JOE HENDERSON(ジョー・ヘンダーソン)
 

ジョー・ヘンダーソン(テナー・サックス)

テナー・サックス奏者。 

ジョー・ヘンダーソンというテナー・サックス奏者は、晩年に脚光を浴びたが、全体として地味な印象を強く持たれていた。彼のテナーは独特もので、ソニー・ロリンズやジョン・コルトレーンといったメジャーなテナー・サックスを聴いて、素直にいいと思う人は少ないのではないか。それは、まず彼の特徴的なサウンドによる。彼のテナーのトーンには派手さがなく雄弁さもない。ぼぞぼそと呟くようなこもったような音質で、派手にブローしたり、咽び泣いたりしない。実際にライブを聴いた人の話によると音量も小さく他に共演者がいると掻き消されてしまうこともあるという。れはたぶん、ずっと使用しているセルマーのエボナイトのマウスピースがかなり開きの狭いものなのではないかという人がいる。ライブではマイクをサックスのベルにずぼっと差して吹いていたらしい。だから、低音もテナーっぽくボゲッとした感じではなく、高音も叫ぶような朗々とした感じではなく、いわゆるジャズテナーのサウンドイメージからはかなり遠い、あるいは真逆の音だが、それをあえて選択し(わざとそういうマウスピースその他のセッティングにしていたようだ)ずっとそれにこだわり続けたという点で、これは意図的だったと言える。

それが逆に、彼のファンに言わせれば独特の美しい音色を生み出しているということになる。テナー・サックスの音域は、低い方はドスの効いた迫力が、倍音を使った高音部は切り裂くような鋭さが望ましい、とされている。しかし、ヘンダーソンの音は低域から高域までほとんどブレがなく、どのレンジでも実に安定している。サックスの中にある円筒形の空気がベルから外に出てくるさまがそのまま目に見えるような、温かみを感じさせる彼の音は、サックスという楽器が「木管楽器」である、という事実を改めて思い出させてくれる。ということになる。つまりは、一聴するだけで、ヘンダーソンのサックスと分かる特徴的な音色で、その良さが分かる人には独特の美しさを秘めているということだ。

そのようなトーンで繰り出されるヘンダーソンのフレイの特徴は、強弱をあまりつけないのでダイナミクスを感じさせない、同じ音型を繰り返す、高音から低音まで同じ感じで吹く。とくに低音を低音らしくない感じで、フレーズのなかの一音としてあっさりと吹く、という吹き方をするので、他の新主流派のプレイヤーが使うと目立つようなフレーズを吹いても地味で目立たない。それは本当に彼のフレージングを愛する「理解者」にしかその真価が分からないように聴こえる。それは、いったん彼のファンになったものには堪らないものなのではないか。それが、演奏全体としては抑制の効いたスタイルとなり、かと言ってクールなわけでもないので、一瞬で燃え上がる真っ赤な炎というより、青白い炎のように内に秘めた強烈な熱量を感じさせ、演奏が進むにつれて徐々にテンションが高められていくという、つくり方をする。彼のファンは演奏全体のテンションを高めていくプロセス、ヘンダーソンの語り口を堪能できるため、繰り返して聴いても飽きることがない。

しかし、彼の作り出すフレーズそのものは、基本的にはジョン・コルトレーンの影響を受けていると言われるが、バップの基盤がしっかりした上で、他のプレイヤーが普通はやらないような独特のコード・チェンジを好んでみたり、リズムを意図的にズラしてみたり、代理コードを使ってみたり、トリルを多用してみたり、と多種多様な技巧を駆使している。新主流派の用いるフリージャズっぽいトグロを巻くようなスパイラルなフレーズは彼のつくったものに起因することが多い。

つまり、彼の特徴というと、一般的には否定的な言辞を並べることになるのだが、一度、彼の良さが分かると、それがすべて反転して彼の魅力になるという類のものなのである。

 

 

バイオグラフィー

ジョー・ヘンダーソンはジャズを水で薄めた音楽にすることなくクリエイティブな音楽を提供することでもセールスが成り立つことが可能であることを立証して見せることができるミュージシャンだ。彼のサウンドとスタイルは60年代中盤から変わっていないにもかかわらず、1992年にヴァーヴと契約に至ったことは、そのレコード会社の主要なニュース・イベントとされた(彼が他のレコード会社ですでに多くの忘れがたいセッションをレコーディングしていたのだけれど)。彼のヴァーヴでのレコーディングはビリー・ストレイホーン、マイルス・デイビス、そしてアントニオ・カルロス・ジョビンへのトリビュートというマーケット需要にうまく応えるテーマを含んでいた。その結果として、彼は1970年代の未だ無名であったころと同じサウンドづくりをしていたにもかかわらず名声とトップセールスをコンスタントに稼ぐ地位を獲得することができた。それが、もっとふさわしいジャズミュージシャンには、それができなかったという事実が、それを一般的な常識となった。ケンタッキー州立大学とウェイン州立大学で学んだ後、ジョー・ヘンダーソンは兵役につく1960〜62年までの間デトロイトのローカルで演奏活動をしていた。ジャック・マクダフのもとで短期間の演奏活動の後、1962〜63年のケニー・ドーハムとの活動が認められることになった。彼こそはヘンダーソンを擁護しブルーノートとの契約を後援したベテランのトランペット奏者だった。ヘンダーソンはブルー・ノートでリーダーとしてサイドメンとして多くのセッションに起用された、1964〜66年にはホレス・シルヴァーカルテットに、1969〜70年にはハービー・ハンコックのバンドに参加していた。ソニー・ロリンズとジョン・コルトレーンからの多少の影響を受けてはいたものの、はじめから、彼は非常に特徴的なサウンドとスタイルの持ち主だった。そしてまた、たくさんの新しいフレーズやアイディアを持っていた。ヘンダーソンはハード・バップからフリー・ジャズまで、内側でても外側ででも即興をすることができた。1970年代はサンフランシスコに住んで、マイルストーン・レーベルで多数のレコーディングを行った。それは、自然のことだった。1980年代の後半には、ブルー・ノートでレコーディングをしながら、フリーランスを続ける一方で教育活動を始めた。しかし、ヴァーヴでレコーディングをするようになると、突然有名になった。2001年6月30日、肺気腫との長い戦いの末、心臓障害で他界した。

 

Tetragon      196年月日録音

Invitation

R.J.

Bead Game, The

Tetragon

Waltz for Zweetie

First Trip

I've Got You Under My Skin

 

Don Friedman(p)

Jack Dejohnette (ds)

Joe Henderson(ts)

Kenny Barron(p)

Louis Hayes (ds)

Ron Carter(b)

 

ジョー・ヘンダーソンのバイオグラフィーを見ていると、1960年代前半はトランペットのケニー・ドーハムに認められてブルー・ノートと契約して、自身のリーダー・アルバムも含めて様々なレコーディング・セッションに参加したという。ハード・バップの中心として推進したブルー・ノートのレーベルのカラーも影響しているだろうし、共演したプレイヤーもそういう人だったのだろうから、この時期のヘンダーソンのアルバムはハード・バップのサウンドの中で、ヘンダーソンが独特のプレイをしたものとなっている。

そして、60年代後半に新興のレーベルであるマイルストーンに移籍すると、ブルー・ノートの枠から解き放たれたように新主流派に近寄るサウンドを制作していく。ただし、ヘンダーソン自身のプレイは一貫していて、スタイルを変えているわけではない。このアルバムはピアノのドン・フリードマンやベースのロン・カーターといった、それまでとはテイストの変わった人たちとヘンダーソンのプレイが程よいバランスでまとまった、ハード・バップとはひと味ちがった作品となったものと思っている。

それは、このアルバムを聴き始めて最初の「Invitation」が出会い頭の一発とも言うべきもので、アルバム全体の印象を決めてしまうようだし、この出会い頭のテンションで気を引き締めてプレイに対峙させられてしまう、とも言えるのだ。ドン・フリードマンのビル・エバンスをより硬質にした感じのイントロから、サブ・トーン気味のジョー・ヘンダーソンのサックスが入ってきて、そこにロン・カーターのアンティシペーション気味の伸びのあるベースが絡んでくる・・・。「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」を想わせる物憂げなテーマは、ジョー・ヘンダーソンのぼぞぼそと呟くようなこもったようなサウンドにピッタリで、続く即興が転調の効果を巧みに生かして劇的な盛り上がりを見せて曲を展開させてしまう。トリルを多用するヘンダーソンのプレイに続くようにフリードマンのピアノがブロックコードを微妙にずらして崩れた分散和音がぱらぱら降ってくるようなソロをつなげる。その背後ではボーンボーンとベースの音が生々しく迫ってくる。ミディアムテンポのプレイは、妖しさに満ちている。ヘンダーソンのソロのアドリブ自体は、トリルばっかりのようなのだけれど、フリーという感じは全くしないで、テーマの変奏のようにも聞こえてしまう。

次の「RJ」ではテンポが上がり、ドラムが煽り出す、リズム・セクションがすごいベースがよく伸びて弾むようなトーンで音程はフワフワして、伸び縮みするような乗りを生み出し、クリスタルのような硬質で透き通ったタッチのピアノが繊細かつ強いコードを刻む、そこにメロディに聞こえない、最初からフリーのアドリブのようなヘンダーソンのソロが乗っかる。3曲目の「Bead Game, The」では、さらに曲のテンポが上がり、演奏全体のテンションもさらに上がって、曲全体はフリー・フォームのインプロヴィゼイションの様相を呈する。しかし、アルバムを通して最初から聴いていると、テンポが徐々に上がって、テンションが高まってくるので、アルバムを通しての緊張感と乗りのうねりに乗るような感じになるので、フリーという感じがしてこない。このように、徐々に聴く者を巻き込むように、緊張感を積み上げていくのが、ヘンダーソンの演奏の真骨頂なのだろう。だから、彼のプレイの一部分を抜き取ってどうこう言うのではなくて、全体の設計を考えるのがヘンダーソンの魅力だろう。アルバムでは、この数曲後の「Waltz for Zweetie」でテンポを落として、緊張を少し抜くことまでして、聴く者のバイブレーションをよく考えて構成している設計している。知的に構成されたアルバムではないかと思う。聴く者は良く考えられた流れに身を任せるというのが、まずはこのアルバムに親しむ近道ではないかと思う。 

Page One      1963年6月3日録音

Page One

Blue Bossa

La Mesha

Homestretch

Recorda Me

Jinrikisha

Out Of The Night

 

Butch Warren(b)

Joe Henderson(ts)

Kenny Dorham (tp)

McCoy Tyner(p)

Pete La Roca (ds)

 

ヘンダーソン初のリーダー・アルバムとのこと。ヘンダーソンのリーダーは、そうなのだろうけれど、トランペットのケニー・ドーハムがお膳立てをしたサポートの上に立って、ヘンダーソンが精一杯のプレイをしているところではないだろうか。編成は、トランペットのケニー・ドーハムとの双頭コンボで、ドーハムの曲を取り上げ、全体的にドーハムの持つ抒情的な面が反映された、落ち着いた印象となっていると思う。しかし、だからと言ってリラックスしたムードかというと、そこはジョー・ヘンダーソンで、十分カタルシスのある充足感タップリのものとなっている。それが、ヘンダーソンのアルバムの中で、この作品の特徴と言える。

最初の「Blue Bossa」はドーハムの曲ということで、ピアノによる印象的なイントロに乗って、サックスとトランペットがユニゾンで哀愁を漂わせたメロディを密やかなトーンでそっと提示する。曲名からあるようにボサノバ風のリズム・セクションのバックが軽い憂鬱の雰囲気を醸し出しながらも沈み込ませずに推進力を与え、トランペットのソロはミュートを被せて枯れた味わいが哀愁をひきたてる。これに続くヘンダーソンのソロはぐっと低く始まり、裏リズムのちょっとズレた感じとヘンダーソン独特の音色がトランペットの対比で不思議と曲調にマッチして、続くピアノがしっとりと聴かせる。ボサノバ風の軽さとダルさを失わず、メロウさを聴かせる演奏となっている。2曲目の「La Mesha」はスローなバラード。ピアノに導かれてヘンダーソンのソロは、テーマはふらふらして頼りないもののアドリブに入ると、そのふらふらしているところから滑らかに流れて、ヘンダーソン独特の渦を巻くようなフレーズと違和感がない。実は、ヘンダーソンはソロは結果的に、この後に続くドーハムのトランペットを引き立てることになってしまう。短いのだけれど、トランペットが同じメロディを吹くと格段に抒情性が募るのだ。その後の短いピアノも引きずられるよう。そして、サックスとトランペットとでテーマにもどると、雰囲気はそのままでしっとりと終わる。3曲目の「Homestretch」では一転して、スウィンギーなアップテンポのナンバーとなる。しかし、なぜかうるさく感じないのはアルバム全体の雰囲気や、ドーハムの渋い音の成せる技だろう。ここではヘンダーソンはフレーズをわざとスムーズに連続させない。それは彼のクセであり個性と言える。このような断続的なフレーズの集合体を積み上げることで、声高なブローをすることもなく演奏に高いテンションを持ち込むのだ。まるでテナー・サックスから電波があちこちに広がっていくようだ。どこへ向かうかは予想がつかない。そういうスリルと緊張感が、ここには最大限に生かされている。それが、ちょうどメロディアスな曲の谷間にあってスパイスのような機能を果たしている。

続く4曲目の「Recorda Me」は最初の「Blue Bossa」に通じるようなボサノバ風のナンバーではヘンダーソンが何時になくリラックスしたプレイを見せて、ドーハムのトランペットが枯れたような渋い適度に力の抜けたプレイと均衡したコンビネーションで、軽快な中でのリリシズムを感じさせる。有名になった1曲目に負けない演奏。最後の6曲目はマイナーブルースで幕を下ろす。そういう構成で、全体として、リラックスした中で、哀感を漂わせたメロディが、トランペットのドーハムの巧みなサポートを得て、ヘンダーソンの癖のあるフレーズに不思議にマッチして抒情性を帯びたものとなり、考えられた構成がリラックスした中で緊張感を保っている。その結果、通して聴くと決してムードに流されない、充実感を得られるものとなっている。 

At The Lightfouse    1970年9月24〜26日録音

Caribbean Fire Dance

Recorda-Me

A Shade Of Jade

Isotope

'Round Midnight

Mode For Joe

Invitation

If You're Not Part Of Solution, ou're Part Of The Problem

Blue Bossa

Closing Theme

 

Woody Shaw (tp, flugelhorn)

Joe Henderson (ts)

George Cables (elp)

Ron McClure (b, elb [8])

Lenny White (ds)

Tony Waters (conga [1] [8] [9])

 

1970年に録音されたライブ・アルバム。ジョー・ヘンダーソンというプレイヤーは、他のサックス奏者と比べて音が小さいという特徴があるため、実演の実況録音の場合、肝心のヘンダーソンのサックスが他のプレイヤーの音に隠れてしまうのでは、という心配があった。また、ヘンダーソンのプレイはひとつひとつの細かなフレーズを積み重ねていくことで、緊張感を徐々に盛り上げていくという劇的な展開させる、言うなれば知的な要素が大きいので、スタジオで丁寧に音を録っていくのが向いている人と思っていた。実際のところ『Tetragon』というアルバムなどは、そうやってスタジオ・ワークを効果的に活用している。最初の「Invitation」の繊細さや多彩なサウンドの織りなす様子、そのなかでヘンダーソンのサックスが宙に浮くようにフワフワ舞っている世界はスタジオ・ワークあってのものだ。年代的には、この後に『Power to the People』や『The Elements』といったアルバムを制作していくにつれて、サウンド・エフェクトを使ってみたりスタジオでの録音の可能性を追求したり、組曲風のトータル・アルバムを試行するようなことをしていく。これは、ヘンダーソンの資質が、天才肌で感性の赴くままに一発勝負の即興で煌めくというものではないこと、それを当人が強く自覚しているという知的なものであるがゆえであると思う。実際のところ、ヘンダーソンの短くはない活動期間の中で様々な録音が為されていて、その内容はバラエティに富んでいるが、その中でヘンダーソン自身のプレイは、ほとんど変化していない。よく言えば一貫している。悪意にとれば、成長していない、ということになる。ヘンダーソンのプレイの性質が語り口で聞かせるというタイプではないため、同じフレーズが年齢を重ねることで熟成されて味わい深くなるということは期待できない。多分、ヘンダーソンはそのことを自覚し、危機感もあったのではないか。そこで彼がとったのは、まるでクラシック音楽のように演奏を知的に構成した構築性の高いものにして、個々のフレーズに意味を持たせることだったのではないか。そのために、彼一人ではなく、他のプレイヤーとのアンサンブルにより複雑な音楽を創り出すという方向に向かったのではないかと思う。だから、ヘンダーソンのプレイは同じようなフレーズを繰り返したとしても、曲の中のどこで演られているか、とかあるいはサックスの他にどのような楽器とどのように絡んでいるかによって、まったく違ったものになっている。とくに『The Elements』のようなアルバムでは、そのために曲自体が長くなっていってしまったのだと思う。そういう、知的な面を追求していると思わせるヘンダーソンの実況録音である。

実際に聴いてみると、今まで話してきたヘンダーソンとは違ったプレイヤーが、そこにいた。一言で言えば、当たり前のことだが、“熱い”のだ。このライブでは、ヘンダーソンの代表曲が網羅されていて、ベスト盤のような選曲となっているが、スタジオ録音と比べてみると曲の印象が全く違ってくる。例えば「Blue Bossa」や「Recorda-Me」は『Page One』に収録されているナンバー。このライブ盤を聴いた後で『Page One』での録音を聴くと、全体的に演奏が大人しく、例えばリズム・セクションは猫を被ったように控え目だし、ヘンダーソン自身のプレイも硬い。これはこれで抑制をきかせたプレイはクールであり、ヘンダーソンの得なプレイを際立たせている。ニーチェが『悲劇の誕生』で用いた喩えでいえばアポロン的な整った演奏なのだ。これに対して、このライブ盤での演奏は、アポロン的に対してディオニソス的。熱のこもったプレイは、粗削りではあるけれど、アグレッシブな面も見せ、エキサイティング。ヘンダーソン自身も、時にフリーキーなトーンを交えながら、独特のらせん状にうねるラインを繰り出す、それは強引なほど。しかも、細かいところでリズムとハーモニーに対して多彩なアプローチを試み、音色が様々に変化する。これは、ヘンダーソン以外のメンバーもエキサイトしたプレイをしているが、全体として決しと重くはならず良い意味での軽やかさも同居しているので、腹にもたれることなく最後まで聴き通せるものとなっている。

Power To The People    1969年5月23日、29日録音

Black Narcissus

Afro-Centric

Opus One-Point-Five

Isotope

Power to the People

Lazy Afternoon

Foresight and Afterthought (An Impromptu Suite in Three Movements)

 

Joe Henderson(ts)

Mike Lawrence(tp)

Herbie Hancock(p→3,4,6曲目、elp→1,2,5曲目)、

Ron Carter(b→1,3、4、6、7曲目、elb→2、5曲目)、

Jack DeJohnette(ds) 

 

Tetragon』に次いで1969年に録音した、ジョー・ヘンダーソンとしては初の“電化ジャズ”だったという。メンバーを見るとマイルス・ディビスのグループのリズム・セクションが参加している。録音の時期はマイルス・デイビスのアルバムで言えば「In A Silent Way」と「Bitches Brew」との間の時期にあたる。つまりは、当時の先端的なマイルスとプレイしていたリズム・セクションの中で、ジョー・ヘンダーソンは、いつものプレイを展開させた作品。前作の『Tetragon』から、さらに一歩進めて実験的な方向にアプローチした作品となっていると思う。

アルバムの最初の曲「Black Narcissus」が幻想的ではあるけれど、静かでしっとりとした始まり方をするようになっている。私の乏しいジャズの鑑賞経験のなかでは、アルバムの最初にハードなナンバーで印象を強くすることが一般的だった。それに対して、このアルバムの始まり方は静かすぎて目立たない、と心配になってしまうほどだ。その冒頭は、ベースによる低音のイントロは印象的で、そっと始まる。耳をそばだてているところで、それに乗ってヘンダーソンが抑えて抑えて、静かに、まるで浮かんでいるかのような軽い感じのトーンでそっとメロディを吹いて(バックのエレキ・ピアノがアコースティック・ピアノと違ってタッチが明確に立っていないので、音の輪郭がぼやけるのが浮いたような軽さの印象を助長させている)、少しずつ高揚してきたと思ったら、最初に戻ってまた静かに、転調してアドリブ・ソロも抑え気味で、静かではあるのだけれど、緊張感に漲っていて抑えているのはよく分かる、その蓄えているような緊張がいつか爆発するかもしれないという期待感を持たせる。続くエレキ・ピアノのソロも音量を抑えて、同じように期待感を募らせる。結局、この後ヘンダーソンが引き継いでテーマに戻ってくるのだが、最後に軽めのブローでため込んだ緊張は開放されずに終わってしまう。それだけに静かな曲であるけれど、緊張感に漲っていて、リラックスした感じはない。全体として、熾火のような薄い炎がちらちらと揺らめいて、いつ発火するか分らないようなスリルに満ちた演奏。次の「Afro-Centric」で、その緊張を引き継ぐように、最初にサックスとトランペットのユニゾンで勢いよくテーマを吹く。ベースとピアノがエレキ楽器を使い、ドラムスがかなり強いビートを叩いているのは、マイルスの同時期のアルバムの影響だろうか、当時のジャズ・ロックとは一線を画した、しかし強いビートの演奏となっている。その中でヘンダーソンが、いつもの即興プレイをしていると、心なしかフリーキーな色合いが強まっているように聞こえてしまう。このようなビート主体のサウンドはアルバムタイトルや最初の曲名からアフロ・ビートとか呪術的なイメージを想わせるのに、うまく合わせている、というよりもヘンダーソンの意図的なものがあって、ジャズのもつ抽象的な音の存在に固執することに満ち足りないものを当時持っていたことを想像させる。この傾向は5曲目の「Power to the People」にもあり、こちらは不協和音がさらに増えて、フリーキーな印象が強くなっている。最後の「Foresight and Afterthought」は全編即興のフリーにさらに近寄った曲で、途中で違う曲になったかと思うほど転換したり、不定形さを際立たせている。ここでも、ドラムスのビートが強調されていて、アルバム全体を通して、ビートが強調されている反面、ヘンダーソンのプレイは高調しつつも抑制的で、赤々と燃えるというよりは、青白く燃える醒めた印象だ。最後がフェイドアウトして戸惑うような終わり方をするところも、それが表われている。

しかし、発表当時は斬新な印象を強く与えたのであろうけれど、現在の耳で聴くと、そういう部分が古臭くなって聴こえてしまって、ヘンダーソンのいつも通りのサックス・プレイの方が新鮮に聞こえてしまうのが不思議だ。それだけに、ヘンダーソンと他のメンバーのプレイが、どこかしっくりいっていない齟齬を感じる。このアルバムでは、そのちょっとしたズレが実は大きな魅力となって、そのズレがあるからこそ他のアルバムでは隠れてしまっているヘンダーソンの魅力を垣間見えることができるものとなっている。

Mode For Joe    1966年1月27日録音

A Shede Of Jade

Mode For Joe

Black

Carribbean Fire Dance

Granted

Free Wheeli

 

Joe Henderson(ts)

Lee Morgan(tp)

Curtis Fuller(tb)

Bobby Hitcherson(vib)

Ron Carter(b)

Joe Chambers(ds)

Cedar Walton(p)

 

ジョー・ヘンダーソンがブルー・ノートで最後に録音したアルバム。この後、ヘンダーソンはマイルストーンへ移籍し、実験的な作品を次々と制作していく。ここでは、その枠から今にもはみ出さんばかりのところもあるがハード・バップというスタイルを最終的には守っている。話は飛躍してしまうが、ヘンダーソンのプレイから受ける印象は藤子不二雄の描くまんがの世界と似ている。たとえば「ドラえもん」では主人公のノビタくんはSFのとんでもない道具が出てきたり、異次元に連れていったりして驚かされることが多いけれど、最後は必ず自宅の部屋に戻って、めでたしめでたしで終わる。そこには、最後にどうなるのか分らなくなるようなスリルや緊張感はなく、安心して見ていられる。逆に、それゆえに途中での冒険を堪能できることになっている。ヘンダーソンのプレイについても、様々な実験的な試みをしているけれど、ジャズという枠に戻ってくる。そういう安心感がある。とくに、この作品ではそういう傾向が顕著で、メンバー構成も大所帯で多彩な人々が参加しているが、それぞれの個性を生かしながら、結果的にはよくまとまった、逆に言えば、もっと何かあってもいいのでは、という期待をはぐらかす物足りなさの残るアルバムとなっている。とはいえ、このアルバムは決して駄作などではなく、聴きごたえのある質の高いプレイが繰り広げられている。その辺りが、彼自身も自覚していて、より自由な新興のマイルストーンというレコード会社に移籍することになったのではないか。

最初の曲「A Shede Of Jade」の冒頭はトランペット、トロンボーンそしてテナー・サックスの3管にヴァイブが絡み印象的なアレンジでテーマが提示される。その節は典型的なバップのメロディなのだけれどテーマ自体がかなり長くなっていて、3管の響きを和声的な実験をしているような音の重ね方で聞こえてきて、そこに冷たい音色のヴァイブがオブリガートするように絡んでくる。ときに、フレーズの頭を外して絡むヴァイブの動き。この響きは、複雑で印象的だ。この響きで一気に惹き込まれてしまう。このあとヘンダーソンが、うねうねとしたトグロを巻くようなソロをたっぷりと聴かせてくれる。この後トランペットのソロが続く。ここでのトランペットはスタッカートっぽい飛び跳ねるようなフレーズで、うねうねと続いたヘンダーソンとは対照的で奔放さが際立つよう。そしてピアノがメロディアスに少しだけ入り、テーマに戻る。熱しすぎることなく、低温で沸騰するかのような演奏。2曲目の「Mode For Joe」で、ゆっくりとしたテンポの曲。ただし推進力は変わらず、トランペットとトロンボーンとヴァイブが奏でるハーモニーの呼びかけに対して、ヘンダーソンがちょっぴり官能的に応答するというテーマ。この曲といい、最初の曲といいテーマに工夫が凝らされていて印象的なサウンドで聞かせる。続くヘンダーソンのうねうねソロがテーマのダイアローグ風を引きずって語りかけるような風情でメロディックに聞こえてくるのが不思議で、ヴァイブ、トロンボーンのソロがメロディック、リズムの緩急がアクセントになって、全体としてのアンサンブルの響きが魅力的になっている。これらは、これだけ多彩なメンバーがまとまっている証拠で、効果的であるのは確かである反面、広がりという方向性はない。どちらかというと方向性は内向きの方向だから、豪快というよりは繊細。とはいってもダイナミックな躍動感があって、非常に高い密度の演奏で、何度聴いても聴きごたえのする品質の高いアルバムと言える。

The Elements    1973年録音

Fire

Air

Water

Earth

 

Alice Coltrane(p)

Baba Duru Oshun(Per)

Charlie Haden(b)

Joe Henderson(ts,fl)

Kenneth Nash(ds,per,vol)

Leon "Ndugu" Chancler(ds)

Michael White(vn)

 

マイルストーンでの8作目のアルバムで、『Power to the People』の実験的傾向をさらに進めて、従来のジャズの枠から飛び出すように民族音楽やFunkRock等の要素を含み込み(楽器編成にバイオリンまで入っている)、アルバム全体を火、空気、水、大地とタイトルされた全4曲から成る組曲風にして、アルバム・タイトルを「The Elements」とするなど、宗教がかっているというか、スピリチュアル等といわれているようであるが、制作時の時代風潮の影響あってもメッセージ性を入れ込んでいる。Rockの世界で一時もてはやされた。トータル・アルバムとかコンセプト・アルバムのような構成になっている。そういう点では、コアなジャズ・ファンでない人がジョー・ヘンダーソンを聴き始める糸口となる可能性もあると思う。

最初の「Fire」はチャーリー・ヘイデンのベースが活躍するイントロから、ヘンダーソンが、この後の曲に比べるとハード・バップなソロを展開するが、バックにはアフロっぽいパーカッションがあり、ピアノはバップにリズム・セクションというよりは、フリーにプレイしている。ここでは、ヘイデンのベースがリズムをキープし、ヘンダーソンがジャズ的なソロで全体の大黒柱のような存在となって、曲全体をまとめている。この2人の核により特にテーマもなく、10分以上の時間を続けると、現在の耳では途中で間延びして退屈してしまうのも確かだ。次の「Air」はヘンダーソンのブロウから始まって、その咆哮のようなフレーズをうけて変拍子のリズムをベースが前面に出て、ピアノがスケールっぽい動きを繰り返し、遅めのテンポでフリーキーに進む。ノリがあまりないので、と思うが、それほど重苦しくはならず、ただ、何か言いたげなということは分かるヘンダーソンのプレイに引き摺られて聴き通してしまう。3曲目の「Water」は、シタールの響きで始まり、エスニックな雰囲気に引き摺られてヘンダーソンのテナーはエフェクトをかけられて変調し妖しい感じ。多分、エキゾチックで神秘的な雰囲気を出したかったのだろうということは分かる。テンポ的には、前の曲と同じようなテンポ。そして、最後の「Earth」はブードゥのリズムを想わせるパーカッションで始まり、シタールがバックで鳴る中で、Funk Musicっぽい重いビートでヘンダーソンがソロを吹きまくる。中盤で、ベースだけのソロが、曲全体のリズムを途切らせて入り、スピリチュアルで神秘的な感じを強め、人声の朗読が入るが、ヘンダーソンのソロだけでは、どうしても続かないで、音楽的には、そういうオカズで保たせているのではないか、というのが現在の耳では想像してしまう。当時は、たとえ間延びするにしても、それだけの時間を使って伝えたいという何ものかがあったのだろう。しかし、現在ではそのような時代の雰囲気はなくなっているので、そういうものを取り払って聞くと、ある意味では、オカズ満載なので、しかもジャズ的な緊張が途中で間延びするようなところもあり、一種のエスニックなムード・ミュージックとして聴くことも出来てしまう。その点で、ヘンダーソンの入門としても聴けるのではないかと思う。



 
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