できる。ソロに入った後しばらくは割と普通に弾いているがそのうち得意の寸止めフレーズやビート無視したクラスター連打とかまさに「ザ・ワールド」に突入してしまう。好き勝手やるヒルに対して意外と冷静なリズムの二人との対比もまた面白い。

マイルス・ディビスが「ビッチャズ・ブリュー」を発表し電気ジャズなどと評されるのは、まだ先だが、ピアノという楽器はトランペットやサックスと違ってプレイヤーが肉体を使って演奏する要素が少ない、機械のような(キーボードというのは、パソコンと共通の呼び名だ)ところのある楽器のせいもあって、アンドリュー・ヒルという人は、その先駆的な試みをするセンスをもっていたのではないかと思われる。それが、この初めてのリーダー録音にすでに表われているように思う。ビ・バップやハード・バップは少人数の編成で互いが近い距離で、アコースティックな楽器の音を聴きながら、あるいは互いのプレイヤーの身体感覚を同調させながらプレイしていた。また、中小規模の会場で楽器のアコースティックな音が聞こえる範囲で、聴衆もプレイヤーの肉体を感覚しながら、その動きと一体となった音楽のプレイを感じるというものだったと思う。そういったライブがまず第一で、レコード録音やラジオなどの放送は間接的な、ライブの雰囲気を思い出したり、想像させるもの二次的な位置づけだったと思う。しかし、大衆化、あるいは商業ベースの大規模化、産業化が進展し、当初は二次的であったレコードや放送から音楽を聴く人が多くなってくる。また、小さな会場で少ない聴衆を相手にしていては儲けがでなくて大きな会場で多数の聴衆に音楽を聴いてもらうには、アンプで音を増幅させ、舞台上のプレイヤーを遠めに見て肉体を感じられない環境で音楽を届けるという環境に変化していく。その場合に、小規模でアット・ホームな空間で肉体を直接的に感じてもらう音楽の提供の仕方では適合しえなくなってくる。そこでは、肉体も音もフィルターを通して間接的に届けることのできる音楽を提供していかなければならなくなる。そのニーズに応えようとしたひとつの試みが、このアルバムでも表われているアンドリュー・ヒルのスタイルではないかと思う。つまり、ライブでプレイヤーを間近にしないと伝わらないような身体的なノリ、例えばタメを利かせて柔軟に伸び縮みするリズムではなく、プレイヤーの姿が見えないスピーカーから音だけが聞こえてくる、その音もライブに比べて情報を限定されてしまうなかで、聞く者がノリを感じることができるためには、楽譜に書かれている小節線の通りのような、規格化され抽象化されたリズムが分かり易い。そのようなノリの上に、身体で感じるのではなくて、耳で認識するのに適したような演奏を組み立てていく、それは分析的なフレーズであったり、頭で設計したようなテーマを循環的にアドリブの中に入れ込んでいくやり方だったり、そのためにテーマを予め加工しやすいものにしていくことだったり、それを自身のピアノに限らず、グループ全体として追求していった。だから、ピアノをプレイするにあたって、もはや、バド・パウエルやビル・エバンスやセロニアス・モンクのようには弾くことはできないことを強く自覚していたのではないか。しかし、聴衆に聞いてもらうことを考えると、全く新しいことはできない、そうであれば、先ほど名をあげた先人たちのピアノの脱構築していく、つまり表面的な響きやスタイルをパターンとして取り出して、規格化し、それを組み合わせの素材としてパッチワークのように構成していく、アンドリュー・ヒルは、その構成のしかたで独特のフェイクをいれたり、意外性を演出して、それを個性としたと思う。それが、この曲のプレイで原型のように明確に表われている。

Judgement     1964年1月4日録音

Siete Ocho

Flea Flop

Yokada Yokada

Alfred

Judgement

Reconciliation

 

Andrew Hill(p)

Bobby Hutcherson (vib)

Richard Davis(b)

Elvin Jones(ds) 

 

アンドリュー・ヒルはブルー・ノートで4枚のリーダー・アルバムを半年の間に続けざまに録音した。本作「ジャッジメント」は3番目に録音されたが、リリースはその前に録音された「」の前にリリースされたので、2作目のリーダー・アルバムということになっているらしい。それはともかく、前作「ブラック・ファイヤ」を11月に録音して2月後でもあるのか、全体的な雰囲気の印象が「ブラック・ファイヤ」とは敢えて対照させるように意識して聴くことができる。それほど、ヒルは幅広い音楽性の持ち主であるということができる。前作ではテナー・サックスのジョー・ヘンダーソンというデッドな響きでリズムの縦の線を意識するアグレッシブな印象を与えるタイプであったのに対して、今回はビブラフォンのボビー・ハチャーソンとピアノ・トリオの4人編成で、ビブラフォンは響きが透明で、その残響が残り、ヒルのピアノと同質的な響きでとけあったり、共鳴したりと、両者の織り成す響きを聴いているだけで、まるで見知らぬ奇妙な町に迷い込んでしまったような不思議な幻想にすぅっと吸い込まれるような気分になる。端的ない方をすれば、「ブラック・ファイヤ」が音を塊にして物体のように聴き手にぶつけてきたのに対して、この「ジャッジメント」は響きのヴェールで聴き手を包み込んでしまうという点で対照的と言える。いずれにせよ、アンドリュー・ヒルの音はプレイヤーの肉体とか情緒といった属人的な要素を削り取って、抽象的な響きとなっている点では共通している。

1曲目の「シエト・オチョ」。その名のとおり8分の7拍子の曲。それゆえかリズムにシンプルに乗ろうとすると、どこかでフェイクがかかるような変格の感覚が残るのだけれど、ベースとドラムは規則的といえるほどハードにリズムを刻む。ドラムスのエルヴィン・ジョーンズは煽るくらいにハードに行くドラマーだが、前作「ブラック・ファイヤ」のドラマーはシンバルがよく聞こえたのに対して、ドラムを叩いていくので、低音でドスドスと伝ってくる。ビブラフォンなどというフワフワした音質が一緒であれば、いっそう低音のドスが利いてくる。そこに、再分化した分散和音をハイスピードで弾くヒルのピアノは雨だれのようでもあり、それがテーマというのか。メロディになっているようで、なっていない。クラシック音楽であれば、ラヴェルやドビュッシーといった印象派的と言えるかもしれない。(印象派風の響きというとビル・エヴァンスに言われることが多いが、ここでの響きはビル・エヴァンスとは全然違う)重なるように入ってくるビブラフォンは、ピアノと響きが似ているので、何時ピアノから替わったのか分からないほど、まるでピアノの響きが変質してしまったかのような印象。雨だれの前半と後半を分担しているような弾く分けをしているようが、一連のまとまりのようになり、それがピアノとビブラフォンの細かい音が重なって響いてくると複雑で柔らかなヴェールのような響きと化す。その、ピアノとビブラフォンは、音質がよく似ているためか、重ならないように、互いに配慮しているようだ。それが、リズムでもハーモニーでもズレて噛み合っていない印象を与える。さらにリズム部隊はハードにリズムを刻んでいると、それもまたズレているように聞こえる。しかも、その基本リズムがジャズではあまり馴染みのない8分の7拍子。そこから、ピアノがアドリブに入っていくが、テーマそのものがメロディのような節のあるフレーズの形でないので、どこからアドリブが見分けがつかないまま。雨だれのポロポロが変形され次第に、シングルトーンっぽく引き延ばされていく。しかし、ヒルはストレートに行くことなく、流れを中途半端なところで断ち切り、不協和音のような転調を繰り返す。続く、ビブラフォンも似たような展開。そして、テーマとは思えないテーマに戻ったところで、突然断ち切られたように終わる。

4曲目の「アルフレッド」という曲。アップ・テンポのナンバーが多い中で、この曲か唯一ゆっくり目の曲。テーマらしきものがなく(私にはテーマが分からなかったというだけのことか)、全編インプロヴィゼーションというべきか、インタープレイで、スローテンポで静謐さを装った、その背後で各プレイヤーの駆け引きとか会話のやり取りが、かなりのハイテンションでピリピリしている。ピッチカートベースで分厚くモノトーンでリズムを刻むベースが中心に鳴って、ピアノが奇妙な間で絡んでいく。これに散発的に被さるように差し込まれるメタリックで冷ややかなビブラフォンは、ベースとの感触が対照的でもあって、硬質なクリスタルガラスのような感触の細かな音の入り乱れるアラベスクのような印象の演奏となっている。

ヒルのピアノは、このように書くと、後に人気者となっていくキース・ジャレットやハービー・ハンコックのような多彩なタッチや音色を使い分けているように思われるかもしれないが、基本的に、彼以前のビ・バップのピアニストたちのように硬質な打鍵によるタッチで一貫している。そういう多彩さを追求していないで、ヒルは音色よりは、曲、フレーズのつくり、リズムの扱いといった、プレイの構成とアドリブの即興で勝負していくという、方向性としてはビ・バップのピアニストに近い、旧いタイプの人で、結果として表われる演奏は全く異なったものになってしまう、という人だったと思う。それだけに、ヒルのようなタイプのピアニストは、他にいない。 

Smoke Stack     1963年12月13日録音

Smoke Stack

The Day After

Wailing Wail

Ode to Von

Not So

Verne

30 Pier Avenue

Smoke Stack

The Day After (Alternate take)

Ode to Von (Alternate take)

Not So (Alternate take)Flea Flop

 

Andrew Hill(p)

Eddie Khan(b)

Richard Davis(b)

Roy Haynes(ds)

 

 

アンドリュー・ヒルがブルーノートで、リーダー第1作「ブラック・ファイヤ」に続いて録音し、発売は、その後に録音した「ジャッジメント」の後となったアルバム。初期ブルーノートと言っている半年間に集中してリーダー録音した4作のうち、ピアノ以外のソロ奏者が入らないシンプルな編成。とは言っても、ピアノ・トリオにベースをもう1人加えた変則的な4人編成。一般的なピアノ・トリオのベースとドラムがリズムを刻んで、それに乗ってピアノがプレイするという役割分化がここでは、垣根がなくなってしまっているようで、リズムは変拍子で各奏者が意図的にズラして、ノリが一様ではなくなってきているところに、ベースやドラムがピアノのテーマ演奏のなかでも、ソロのように割り込んできて、インタープレイのような様相を呈する。アドリブの境界線が曖昧になって、中には最初からテーマがなく全編インプロヴィゼーションのような曲もある。テーマもそれ向きになっていて、フレーズがメロディっぽくなろうとするところでフェイクが入ったり、やめてしまったり、不協和音が入って軽い違和感を生んだり、フレーズが一節まとまったとか、テーマが終わったというスッキリ感を生まないように中途半端なところでダラダラ流したり、一筋縄でなく、ピアノを打楽器的にビートを刻む感じのテーマにしたり、というように、アドリブの途中のパッセージのようなつくりになっている。それだから、つくりこんだテーマと即興的なアドリブの外見上の区分が限りなく曖昧になっている。曲の構成が複雑に作られているのだろうけれど、このように各部分の区分が曖昧になって全体として茫洋とした様相を帯びてくるので、複雑さが見えてこないという状態に聴き手は陥っている。

1曲目のタイトル曲でもある「スモーク・ストック」。ハードなビートに乗って、リズムを刻むようなテーマ。この後のてんかいに、メロディ的な要素は少なく、そのリズミックなテーマを反復し、その反復自体でリズムを作っていく。その際に、シンコペーションを活用して拍の微妙なズラしや裏返しなどで不思議なノリを醸し出す。そのアドリブも全音階でブロック・コードを続ける(その不思議なリズムに合わせたり、離れたりしながら)。これにハマるかどうかは聴く人によって極端に分かれるかもしれないが、ハマった人は入り込んでしまうだろう。

3曲目の「ヴァイリング・ヴァイル」という曲。シンバルにより作り出されたリズムに、弓をつかったベースが茫漠とした広がりで低音から湧き上がってくるよう。そこにピアノがテーマを入れてくるという様子。しかし、アルコ奏法でうねるようなベースがフレーズのように聞こえてくると、ピアノのテーマが分散和音っぽいので、まるでベースの伴奏のような感じとなってしまう。そのピアノの分散和音のような細かな音のフレーズがアドリブに入っていくと雨だれのように細かな音で埋め尽くすようなソロに連続していく。そのあと、ピッチ高めのピチカートのベースとシンバルとスネアで煽るようなドラムのインタープレイのような掛け合いは、もはやリズムを刻むことから離れてフリーキー、ピアノは時折、装飾的に散発的に入ってくる。ハマるとずっと聴いていたくなり、“終わらないで・・・”という気になる。

5曲目の「ノット・ソー」は、テーマがセロニアス・モンク風にも聞こえる不思議なフレーズで、続くベースのソロが短いながら、聴き応えがあり、それにピアノが絡んでの展開は一番の聴き所と思う。テーマとか構成とか、どうでもよくて、プレイヤー同士の会話が即興の応酬でなされて緊張がどんどん高まっていくさまは手に汗を握る。

7曲目の「30ピエ・アベニュー」は最後を飾るに相応しい、複雑で壮大な曲。ミディアムテンポで、テーマはあるようなのだけれど、ベースのソロがあって、ピアノが絡みだしてから劇的な展開になり、壮大に盛り上がるが、そこでの各プレイはフリーキーで、何が起こっているのか、集中して聴かないと追いついていけない。しかし、集中すれば、報われる。



 
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