KENNY
DORHAM(ケニー・ドーハム) |
ケニー・ドーハム(トランペット)
ジャズの名盤案内などという雑誌や案内書を繙けば、「静かなるケニー」のジャケットの物憂い写真と「渋い」とか「リリカル」とかいうイメージが先行する。マイナー好みの日本人ジャズマニアの間では人気がある人ということだ。実際、ケニー・ドーハムが活躍した時期は、クリフォード・ブラウンとマイルス・デイビスという二人のトランペット奏者の強い影響のもとにあったといい、その影響から離れて独自の位置にいた数少ないトランペット奏者がアート・ファーマーやケニー・ドーハム、ブッカー・リトルといった人々だったという。といっても、自分の世界に閉じこもってひたすら渋かったわけではない。スタートはジャズメッセンジャーズでビ・バップの最前線にいたわけで、後にビ・バップが行き詰って来るとジョー・ヘンダーソンと組んで新主流派と称される作品を遺している。しかし、強烈な個性で、存在が派手だったわけではなかった、というのが「渋い」イメージを作るのに貢献した、ということではないか。 ドーハムのトランペットはクリフォード・ブラウンのような伸びやかで輝かしいトーンではなく、派手さはないが、角の丸い滑らかで美しい音色であった。スーッと伸びるというよりは、悪く言えばふらつく。だから横のつながりであるメロディはよく流れる。だから、速いパッセージを見事に吹きこなすというより、バラードに真価を発揮する。テクニック的にもクリフォード・ブラウンやリー・モーガンのようには行かない。もう一つの特徴として、リップ・コントロールが巧みで、音色やニュアンスを自在に操ることで、深みと陰影をその音色に加えて、独特のトーンを持っていた。ドーハムのプレイは中音域を中心に動きの少ない、比較的音を少なくして装飾を抑えて。メロディを大事にすることで、分かり易い印象を聴き手に与えることができた。そこで、ちょっとしたリズムのズレが音色の陰影を引き立たせ、それらが一体となって「リリカル」という印象を与えるものとなっている。 一方、ドーハムは曲作りの面でも優れた才能を示し、オリジナル曲のテンポは変化に富み、譜割やコード進行などでユニークなものとなっているという。
バイオグラフィー
ケニー・ドーハムは、そのキャリアを通じてディジー・ガレスピー、ファッツ・ナヴァロ、マイルス・デイビス、クリフォード・ブラウンそしてリー・モーガンの存在の影となってしまったことで過小評価された存在として知られていた。ドーハムは決して周囲に影響を与えるタイプではなく、才能豊かなバップ指向のトランペット奏者であり、いくつかの重要なバンドで作品を取り上げられる優れた作曲家だった。1945年に、彼はディジー・ガレスピーとビリー・エクスタインの楽団にいて、1946年にビ・バップ・ボーイズとレコーディングを行い、ライオネル・ハンプトンとマーサ・エリントンには短期間在籍した。1948〜49年にはチャーリー・パーカーのクインテットでトランペットを吹いている。ニュー・ヨークで暫くフリー・ランスで活動した後アート・ブレイキーとジャズメッセンジャーズの第一期メンバーとなり、短期間ジャズ・プロフェッツを率いた。それはブルー・ノートでレコーディングしている。クリフォード・ブラウンの死後、彼の後任として1958年にマックス・ローチ・クインテットに加わり、その後、ドーハム自身がリーダーとなって自身のグループを率いた。彼は1958年のボーカル・アルバムを含めて、リバー・サイド、ニュー・ジャズ、タイムにために優れた録音を残している。しかし、彼の最高のものは1961〜64年のブルー・ノートでのセッションである。ドーハムは、彼のグループで1963〜64年にプレイしたジョー・ヘンダーソンにとって初期の支援者だった。60年代中盤以降、ドーハムはダウン・ビート誌のために興味深い批評を書いたりしたが、体調を崩し、1972年に腎臓病で亡くなった。彼の作曲した多くの作品の内の一つがスタンダード・ナンバーとなった「Blue Bossa」である。
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